日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(企画)週刊三題「蓋と泥」

──これから毎週、小説を書こうぜ?

毎週一回、ツイッタの「診断メーカー」で出たお題で小説を書いてみるという
自己鍛錬、 それがこの『週刊三題』であります。
さてさて。紡がれる文章は良分か悪文か、或いは怪文か?
とある物書きの拙文晒し、此処に在り。

【今週のお題:海、屍、役立たず】


「なあ。あそこに立ってるのって人じゃね?」
 恭子がそんな声を聞いたのは、週末の人ごみで溢れる街の一角だった。
 食後の昼下がり。何処となく気だるい雰囲気に包まれる中にあって、ふと雑踏の中で誰か
がそう言って指を差している。連れの女性と一緒に、呆けたように空を見上げている。
 恭子もつられて──雑踏の中の人々もちらほらと、それに倣っていた。まだ強い日差しに
目を細めながら頭上を仰ぐと、確かにそこには妙な光景が確認できる。
『……』
 人だった。ここからでは遠過ぎて年格好までは判らないが、男性らしき人影が一つ、遥か
頭上の雑居ビル、その屋上の縁にぽつんと立っているではないか。
 何をしているのだろう……? 疑問は、周囲のざわめきは程なくして戦慄へと変わってい
った。ただ最上階にいるだけならいざ知らず、あんな位置に命綱一つもなく立って街を見下
ろしているのならば……。
「──っ!」
 直後、恭子は駆け出していた。視線はこの屋上の男性を随時確認しながら、同時に周囲の
雑踏を押し退けて人ごみを横断・脱出してゆく。
 殆ど反射的だった。身体が勝手に動いていた。
 それは彼女の職業柄だったのか、或いは持ち前の“正義感”故だったからなのか。
「待って! 早まった真似はしちゃ駄目!」
 雑居ビルの外階段を大急ぎで駆け上がり、男性のいた屋上へと駆けつける。
 ドアをバンッと叩き開け、息を切らす恭子の目には、幸いにしてまだ例の男性の姿が変わ
らずそこにあった。
「……。何だ、あんた」
 青年のようだった。髪はくしゃくしゃで、やつれた頬。目にも隈が出来、何度も着続けた
と思われる私服はそんな容貌とマッチするかのように草臥れている。
 遠巻きに見れば、もっと老けて──年配に見えていたかもしれない。恭子は内心、思わず
眉を顰めた。一体何があれば、人一人がここまで憔悴するのだろう……?
「貴方、そこで何をしているの? 危ないからこっちに戻って来て?」
 だが今は一々口に出している場合ではない。一度ごくりとリセットするように唾を飲み込
んでから、恭子はゆっくりと諭すように言う。
「……放っておいてくれよ。折角ピリオドを打とうとしていたのに、邪魔しないでくれ」
 しかし青年は、淡々としていた。錆びかけた柵の向こうで、縁のギリギリに経ったまま、
肩越しにこちらを見つめこそしたものの忠告に従う様子はない。
 やはりか……。恭子は再び密かに眉間に皺を寄せ、息を呑んだ。
 この人は、自殺しようとしている。白昼堂々、ビルの屋上から身を投げて。
 彼女の正義感が、ゆらゆらと火勢を強めながら燃えていた。危ない所だった。あそこで誰
かが気付いていなければ、自分も素通りしていたかもしれない。何とか止めなければ。もし
今ここで飛び降りられてしまったら、彼の命は勿論、地上でごった返す人々にも取り返しの
つかない被害が出る……。
「そうはいかないわ。死のうとしている人を見かけて、見捨てるなんて」
「……ふっ」
 なのに、何故だろう。青年はまるでこちらのそんな思考を読んでいるかのように、蔑んだ
眼をしていた。
 いや、その瞳の奥には怒りさえ湛えている。恭子は内心身構え始めていた。彼は、ただの
自暴自棄になったいち市民ではないのか? ゆっくりと、ゆっくりと近付こうとしていたそ
の足がはたと止められる。
「そりゃそうだよな。今ここから飛び降りたら、下の連中に“迷惑”だもんなあ」
「……っ。分かっているなら、何故」
「何故って? じゃあ逆に訊くが、他人に迷惑を掛けずに死ぬなんて方法、あんたは知って
るのか?」
 やはり、自覚している。恭子は目を細めていた。
 まさか非番の日にこんな事件に遭遇するなど思ってもいなかったが……。全神経を、目の
前の彼ただ一人に集中してゆく。どうすれば説得できるだろうと脳味噌をフル回転させて考
える。
「迷惑だとか迷惑じゃないとか、そういう話じゃ──」
「そういう話なんだよ、この偽善者がッ!!」
 だが、悠長に考えている暇はなかった。何とか宥めようと紡いだ言葉は、ことごとくこの
青年の感情に障ってしまうらしい。
 瞳の奥の蔑みが、怒りに凌駕された。明確な攻撃的ワード。ガァンッと背後の柵を裏拳で
殴り、彼はこのお節介な乱入者を睨み付ける。
「放っておけよ! お前と俺は何の関係もねぇだろうが! 放っておけよ! 俺一人死んだ
って何も変わりやしねぇだろうが!」
「そうはいきません。そんな事……できる訳ないじゃないですか」
 だから恭子は言った。
「私は、刑事ですから。今日は偶々非番でしたけど」
 ふぅっと一度大きく深呼吸をして、その使命感の理由を。
「……婦警さんか。はは、やっぱ俺はついてねえなあ」
 すると、青年は苦笑(わら)っていた。その姿はさも自嘲しているかのように見える。柵
を片手で掴んでこちらを見つめている眼はギラつきながらも、哀しそうだった。ざわざわと
その背後から重なり合う音と風があった。地上の人々だろうか。もしかしたら誰かが通報し
て騒ぎになっているのかもしれない。
「で? じゃああんたは、俺を捕まえに来たのか? 騒ぎになっちまえば、あんたらも何も
しない訳にはいかないんだろう?」
「……それは、私一人で判断する事じゃありません。それに、貴方が大人しくこっちに戻っ
て来てくだされば、事は最小限で済ませられます」
「どうだか。どうせあんたらは散々引っ張り回すだけ回して、後はポイするんだろ」
 何だろう? この違和感は。
 恭子は、怪訝になる自分の表情を隠せなかった。
 彼のその言葉は、まるで以前にも警察(じぶんたち)の世話になったことがあるかのよう
な言い草だ。或いは警察──公権力がそんなものであるとの、不信感が根強いのか。
「そんな事は……。とにかくこちらへ。ね? お願いですから」
「……嫌だね。いいから放っておいてくれよ。何で俺を、留めようとするんだよ……」
 ぶつぶつ。青年は柵に指を入れて握り締めたまま、そう歯を噛み鳴らして苛立っているよ
うだった。恭子はこれ以上進めない。観察が、直感が告げている。これ以上一方的に近付け
ば、本当に彼は逃げるようにしてあそこから飛び降りかねない。
「……どうして、そこまで死のうとするんですか?」
 だから訊ねた。或いは“時間稼ぎ”を狙っていなかったと言えば、嘘になる。
 しかし幸いだったのか、青年はじっとこちらを見つめ返すだけで動こうとはしない。感情
も知らぬビル風が、時折この屋上へと吹き抜けている。
「貴方が死ぬようなことがあれば、悲しむ人だってきっと──」
「いねぇよ。付き合いなんて皆無だ」
「で、でもご両親が──」
「お袋は俺が小さい頃に男を作って出て行った。親父とは家を飛び出したっきり、会った事
も連絡も取った事もない。どうせ一人気ままに呑んだくれてるか、とっくにくたばってるか
してんだろうよ」
「ご兄弟は──」
「俺は一人っ子だ。あんなゴミみたいな家に何人も生まれて堪るかよ」
「……」
 説得しようとした。必ず何処かに、彼を想ってくれる人がいる筈だと。
 なのに彼はそれをことごとく否定した。恭子が訊ねようとし、訊ね切る前に塞いでゆく度
にその瞳には憎しみを込め、こちらを見据える。心の底から軽蔑するように、ギリッと歯を
噛み締める。
「だからてめぇは、偽善者なんだよ」
 ズンと、胸を刺される心地がした。たっぷりと沈黙を挟んだ後、彼はそう決まりきったか
のように恭子に向かって、言う。
「世の中にはなあ、とことんツイてない人間ってのがいるんだよ。生まれもクソみたいな所
から始まって、周りの人間も他人を蹴落とす事しか考えていない奴らばかり。……でもあん
た達は、それを“自己責任”だって言うんだろ? 努力が足りなかったんだって。そりゃあ
俺も、自分がこれといって取り得もなきゃあ、特技を作ることをして来なかった人間だって
自覚はあるさ。何をやらせても続かないし、失敗してばかり……。そんな足を引っ張るだけ
の役立たずが一人減った所で、何の不都合があるんだよ? 寧ろあんたらにとっちゃあ手間
が省けるだけだろうが」
「違いますっ! 役に立つとか立たないとか、そういう問題じゃあ……!」
「チッ、これだから優等生さんは……。婦警さんよ、あんたはいいよなあ。自分で稼がなく
てもちゃんと給料を貰えるんだから。その椅子に収まれるくらい、能力があったんだから」
 それは恨み節だった。世の中の全てに、何より自分自身の不甲斐なさに絶望し、故に自ら
この世を去ろうとした一人の青年の。
「そりゃあ困るよなあ? 俺みたいな奴が一人抜けても、税金は減る。俺一人ぐらいどうで
もよくても、そうやって“いち抜けた”が何人も増えてゆけば、あんたらの懐にも響くって
モンだ。それが世の中の本音って奴だろ? 命の尊さとか何だとか、そんな綺麗事じゃねえ
んだろ? 頭数が減ったら金が減るからだ。塵も積もればって奴でよ。だからあんたらは俺
みたいな奴らが“逃げる”のを許さねえ。許す訳にはいかねえ。前例を作っちまえば、今こ
の世の中で胡坐を掻いてる連中がジリ貧になってゆくもんな」
「……」
 はん、と哂う。青年の瞳は憎しみに燃え、さも目の前の女刑事を敵(しゃかい)そのもの
として見ているかのようだった。
 恭子は上手く反論できない。掛けてやるべき言葉が見つからない。色んな「答え」が彼女
の脳裏に過ぎりこそしたが、その全てが彼の言う所の“綺麗事”だった。迂闊にそれらを口
に出せば、彼の感情を逆撫でしてしまうと思われた。その頑なになってしまった心を、一層
悪化させてしまうだけなのでは? と思った。
「だからって……死ぬ事はないじゃないですか。生きているだけで、奇跡なんですよ? 私
も、貴方も」
 どうすれば解って貰えるのだろう? 恭子は考えるよりも前に思い出していた。そもそも
何故自分が刑事になったのか、その理由を。その後の人生を決定付けた過去の事件を。

 ──それはまだ彼女が幼かった頃、六歳の夏。
 恭子はその日、父親と銀行を訪れていた。用事があって、まとまった額を引き出す為だっ
たと記憶している。六歳の少女にはまだよく分からない。ただ普段とは違う場所に、雰囲気
と人々にちょっとした新鮮味を感じていたのだと思う。窓口で用件を済ませている父の背中
を眺めながら、彼女はぶらぶらと椅子の上で足を揺らしていた。
『大人しくしろ! 金を出せ!』
 だが、事件はその時起きた。突如として店内に乱入してきた男達が運悪く居合わせていた
客らと行員を人質に取り、現金を要求してきたのだった。
 銀行強盗。そしてその人質の中には、当然彼女とその父も含まれていた。中には果敢にも
犯人達を説得しようとしたり、抵抗する者もいたが、彼らは全て拳銃で足や腕を撃たれて蹲
らされた。行内に悲鳴が響いた。犯人達の怒号と焦りが響き渡り、急ピッチで行員に現金を
袋に詰めさせる。……自分は死ぬんだ。恭子はその時、漠然と思った。自分は今日ここで、
殺されてしまうんだと。
 しかし異変は、ひょんな事から慌しく決着をみる事になる。
 刑事がいたのだ。人質とされた客達の中に、偶然にも非番中の刑事が混じっていたのだっ
た。彼は勇敢にもこの犯人達の隙を見て立ち向かい、これを取り押さえる事に成功した。そ
の姿は当時の恭子をどれだけ励ましたことだろう。警察が駆けつけ、犯人達の身柄が引き渡
されてゆく最中、この刑事は恭子少女の頭を撫でてやりながらこう言った。
『本当に良かった。君のような子供達こそ、何よりも守らなければ。君は、未来そのものな
んだから』
 恭子の脳裏にはその時の記憶が焼き付いている。刑事の大きな手と、優しい声色。何より
も絶望から自分達を救ってくれた感謝。
 彼女がそんな彼に──正義の味方たる警察官に憧れ、同じ道を志したのは、当然の流れと
言ってもいいのかもしれない。何よりあの日彼に言われた言葉は、幾度となく挫けかけた彼
女の心を励ます支えとなった。
『──君は、未来そのものなんだから』
 あの日自分は確かに受け継いだのだと思う。彼とは、あれ以来会ってもいないし、結局何
処の誰だったのか判りもしなかったけれど。
 彼女は受け取っていた。命のバトンを。そして同じ志を持つ次の世代という役割を。
 はっきりと認識したのはずっと後になっての事だ。だが恭子は、あの事件を経験したから
こそ、信じることができた。こうして自分が今も生きていることの“奇跡”を……。

「──命は、貴方一人だけのものではないんです。私も、貴方も、そんな連綿と受け継がれ
てきたものの最前線にいるんですよ? それって凄いことだと思いませんか?」
 だから、語った。恭子は自らも一度は死にかけたというその過去を明かし、それでも生き
延びた現在(いま)に感謝していると語った。
 そしてそれは同時に、抑止力でもあると彼女は考えていた。
 ややもすれば、今日の人々は自分の命を自分個人の所有物だと考えがちだ。だがそれは違
うと彼女は思っている。自分達が生きているのは、胸を張る為だ。その全てを捧げてこの命
を継いできてくれた人々、傍にいて育んでくれた人々への、恩返しの為だ。なのにその連綿
と続けられてきた使命を投げ出すなどあってはならない。自分達は、今度は次の世代へとそ
のバトンを渡す義務がある──。
「……はあ」
 だが、恭子はそれすら“綺麗事”だということに直前まで気付けなかった。あまりに自分
にとって当たり前で、キラキラと大切なものだと抱え続けてきたせいで、それも恵まれた側
の発想だということに理解が及ばない。
 青年は、深くため息をついていた。ガシガシとそのぼさぼさな髪を書き毟りながら、もう
片方の手でギシリと更に強く柵を握り締めていた。
「ざけんな」
「えっ」
「ふざけんな! 何が凄いんだ。知るかよ、ただの重石じゃねえか。そんなもんで俺が思い
留まるとでも思ったのか!? 人を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!!」
「そ、そんな事──」
「うんざりなんだよ! そうやって、ありもしねえ俺には関係のない理由をあれこれくっ付
けて来やがる。手一杯なんだよ、俺は俺一人で! 他人が先祖がどうだとか知ったこっちゃ
ねえんだよ! 今生きるのも手一杯な人間に、まだ背負わせようってのか!? ふざけるの
も大概にしやがれ!!」
 一切のオブラートの無い、剥き出しの怒り。
 そんな彼の怒声は、恭子をじりっじりっと後退りさせるのに充分だった。彼女は、良かれ
と思って打ち明けた自分の境遇が、彼を更に追い詰めてしまったのだと理解した。
「……そんなに、素晴らしいモンかねえ。人が生きるってのは」
 怒鳴り疲れたのか、ややあって青年は肩で息をしながらゆっくりと背後を振り返った。即
ちビルの縁、眼下に広がるアスファルトの地面とコンクリートジャングルである。
 恭子は二の句を継げないでいた。自身の“失言”がそれほどにショックだった。片手はま
だ柵をしっかりと握り締めているまま、彼はじっと眼下の風景──人ごみと車両行き交う人
工の都市空間を見つめている。
「俺には、呪いに見えるんだよ。ここからの景色だってそうだ。これだけわんさか人も物も
溢れ返ってるのに、誰も彼もちっとも幸せそうには見えねえ。見渡せばそこかしこに、辛く
て苦しくて堪んないって表情(かお)をしてる奴らがうじゃうじゃ居やしねえか?」
 彼の目には、遠く眼下は渦巻く闇に視えていた。光沢のあるアスファルト色の黒い闇が、
静かに揺らいで流れている。その波間に、無数の人間だった汚泥達が、怨嗟の声を上げなが
らこちらに向かって繰り返し手を伸ばしている。
 連綿と続いてきた。それが、どうしても積極的な肯定の理由には思えない。
 寧ろ断ち切るべきだとさえ考える。こんな苦しみを、果てのない命の受け渡しを続けると
いうのなら、それを定めた者は誰だ? 誰がこんな意味の無い繰り返しを強い始めた?
「……物理的にもさ、この辺りは海を埋め立てて作った土地だろう? そうやって、色んな
ものを生贄にしてまで、俺達は生きなくっちゃいけねえのかなって」
 恭子はやはり、返す言葉を見つけられなかった。先程の“失敗”も然り、何よりその問い
に答えられる言葉を、彼女も或いはヒト全体が持ち合わせてはいないのだから。
「……命を繋ぐことに、理由を求めちゃったら」
 それこそ、深淵を覗く事に他ならないのではないか? いち生物として、それは有無を言
わさぬ大前提であり、疑ってはいけない決まりである──模範解答としては、一般にそう記
されている。
「失敗ばかりしてきた、役立たずを留めるより、もっと“社会”を脅かす犯人を取り締まっ
たらどうだよ? 婦警さん」
「……」
 暫くの間、二人は黙りこくった。掛けるべき言葉を失った恭子は勿論ながら、先程までの
怒りが嘘のように青年はじっと黙っている。黙って──沸々と湧いた怒りを再び自身の中へ
閉じ込めて、また眼下に広がる泥の海を視ているのだろうか。
「そうやって、あんたらはずっと蓋をしてきたんだ。何で? を突き詰めれば何てこったあ
ないクソつまらねえ現実なのに、それをあたかも素晴らしい事のように飾ってる。……もう
うんざりなんだよ。少なくとも俺は、そんな嘘の中じゃあ生きられねえ」
 恭子は唇を結んでいた。助けようとしたのに、その手を全力で叩き返されたかのような。
 それでも彼をこのまま見捨てる訳にもいかなかった。それは、即ちこれまで彼に語り掛け
てきた“理想”が全て、結局は上っ面でしかないと自ら証明するようなものだったから。
「……でも、あんたみたいに話を聞いてくれる人がいれば、もう少し違ってたのかもしれな
いな」
「っ!? じゃあ──」
「ああ」
 だから、一瞬功を奏したのかと思った。何とか届いた──彼が思い留まってくれたのかと
思った。俯いていた顔を上げ、青年はちらとこちらに向き直って小さな嘆息をついてくる。
ザッと、恭子は安堵し始めた表情(かお)でもって彼へと近付こうとする。
「だから、死ぬよ」
「えっ──」
 なのに、何故だ? その歩みを嘲笑うかのように、次の瞬間彼はこちらを向いたまま縁を
蹴ったのだった。恭子が目を丸くする。まるでスローモーションの世界。彼の背中が、地上
の黒く濁った海の中へと吸い込まれてゆく。彼女にも、一瞬そんな彼の見ていた世界が──
手招きするように手を伸ばす、無数の汚泥の人顔が視えた気がした。
「……どう、して……?」
 慌てて柵まで駆け、しかしもう時既に遅く、恭子はガシャンと柵に両手を打ちつけて全身
を震わせる。俯き加減になって、直前の彼の表情(かお)を思い起こす。
 ニッと、笑っていたような気がした。吹っ切れた──最悪の形で決断したその擲った身。

『遅過ぎたんだよ』

 彼の言葉が聞こえたような気がした。自分を責めるでもなく、達観した声。自らの不運を
受け入れた上で、潔くやはり身を投げようと決めた声。
 激しい動悸に襲われていた。恭子はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。風に乗って、遥
か下から騒がしい声の重なりが聞こえる。……嗚呼、本当に飛び降りてしまったんだ。地上
では今、とんでもない騒ぎになっている筈だ。

『今ここで俺が死ねば、あんたは絶望するだろう?』

 幻影(おでい)に呑まれた残響。
 彼は只々、自分に関わってきた彼女の“肯定”を否定することで、今際自分の意味を得ら
れると踏んだらしかった。
                                      (了)

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  1. 2017/11/26(日) 00:00:00|
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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