日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(雑記)過去からの重圧

('、3_ヽ.` ;:・∵゚.

長いようで短かった盆休みが終わりました。一つの区切りなのか、或いは単に台風が列島を
通過した余波なのか、再び暑さが緩んできたような気もします。まぁ夏の終わり、残暑期間
は残り半月ほどあるので、もう一熱波くらいは来るんでしょうけどね……。

盆の間、皆さんは如何お過ごしでしたか? 自分はほぼ全日に渡り執筆モードでした。
日が空きましたが、先日サハラ~の十六章をUPしました。8エピソード目後編です。先月か
ら始まったシーズン2もこれでお話が一つ終わり──されど放たれた刺客達の存在はこの先
長く尾を引くこととなります。
今回更稿の分量は、27000字弱。大分嵩みました。ドンパチシーンを含むからとはいえ、別に
それは前回にも当て嵌まりますし、何だか控え目と盛り目を繰り返しているような気がする
今日この頃……φ(=_=)-3

とりま、今月分の長編系も無事更新できました。おそらく一年最も暑く、集中が難しい月を
乗り越えられたかと思います。あづいあづいとウダウダ言ってましたが、何のかんので今や
中毒となった創作活動そのものは止められぬか。少々気が早いですが、秋の心地よい季節が
楽しみですね。残りの日数は、他の創作や久しぶりの遠出予定、作品の鑑賞(インプット)
に費やそうと考えています。

──しかしあれだ。先週末「盆休みだ! ヒャッハー書けるぞ!」と単純に喜んでいた自分
が甘かった。お盆なんだから仏壇や墓の世話があるっていうのに、てんで忘れていた。基本
そういうのは両親がやっているとはいえ、自分も最終日には墓参りに引っ張られていました。
暑い……。山の中、坂の上にあるのは勿論、照りつける日差しもあって体力よりも気力の方
がすぐに悲鳴を上げましたね;一応地味に筋トレなどはやっていても、日頃の体力不足は如
何ともし難く……。
加えて帰り道、通り雨にやられました。
急いで車に戻って墓地を下り、昼時だったので飯屋に入ったのですが、その直後はまぁじゃ
じゃ降りりでした。全身濡れてしまいました。まぁ所詮は通り雨、食っている内にむわっと
止んで蒸すくらいの晴れになっていたのが今度はそれはそれで小癪な感じ……(^ω^#)

年に一度、先祖の霊が帰ってくる日。
だけども考えれば考えるほど、自分には不可解に思えるのですよね。

(死んだのにまた戻って来る。じゃあ次の生はどうしたの? 成仏してないってこと?)

信心というものにはお世辞にも篤くない、衒学小僧の戯言です。


まぁ突き詰めてしまえば「面倒臭い」──ただその一言に尽きる訳ですが。

先日そうやって両親と共に墓参りに行った際、ぼんやりと、坂の上の墓地から眼下の町並み
を見下ろしながら思ったのです。
死しても尚、生前の縁を伝って帰省してくると云う。周り(の年配の人達)はそれを当然だ
とありがやと拝み、お祀りするのを“当たり前”としているけれど、これって死者・生者両
方にとってコスト(手間)でしかないよなあと。ご先祖様が私達を守ってくれているのよと
面倒臭がる度に説かれるのだけど、それは結局生きている側の都合じゃないのか? 霊魂と
いう概念を信じるのならば、いつまでも彼らを自分達の“システム”の中に捕らえ続けるな
んて、傲慢もいい所じゃないのか……?

そもそも僕らは死んだらその実どうなるのだろう? 仏教の考え方では人間界を始め様々な
世界を輪廻転生(そこから抜け出して極楽に行こうぜ!というのが基本的な教義)するし、
キリスト教やイスラム教など多くの一神教では死ねば天国か地獄へ一方通行、終末の日まで
生命は待機するので、転生という概念は無い。或いはもっとシンプルに、死後の世界なんて
ものはない、死んだら肉の塊、骨も何も消えてなくなるという唯物論に近しい考え方だって
信仰の種類・無神論者に限らず少なくはない……。
僕個人は、普段そこまでドライに考えている訳ではありません。確かにいわゆる霊感の類は
まるで持ち合わせていませんが、人間の視覚なんてのも結局は光で結んだ像を見ているに過
ぎませんし、もしかしたら僕らが“視える”のとはもっと別なメカニズムでないと知覚でき
ない存在──霊魂云々が在ったっておかしくはないのですから。

生命活動のある者はある者で、ない者はない者で、その各々の生(いま)に没頭すればいい
じゃないか。……どうせ凡人には逃れようもないのだから。輪廻、また何処かの世界・何処
かの生き物に生まれ落ちてめいめいの苦悩に延々苛まれ続けるのが生命なのだとしたら、或
いは生まれ直す事も許されず、地獄の釜に延々茹でられるような末路が生命なのだとしたら、
もうそれだけで(個人的には)いっぱいっぱい、次の生があるとしてその時にはもう前世の
記憶はクレンズされているのだとしても、もういち個人のメンタルとしては限界だと、僕の
瑣末な想像力では悲鳴が上がる──救いなんてないんだと思うのに、それに加えてやれ子孫
を守れだとか、お盆には帰って来い(しかも正味三日ほど)だとか、現世の人間とはちょい
と要求が多過ぎやしませんかね……?

『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません』とは
かの「千の風になって」のフレーズですが、僕はその通りだと思うです。墓を建てたり何か
につけて弔いの行事をするというのは、その実残された人間達の──もっと言えば坊さんが
食っていく為のものであって、まこと死んだ当人らのものではない。言ってしまえば故人を
偲ぶ気持ちさえ抱き、祈る気持ちさえあればいい訳で、そこに仰々しくシンボルを建てて盛
りをしてという必然性はない筈です。宗教の英訳はreligion──そこには「共同体が信じる
もの」というニュアンスが含まれていると、何かで読んだ記憶があります。個人ではない。
個人が期せず生まれ落ち、或いは移り住んだ先に既にあった、集団が抱え込む因習の類です
らあるのだと、僕は常々感じてなりません。

不敬な──そう眉を顰めるのは簡単です。ですが事実、これらの定型化されたスケジュール
を今日の人々がどれだけ「本気」で行っているでしょう? その他の冠婚葬祭、自治会の役
などを含め、多くの人はこれをコミュニティのしがらみと考えて内心面倒がっている筈です。
それでも「昔からそうだったから」とまだ田舎では、ゆるゆると衰えながら継続し、しかし
後世の若い人達の少なからずがそれ(と経済的不十分)を疎み、街へ出ていく……。
何代も昔はともかく、現在はもう個人の時代です。多くの場合信仰、祈る暇があれば働いて
生計を立てる事が先ず何よりで、寧ろそんな時代に「宗教」の話をすると面倒臭がられたり、
或いは宗教という名を借りたイデオロギーの輩・カルト絡みかと勘繰られて忌避されるのが
オチでしょう。実際、今日多くの人々にとっての宗教とは、何だか凝り固まった世界観で生
きていて、下手をすればそれを周りにごり押して日々を滅茶苦茶にするもの──程度の認識
で捉えられているのではないでしょうか?
(あくまで僕が日本人だからか。海外の方に「貴方の宗教は何ですか?」と訊ねると明確に
答えてくれるけれど、日本人は特にないと答える事が多い。それはそれだけ、僕らの大半が
普段は意識しておらず、しかしその実日々の生活や年中行事に深く根差しているからだと捉
えることもできるのですけど……)

少なくとも、宗教とはイデオロギーだ。僕はそう思います。もっと言えば世界観。この世界
をどう見ているのか、どう見たいのか、そしてどう見せたいのか。
この「見せたい」が厄介極まりないのです。信仰とはあくまで個人が生に行き詰まった時、
予めその答えを用意してくれている緩衝材であるのですが、それを他人にまで強制しようと
すれば、軋轢が起こるのは分かり切っているのに。なのに僕らは止められない。その自身が
抱えて拘る“宗教的”なものを他人に認めさせようと、本来もっとこじんまりであってそれ
以上であるべきではない姿へと変貌してしまう。争いを構成する大きな軸になってしまう。
(人は“信仰”こそ必要だが“宗教”は必要ないと云う言葉があります。まさしくこれだと
思います。祈りであって組織ではない)
こと、日本人にとってはそれが今も大きな禍根を残している。言わずもがな、かつての大戦
で散っていった先人達の「魂」だ。ある者はこれを国の礎となった英霊と呼び、またある者
は権力の暴走と理不尽の犠牲者だと言う。そんな捉え方、信仰(イデオロギー)、認識の差
が今日に至るまで人々の対立を作り続けている。大戦はもう七十年も昔の事だというのに、
あれは正しかった、いや邪悪だったと、今も人と(一部の)国を越えた諍いの火種として燻
り続けている。無神論者やアナーキスト達にとっては『くだらない』『存在しない』ことで
もって、延々と……。

安寧なんて無いじゃないですか。生きている者にとっても、死んだ者にとっても。
こんな事なら霊魂なんて信仰、なければよかった。
いや、そもそも霊魂と名付けた何かがあったから人々は弔い祈ったのか、それとも弔い祈る
姿を見ながら死んだから、過去膨大な人間達がその世界観を共有して逝ったのか……?

しばしば現代に生きる僕らの姿・文明を、戦死した人々の亡骸の上に立たせるという絵が登
場しますが、僕は寧ろ逆のように感じます。地上は広い。だけどもそれよりももっと膨大な
空から亡者──過去の人々が手を伸ばし、虚ろや怒りの眼を向け、今を生きる人々に絡み付
いている。その膨大な「過去という重み」で押し潰さんとしている……。

最初に言った通り、ぶっちゃければお祀り云々が面倒臭いというのが理由です。ただ言い換
えればそう形式として祀る手順や諸々の道具を設けることで、置き去りにしがちな先人達を
きちんと供養してなさい、という意図なのかもしれませんね。
でも僧侶の都合で、イデオロギーの都合で、今を生きている人々をできれば巻き込んで欲し
くないなあと僕は思うのです。煩わせるのを先にしたってなあと思うのです。熱心に静かに
祈る気持ちが育まれるよりも先に、その煩雑さやしがらみで厭になってしまう位ならば。

ただ祈りが在ればいい。静かで、個人の自由でいい。

それでは駄目なのですか? そんなに“箱”を設えなければならないのですか?

教えて、偉い人。


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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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