日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)ユーヴァンス叙事詩録-Renovin's Chronicle-〔7〕

「エトナを……捨てる?」
 ブレアの言葉の意味を、アルスはすぐに受け入れる事ができなかった。
 アルスも、エトナも、お互いの顔を見合わせる余裕すらなく、ただ唖然と肩越しに自分達
に鋭く真剣な眼差しを向けてくる彼を見遣るしかない。
「どう、して……」
「そ、そうだよっ。何で!?」
「何故? よく考えればお前らなら分かる事だろ?」
 たっぷりの沈黙。アルスはそう動揺に震える中で呟くのが精一杯だった。
 エトナと、離れ離れにならないといけない……? あの日からずっと一緒だった相棒であ
り家族である彼女と? 実感がわかなかった。それでも身体の震えが止まらない。
 当のエトナは対して弾かれたように問い詰めていたが、ブレアはあくまで冷徹な様子のま
ま続けた。
「お前たちが目指している研究は、魔獣や瘴気と切っても切り離せない。そんな環境の中で
持ち霊──精霊の連れなんぞを同行させてみろ。ただでさえ精霊族はマナに近く瘴気の悪影
響を受け易いんだ。……中てられて死ぬか、最悪その場で魔獣になっちまう可能性が高い」
「それ、は……」
「……お前の意気込みやら動機は把握した。だが、現実はそんな根性論で変わってはくれは
しないんだ。お前に、自分の持ち霊が魔獣になっても研究を続ける覚悟が……あるのか?」
 アルスは答えられなかった。
 確かにそのリスクがある事くらいは承知だった。
 でも実際にブレアの口からその天秤の選択を迫られたこの場で、アルスはすぐに決断する
事ができなかった。傍らで、エトナが不安そうな眼で自分を見つめているのが分かる。
 夢──目標が僕にはある。
 でもその為にエトナを捨てるなんて……。
「これは、俺なりの親切心のつもりなんだがな。俺だって魔導師の端くれだ。自分の持ち霊
が失われる事がどんなに辛いか、分からないわけじゃない。でもな、だからこそこう言って
いるんだ。瘴気に中てられて取り返しのつかない事になる前に自分から遠ざける。……論理
的に間違っている選択じゃない筈だぜ」
「で、でもっ!」
「……いいんだエトナ。先生の言い分は、理に適ってるよ」
「あ、アルス……?」
 ブレアの言葉が揺らぐ心を容赦なく打ち貫いていった。
 確かに理屈はそうかもしれない。でも自分達は──。
 エトナはそう言おうとしたようだったが、アルスは敢えてそれを制止していた。
 トーンを落とした戸惑いの声が振ってくる。アルスは俯き加減のまま、怖くてその顔を見
返す事ができなかった。
「流石は主席クンだ。あくまで冷静であるなら、俺の言っている事は分かるよな?」
「……はい」
 つまりこれが彼の言う条件なのだ。
 エトナを瘴気から守る為に、敢えて彼女を契約解除する(すてる)のか。
 それとも彼女との繋がりに拘った結果、その彼女を失う末路を取るのか。
 夢を追う──その為に自分の教えを請いたいのならば、その覚悟を示せと。
「…………」
 それでもアルスは決断できなかった。
 夢を追いたい。皆が瘴気や魔獣によって悲しまない世界を作りたい。
 でも、その為にエトナとの契約関係を解除する──彼女を切り捨てる選択を、アルスはど
うしても下せなかった。
「ま、いきなり決めろってのも酷だがな。そう焦ることはねぇさ。ゆっくり考えろ。邁進す
るのか諦めるのか。持ち霊を捨てるのか拘るのか。まだ希望届の締め切りまでは日がある。
よーく考えて決めることだ。……お前はまだ若くて、何より優秀な卵なんだ。もっと別の進
路だってあるんだって事も忘れるなよ」
「……。はい」
 アルスの声はとても弱々しく、か細かった。
 そして暫しブレアの肩越しの眼に晒されてから、アルスはのそりと踵を返してラボに背を
向けて歩き出した。
 その動きに慌ててエトナが、しかし掛ける声を見つけられずに後を追う。
 部屋を出て行く間際に彼女はキッとブレアを睨んでみせたが、対してブレア当人は意に介
さずといった淡々とした表情でその眼差しを受け流し、書物だらけの室内に再び腰掛ける。
「……ふぅ」
 再び研究室(ラボ)内は一人だけになった。
 夕暮れの日差しが無言で差し込む本の山の中、ブレアは届けるべき相手が去った中でそっ
と言の葉を紡いでいた。
「悪い事は言わねぇ。こっちに……来るな」


 Tale-7.ヒトとセカイの理

 イセルナの提案で、サフレとマルタの両名をクランの一員に抱え込んでから一夜。
 ジークはまだ少々身体に残る酔いと共に起床し、何時ものように廊下の途中にある手洗い
場へと足を運んでいた。
「よう。おはようさ~ん」
「おはよう。昨夜は寝れたか?」
 何時ものように、手洗い場には仲間達が集まり朝の身支度をしている光景がある。
 ジークが姿を見せると、彼らは何時ものように気安い挨拶を寄越してくれる。
「……ああ」
 だが、ジークにとっては何時ものようにはいられなかった。
 酔いの残り以上に心身を重くするもの。それは何よりも、昨夜自分達の身に起こったあの
襲撃事件──自身の愛刀を狙う存在がいるという事を知ってしまったからに他ならない。
 このまま朝食を取り、依頼をこなす動線故に今は六刀を身に付けてはいるが、そのもう慣
れ切った筈の鋼の重みが今朝は心なしか普段以上にずしりと身を引っ張るかのようだった。
 ぼんやりと受け答えをし、皆の中に混ざる。
「あ。兄さん……」
 そこには当然ながら、先に起きて同じく身支度をして顔を洗っていたアルスと、その傍ら
に漂っているエトナがいて。
「お、おぅ。おはよう」
「うん。お、おはよう……」
 ジークがその隣に立つと、アルスは何故かおどおどしたような、落ち着かないような様子
ながら、それでいて何時もの微笑を作ろうと努めているように思えた。
 内心頭に疑問符を浮かべつつも、ジークは正直弟のその変化に構ってやれる程の余裕を持
てていなかった。昨夜から、ずっと疑心が身体の中を這いずり回っていた。
 ──自分の刀はどうして封印などされていたのだろう? どうしてあの黒衣の一団は自分
達ですら知らなかった事実を把握していたのだろう?
「……」
 湧いては掻き乱し湧いては掻き乱してくる疑心を拭うように、ジークは蛇口を捻って強め
に水を出すと何度も冷たさを顔に叩き込んだ。
 それでも、ほんの一時的なもの。
 タオルに手を伸ばして顔を拭く頃にはまた同じように疑心や不安が纏わりついてくる。
(兄さん、やっぱり昨夜の事を気にしてるのかな……?)
 そんな兄の様子を、アルスも傍らで心配そうに見遣っていた。
 いや、この心配は……不安感は彼へのものか? それとも自身のものか? 多分きっと両
方が綯い交ぜになってしまっているのだろう。
 ただ悶々として落ち着かなくて。
 アルスはタオルに半分顔を埋めたまま、同じく思い悩む相棒(エトナ)の背後からの視線
を感じつつ密かに苦しむ。
 ──エトナを契約解除しろ(すてろ)。
 それがブレアの提示してきた、自分の教官になってくれる為の条件だった。
 しかしアルスはその条件を呑む事などできなかった。
 幼い頃、まだ自分が他人よりも導力に恵まれている事が分かる前に故郷の森で出会った、
初めてのヒトに並び立つ人格を持つ精霊(とも)。
 あの日、悔しさで狂いそうになった時も寄り添い、共に頑張ってきたそんなパートナーを
ようやく夢の入口に立てるようになった段階で切り捨てるなど……頷ける訳がなかった。
 それでもブレアの言うように、このままでは彼女を瘴気によって失ってしまうかもしれな
いという可能性は、最悪魔獣と化してしまうリスクは、否定しようもない事実だった。
 本当に彼女の事を思っているのならば。
 彼の言う通りにするのが、理に適った選択ではないのか──? そんな理屈が、訴える。
「……はむ」
 あれから日数だけが過ぎている。僕は、決めなければならないのに……。
 アルスはぐるぐると身体の中をのたうち回る迷いで重い気持ちになりながらも、のそりと
棚から自分のコップと歯ブラシを取り出すと歯を磨き始める。

 何時ものように朝食を摂りに酒場の方へを顔を出す。
 そこにはやはり、何時のように団員らがガヤガヤと冒険者らしい荒っぽさの中で雑談し、
食事を摂って店内に散在している光景があった。
 それぞれに思い煩いを抱えたまま、ジークとアルス(とエトナ)は互いを見合わせる余裕
もなく、ただ言葉少なげにテーブルに着く。
「おはようございます。はい、どうぞ。……それと、アルス君にはお弁当ね」
「……ああ」
「あ、はい。何時もありがとうございます」
 ややあってレナが二人分の朝食を運んで来てくれた。
 厚切りベーコンを乗せたパンにコーンスープ、山菜のサラダ。そしてホットミルク。緩く
適度に温められ、上がる香りが鼻をくすぐる。
 加えてアルスに手渡されたのは弁当包みだった。
 何日か前から始まったお昼の弁当習慣。アルスがぎこちなく小さく頭を下げて受け取るの
を見ると、レナはちらと肩越しにカウンター席にいたミア──この弁当を作ってくれている
本人を見遣り、優しく且つお節介気味に「やったね?」といった感じで微笑んでいた。
「あんまりのんびりしてたら、遅れるぞ」
「う、うん。そうだね。……いただきます」
 ミアは照れたように眉根を寄せて、給仕を終えてこちらに戻ってくるそんな友を見返して
いたが、ジークはそれでも意識は何処か上の空だった。
 ぼそっと一言、視線も向けずにパンを千切って口の中に放り込み始める兄。
 そんな横顔と声色にやはり気まずく、綯い交ぜになる物思いが心苦しく、アルスは苦笑い
を作りつつそれに続いた。
 何時も通りに丁寧に味付けされた、美味しい筈の料理。
 だがブレアからのあの言葉以来、こうした一時ですら気分が重く感じられてしまう。
「で、飯は基本的にこっちの酒場で摂るんだ」
「ハロルドさんが店主(マスター)をやってんだよ。うちのクランの副収入だな」
「俺達も回り持ちで何人かヘルプに入ってる。お前もここに慣れたら面子に入れるからな」
 そうしていると、また宿舎の方から店内に数名の団員らが入ってきた。
「分かった。料理……か」
「大丈夫ですよ。お手伝い程度ならマスターにもできます」
 そんな彼らが連れていたのは、サフレとマルタだった。
 どうやらクランの新人として皆にここでの生活を色々と教えて貰っている最中らしい。
 フリーランスの冒険者生活に自炊は馴染みがなかった(基本的に点々と宿を変えるため)
からか、サフレは少し不安そうに僅かに眉を顰めていた。そんな主を、ほんわりと微笑んで
マルタが励ましている。
(……主従、か)
 アルスはぼんやりとそんなフレーズを思いながら、もきゅもきゅとパンを咀嚼していた。
 自分も、エトナとは契約関係でいえば似たような間柄になるのかもしれない。
 ちらと視線を上げてそのエトナを見遣ってみる。彼女はやはり自分と同じくぼうっと物思
いをしていたようで、やや遅れてからこちらの視線に気付く。
「しかし……本当に良かったのかい? マルタ君と同じ部屋で」
 だがそんな場の雰囲気も次の瞬間、彼らの分の朝食をカウンター上に出しながらそう訊ね
てきたハロルドの言葉にはたとざわめく事となった。
「何ぃ!? 聞いてねぇぞ!?」 
「ほ、本当なのか? サフレ……?」
 団員らは知らなかった事らしい。彼らはハロルドのその一言を耳にすると、一斉にサフレ
へ詰め寄り始める。
「ああ。旅先でもそうして来た。宿代の節約にもなるしな」
「なんてこった……。折角の新しい女の子が、また本命持ちだなんて……」
「しかも既に金髪イケメンの毒牙に掛かっていた。欝だ……」
「失敬な言い方だな。マルタは僕の従者であって、そういう関係では」
「そうですよ? そもそも被造人(わたしたち)に生殖機能はありませんし」
「……マルタ。お前は少し黙っていくれ」
「ふぇ? でも事実ですよ?」
「それはそうだが……。た、頼むから誤解を招くような発言は……控えてくれ」
 サフレ自身は変に勘繰られることに眉を顰めていたが、むしろ当の彼女自身のヌケた言動
に苦慮していた。
 好意と忠誠があるからこそなのだろう。しかし彼は、頭に疑問符を浮かべつつも了承する
彼女に少し歯切れを悪くしている。
「……あんまりサフレを弄るもんじゃねぇよ。昨日の今日なんだ。先輩(おれたち)がいき
なり寄って集って困らせてどうすんだよ」
「う、うるせぇ! お前には……お前だけには言われたかねぇよぉぉ!」
「そうだよ、お前はいいよ。レナちゃんやミアちゃんや、ステラちゃんまで……ぐすん」
「……。何を言ってるのか分からんが、とりあえず八つ当たりされてるのは分かった」
 ジークがそんなやり取りを遠巻きに見てぽつりと苦言を呈していたが、逆にシンクロした
反応を皆に返されて心持ち逆襲されていた。
 理不尽な。そう言いたげに呆れ顔で押し黙ると、ジークはくいっとミルクを喉に流す。
「そういやジーク。お前、今日の予定空いてるか?」
 するとそれまでカウンター席に着いて一服をしていたダンが、ふと声を掛けてきた。
「ええ。空いてますよ。……ちょっと調べ物がしたくて」
「そうか。じゃあ飯食ったらサフレ達と一緒にギルドに行って、こいつのクラン参加申請を
して来てくれねぇか?」
「俺が、ですか? でもそういうのって団長とかが立ち会う方がいいんじゃ……」
「イセルナはリンを連れて病院に行ってる。ハロルドが回復魔導で傷を塞いだとはいえ、怪
我人には変わりないからな。俺も抱えてる依頼が立て込んでて時間が取れねぇし。そもそも
お前は発端だろ? 二人の面倒くらい見てやれ」
「そういう事なら……。了解ッス」
 ダンが椅子を回して話すその頼みを、ジークは頷いて受け入れていた。
 そんな二人のやり取りを、事の発端の片棒を担がされた者として、リンファを負傷させた
張本人としてサフレ(とマルタ)は言葉なくバツの悪い表情(かお)で見遣っている。
「なら、僕も同行しよう」
 そして一連のやり取りを見ていた、別席のシフォンもそう申し出た。
 食後の紅茶を嗜みながら、ゆったりと落ち着いた声色で言う。
「要は参加するクランの誰かが──特に古参メンバーが立ち会っているのが望ましいってい
う事だから。僕も創立メンバーだし、事務局の方からも難色は出ないと思うよ」
「それはありがてぇ。よろしく頼む」
 悩みの気色も、仕事の話となるとジークは表情を心持ち潜めさせられるように思えた。
 或いはそれだけ、今回の襲撃騒ぎの件で責任を感じているのかもしれない。
(責任、か……)
 アルスはそう兄達がやり取りをしている間にも食を進め、最後のパンの欠片を咀嚼し飲み
込んでいた。ぼんやりと、日々起こる事態に対処していく彼ら冒険者という存在が自分には
眩しく思える。
「アルス。そろそろ出ないと……時間」
「えっ。あ、本当ですね。そろそろ出ます。ごちそうさまでした」
「うん……後はボクが片付けておくから」
「はい。ありがとうございます」
 すると、レナと共に給仕に回っていたミアが少し逡巡しつつ声を掛けてきた。
 言われて懐中時計を取り出して確認してみれば、確かにそんな頃合。
 弁当包みを足元に置いていた鞄の中に詰め、持ち上げ肩に引っ掛ける。
「じゃあ……。行ってきます」
 そしてジークやミア、場のクランの皆の声に送り出されて。
 アルスはエトナを伴い小走りで駆け出しながら店を後にしてゆく。

 息が、歩みが弾む。しかしそれらは爽やかではなかった。
 ホームを出発してアウルベルツの街中を、ここ一月近くで通い慣れた学院への道を行く。
 大通りに差し掛かり、往来が増えてきたのに合わせるようにアルスは徐々に小走りの足を
緩めて徒歩になっていった。時刻はまだ朝方なのだが、通りには既に中々多くの人々がその
人の波という全体を作っている。
「……」
 往来の中で、そっと目を凝らしてみる。
 すると目に視えるのは、中空を漂う千差万別な精霊達の姿だ。
 一見すると何かのマスコットのような。比率的なことを考えても彼らは皆中級・下級の部
類に属する精霊達だろう。
 こうして人々が文明を営む中でも、彼らは確かにそこに在る。
「アル、ス……?」
 急に立ち止まってぼんやりし始めたからだろう。はたとエトナの控えめな心配の声が振っ
てきた。アルスは彼女を見上げ、静かに苦笑だけを返して再び歩き始める。
 色々と考え過ぎているのかもしれない。
 僕はただ、救いたかった。ヒトだとか精霊だとか……そんな線引き以前に。

 思えば、それはエトナと出会った頃には既に始まっていたように思う。
 故郷(サンフェルノ)近くの森。よく兄さんや村の皆と遊びに行っていた森。
 僕はその森が大好きだった。
 空気が美味しい、緑の豊かさが目に優しいというだけではなくて。
 そこにはたくさんの精霊達を視ることができたから。
 千差万別の姿をした生命(いのち)の化身達。
 だからなのだろう。皆の穏やかに漂う姿を見ていると、僕もまた心穏やかに微笑ましくな
ることができた。
 あの頃の僕はリュカ先生に教えて貰うまで、自分が見えているそのセカイが他の人には見
えていないという事に中々気付けなかった。
(……あ。またあの娘だ)
 時分はちょうど、リュカ先生に僕の導力を調べて貰った頃だったと思う。
 村の中で数少なかった“視える”僕は、森へ遊びに行く度にしばしば目にしていたものが
あった。
 それは、一人の女の子。
 踊り子風……といえば良いのだろうか。ふわりと若干余裕のある、上着と切り取り袖と腰
に巻きつけるタイプのミドルスカート。ちょっと当時の僕からすれば(今でも時々思うのだ
けど)露出が多いかなと思える格好だった。
 しかし何よりも気になったのは、彼女が淡い緑のオーラを纏っていたこと。
 そして──見かける時はいつも、森の中でも一際年季の入った大樹の上に座っていたとい
う点だった。
「……兄さん、皆。ちょっと待ってて」
「? おう」
 森を訪れその大樹の近くを通り掛かる度に見かけたその姿。……いつもぽつねんとして、
寂しそうにしていたその姿。
 だからあの日、僕は意を決して彼女に話し掛けてみたのだ。
「あの~。お姉さん、どうかしたんですか?」
 僕はあくまでごく普通にそう言ったつもりだったのだけど。
「えっ!? き、君。私のこと、視えてるの……?」
「は、はい。見かける度にいつも一人だから気になって……」
「……そ、そうなんだ」
 彼女はとても驚いていたようだった。
 だが僕が視える人間だと言葉の端から察してくれたようだった。目を見開いて僕──正確
にはその後ろで頭に疑問符を浮かべている兄さん達を含めた皆──を腰を降ろしていた枝の
上から暫く見下ろすと、彼女はふわりと重力などものともせずに舞い降りてくる。
 緑のオーラが綺麗だった。そして何より僕以外に彼女は見えていない。
 やっぱり……彼女は精霊だったのだ。それも、僕らヒトと大差ない姿をし、言葉もきちん
と口頭で通じる程の力を持つ。
「君……名前は?」
「えと。アルス・レノヴィンです。で、こっちが兄さんのジーク。それから──」
 僕と彼女はこうしてようやく接触を果たした。
 心なしか、自身の存在に気付いてくれた事に嬉しそうな表情(かお)。だから僕も勇気を
出して話し掛けてみてよかったと思えた。 
「……ねぇ。その、やっぱり君──アルス以外には私のこと、見えてないんだ?」
 でも彼女はフッとそう言ってやっぱり寂しそうで。
「は、はい……。僕の方が特殊みたいなんです。導力が他人よりも高めだから」
「アルス、さっきから何ぶつぶつ言ってんだよ~?」
「早く遊ぼうぜ~」
「待てよ。……アルス、そこに精霊がいるんだな?」
「うん。緑のお姉さんが一人、この樹から降りて来てくれた所」
 だから、僕は思った。
 痺れを切らしつつある皆を窘めてくれる兄さんに頷き返しながら思った。
 彼女は……独りだったんじゃないだろうか?
 勿論、他の精霊(どうぞく)もいっぱいいる。だけどこれだけ僕らと普通に話ができるだ
けの自我を備えた精霊ともなれば、それだけではやはり寂しさを覚えてもおかしくない。
「……ねぇ、お姉さん。もし良かったら僕らと一緒に遊びませんか?」
 だから、僕はそう決心して語り掛けていた。
「え。でも、私……」
「大丈夫です。素人判断ですけど、これだけ話せればきっと顕現もできると思いますし」
「……う、うん」
 ケンゲン? 兄さん達は小首を傾げていた。
 でも僕には半ば直感的な確信があった。
 力ある──大抵の場合ヒト以上の自我も持っている精霊は、自分の意志でその姿を見せた
り消したりすることができる。魔導の入門書で得た知識だった。
 彼女は少し戸惑っていたものの、何度か両手を開いたり閉じたりしていた。
 顕現の経験があまりなかったのだろう。だからこそ人恋しそうな風に僕には思えたのだ。
「──……」
 そして、ふわっと優しい微風が吹いて。
 次の瞬間、彼女は僕らの前に顕れていた。
 兄さん達が「おぉっ!?」と驚きと感嘆の声を上げる。
「ど、どうかな? 私、皆に視えてる?」
「はいっ。バッチリです」
「ああ。そんな姿だったんだな」
「おー……。すげー」
「へぇこれが精霊かぁ……。オレ達とあんまり変わらないんだなぁ」
 僕と違い精霊を直に視る経験がなかったので、当然といえば当然の反応だったのだけど。
 暫し僕らは彼女の顕現の成功を前に、少々様々な反応で色めき立っていた。
 少し恥ずかしそうに苦笑する彼女。でも、僕にははにかんで嬉しそうにも見えた。
「よし。じゃあ、ねーちゃんも混ぜて遊ぼうぜ。いいよな? あ。えっと……」
 ややあって兄さんが皆をまとめるようにして言う。
 だけど、僕らはまだ肝心の事を──彼女の名前を聞いていなくて。
「? あぁそっか。私、まだ名前教えてなかったね」
 笑う。今度こそ嬉しそうに。人と繋がれて嬉しそうに。
「私は樹木の精霊・エトゥルリーナ。……呼ぶ時は、エトナでいいよ」
 その言葉に僕も兄さんも皆も、口々によろしくと笑って一つの輪になって。
 それが僕らの彼女との、エトナとの出会いで。

「──ア~ル~ス~!」
 はたと意識が幼少の光景から現在(いま)に戻ってくる。
 呼び戻してくれたのは、今や随分と聞き慣れた声だった。
 学院の建物が見える辺りまで、正門に続く坂道の途中を歩いていたアルスはその声のした
後方に振り返る。
「いよっ。おはようさん」
「おはよう。アルス君」
 あれから何年もの年月が経った。あれから友となったエトナも、魔導を学び始めた自分の
持ち霊になりたいと申し出てくれて契約を結び、僕らは今に至っている。
 アルスは思った。変えたくなくても、僕らは何処かで変化を続けているものなのだと。
 それは他人との出会いであるかもしれないし、或いは別れなのかもしれない……。
「……おはよう。フィデロ君、ルイス君」
 心持ちトーンは落ちても、物腰だけは穏やかに。
 内心の煩悶や思考を紛らわすように、アルスは駆け寄ってきた学友二人にフッと笑みを返
すことに努めていた。


 朝食を摂ってからの午前中。
 ジークとシフォンはサフレ、そしてマルタの両名を連れてギルドにやって来ていた。
 相変わらず冒険者(どうぎょうしゃ)で賑わっている館内。ジーク達はそんな一種の荒々
しい空気の中、窓口へと歩を進める。
「え~っと。うちのクランの新入りを登録しに来たんですけど」
「クラン加入ですね? では既存メンバーの方のカードを提出下さい」
「僕だね。どうぞ」
 窓口の職員からそう言われ、シフォンが自身のレギオンカードを差し出した。
 それを受け取り、窓口の彼女がリーダ機器に通してデータを確認。背後に広がるデスクで
で事務をこなしている他の職員らもにわかに手先が慌しくなる。
「……はい、確認しました。クラン・ブルートバードですね。では新規加入の方はこちらの
書類にご記入を。カードも提出下さい」
「はい」「分かりました~」
 次いで差し出されたのは、青いボードにクリップされた数枚重ねの申請用紙。
 サフレとマルタは自分達のレギオンカードとそれらを交換するように受け取ると、窓口に
置かれている筆立てからペンを取り、必要事項を埋め始めた。
(……?)
 だが、すぐにジークは一抹の変化に気付く。
 サフレのペン先が止まっていたのだ。見てみれば、出身地や名前の欄のようだった。
 そういえば二人がフリーランスの冒険者とは聞いていたが、何処の生まれなどかは聞いて
いなかったっけ……。
「……マスター」
「問題ない。何時も通りに書いてくれ」
 その様子にマルタも気付き、声をを掛けていたが、サフレはあくまで平静な表情を崩さず
にそれだけを言うと、再びペン先を動かし始める。
 名はサフレ・ウィルハート。
 出身地はフォンテイム。レスズ都市連合──概して独立独歩の気風が強く、都市国家が乱
立している東方においてその覇権を握っている、有力領主らの連合体──の領内である。
(こいつらは東の出か……)
 カリカリとペンを走らせて二人が書類に項目を埋めていく。
 そんな彼らの様子を傍らで見守りつつ、ジークは暫しぼんやりとする。
「ジーク。そっちは任せたよ」
 するとシフォンが、職員から返却されたレギオンカードを受け取りながら言った。
「ん? ああ。もしかして依頼持ってたのか?」
「いや……そうじゃない。ちょっと資料室に行っているよ。調べ物があるんだ」
「そっか。分かった」
 ジークははたと気を遣おうとしたが、そういう理由ではないらしい。
 書類にペンを走らせていたサフレとマルタ、そして頷いたジークに静かに微笑を残すと、
シフォンはゆたりと踵を返して、がやがやと雑音を奏でている冒険者らの人ごみの中へと消
えていく。

 館内の一角にある資料室は、ラウンジとは違いしんと静まり返っていた。
 先ず何よりも全身の感覚に訴え掛けてくるのは、年季の入った紙やインクの臭い。
 一応検索用の端末は設置してあるが、そのスペースの規模を遥かに上回る紙媒体の資料が
ずらりと並ぶ本棚の中に詰め込まれており、何処か無言の威圧感さえ漂わせている。
(……さて、と)
 室内をざっと見渡してみても、人の姿はせいぜい数人。
 シフォンは漂ってきた空気に気持ちを引き締めると本棚の山へと歩き出す。
 先ずは保管してある中からここ三ヶ月間の新聞を見た。日付を確認し、その内一枚を取り
出す。そこには『結社・鉱山都市でテロ』の見出しが躍っている。
 次いでそれを片手にしたまま、端末の前に座って操作し、検索を掛ける。
 ──結社“楽園(エデン)の眼”
 そうキーワードを打ち込んで、シフォンは表示されたアーカイブの数に内心驚いていた。
 魔導で映された画面を、半球状の機器に手を乗せて転がす事でスクロールさせていく。
最近起きた事件ではほんの数日前に、もっと古くを遡れってみれば十年や二十年──いや百
年単位での記録が残されている。
(思っていた以上に暴れ回っているらしいな……)
 流石はレギオンだ。こういった荒事に対する情報網はかなりしっかりとしている。
 シフォンは今更ながらにこの業界に身を置いた事に密かに感謝していた。
 “結社”の暗躍は、昨今多くの国を悩ませている。
 だが実は、その歴史は一朝一夕程度では済まない。少なくとも記録の上では現在の世界政
府たる王貴統務院(おうきとうむいん)の成立前後から──およそ九百年近く前からその存
在は確認されている。
『ヒトの手により掻き乱されし世界を、本来の在るべき姿に戻す』
 “結社”の掲げる主張はそんな守旧的なベクトルだ。
 しかし……その手法は、どう捉えても弁護の余地はないとシフォンは思っている。
 一言でいえば、過激派なのである。
 保守原理主義を抱えるテロ組織──自分だけではなく、世の殆どの人々の認識はそうした
具合で一致している。
 文字通り、世界の開拓を進める開拓者関係者やその象徴である機巧技術勢力への、或いは
そうした“開拓派”を支援する勢力全般に対する、執拗なまでの妨害(テロ)行為。
 更にそれらに加えて、彼らは異種族のカップルに対してもその攻撃の矛先を向けている。
 曰く「純血を脅かす愚者」だからなのだそうだ。
 ……馬鹿馬鹿しい。
 飛行艇や“導きの塔”など、大陸同士の移動手段の乏しかった太古ならいざ知らず、現在
は人も物もその交流は活発に行われている。その中でそれまでとは違い、恋愛が種族の垣根
を越える事は当然の成り行きでもあるのではないのか。
 それに、各分野の研究でも“異種族同士から生まれる子は、およそ六割弱が母の血を濃く
受け継ぐ傾向にある”という事実が弾き出されている。
 女系種族である女傑族(アマゾネス)などはその好例だろう。
 尤も、ジークのように男性のアマゾネスもいない訳ではないが……。
 しかしそんな強引な思想や行動にも拘わらず、彼らの勢力は今や世界各国を悩ませる程に
巨大化している。
 要因はいくつかあるのだろうが、やはりそれは開拓に邁進している今日の世界に対して、
いわゆる保守派だけでなく、雑多な不穏分子も含んだ不満を持つ者が少なくないからなのだ
ろう。結社が、そうした者達の受け皿になっている現実が存在してしまっているのだ。
「…………」
 検索を掛けて出てきた結果を転写印刷(プリントアウト)してメモにし、シフォンは本棚
の山と格闘した。片っ端から結社が関与した事件の資料を洗い出す。
 そしてテーブルの一角に陣取りそれらを積み上げてみると、これもまた山のようだった。
 それでも彼は文句一つ言わず、特に最近の事例を中心に一つ一つ目を通して始めた。
 一番最近起きた大きい事件はやはり、西方の鉱山都市で起きたテロ事件だった。
 飛行艇──開拓に必須な機巧技術の源はこうした鉱工業に依る部分が大きい。だからこそ
結社は執拗にこうした拠点をつけ狙う。
 そこでの手口や、事件後すぐに世界中に発信された犯行声明。
 何より、その際に姿を見せた構成員が皆“黒衣とアルカイックな仮面を纏っていた”点。
 結社の特徴と符合する。
 やはり、今回の件も奴らが──。
「エデンの眼、かね」
 そうしていると、不意に背中に声が掛けられた。
 それだけ集中していたからなのだろうが、シフォンはハッと我に返って振り向いていた。
 そこには顎髭に白髪を混じらせた一人の冒険者が立っていた。
 だが彼は単に年老いている感じはしない。それは貫禄や、鍛えられた隆々とした身体を目
にしたからなのだろう。
 シフォンが黙ったままいると、老練の冒険者はテーブルの上の資料を一瞥し、言った。
「悪いことは言わんよ。奴らに下手に関わるな。……命が幾らあっても足りんぞ」
 だがシフォンは素直に頷くことは決してしなかった。
 一度何度か静かに目を瞬かせた後、ぐっと目を細めて平静を装いつつも言い返す。
「分かっています。でも、僕は奴らを許せない。このままじゃ、きっと……」
「……そうか。あんたのような古種族(エルフ)ですら、奴らは敵に回すとはな」
 老練の彼は敢えて諫め続けるのを止めたように見えた。
 しかし、その眼には間違いなく嘆息の色が混じっているのが分かる。
「無粋な真似をすまないね。……だが、くれぐれも深入りはしない方がいい」
「……お言葉は、受け取っておきます」
 見据えながらそう言われ、彼はフッと苦笑いを漏らしていた。
 そのままゆたりと身を返して外へと出て行こうとする。
「まぁ、死なない程度にな」
 そう捨て台詞を残して。
 シフォンは暫し黙したまま彼の立ち去った方向を見遣っていた。いや……睨んでいた。
 それは、普段物腰穏やかな筈の彼には珍しいもので。
「お。ここにいた。やっと見つけたぜ」
「うわぁ。本や新聞がいっぱいです……」
 すると今度は反対方向から声が聞こえた。
 振り返れば、ジーク達三人が自分の姿を見つけて近寄って来ている。シフォンはごく自然
に、しかし捲っていた資料を意図的に隠すようにその上に裏返しにした本を積む。
「申請終わったぜ。これでサフレ達もうちのメンバーとして仕事ができる」
「立会いありがとう」
「何。途中で僕はこっちに来たんだし、カードさえあればいいだけだよ」
 振り向いて受け答えしたシフォンの表情は、元の穏やかなそれに戻っていた。
 小首を傾げて書類の山を見遣っているマルタを僅かに横目に捉えてから、
「一旦ホームに戻るつもりなんだが……。まだ掛かりそうか?」
「ああ。先に戻っていてくれ。僕はもう少しここで調べ物を続けることにするよ」
「ん……。分かった」
 念の為にと訊ねてくるジークにそう返す。
「それじゃあ、行こうか」
「ああ」「はいです」
 少し怪訝に資料の山に目を遣ったジークだったが、それも数秒の事ですぐにサフレとマル
タを促すと資料室を後にしていった。
 再び、室内は周囲には人がいなくなった。
 しんとする書の威圧感の中の空気。
「……貴様らは、また僕から大切なものを奪うつもりなのか?」
 するとシフォンは彼らが出て行ったのを再確認すると、
「そうは、させない」
 そっと重ねていた本を除けて、資料の中の黒衣達に独りごちる。

 静寂から騒々しさへ。
 ジーク達は資料室を出て再びラウンジに戻った。
「……調べ物、ねぇ」
 がやがやと相変わらず冒険者達が室内に屯している。ジークはそんな彼らをぼんやりと眺
めながら誰にともなく呟いていた。
「一体何を調べていたんでしょう?」
「分からない。だが、予想ならできるな……」
 マルタは小首をかしげ、サフレはじっと目を細めてジークの背中を見ている。
 するとサフレは数拍間を置いて何かを考えるようにすると、その後ろ姿に声を投げた。
「ジーク。僕らも調べてみないか?」
「あ? 何をだよ?」
「隠さなくてもいい。気になっているんだろう、自分の剣の事を?」
「……。まぁ、な」
 サフレに小さく指差された、自身の腰に下げた愛刀達にちらと目を落とし、ジークはか細
く頷いていた。
 考えれば無理もないだろう。何せ、サフレはあの変化を直に味わった当人なのだから。
「でも調べるっつってもどーすんだよ。もうあの時みたいになってねぇし、どうやったのか
も俺には分かんねぇし……」
「ああ。だが、その剣は間違いなく魔導具の類だ。直接その洗礼を受けた僕が保証する」
 少し意地悪く、だが真面目に。
 ジークはバツが悪く苦笑いを零したが、質問を付け加える事を忘れはしなかった。
「しかしよ。団長やハロルドさん、シフォンだって気付いてなかったんだぜ? 戻ってもう
一度聞いてみた所で進展があるとは」
「クランの皆にじゃない。いるじゃないか。この街には、専門家が」
「……専門家?」
 数度、目を瞬く。
 ジークはすぐにその意図に気付けなかったが、サフレの傍らのマルタはそうではなかった
ようで、なるほどとポンと両手を合わせる。
「そうだ。魔導具──魔導の専門家が集まっている場所が、この街にはあるだろう?」
 ハッとして。
 ようやく気付いたジークに、サフレはコクリと頷いて言った。
「そう……。魔導学司校(アカデミー)だ」


 常識というものは、しばしば時代の流れや新たな発見によって覆される。
(あった。これだ……)
 時刻は午後の夕暮れの少し前。
 アルスは学院の図書館に足を運び、ある文献を探していた。
 多くが埃を被った本棚の山の中、ようやく目的のそれを見つけてアルスは人気も疎らな館
内の一角の席に着き、その分厚い冊子を広げる。
 その表紙には『新聖暦七八五年度・アカデミアレポーツ』の文字。
 もう二百年近く前の論文集であったが、流石はアカデミアの関連機関だった。館内にはこ
れまでに発行されたレポーツの大半が所蔵されていた。
(七十三号、七十三号……あった)
 そしてアルスが目次を一瞥し、少しもたつきながら捲っていったページにはこう題された
論文が載せられていた。
『瘴気の存在理由と魔流(ストリーム)循環に関する研究報告』
 通称・七十三号論文。
 今から二百年以上も前、アカデミアレポーツにて掲載された論文である。
 この論文が一躍人々の話題を掻っ攫ったのは、その内容にあった。
 ──魔獣は、世界にとって必要不可欠な存在である。
 その論旨をざっくりと説明するならばそんな所であるのだろう。それまで魔獣を忌避の念
を込めて“悪”としてきた社会に対し、論文の発表者たるライルフェルド博士は膨大な調査
データと論理的思考を展開し、その再解釈を成功させたのだ。
 これは魔導師にとっては今や常識になっているのだが……瘴気が生じる理由は、魔導その
ものにあると言ってもいい。
 即ち、魔導の行使が精霊の起こす奇蹟(現象)をより多くし、結果としてマナのより多く
の消費──その劣化、瘴気発生のリスクを高めているという指摘である。
 だがそれはあくまで“過剰に使われた場合”の話だ。
 だからこそ、魔導を実利実益に積極的に転用していく事に対して批判をする者達も多い。
 七十三号論文は、ある意味でそんな今の時代の傾向を予見していたのではないか。アルス
は個人的にそう思っていた。
 何故魔獣が存在するのか? それはアルス自身にとっても長く疑問であって。
 そして多くの文献を探し求めては読み漁った中で出会ったのが、この有名な論文だった。
 曰く、魔獣とは瘴気を自身の中に抱え込むことにより、一時的に世界のマナの総量に対す
る瘴気の割合を減らす作用を担っているのだという。つまり自然の自浄能力──マナの総量
自体が瘴気を中和していくプロセスを補助しているというのだ。
 実際、瘴気が発生しても全てがヒトに害を及ぼすレベルにはならない。
 そこには自然の自浄作用が──魔獣の存在が、人々を生き物達をそのエリアから追い払う
といった作用が働いているとも考える事ができる。
 そうした科学的・論理的な理由を、博士は見事に証明してみせたのである。
 しかし……結論から言うと、それが悲劇の始まりだった。
 論理的な説得力、正論は劇薬となった。
 それまで魔獣を絶対的に悪としていた各種信仰の徒、魔獣を狩る事をある意味存在意義と
していたレギオン、そして何よりも今まで信じていた「常識」を否定された民衆からの猛烈
な抗議が各地で巻き起こったのである。
 当時の記録を見る限り、その様相はまさに喧々諤々であったらしい。
 画期的な発見・論文だと賞賛する真理を求める学者達と、これまで培ってきた伝統や常識
を穢されたと錯覚し怒り狂う(主に守旧派の)市民達。
 各地で博士とアカデミアに対するデモが続き、少なからぬ者達が暴徒と化した。
 アカデミアは勿論、各国政府も鎮静化に力を尽くしたが“劇薬”に怒り狂った人々の怒涛の
パワーはそんな権力者らでも止められなかった。
 そして、そんな中で悲劇は起きる。
 人々の反発にも屈せず説明と説得に奔走していた博士らが、公衆の面前に突如として現れ
た一人の青年の自爆テロによって帰らぬ人となってしまったのだ。
 世間は大いにざわついた。すぐに調査が行われたが、当の青年は勿論即死。代わりに彼の
自宅から見つかったのは「信仰を穢す不届き者に、神の鉄槌を」と書き記された青年直筆の
遺書──いや、犯行声明文。
 だが、皮肉にもこの一件が互いの激突を収拾させる切欠になっていった。
 言い過ぎれば、自分もああなるかもしれない……。
 そんな自己保身の念が人々に自粛の方向へと走らせたのである。
 かくして、このアカデミア史上最悪の不祥事──真理の敗北、通称「七十三号論文事件」
は一先ずの幕を降ろした。
 虚実が、人々が心地よいと思う虚実が、真実を叩き伏せたのである。
 それでも尚、今もまだこの論説に対する見解は人々によって大きく分かれている。
 後世、多くの学者がこの学説を再検証し間違いないと発表し続ける一方で、自分達の教義
に反するものとして頑なに認めない信仰勢力も多く残存している。
 魔獣に対する、魔人に対する敵意と偏見は……今も根強く人々に植え付けられている。
「…………」
 それでも、アルスには大きな影響を与えた論文だった。
 根本的なセカイのシステム。だが、それまでただ魔獣を憎み撲滅する事ばかりを考えてい
た頃とは違い、何とか共存していけないか──自然の自浄能力だけではなく、瘴気を生み出
す一端となっている自分達ヒト自身が、それらを浄化する術を生み出してゆくべきではない
のかと考えるようになった。
 そしてそれは、やがてアルスの夢にもなった。
 瘴気は、魔獣は、根本的に消滅させる事はできないだろう。
 生命に不可欠なマナの一部たる瘴気が消滅してゆけば、いずれマナ自体も減ってしまう。
 魔獣は確かに人命を奪うかもしれないが、その存在がより大きな被害を抑えている。
 だからこそ、自分の魔導はそんな瘴気を浄化する為に──そして人々を救う為の力として
究めていきたいと思った。
 幼い頃より、自分には見えていたマナの流れ。精霊達の姿。
 この豊かな世界を、悲しみに満ち溢れたものにだけは、したくない。
(でも。ブレア先生は……)
 論文を読み直しあの日の想いを掘り起こしても、アルスの脳裏にはブレアから告げられた
条件が蘇る。
 エトナを捨てろ。自分の夢の為に、大切なパートナーを。
「……アルス」
 迷いは隠し切れずに伝わっていたのだろう。いや当人だからこそ分かっていたのだろう。
 彼女はふよふよと漂いながら、哀しく心配そうな声色と表情(かお)を投げ掛けてくる。
 アルスは冊子から顔を上げ、微笑み返してみせた。
 しかし、その表情はやはり辛そうだった。無理をした微笑だった。
「ねぇ。エトナは……」
「う、うん」
「……。いや、何でもない」
 訊こうとしたが、結局止めてしまった。
 もう何年もの付き合いだ。契約によって結びついた相棒同士だ。お互い今、ブレアの言葉
を受けて何を思っているかくらい、容易に想像できている筈だった。
 だからこそ、口に出す事が憚られた。
 エトナ。君を守る為に、契約を解きたい──。
 そんな事言えば、彼女は拒むだろう。もしかしたら泣かせてしまうかもしれない。
「……帰ろっか」
 今日も、決断できなかった。
 アルスは冊子をパタンと閉じると、静かに言う。
 辺りはすっかり茜色に染められていた。
 学院に残っている生徒も徐々に減り始めている。夜間の講義もあるが、兄が心配してくる
展開が予想できていたので、よほど予定が詰まっていない限りは夕方までに済ませるように
している。
 ぼんやりと陰鬱な気分。
「よっ、アルス」
「兄さん……? それにサフレさんにマルタさんも」
「やあ」「お迎えに上がりました~」
 だが正門へとやって来ると、そこには兄と、先日新たにクランの一員となった二人が自分
達を待っていたのだった。

 一度ホームに戻って軽い昼食を摂った後、ジーク達は学院へと向かった。
 サフレの言うように、ここには魔導師がわんさかと居る。
 専門家の眼なら、愛刀達についてより詳しい情報が得られるのではと思ったのだが……。
「また君か。今日も弟さんに用事かな?」
「いえ……魔導具について調べ物をしたくて。そういう専門家、いるでしょ?」
「そう言われてもなぁ。自分達はただの警備員だからな」
「そういう事なら、事務局で訊いた方がいいと思うぞ」
 先ずは守衛達に呼び止められて怪訝の眼を向けられ、たらい回し的に。
「アポイントなしの、個別の問い合わせには対応しかねますね」
「えっ? アポ……?」
「……まぁ、そうなるかもしれないとは予想はしていたが」
 次いで事務局へと顔を出して話してみても、返ってきたのはそんな事務的な拒否で。
 ジークは少しムッとなったが、サフレは慣れているのか窓際に背を預けて涼しい顔をして
いた。暫くジークは対応してきた事務職員と粘っていたが、やがて諦めて戻ってくる。
「チッ。何だよ、俺の事をどいつもこいつも余所者扱いしやがって……」
「間違ってはいないだろう? 冒険者(ぼくら)は基本的にこっちとは違う。君の弟が在籍
しているというだけの繋がりだよ」
「そうだけどよぉ。これじゃあ何も進展しねぇぞ」
「では専門書を見てみますか? 途中、図書館があるのが見えましたけど」
「……それはやめとく。俺に学問の本とか、拷問だから」
 マルタはそう提案したが、ジークは苦笑してやんわりと、割と本気で首を横に振った。
「物に訊くよりは人だ。生徒を捉まえて訊いてみよう」
 だが──ジークのそんな方針は、やはり上手く回らなかった。
 再び構内に出ると通り掛かる学院の生徒に魔導具について、自身の愛刀についての見立て
を訊ねてみていったのだが、まともに取り合ってくれた者は数えるほどしかいなかった。
 無理からぬ事ではあったのだろう。
 学問に浸かって生きてきた大半の学院生らにとって、ジークのように剣を下げた見知らぬ
青年にいきなり声を掛けられれば何事かと思う筈だった。
「す、すみません。自分は分からないです……」
「え? お、おいちょっと……。何も取って喰うわけじゃ」
「……すまないね。手間を取らせた」
「勉強頑張って下さいね~」
 サフレやマルタが荒っぽいジークの緩衝材役を果たすものの、自分たち冒険者という存在
は彼らにとって別世界の人間とでも思われているらしい。
 結局、ジーク達はろくに聞き込みする事も叶わずに、ただ時間を浪費するだけになってし
まっていた。

「……参ったなぁ」
 気付けば、時刻はたっぷりと昼下がり。
 ジーク達は一旦聞き込みを中断し、構内のオープンテラスの一角に着き暫しの休憩を取っ
ていた。テラス内のスペース、或いはその外側の学院の通路に学院生や職員らがぽつぽつと
点在し行き交っている。
 木板の横長テーブルの上にぐったりと顔を伏せ、ジークは困ったなと嘆息をついていた。
「皆さん、何だか怖がってましたもんね……」
「言い出したのは僕だとはいえ、いきなり学院に乗り込むのは無理があったか」
「う~ん……。そう言われても学院にコネがあるわけでもねぇし。一旦アルスが帰ってくる
のを待って仲立ちしてもらえないか頼んだ方がいいのかもなぁ」
 マルタもサフレも、同じく思った以上に反応が悪かった事に戸惑っているようで。
 ジークはぼそりとそんな事を呟きながら、次の手を模索しようとする。
「……アルス?」
 ちょうど、そんな時だった。
 ふと通り掛かりの中から自分達に返ってきた反応。
 むくりと顔を上げてその声のする方を見遣ってみると、そこには学院生らしき活発そうな
ヒューネスの少年と知的な感じのウィング・レイスの少年が立ってこちらを見遣っていた。
「ん? 何だよ」
「えっ。あ、その……もしかしてにーさん、アルス・レノヴィンの知り合い?」
 眉根を寄せて視線を返すと、そう活発そうな方が確認するように訊ねてくる。
「知り合いも何も。弟だよ、俺の」
 ジークは頭に疑問符を浮かべながらも答えていた。
 するとこの二人──フィデロとルイスは互いの顔を見合わせ、破顔した。
「おー。じゃああんたか。アルスが話してた冒険者してる兄貴ってのは」
「初めまして。僕はルイス・ヴェルホーク。こっちはフィデロ・フィスター。アルス君とは
学院でも仲良くさせて貰っています」
「ああ……。アルスのダチか? いやいや、こちらこそ」
 目の前の彼らが弟の学友だと分かり、ジークもだらりとしていた居住いを正した。
 サフレとマルタも、近付いて回り込んでくる二人を見遣り、調査にちょっとした光を見た
ように和やかな表情を浮かべる。
 フィデロはルイスと共にジーク達の空いた席に腰掛けると言った。
「それで、お兄さんらはどうして学院に?」
「ああ、それなんだがな」
 言われて思い出す。そうだ、こいつらになら訊けるかもしれない。
 ジークはテーブルの上に愛刀達を置いてみせる。
「よく分かんねぇんだけど、どうやら俺の刀が魔導具らしいって分かったんだ。でも俺は素
人だからよ。ここなら専門の人間がいるし、何か分かるんじゃないかと思ってさ」
「なるほど……。なら、俺の出番ッスね」
「こう見えてもフィデロは魔導具職人志望ですからね。視て貰いましょう」
「おぉ。そうか! じゃあよろしく頼む」
「へへっ。了解ッス」
 するとフィデロは腰に巻いていた大きめのポーチからもそもそと何かを取り出し始めた。
 出てきたのは幾つかのパーツに分かれた機器。彼は手馴れた手付きでそれらを組み立てる
と、完成したそれ──ゴーグル状の機器を頭に巻き、レンズ越しに刀を手に取る。
「……それは?」
「導力走査用のゴーグルっす。魔導師ならある程度マナは視えるんですけど、複雑な回路を
視るにはこういうツールがあった方が便利なんですよね。まぁ扱う側もそれなりに導力がな
いと宝の持ち腐れになっちゃいますけど」
 刀を抜き、ゴーグル越しに刀身を検めていくフィデロ。
 その視界に映るのは、深い紅を染め掛けたようなビジョンで。
「……確かにこいつは魔導具ッスね。かなり細かいですけどちゃんと刀身に呪文(ルーン)
が刻んであるみたいです。……んぅ? これは」
「? どうかしたか?」
「いや……。妙なんすよねぇ。回路もルーンも、見た事がない感じで」
 だがややあってフィデロは首を傾げていた。
 六刀をざっと走査しながら、ぶつぶつと口にする疑問。
 ジークらが頭に疑問符を浮かべていると、傍らでその様子を見ていたルイスが言った。
「フィデロ。僕にも見せてみて」
「ああ。ほいよ」
 今度は代わってゴーグルをルイスが着けて見立てを始める。
 静かに息を呑んでその反応を見守るジーク達。耳元のダイヤルを回し、何度かピントを調
節し直しながら、やがてルイスは呟いた。
「もしかしてこれは……古式詠唱かもしれないね」
「古式ぃ? おいおい。何でそんな古臭いもんが……」
「何だよ、それ?」
 何処かで聞いたような。
 だがジークはその記憶を辿るのも煩わしく、目の前の専門家の卵らに問う。
 ルイスはゴーグルを外してフィデロに返すと、少しこの素人らに対する説明の内容を考え
込んだようだった。
「何と説明すればいいでしょうか……。皆さんも、魔導は呪文という言語で以って精霊と交
渉し、その奇蹟の力を借りるものだというのは、ご存知ですよね?」
「ああ」「はいです」
「え? そういうものなのか?」
「……。ですが、魔導はある時期を境にその型が大きく違っています。古代、魔導とは特権
的な魔法使いらによる門閥毎の秘伝の法でした。つまり、似た内容の術式でもその発動に用
いられる呪文はそれぞれに大きく異なっていた訳です」
 ルイスの講釈。サフレやマルタはこくこくと頷いていたが、ジークは目を瞬いて既に疑問
符で頭が埋もれつつある。
「しかしそのままでは、その個別の呪文を知らぬ者は永遠に魔導を扱えない。そこで下級の
術者や民衆を中心に起きたのが『魔導開放』運動でした」
「ああ。それは聞いた事がある」
「歴史のお勉強でもよく出てくるフレーズですものね」
「そうだっけ? 覚えてねぇんだけど……」
「……。この一連の運動により、成立したのが“大盟約(コード)”──統一され定型化さ
れた呪文体系です。これによりそれまで一部の者に独占されていた魔導が広く人々の手に開
放される事となりました」
「で、今自分らが使っている魔導ってのが、そのコードに基づいた呪文体系ってわけです。
だからそれ以前の統一されていなかった頃の古式詠唱ってのは、はっきり言ってお払い箱に
近い状態になってるんですよ。今でもそれを現役で使ってるのは……最後まで開放に反対し
てた連中の末裔──古仰族(ドゥルイド)くらいなんスよね」
 ちなみに、眞法族(ウィザード)は逆に当時開放賛成に回った術者らの末裔に当たる。
 元は同じ銀髪を湛える魔法使いの民だったが、この魔導開放運動を期に袂を分かち、その
まま今日に至っているという歴史を持つ。
「……ええと、ややこしい事は分かんねぇんだけど、要するに俺の刀はその大昔の呪文が使
われているんじゃないかと。そういうことなんだな?」
「ええ。そんな理解でオッケーっす」
「だからこそ、僕らには知識不足でこれ以上の事は……」
 ジークがガシガシと頭を掻きながらざっくりとまとめた結論に頷き、フィデロとルイスは
言った。
 だが申し訳ないと表情を曇らせた二人に、ジークは笑ってみせる。
「いや、それが分かっただけでも充分な前進だ。少なくともこいつが相当年季の入ったもの
らしいってのがこれではっきりしたんだしな。ありがとよ」
 フィデロとルイスはちらと互いを見合わせて、笑い返した。
 ジークが六刀を再び鞘に収め、腰に差し直し始める。
「……ねえ、フィデロ」
 そうしていると、ふと何か静かに考え込んでいたルイスが傍らの幼馴染に口を開いた。
「マグダレン先生ならもっと詳しい事が分かるんじゃないかな?」
「あぁ……そうだな。訊いてみる価値はあるかも」
「マグダレン? 誰だ、そいつ?」
「バウロ・マグダレン。俺の指導教官をしてくれてる先生っス」
「何せ専門が魔導工学──魔導具関連ですからね。僕らよりもきっと知識も経験も豊富な筈
です。彼に見立てて貰えればもっと詳しい事が分かるかもしれない」
 彼のその言葉に、ジーク達は更に光が見えたような気がした。
 ジークはサフレ達と顔を見合わせ、表情を驚きと期待に染める。
「俺でよければ先生に取り次ぎましょうか? 保証はできないっスけど」
「本当か? なら是非頼む」
「了解っス。先生の都合もあるでしょうし、すぐに返事できるとは思えないですけど」
「ああ、構わねぇよ。進展があったら連絡してくれ。アルスからもう聞いてるかもしれねぇ
が、住所はクラン宿舎の同室だ。今夜にも皆に大体の話は通しとく。導話の番号は……ここ
に頼む」
 持つべき者は優秀な弟か。
 ジークはフィデロらの申し出を快諾し、マルタからメモ紙とペン(サフレの従者という事
もあり、細々とした用意はお手の物なのだそうだ)を借りてその場で連絡先を書き記すと、
二人に手渡した。
「うッス。了解です」
「できうる限り協力しますよ。アルス君の友人として」
「……ああ。ありがとよ」
 何とかなって良かったぜ。
 ジークは弟とその友人らとの出会いに感謝しながら、再び笑みを見せたのだった。

「──そっか。フィデロ君とルイス君が……」
 夕暮れの帰宅の路を、兄や新たな仲間達と共に歩く。
 アルスは「何故学院に?」という疑問に答えた兄の横顔を見つめながら、そう呟いた。
「そういう事なら言ってくれればよかったのに。先生達に掛け合うなら僕にもできなくはな
いんだし」
「そうだよなぁ。思えば遠回りだったかも。でも、俺はこれで良かったと思ってるぜ?」
「……?」
 傍らで漂っているエトナを背に、アルスは小首を傾げる。
 ジークはにかっと笑って答えてみせた。
「お前にも、ちゃんと友達ができたってのが分かったからな。……正直心配だったんだよ。
入学早々一悶着に巻き込まれたろ? それで他の連中に距離を取られてたらどうしようかと
思ってたんだ。もしかしたら、苛められてるかも……とかさ。お前は何だかんだで控えめな
性格してるしな。でも安心した。ちゃんとダチが出来てたんだな」
「兄さん……」
 アルスは口篭もっていた。
 付き合いが長いから、兄弟だから分かる。兄さんは嘘を言っていない。
 自分の刀に何か曰くがあるらしいと不穏が纏わりついていても、自分の学院生活を案じて
いてくれた。そんな余裕が、兄さんにはあった。
 なのに、自分といえばどうか。
 ずっと一人で悩んでいた。ブレア先生の言葉に迷っていた。
 そんな姿をエトナに心配されているのを分かっていても、言い出せずに抱え込んで。僕は
ただ決断を先延ばしにし続けて。
「…………」
 ジークが、サフレとマルタが自分の左右を歩いている。
 支えられているのに。自分はなんて小さいのか。
「……ねぇ。兄さん」
「うん?」
 だからこそ、いやようやくアルスは意を決していた。
 ごくりと唾を飲み込んで、か細い声で恐る恐るとそう口を開く。
「兄さんは、自分の夢の為に大切な人を切り捨てないといけなくなったら、どうする?」
 それでも臆病が邪魔をして。
 アルスはストレートに打ち明けられずにそんな遠回しに訊ねていた。
 だが弟のその神妙な表情と声色に何かを感じ取ったのだろう。ジークははたと笑っていた
表情を真剣なそれに収め直し、じっと不安げなアルスの顔を見返す。
「……。何でなんだ?」
「えっ?」
「何で、どっちかじゃないといけねぇんだ?」
 たっぷりと数十秒。
 そして兄から返ってきたのは、思いもがけない回答だった。
「何でどっちかなんだよ。夢も大切な人も、どっちもひっくるめて守りゃいいじゃねぇか」
「……そうだな。そもそも、夢というのはそういった人達と分かち合うものだろう?」
 ジークが至極あっさりと言い放ってみせたその言葉に、サフレも頷き繋げていた。
 彼がちらと視線を移したのは、微笑むマルタの姿。
 きっとそれは、危うく大切な人(マルタ)を悲しませかけた自戒も兼ねているのだろう。
 アルスは唖然としていた。いや、そんな選択肢を知らぬ間に排除していた自分に驚き呆れ
ていたという方が正しいかったのかもしれない。
(どっちも、守る……)
 だが兄のその言葉は、じわじわと胸の奥へと染み入るかのようだった。
 同時にもやもやしていた迷いが、解れていく感覚が全身を包んだ。
「アル、ス?」
 そして次にアルスが顔を上げていたその表情は、パアッと明るく元気を取り戻したそれへ
と変わっていた。
 エトナが驚いている。だがややあってこのパートナーの想いは伝わったらしい。
 拗れた糸が解けたような解放感。微笑んだアルスに、エトナもこくんと頷き返す。
「……ありがとう兄さん、サフレさん。僕、行ってくる!」
「へっ? 行くって何処に」
 今度はジークが呆気に取られる番だった。
 しかし訊ね返す間もなく、アルスとエトナは踵を返して猛然と来た道を引き返して走り出
して行ってしまった後で。
「……何なんだよ、一体?」
 サフレ・マルタと共にジークは取り残されて、戸惑い気味に眉根を寄せる。

「ブレア先生。失礼しますっ」
 アルスは夕暮れの学院内を逆走し、一気にブレアの研究室(ラボ)へとやって来ていた。
 息切れする呼吸を整えながら入って来るその姿に、ぼんやりと読書をしていたブレアは思
わず面食らっていたが、すぐに気だるい顔つきに戻って言う。
「……一体どういうつもりだ? また性懲りもなく来るなんて。まさか俺の条件を忘れたっ
て訳じゃねぇよな?」
「はい。その事について、お話があります」
 そうはっきりと告げるアルス。ブレアもその声色に何かを悟ったのか、開いていた本を閉
じるとじっと彼とその持ち霊の姿を見据えた。
 無言の催促。アルスは一度大きく深呼吸してから、言った。
「……エトナは、捨てません」
 はっきりと言い放つ。
 するとブレアは静かに眉根を寄せ、持ち上げた。
「そうか。じゃあ俺とは、縁がなかったって事で」
「いえ。志望はこのラボから変えるつもりはありません」
「……分からねぇ奴だな。言った筈だぞ? 瘴気の研究をしようって奴が持ち霊を連れてた
ら、そいつを失うリスクが大きいんだ。それでも学びたいなら、持ち霊は捨てろと言ったん
だぞ?」
「はい。でも僕は、捨てません」
 目を細めて睨むように見つめてくるブレア。
 彼のそんな視線に耐え、対抗するようにアルスは、そしてエトナは強い眼差しを返す。
「迷っていました」
 互いを見合わせる事なく、でも心は一つで。
「それは自分の夢を……瘴気を浄化する研究に携わる事と、エトナを切り捨てる事を天秤に
掛けていたからです」
「だけどさ。おかしいよね? 何でどっちかじゃないといけないのさ?」
 アルスとエトナは、続ける。
「そもそも二者択一で考えるのが正しい事なのかなって。僕は、皆を瘴気や魔獣から少しで
も救いたいと思ってこの道を志しました。なのに、その為にエトナを捨てなけれないけない
なんて……間違ってると思うんです」
 それは兄の言葉でようやく自覚できた、いや認める事のできた心の奥の本心。
 原点だった。
 かつて、自分の力が足りない事で守れなかった者達への申し訳なさ。後悔の念。
「一番身近な、大切な人を捨てたら、僕の目指しているものの本当の意味はなくなってしま
います。守りたい筈のものを捨ててしまったら、僕の夢は、意味を成さなくなる」
 だからこそ、アルスは迷っていたのだ。身近な存在であるエトナを捨てるという選択をす
る事に、無意識に近い場所からずっと疑問の声がストッパーを掛け続けていたのだった。
「だから僕は……エトナを捨てません。夢も彼女もどちらも守りながらこの道を進みます」
 お願いします。
 アルスは深々と頭を下げた。エトナも見よう見真似でそれに倣っている。
「……それは理想論だ。お前の持ち霊をリスクに晒す事に変わりはねぇんだぞ?」
「分かってるよ。それでも、私はアルスと一緒だもん!」
「覚悟は、できています。そうしたリスクを克服する為にも、研究をしたいんです」
 ブレアは静かに指摘していた。
 だがそれでも二人はぶれなかった。頭を下げたまま答えるアルスと、顔を上げて少しムキ
になって頬を膨らませ、離れないと宣言するエトナ。
「……」
 ブレアは、じっとそんな二人を目を細めて睨み付けていた。
 ピンと張り詰め始めるラボ内。
 アルスとエトナはその視線に無言のまま耐え続ける。
「……ふっ」
 だがその緊迫は、他ならぬブレア自身によって解かれていた。
 それまで真剣だった表情が一転、ふと緩んだかと思うと徐々に笑い声を漏らしたのだ。
 室内に響くブレアの笑い。
 思わず顔を上げたアルスは、エトナと目を瞬かせて顔を見合わせる。
「合格だ」
『えっ……?』
 そして次の瞬間、ブレアはそう告げた。
 頭に疑問符を浮かべ、声を重ねたアルスとエトナ。だが彼はそんな二人を、今度は間違い
なく好意的な表情(かお)で見つめ返している。
「合格って、どういう事……?」
「そのままの意味だ。お前らは、俺の出した条件をクリアしたんだよ」
 エトナが少し不審気味に言ったが、ブレアは笑っていた。
 テーブルに片肘をつき、彼は言った。
「俺は確かに、俺の下で学びたいなら持ち霊を捨てろとは言った。だが俺が聞きたかったの
は、自分のパートナーを切り捨てるのか、学問を諦めるのかっていう答えじゃねぇ。お前ら
に瘴気のリスクと向き合う覚悟があるかのを聞きたかったんだよ。……瘴気を研究しようっ
て奴が俺の小手先の言葉だけで引っ込んじまうようじゃ、遅かれ早かれ自滅するからな」
「むぅ。試されてたんだ……。何か嫌な感じ」
「あはは……。あの、じゃあ僕らは……?」
「さっきも言ったろ? 合格だってな」
 心地よくないと唇を尖らせるエトナを苦笑で窘め、アルスはおずおすと問い返す。
 すると今度こそブレアは言った。
 もう徒に二人を突き放すわけでもなく、
「歓迎するぜ? アルス。今日からお前は……俺の教え子だ」
 にっと笑って、そう安堵させるかのように。

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  1. 2011/09/26(月) 20:30:00|
  2. ユーヴァンス叙事詩録-Renovin's Chronicle-
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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