日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)Amethyst League〔4〕

 ……苦しい。身体中が内側から今にもはち切れそうに燃え滾っている。
 これは憎しみだ。憤怒だ。明らかに自分のものではないそれら。だけど今それらは確かに
僕の中で燃えている。謂れのない苦しみだ。確かに僕は、父さんと母さんを恨んでいたのか
もしれない。ずっと、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたから。お互い相手の言っている事
を、思っている事に耳を傾けようとはせずに自分の理屈ばかりを相手に振り翳す。
 そんな醜い争いに、僕自身が辟易していたのは間違いない。お前には関係ないんだと目を
ぎらつかせながら突っ撥ねてくるその態度にも。
 結論から言えば、それが僕にもたらされたこの力の始まりとなったんだ。
 二人を何としても止めたい……否、ただ僕自身が二人の「騒音」を嫌っていただけなのか
もしれない。だって、暴力に訴えてでも二人と黙らせたい衝動がずっと僕を揺るがし続けて
いたのだから。
 その結果、僕は力を手に入れた。消すのではない、相手の感情を肩代わりする力を。
 この事にもっと早く気付けば良かったのかもしれない。いや、本当は何処かで勘付いてい
たのかもしれない。でも気付かぬ振りをしていた? この力に溺れていた?
 それでも感情という見えない脈動は消えない。消化し切れずに溜まっていった。それも、
人が一番醜くなる類の感情ばかりを僕は引き受け続けたんだ。だからこの苦しみは、単なる
消化不良だけではない気がする……。僕自身の弱さが、何倍も重くしているのではないか。
 これが、他人(ひと)の痛みなのか。
 ……熱い。焼けるように苦しい。ここまで二人を追い詰めていたのか。なのに、僕はその
僅かな表面だけしか見ていなかった……ずっと、ずっと。自分の弱さを正当化して。
 ごめん……父さん、母さん。


 Chapter-4.扉の向こう

 それはもう、随分と遠い距離に、時間に置き去りにしてきた記憶だ。
 あの日、一人の女性が亡くなった。僕の母さんだ。夕暮れ、僕が家に帰ってきた時、家の
中は気味悪いほどに静かだった。父さんは取材の為に前日から家にはいなかった。だけど、
それだけじゃない。不穏な空気が家中を覆っていた。
『……母さん?』
 リビングの入口で、母さんが倒れていた。
 よろよろと近づいて揺さぶっても、反応しなかった。まだ小さかったこの頃の僕はなす術
などなかった。頭に浮かぶよく分からない不安を打ち消そうと何度も母さんの名を呼んだ。
 それから暫くして、偶然近所の小母さんが家にやって来た。
 その時の僕の声が聞こえたのだろう。小母さんは慌てた様子で上がり込んで来て、僕の隣
で事の深刻さを悟った。血相を変えてすぐに電話の前に立って救急車を呼んでいた。その間
僕は何もできず、小母さんの傍で動かない母さんを見ていた。もう声が嗄れていた。
 夕暮れ時の穏やかな住宅街が騒然となった。
 あちこちから人が出てくるのが見えた。だけど、その時の人達の顔はもうすっかり霞んで
しまったように思う。その時はもう、救急車に搬送される母さんの姿しか記憶に残っていな
かったから。僕は小母さんに引き連れ去られるようにして一緒に救急車に乗った。
 大人達の忙しないやりとりを、ぼうっと意識の遠くで聞きながら病院に着いた後、僕は隣
小母さんと共にひたすら処置室のすぐ前のベンチで待った。
 ショックだけが僕を包んでいた。
 時間の感覚がすっかり狂ってしまってどれぐらい経ったかは分からない。ちらりと視線を
移した外がすっかり闇の黒に染まったのは覚えている。
 処置室から、医者の先生達が出てきた。
 小母さんが立ち上がる。僕もゆらりと同じ様に立ち上がり、薄緑のゴムみたいな服で全身
を包み、マスクをつけたその姿を見上げる。
『……最善は尽くしましたが』
 先生は、首を横に振った。
 小母さんは暫く時間が止まったように立ち尽くし、顔を引き攣らせていた。その後姿を、
僕は遠のく意識と心の中で、真っ白な世界に取り残されたように見ていた。

 連絡を受けたのだろうか。それから夜遅く、病院でぼうっと座っていた僕の方へ父さんが
息切れしながらも走ってきた。僕の目を覗き込んで「母さんは!?」と必死な表情で訊ねて
くる。だけど、僕は声も出ない。少し遅れて追いついて来た先生に案内された。僕も父さん
の手に引かれてそこへ向かう。
 霊安室だった。冷たくひんやりした場所。ろうそくの火だけが唯一の温かさのシンボルで
あったのかもしれない。だけど、そこで寝かされていた母さんは冷たいままだった。
 顔の布が取り払われる。普段、歩く温厚と言っていいも父さんがよろよろと母さんの傍ら
に歩み寄って、力のなくなった冷たい手を握りしめ、泣き喚いていた。「優佳、優佳……」
そう何度も母さんの名を呼んで。
 僕は、じっと遠い世界に囲まれたままそれを見ていた。

 葬式、というものが執り行われた。それまで、今まで見た事のないほどに泣き続けていた
父さんもすっかり枯れたようにして白黒の枠に入れられた母さんの写真を抱いている。
 お坊さんの何を言っているのかよく分からない念仏が無機質に響く。その一音一音が僕ら
を無遠慮に横切っていくような気がした。
 黒と白の布地で飾られた家に、近所の人、見知らぬ人がやって来ていた。弔問者だ。
 誰もが表情も読み取れない──否、当時の僕自身そんな余裕なんてなかったが──作った
神妙さを貼り付けてやって来る。ぺことお辞儀。僕と父さんもぺことお辞儀を返す。
 そうしている間に、母さんは棺ごと運ばれ、焼かれた。
 母さんの身体は無数の灰と真っ白な骨だけになっていた。父さんに言われ、僕もその骨を
箸で摘んで骨壷に入れる列に加わった。ひどく、軽かった。
『……幸志郎さんが、もっと安定した仕事をしていれば奥さんもこんな事にはならなかった
んじゃない? 笑顔の似合う夫婦といっても相当溜まってたのね』
『よしなさいよ……。他所の事、死んじゃった人の事を今更さ』
 活気などある筈もない雑音の中でそんな会話が耳に届いた。
 僕がゆっくりとその方向に視線を向けた。あの時の小母さんと、別の女の人が僕に気付い
て慌てたようにその場を移動していった。
『……ごめんな、胡太郎』
 ふっと、後ろから父さんが抱きしめてくれていた。その時、首筋に冷たい感触が落ちるの
が分かった。だから、僕は正面を向いたまま、偽る事なく言った。
 搾り出すように、言い聞かせるように。
『……父さんは、悪くないよ』

 それから暫くの事は、今はあまり覚えていない。
 いや、僕自身が何処かで思い出すことすら拒絶しているのか。それとも本当に記憶が風化
してしまっているのか。だとしたら、僕は結構な薄情者かもしれない。
『ここから、引っ越そう』
 ある日、父さんがそう言った。
 後々で何となく分かった事なのだが、それは苦い記憶の残る場所で暮らし続けるのは酷だ
ろうという、父さんなりの僕への配慮であったらしい。
 引越し先は玉殿というさほど離れてはいない地方の街。曰く、父さんの友人がそこの出版
社の編集長に就いている場所だとの事。やはり父さんはあの時の言葉が堪えていたようだ。
 断わるつもりなど始めからなかった。何処に居たって、母さんは戻ってこないんだから。
だけどそんな事を言えるわけも、勇気もなくてしまい込んだ。
 最初に思ったのは、緑の多い街だなという感慨。南北に玉殿大川が流れて沖合いへと繋が
っている。ちょうど入居者を募集中だった戸建ての借家が見つかり、新居が決まった。
『……皮肉だね。母さんの保険金がこうして役立つなんて』
 引越して最初に新しい家を見上げた父さんは呟くようにそう言った。
 必要最低限に整理しておいた荷物を引っ越し屋さんと共に家に運び終わる頃にはすっかり
空が茜色に染まっていた。引っ越し屋さんを見送った後、その日僕は早めに床に就いた。

『──という訳で、今日から皆のお友達になりました。瀬尾胡太郎君です。皆、仲良くして
あげてね?』
 引っ越しイコール転校。
 転入の手続きの後、僕は新しいクラスメート達(勿論、全く見覚えのない顔ぶれ)に注目
されながら無駄に陽気な先生の紹介を受けた。知らないんだな。まぁいいけどさ。
 子供は無邪気だと思う。だけどその分大人より非情でもある事がままあるという。
 有体に言えば、孤立していた。
 最初は新しいもの見たさでガヤガヤと近寄ってきたが、僕があまりに淡々と無愛想な態度
だった為に、いつの間にか、でも記憶にある限り割合早い段階で、興味の対象とはならなく
なったようだった。元より田舎だ。新参者に優しいなどというのは妄想に近い。
 固く、不気味なくらいに固い団結で結び合う各々のグループに分かれて皆がグラウンドで
遊んでいる中、僕は日陰の下でそれをじっと遠目に見ているという日々が続いた。
 それでも構わないと思っていた。諦めも多かったろう。
 溶け込む労力を、僕は厭っていた。ショックから立ち直っていなかったと言えばいいのか
分からないが、無闇に交友関係を広めて何になる……それは思っていたかもしれない。
『ようっ!』
 だけど、彼らは僕には違って見えた。
 興味を失っていないその瞳で、バカそうな、でも今を精一杯楽しんでいる。そう全身で主
張しているような少年が僕の前で笑っていた。隣には同じ様にニカニカと笑っている女の子
と、少年の背中からじーっと観察しているらしい小動物なような女の子。計三人の珍獣。
 いや、珍獣はむしろ僕の方だったのだろうか。だから近づいてきた。
『何ぼけーっとしてんだ? 遊ぼうぜ?』
『……別にいいよ』
『何言ってんだよ。学校ってのは遊ぶ所だぞ?』
『いや、勉強する所じゃ……』
 控えめな抵抗など彼らには通じなかった。気付けばぐいと手を取られていた。これが田舎
者の無遠慮さ(引っ越し前も都会というには心許なかったが)なのか。
 手を引かれるまま僕は、彼ら──新條晴市・陽菜子兄弟、飛鳥部環の輪の中に引き込まれ
ていった。どうせ気まぐれだ。だけど、その後も三人はしつこく、何度も何度も僕の所にや
ってきては僕を連れ回して遊んだ。
 孤立した僕に気を遣っていた……とは僕は未だに思えない。ただ単に「面白そうだから」
と僕を引き込んだ。それ以外にないといったのが実感だった。
 だが、結果的にこれが僕を救ったのだ。たとえ当時の晴市──ハル達にその自覚などなか
ったとしても。次第に、僕はやっと周りの新天地の環境に溶け込んでいく事ができた。
 それと比例するように僕はハル達とよくつるむようになった。大切な仲間となったのだ。
 それから間もなく、ハルとタマちゃんを中心に新しい仲間が増えた。
 この当時から一匹狼気味だった深森篤司──アツシ、金持ちの家の娘としてそこはかとな
く周りから距離を置かれていて困っていた望月沙夜──サーヤの二人が。
 仲間は、僕を含めて六人になった。
 僕ら六人はその後もずっと一緒だった。勿論、喧嘩する事もあったけどそれでも幸運にも
誰一人欠けていなくなってしまう事もなく、僕らは大きくなっていった。
 子供の頃の他愛のない遊戯。ハルやタマちゃんの好奇心の為に、皆して大人に説教を食ら
うことも少なくなかったけど、それも経験、思い出として共有して。その中には、あの日の
夜の流星群見物も含まれている。たくさんの思い出が、僕達を繋いでくれた。
 
 失った事の痛み。忘れそうな自分自身への自戒。
 だけど、人は過去を背負ったままで生きていくべきではないのだと僕は思う。それが辛い
ものであれば、背負い続けるにはあまりに辛過ぎる。
 僕らは現在(いま)を生きている。或いは未来の為に生きている。
 ただ、幸福だった過去であっても、それらは現在を生きる糧になるかもしれないが、同時
に自分自身を束縛する枷になるのかもしれないけれど……。
 忘れてしまえとはまでは言わないけども、過去となった亡き人々は果たして残された者達
が過去に捕らわれたままでいる事を望んでいたのだろうか? 少なくとも、彼らは残された
者達の幸福を願っていたのだと、僕は思いたい(憎しみなどによって裏打ちされるような関
係性の場合は別としても)。
 感情に狂い、病んだからこそ思う。もう失いたくないと思うのは……我が侭だろうか。
 今度こそ守りたいと思う。やっと現在(いま)を生きる事ができた今だから。
 大切な、仲間達を。


「…………」
 ゆっくりと、沈んでいた意識が浮上するように覚醒がやって来る。
 薄っすらと目を開くとカーテン越しから朝の光が差し込む。何処からかは鳥の囀り。部屋
に漂う小さな埃が差し込む光の筋を通り、わずかな時間の間だけ浮遊するその姿を現す。
 ぐぐっと伸びをして身体をほぐしながら布団から出る。そうしながら枕元の目覚まし時計
で時刻を確認。あと数十分もすれば時間は正午にさしかかる。眠気の残る目を擦り、一度大
きく欠伸をすると、まだ布団の中でだらっとしていた脚を引きずり出した。
 今日は、休日である。
(……ん? 線香の匂い?)
 服に着替え、階下に下りるとダイニングキッチンに父の姿はない。中途半端な時間という
のもあるが、では書斎かなと思っていると嗅覚が別の情報を告げてきた。
 廊下の方へ移動し、和室のある部屋の引き戸を開ける。
 線香の匂いが先程よりもはっきりと感じ取れ、胡太郎は小振りの仏壇の前でじっと正座を
して向かい合っている父・幸志郎の背中を見た。
「……あぁ、おはよう。胡太郎」
「……うん。おはよう」
 振り返った父の笑みはいつもと変わらない温厚さのように見えたが、気のせいか、それと
も自身が連想し過ぎているのか、何処かその笑みが悲しみで陰っているような気がした。
 胡太郎は何も言わず、そのまま父の隣へ。線香の匂いを嗅覚に感じながら、鈴を鳴らして
静かに手を合わせた。チィン……となった物寂しい金音は一度首をもたげたが、すぐにその
勢いは四散し、休日の和室に静かに沈殿して聞こえなくなる。
 二人は、暫く何も言わずに仏壇に置かれた一人の女性の写真を見ていた。
「……胡太郎。起きてきたばかりだろう? ご飯どうする?」
「あ~……うん」
 そう言われて胡太郎は父を一度見遣った。静かに話題が逸れていく、そう感じながら頭の
中で今日の予定を呼び出して、
「外で食べてくるよ。クスノキ亭で。皆と朝昼一緒に済まそうかなって思ってるとこ」
「そうか。分かった」
 今日は皆で篤司の家に集まる約束になっていた。それは既に彼にも話しておいてある。何
もこういった事は初めてではないのだが、胡太郎はその度にふと父を独り食事させることに
小さな罪悪感に似た感情を覚える。それは、今こうして仏壇の前で佇んでいるからこそ余計
にそう思ってしまうのかもしれないが。
「それじゃあ、行っておいで。篤司君の所で粗相のないようにね」
「うん、分かってる」
 まだ幸志郎は仏壇の前に座ったままだった。
 胡太郎はまた少し、後ろ髪を引かれるような気を抱えつつ、和室を出た。

 身支度を整えてから、喉ごなしに麦茶を一杯飲んだ後、胡太郎は自宅を後にした。
 休日の穏やかな雰囲気の住宅街の中を歩く事数分、お隣同士の新條家と飛鳥部家が見えて
くる。新條家の前の小さな柵にもたれ掛かって、晴市がぼうっとしていた。
「おはよう、ハル」
「……ん、おぅ。おはようさん」
 近づいてくる胡太郎にはたと気付き、気安く挨拶。少し船を漕ぎ掛けていたようだ。
 胡太郎はきょろと二家を見渡し、
「ヒナちゃんとタマちゃんは?」
「まだ中だ。女ってのは身支度に時間を喰う生き物だからな」
「……ああ」
 ちょっと気障っぽく構えてみた晴市の返答に小さな首肯。
 別にいつものメンバーで集まるだけなんだから、そんなに念を入れなくてもいいのにな。
胡太郎はそう思ったが、所詮自分は男、女の心情など慮るのも難しいのだろうか。
 それから暫くの間、胡太郎は晴市と共に彼女達が出てくるのを待つ事にした。
「お待たせ~……あ、コタローだ」
「ご、ごめんなさい。待たせちゃって」
 十数分後。図ったかのようにほぼ同じタイミングで両家の玄関のドアが開き、環と陽菜子
が出て来た。平日の制服姿とは違い、それぞれスポーティで身軽な格好、淡色のワンピース
姿という私服姿。胡太郎と晴市も私服ではあるが、こちらは明らかに適当感が否めない。
 やっぱりこういう所での性差って大きいのかなぁと、胡太郎は内心思うのだった。
「もう来てたんだ。こっちから迎えに行ったのに」
「それは、お前らがちんたらしてるからだろう……」
「まぁまぁ。アツシの家に行くんだから、距離からして僕の方からハル達と合流しに行った
方が効率的でしょ?」
「まぁ、そうだけどよ」
 呆れ気味にぼやく晴市の横で、胡太郎は少々苦笑を浮かべて言う。
「さ、そろそろ行こう。アツシも待ってくれてるだろうしさ」

 四人して住宅街を抜けると、休日でも交通量の多い駅前アーケード方面へ。そこかしこか
らの雑音と人の波。昼と夜の差異はあったが、胡太郎の脳裏にあの夜、沙夜を皆で尾行した
時の光景が蘇ってきた。遊興目的でやって来ているらしき若者の数はあの時よりも更に多く
騒がしい。あの夜は所々で下がっていた店のシャッターは見受けられず、彼ら通行人を待ち
受ける定置網のように、様々な店が口を開いて軒を連ねている。
 しかし、今日はその人混みに自ら混ざっていく事はない。
 胡太郎達は人々で混雑するアーケードの様相を横目に捉えつつ、脇の筋道の方へと入って
いく。その途端、騒がしさは遠くの音へと変わる。夜間に比べればそれでも比較的物音はす
ると言えるが、そこには旧市街区であるこの辺り一帯の昔ながらの風景がある。軒の低い、
決して着飾った様子を見せない店舗や住宅が、多数の複雑に入り組んだ中小の道を構成しな
がら立ち並ぶ。
 幾許かは夜間の飲み客をターゲットにした居酒屋であり、現在は準備中の旨の札を下げて
沈黙しているが、そんな彼らの眠りの傍ら、向かいなどで路地に面した中小の商店が表通り
のような激しい自己主張をする事もなく慎ましく営業しているように見える。夜間になれば
それが不気味さとなってしまいがちではあるのだが、この昼間の慎ましやかな風情の方が、
喧騒色の強いアーケード街に比べて佇んでいると何処か落ち着くような気さえする。
 静かに延びた、そんな路地の向こう側。
 向けてみた視線の先には辺りを外周として囲む、コンクリート固めの用水路沿いの道へと
連絡しており、誤って子供などが落ちないように柵が設けられている。ここからでは用水路
に現在、水は流れているかは分からない。表通りから残響のように響く喧騒の方がはっきり
と聞こえて来、それ以上を遮断されるように微々な水の流れは聞き取れそうにない。
 そしてその更に奥には、それ以上の風景の視認を途絶えさせる様々な木々の林立──緑地
公園の外周部分であろう濃淡の緑と幹の色の分厚いカーテン。
 休日の今日は、あの日よりも多くの人々で静かな賑わいを見せているのだろう。自分達が
鉤爪男と遭遇し、危うく次なる犠牲者となりそうになった芝地エリアの一角を、同じ敷地の
一部として抱えて。更にそこよりももっと奥、公園最奥部分のひょうたん池も然り。ロード
ワーク中に通り掛かる者や人目を忍んでの逢引きでもない限り、あまり人は訪れない静かな
場所。しかしそこも、数日前には氷の男による呼び出しと強襲の舞台となった。
 非日常──言い換えるなら、奇異や危険は何処か遠くの世界にあるのではない。自分達が
毎日のように暮らしている日常という世界、その中に内包されているのである。
「…………」
 胡太郎は、無意識に密かに拳を握り締めていた。
「……コー君、どうかしたの?」
「え? あ、ううん。何でもないよ」
「……そう?」
 彼の独り静かに張り詰めていた緊張は、陽菜子の声によってふっと緩んだ。
 自身の内面から噴き出すような重みが薄れていくのを感じつつ振り向くと、戸惑いや一抹
の恐怖感すら彼から感じ取ったらしい、不安でいっぱいの彼女の姿があった。手を胸の前で
掻き抱き、努めて笑顔で返事する胡太郎を彼女は束の間、心配そうな表情で見つめる。 
「どしたよ? ほら、行くぞ」
「あ、うん……」
 そして少し先を行こうとしていた晴市に、二人は追い付こうと小走りになった。
 あちこちに分岐し、折れ曲がっていく路地の中を、胡太郎達は慣れた様子で進んでいく。
右折、左折、三区画進んでからまた左折……雰囲気こそ旧市街の空気を変わらず放っている
が、視界に広がる風景は歩くに伴い様々な営みを見せる。
 『食事処・クスノキ亭』もまたそれらの例に漏れない。
「いらっしゃい!」
 女将さん、もとい篤司の母が客に料理を運びながら迎えてくれた。胡太郎達は、またお世
話になりますという意図も込めて、彼女と、奥の厨房で顔を覗かせている篤司の父に軽く頭
を下げて店内に入った。
 表通りに位置していないとはいえ、時刻はちょうど昼食時である。店内は前に来た時より
もずっと多くの客が入っていた。あの時の物静かな空気とは違う、穏やかさと幾分の慌しさ
が店の雰囲気を支配しているようだった。
「……来たか」
 帰った後の客の食器を下げながら、着古した濃紺のエプロンをした篤司が胡太郎達の前を
通り過ぎつつこちらを向いた。「よぉ」と挨拶する晴市に「あぁ」とこれもまた同じく短い
返答のみで応えると、
「そこが空いてる。まぁ、座っててくれ」
「おう。分かった」
 ふいと向けた視線で空いたテーブル席の一つを指した。
 晴市が気楽げにそこへと歩いていき、陽菜子と胡太郎も続く。
「ねぇ、サーヤは?」
「……まだ来ていない。その内来るだろう」
「そうね」
 沙夜の家はこのアーケード街及び昔ながらの商店街の区域からは少し離れている。胡太郎
達は同じ住宅街の中に自宅があるので合流して来た訳だが、彼女の場合はどうしても別行動
でやって来ざるをえない。
 環はそれだけを簡単に篤司に聞くと、晴市達が座ったテーブル席の方へ向かう。篤司もそ
れを僅かに見遣った後、一度厨房の方へと消えていった。
「さぁて、何を食おうか」
 テーブルに着いた晴市が手書きされた品書き帳を捲っている。胡太郎ら他の面々も、彼が
開く頁に目を落としながら先ずは腹ごしらえの算段。そうしている内に、篤司の母が六人分
のお冷を持ってやって来た。
「注文は沙夜ちゃんが来てからにする?」
「あ、はい……。そうして下さい」
「ふふっ、あいよ」
 彼女は陽菜子のとぎまぎした声ににこりと微笑みながら応えると、そのまま立ち去ろうと
する。その途中で別の客が彼女に注文を頼もうと声を掛けた。その横を、エプロンを畳んで
片手に握った篤司が通り過ぎ、そのまま四人が座っているテーブルに着いた。
「手伝いご苦労さん」
「……いつもの事だ。それに今日は昼食ったらあがれる」
 椅子の背もたれに心なしか一層寄り掛かった体勢で、篤司がぽつりと言う。昼食を取った
後に皆で集合するという事を言っているのだろう。テーブルに置かれた、自分の分と思しき
お冷を手に取るとぐいと飲み、ひんやりと喉を潤す。
 胡太郎は彼の向かいに座り、その背後を独り眺めていた。
 そこはあの日の夜、篤司と沙夜から能力者の存在と告白を受けた際に座っていた角っこの
テーブル席。現在は三人のサラリーマン風の男達が妙にニヤニヤした顔で雑談に興じている
ようだった。
 あの席も、僕らにとっての非日常が口を開けた場所なんだ……。
 しかしそんな事は彼らが知る由もなく、今は下世話な話題で盛り上がる庶民の空間となっ
ている。そのギャップに安堵しつつも、未だにこれまでの動揺を引きずっている自分に情け
なさのようなものを覚えたからだろう。何処となく、少しいらっとした。
「あいよ、いらっしゃい」
「こんにちは。……あ、いたいた」
 と、店の入口に下げられていた鈴が控えめな音を立てて、新たな客の訪れを告げる。
 視線を移すと、ちょうど迎えた篤司の母に応じてこちらの姿を認めた沙夜と目が合った。
やぁ待たせたと言いながら、仲間達からの気軽い挨拶を受けて、胡太郎達が座っているテー
ブル席に腰掛けた。
「皆、注文は決めたの?」
「ああ、大体な。サーヤ、お前はどれにするよ?」
「そうだな……」
 品書き帳を捲り少し迷った後、沙夜も注文の品を決める。篤司が「御袋」と母親を呼び、
六人全員の注文を告げた。彼女はじゃあちょっと待っててねと言うと厨房の方へと引っ込ん
でいく。篤司がまた一口、お冷を飲んだ。
「……どうする? 今の内に少し話を進めておくか?」
「いや、いいよ。落ち着いたとこの方がいいだろ」
「腹が減っては何とやら、って?」
「まぁそういう事だ。……あんま気負わなくてもいいんだぜ、アツシ」
「…………ああ」
 重くなった空気も束の間。胡太郎達は料理ができるまで、暫し雑談の時を過ごした。

 昼食時のざわつきの中で胡太郎達は食事を終えると、会計を済ませて一旦店を出た。その
まま店の裏側、深森家の住宅部分へと回る。玄関のチャイムを鳴らすと、先んじて家の中に
戻っていた篤司が鍵を開け、五人を招き入れる。「お邪魔します」を述べながら、言われて
階段を上がって二階、篤司の部屋に入る。
 中は彼らしい、シックな色合いの必要最低限の家具などが置かれたすっきりとした様相。
部屋の隅に重ねてある座布団を各々手に取り、背丈の低めなテーブルを囲んで座った。
「……食ったばかりだから、茶請けは要らないだろう?」
 ややあって、篤司が人数分のグラスと茶を満タンに入れたボトル(店の席上にも置かれて
いる同型の、セルフ用のもの)を両手にやって来る。グラスをそれぞれ受け取った後、茶を
注いで貰う。触れると適度に冷たい。彼を含め、六人が揃った。
「さてっと……。それじゃあそろそろ本題といきますか」
 ざっと面々を見渡し、晴市が少し皆の肩の力を抜かせようとなるたけ気軽な口調でもって
切り出した。
 何も、今日はただ篤司の家に遊びに来たのではない。今後の対応についての話し合いを持
つ為である。即ち、数日前に自分達の前に現れたあの青年──氷の能力者とどう向き合うべ
きだろうか、その意見交換の為であった。
 あの時のやられっぷりを思い出したのだろうか、皆は始め一様に黙っていた。
「……そもそも、何故私達を呼び出したのか。相手の目的も分からず仕舞いだったな」
「そうだよね。まさか本当にあいつが言っていたみたいに『遊ぶ』為ってわけじゃないだろ
うしさ。っていうか、私達が狙われる謂れなんて何処にあるわけよ?」
 ぽつりと沙夜が腕を組みながら唸るのを、やや声高に環が頷きながら繋げる。
 二人の言う通りだった。目的も理由も語られる事はなかった。それよりも早く氷の能力の
脅威であわや全滅に近い状態まで追い込まれたのだから。
「……あの時の鉤爪の人なら、犯行を見られた口封じって事になるけど。でも違うよね? 
そもそもあの人は捕まったんだし……」
「じゃあさ。実はあいつはその鉤爪男の仲間で、代わりに……」
「いやさ、だから捕まっているんだから、口封じはもう意味ないじゃん」
「じゃあ、仕返しとか?」
「じゃあって何よ、じゃあって……」
 陽菜子から晴市、晴市から彼と環のやり取りへ。しかし確かな動機など知らない一同にし
てみれば結局は全て推測の域を出ない。
「……理由の類は、今は置いておけ。それよりも大事なのはまたあいつらと出くわした場合
に備えての事だろう?」
 その混線を、篤司が整理に掛かる。普段無愛想な表情の彼だったが、眼付きは生来の鋭さ
とは別に真剣な色を宿している。一撃を入れられず手痛い反撃まで受けた悔しさだろうか。
「少なくとも、まともにやり合うのは止めておいた方がいいね。あの時はハル君の能力や、
途中で三枝刑事……だったか、彼が通り掛かってくれたから良かったものの」
「あぁ。今度があるとすれば、相手も晴市の能力には警戒してくるだろうから、この前みた
いに不意打ち的に一撃を入れられるかすら怪しい」
 今度があるとすれば。それはあの青年が、晴市の能力を「厄介だ」と邪魔がっていた様子
があったからこその仮定といえる。実際、三枝の介入がなければあの場で晴市を仕留める気
でいたらしいのはあの時の殺気で、六人共々が肌身に染みて確認済みだ。だからこそ、休日
のこの日、こうして何か対策はないかと集まった訳である。このまま二度と遭遇しないで済
むという保障は、中々見出せそうになかった。
「そ、それに、三枝さんがまた来てくれるわけじゃないもんね……」
「あぁ。幸運が重なっただけなんだよ、この前はな」
 変化球無しのストレート。再び皆は押し黙った。それでも、篤司は続ける。
「だから、無闇にやり合おうとするのは止す事だな。……あいつは、戦いに慣れている」
 そこには実際にぶつかっていた者が感じ取った実感が込められていた。
「それでも、相手が退いてくれるとは限らない。いざとなったその時の状況にもよるだろう
が、あいつの氷を退けつつこちらが逃げるというのが妥当か……」
「だとすれば、ハルがいないと無理じゃない? あの氷は私達じゃとても……」
「……ま、大丈夫じゃねぇか? あいつが厄介扱いしていたのは俺に対してだしよ。タマら
が直接標的にされる訳でもねぇんじゃ?」
 良くも悪くも自身がキーとなる。それを理解した上での晴市の発言であったが、篤司はち
らと彼を見遣ると、
「あまり楽観的になるのもどうかと思うぞ。他の俺達がお前を誘き出す為の人質として利用
される可能性は否定できない」
 人質と言われて心持ちぶるっと震える陽菜子や環、口元をぎゅっと結ぶ胡太郎の反応を横
目にしながらあっさりと晴市の見方を覆してみせる。晴市が少しむっとした表情になった。
「じゃあ……できるだけ、俺やお前が皆についておく方がいいって事か」
「できうる限りな。俺、沙夜、晴市。能力者には能力者を、といった所だろうか」
「……それでも、彼に対抗できうる保障があるのは、せいぜいハル君ぐらいだね」
「……あぁ。それでも何も用心しないよりは、マシだ」
 最後の一言は、あまり慰みにはならなかったようだ。皆がお互いを見遣ってどうしたもの
かと息を漏らす。見えない相手の恐怖だけが、静かに少しずつ膨らんでいくような感覚。
 篤司が、更に思案顔になる。
 更なる打撃となるだろう。それは分かり切っていた。それでもやはり言っておくべきだ、
そう判断した彼は更に口を開く。
「追い討ちを掛けるようだが、あの時襲ってきた能力者はあの氷の男だけじゃない」
「え? あ……そういえば」
 環がぎょっとする。あの時、自分達そっくりの姿に化けてみせた、あの智と呼ばれていた
女性に見せたリアクションのように。他の面々も渋面を見せていた。
「詳しくは分からないが、変装の能力……みたいなものだろうな。同じ手を使ってくるとは
考え難いが、今後も彼女がその能力で俺達に接近してくる可能性はあると思う」
 基本的に変装能力だけのようだから、直接的に攻撃されるような心配はないとは思うが。
そう付け加えた篤司は、自分自身にも積み重なる懸案に大きくため息をついていた。
「……厄介だよなぁ。あんなの、見分けられねぇぞ」
「だったら、何か予め見分けられるような用意をしなくてはいけないな」
「用意、ねえ……。合言葉とか?」
「あぁ。他には、偽者と混じった時の識別用に事前に身体にマークを書いておくとか……。
どちらにしても、相手に知られないようにしないといけないけど」
 こちらについては、割合対策案が出てくることとなった。直接的な脅威とは言い切れない
能力、という事もあったのかもしれない。だが、
「…………皆と会う度に、皆を疑わないといけなくなるの?」
 陽菜子のその言葉に、一同がはっとなった。
「仕方ないかも、しれないけど。辛いよ……そんなの」
 駄々を捏ねているとでも自責しているのだろうか、彼女はグスッと涙目になりながらも、
そう消え入るような声で自身の思いを打ち明けていた。それぞれが彼女の言葉に適当な返事
すら返せなかった。そして知った。直接的な脅威ではないかもしれない。だが、互いの心理
に働きかけ、内部崩壊を起こさせられるという脅威──長い間、信頼できる仲間として育ん
できた絆を攻撃されかねないという何よりも大きな脅威を。
「……そうした確認は、必要最低限に留める。それでいいか?」
 重たい声色で篤司が妥協的な案を口にした。皆も、それぞれ小さく頷いて同意する。それ
と同時に、六人は同じ思いを抱いていた。
 この謂われない脅威に、負けてはいけないと。
(…………)
 誰しも声に出さなかったが、それは伝わって来た。陽菜子はまだ自然と出てきてしまった
涙の濡れを拭いながら、皆の団結が作られようとしている事に安堵の想いと、そして脅威に
よってそれが成されるというのも皮肉だなという物悲しさの両方を覚えていた。
(……?)
 ふと、視線を移した時、違和感が彼女を襲った。
 皆が神妙な面持ちでいる中、何故か胡太郎の表情に目が止まったのだ。一見すると皆と同
じようにこれからの苦労を思い描いているのかとも見える。しかし、彼女の目にはそれとは
何処か違うものを彼から感じ取っていた。
 何だろう? 決意のような、でもそれはもっと別の、遠くを向いているような……。
 周りの時間がゆっくりと動いていくような錯覚を覚えた。時間にしてはそれほど長くはな
かっただろう。しかし陽菜子にはそれがとても長い時間に思えた。
「……。どうしたの?」
「え? あ、ううん……何でもないよ」
「……そう」
 その胡太郎と視線が合ってしまった。遠くに在るような瞳がすうっとこちらへと戻って来
るように僅かに揺れたような気がして、次の瞬間には彼はこちらに向かって微笑んでいた。
 いつもの、穏やかで優しい、ほっとする笑顔。
 しかし、それでも陽菜子は何故かこの時ばかりはその瞳を真っ直ぐ受け止める事ができな
かった。特に追求される事はなかったが、そっと胸に手を当ててみると、心臓がいつもより
も激しく動いている事に気付いた。
「さて、じゃあこれまでの話を纏めようか──」

 
 それから今後の方針を纏め、解散した頃には時刻は昼下がりを少し過ぎていた頃だった。
 深森家の前で篤司、そして帰宅が反対方向の沙夜と別れると、胡太郎達四人はその足で再
び来た道を戻り、アーケード街を抜けて住宅街に、新條・飛鳥部家の前にまで戻ってきた。
「それじゃあな」
「また明日」
「うん、また」
 三人に見送られて、胡太郎がその場を後にしようとする。
「こ、コー君……」
「ん? 何?」
 それでも陽菜子はずっと漠とした違和感を抱えていた。背を向けようとした胡太郎に、つ
いか細く声を掛けてしまう。胡太郎はいつもの穏やかな表情のままで振り返ると、彼女から
来るであろうと返事を待つ。しかし、陽菜子は何を言ったらいいか分からずに、もやもやを
胸に抱えたまま、
「な、なんでもない……。き、気をつけてね」
「? うん。ありがと」
 先程までの集まりは結局、相手の襲撃のチャンスとなりかねない単独行動を慎み、いざ出
会ってしまったら無理に対峙しようとせずに逃げに徹するという、防戦一方な注意喚起の場
に終わった。その時の警戒感を説かれたと思ったのか、胡太郎は少しだけ真面目な表情を作
って頷いたが、それ以上に彼女に心配させまいとした笑みの方が印象的だった。
 陽菜子は「うん……」と俯きながら小さく頷き返すしかなかった。
「…………」
 背を向け、曲がり角を曲がって見えなくなっていく胡太郎の姿。陽菜子はその後ろ姿をじ
っと遠くから見つめていた。獏とした何かにそうさせられるように。
「ヒナ? どうしたの?」
「おい、さっさと中入れよ」
「……あ、うん」
 その姿に、環と晴市が少し訝しげに見つめながら声を掛けてくる。陽菜子はその二人の声
に、ようやく振り解かれるようにして兄と共に自宅の中へと消えていく。
「──ッ! むぐっ……!?」
 曲がり角の陰で、胡太郎が突然何者かに背後から襲われ、鼻と口に湿ったハンカチを当て
られて身動きが取れなくなっている事など、知る由もなく。
(…………)
 辛うじて見上げた視界に映り込む、自身を囲む数名の人影。
 胡太郎はその姿と、先刻の集まりで篤司らが話していた警戒の言葉を頭の中で呼び起こし
ながら、その意識すらも急速に暗闇の中に落ちていくのを感じていた。

 玄関のチャイムが鳴った事に気付いたのは、抱えていた原稿が一通り脱稿し、書斎の椅子
の背もたれに寄り掛かって緊張した身体をぐぐっと解していた時だった。
 客か、誰だろう。幸志郎は息子が出てくれるかと思ったが、すぐに今日は昼前から友人宅
へ出掛けている事を思い出して腰を上げた。デスクトップ・パソコンの時計表示を確認、時
刻は昼下がりといった所。息子が帰って来るとしても少し早いような気がする。その間の無
反応の為だろう、ややあってもう一度チャイムが鳴る音が聞こえた。
「あ、はいはい。今出ますよ」
 席を立とうとして、ふと机の上に雑多に重ねられた、紙面や書籍などの執筆用の資料の山
が目に入る。書斎に入ってくる事はないだろう。そうは思っていても、つい幸志郎はそれら
を一度束にして持つと、トントンと机の上で端揃えして整えてから書斎を出ていた。
 廊下を出て、一度曲がってそのまま玄関先へ。
 丸い小さな覗き窓を覗き込んでみると、そこに見慣れた人影を確認できた。すぐさまチェ
ーンロックと施錠を解除して、ドアを開いて迎え入れる。
「やぁ、こんにちは。陽菜子ちゃん」
「……こ、こんにちは。おじ様」
 もじもじとしながら一人玄関先に立っていたのは、新條陽菜子、息子の幼い頃からの親し
い友人の一人だった。相変わらず雰囲気が引っ込み思案さを窺わせている。
 何の用だろう。確か息子は、彼女を含めた友人達と出掛けると聞いていたのだが……。
「あの……」
 内気な所は小さな頃からそうだったが、どうも今日の彼女はいつにも増しておどおどして
いるように見えた。否、というよりも彼女自身が落ち着かない何かに追い立てられているか
のような。漠とそんな印象を受ける。
「コー君、いますか?」
 こくんと勇気を振り絞るように顔を上げ、彼女がそう訊ねてくる。
「いや? まだ帰って来ていないよ。てっきりまだ君達と一緒だと思っていたのだけど」
「……そ、そうですか」
 半分は幸志郎自身への反問に近かった。
 彼女がここまで来ているという事は、既に集まりは解散しているのだろうか。しかし息子
はまだ帰って来てはいない。そもそも何故、彼女がそれを確認しにやって来たのだろう。
「まぁ、大方何処かで道草でも食っているのじゃないかな?」
 しかし、幸志郎はそれを深くは考えなかった。
 基本的に、息子には束縛しないように接してきた。それに時間帯にしても休日である事に
しても、何処かをぶらついている可能性は十分あるだろう。
 一見するとぼうっと、何かをじっと考え込むような所があるのは、自分の血か、物書きと
いう仕事する背中を見て育った為か。嬉しいような悲しいような。
「何だったら、帰って来るまで上がって待っているかい?」
「え。あ、その……」
 面白いぐらいに彼女が動揺したのが分かった。それでも幸志郎は特に気に留めなかった。
彼女のように友人達が家にやって来るのは今となっては珍しい事ではない。
 何よりも、一時は自分から周囲と距離を取っていた息子が家に招くような友人を作れたと
いう事が密かに親心として嬉しかったというのもある。
「……じゃ、じゃあ、お邪魔してよろしいですか?」
「ああ、いいとも。ささ、立ち話も何だから上がって上がって」
 遠慮だろうか。最初は迷いを見せていた彼女だったが、やや間があって、控えめにそう言
ってくる。幸志郎はどうぞ、と彼女を中へと促した。靴を脱ぎ、廊下の横で首を上げている
階段の下でおどおど。幸志郎はキッチンの方へ向かいながら、
「あの子の部屋に上がっておいてくれていいよ。お茶がいいかい? それともコーヒー?」
「あ、いえ。お構いなく……」
 また遠慮がちに応えて、ゆっくりと階段を上っていく彼女を見送った。

「…………」
 ぱたんとドアを閉めてから、陽菜子は胡太郎の部屋を見渡していた。
 入ってすぐ右手には壁一面の本棚。割合に読書好きな彼らしく、色んな本が隙間なく収め
られている。陽菜子には難しそうな本もあるようだが、表題の部分を目で追っていく内に、
瀬尾幸志郎──彼の父の著作の小説やエッセイなども散見できる。
 反対側にはベッドとクローゼットなど。窓際には学校の教科書やペン立てが置かれている
机が、そして今自身が立っている部屋の入口周りにはテレビと、スケルトンタイプの背丈が
低めのテーブルと座布団。雑誌などが少々床に置かれたままになっているような事を除けば
整理整頓された部屋だと言えるだろう。
「……お兄ちゃんも、これくらい部屋を片付けてくれているとありがたいんだけどなぁ」
 そう呟いてみるも、何年も兄弟をやっているのでそれがおそらく無理な相談であるとすぐ
に分かってしまい、少しげんなり。そしてはっとなってふるふると首を横に振った。
 そうだ。別に部屋の視察に来た訳じゃないんだ。
 理由は、胡太郎から感じた違和感だった。或いは、必死に内にとどめようとする陰気さと
でも言おうものか。
 思い返してみれば、今日の彼はどうもおかしいと思っていた。路地裏での思い詰めたよう
に緑地公園の方を見つめていた姿。似た事はクスノキ亭でも一度確認できた。更に、篤司の
家での話し合いの際は、殆ど発言する事もなく、物静か(合いの手が少ないという意味で)
に何処か上の空だった、その場ではなく遠い何処かを見ていたようなあの瞳……。
(コー君は何かを隠している。何かを、悩んでいる……)
 それが、陽菜子が今日一日感じた彼への妙な違和感の正体だと結論付けた時、彼女は居て
も立ってもいられなくなっていた。自宅に帰ってから暫し。彼女は再び家を出て、こうして
彼の自宅まで来ていたのである。
 もし何か言い難い事で悩んでいるなら、何とかしてあげたい。
 以前、自分の悩みを聞いてくれたように。今度は私が彼の話を聞いてあげられたら……。
 もしかしたら能力絡み? お兄ちゃんが言い出せなかったように。だとしても、皆に囲ま
れるよりも、私一人での方が話してくれるかもしれない。……過信かもしれないけれど。
 よくよく考えれば、彼には色々と世話になってばかりだった。その度に礼を言いはするも
のの、彼は決して穏やかな表情を歪ませたり崩したりしなかったように思う。
 幸志郎は、まだ彼が帰って来ていないという。
 本当に何処かで道草を食っているのだろうか。だとしたら、また独りで何かを抱え込んで
いるのかもしれない。証拠などは無かったが、そんな想像がどんどん自分の中で膨らんで不
安になっていくのが分かった。抱え込んでいた事のある自分の言えた立場ではないが、
(私達、仲間でしょ? コー君……)
 彼の自室をゆっくりと歩いて周りながら、陽菜子は唇をきゅっと結んでいた。
 兄とタマちゃんの影に隠れながらではあったけど、自分達はあなたと友達になって、一緒
に遊んで、いつしか大切な仲間になって……。
 ずるいよという心の中の呟きと、同時にその押し付けがましさに自身で辟易の念を覚えて
陽菜子は重いため息をついた。ちょうどベッドの前に移動していたので、そのまま何の気な
しに、そのベッドの縁に座り込む。ボフンと幾許の反発が彼女を優しく受け止めてくれた、
そんな気がした。ふわっと、何かの匂いが漂う。
「…………。あっ」
 それが彼の匂いではないか。そう一端の思考が過ぎった瞬間、陽菜子は自分の身体中が猛
烈なスピードで熱くなっていくのを感じた。
 現在の状況=胡太郎(男の子)の部屋に一人きり。
 もし彼が帰って来ていたとしても、彼と二人きりという事。今までこの部屋へ遊びに来た
事は何度もあったが、それは全て兄や環ら仲間達と共にという条件付き。自分一人で彼の領
域といってもいい自室に、こうして乗り込んでいるという自分の大胆さにはたと気付いたの
である。カァァ……と頬が上気していくのが分かる。胸の鼓動も激しくなっていた。
(ど、どうしよう。わ、私いま凄い事しちゃって……いや、こ、これはその、コー君が心配
でそれで……。って、私な、なんでそんなにど、動揺しなくっちゃ……)
 俯いたままぶるぶると顔を横に振る。髪がその度にふぁさと揺れ動く。
 動揺と、それを何とか鎮めようとする心の中での自己弁護が代わる代わるに現れては消え
ていく。
 もし今、胡太郎が帰ってきたら彼女はあっという間に沸点を突破しただろう。
(も、もしかして、おじ様はこの事分かってて、コー君の部屋にあげたのかな……?)
 そんな内面の動揺と弁明が少しずつ治まりかけ、ふと陽菜子は新たにそんな事を思った。
まさかとは思うけど、だとすればおじ様は私の事を、コー君の……。
「あぅぁぁぁ……駄目駄目、駄目ですよおじ様。そ、そんなの早過ぎ……ん?」
 再び湯沸かし器みたいに身体中が火照りそうになって首を横に振り始めた、ちょうどその
時だった。ふと俯いていた視界に映るものが一つ。
 股の間から覗く、瓢箪の半分のような小さな丸っこい取っ手。
 左右、少しベッドを見渡してそれがベッド下の空間を利用して作られている、収納用の引
き出しのものだと分かった。そういう作りの多機能ベッドのようだ。
「…………」
一度、動きが止まったが、陽菜子は次の瞬間には幾許の好奇心からか、そっとその取っ手
に手を伸ばしていた。すーっと音がして引き出しが開く。
 中には折り畳んで詰められたタオルや、束ねられた靴下といった比較的かさ張り難い類の
衣類が少々。別段何かを期待した訳ではないというと嘘になるが、あまりに普通で少し拍子
抜けしたのも事実だったかもしれない。だが、
「? 何だろ、これ……」
 引き出しを閉めようかとしたその時、そんな小振りの衣類の中に一つだけ別のカテゴリな
物品が混じっている事に気が付いたのである。
 タオル同士の隙間から見えた青い角。何重にも重なった紙の束。
「……メモ帳?」
 それは少し大きめのサイズのメモ帳だった。
 こんな場所にわざわざ挟んでいるという事は日記か何か、プライベートなものかとも思っ
たのだが、ここでも好奇心が静かに彼女にそれを手に取らせる選択を選ばせる。
 表紙には特に何か題名が書いてあるわけでもない。しかしひっくり返して裏表紙を見てみ
ると、右端に小さく⑤とマジックで書かれているのが確認できた。
「…………」
 コー君、ごめんね。心の中でそう詫びながら、陽菜子はぱらりと頁を捲り始めた。
 頁の頭には日付。最初の頁のそれは今から二年ほど前のものとなっていた。裏表紙で見た
⑤という表記──おそらくこれが五冊目という意味──を考えても、どうやらこのメモを、
胡太郎は随分前からつけているのだろうと推測できた。
 その日付の下には、箇条書きで人名と色々な行動の一場面を記録したとものみられる記述
が数行。そしてその各項目には○や×、或いは△などの印が振られている。
(どういう意味だろう……?)
 人名の多くは陽菜子には馴染みのない名前も多かったが、適当にぱらぱらと流し読みして
見ると時折、自分達仲間の名前も散見できる。そしてそうしている内に、
(うーん……?)
 陽菜子は、奇妙な符号がこのメモには残されているのではないかと思い始めた。
 人名と場面を記述した数行の印付き覚書。更にその下には、胡太郎自身の感想などと見ら
れる文章が走り書きされていた。その内容は上段よりも詳しく、且つより内面的に見えた。
 例えば、
『五月二十日(水)
 ○新條陽菜子 俯き加減で僕と歩いている。何だか妙に恥ずかしそうにしている。
 ○新條晴市 ピッチャーマウンドの上で投球する姿。たぶん時間は朝方。周りが静かだ。
 △深森篤司 教室の窓際に寄り掛かっているいつもの格好を見かける。クラスの女の子と
目が合って避けられてしまう。
 ×吉沢栄太 教室で僕に話し掛けてくる様子。何かの雑誌……を片手に熱く語る姿。
 ○飛鳥部環 ドアに触れた瞬間、ビクッとなって飛びずさる姿。
 ×トシお婆ちゃん お婆ちゃんのやっている駄菓子屋で僕と話している姿』
 このような上段の記述が最初に箇条書きされており、その下に、
『ヒナちゃんから相談を受けた。友達が中々できなくて焦っているみたい。でも、僕らもい
るんだし焦る事ないって言っておいた。ちょっと楽観的過ぎるかもしれないけど、やっぱり
ヒナちゃんには笑っていて欲しいな。僕も、もっと人付き合いを考えないといけないかな』
『朝という時間の予想は当たっていた。ハルの野球部の朝錬だったみたいだ。僕も何か打ち
込めるものがあればいいんだけど……。でも運動はあまりなぁ』
『アツシはいつものように、一匹狼。悪い人じゃないのは僕らがよく分かっている所だから
いつ見てももどかしい気持ちだ』
『タマちゃんが飛び退いていたのは静電気らしい。屋上のお昼時の事』
『吉沢君は僕ではなく、別の子と熱心に話していた。雑誌を片手に』
『今日の帰りはヒナちゃんと一緒だった。結局トシお婆ちゃんの所へ寄り道するという可能
性は今回、外れたって事かな……』
 まるで先述の場面を振り返るような短い感想文が走り書きされているといった具合に。
 陽菜子はそんな態で書かれている頁を次々に捲り、それらに目を通していく。そしてその
中で疑問はどんどん膨れていった。
 一つ、ただの日記にしては表記の形態が変わっている事。二つ、項目毎につけられた印の
意味について。三つ、頁を捲る毎に散見された「可能性」が「当たった」或いは「外れた」
といった類の記述。
 これではまるで……「予知」を記録したメモではないだろうか。
 陽菜子は全身に鳥肌が立つのが分かった。自分の曖昧な予想、彼が何故あのように何処か
隠し事をしているように見えたという疑問があながち間違いでなかったのだと気付いた。
 実際の所は、彼に質さないと分からないだろう。だが、このメモは物語っていた。
(……コー君は、能力者だったんだ。それも、お兄ちゃんやアツシ君、サーヤさんよりもず
っとずっと前から……)
 ⑤以前のメモ帳はざっと部屋を見渡してみて見つからなかったが、少なくとも彼は数年も
の間、自身の予知の能力に勘付き、独りでずっとその内容を記録し続けていたのだから。
「……どうして? コー君」
 自然と、陽菜子の口からか細い声がこぼれた。
 最近になるまで能力者の事が分からなかったのは仕方ない。だとしても、ずっとこんな事
を抱え込むなんて。少しでも私達に相談してくれれば力になったのに。
 しかし、ふと仮に彼がそうしてくれた時、自分は彼を信じ切れていただろうかという疑問
もまた同時に湧きあがって来て、胸が押し潰されるような辛さがじわりと滲み出る。息苦し
いような感覚に襲われた。
 なんて、自分は無力なんだろう。自分からは悩みを相談までしておいて、彼が笑顔の裏で
隠し続けていたであろう苦悩や葛藤に、全然気付いてあげられなかった……。
 また、仲間達が能力に目覚めた事を知った時、彼はどんなに衝撃と幾許の安堵を、そして
再びせり上がって来る不安に襲われた事だろうか。
 途中、鉤爪男が篤司に襲い掛かる場面の「予知」も見つかった(ただ、記述の内容からは
胡太郎本人が突き刺さる瞬間に怯えて、途中で視るのをやめたようだったが)。
 陽菜子は悔しさや悲しさや辛さやらが入り混じった感情に震えさせられながら、一頁一頁
を丹念に捲って読み進めていった。そこには毎日の営みと、彼が「予知」した場面、そして
それらの正誤を振り返り、自分がちゃんとした感情を持つ──能力者という異質な者である
以前に一人の人間である事を確かめているかのようにも読み取れる彼のほぼ毎日に及ぶ日々
の記録と想いが綴られている。
 陽菜子は、目に涙が浮かんでくるのを時折拭いながらそれを読み続けた。そして、
「…………。え?」
 最後の数頁に差し掛かった時、彼女は今まで以上に目を見開いていた。
 僅かに漏れた声が部屋に吸収される。書かれた日付は数日前。ひょうたん池の前で氷の男
に強襲された翌日から始まっている。陽菜子はじっとそこからの記録に目を通していく。
 そして書かれた中で最後、つまり最新の頁。日付は前日だった。そこにはまだ下段の感想
の書き付けも皆無で印書きもない。つまり、これはまだ彼がまとめに入っていない、まだ現
実に起きたかどうかを確認していない予知である事を示すものだった。
「……た、大変!」
 こうしてはいられない。
 ごくりと息を飲み込み、陽菜子は慌てて立ち上がった。彼のメモも片手にしたままで。
 少しよろめいたが、そんな事など気に留める暇すらなく、ばたんとドアを開けて廊下へ。
階段を駆け下りると、ちょうど茶と茶請けを盆に載せて幸志郎がやって来る所だった。
「おや? どうしたんだい」
「あ、その……」
 反射的に後ろ手にメモを隠す。今は、事情を話している時間などなかった。
「待たせちゃってごめんね。お茶請けを何処に置いたか忘れちゃって」
「あ、いえ、お構いなく。その、もう帰りますから……」
「え? そうかい?」
「は、はい。お、お邪魔しましたっ!」
 多少大袈裟に、慌てていたという事もあったが陽菜子はぶんっと頭を下げて、足早に瀬尾
家を後にして駆け出していく。
「……何だろうねえ」
 その後ろ姿を見送りながら、幸志郎は独り小首を傾げていた。


(……うっ?)
 胡太郎が目を覚ました時、意識はまだ少しぼうっとしていた。
 ぼんやりと記憶を反芻する。そうだ、あの湿ったハンカチは……。
(眠らされたのか、僕は)
 テレビでたまに見かける人を攫う時のベタな手口。胡太郎はそんな記憶を呼び起こしつつ
次の瞬間、自分が後ろ手にロープのようなもので縛られ、コンクリートの柱に括りつけられ
ている事にも気が付いた。やはり自分は捕らわれの身となっているようだ。
 ぼんやりとした意識もだんだん復活してくる。それに併せて可能な限り周囲の状況はどう
なっているのかを確かめる事にした。ざっと見てみると灰色の地面、打ちっ放し。機材や箱
などが所々に設置され、置かれ、背の高い部分に交差状に筋金が入った窓ガラス。
どうやら、ここは何処かの工場か倉庫のような建物の中であるらしい。
 窓から注いでくる茜色の光を眩しげに確認して、あれから数時間は経っている事も分かっ
た。少し首を持ち上げて見てみると、外には無機質に立ち並ぶ工場や倉庫らしき建物の頭部
が幾棟も確認できる。
「……気付いたようですね」
 淡々とした女性の声。
 胡太郎がはっとなって声の方に振り返ると、背後の少し離れた位置に女性が一人立ってい
るのが見えた。その姿を見て、胡太郎は全身が警戒の音を鳴らし始めるのを自覚した。
「あなたは……」
「…………」
 その女性は、数日前にひょうたん池で自分達瓜二つに変装してみせた、能力者と思しき女
性だった。胡太郎が注意深く見上げたが、一言声を掛けただけでそこから動こうとはしない
らしい。感情を閉じ込めているかのような瞳でじっとこちらを見ているだけだ。
「おっ? 目ぇ覚めたか」
 すると、今度は反対方向、入口と思われるシャッターの方向から、物陰からにゅっと出て
くるように数人の人影がこちらに近づいて来た。ざっと数え、三人。
 その内一人は筋肉質の大柄な男、もう一人はやや痩せ気味で長髪の陰気そうな男、そして
残りの一人は、
「お前は……」
「やぁ、こんにちは。それとも久しぶり?」
 あの、氷の男だった。
 彼らもまた特に暴力を振るおうという気配は見せず、胡太郎とは少し距離を置いてこちら
を見ているようだった。考える。あの氷の男がここにいるという事は、やはり残りの四人は
彼の仲間と見て間違いはないだろう。
 胡太郎は氷の男に応える事はせず、じっと彼らを見返していた。氷の男はふぅと肩を竦め
るポーズの後、壁際に寄り掛かって静かに目を閉じた。
「ククク……ちょっと意外だね。こう、もっとギャーギャーと騒いでくれるかなと思ったん
だけどね」
「まぁね。でも大人しくしてくれるならそれにこした事はないよ」
 陰気な長髪男が口元をすぼめて小気味悪く笑う。それに氷の男は目を瞑ったままで落ち着
き払った声色で続ける。やはり、あの時自分を抑え込んできたのは彼らか。胡太郎は静かに
その言動から今の状況を読み取ろうと試みていた。
「んで? 奴ははまだ来ないのかよ」
「連絡はもう入れてあります。向こうの仕事が一段落ついたらしいので、その内来るかと」
「ふーん。じゃあもう暫く御守しねぇといけねぇのか……」
 筋肉質の男が、先の女性に問う。彼女は少し待ちくたびれたぞと言わんばかりの声色にも
何ら動じる事もなく淡々と事実を列挙するように返答していた。
 四人と胡太郎は、その後暫く黙り込んで過ごした。
 余計な事を口走って彼らから暴力でも受けやしないか、そんな事も考えたかもしれない。
何せ今は身体の自由を奪われた捕らわれの身だ。見下ろされる位置関係的にも、この四人と
自分では現在明らかな支配と被支配の関係が成り立っているのだから。
 それよりも、彼らの言っていた別の仲間とやらが気になった。
 自分を連れ込んだ彼ら。その内二人は能力者であり、事実として胡太郎達を同じ能力者の
素質──七年前の青紫の水晶体に接触した者であると認識した上で襲ってきた経緯もある。
 それでも彼らは晴市や篤司、沙夜の明らかになった能力者ではなく、自分を……こうして
連れ去って来ている。そして今の所、物理的に怪我を負わせるなどといった荒事には手を出
してきていない(といっても、拉致・監禁の時点で既に十分に犯罪行為なのだが)。
 とすれば、目的は単純に「他の能力者を潰す」という力技ではないという事だろう。少な
くとも、彼が待っている人物とやらがこちらに到着するまでは。……やはり、彼らの目的は
いまいち理解できない。それも彼らの待っている人物待ちという事か。
 では一体、その人物とは誰なのか? 否、もう……。
「お? 来たみたいだね。ククク……」
 ゆらりと、陰気な長髪男が振り返ってシャッターの先を見据えた。他の三人、そして胡太
郎も向けられた視線の方向へと目を遣った。
 コツコツと靴音が聞こえてくる。安物の靴ではないな。ふとそんな今はどうでもいいよう
な思考が横切る。四人が陰になってその姿は胡太郎の位置からは見え難い。ただ夕陽を背景
に伸びている影がこちらへと歩いてくる様子を伝える。
「まったく、遅ぇよ」
「…………」
 半開きのシャッターの下を潜ろうとしたその人物に、筋肉質の男が悪態をつく。話しぶり
からして彼らのボスではないのか。それとも単に相互を利用しているだけか。だとすれば、
不良の輩にしてはお似合いかもしれない。
 どうやら男性のようだった。だが、まだ背景の夕陽が逆光になって顔までは窺えない。彼
は筋肉質の男の言葉に耳を貸す様子などはなくそのまま無言で通り過ぎる。陰気な長髪男、
氷の男の両名をちらと見てから再びゆっくりとこちらへと近づいてくる。
 夕陽による逆光が、少しずつ男性から遠のいていく。
 胡太郎はじっとその姿を見ていた。彼の横で、感情に薄い女性がほんの僅か、御愛想程度
にしかならない小さな頭だけの礼で男性を迎える。そして対する彼もそんな態度には既に慣
れているのか、こういう女だと割り切っているのか、特に不快を示す訳でもなくちらと見た
だけで目立った応答はしない。
 胡太郎はその男性を見上げていた。眉根は自然とぐっと寄せられ、穏やかな彼に似合わぬ
睨みのような視線を向けようとしている。それにさえ無反応で、男性は近づいてくる。
 逆光が、完全になくなった。
 男性と胡太郎両者が、見下ろし、見上げる上下の構造の状態で相対する。しんと静まり返
った室内に、工場などの操業の音だろうか、遠くからゴンゴンと機械の駆動する音などが微
かに耳に入ってきて、緊張する意識を無遠慮に刺激していた。
「やっぱり……」
 口を開いたのは胡太郎だった。一瞬の、攻撃的な睨みはなりを潜め、そこには何処か失望
のような落ち込みの感情が宿った瞳による視線だけがある。
「やっぱり、あなただったんですね。三枝刑事」
「…………」
 確信を得た。そのように胡太郎は目の前の男性の名を呼んでいた。三枝は、彼の瞳が訴え
るものに気付いたのか、ほんの一瞬だけ眉根を寄せたが、すぐに厳しい仏頂面へと戻る。
 対峙が、始まっていた。

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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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