日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(企画)週刊三題「雨八景」

──これから毎週、小説を書こうぜ?

毎週一回、ツイッタの「診断メーカー」で出たお題で小説を書いてみるという
自己鍛錬、 それがこの『週刊三題』であります。
さてさて。紡がれる文章は良分か悪文か、或いは怪文か?
とある物書きの拙文晒し、此処に在り。

【今週のお題:犠牲、犬、雨】


 雨の日に傘を差さずに踊るのが自由らしいが、実際にはそんなのはただの変人である。悪
目立ちまではしたくない。ただ、平凡なままでいさせて欲しい。今はそんな時代なのだとつ
くづく思う。ハードルが叩き下げられている。多くを得られずとも多くを失う事もない──
そんなささやかな願いすら、今この時代は難しくなっている。否定されようとしている。
(……何だ、あいつら?)
 仕事から帰る途中、稲葉はふと暗がりの向こうにいる人影らに眉を顰めた。最寄駅に降り
てさあもう一息だと歩き出した矢先、ロータリーの端でうろうろと蠢いている者達がいる。
 薄汚い格好の男達だった。四・五人ほどはいるだろうか。一応ビニール合羽を羽織っては
いるが、こんな雨の中、しかも日暮れ時に何をしているのか? どうやら道端の植木の中を
掻き分け何か探しているようだが、傍目からみる限りは不審者にしか見えない。
 この辺りにも……出るようになったんだなあ。
 稲葉は草臥れたスーツ姿に傘を差し、ぼんやりとそんな事を思う。
 駅中心部から南に外れた辺りには、職や家を失った貧困層の溜まり場がある。開発の波に
乗り遅れたシャッター街に、点々とこさえられたダンボールハウスだ。時々良くない噂を耳
にする。夜遅くごみを漁っているだの、不良達が集まっては馬鹿騒ぎをするだの……。
 解っている。それぞれに何かしらの事情はあるのだろう。だが、自分も他人も好き好んで
彼らには近付かない。関わり合いになろうとはしない。アパートの回覧板には直接、立ち入
らぬようにと警告文が挟まれていたほどだ。
「……」
 しかし、と稲葉は思う。自分と彼らの違いとは何だろう? 確かに自分は今職に就いては
いるが、毎日クタクタになるまで働いているし、上の機嫌一つでいつ切られるかも分かった
ものじゃない。この身に包むスーツが、酷く薄っぺらく脆いように感じられた。今までも、
これからも、一つ巡り合わせが違っていれば、彼らと立場が入れ替わっていた可能性だって
充分にありうる。自分もまたホームレスであったかもしれない。
(にしても、こんな時間に何を……? 掃除の仕事にしちゃあ半端だしな……)
 ぎゅっと一度唇を結んで、されどすぐに深く静かに息を吐き出した。意識的にそう行動す
ることで、益体のない思考を切り替えた。
 男達──ホームレス達はまだ向こう側で植木を掻き分けている。或いは時折道の方へと目
を遣り、何かを探しているかのようにみえた。その度に、視線が合いそうになった仕事帰り
のスーツ男や女達が、慌てて逸らして足早に過ぎ去ってゆく。
(……嫌われモンだな)
 そう、稲葉は心の中で自嘲(わら)った。どうも他人事のようには思えなかった。
 自分もずっと眺めている訳にはいかない。さっさと帰ろう。そうして踵を返し、再び人波
の流れに身を任せようとした。
「うん?」
 その時である。ふと通り過ぎたビルとビルの狭間、路地裏の方から、こちらを見ている気
配と物寂しい鳴き声が聞こえた。振り向いてみると……犬が一匹ちょこんと座っている。こ
の雨に濡れたのだろうか。服こそ被せられてはいたが、それも毛も全体的に湿っており、淡
い茶色の体毛はいさかかぺしゃんとしている。
 加えて妙に目を惹いたのは──その口に葉書を一枚咥えていたことだった。
「なんだ、お前。迷子か?」
 つい稲葉は立ち止まり、この犬の前に屈んで声を掛ける。
 時に吠えたり噛み付いたりはしてこないようだ。人馴れしているとみえる。首輪もしっか
りしてあるし、何処かの飼い犬なのだろう。
 全く……何処のどいつだ。この年明け早々に大事なモンを失いやがって。
 クゥゥン。犬は半ば無意識に撫でてやっていた稲葉に、素直に身を預けていた。もしかし
たら寂しかったのかもしれない。「そうか、お前も同じなんだな」稲葉は苦笑(わら)って
頭をわしわしと撫でてやった。後ろの往来から時折流し目を遣られるが、まぁさっきの男達
よりはマシだろう。稲葉はこの犬が咥えていた葉書──年賀ハガキを手に取った。雨で湿っ
てしまってはいたが、字は思ったほど滲んではいない。
『おじさんえ』
『あけましておめでとお』
『ろくじょ いつろう』
 表と裏にはそう宛名と差出人、年初の挨拶が子供の拙い字で書かれていた。元々印刷され
ている鶏と絵馬の画が妙に綺麗でちぐはぐ感を与える。稲葉は微笑ましくなった。これは随
分とアバウトだな……大体おじさんって誰だよ?
「くぅん?」
「ん? ああ、何でもない。つーかこれ、お前のご主人様が書いたのか?」
 微笑(わら)ったが、正直分からない事ばかりだった。じっとこちらを見上げてくるこの
犬を改めて見返し、訊ねてみるが勿論返事などない。一旦防寒着のポケットに葉書を突っ込
み、稲葉はおもむろにこの犬を抱き上げる。
「とりあえず俺ん家来るか? 飼い主を探すにも、こうずぶ濡れじゃあ風邪ひくぞ?」

 ***

 時を前後して。年も十二月の半ばに差し掛かった頃、その父子(おやこ)は最寄の郵便局
へとやって来ていた。年賀ハガキを買う為である。窓口でやり取りをしている間、彼が連れ
て来ていた幼い息子はきょろきょろと店舗内を見渡していた。好奇心旺盛な年頃には、全て
の掲示物が物珍しく見える。事実、こういう所にでも来ないと見ることもないポスターや冊
子類だらけだ。
「はい。百二十枚で七千二百円です」
「ん……」
 父親は、如何にも金持ちそうな男だった。こうふらっと出て来るだけでも身なりは仕立て
の良い物ばかりだし、何より平然と万札を出すその手元の財布には何十枚という現金が入っ
ていた。
 女性職員の営業スマイルにくすりともせず、父親はビニールの小袋に入ったハガキを受け
取る。それを見ていた幼い息子が、ぱちくりと数拍見つめて行った。
「お父さん。それなぁに?」
「うん? 年賀状だよ。お世話になった人に、新しい年になった挨拶をする為に書くんだ」
「ふーん……」
 ぽんと頭に手を乗せ、そのまま立ち去って行こうとする父親。
 だがこの息子は、ぱあっと何か思いついたように表情を明らめた。ぴょんぴょんと受付の
前で跳ね、手を挙げて言う。
「ぼくもぼくもー。ねんがじょーちょうだい?」
「ああ? いや、お前にはまだ早いだろ……園の子に書くのか?」
 故に、父親も女性職員らも困ってしまう。よくある子供の気まぐれなのだろうが、妙に意
気揚々としてしつこいため、父親も無理やり引っ張っていくのを躊躇ったようだ。ぐずり始
めては困る──自らの体面に関わると思ったのか、やれやれといった様子でもう一度窓口の
前に戻り、訂正を加えた。
「すまない。じゃあ追加でもう十枚。……これでいいな、逸郎?」
「うんっ!」
 にぱっと。
 そう呼ばれた息子は、輝くような笑みで応える。

「クーちゃん、クーちゃんどこー?」
 夕方になって雨が降り始めた。小さなビニール傘と大きめのビニール傘。二人分の人影が
茜色に染まってゆく公園の中をあっちにうろうろ、こっちにうろうろしてゆく。
「ちょ、ちょっとすすき。あまり走ったら危ないわよー」
 一組の母子(おやこ)だった。まだ若く小柄な母親と、彼女に顔立ちこそ似てはいるがや
けに活発な幼い娘である。彼女は一人先にどんどん走って行ってしまう我が子に、内心困り
始めていた。ぴちゃぴちゃと進み難くなり始めた芝生の上を、焦りながら追ってゆく。
 それはつい先刻の出来事だった。娘と一緒に飼い犬の散歩をしていた彼女は、ふと目を離
した隙にこのペットに逃げられてしまったのである。娘と気付いた時にはもう遅かった。慌
てて駆け出してしまった後を追ったが、時折大きな樹が交わるように立つ園内には、既にそ
の姿は見えなくなっていたのである。
「はあ、はあ……。すすき、一回、休んで……」
 子供のバイタリティには敵わないのか、或いは単純に運動不足か。
 この母親・恵は息を乱してやがて歩を止めていた。その間にも娘・すすきは辺りをきょろ
きょろと見渡して愛犬クーの姿を探し求めている。だが人気の疎らな筈の園内も、先刻から
の雨と暗くなってゆく辺り一帯に、段々と視界が狭まってきている。
「一度帰りましょう? こんな雨の中にずっといたら、風邪ひいちゃうわよ?」
「やー! クーちゃんを放っておいてなんてやー!」
 ぷくっと頬を膨らませて、すすきは全力でこれを拒否した。その目にはじわりと涙が滲み
始めている。彼女もまた子供なりに焦りと後悔で押し潰されそうなのだろう。気持ちは分か
らないでもあったが、内心恵は違った感情を抱いていた。困ったように眉根を寄せ、ビニー
ル傘越しに打ちつけられる雨の音を聞く。
「クーちゃんはパパのくれた子だもん! わたしたちの家族だもん!」
「……」
 すすきの父親、つまり恵の夫は彼女がまだ幼い頃に亡くなった。不慮の事故だった。それ
以来恵は女手一つで娘を育ててきたが──その隣にずっといてくれたのが、飼い犬のクーだ
った。元々は亡き夫が生前、娘の誕生日プレゼントに買ってきた子犬である。それ故すすき
はこのペットを自分の弟のように可愛がっていた。家にいる時は、ご飯の時も寝る時もずっ
と一緒だった。
 しかし恵にとっては、このペットこそ辛い記憶を呼び起こされる元凶でもある。
 亡き夫の遺した犬なのだ。その頭があるから、どうしても娘のように真っ直ぐ愛でてやる
気持ちにはなれない。まだ気持ちの整理がついていない、と言えばそれまでなのだが。だが
そんな感情は日に日に強まる一方で、正直恵はこれでよかったのかもしれないと思い始めて
いた。早々に諦めていた。娘には悪いが、これで夫のことを徒に思い出さずに済む。少しは
苦しまずに済む。少なくともあの子の首輪には住所のタグが付いている。自分達がこの雨の
中探し回らなくても、誰かが見つけてくれるかもしれない。そうだ、きっとそうだ。それに
ちょうど年も替わったところだ。いい区切りだと思う……。
「でも、もしかしたら先にお家に帰っているかもしれないわよ? すすきもクーちゃんも風
邪をひかないように、お湯の準備をしましょう?」
 むー……。まだ膨れっ面だったが、そう攻められるとすすきも強くは反論できないようだ
った。ようやく大人しくなってくれたと内心ホッとし、恵はこの娘の手を引いて公園を後に
してゆく。

 それは、新たな年が明けて数日が経った頃のことであった。
 寂れて人気のないシャッター街。その一角のブルーシートとダンボールハウスで、丹羽は
一人“家”の中でにやついていた。薄汚れた服と年季の入った顔に、深く笑みで出来たしわ
が刻まれている。
「お? どうしたい、丹羽さん。そんなニコニコ嬉しそうに」
「うん? ああ。実はな、今朝年賀状を貰ったんだよ……」
 昼下がりから夕刻へ。されどここにいる者達には、一日の緩急はさして大きくはない。
 ホームレス仲間がふと覗き込んで来、丹羽は嬉しそうに手に持っているものを見せた。年
賀ハガキである。そこには拙い子供の字で表に『おじさんえ』『ろくじょ いつろう』裏に
は『あけましておめでとお』というペンの手書きが加えられていた。
「ほう……。もしかしてこれって、例の坊主のか」
「ああ。わざわざ持って来てくれたんだよ。俺達、住所ねぇからなあ……」
 ははは、と丹羽は苦笑(わら)う。だがそこには一抹の申し訳なさが含まれていた。もし
普通に働き、普通に住む所さえあれば、ちゃんとあの子ともやり取りできていたのだが。
「……ま、今更無理な話だわな」
「??」
「独り言だ。気にすんな」
 せめて解れた苦笑(わら)いだけは絶やさず、丹羽は仲間達にひらひらと手を振り返す。
 大体あの子と出会えたのも、こうして家なし職なしの暮らしをしていたからだ。身なりか
らしていい所の坊ちゃんのようだが……あの純粋さは大きくなっても持っていて欲しいなあ
と我ながら勝手な事を思う。出会い自体は偶々近くを通り掛かり、小腹が空いていたという
ので手持ちのコンビニのおにぎりをあげた事でしかないのだが、以来あの子はすっかり自分
に、此処の仲間達に懐くようになった。後ろめたさはあったが……癒された。こんな時代に
なってもああいう子はいるんだなと。如何に、偏見の積み重ねは怖いものなのかと。
 ぽつぽつと、外では雨が降り始めていた。このブルーシートとダンボールの住処では正直
心許ないが、丹羽達は他愛もなく笑っていた。確かに自分達は貧乏だが、何とかこうして生
きている。年も越せた。今年も皆で身を寄せ合っていこう……。
「ごほっ、ごほっ……!」
「ん? おい。大丈夫か?」
「……ああ。何ともねえ」
「そうか。ならいいんだが……」
「丹羽さん、前々から咳出てねぇか? 一回視て貰った方が……」
「そんな金、何処にあるんだよ。それよりも誰か、ペン持ってねえか? あの子に返事を書
きたい。まぁ住所とか分からねえから、結局次来た時に渡し返す形になっちまうがよ」
 そうして、そっと口元を拭った丹羽が言った。仲間達はそのお返しににこやかに賛同して
くれた。「それはいい」「待ってろ。確かうちの中に……」一人また一人とそれぞれのハウ
スへと身を突っ込みに行く。中は狭いが、それでも長年暮らしていると細々とした物は溜ま
ってくるものだ。
「──わふっ」
 ちょうど、そんな時である。
 仲間達がペンを探していた最中、はたと何処からか現れた茶色い犬が仲間の一人が指先に
挟んでいたハガキを咥え取ってしまったのである。気付いた時には奪われ、走り去られた直
後だった。「わああ!」仲間達が、当の丹羽が慌てて声を上げ、ハウスから顔を出す。
「しまった、ハガキを盗られた!」
「何だ、あの犬!?」
「知らねぇよ。っていうか追うぞ! ありゃあ丹羽さんのモンだ!」

 ***

「──またあの薄汚い場所に行ったの!? いい加減にしなさい!!」
 小奇麗に整えられた邸宅内に、怒声が響き渡った。ビクッと幼い少年──逸郎は思わず肩
を縮こませる。目の前には厚化粧をして目を見開いた、彼の母親が立っている。
「私は貴方に、ホームレスと仲良くさせる為にあそこへ行かせているんじゃないわよ? 塾
よ。塾! お受験の為に、勉強しに行っているんでしょう!?」
 母親の怒りはさながら落雷のようだった。しかも連続である。
 逸郎はきゅっと唇を結び、俯き加減で黙っていた。母の怒りが収まるのを待っていた。
 だがどうも今回は、いつもとは違う気がする。いつも以上に激しい気がする。それだけ怒
り心頭なのだろう。おじさん達──母曰く薄汚い場所に先日も「ねんがじょー」を届けに行
って、お話をしたりお菓子を貰ったりした。それを今日母に知られ、こうしてお説教を喰ら
っているのだ。
「大体、他の年賀状も年賀状よ。原口に木崎、葉山……どこもレベルの低い家の子ばっかり
じゃない。あんな子達と付き合っちゃいけません! 時間の無駄よ。貴方は来年、私立の小
学校に行くんだから。貴方はもっと高いレベルになるの!」
 まだその話か。逸郎はじっと俯き、聞いているようで聞いていなかった。
 父も母も、どうやら「えりーと」と言われる会社に働いていたり、或いはその偉い人であ
ったりするらしい。だから息子の自分も同じように「えりーと」の道に進んで欲しい──進
んで当たり前だと思っている。だけども逸郎は、そんな小難しくて中々言葉に起こせないよ
うな思いを、子供心ながらにもはっきりと抱いていた。僕は別にそんなの望んでいない。皆
と一緒に遊んで、笑って……。
「……すすきちゃんはいい子だよ。ちょっとむてっぽーだけど」
「ああ、葉山さん家の子ね。あの子も駄目よ、エレガントじゃないわ。母親も母親で辛気臭
いし……。不幸には不幸が寄り付くの。いい? 貴方はああなっちゃ駄目なの。あの薄汚い
場所だってそう。いいわね?」
「……」
 ビシリ。何故だろう、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
 どうして? どうしてそんな酷い事言うの? すすきちゃんのお母さんと、おじさん達の
何を知っているっていうの? 皆、よく笑ってよく撫でてくれる、いい人なのに……。
「何で?」
「っ、何でもよッ!!」
 ぴしゃり。ようやく意を決して顔を上げ、訊いたが、その言葉は呆気なく叩き落されてし
まった。逸郎の母親は一瞬、こめかみに血管を浮かべて言葉を詰まらせたが、そう説明する
手間さえ無駄だと言わんばかりに吐き捨てる。

「──よーし、よーし。いい子だ。じっとしてろよ? 今綺麗にしてやっからなー」
 帰宅後、稲葉はシャツとズボン姿の身軽な格好になって腕まくりをし、自宅の風呂場で連
れて来たこの犬を洗ってやっていた。お湯の温度にも気を配って、さわさわと内心おっかな
びっくりな手つきで。本来なら専用のシャンプーとか、手順があるのだろうが、何分ずっと
独り身だったせいでその辺の加減はよく分からない。一応事前にスマホでざっと調べはして
みたが、今更この夜の雨の中をその買出しだけに出て行く気も起きない。
「……」
 幸いにも、この薄茶の犬は大人しく身を任せてくれていた。最初の時も然り、やはり人に
飼われてこういう事にも慣れているのだろう。頭から首周り、胴から尻尾まで丹念に洗って
やる。こいつのご主人様ってのはどんな人なんだろうな……? 湯気が徐々に立ち込める室
内で、稲葉はぼうっとそんなまだ見ぬ相手のことを考えた。もうこんなものでいいだろ。そ
してある程度洗い終わった後、こちらも念入りにお湯でゆすいでやってからバスタオルで包
むように拭く。抱えられて風呂場を出た時には、すっかり恍惚といった感じでホコホコ湯気
をあげていた。替えのタオルの上に乗せられ、今度は距離を離してのドライヤーを浴びる。
「何つーか、普段の俺より待遇いい気がする……。感謝しろよ? ワン公」
 くぅん? 暫く乾かしてやっていたが、そう稲葉が言うと当の本人(本犬?)は小首を傾
げるかのようにこちらを見遣ってきた。……呑気なもんだ。適当な所でドライヤーを切り、
後は自然乾燥に任せる。テーブルの上にはあの時回収した年賀ハガキと、タグ付きの首輪が
置いてあった。ぽりぽりと後ろ髪を掻きながらそれらを手繰り寄せ、ためつすがめつ改めて
確認する。
「確実なのは首輪の方……だよな。葉書の差出人がイコール飼い主とは限らない訳だし」
 となると、じゃあ何故この犬は他人様の年賀状を掻っ攫ったのだろう? ちゃんと宛先や
差出人の住所などが書かれてあればこちらも届けたかもしれないが、流石にこれではやりよ
うがない。宛先の人間には悪いが、今年は諦めて貰おう。
「くぅん……」
「ん? どうした?」
 そうしていると後ろから、犬が小さな鳴き声を出して近付いて来た。背中を数度軽く小突
いて、流し横の冷蔵庫の前に立って見上げ始める。
「……腹減ったのか。つーか馴染み過ぎだろ、お前……」
 よいしょっと稲葉は立ち上がった。人馴れしているらしいのはもう重々分かっていたが、
ここまで徹底されると寧ろ清々しい。ドッグフードなんて物は勿論ありはしないが、中の残
り物でもいいのだろうか……?
「とりあえず、明日ご主人様を探しに行くぞ。雨、止んでたらいいな」
 どうせだ。この際有給を取ってやろう。上司の不機嫌面が浮かんだが、そんなのを気にし
ている自分が馬鹿馬鹿しくなった。
 わう。この薄茶の犬もそう何かしら応えるように小さく吠えた。ぴこぴこと、半ばほどで
カールしている尻尾が小刻みに振れている。

 ***

 夜半一時激しいほどに降り続いた雨は、翌朝にはすっかり収まっていた。水の滴る街のあ
ちこちは朝の光に照らされて、静かにその輝きを反射している。
 仲間達が数人がかりで探し回ったが、結局あのハガキを奪っていった犬は見つけられなか
った。彼らは不注意を詫びたが、当の丹羽は笑って問題にしなかった。「構わねぇさ。また
あの坊主が来たら直接礼を言うからよ」
 だが……その心積もりは結局叶うことはなかった。決して、少年が訪ねて来なかったから
ではない。亡くなったのだ。丹羽が翌朝、静かに息を引き取っていたからだ。
「おはよう、丹羽さん。昨日はすま──」
 ない? 最初に見つけたのは、仲間の一人だった。起きがけにいつものように挨拶しよう
とハウスの中を覗き込むと、微動だにせず眠っている丹羽に気付いたのだった。最初は僅か
な違和感だったが、傍まで寄ってみると冷たくなっているのが分かる。慌ててハウスを飛び
出した彼は、他の仲間達にも急いで知らせた。皆で確認し、やはり脈がなくなっていること
が分かった。動かなくなった丹羽とそのハウスの周りで、彼らが呆然と立ち尽くしている。
「……何で? 何で急に……」
「そういや丹羽さん、少し前から咳が続いてたよなあ」
「まさか。それで……?」
「くそっ! もっと早く、カンパでもしてりゃあ……!」
 悔やむにはあまりにも遅過ぎた。
 だがそれでもせめて幸いだったのは、当の丹羽本人が実に安らかな表情(かお)で眠って
いたことか。

「うーん。この辺りの筈だと思うんだけど……」
 稲葉は朝から、自らが拾ったこの犬の飼い主を探して歩いていた。首輪に付いたタグに書
かれていた住所を確認し、リードを片手に、この一夜の相棒と共に雨上がりの閑静な住宅街
の中を進んでゆく。
(葉山恵……字からして母親かな……?)
 そんな時である。ふと前方の家から、小さな女の子が飛び出してくるのが見えた。稲葉は
殆ど反射的に歩を緩めて、ぶつからないように注意する。そうだな。こんな場所だし、あん
まり道のど真ん中を歩いていても危ないか……。
「!? クーちゃん!」
「……?」
 だがこの彼女こそが、そうだったのである。おそらくは出掛ける前か何か。出て来た一軒
の家の玄関へと振り向き直し、次いでこちらを見てきた次の瞬間、彼女はぱあっと目を輝か
せてそう叫んだのである。この薄茶の犬──クーも幼い頃から一緒の姉妹を認めて、稲葉の
手を離れてリードごと走り出す。
「クーちゃん、クーちゃん、クーちゃん! お母さーん、クーちゃんが帰ってきたー!」
 目一杯抱き締めて、何度も名前を呼んで。
 稲葉にも、この子が本来の飼い主なのだとすぐに解った。見れば出て来た家の郵便受け、
表札を見てみると確かに「葉山」と書いてある。
 ホッと稲葉は胸を撫で下ろした。良かった、思ったよりも早く見つかった。これでいいん
だよな。うん……。
「本当? 一体どうやって……?」
「──っ」
 だがその時である。続いて出て来た人物に、稲葉は思わず言葉を失った。
 母親らしき一人の女性だ。小柄な見た目だが、年格好は自分とあまり変わらないだろう。
気を張った強さの中に儚さを湛えた、楚々とした美人だった。彼女もこちらを見て、暫し言
葉を失っている。いや、稲葉がクーを連れて来た人物だと理解し始めているのだろうか。片
手に握った新聞が、行き場をなくしたように黙している。
「……」
「貴方、は……?」
 少女と男性と、未亡人。撃ち抜かれたような衝撃が二人を包む。
 そんな彼女の手に握られた新聞には、一つの記事が小さく載せられていた。毎年恒例の年
賀状くじ、その当選番号の一覧だ。
 そこに書かれた一等の番号は、稲葉が手に入れたあの葉書のそれと完全に一致していた。
                                      (了)

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  1. 2018/01/08(月) 00:00:00|
  2. 週刊三題
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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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