日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)Amethyst League〔1〕

 僕達は、満天の星空を見上げていた。
 秋口の夜風が肌に心地よい程度に涼しく、さらりと頬や上着を撫でては静かに過ぎ去って
いくのが分かる。今夜の天気は、快晴。絶好の観測日和だった。
 テレビで知った、流星群の到来。
 昼間、学校でいつもの仲間達とその流星群を見ようという話になり、こうして夜に河川敷
に集合したという訳だ。
「……まだ、見えないね」
 仲間達と集まる事、そして何よりまだ小さかった僕達が夜中に連れ立って出掛けるという
行為自体がその当時は新鮮に思えたのだろう。僕はわくわくした気持ちを隠し切れずにまだ
かまだかと夜空を見上げていた。
「ま、気長に待とうぜ」
「そうそう。こうして待っている時間の方が楽しかったりするもんね」
 傍らにはいつもの仲間達が立って同じ様に空を見上げている。
 時折、夜の冷えた空気を伝わる皆の声に顔を向け、断片的な雑談が飛び交う。
 視線を向けた先の視界には、僕達以外にも河川敷で空を見上げている人影がちらほらと見
える。どうやら考える事は皆同じらしい。この河川敷一帯は特に空を遮る物が少なく、何よ
りも広々として流星を見るにはもってこいの、市民の憩いの場なのだから。
「……い、今の内に考えておいた方がいいのかな?」
「え? 何を」
「その……お星様にするお願い事」
「あぁ、流れ星が消える前に祈ると願い事が叶うってやつね」
「……所詮石ころだろ」
「こらアツシ、そんな夢の無い事言わないの。折角のムードを台無しにする気?」
「まぁまぁ。アツシ君のいう事は間違ってはいないけど……。それでも、誰だって叶えて欲
しい事の一つや二つはあるんじゃないか?」
 ぼそっと、僕らの中でもとりわけ大人しそうな女の子──ヒナちゃんが呟いた。
 空をじっと見上げたまま、それに淡々と応えるアツシに、それぞれ反応を見せるタマちゃ
んとサーヤ。言葉こそ少しぶっきらぼうだけども、今までの付き合いからそれすらも雑談の
一つである事は、僕達もよく分かっていた。
「……おっ?」
 ちょうどそんな時だった。
 ニヤニヤと、そんなやり取りを横目にしながら空を見上げていたハルがすっと目を細めて
夜空に起こり始めた変化に声を上げる。
 流星群が、やって来たのだ。
 同じように夜空の変化に築いた周りの人達も、そこかしこで感嘆の声を漏らしだす。
 それだけ綺麗な光景だった。
 流れ星ではなく、流星群。その名に相応しい無数の青紫色の光の筋が、真っ黒な下地に点
々と散らばるたくさんの光点の間を塗り替えるように次々と過ぎっていく。
「うわぁ……」
「綺麗……」
「ああ。来て良かった」
「……そうだな」
「へへっ」
「えっと、えっと。お、お願い事を……」
 アツシの言うように、それらは遠い遠い場所からやって来た石ころなのだろう。だけどそ
の流星達の降り注ぐ光景は、そうした事実を遠くに押しやり僕達をしばし夢心地に浸らせる
には充分だった。
 だから僕達も、周りの人達もすぐには気付けなかったのだろう。
「……お、おい。何か、落ちてないか?」
「は? まぁ、流れ星だし落ちてきているのは当然だろ。でも俺達が見ているのは殆ど燃え
尽きた後の光で──」
「い、いや、そうじゃなくってだな!」
 僕達が更なる変化の兆しに気付いたのは、何処か別の場所から夜空を見ていた大人達の慌
てたようなやり取りが耳に入ってきた時だった。
 僕も、皆も無意識にその人達の声のする方に視線を向けていた。或いは折角のいい感じの
雰囲気を壊されたと不満げになっていたかもしれない。だが。
 ──ズドンッ!
 そんな、はっきりしない思考すらも吹き飛ばすような轟音が、辺り一帯に響いた事で変化
は現実となった。地面を伝って全身を揺さぶる衝撃も相まって、河川敷に居た僕達も周りの
人達も一挙に平穏から混乱へ、急な坂道から突き飛ばされ転げ落ちたような感覚に陥る。
「な、なんだぁ?」
「お……落ちてる。流星が落ちてるっ!」
 へっぴり腰になりながら再度見上げた空、そしてその下に広がる夜景にとける街。
 そこには地面に──僕達の街に次々と落下し、青紫色の閃光と衝撃を撒き散らす先ほどま
で自分達を眼で愉しませていた筈の流星群の猛威があった。否、既に流星群ではない。その
光景は隕石と表現するに相応しかった。
 目の前で次々に着弾していく隕石という名の砲撃の嵐。
「! こ、こっちにも来るぞっ!」
「逃げろぉぉっ!」
 だが、それらは河川敷に居た僕らにとって「対岸の火事」にはなってくれなかった。
 轟々と続いた落下が、飛び火するように河川敷にも目掛けて降り注いできたのだから。
「うわわっ!」
「くっそ、一体何だってんだよ?」
「……逃げるぞ!」
 勿論、僕達も混乱の真っ只中にあるその場から逃げ出そうとした。
 ハルがヒナちゃんの手を取り駆け出すと同時に、全員が茫々に草の生える土手を駆け上が
っていく。その間にも、飛び火するように青紫色に光る塊が群れを成して降り注いだ。
 その多くは夜の闇に同化した暗い川の中に落ち、しばし青紫色を残して沈んでいく。それ
でも一部の塊は河川敷部分に落ちていき、地面に大きな円形状の窪みを刻んでいく。
 逃げ惑う人々の足音や悲鳴が、落下の轟音に何度もかき消されながら夜闇の中に描かれる。
 そんな青紫色の軌跡の群れを、僕達は土手から離れた茂みの中に隠れて呆然と見送るしか
なかった。

 そんな突然の混乱からどれだけの時間が経ったかは分からなかった。
 ただ目の前にあったのは、彼方此方にボコボコと空いたクレーター群と、流星見物にやっ
て来た筈の人々が逃げ出しいなくなって生まれた、不気味な後味の静寂だった。
「……もう、止んだかな?」
「みたい、だね」
 それでも警戒心は大きく緩む訳ではなく、茂みの奥でモソモソと薄暗い河川敷の様子を窺
ってみる。しんと静まり返った河川敷。空は青紫色の軌跡達も見えず普段と変わらない夜空
の暗さが漂っている。まるで、先ほどまでの光景が嘘だったかのように思えた。
「……よし」
 その静寂に意を決し、ふとハルが一人立ち上がって茂みから出た。そしてグッと歯を食い
しばるようにした面持ちで、ゆっくりと土手を越えて再び河川敷に向かおうとする。
「ちょ、ちょっと……。何処行くのよ?」
「河川敷の方に決まってるだろ、様子……見てくる」
「あ、危ないわよ? また隕石降ってきたらどうするのよ」
「……多分、大丈夫だろ。空見ても落ちて来てる様子も無いし」
 タマちゃんに呼び止められて、緊張を隠せないままでそう応えるハル。
「だったら、俺も行く」
「アツシ?」
「……もしさっき隕石に巻き込まれている人がいたら大変だしな」
 その冷静さに僕達ははっと息を飲んだ。確かに可能性はある。それらしい人は見かけては
いなかったが、あの時は皆逃げる事で頭がいっぱいだっただろうから、見落としている可能
性はある。僕達はアツシが立ち上がってハルと並ぶのを横目に、お互いに顔を見合わせて頷
き合うと二人の後を付いて行こうと茂みを後にした。
「──まるで別世界だ」
 土手を下り再び河川敷に戻ってきた僕らの感想を、サーヤの呟きが代弁していた。
 そこかしこに隕石が落ちたようなクレーターがあるのが確認できる。それだけでも非常識
な世界だと言えたが、それ以上に川の奥底の方やクレーター群の中心部分から淡々と視覚に
訴えかけてくる青紫色の光の群れがそんな感慨を強くさせていた。
「……倒れている人は、いないみたいだね」
 キョロキョロと辺りを見渡して先刻の心配がどうやら無用らしい事に心から安堵したよう
に息をつくヒナちゃん。夜とはいえ、幸か不幸か件の青紫色の光が適度に周りを照らしてく
れていたのも大きかった。
 内心ビクビクしながら、それでも一応クレーター群を点々と歩いて回ってみる。
 先刻までいた見物人達の姿はなく、不気味に青紫色の光が地面に、右手のある川の奥底に
と彼方此方に淡く僕達六人を照らし出していた。
「しっかしよぉ……」
 そうしながら、とあるクレーターに差し掛かった時だった。
 それまで警戒感もあって窪みの外円部分にまでしか近づいていなかった中で、ふとハルが
クレーターの中心部へとそっと足を踏み入れ出したのだ。
「あ、ちょ、ちょっとハル──」
「あれが、隕石なのか?」
 呼び止める間もなく仕方なしにハルに付いていきクレーターの中心に踏む込むと、青紫色
の光をより強く感じた。そして彼の指差すもの──青紫色の光を放っているものの正体が、
クレーターの中心、地面に激突して半ば埋まっている同じ色の水晶のような鉱物であるらし
いと認識するのにそれほど時間はかからなかった。
「……ちょっと綺麗かも」
「う、うん。こうして見ると……ね」
 青紫色に照らされながら隕石、もとい水晶のような鉱物の塊達を見つめる。
 しかし、隕石と言えばもっとゴツゴツした岩といったイメージが一般的と思えるのだが、
目の前のそれはそうした認識とは全く違う。まさに遠い宇宙からもたらされた物体である事
を示すに充分だった。
「よし」
 屈んで見つめている事暫し。ハルがニヤリと口元に笑みを浮かべた。
 その様子に僕達残り五人は「またか」という軽い諦観を覚える。面白さを何より楽しむ彼
は時として突拍子も無い言動のムードメーカーであり、また同時にトラブルメーカーでもあ
るのだから。
「これ、持って帰ろうぜ。記念に」
「えっ」
「き、記念ってアンタ……」
「だ、大丈夫なの……? 持ち主さんに怒られないかな?」
「いや、隕石に持ち主も何もないだろう……」
「……それ以前に触っても平気なのか、だな」
 当然の事ながらいきなりのハルの提案に僕達は渋った。
「何だよ、あれだけ凄い流星だったんだぜ。絶対後々の記念になるって。もしかしたら凄い
お金になるかもしれねぇじゃんか」
「あの、お兄ちゃん。流星じゃなくて隕石──」
「この期に及んで損得とか……どうなのよ?」
 それでも一人乗り気になったハルは手を摩りながら、どれを手にしようかと大小様々なサ
イズで埋まっている水晶体を見繕い始める。そして、
「そんじゃ、この大きい奴に決めた……っと。ほら、見てみろよ。触ってみても何とも無い
ぜ? お前らも選んどけよ」
 そう言ってハルに掲げられた水晶体は、地面から掘り起こされて、彼の掌で心なしかより
一層青紫色の光を強めたように見えた。しかし、これといって彼の身に何か起きた様子は見
受けられない。無意識に、僕達はお互いの顔を見合わせていた。
「うーん……」
「それじゃあ……」
 そして結局僕達はハルに続いて、それぞれ目の前の水晶体から一個ずつ選び手にした。
 それまでの異常な光景の警戒心が時間の経過と共に薄れたのか、彼が見せたそれと同じく
目の前の未知なるものへの好奇心が勝ったのである。
「……何ともない、わね」
「だろ? 気にし過ぎなんだよ」
「綺麗……」
 六人分の水晶体。六人分の集まった光。青紫色。
 暫しの間、その吸い込まれそうな発光の抑揚に意識を委ねる。それと共に手にした瞬間に
もまだ残っていた警戒感すら掻き消えそうになった、その時だった。
『!?』
 変化は、同時に突然起きた。
 全員の掌に乗っていた水晶体が突如、熱で融解するチーズのようにとろけ始めた。
「ちょ、ちょっと!」
「え? え?」
 その変化に引き付けられた意識が一挙に揺り戻される。
 だが、時既に遅し。水晶体の起こした変化に戸惑い、掌から振り払おうとするよりも前に
各々の掌から水晶体はすっかり融け切ってしまったからだ。
 残されたのは一時のパニックの余韻と、掌に残った湿っぽい、あたかも水分が染み込むよ
うな奇妙な感触。
「……何だったんだ?」
 掌をぼうっと見つめて、ハルが皆の心情を代弁する。
 同じような格好のままで僕達六人は、そのまま暫くの間、呆然と未だそこかしこに青紫色
の光が残された河川敷に立ち尽くしていた──。


 Chapter-1.二年目の春

 しばしば、瀬尾胡太郎は夢を見ていた。寝ている時に見る夢である。
 それだけなら誰にでもある事だろう。だが、毎回細かい部分は違うとはいえ、全体の様相
が奇妙に同じなのだ。それが記憶にある限りもう五年近く続いていた。
 内容はこうだ。気が付くと、胡太郎の意識はとある場所に移っている。灰色のような、視
界の行く先が曖昧な靄に掛けられているような、だだっ広く上下左右の感覚すらも覚束ない
ちょっとした無重力気分を味わえる場所だ。
 その中を浮かぶようにして、様々な人や物が行き交っている。
 それも、あたかも宇宙船の中で無重力を味わっている宇宙飛行士のように胡太郎の上下左
右様々な方向から、身体の向きもバラバラに。しかし彼らはどうやらその奇妙さには気付い
ていない──否、胡太郎の存在にすらも気付いていないかに見える。
 その多くは胡太郎の記憶に殆ど無いような人々、物であったが、よく眼を凝らして見渡し
てみるとちらほらと見知った顔があるのが分かる。
 そしてその人物へと意識を集中、手を伸ばして触れようとした時、この夢はまた不可思議
な世界を見せてくる。触れようとした瞬間、辺りを行き交っていた人々や物がふっと一斉に
消え去ってしまうのだ。
 代わりに目の前に残るのは、ずらりと並ぶ無数の扉と、立ち並ぶ扉の空間の奥へと進んで
行ってしまう、触れようとした相手の姿。空間を覆う灰色と靄は一層濃くなり、今ここに意
識がある事すらも不明瞭にさせかねない感触すら覚えさせられる。
 暫く呆気に取られた後、視線は吸い寄せられるように無数の扉へと移る。そしておもむろ
にその内の一つの扉を開く自分がいる。
 扉の向こうに見えるのは、決まって先ほど触れようとした相手の姿だ。
 俯き加減に自分と並んで歩く幼馴染の女の子。マウンドに立ち、大好きな野球を楽しんで
いるその兄。ドアノブに触れてビクッと一度飛びずさるも、次の瞬間には朗らかな笑顔でこ
ちらに向かってくる同級生とその親友。教室の窓際に寄りかかり、ポケットに手を突っ込ん
だままこちらを見遣ってくる、ちょっと目付きの鋭い友人の姿……。前段階で意識を向け、
触れようとした相手の姿だ。
 そうした彼らの姿を暫く眺めていると扉がゆっくりと閉まっていき、バタンという音と共
に、気付けば最初の人々や物が行き交う空間に戻っている。そしてまた誰か見知った顔に意
識を向けるとまた扉ばかりの場所に出る……そんな事を繰り返すのだ。
「────うんっ……?」
 そしてこの日も、胡太郎はそんな奇妙な浮遊感に浸りながら見るいつもの夢がぐわんと揺
らぐのを感じて己の覚醒と朝の到来を知った。
 ぼんやりとした意識で寝惚け眼を擦り、天井の木目を暫し眺める。
(起きなきゃ……)
 もそもそとベッドから這い出し、部屋のカーテンを開ける。サァッという金属音と共に朝
の日差しが身体に染み込んで眠気をいい具合に搾り出す。今日もいい天気のようだ。
 クローゼットを開けて学校の制服に袖を通しながら時間を確認。まだ余裕はある。今日の
目覚めはいい方だった。
「……よし」

「お? おはよう、胡太郎」
「おはよう。父さん」
 鞄を片手に二階の自室からダイニングキッチンに降りると、既に父・幸志郎がテーブルに
着いて新聞に目を通している所だった。目の前には既に平らげたと見える朝食の皿も数枚並
んでいる。胡太郎はその横を通って洗面所に向かう。
「……父さん、もしかしてまた徹夜したの?」
「ん? あぁ」
 ややあって顔を洗って戻ってきた胡太郎は幸志郎に何の気なしにそう尋ねていた。彼のワ
イシャツはヨレヨレになり(服装に割合無頓着なのは仕事上、そして本人の性格上、今に始
まった事ではない)、目の下にも若干の隈が見えたからだ。
「今月は結構、締切の早い原稿が溜まっていてね」
「なら、もっと早い内に済ませればいいじゃない。もう今月も一週間ちょっとだよ」
「そう言われてもね。やっぱり気が乗らない時にいいものは作れないんじゃないかな?」
「そういうモチベーションの管理も仕事の内じゃないの?」
「はは、確かにね。でも仕事だと思って書くばっかりじゃ続き難いと思うよ。興味というの
かな……稼ぐ為以外の興味というか、動機が割合大事なことが多いんだ。少なくとも、僕の
場合はね」
 幸志郎の職業は作家である。広い意味での文章家というべきか。
 学生時代から続けていた趣味が高じた結果なのだそうだ。だからこそ彼は肩の力を抜いて
取り組む事を重んじているようだった。実際、好きな事を続けられるのはある意味才能と言
ってもいい。人は何処かで理由を作りがちだからだ。勿論、持続というものが当人の努力の
上に立つのは言うまでもないが。
「ふ~ん。そんなもの、なのかな……」 
 そんな穏やかさを持つ父を、胡太郎は嫌いではない。厳格な父親像よりはずっと。
 それでも一応は子を持つ親である以上、責任感を持って欲しいと思うのもまた事実だった
りする。だからつい緩い(ように見える)姿勢を見ると小言が出てしまうのだろう。
 だが、あまり小言を言い続けるのも双方に良くないので、胡太郎は適当に話を中断して冷
蔵庫の戸を開いて朝食の準備に掛かる。トーストとコーヒー、目玉焼き。簡素なものだ。
 幸志郎は新聞に目を通したまま、胡太郎はキッチンの端で卵を割って少量の油を敷いたフ
ライパンに落とし、料理を暫く続けた。
「お。またか……」
 やがて、その沈黙を破ったのは父の方だった。
 胡太郎もちらりと彼の方を見ながら、焼き上がった目玉焼きを皿に移す。
「何が?」
「あぁ。ほら、最近起きている通り魔事件だよ。また犠牲者が出たみたいだね」
「通り魔……」
 そう言えばそんな話を聞いた記憶がある。胡太郎は夕方のニュース番組や学校での雑談か
らその記憶の断片を拾い出していた。
 それでもそんな事実は、遠い。ニュースで報じられる様々な事件は世間で起きているもの
のごく一部だが、それらに関わる一個人の確率はもっと低くなりがちだ。
「物騒だね」
「そうだな。胡太郎も充分気をつけるんだよ? 何せこの通り魔事件、この玉殿市(たまど
のし)が中心になってるそうだからね……」
「……何もこんな田舎町で起こさなくてもなぁ」
 新聞から目を離して自分を見つめる父の瞳は真面目さを帯びたものだったが、胡太郎は内
心話半分で聞いていた。むしろこれが大半の非関係者が思う感慨である事だろう。
 トーストも焼け、コーヒーも既に父が炒れたものの残りがある。胡太郎は出来上がった朝
食をテーブルに並べ、冷蔵庫からマーガリンを取り出し、席に着いてトーストに塗る。
「……さて。いただきます」
 そして、僅かに残るけだるさを感じながら朝食を摂り始めた。

 玄関の呼び鈴が来客の存在を報せたのは、胡太郎が朝食を摂り終え、後片付けも大方終わ
ろうとしていた時の事だった。
「……えっと、来たかな」
「胡太郎。後は僕がやっておくから、行っておいで」
「うん。ありがと」
 そう言う幸志郎と流しの前で入れ替わり、壁に掛かっている時計を見上げる。
(時間通り。やっぱりか)
 椅子に立て掛けておいた鞄を片手に、胡太郎は玄関先へと出て行く。
「おはよ。コタロー」
「お、おはよう……。コー君」
 玄関先には二人の、胡太郎同じ学校の女子制服姿の少女がいた。
 一人はミドルショートの髪を揺らして勝気な笑みを浮かべ、もう一人は鞄を握った両手を
前に組んで照れながらその横に立っている。
「おはよう。タマちゃん、ヒナちゃん」
 飛鳥部環と新條陽菜子。胡太郎の幼い頃からの仲間達の一部である。そろそろいい歳こい
てこんな呼び合い方は無いんじゃないかと思う事はままあるが、長い付き合いによる慣れの
方がいつも白星をあげる為に中々変わった試しがない。
「あ、えっと。これ今日のお弁当」
「うん、ありがと」
「……うん」
 そしてこれも恒例となった、陽菜子からの昼食用弁当の差出し。
 始めこそ戸惑ったものの、共働きな新條家の台所周りを仕切る彼女曰く、
『二人分も三人分も、作る分には一緒だから……』
 と、はにかんで譲ってくれない。何より仲間達のマスコット的な存在でもある彼女から懇
願と期待の眼差しで見つめられた日には、胡太郎も否とは言えず……。何よりも自分で作る
よりも遙かに凝っていて美味いのだから文句のつけようもない。
(…………)
 しかし、毎度毎度彼女のはにかみっぷりを目の当たりにするのはこそばゆかった。
「と、ところでハルはどうしたのかな?」
「え? あ、お兄ちゃんなら、朝練があるから先に出掛けたよ」
「朝練……あぁ、野球部の」
「今年になってやっと解けたからね~活動自粛」
 そう呑気に反応する環だったが、実際当時は大変だったよなぁと胡太郎はおもむろに記憶
を辿っていた。
 去年の春休み前、野球部の部室裏でボヤ騒ぎがあったのである。
 原因は部室裏で煙草を吸っていた部員の火の不始末……という話だが、実際発見が遅かっ
たらもっと被害は大きくなっていたに違いない。活動自粛が今年に入るまで長く続いたのは
部員の素行不良以上に、火事になったかもしれない可能性と軽薄さへの処罰と言ってもいい
かもしれない。どちらにせよ、外部への面子には傷がついたのだから。
「お。やっぱり君達か」
「あ、おじ様……」
「ども。おはようです」
 そうこうしていると、幸志郎がひょっこりと顔を出してきた。陽菜子と環もその姿を認め
て会釈を返す。幸志郎はそんな彼女達に穏やかな笑みで応えていた。
「胡太郎。そろそろ出た方がいいんじゃないかい?」
「え? あぁ、本当だ……行こうか」
 指摘されて腕時計を見るともうそろそろ何時もの出発時間。
 胡太郎は心持ち急ぎ気味に二人を連れて出発しようとした。のだが、
「胡太郎」
「? 何?」
「朝から羨ましきかな。女の子に囲まれて登校なん──」
「行ってきます。父さん」
 茶目っ気を以ってからかいの言葉をわざわざ向ける父に、胡太郎はさっと踵を返して形だ
けの挨拶をして再び歩き出す。
「お~い、コタロー。何してんの?」
「ああ、うん。今行く」
 朝食の前に通り魔の話をしたからだろうか。取りとめもない日常が何よりも掛け替えのな
いものだ、という常套句が胡太郎の脳裏を過ぎった。
 確かにそうかもしれないと思いはする。だけど、それは彼自身にとってやはり単なる常套
句でしかない。単なる言葉でしかなかった。

 
 学校に向かう道中はいつものように他愛の無い雑談と徒歩で占められていた。
 その話題の中には、父が新聞で見つけた件の通り魔事件も挙がったが、三人共がそれでも
やはり遠い感覚で語り、感じる程度のものである事に変わりは無かった。
 話題を次々に消化していくに従い、必然、同じ制服の生徒達の姿がちらほらと見受けられ
るようになった。それは学校の正門から延びる道路とその両端に立ち並ぶ桜の並木道に入る
とより顕著になる。
 新年度に入ってもうすぐ二ヶ月が過ぎようとしている今、桜の盛りは過ぎ、少しずつその
桃色の花弁達を散らし始めている。だが、その桜の舞い散る様子も、地面に桜の花弁達が絨
毯を作る様子もまだ見る者達に穏やかな愉しさを感じさせてくれるに充分だ。
「……もっと、咲いていてくれたらいいのになぁ」
 ふわりと風が吹き、桜の花弁達が舞う。
 桜並木を見上げながら、陽菜子は風に靡くスカートを抑えつつポツリと呟いた。
「……そうだね」
 胡太郎は、その声に曖昧に返すしかなかった。
 何時かは散るものだ、というつっけんどんな事実を述べるでもなく、単に彼女と桜達の色
彩が似合っている事にはたと気付いたからだ。
 見た目のコントラストというよりは、両者が持つ温かみに共通点を見出せるというべきか
もしれない。少々内気で、兄や胡太郎ら幼い頃からの仲間達以外とは中々自ら交友関係を広
められないでいるらしい彼女だが、その心根の優しさを胡太郎達はよく知っている。
 とはいえ、桜という植物に果たして人間同様の心が備わっているかといえば、科学的には
ノーと言っていいのかもしれないが。
「ま、ずっと咲いているよりも一時期しか咲かないっていうのがいい味なんじゃない? 桜
だってずっと咲きっぱなしだと疲れるだろうしさ」
「疲れる、か……そうかもね」
 それでも人間でないものに対して人の内面的なものを投影しようと止まないのは日本人の
持つ性質なのかもしれない。胡太郎は何処となく嬉々として桜を見上げている環の言葉に小
さく微笑みながらそう思った。
 そうして時折立ち止まりながら散り始めた桜並木の中を通り、正門をくぐる。グラウンド
を迂回するように延びる道を通っていると、
「あ、お兄ちゃん」
 ふと陽菜子がグラウンドの一角に立つ人影の中から兄を見つけた。
「本当だ。朝から元気ね~」
「……タマちゃんも元気だよね?」
「はは。まぁ、そうだよね」
 グラウンドの一角、野球用のスペースのピッチャーマウンド上に、ハルこと新條晴市は立
っていた。ニタリとした表情でボールを握り、グローブの中にそえている。
「…………」
 練習だからという事もあるかもしれないが、表情は勝負する者の鬼気ではなく、明らかに
行為自体を楽しんでいるという顔つきだった。
 遠くから三人から見つめる中、暫く晴市はそのままの体勢でじっとしていた。
 投げる前の感触などを確かめているのだろう。時折、肩や脚モゾモゾさせているのが遠く
からも何とか確認できる。やがて、
「──ふっ!」
 その忙しなさが止み、感覚を掴んだと言わんばかりに姿勢を整えると、晴市は流れる様な
動きを見せて速球を投げ込んだ。バシンッ!というキャッチャーミットがその球を受け止め
た音が周囲に響く。一瞬しんとする空気。ぶらんと振った後の腕をゆっくりと戻しながら晴
市は投げ返してくるキャッチャーから球を受け取ると、何やら話していた。大方、投球に関
する自分の感触を報告したりしているのだろう。
「……いこっか。邪魔したら悪いし」
「う、うん。そうだね」
「だねぇ。何だか見てるだけで緊張したわ……」
 ここ玉殿北高校は、学年毎に教室の場所が分かれている。
 一階は一年生の教室と職員室など、二階は二年生の教室と移動授業で使う教室──理科室
や視聴覚室といった類、そして三階は三年生の教室……といった具合だ。
「それじゃあ、私はここで」
 玄関に入り靴箱の群れの中に入ると、陽菜子が上履きに履き替えて振り返る。
「うん。またね」
「じゃあね~」
 仲間達の中で唯一の年下、一年生である彼女とは此処で暫しのお別れとなる。胡太郎と環
は一階の奥へ立ち去っていく彼女を見送り、上履きに履き替えて二階の階段を上った。
 普通、歳(この年頃では大差ないのだろうが)を取った方が下階じゃないのかという意見
もある事だろう。それでもこういった階層分けが成されているのは、こうした所にも少しず
つ年功序列というものが現れているのかもしれない。高い場所を支配者層(?)はよく好む
という言葉もあるのだから。
「……」
「? どしたの?」
「……。いや、何でもない」
 どうでも良さそうな事ばかりが過ぎる脳内を整理していると、クラスの教室の前までやっ
て来た。既に登校しているクラスメートも多いらしくお喋りの声が漏れ聞こえてくる。
「じゃあね、コタロー」
「うん。また」
 そして今度は環と別れる。彼女は胡太郎とはクラスが違う。お隣さんだ。
 胡太郎は、にぱっと笑いそのまま元気良く隣のクラスへと入っていく環の様子を見送って
から教室のドアに手を掛けた。内気な陽菜子とは違って、快活さが目立つ環は胡太郎達以外
との交友関係も割合広い。
「…………」
 クラスの教室に入って、胡太郎はさっと周りを見渡してみた。そして予想の人物が、やは
り予想通り窓際の一角にもたれ掛かっている姿を見つけた。その人物の下に向かうまでに声
を掛けてくる幾人かのクラスメート達に挨拶を返しながら、胡太郎はその正面に立った。
「おはよう。アツシ」
「……ああ」
 返って来たのはぶっきらぼうな返事。
 それだけではない。よく観察すれば分かる事なのだが、彼の周りには胡太郎以外に積極的
に近づいているクラスメートは殆どいないという点である。それは、彼の寡黙さと眼付きの
鋭さ(彼の名誉の為に言うが、生まれつきのものだ)によるものだ。
「今日も、見事にロンリーウルフ状態だね」
「……もう慣れた」
 肩を竦めて、変わらぬ周囲を横目に見ながら胡太郎はそう言った。
 だが、当の本人は大して問題でもないと言わんばかりにまたもやぶっきらぼうな返事。視
線も長く真っ直ぐ胡太郎には向かず、やがて窓の外に注がれる。
 これが胡太郎達の仲間の一人、深森篤司である。
 一見すると他人を寄せ付けない眼付きの鋭い一匹狼。しかし、本来の彼は見かけがちょっ
と恐いだけで、ただ単に寡黙で喋るのが苦手なだけの、
「あれ? アツシ、また絡まれた? 頬っぺたに絆創膏付いているけど」
「犬を苛めてた奴らがいたからボコった。その時の」
 そして何より義に篤い少年、なのだが……。
「あ~……そう」
「……注意したら殴りかかって来た。正当防衛だ」
 正義を成すという事は往々にして暴力沙汰に繋がる危険性がある。それだけ手の出る連中
が多いご時世である。だからこそ、世の多くの人はそのリスクを天秤に掛けて傍観を決め込
もうと判断を下すのだろう。
 だが、彼はそういう場面においても正義に正直過ぎる。結果、不良に絡まれるような事態
を恐らく一般人よりも多く経験している。そしてそうした経験に慣れ過ぎている為に、腕っ
節自体もそこらの不良とは格が違うまでに「成長」してしまった。
 その為、元々眼付きの鋭さでビビられがちな彼は、自身が良かれと思った行動が裏目にな
った形となり、余計に周囲から避けられている……という訳だ。
「で、大丈夫だったの? その、色々と。相手とか」
「……相手は泣いて謝ってきた。それで充分」
「そ、そう……」
 それでも、彼は少なくとも表面上は気にしていないらしい。
 内心、胡太郎はある意味正直過ぎる彼を心配しているが、義を見てせざるは勇なき也。
 少なくとも、彼自身が好き好んで暴力を振るうような人ではないのは確かだから、それさ
え周りに分って貰えればもっと友達も増えるんじゃないかと思っているのだが……。
「ん。始業か……」
「そ、そうだね。じゃあ、また」
「あぁ」 
 胡太郎がそんな、幾度となく篤司に対して抱いてきた心配のような気持ちは、始業を告げ
るチャイムによって一旦中断される事となったのである。

 そして時間は過ぎ、昼休み。
「よっしゃあ! コタロー、アツシ。飯行こうぜ、飯」
 四時限目の終了を告げるチャイムと、教材を片付け小脇に抱えて教室を出て行く教師の姿
を確認するや否や、晴市(胡太郎達と同じクラスだ)はそう言いながらガタンと席から立ち
上がった。同じ様にクラスの面々の一挙に動き出した事で緊張の部類に包まれていた教室の
空気も一変する。
「うん、行こっか」
「……ああ」
 一応、学校には学生食堂はあるが、例によってこういった施設は主要な利用時間に人が集
中する為に混雑しがちだ。それはここでも例外ではない。逆を言えばそれだけ利用している
生徒も少なくないという事でもあるが。
 胡太郎は鞄の中から、今朝陽菜子から受け取った弁当包みを取り出すと、先に教室の扉に
手を掛けている晴市の後を追う。篤司も同じ様にしてその後に続く。
 教室を出て廊下を渡って、校舎を縦に貫く階段の方向(環のクラスとは逆の方向だ)へ。
そして階段を数段上った所で、
「あ、お兄ちゃん。皆」
 一階から上ってきた陽菜子と合流する。
 その手には小さめの弁当包みと、その倍はある大きめの弁当包みが抱えられていた。他に
も、腕には水筒や紙コップの束が入った小さな手提げ鞄が提げられている。
「はい、お兄ちゃん。これ」
「おう。サンキュ」
 階段を上りながら、晴市は妹からその大きめの弁当包みを受け取る。
 これが、胡太郎が学食を利用しない二つ目の理由である。ごく身近に料理上手の仲間がい
て、且つ甲斐甲斐しく弁当を作って来てくれるのだから。
 ガタン……
 階段を上った先の大きめの扉を開けると、一気に視界が開けた。
 屋上はアスファルトの灰色が広がり、四方をフェンスが囲っている。胡太郎達はサッと周
囲を見渡すと給水タンクで日陰になっている部分を探すと、そこに移動した。
「コー君、こっち持っててくれる?」
「あ、うん」
 陽菜子がポケットから折って小さくまとめたビニール製のレジャーシートを取り出し広げ、
その一端を彼女が、もう一端を胡太郎が持つ。日陰でひんやりとした地面にふわりと淡い虹
色がペイントされた四角形が広がる。
「──あいだっ!」
 と、シートの上に四人が座った時、後方で間抜けな声が聞こえた。
 振り返ると半開きになった屋上の入口のドアの前でフルフルと手を振るっている環と、そ
の後ろで苦笑を浮かべているやや背の高い、凛とした佇まいの少女が立っていた。
 望月沙夜。胡太郎達の仲間の一人であり、環と同じクラスでもある彼女の親友だ。
「大丈夫か、タマ?」
「あ~うん。大丈夫大丈夫。ちょっとビリッと来ただけ」
 彼女の声に、あははと軽く笑い飛ばして応えると、いようと片手を上げて胡太郎達の方へ
と歩み寄ってくる。沙夜もその後に続く。
「なんだ? 静電気か」
「みたいだね~。冬ならまだしも春だってのにさぁ」
「……静電気に季節は関係ないんじゃないのか?」
「え? そうなの」
「……いや、知らんが」
 雑談を交えつつ、こうして仲間達六人全員が集まった。
 学校ではクラス等こそバラバラになってはいるが、何時の間にか昼休みになると今日のよ
うに屋上に集まり昼食を摂るのが慣例となっていた。
「えっと……皆揃ったね。食べよ?」
 おずおずと様子を伺いながら、陽菜子が照れ笑いで投げ掛ける。
 了解、と皆がそれぞれの弁当を開けてそれぞれ目の前に置く。僅かの間。視線は自然と陽
菜子に集まっている。それに気付いていないのか、それともこうした時間が嬉しいという気
持ちが先行しているのか、彼女はにこにこと可愛らしい笑みを浮かべている。
「それじゃあ手を合わせて……いただきます」
『いただきます』
 そして、子供の給食時のようなノリで、パンという全員が手を合わせる音と同じ台詞が屋
上から青空へと染み込んでいく。その快晴の空の下で、ゆったりとした昼食時が始まる。
 新條兄妹及び胡太郎の弁当は、陽菜子のお手製だ。パッと見での派手さというものは無い
が和食を中心に小奇麗で清潔感のあるラインナップである。
「うん……。やっぱり美味しいなぁ」
「ほ、本当? よかった」
 胡太郎の素直に感想に、陽菜子はパッと笑顔を見せて喜んでいた。
 味が今ではいつの間にか彼の好みに調節されている(これまでのやり取りの中で彼女が試
行錯誤をしてくれたのだろう)ことも大きいが、父子家庭の胡太郎にとってはただ単に丹精
込めた手作りの料理という時点で既に高ポイントなのである。……そんな事は流石に恥ずか
しくて本人の前では言えたものではいが。
「そりゃあそうだろ。陽菜子はしょっちゅう家じゃ台所に立ってるしな。下手すりゃお袋よ
りも料理できるんじゃねえか? ……モグモグ」
「こら、食べながら話さないの。ていうかあんたの弁当、量多くない?」
「そうか? 俺はもう二時限目には腹減ってたんだが」
「早っ!?」
 環が軽めに注意してくるのを横目に、晴市は皆の中でも一際大きな弁当箱の料理を次々と
箸でつまみながら口の中に放り込んでいく。
「何ていうかなぁ……ここの所、腹が減りやすいんだよ。やたらに」
「う~ん。食べ盛りなのかな」
「……そうだね。お兄ちゃん、最近はちゃんと野球部の練習にも出ているから」
「そうそう。野球部よ、野球部。あんた前はもっとサボり魔だったじゃないの。急に真面目
になったから身体がついていっていないとか、そういう事なんじゃない?」
「さぁな。ていうか別にサボってなんかねぇよ。野球は好きだけど、他にも面白そうな事が
あるからそっちもやってただけだ」
「……それをサボりと言うんだろう。陽菜子、茶を」
「あ、うん。どうぞ」
 ポツリとツッコミを入れながら、篤司が陽菜子からお茶を注いだ紙コップを受け取る。
 少しの間。その隙を縫うように彼が茶を啜る音が走る。
「なに、どうであれ一つの事にじっくり取り組む事は悪い事ではない。とはいえ、ハル君は
興味があちこちに移りがちな所があるが……」
 続いて、自分の言葉に自分で納得するように頷く沙夜。
「ふふ、好奇心旺盛と言ってくれよ」
「……ものは言いようだな。だが、それも場合によっては美徳か……難しいな」
「あ~……サーヤ、あんまりハルの言葉に一々考え込まない方がいいと思うよ?」
 少々生真面目な沙夜がうぅんと唸るのに、環が苦笑しながら進言を加える。
「そうそう、あんまり難しい顔してると老けるぞ」
「あんたの話でしょうが! ていうかレディに老けるとか言うな!」
「あはは。まぁまぁ……」
 基本的に、晴市と環の漫才的会話に周りがちらほらと合いの手を入れる、というのがこの
仲間内での会話なっていた。それは昔から何ら変わらない。胡太郎が、この町に越して来て
彼らとの出会いを果たしてから、何ら。
 今日も、そんな何時もの勝手を知っているが故の付き合いが繰り広げられる。
 口喧嘩に見ても実際はお互いをよく分かっているハルとタマちゃん。そんな兄と幼馴染の
お姉ちゃんを微笑ましく見守るヒナちゃん。ある意味冷静な反応で適度にスパイスのような
ものを加えつつ、その心地よい喧騒を楽しんでいるアツシとサーヤ。
 そして何より、そんな昔からの仲間達との時間に居心地のよさを感じている自分。
 天気は春麗らか。少し夏の気配も見え隠れする。
 薄雲が点々とするだけの快晴の空の下、今日も騒がしくも楽しい昼休みは過ぎていった。

 
 更に時間は過ぎ、放課後。
 昼食後の満腹感が例の如く午後の授業をすっかり睡魔との闘いに変えてしまった為に、正
直な話、その間の授業のノートには書き損じが多く、それを埋める為にクラスメートに頼っ
ている間にすっかり周辺の空気は部活モードに変わっていた。
「悪いね。手間取らせちゃって」
「……御安い御用だ」
 教室からは大半の生徒が出払い、残っているのは雑談に興じる女子生徒など僅かな人数し
かいない。胡太郎は篤司(彼は睡魔すらも殴り飛ばしているらしい)から写させて貰った自
分のノートを鞄にしまいながら、傍らに立つ彼にそう言葉を掛ける。それでも当の彼はやは
り何ともなさげに佇んでいる。視線も時々ちらほらと横に逸れ、それに気付いた居残ったク
ラスメートに心持ち避けられるとまた戻ってくる、といった事を何度か繰り返している。何
とも言葉には出さないが、やはり少し悔しく思った。
 二人して教室を出る。
 廊下で何人かすれ違う生徒もいたが、やはり多くは部活に精を出しているようだ。室内な
ので幾分緩和されているからか、遠くグラウンドからは各種運動部の掛け声が耳に入ってく
る。ちなみに環はラクロス部、沙夜は剣道部に所属している。
 玄関で靴に履き替えて、外へ。
 ここまで来ると先ほどの運動部の面々の声がはっきりと聞こえるようになる。朝練の時と
は違い、活気が違う。そんな彼らのグラウンドの横を迂回するように正門へ向かっている途
中で胡太郎は見慣れた顔を見つけた。
「……ヒナちゃん?」
「え? あ。コー君、アツシ君」
 彼女も二人が近づいてくるのに気付いてはっと振り返る。ふわっと背中近くまで伸びた髪
が揺れた。その様子に、胡太郎は何処となく僅かな焦りを見たような気がした。
「どうしたの? こんな所で」
「う、うん……」
 少し視線を泳がせてから、
「お兄ちゃんの、練習の様子を見ていたの」
 彼女はそう答えた。
 確かに今、彼女の立っている場所からは野球部の練習風景を見渡す事ができた。マウンド
上には朝練の時と同じく、晴市の姿がある。
「ふ、二人とも、今帰り?」
「うん。そうだよ。ヒナちゃんも一緒に帰る?」
「う、うん……」
 応答につい晴市に視線を向けていると、陽菜子が窺うような声色で聞いてくる。しかし胡
太郎は特に不審がる訳でもなくごく普通に答え、そして誘おうとしたのだが、
「……胡太郎」
「ん?」
「お前ら、二人で帰れ」
 突然、胡太郎の横で黙っていた篤司がそんな事を言ってきた。
 いきなりそう言われたので胡太郎もすぐには言葉を返す事ができず、疑問符を頭の上に浮
かべるだけだった。
「まぁ、いいけど……用事でも思い出したの?」
「……そんな所だな」
 あまり深く問う訳でもなく、また答えてくれる訳でもなく、篤司は応答もそこそこに独り
その場から歩いて離れていく。胡太郎は背後に立つ陽菜子と、軽く一度片手を上げた彼の後
ろ姿を見送る事しかできず、暫くその場に立ち尽くしていた。
「……さて。僕らも行こうか?」
「う、うん……」

 正門を出て、散りつつある桜並木を歩く。
 今朝は桜を見上げて会話が成立していたのだが、
『…………』
 お互いに、言葉がない。
 否、胡太郎は何か軽く雑談でもしようかと思っているのだが、傍らを歩く陽菜子の様子を
見ると不意に出掛かった言葉が止まってしまうのだ。
 即ち、彼女が俯き加減で明らかに緊張しているという様子である。
 胡太郎はますます内心、首を捻った。内気な性格は昔からの事で胡太郎自身もよく知って
いるつもりでいるのだが、長い付き合いのある仲間の一人である自分といるのにここまで緊
張されるとは。もしかしたら、普段は兄や仲間達に囲まれているから緩和されているだけで
あって、実はこちらが思っている以上に引っ込み思案なのかもしれない。学年が違うという
事もあるが、実際、彼女が普段どのような付き合いをしているのかまで把握している訳でも
ないのだから。
 さて、どうしたものか。
 思案する間に桜並木も通り過ぎてしまい、二人は歩道沿いの通学路へと突入していた。
「……こ、コー君」
 だが、そんな思案は以外にも彼女側から解消の糸口を見つける事ができた。
「ん? 何かな?」
 ぼそっと、気弱な声色であったが胡太郎はそれを聞き逃さず、できるだけ意識して柔らか
な物腰で暗に続きを促してみた。
「わ、私が正門の近くに、いた時なんだけど」
「うん」
「……いつから私がいるのを見てたのかな?」
 妙な事を聞くなぁ。胡太郎はそう思った。だが折角、彼女が振り絞ってくれた言葉だ。無
碍にするつもりなど毛頭ない。意図はよく分からないが正直に答える事にする。
「そんな長くなかったと思うよ。玄関から出て暫くしてヒナちゃんを見つけた時、すぐに声
に出していたから」
「そ、そう……」
 彼女は落ち着きなさそうに視線を泳がせていた。
 恥ずかしいのか、頬はほうと赤く染まり、そんな様子が内心失礼かなぁと思いながらも可
愛らしいと思う。環が時折ぬいぐるみを愛でるように彼女をハグする事があるのだが、その
時の心持ちが少しだけ分かるような気がした。
 勿論、自分がする訳ではない。流石にそんな真似は恥ずかし過ぎる……。
 逡巡は暫し続いた。どうやら何某の思考を必至に整理しているようだ。尤もそれを彼女は
必至に隠そうとしているように見えたのだが。
「……笑ったりしないって約束してくれる?」
「? うん」
 本題を言われる前に問われても困るが、不安げに見上げる彼女の瞳は真剣だった。胡太郎
は心持ち背筋を伸ばして彼女の声に寄り添おうと頷く。
「あのね。お兄ちゃんを見ていたら、その、ちょっと寂しくなっちゃて」
「寂しい?」
 少し意外な感情につい反復。
 彼女は頬を少し赤くしたまま、コクリと頷いた。
「うんと……学校に入ってからは皆、別々の時間を過ごしているんだなぁって思って……。
タマちゃんはラクロスだし、サーヤさんは剣道──昔からやっているみたいだけど、それに
お兄ちゃんも、活動自粛が解けた後は割と真面目に練習に出ているし」
 僅かにため息が出たような気がした。彼女は一拍を置き、
「頭では分かっているつもり。皆いつまでも子供じゃないし、それぞれの時間を持つように
なるのも変な事じゃないってくらい。……だけど、私性格がこんなのだから、中々皆以外の
人とお友達になるのも難しくって。その分、皆が遠くに行っちゃうような気持ちに、なっち
ゃうっていうのかな……」
 そうだったな。胡太郎は内心で思い起こす。
 もっと小さな頃の彼女は、兄や環らにくっ付いて回っていたとても内気な娘だった事、そ
してそれは年月を経て多少はマシになったかもしれないが、基本的に自分達仲間を中心とし
た付き合いになりがちであると。晴市が、以前それを兄として内心心配している旨の話をし
ていた事もあったな。そんな記憶も連鎖反応的に思い出された。
「でも、それは皆に甘え過ぎって事も分かってる。だから、皆に心配かけないように色んな
人と仲良くならないといけないって……」
「…………」
 つまりは焦りと自戒。自覚の下、胡太郎達以外との世界を彼女なりに作ろうとする気持ち
と、時にその性格から難しさを覚え、再び仲間達の方へ寄り添ってしまう。そんな自分への
罪悪感のようなもの。
 だが、そうじゃないんだ。それは。
「……そんなに焦らなくても、いいと思うよ?」
 え?と顔を上げる彼女に、胡太郎は自然と笑顔を見せていた。
「顔が利くっていうのはいい事かもしれない。だけど、本当の友達なんてそうそう作れるも
のなんかじゃないと思うんだ。でも、僕らはそれを持っている。お互いにね」
 その言葉は彼女へ、そして自分自身に確認するように向けられたものだったように思う。
 胡太郎はふぅと一息。
「別に無理してまで人付き合いを増やそうとしなくてもいいんじゃないかな? 楽観的かも
しれないけど、そういうのは縁に任せてみる位でもいいと思うよ」
「……そう、なのかな」
「僕ならそう思うよ。正直、僕も人付き合いが多い方じゃないし。一応、クラスメートと多
少会話ぐらいはするけどね。ヒナちゃんもそれぐらいはない?」
「う、うん。流石に何も話せない訳ではないけど……」
 そうだろう。だから、そんなに心配する事なんてないんだ。
「それにヒナちゃんはさ、まだまだそんなに焦らなくてもいいと思うよ? ヒナちゃんはま
だ学校に入って二ヶ月も経ってないんだから」
 できるだけ前向きに、焦りで狭まり凝り固まってしまいそうな彼女を解すように。胡太郎
は自分の場合もイメージしつつ、できる事ならその苦しみを一緒に受け止めてあげたいと思
った。長い間、一緒に過ごしてきた仲間(とも)の悩みを。
「ゆっくりで、いいんだよ」
 揺らぐ瞳で彼女は胡太郎を見上げていた。
 時折吹く風が彼女の髪をさらさらと撫でて去っていく。時間差をおくように、じわじわと
その言葉が彼女に届いたのか、彼女はゆっくりと視線を正面に、地面に落として何度か小さ
く頷いていた。
「……ありがとう」
「……ううん。どういたしまして」
 噛み締めるように心持ちゆっくりになった彼女の歩に、胡太郎は寄り添っていた。 

 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 陽菜子もいつものほんわかした笑みに戻り、そして改めて自分達の状況を再認識してしま
ったが為に、再び無言(但し、今度は気まずさではなく気恥ずかしさが原因だったが)のま
まで並んで歩いていく。その路中だった。
「あっ」
 ふと、陽菜子が何かを見つけてトタトタと駆け出していく。
 胡太郎は何だと思いながらやや早足でその後を追う。場所はちょうど住宅地帯の端に位置
する緑地公園の外周付近。そこの一角にある植え込みに彼女は屈み込んだ。
「どうしたの?」
「うん……」
 屈み込む彼女の上から覗き込むように覗くと、彼女は少し困り顔でこちらをチラリと見遣
るとその目の前の対象に再び目を落とした。
 そこにいたのは、犬だった。
 あまり大きくない薄茶色の雑種犬。首輪とそこにリードが付いたままという事は、何処か
の飼い犬だろうか。そして何よりそれよりも気になるのは、心持ちボロボロで瞳も何かに怯
えたような様子を見せている事だった。
「捨て犬、じゃないよね……飼い主はどうしたんだろう?」
「う~ん……。でも可哀想、こんなに震えて……」
 訝しげに唸る胡太郎の足元で、陽菜子は至極心配そうにこの犬を見つめて、手を差しそう
とする。だが、当の本人(本犬)はぶるぶると小刻みに震えたまま、植え込みに身をうずめ
たままで中々動こうとしない。
「ほら、怖くないよ? おいで……」
 それでも彼女は暫し粘り、何度も呼び掛け、触れようとする。その根気と彼女の優しさを
徐々に感じ取ったのか、やがて少しずつ植え込みの中から這い出してきた。
「よしよし、いい子いい子……」
 ゆっくりと、割れ物を扱うように丁寧に彼女はこの犬をそっと抱き上げると膝元に抱えて
あげる。震えるその小さな身体を鎮めるように静かに静かに、優しく薄茶色の毛並みを撫で
ていく。胡太郎は彼女の隣に立ち位置を移し、その成り行きを見守った。
「もう大丈夫。怖くない、怖くないからね……」
 暫く静かに言い聞かせながら撫でていくと、落ち着いて来たのだろうか、震えていた身体
が少しずつ静まり、不規則だった呼吸音が正常に戻っていくように見えた。加えて心持ちボ
ロボロだった毛並みも直ってきたような印象も受ける。
 やっぱりヒナちゃんはいい娘だな。そう胡太郎は感慨深げに思った。
「……落ち着いたかな?」
「うん。そうみたい」
 そうする事暫し、何かに震えるようにしていた薄茶色の犬は先ほどまでとは見違える程に
元気になったように見えた。人も犬も、心が憔悴しているのとしていないのではこれ程違う
ものなのか。そう思い、ふと先刻の彼女の不安に包まれた表情が蘇って来る。
「? コー君?」
「な、何でもないよ……。でも良かった、この子落ち着いたみたいで」
「うん……。きっと飼い主さんもこの子を探してると思うの。……探してくれる?」
「勿論。首輪とかに住所とかが書いてあるといいんだけど」
 そう言って、胡太郎がこの犬の首輪のプレートを確認しようと一歩近づいた時だった。
 それまで大人しくしていた犬が、一瞬くんくんと鼻を鳴らしたかと思うと、おもむろに陽
菜子の胸元からするりと抜け出て一目散に走り出したのである。
「え?」
「あ、ちょっと!?」
 突然の機敏な動きに驚いたが、二人は反射的に立ち上がり、追いかけ始めた。
「待って~! ワンちゃ~ん!」
 方々に分かれる住宅街の路地を、薄茶色の犬は疾走する。時折立ち止まり鼻を鳴らしてい
たようだが、それでも人と犬の走力の差は中々縮まる様子は無い。
「ど、どうしよう。見失っちゃうよ」
「……ヒナちゃん、ちょっと乱暴だけど許してね」
「へ? わっ!」
 少し躊躇したが、このまま逃がしてしまうのも気になってしょうがない。胡太郎は一度、
陽菜子に断わりを入れると彼女の手を取り、ぐんと駆け出す。
 それでも犬の方は二人を鑑みてくれる様子もなく、ひたすら走る。走る。
(……一体、何処に向かおうとしているんだろう?)
 もしかして避けられているのか。しかし先刻まで彼女の胸元に抱かれて安堵したようにも
見えていたのにいきなり逃げるのは不自然だ。
 とかく、胡太郎は彼女の手を取ったままチェイスを続ける他なかったのである。

 そのチェイスが終わったのは、それから数分後の事だった。
 小回りの効き過ぎる相手の速さと予測不能性に翻弄されつつ、二人は気付けば住宅街の中
を走る小さな川に架かったコンクリートの橋へと辿り着いていた。
「はぁ、はぁ……つ、疲れた」
「はふぅ……。や、やっと追いついたよぉ……」
 ほぼ全力疾走を余儀なくされて疲労の蓄積された身体に鞭打って、二人はよろよろと橋の
中央でちょこんと座っていた先ほどの犬にようやく追いつき、その身柄を胡太郎の胸元に確
保した。暫し大きく肩で息をつきながら、二人はすましたようにじっと一点を見つめている
この犬を見ていた。
「全く、一体何があったんだか……ん?」
 そうして落ち着いてきた所で胡太郎はその光景に気付いたのである。
「コー君、あれって……」
 陽菜子も同じ様に目を瞬かせてその光景に目を細めていた。よく見てみると、犬は先程か
らずっとその光景を見ているようだった。
 草が茫々に生えた、もはや川と言うには半ば説得力を失いつつある、人間の都合で作られ
たらしい水量の流れ。そこに明らかに不釣合いな物体が──
「……人?」
 少し距離が離れているので分らないが、間違いない。
 川の中に仰向けになって倒れている人らしき姿が確認できる。よく見てみるとその近くの
岸から、防水装備に着替えた数人の大人達がその人影へと近づこうとしている。更にその様
子を集まった野次馬達がガヤガヤと騒ぎ立てながら窺っていた。
「あっ」
 そうしている内に、再び犬が胡太郎の胸元から飛び降りて駆け出していく。行先はその先
に見える野次馬──否、川の方へと向かっている。
「ど、どうしよう?」
「……まぁ、ここまで来たんだし、放っておけないよなぁ」
 嘆息をついて小走りで犬の後を追うと、先ほどの人が数人の大人達に岸へと引き上げられ
た直後だった。よく見ると、彼らの背中には警察関係者を示す英字。野次馬達も数名の警官
達に静止されているのが分かった。
「うわっ!」
「え? 犬?」
 だが、そんな混乱も何のその。薄茶色の犬はリードを地面に擦らせながら小回りよく野次
馬の中をすいすいと潜っていってしまう。
「あ、その……すいません」
「えっと、通してください」
 それに続いて申し訳なさげなポーズをとりつつ二人が続く。こちらは犬に比べれば小回り
が利かない分、野次馬の腕や脚にゴツゴツとぶつかりながら何とか脱出する。
『…………』
 そして、目の前の光景に立ち止まった。
 ブルーシートに寝かせられた先ほどの人の姿。見た目中年の男性だ。
水に濡れて青白い肌になっているのとはもう一つ、身体を大きな切り傷で傷つけられていた
のが二人の瞳に強烈に焼きつく。
 その傷はあたかも巨大な刃物を持ち出して幾度と無く切り付けられた、そんな想像を起こ
させるような傷だった。明らかに普通の切り傷どころではない。
「な、なんだコイツ?」
「こ、こら、近づくんじゃない!」
 そして、その男性に寄り添うにして先程の犬がいた。
 警察関係者と思われる大人達を意に返そうともせず、男性の傍で座り、何度も何度も遠吠
えを続けている。騒音の類ではなく、まるで悲哀を込めたような悲しい声色。
「……もしかして」
「あの人が飼い主さん、なのかな?」
 勢いでついて来てしまった二人はその犬の姿に暫しその場に立ち尽くしていた。胡太郎は
思わず顔をしかめて、陽菜子はおっかなびっくりに、無意識の内に彼の腕にしがみついて半
身を隠しながら。
 まさか、こんな形で飼い主が見つかるなど誰が予想できただろう。
「──何だね、君達は?」
 だからこそ、声を掛けられるまで彼の登場に気付けなかったのである。
 二人が驚いて振り向くとそこにはコート姿の男性が二人、数名の警官を伴い立っていた。
 一人は中年近く、もう一人は比較的若い。
 刑事だ。胡太郎はサスペンスなどで見る刑事をイメージして彼らを見た。
「えっと、あの犬の飼い主を探していて」
「犬?」
 胡太郎が指差すのを見て、中年の刑事は倒れた男性──否、亡くなった男性の傍らで哀し
く吠え続ける犬を見遣った。暫く見つめた後、
「彼がそうだと?」
「……多分ですけど。あの子が自分でここまで走ってきたので」
「ふむ……」
 刑事は口元に手を当て再び犬を見遣った後、二人をじっと観察するように見つめた。
「分かった。あの犬の飼い主も探させよう。君の言う通りならあの犬の登録番号とガイシャ
の身元を調べてみれば分かる事だしな」
「あ、はい。ありがとうございます」
「ご、ごさいます……」
 緊張気味に頭を下げる二人を横目で見遣りつつ、刑事はその旨の指示を近くの部下に飛ば
した。命令を受けた警官が犬の下に近寄りそっと抱きかかえるのが見えた。それでも薄茶色
の犬は哀しい遠吠えを止めることはなかった。
「さ、君達は早く帰りなさい。……物騒な世の中だからな」
「は、はい……。帰ろうか、ヒナちゃん」
「う、うん。し、失礼しました……」
 促されて、二人は例の犬に一度振り返った後、コクリと頭を下げて帰っていく。事態を見
ていた警官が野次馬の中から道を開けて誘導してくれ、やがて二人の姿は野次馬の向こうへ
と消えていった。
「……どうしました?」
「……。いや、何でもない」
 その様子をじっと見送っていた刑事に、若い方の刑事が声を掛ける。彼はそれに何ともな
く短く答えると踵を返し、草を踏み分けて死体となった男性の前に近づき、じっと青白くな
ったその表情、そして深々と刻まれた傷跡を見下ろす。
「…………また、出たか」
 そんな彼の声は、慌しく動き回る方々の雑音の中に掻き消えていった。

スポンサーサイト
  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
  2. Amethyst League
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<(長編)Amethyst League〔2〕 | ホーム |

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://higurasisouann.blog27.fc2.com/tb.php/6-832405b0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

訪問者累計

最新記事

最新発言

検索窓

月別履歴

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

分類/索引

【案内板】 (2)
【小説:短編】 (20)
本の蟲 (1)
硝子野不動産店 (1)
夏の日の幻影 (1)
四番線の彼女 (1)
夢視の宿 (1)
線を曳く町 (1)
炬燵の神様 (1)
三者三盗噺 (1)
色眼鏡 (1)
奴らは攻城戦師 (1)
詰め替える (1)
同じ籠の狢 (1)
二十年後の遺言 (1)
轍の先 (1)
水に流せば (1)
真夜中の御二柱 (1)
いつか見た夢 (1)
神様達の初詣 (1)
白い花束 (1)
丸の代償 (1)
【小説:長編】 (144)
Amethyst League (6)
アンティーク・ノート (3)
ユウキのヒカリ (5)
NIGHT GUNNERS (5)
レディ・ルーン-Bonds of RU'MEL- (6)
ユーヴァンス叙事詩録-Renovin's Chronicle- (84)
死に損いのデッドレス (5)
Dear SORCERY (4)
サハラ・セレクタブル (26)
【企画処】 (325)
週刊三題 (315)
その他参加物 (10)
【資料庫】 (15)
【落書帳】 (6)
【詩歌帳】 (6)
【雑記帳】 (309)
【読書棚】 (30)
【遊戯倉】 (23)
path. (4)
decide: (3)
ユー録FW (15)

記事録

交友関係

このブログをリンクに追加する

(RSSリンク)

(QRコード)

QR

@long_month からのツイート