日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)Dear SORCERY〔2〕

 かつて、とある魔術師同士の抗争があった。
 結局何が彼らをそこまで争わせたのか、この時は判らなかった。
 ただ確かなのは、彼らが魔術師の“領分”を越えたことで、閑静な夜の住宅地を一つ、大
火に呑み込んだという事実だけである。
「しかし……酷いものですな」
「ええ。これは聞いていた以上に面倒な事になりそうです」
 故に事態は由々しきものだった。それは秘匿されるべきものだが、由々しきものだった。
 魔術と科学は相容れない。数百年以上前に、両者は別々の道を歩み始めた。
 だからこそ棲み分けなければならないのだ。魔術(こちら)側が科学(むこう)側に害を
加えるような事案が発生すれば、それは長短どちらの目で見てもこの峻別を脅かす。
 事件を受け、周辺に居を構える魔術師を中心としたチームが現地に入っていた。
 当面の拠点として提供されたのは、現地に建つ小さな教会。
その元礼拝用の地下室に集まった面々は、寄せられる報告と実際に──秘匿、その細工の為
に運び込まれた犠牲者らの亡骸を目の当たりにし、総じて渋面を隠せない。
「魔術物質の採集を急げ!」
「息のある人間には記憶の操作を」
「……ミセス瀬名川。彼らの容態は……?」
「正直、厳しいですね。火傷、創傷、肉体的なダメージ以上に魔術の余波が治癒を妨げてし
まっていますから」
 そこには、彼女もいた。
 瀬名川アリス。日本人の夫を持つ英国出身の魔術師だ。魔術医療に長けた手術服姿の彼女
は、仮設の寝台にずらりと並べられた人々の間を忙しなく行き来しつつ、そう淡々と処理を
続けながら応えている。
「そうですか。ではせめて、彼らから魔術の痕跡を除去する方向でお願いします。もう少し
すれば全員、向こう側に引き渡しますので」
「……。ええ」
 カツンカツン。タイル張りの床の上を、そう言い残した魔術師の一人が踵を返していく。
 手術服で表情が隠れていて良かったとアリスは思った。
 つまり、まだ息のある彼らの生死には関わらないということなのだ。最終的には救急──
科学(むこう)側の病院へと引き渡される。
 あくまで自分達の目的は、魔術の痕跡を揉み消すこと。
 政府が今回の件でどれだけ口煩く苦情を言ってくるかは分からないし、自分のような末端
の魔術師が知ったことではないが、命より重いものがあるというのは……正直胸糞悪い。
 既に死んだ、魔術物質を除去し終わった犠牲者は、早々に引き渡され出したようだ。
 翌朝には、彼らは犠牲者○○人という数字の一つになるだろう。そして原因は住宅街に敷
かれたガス配管の破裂──と、表向きには発表される。そういう手筈だ。
 夫を含めた同胞らが、既に政府当局筋と刷り合わせに入っていると聞いた。
 後始末。尻拭い。そう言ってしまえば簡単だが、やはりこういった仕事を受けるのは貧乏
くじなのだろうなと彼女は思う。
「……」
 また一人、助からない命を看取った。そっと瞼に指先を当て、静かに眠らせる。
 自分の薬を投与すればまだ助かる可能性はあった。だがそれはこの状況では許されない。
魔術の痕跡を第三者に悟らせない為の工作をしているのに、魔術薬を投与しては目的が入れ
替わってしまう。……それは許されないことだ。
 ずらりと患者達を見渡し、アリスは静かに目を細める。……ざっと三割か。
「み、ミセス瀬名川」
 そうしていると、別の方から声が掛かった。他の患者達とは距離を置いて隔離されている
重要な者達の寝台だ。
「彼の呼吸が戻ってきました。目は、まだ当分覚ましそうにありませんが」
「そう……」
 厚手のビニールカーテンを潜り、アリスはその中に入った。そこには三台の寝台が用意さ
れており、内二つには見るも無惨な遺体──大人が二人、残る一つには焼け焦げをあちこち
に残す幼い少年が寝かされている。
 様子を見てくれていた同じ医療系統の魔術師が、おずおずと表情を強張らせている。
 アリスはそっと歩み寄り、彼と替わった。
 無理もないだろう。ここにいるのは今回の事件の犯人──抗争の末に死んだと思われる当
の魔術師たち本人なのだから。
「しかし、一体どういうことなんでしょうね?」
 少年の顔にそっと手をかざす。腰を落として寝台の位置に目線を合わせる。
 微かだが吐息を感じた。ゆっくりと、とてもか弱いが胸が上下しているのが確認できた。
 助手役の彼が言っていた。アリスは最初何も言わなかった。それは話を聞いていなかった
のではなく、自分もまた答えようがなかったからで……。
「彼らの傍に、この子は倒れていた。二人とも死んでいた──魔術的な力で殺されていたに
も拘わらず、この子にはこうして息がある。巻き込まれたにしては……不自然です」
「そうね」
「や、やっぱりこの子が……? 腕のアレがありますし……」
「……」
 実際の現場は、ちらっとしか見ていない。
 遠巻きにだがそれは地獄絵図だった。
 夜の闇を煌々と照らす赤。だがそれらは全て炎であり、何百人もの人々の家を生活を消し
炭と瓦礫に変えてもなお燻り続ける色だった。
 この少年と魔術師二人の遺体。
 彼らが運び込まれたのは、こちらに拠点を作ってからちょうど最初の第一陣のことだ。
『どうやら事情は更に拗れているらしい……。観れば分かる。アリス、この子を頼む』 
 夫らが大慌てで担ぎ込んできたもの、それがこの三人だった。
 大人、魔術師二人は既にその損傷著しい見た目からして絶命していた。なのにもう一方、
残る少年だけは──まるで何か力を使い果たしたかのように眠っていたのだ。
 文字通りボコボコにされた二人の魔術師。今回の大罪人。
 だがその死という末路は、本当に彼ら同士の抗争「だけ」に因るものなのだろうか?
 今でこそ次々と運ばれてくる犠牲者・患者への対応であくせくしているが、最初この三者
を見た時、自分を含めたこの場の皆は悔しさ──そして戸惑いを隠せなかったものだ。

 まさかこの子が、二人を殺したというのか……?

 疑いはやがて半ば確信へ。彼が宿していたそれによって、自分達はその考えから逃れられ
なくなっていた。
(……一体、君は何を願ったというの……?)
 この地下室にも、時折遠くけたたましいサイレンの音が届いてくる。
 尚も眠るこの幼い少年を見下ろし、アリスはそう何度となく繰り返す問いを紡いでいた。


 第二幕:禁呪の人 -Populus magica prohibentur-

「君、誰……?」
 それは麻弥にとって想定すらしていなかった反応だった。
 制服姿の少年(ひじり)が訝しげにこちらを見ている。瞳がぐらぐらと揺れている感覚す
ら妙にリアルで、ちょうど吹き抜けた一陣の風は、さも自分達を隔てんとするものであるか
のようで。
「覚えて……ないの? まさか、あの事故の後遺症が──」
 そして不意に思い至ると、思わず口元に手をやって絶句した。
 あり得る。だとすれば何とも短慮ではないか。
 身体的なものか精神的なものか、あの事件は自分達にとって決して小さなものではないの
だから。
「……すまないが。君こそ誰だい? ここの生徒、ではないみたいだけど」
 一方で、彼女を訝しむ人物がもう一人いた。他ならぬ聖の横にいた晴だった。尚もぼうっ
と突っ立ってしまっている義弟(とも)に代わり、彼はスッと数歩前に出るとそうこちらに
誰何してくる。
「え、えっと……」
 麻弥はすぐに答えることができなかった。
 果たして、どこまで喋ってしまっていいものなのか?
 少なくとも魔術絡みの発言はすべきではないだろう。既に警戒されているし、こちらの素
性にも薄々気付いているかもしれないが、お互い穏便に事が済むに越したことはない筈だ。
「その。私、昔ひーく──彼のお隣さんだったんです。幼馴染っていうか……。そうしたら
偶然、この街で彼の姿を見かけて……。それで、会いに来たんですけど……」
「……ふぅん?」
 嘘は言っていない。ただ、巫監のエージェントという身分は結局伏せたままだった。
 だからか、それでも晴の疑いの眼差しは晴れなかった。
 じとっとこちらを値踏みするような眼。……そうだ、やはり無理があったのだ。そもそも
あの日、自分達は路地裏の一件で顔を合わせている。自分個人の動機が言葉の通りであれ、
彼が額面通りに信用してくれる保証なんて、どこにも……。
「だからって、学園にずかずか入って来れるなんて思えないんだけどね?」
「うっ」
 案の定だった。彼はそれでもこちらの不自然さ、矛盾を突き、揺さぶってくる。
「……僕らの記憶力も舐められたもんだな。まさか覚えていないだろうと高を括っていたの
か? 君はあの日、路地裏に飛び込んできた魔術師達の一人だろう? 鳩──式神を使って
いたのを、僕はちゃんと見てる」
「……」
 だから、いやようやく、麻弥は思わず彼らに声を掛けてしまった自分の判断が間違ってい
たのだと後悔していた。
 ひー君が自分のことを覚えていないのはショックだった。だけどもっと喫緊の問題が自分
の不注意のせいで持ち上がってしまっている。
 例の魔術薬を服用していた学生達。
 その彼らを倒していた──らしいこの二人との関係性。
「君は何者なんだ? 一体、何を隠してる?」
 事態が拗れてしまっていた。
 このハーフの少年の態度を硬化させたことで、巫監としての本来の任務が──。
「……」
「? 聖?」
 だが、そんな時だった。それまでぼうっとしていた聖が、ふと自分を庇うように前へ出て
いた晴を押し除けるとゆっくり歩き出したのである。
 そんな友に、妙に俯き加減の彼に、晴はふらつきながら眉を顰めた。
 それは麻弥も同じだった。
 思い出してくれた? いや、そんな感じではない。
 ただゆらりと、ゆっくりこちらに歩いて来て、ニタリと口角を。
「がっ──!?」
 一瞬の出来事だった。麻弥は察知することさえもできなかった。
 認識したのは、息苦しさ。彼はゆらり歩き出したかと思うと、一気に──それこそ常人で
はあり得ないような加速でこちらの懐に入ると、右腕一本で彼女の喉元を掴んで持ち上げて
いたのである。
「しまった……!」
 晴が逸早く、この状況が何を意味しているかを理解し、聖に飛び掛ろうとした。
 しかし予想済みとでも言わんばかりに彼を邪魔するものが躍り出た。
 ──“闇”である。
 まるで底なし沼のような真っ黒な泥が、麻弥を締め上げる聖の全身から大量に溢れ出し、
晴の行く手を遮ったのだ。
「……ハハハッ! まさかのお前かあ。折角命拾いしたってのに、またのこのこやってくる
なんてなぁ!」
「ぐっ……。わ、私を、知って、る……??」
「おうよ。《羊》達は断片的にしか覚えてねぇが、記憶の収集は俺の役目だったからなあ。
よーく覚えてるぜ? 谷崎麻弥。この相馬聖(オリジナル)が、俺達を引っ張り出してまで
守らせたガキんちょだ!」
 邪悪な哄笑。猛烈なその握力にもがき苦しみながらも、麻弥は直感する。
 ──ひー君じゃ、ない……。
 溢れ続ける黒いぬめりに少しずつ抵抗する指先も取られる中、更に彼女は確かに見た。
 こちらを締め上げて見上げてくる目。その両の瞳が紫に、闇を思わせる暗く濃い色に輝い
ていたのを。
「止めろ《沼》っ! 戻って来い《羊》っ!」
「無駄だよ。暫くは出てこれねぇ。俺達が押さえてる。大体晴、お前にだって利益はある筈
だぜ? 原典(もとのコイツ)を知ってる人間がいれば、その数だけリスクになる。俺達や
お前ら母子(おやこ)だって……呑気に暮らすこともできなくなる」
「……」
 闇に阻まれて急停止し、それでも彼を止めようと叫んでいた晴が、はたと口を噤んだ。
 納得したから……ではない。迷いのようだった。麻弥には、締め上げられる苦痛もあって
よく分からなかったが、どうやら彼はこの変貌した少年からの指摘に苦々しく黙るしかない
らしい。
「どう……して? 何で、こんな」
「何言ってんだか。お前がのこのこ出てきたからじゃねーか。更に魔術(こっち)の関係者
にまでなってやがる。……捕りに来たんだろ?」
「ちがっ」
 違うの。もしかしたら──今回の事件の犯人が貴方なら、そうしなければいけない立場だ
けど、ただ私は貴方に、生き延びていてくれた貴方に会いたかった──。
 しかしそんな彼女の言葉は、もう言葉にすらならなかった。
 冷たく重い、巨大な万力のようにじわじわと締め付けられる感触。狭まっていく呼吸。
 聖は暫しじっとそんな麻弥を見上げていた。やがて涙が生まれ、苦しみと哀しみで歪めら
れたその表情すらも。
「……。喰うか」
「ッ!?」
 ぽつり。そう呟かれた瞬間、麻弥は恐怖のままに目を見開いた。
 聖を覆う闇が文字通り牙を剥いたのだ。底なしの沼のような真っ黒いぬめり。それらはま
るで彼のそんな合図に応じるように何本もの触手となって持ち上がったかと思うと、ぐわっ
と一斉に裂け、鋭い牙を生やした口をみせてきたのである。
 やめろぉ……ッ! 晴が一瞬戸惑い、しかしやはり彼を止めようと叫んでいた。
 持ち上げられた闇の口がゆっくりと迫る。それらの隙間、背後の向こうで晴が急いで何や
ら懐に手を入れだしていたが、麻弥にはその意味を考える暇すらない。
 牙から垂れる唾液すら闇。
 突然で理不尽で、だけど彼女がスッと諦めかけようとした──その時だった。
「おぉぉぉぉぉ──ッ!!」
 殆ど吼えるような怒号。だがそれは一目散に、明確な殺気を持って襲い掛かる。
 正明だった。ちょうど三人からみて側方、校舎の渡り廊下側から飛び出してきた彼は、地
面と擦れ擦れなままに地面を蹴り、跳んでいた。
 握り締められていたのは例の長い布包み。はらりと取り出されたのは……太刀。
 こちらもまた人間離れした速さで飛び込んできたかと思うと、次の瞬間鋭い一撃が聖に向
かって叩き込まれていたのである。
「…………!?」
 晴を遮っていた筈の大量の闇。
 だがそれすらも彼が放った一閃は打ち破って四散させ、その勢いのまま聖の両腕をも斬り
飛ばしてしまう。
 聖──《沼》本人も、流石に驚いたようで目を見開いていた。
 宙を舞う斬り飛ばされた両腕、一閃を放ったこの黒革コート姿の男、スローモーションの
如き錯覚。
 だがそれはやはり一瞬のことで、次には第二撃が待っていた。
 斬り上げからの振り下ろし、横薙ぎから突きへと。
 その全てを聖はかわすことに注力していた。刀身が黒いぬめりに触れる度にそれらはまた
四散し、最後の突きの位置を見極めた彼は大きく跳躍。空中で一回転しながら距離を取り直
すように着地する。
「……退魔刀か。いきなりの癖に物騒なモン振り回してくれるじゃねえの」
 ぼたぼたっ、斬り飛ばされた腕が続けざまに地面へ落ちた。
 そして締め上げていたそれらが力を失ったことで、麻弥もようやく解放される。
 勢いと重力法則に従い、一度宙を浮いたその身体は少し遅れて尻餅をつきながら落下、程
なくして彼女をげほげほと大きく咳き込ませた。
「……大丈夫か、麻弥?」
「う、うん。まだ喉が痛いけど、何とか……」
 義妹(いもうと)にちらっと眼を遣り、正明は改めて聖を──この不埒者を睨み付けた。
「そうか。……おいてめぇ、うちの妹に何しやがる。殺すぞ」
「斬っておいて言うことかぁ? 妹……こっちの記憶(じょうほう)に兄貴はいなかった筈
だが……」
 怪訝に眉根を寄せて、正明が太刀を正眼に構えた。
 それでも聖はけろっとしていた。斬り落とされた腕の断面は赤い血の一つも滴らず、尚も
纏う闇と同じそれが濛々と立ち込め続けている。
「に、兄さん! これ……」
 そんな最中だった。突然後ろで麻弥が、尻餅をついたまま酷く青褪めた表情(かお)で呼
んできた。
 もう一度正明が、正面に警戒を残して視線を遣る。
 すると示されたそこには腕が──最早ただの円筒な布になった下で、禍々しい刺青のよう
な文様がびっしりと刻まれた聖の左腕があったのだ。
「これは“呪刻(じゅこく)”……。お前“魔法使い”か!?」
 彼女が言わんとすることを、正明もまた即座に理解していた。
 叫ぶ、振り返る。
 それは忌むべきもの。魔術(こちらがわ)に在って魔術(こちら)に非ず。邪法に手を染
めし者達が宿す証……。
 聖──《沼》は哂っていた。同時に地面に落ちた両腕がにわかに闇に包まれる。
 いや、それは厳密な表現ではない。闇そのものに為っていたのだ。
 まるで千切れた水流が一所に還るように。漆黒のぬめりとなった両腕は、慌ててかわした
正明や麻弥の間を掻い潜り、一直線に聖の下へと合流していく。
「……」
 両腕が、完全に元通りになっていた。
 ただ着ていた服までは対象外なのか、円筒状な袖の切れ端だけはその場に残り、結果彼の
服は無理やり千切られた半袖のようになっている。
「化け物め……」
 ジャキリッと太刀を構え直し、麻弥を庇うように半身・足の裏を擦らせ、正明はこの少年
と相対した。
 麻弥は完全に狼狽し、怯えている。懐に手を入れたままだった背後の晴も、気付けば何か
隙を窺がうようにじっとこの豹変した友の様子を注視していた。
 当の聖は、尚も余裕をみせていた。
 より一層立ち込めていく闇。底なしの漆黒。
 一度は四散させられたそれが、再び彼女達を──。
「──ッ!?」
 しかし、まさにその瞬間だった。
 闇を纏って襲い掛かろうとした聖、その首筋を、突如何かが飛んできて刺したのだ。
 ぐらり。効果はてきめんで、程なくして彼はその場でゆっくりと横に傾き始めた。
「これ、は。畜生……また、邪魔を──」
 瞳に煌々と宿っていた紫色が薄くなり、消えた。
 するとどうだろう。まるでそれが凶暴さの切れ目であるかのように彼の身体はばたりと地
面に倒れ、纏っていた闇も不穏な気配も一緒になって掻き消えてしまったのである。
「……?」
「え? 何……?」
 正明の傍に寄り添い、麻弥も近付いていった。
 眠っていた。先程までの剣呑さは凶暴さは何処へやら、そこには小さく溶けた球の跡を伴
った鍼(はり)を首筋に刺され、意識を失ったとみえる聖少年の姿だけがあった。
「──間に合ったみたいね」
 そして声が聞こえた。兄妹が、そして同じく気難しい表情(かお)をして駆け寄ってきて
いた晴が振り返る。
「だ、大丈夫でしたか、麻弥さん、正明さん!?」
「ふぅむ。やはり正明(おまえ)を行かせるのは間違いだったか……」
「卯月さん、羽賀さん、物部君! それ……に?」
 場に、この中庭に駆けつけてきたのは、他ならぬチームの仲間達だった。
 凛に伴太、そして武蔵。馴染みのある面々に麻弥は思わず安堵したのだが。
「……誰だ? その人」
「……」
 正明が、片眉を上げながら代わって言う。そこにはもう一人、白衣を引っ掛けた見知らぬ
外国人女性がいたのだ。
「母さん……」
 瀬名川アリス。
 晴の母でもある、この街の魔術師だった。


「……安定してきたわね。これくらいでいいでしょう」
 気を失った聖を伴い、一同は学園の保健室に集まっていた。
 ベッドに寝かせられた彼を、とうにこなれたものとみえるアリスが診ている。
 室内に他の生徒はいなかった。先客や教護教諭には言霊で退出を願い、伴太が御札を貼っ
て周囲の人払いを施してくれたおかげだ。
 心配と、尚も燻る敵愾心。そんな彼らにちらちらと遣られている警戒心。
 正明・麻弥兄妹と仲間達、そして晴。面々がベッドの周りに思い思いに立つ中、アリスは
振り返るとゆっくりその口を開き始める。
「先ずは皆さんにお詫び申し上げます。うちの愚息達がご迷惑をお掛けしたようで……」
「い、いえっ。とんでもない……」
「そちらの事情は署でも聞きました。お気になさらず。ただ巡り合せが悪かっただけです」
 ぺこり。純正金髪の女性とは思えぬ流暢な日本語とその所作に、一番危ない目に遭った筈
の麻弥までもが慌てていた。その反応を継ぐように、冷静に受け流すように凛が言う。
 ──そもそも、何故彼女達が学園に駆けつけたのか?
 それは時間を少し遡らないといけない。
 正明・麻弥兄妹と別れ、武蔵・凛・伴太の三人は件の魔術薬の流通ルートを辿るべく再び
街に繰り出していた。
 路地裏の一件で一度は出鼻を挫かれていた聞き込み。それを気を取り直して地道に積み上
げていたその最中、当局から連絡が来たのだ。
 曰く、一連の事件に関し、有力な物証の提出が為されたとのこと。
 三人は報告を受け、早速所轄署に──内部の魔術側の協力者と再度接触をした。
 そしてそこで目の当たりにしたのは例の魔術薬の破片であり、その成分を事細かに分析し
たデータであり、それらを持参した魔術師・瀬名川アリスの姿であったのである。
「巫監の役人、か。そうならそうと、最初から言ってくれれば……」
「そ、それはぁ……」
「まぁね。でも私達が直接駆けつけた理由は、あなたも解っているでしょう?」
「……」
 晴がぼやき、麻弥が苦笑する。互いに隠そう隠そうとしていたからこそ、あそこまで状況
が拗れたのは否めなかった。
 それでも、アリスはそんな息子にそっと諭すように言う。
 晴は目を細めて押し黙った。ちらりと、尚もベッドの中で眠ったままの聖(とも)を眺め
て、無言のまま何やら考え込んでいる。
 アリスと武蔵らの出会い。それは程なくして彼女の息子・晴が件のハーフ少年であること
を明らかにした。
 そしてもう一人の息子──同居人・聖のことも。
 ただ専門分野が故に当局から疑われた彼女。そんな母の無実を証明しようと飛び出して行
った息子達。
 彼らは犯人側ではなかったのだ。
 だからこそ三人は、アリスを伴い、期せずして行き違いになってしまった正明らと合流す
べく学園(こちら)に駆けつけてきたのである。
「……既に目撃してしまっていますし、隠そうとしても無駄でしょう」
 唇を結んだ息子の反応を委任と受け取ったらしく、アリスが改めて言った。
 正明以下、巫監の面々が思い思いに彼女を見遣っている。部屋の外には当局から派遣され
た魔術師が数人、この部屋への見張りや中庭での事後処理──証拠隠滅に当たっている。
「聖は──“魔法使い”です」
 声自体はとても落ち着き払ったものだった。
 だが面々の反応は酷く硬い。ビリリッ、静かな緊張が室内に充満する。
「十年前になります。その日とある街で魔術師同士による抗争が勃発しました。彼らは魔術
側の領分を越えて戦い、住宅街を一つ、消し炭にするほどの災いをもたらしました。当時、
私はその事後処理のために召集された魔術師の一人だったのですが……そこでこの子、聖が
発見されたんです」
「発見?」
 正明が片眉を上げて、その言葉を繰り返していた。
 違和感である。その言い方はまるで……。
「ええ。この事件の犯人、争っていた二人の魔術師の惨殺体の傍で、まるで力尽きたように
気を失っていたんです。左腕に呪刻──魔法使いの刻印を宿した状態で」
 その言葉に正明が先の表情のまま固まっていた。麻弥が大きく目を見開き動揺していた。
 既にざっくりと話を聞いていたのだろう。武蔵ら残る三人はこの兄妹ほどショックな素振
りをみせてはいなかったが、それでも魔法使い(そのな)が詳しい状況が語れたことで、じ
っと眉根を寄せたりそっと口元に手を当てたり、各々にその意味の重さを咀嚼しようとする
のが分かる。
「ど、どうして……? ひーく──聖君は、どうして“魔法使い”なんかに……??」
 堪らなくなって、麻弥が彼女に訊き返していた。
 兄や仲間達もそれとなくその質問の答えを待っているようだった。一方で瀬名川親子はす
ぐには答えず、それぞれに聖を、そして互いの顔をちらりと見合わせる。
「それは、今も分かりません。何せ彼が願いの“代償”として差し出したものがあまりにも
無茶苦茶でしたから」
 ──しばしば、世俗において「魔術」と「魔法」は同一視される。
 だが魔術(こちら)側の人間に言わせれば、それはとんでもない混同だ。
 魔術とはどだい学問なのである。科学と同様──その用いる原理・法則が異なるだけで、
先人より積み重ねてきた蓄積、当代の者達による錬磨、そうした無数のトライアンドエラー
を経て大いなる理に達しようとする試みであることに変わりはない。
 しかし……“魔法”は違う。そうした無数のステップを飛び越え、構築してきた原理・法
則を無視し、望む結果を手にする──言うなれば「奇蹟」の類なのだ。
 故にそれらは多くの場合、人の手には余り過ぎる。
 ではどうやって意図的にこれらを御するのか? 手に入れるか?
 それはもう、神の加護を得るか、逆に邪法の類に身を染めるかしかない。そして魔術師達
の云う“魔法使い”とは、その殆どがこの後者を指す。
 彼らは、その存在自体が「呪い」なのだ。
 “魔術(こちらがわ)に在って魔術(こちら)に非ず”
 其れこそ魔術師の矜持を捨てた忌むべき者達。恐ろしき呪い人──。
「……これは当時の状況と、それからの“彼ら”の言動から推測したものでしかないのです
けれど。おそらく、相馬聖(このこ)が持っていかれたのは……“自分自身”です」
 これまでの日々を思い出すかのように、アリスはたっぷりと間を置き、そして深くため息
をつきながら続けた。
 麻弥以下、面々の頭に浮かぶ疑問符。しかしそれはすぐに気付きに変わり──それぞれが
それぞれの形で驚愕する。
「少なくとも事実として、相馬聖という少年は“魔法”を手にした。しかしその代償として
自分自身を失い、代わりに『十三人の魔法使い』がその身体に宿ることになった……」
「要するに、本人不在の多重人格さ。……君を襲ったのも、そんな中の一人だよ」
 母の言葉を継ぐように言った晴に、麻弥はハッとなった。
 そうか……。だからあの時、ひー君は自分のことを「知らない」と言ったのか……。
「で、でも、どうして瀬名川さんが」
「そうね。確かにあの時は初対面で、医師と患者で、ここまでする義務まではなかったわ。
でも……誰かが庇ってあげなければきっとこの子は殺されていたわ。魔法使いはその成り立
ちからして災いをもたらす者だから。だから、引き取ったの。私達には同じ年頃の息子──
晴もいたから。私の専門は魔術医療。彼らの解析に時間は掛かったけれど、でも今は唯一、
暴走したこの子を“鎮静剤”で大人しくできる。さっき眠らせたのも、これよ」
 言ってアリスは、白衣のポケットに忍ばせた専用のツールを取り出してみせた。
 輪ゴムで束ねられ、薄皮の蓋を持つ、細く小さな半透明の筒。そこには一本一本、筒の底
に届かないように鍼が差し込まれており、その柄先には同じく小さな飴玉のような琥珀色の
球体──彼女曰く鎮静剤の本体がくっついている。
 これが聖に刺さる──衝撃を加えることで、鍼本体にこの鎮静剤が浸透し、彼の暴走した
人格を一時的に眠らせることができるのだという。
 晴もまた、数こそ多くないが同じ物を持っていた。曰く彼も、友(あに)として、いざと
いう時には母に代わってこれらを打ち込むことを使命としているのだという。……尤も今回
は、当人と真正面の位置に立ってしまったがために、確実に打ち込むチャンスを中々見出せ
なかったのだそうだが。
「……話は分かった。んでも、そいつが麻弥を殺そうとしてたことには変わりないじゃねぇ
かよ。本当に分かってんのか? 情に流されて匿って、それで魔術師殺しなんてしてみろ。
こっちも……ただじゃ済まさねぇぞ」
 しかし約一名、尚も怒りが冷めやらぬ者がいた。正明である。
 暴走、鎮静剤、大人しく。だが実際はどうだ? 絞め殺される寸前までいっていたじゃな
いか。事情は分かったが可愛い義妹(いもうと)が危険な目に遭った事実は変わらない。
 彼は引き続き彼女らとベッドの上の聖に睨みを利かせ、今にも再び手元の太刀を抜き放た
んとする。
「わっ、わー! ストップ、ストップですよ、正明さん!」
「落ち着け。今回の私達の仕事は魔法使いの抹殺ではないんだぞ?」
「そ、そうだよぉ。刀しまって、兄さん。私は……大丈夫、だから」
「……」
 それでも仲間達が急いで宥めに掛かったことで、その緊迫も長くは続かなかった。
 何より当の麻弥本人がその側に回ったことが大きかったのだろう。がしりと柄に手を掛け
ていた正明だったが、この妹の不安げな眼差しにその手を離す。
 ただ、それでも心の底から納得した様子ではなかった。
 変貌してしまっても、幼馴染の少年──おそらく今も抱いているのであろう思慕……。
 チッと彼は小さく舌打ちをしていた。半分剥き出しにしていた太刀を、彼は渋々と布包み
の中へと戻していく。
「……やれやれね。正明君? だからここで一つ、私から提案があるんだけど」
 そんな彼らを眺めながら、凛が切り出した。
 まだご機嫌ナナメに向けてくる視線と、身構えた晴や感情の起伏を押し殺すように立って
いるアリスの姿。彼女はそんなこの母子(おやこ)と一度顔を見合わせて何やら確認を取る
と、言う。
「折角だから、今回の捜査、アリスさん達にも協力して貰おうと思って」
「……はぁ?」
 はたと正明は口を衝いて出ていた。
 何をいきなり。彼は思った。麻弥(いもうと)も彼女の提案に目を丸くしているのが窺が
えるし、いくら同じ魔術師といっても部外者と分かった人間を巻き込む訳には……。
「言いたいことは分かるわ。顔に出てるものね。でも……悪くない話だと思うの。何せ今回
の事件は魔術薬絡み。そこに専門家が加わってくれれば、これほど心強いことはないんじゃ
ないかしら?」
「それは……まぁ」
「それに、入手手段こそ褒められたものではないが、彼らが手に入れた薬の欠片から多くの
ことが分かった。ですね? アリスさん」
「ええ。羽賀さん達には同じ内容の繰り返しになりますが……成分を分析した結果、この薬
は製法としては旧式のものであることが分かりました。加えて精製自体も粗雑。正直言いま
して粗悪品と断じてしまっていいと思います。少なくとも、現在の魔術師が作ったものにし
ては、お粗末過ぎるんですよ」
「……それは、要するに」
「犯人は、素人さん?」
「そうなります。意図的に粗悪品を作ったのでなければ、ね」
 それは巫監の面々にとっては重要な新情報だった。麻弥と正明、仲間達が互いの顔を見合
わせてから、この魔術師アリスと息子・晴をまじまじと見遣る。
「ね? 心強いでしょう? 犯人像もこれでだいぶ絞れたわ」
「……勿論、無理にとは言いません。ただ乗りかかった船ですし、息子達の“迷惑料”も兼
ねて申し出た次第です。薬とは救うために作るもの──その力に溺れるためでもなければ、
その愚かさを広めるためのものでもない……」
 一同は黙っていた。
 武蔵ら先に接触していた三人はチームリーダーである正明の返答を待ち、その正明はじっ
と目を細めたまま自分の中のもやもやと戦っている。
 結構いい人なのかな……? 麻弥は彼女のそんな呟きに少なからず眩しさを感じ、一方晴
は「迷惑料」と表現された自身、そんな申し出をさせてしまった母に負い目を感じてかばつ
の悪そうな顔をしている。
「……分かりました。その厚意に感謝します。一日も早くこの事件を解決しましょう」
 暫し黙ってからの返答。正明は最後には私情をぐっと押し殺して真摯に振る舞っていた。
 差し出された手。アリスもそれをさっと取り返して握る。
「はい。宜しくお願いします」
 尚もベッドの上では、聖(まほうつかい)が眠っていた。
 かくして人払いの成された室内で、彼ら魔術師同士の協定は結ばれる。

「え? 不審者?」
 一方、時を前後して、とある上級生らのクラス教室。
 休み時間の程よいざわめきの中、彼はそんな、断片的に聞こえてくる情報にじっと耳を傾
けていた。
「ああ。何か前の時間くらいに知らない人らが入ってきたんだと。最初は何か下でごちゃご
ちゃやってたみたいだけど、結局役人? だったみたいで」
「ふぅん……。何でまたこの学園(うち)に?」
「さあ? 急ぎの用でもあったんじゃねぇの? 此処、規模だけは無駄にあるからなあ」
 何かあったようで、無い。分からないが、この学園にも雑事の一つや二つあるだろう。
 そんな何の気ないやり取りだった。事実この男子二人の会話は程なくして脱線し、昨日何
の番組を観ただのゲーセンに行っただの、何の変哲もない普通の雑談に流れていった。
「……」
 そう。何の変哲もない、ごく「普通」の日々。
 机の中で密かに、カチャカチャとたくさんの錠剤が入った小瓶を、そう彼は一人手の中で
弄び続けていたのだった。


 何もなかった。何も聞こえなかった。何も感じなかった。
 何もかも真っ白で、起伏の一つすらない。それは限りなく「無」と同義だ。
 なのに僕らはそこにいた。気が付けばそこにいて、この何一つ変わらない世界の中にじっ
と溶けている。
 ──いや、そもそも何故俺達は“いる”んだ? ここが如何って以前に、何故俺達はこの
意識(じぶん)を持っているんだ?
 ──何の為に、私達はいるのだろう? 何一つ変わらない世界ならば、そもそも世界も私
達も、存在する意味なんてないのに。
 ──何よりも、誰なんだろう? 僕は、何者なんだ? 気が付けばここに“いる”。そう
認識している自分が怖い。
 そうだ……感じる。
 よくよく自分を研ぎ澄ませてみれば、そこにはいたのだ。無数の、それこそ恐ろしくなる
ほどにたくさんで、同じで、同じように自分がいること、そのこと自体に膨れ上がる不安を
抱えて狂いそうになる「仲間」達で溢れかえっていたんだ。
 ──只々、時間だけが過ぎていた。
 ──何も変わらない。変わってくれない。なのに俺達はここに“いなくちゃいけない”。
 ──その間にも、増えていた気がする。或いはいなくなっていた気がする。正確には分か
らないほどの「私」達が、相変わらず溢れかえっている。
 そんなある時だった。遠く向こう側で『扉』が開いたんだ。
 よく覚えている。あの時急に、真っ白だった空間に皺──のようなものが走った。自分と
いう感覚を凝らしてみる。どうやらそれは文様のようだった。
 何だろう? 僕達は不思議に思った。だけどそんな僕達の疑問なんて、思いなんてそれら
は考えてくれる訳でも答えてくれる訳でもなくて……。次の瞬間にはふいっと、横に重なっ
た二つの縦長型に切り込みが入る。
 本当に『扉』だったんだ……。皆がざわつく。
 するとどうだろう、そこから入ってきたのは……ニンゲンだった。
 ──よく分からない。ただ胸が高鳴った。それは周りの連中も同じらしくて、がんがんと
それぞれの存在を腫れぼたっくさせてきやがる。
 ──虚ろだった。私達が見たそのニンゲンは、とても弱っているように感じた。身体だっ
て小さい部類だったと思う。そんなか弱い身一つが、この「私」達の群れの中に迷い込んで
きたの。
 ……何か聞こえた気がした。
 ユルサナイ、コンナコト、リフジン、ヒテイスル、ツヨサ、ダレカ、タスケテ──。
 それが何を指しているのか僕達には解らなかったけれど、この世界はやはり質問に答える
なんてことはしてくれなくて。
 消え始めていた。この小さなニンゲンは、僕達にそんな絞り出すような“願い”を遺すと
少しずつ塵になっていったから。
 ──変化があったのは、そんな時だ。不意に俺達の中の一部が、目に見えない大きな力に
引っ張られ始めたんだ。
 ──引っ張られたその先は『扉』だったわ。さぁ出るんだ……。そう言われたような気が
した。眩しかったわ。だけど、嬉しいのに不安だった。
 そうして僕らは『扉』の向こうへと出ることができた。
 十三人。ようやく引っ張り出される力が止んで、感覚を澄ませ直すと、自分を含めたその
人数も分かるようになった。
 ……漠然とだけど、もっと輝いている場所なんじゃないかって思っていた。だけど向こう
側、人間達のいう“現実”っていうのは、かなり違っていて……。
 ──始め、身体があったわ。小さかった。すぐに私達は理解したわ。あのニンゲンと、私
達は入れ替わったんだって。そうすることが……私達があの真っ白な世界にいた理由でもあ
ったんだって。
 ──なのにどうだい、あっちが白けりゃこっちは黒だ。夜、っていうものらしい。なのに
赤かった。馴染み始めた五感って奴ががんがん五月蝿くて堪らなかった。俺達がやっとの思
いで出て来れた先、そこは……火の海だったんだ。
 僕達に声が聞こえた。いや、それは残り香だったんだと思う。この人間の、『扉』を潜る
寸前までの記憶。瓦礫と消し炭、点々と燃え続ける炎の中で願った思い。
 僕達は研ぎ澄ませた。
 遠くへ、遠くへ。この身体(うつわ)が残り香が、疼き訴え掛ける方向へとありったけの
感覚を注ぎ込んでみた。
 ──そうしたらいたんだよ。別の人間が。お互いボロボロになって、向き合ってた。
 ──そして直感したの。命じられたの。解ったの。あいつらが……“悪い”んだって。
 “殺さなきゃ”そう僕らは思った。この身体(うつわ)もそう言っていた。
 同時に感覚の像が僕らに見せる。それは燃え盛るこの場所──この人間の愛した街で、愛
した人間達で。その彼らが瓦礫の上でぐったりと倒れ伏している、或いは血塗れなって瓦礫
の下敷きになって、二度と動けなくなっている。
 “殺さなきゃ”そう思ったし、一方で“助けなきゃ”とも思った。
 きっと、それが願いだったんだろう。少なくとも僕らを突き動かしたのはそんな矛盾して
いるのに強い命令だったから。
 ──。
 これを……人は憎しみと呼ぶ。そう僕らが知ったのは、随分後のことになるんだけれど。
 ただ僕らは、次の瞬間、身体中に存在の隈なくを巡る力に任せて……飛び出したんだ。

「……」
 目が覚めて、最初に目に入ったのはオフホワイトの天井だった。
 目が覚めて、最初に耳に付いたのは騒々しい目覚まし時計の音だった。
 やはり身体が重い。聖は自室で、のそりとベッドからその身を起こしてぼうっとする。
 流し目で遣った、机に置かれた目覚まし時計が、尚もじりじりと五月蝿く鳴っていた。
 何となく面白くない。その人工的な雑音は外で囀る小鳥の声を殺してしまうし、しんと動
かない室内にあってただ一つだけ小刻みに震えるという「弁え」を外れた行動を取っている
ように感じるからだ。
 むぅと眉根を寄せる。だがそこにはもう、麻弥に襲い掛かった際の邪悪さはない。
 魔法の輝きを宿さない──発揮してない「普通」の瞳だった。ぽりぽり。彼は暫し頬を掻
いて座っていたが、やがてベッドから抜け出して目覚まし時計を止めて、身支度を始める。
「おはよう、聖」
「……うん」
「おはよう。少し寝過ぎた? 朝ご飯、片付けちゃってね」
「……。はい」
 階段を下りてキッチンに向かうと、既に食卓には晴とアリスの母子(おやこ)が顔を揃え
ていた。既に晴の方はエッグトーストと小皿のサラダを粗方食べ終わっており、アリスの方
もこの時間帯ばかりはいつもの白衣ではなくエプロン姿で流しに立っている。
 今日は休日だった。白黒のワイシャツにジーンズ、楽な服装の聖は早速向けられてきた二
人からの声に辛うじて生返事だけを返すと、のたっと自分の分の朝食──晴の斜め向かいの
席に座る。
 ぐしゃっ。半熟玉子とパンの味が口の中に広がった。
 だが……これもこの身体(うつわ)にとって必要だから摂っているのだ。目覚めた時から
あるもの、後々覚えていったもの。記憶の蓄積はあるが相変わらず「実感」にはなってくれ
そうにない。
「……やっぱり、さ。晴もアリスさんも、今日は巫監の人達と合流するわけ? 学園も休み
で一日手が空いてる訳だし……」
「ああ。飯食って、お前を起こしてからそうしようと思ってた。向こうの方は結局聞けてな
いんだけど、こっちの住所はもう知ってるからまた顔を出しに来るって言っていたし」
「……そっか」
 もきゅもきゅと、さっさと事務的に朝食を平らげ、聖はそう静かに呟いていた。
 数日前の学園での一件。自分の──《沼》達の暴走。
 気が付いた時には保健室のベッドで、既に彼女達は撤収した後だったが、それまでずっと
付いてくれていたらしいアリスによって大体の話は──自分達が“魔法使い”だという事実
も伝えられたことを含めて聞き及んでいる。
「その……。ごめん」
 だから聖は謝った。改めてこの母子(おやこ)に謝った。
 コーヒーを啜る晴がフッと笑っている。流しのアリスも一度はちらと肩越しにこちらを見
遣ったが、結局息子ほどは明確な反応を示さずまた洗い物に戻ってしまう。
「また二人に迷惑を掛けちゃったんだよな。本来なら僕が“皆”をコントロールする立場だ
っていうのに……」
「気にするなよ」
 コトンとカップを置いて、やはり晴は笑っていた。
 それは決して嘲笑ではない。だが苦笑に近いものだったろう。彼は努めて微笑みであろう
とし、神妙な表情をして俯きかける義弟(ひじり)の顔を覗き込むようにして言うのだ。
「ひとまずは片付いたことさ。それに……僕は嬉しいよ。そうやって負い目を持つようにな
ったってこと自体、それをこうして目の当たりにできること自体、ちゃんとお前が『人間』
に為れている証拠じゃないか」
「……」
 義兄(とも)は言って、そう前向きにあの一件を捉えて笑っていた。
 しかし尚も当の聖は押し黙っている。口には出さなかったが、自分には到底そうだとは思
えなかったからだ。
 彼も彼女も知っている。自分は、自分達は、相馬聖という人間の器を介して入れ替わった
他人に過ぎない。人の皮を着、掻き集めた知識(きおく)で相馬聖を演じ続けている、贋物
でしかない。
 大体、犯してしまったではないか。
 あの時、いくら皆の中でも特に凶悪な性分の《沼》が表に出てきたからとはいえ、自分達
は彼女を──谷崎麻弥改め御門麻弥を殺しかけた。この器の原典(オリジナル)である相馬
聖、その昔馴染であると語った彼女のその思い出を、自分達は真正面からぶち壊してしまっ
たではないか……。
「──ん?」
 そんな時だった。ふと室内にインターホン越しのチャイムが鳴った。
 来客。アリスが洗い物の手を止め、ぱたぱたと壁に掛かったそれへと歩いていく。
 聖と晴も席に着いたままながらその様子を見遣っていた。彼女が「はーい」と返事をし、
パネル上の通話開始ボタンを押す。
『あ、あの……おはようございます。御門麻弥です。ひーく──ひ、聖君……いますか?』

 麻弥当人からのご指名もあり、聖は彼女と二人して外に出た。
 とはいっても屋上である。瀬名川邸の裏手に回ると柵付きの外階段があり、そこからぐる
りと登っていけるのだ。
 屋上はさほど広くない。だがその全体ががらんとしている所為で実際よりもだだっ広く感
じられた。物自体があまり置かれていないのだ。在るのは家の中から上がって来た場合の、
煉瓦作りの小さな掘っ立て小屋のようなもの──昇降口と傍に据えられている室外機、あと
は天気のいい日にくらいしか利用しない物干し竿とその支柱がぽつぽつ。足元の床材は半ば
むき出しのコンクリであり、それらを申し訳程度に覆っていたとみえる合板は歳月の経過で
あちこちが剥がれてしまっている。
「……えっと。その。ひ、聖……君?」
「《羊》だよ」
 登ってきてから暫く、二人の間には何とも言えぬ沈黙が横たわっていた。
 気まずさ。ある意味最悪な形での再会だった経緯。
 それでも麻弥(かのじょ)の方は意を決して先に口を開いたのだが、対する聖はにべもな
いような、何処か突き放すような静かな声だった。
 また、二人は数拍黙っていた。
 春先にも拘わらず、まだ冷たさを残している風が吹く。聖はさも当たり前であるかのよう
に軽く空を仰ぎ、なびかされるままになっている。麻弥はそんな彼を、心持ち後ろ──斜め
な詰め切れない距離感のままで観た。風で乱れるミドルショートの髪を軽く押さえながら、
彼女はごくっと息を呑む。
「ご、ごめんね。この前はあんな事になっちゃったから、もう一度ちゃんとお話したくて」
「……謝るのは僕の方じゃないか。……いいの? また僕らが、君を消そうとするかもしれ
ないのに」
「それは……困るけど。でも一応、卯月さんも見てくれてるし」
「……。そっか」
 ぎこちない会話だった。それでもあくまで聖は淡々、最低限だ。
 麻弥が苦笑いと闘いながら言う。なるほど。ではやはりさっきから頭上を飛んでいる、見
覚えのある鳩は、その仲間の式神だったか。
「大体の事情なら、アリスさんが話したって聞いてるけど」
「う、うん。魔法使いとか、ひー君がひー君の中からいなくなってる、とか」
「……そうだ。僕らが彼と契約を結んだ時、相馬聖は“向こう側”に消えた。この身体は確
かに相馬聖と言われた人間のものだけど、その中にいるのは僕ら──全くの別人だよ。一人
一人が別々の自我と異能を持っている。周りはそれを、左腕に刺青があるから“魔法”だっ
て言うけれど」
 呟くようにして答えながら、聖はそっと自身の左腕を抱いた。
 後ろで、麻弥が言葉を詰まらせているのが分かる。あくまで別物──君の知る彼ではない
んだと言い張る自分に困惑しているのだろう。
 ……それでいいんだと思った。
 彼女には早々に“諦めて”貰った方がいい。相馬聖(オリジナル)はもういない。その方
が当人にとってもためになる筈だ。
「うん。分かってる、分かってるよ。でも……やっぱり、いきなり別人ですって言われても
すぐには心が頷けないっていうか……」
 なのに、彼女はそわそわと組んだ指先を弄び、そう尚も食い下がろうとしている。
 振り返ることはしなかったが、聖はきゅっと密かに唇を結んでいた。頼む、それ以上踏み
込んで来ないでくれ……。
「……もう一度言う。君の知っている相馬聖は死んだんだ。僕がこうして君達の前に出てい
るのも、彼とその周辺の人間達から収集した情報から、僕らの中で最も原典(オリジナル)
に近いパーソナリティを持っていると判断されたからなんだよ。僕は平常時の主人格であっ
て、彼の代わりじゃない。本当の、相馬聖じゃない」
「──ッ」
 だから敢えて聖は二度言った。
 相馬聖(オリジナル)の名を彼女の前で口にし、否定してみせた。
 それでも彼女は黙っている。きゅっと口を噤んでしまっている。だがおそらく納得……で
はないのだろう。気が塞ぐ。
 本人の言う通り「すぐ」には難しい話なのか? だがそう悠長に構えていていいとも思え
ない。実際《沼》が彼女を喰おう──新たな原典(オリジナル)の情報として取り込もうと
したのだ。
 力の強い“自分”達は他にもいる。
 彼らが彼女らが、二度目三度目と飛び出してこないという保証は……ない。
「……すぐにとは言わないよ。でも忘れるんだ。さっきも言ったように普段は僕が表に出て
いる。だけどそれはイコール皆の中での力関係じゃない。電撃を纏う肉体を持っている訳で
もなければ、破壊と再生の炎を操れるでもない、全てを飲む込む闇でもない──僕に出来る
ことと言えば、こうやって……動物の声を聞いて操るくらいなものだから」
 地味なんだよ。“魔法”の割には。
 諭すような、或いは自嘲するような声色で聖は言った。
 そっと空に手をかざすと、何処からともなく周囲の鳥達が寄ってきた。ばさばさ、彼らは
聖の周りに集まって漂い、羽を休め、にわかに自然の群れを作り始める。
「……」
 だが、だからこそ、そのさまを見ていた麻弥は思ったのだ。
 影の差す、しかし穏やかな横顔。懐いて飛び回る鳥達。記憶の片隅からじわっじわっと溢
れてくる、相馬聖(おさななじみだったかれ)の面影。
(彼はもうひー君じゃない。だけど──)
「聖。御門さん」
 ちょうどそんな時だった。ふと煉瓦小屋の扉が開き、晴が顔を出してきたのだ。
 その後ろには巫監の面々もいた。
 武蔵、伴太、式神の鳩を折り紙に戻して回収する凛、そしてこの二人っきりで不器用な語
らいをさも面白くないといった不機嫌面で見つめる兄・正明。
 どうやらここまでのようだった。聖も麻弥も、まだぎこちない空気を引き摺ったままでは
あったが、集合した面々に向き直ってその言葉を待つ。
「お喋りは終わりだ。犯人が分かったぞ」


 麻弥が一足早く瀬名川邸を訪れていた間に、一つの変化があった。
 回復したのだ。路地裏の一件で聖に倒されてしまった、不良グループのリーダー・佐原が
意識を取り戻したのである。
 その報せを受け、正明達は早速彼が入院している病室を訪ねた。
 まだ回復間もなく、当時の記憶が焼き付いていたのかもしれない。佐原はこの突然の、見
覚えない訪問者の一団に酷く怯えていた。まだ満足に動けないベッドの上で必死にもがき、
少しでも遠くに身を置こうとする。
「佐原だな」
「な、何だよ? お前ら」
「その義務はない。こっちの質問にだけ答えろ」
 そんな彼に、ずいっと正明が詰め寄った。
 柄の悪い相手というものを彼は解っている。他にも心情的な理由があるのだが……そこは
敢えて当人に投げ掛けることはせず、武蔵も凛も伴太も、一先ずは彼を囲んで様子を見るこ
とに集中する。
「こいつに見覚えはあるな? 答えろ。何処の誰から買った?」
 ひっ──。佐原が小さな悲鳴を上げて竦むのが見て取れた。小さなビニール袋に入れた、
サンプル用な件の魔術薬の欠片を彼に見せて、正明が問うていた。
「し、しし……知らない。大体、あんた何なんだよ? あのビリビリ野郎の仲間なのか!?
嫌だっ、嫌だ嫌だ嫌だ! まだ死にたくねぇッ!」
 質問が通じず、余裕がなく、返ってきたのはそんな泣き言。
 するとどうだろう。次の瞬間、ぎゅっと深く眉間に皺を寄せた正明の拳が、ズゴンッと佐
原の頬ぎりぎりの所を掠め、病室の壁に窪みを作っていた。
「……ぎゃーぎゃー五月蝿ぇんだよ、クソガキが」
 ぽつり。まるで地の底から這い出すような声色と凄みを以って、正明が見下ろしていた。
 ちょっ!? 乱暴は駄目ですよ──! 伴太が慌てて言ったが当の本人達には聞こえてい
ないらしい。武蔵と凛も、しっかりと目撃こそせど、この不法を働いた青年を庇おうという
気は無いようだった。
「あのな。俺は今、機嫌が悪いんだ……」
 ベッドの上、壁際に佐原を追い詰めて両手をつき、正明は言う。
 そう……機嫌が悪い。今日は今朝から妹が出掛けてしまった。行き先は瀬名川アリス・晴
母子(おやこ)の家──もとい相馬聖の宿。彼らの学園が休日であることから、事前に迎え
に行って合流、事件の捜査を続ける予定だったのだ。
 それをあの子は先に行ってしまった。凛の式神も一緒なので動向は把握できるが、またあ
の時のように襲われたらどうする? そう心配ですぐにでも追おうとしたのに、ちょうどそ
んなタイミングでお前は目覚めやがった。
 そもそも、お前達がこんな馬鹿を起こさなければ麻弥まで駆り出されることはなかっただ
ろうし──あんな再会をしてしまうことだってなかった……。
「ひっ、ひぃ……ッ!」
 佐原はすっかり怯え切り、顔を真っ青にして動けなくなっていた。
 言霊を使えば何てことはない。だがそんな楽な方法、採ってやるかよ。
 正明はぎろりとこの青年を睨んだ。使うのは後だ。聞き出すことを聞き出してから、自分
達の記憶を消去させるのに使う程度だ。
「もう一度訊くぞ? 誰から買った? この薬(ヤク)を……何処の誰から買った?」
 様子を見ていた内、武蔵が少し動こうとしていた。頭に血が上っている。直接暴力を振る
いそうになったら、流石に止めなければ……。
「わわ、分かったよ! 答えるよ! ちょ、直接会ったことはないから顔は知らない。けど
売り捌いてるチームは知ってる。尾藤っていう奴だ! そいつらがこの薬(ヤク)を取り仕
切って儲けてるんだ!」
 しかしどうやらその心配は杞憂だったようである。
 程なくして佐原が遂に、正明の眼光に負けて洗いざらいを白状し始めたのだから。

「──名前は尾藤忠男。潮ノ目学園三年B組。実家は祖父の代から続く古本屋です」
 急ぎでスマホに保存した情報を読み上げながら、伴太はそう言った。
 時は瀬名川邸にて集合してからのこと、所は武蔵が運転するワゴン車の中。瀬名川親子と
聖の三人を加えた巫監の一行は、一路この件の魔術薬の製造者と思われる少年の下へと向か
っていた。
 新しく中部座席に晴と聖、後部座席にアリス。
 定員内とはいえ、流石に少し手狭になってしまった。スマホの画面、尾藤の顔写真を見せ
る伴太に面々の顔が視線が向けられている。
「まさかうちの生徒だったなんてな」
「まぁ、数が多いだけにそういう輩もいるにはいるんだろうけど……」
 灯台下暗し、とでもいった所か。晴と聖はそれぞれに眉を顰めていた。
 彼が、彼の所属するグループと一緒になって例の魔術薬を売り捌いている──。
 三年生。先輩。面識がないのだから仕方ないのだとしてみても、もしかしたらもっと早く
に止められたかもしれない──。ただそんな思考だけは脳裏に過ぎる。
「今向かっているのはその彼の自宅……ではないですね? 市内から離れてますし」
「ええ。式神達を遣ったのですが、当人はいなかったので。おそらくは所属グループの溜ま
り場にいるのではないかと」
「その辺は武蔵たちのこれまでの聞き込みがあります。近隣の不良どもの拠点なり縄張りな
ら、こっちも大方調べ終わってますんで」
 バイパスを走る車内から外を覗き、アリスが言った。そんな彼女の隣で凛は頷き、改めて
丁寧に現在の行動内容を説明する。
 正明も助手席越しに顔を向けて言った。ここからは自分達のターンだと。
「あ、それと。麻弥さん」
「……?」
 そして伴太は麻弥に向かって。
 木枠のアタッシュケースからある物を取り出すと、彼は彼女に手渡した。麻弥はぱちくり
と目を瞬きながら両掌に収まったそれを見る。
 それはカプセル……のようだった。
 色は透き通るような綺麗な翠色。大きさは器にした両掌に収まる程のサイズで、半球状に
なって行く両端の境界線、そして本体の中心につぅっと真っ直ぐな切れ込みが入っている。
「これ、は」
「名付けて“破魔蔓(はまかずら)”──麻弥さん専用の魔術アイテムです。今は見ての通
りのスタンバイ状態ですが、この切れ込みに魔力を注げば本来の弓型に展開します。今回の
事件も大詰めっぽいですからね。少しでも攻撃能力は持っておいた方がいいでしょう」
「……え。じゃあまさか、これも物部君が?」
「魔術具職人ですから。……あ。普通に撃っても充分だと思いますが、撃つ前に祝詞を込め
たりすればもっと強力で色んな使い方ができますよ」
「……。うんっ! ありがとう、使わせてもらうね?」
 嬉しそうに微笑む麻弥に、伴太もつられて笑い──でれでれになっていた。
 凛とアリスがそんな様子を微笑ましく見守っている。晴は何となく近寄り難そうで、聖は
敢えて我関せずと窓の外に目を遣っている。正明もちらと席越しにこの二人のやり取りを見
ていたが、弟分のことだからか聖の時ほど目くじらを立てることはない。
「準備は万端のようだな。そろそろ着くぞ」
 グループが溜まり場にしている場所は、市の南岸・港湾区の一角にあった。
 ずらりと並んだまま半ば放置されたコンテナ群、点々と建つ人気のないプレハブ小屋。正
明ら一同は目的のそこに立つと、一度互いを見合って確認をする。
「……気配はあるわね。予想的中みたい」
「だな。それで瀬名川さん、今からのことなんですが……」
「ええ、分かっています。確保した子達はこちらへ。解毒剤はたっぷり作ってありますよ」
 正明や面々は静かに頷いていた。
 元より魔術師とはいえ、荒事が専門ではないアリスまでもがこの場にやって来た理由はま
さにここにある。
 治療の為だ。彼女曰く、彼ら件の魔術薬を常用するようになった少年少女達はほぼ間違い
なく健康を害している──近い将来害するリスクがあるのだという。大体にして物が粗悪品
なのだ。これまでメリット以外が取り沙汰されなかった方が奇跡的だと言ってもいい。
 以前学園に駆けつけてきた際、保健室でみせてくれたあの鍼の束。
 その柄先に付けられていた飴のような小球は琥珀色から緑、色こそ違えどしっかり彼女の
言う解毒剤であった。
 正明が聖たちを含めた全員を見渡す。皆がそれぞれに頷きを返す。
 そしていよいよ、一同は彼の手によって押し出されたプレハブ小屋の扉から、捜査の本丸
へと突入する。
『──!?』
 当然ながら、中にいた不良少年達は驚いていた。
 室内には食い散らかされたカップ麺の容器や菓子の空箱、よく分からないガラクタまで。
 トランプや携帯ゲーム機、何処から持ち込んだのかビリヤードまでやっていた面々が一斉
にこちらを睨んできた。警戒心だけは一人前だ。カツン……。しかしそんな眼力など効かぬ
と言わんばかりに正明が数歩前に踏み出し、早速用件をぶつけにかかる。
「尾藤忠男って奴はいるか?」
 それで彼らも正明達が何者か──その質問で例の薬絡みだと直感したらしい。
 ビリヤード台に腰掛けていたグループのリーダー格らしき少年がストンと床に降りると、
ついっと顎で仲間達に合図を送る。
「誰だよ、オッサン」
「のこのこやって来てその話して、ただで済むと思ってんのかなぁ?」
 不敵な笑み。めいめいに口元へと放り込まれる例の魔術薬。
 少年達は口々に言うと、材木な棍棒やら金属バット、折り畳み式のナイフなどをそれぞれ
に握って正明達を取り囲み始めた。
 殺気──もとい暴力に酔ってきた者達の不穏。
 武蔵と晴が女性陣(と伴太)を。そんな中にあって聖だけはじっと、尚も両者の様子を黙
って窺がっている。
「逃げろ、尾藤ッ!」
 リーダーのその指示(さけび)が合図だった。
 一斉に襲い掛かってくる少年達、その人だかりの向こうで慌てて裏口から駆け出していく
一人の少年。
「ちっ……!」
 目の前の相手よりもそちらが気になった。
 正明は素早く肩の布包みを左手に持ち替え──。
「ぬっ?」「な、に……?」
 だが代わりに武蔵が立っていた。棍棒や金属バッドは全て太い腕で受け止め、ナイフの刃
はその一つ一つの軌道を完全に読み切って全て寸前の所でかわされている。
「随分な歓迎だな」
 だが──。言って片腕を払うと、彼はその一発だけで殺到する少年達を弾き飛ばした。
 ぐらりと大きく体勢を崩し、或いはそのまま転んでしまう彼ら。だが武蔵は構わずその大
柄な体格に合わせたスーツの上とワイシャツを脱ぎ捨てると、素早く胸の前で印を結ぶ。
「……力比べなら、私も自信があるぞ?」
 少年達は呆然としていた。中腰だの尻餅だの、そのままの状態でろくに動けない。
 仰ぎ見たその視線の先には武蔵が立っていた。ただその身体は先ほどの比ではない。
 巨大化していた。ただでさえ大きな身体が巨大な丸太のように尋常ではなく隆々と為り、
その圧倒的なスケールでこちらを見下ろし、微笑(わら)っている。
「──?」
 更にだった。ふと少年達の視界の端、背後付近にはらはらと紙が舞ったかと思うと次の瞬
間、複雑な折り紙を思わせる三頭の獅子が降り立ったのである。
「ひっ……!?」
「……ごめんなさいね? これも、仕事だから」
 武蔵と凛、紛い物ではなく本物の魔術師による反撃ショーが幕を開けていた。
 慌てふためく少年達。それを次々に確保していく彼ら。中には勇敢──蛮勇にもナイフ等
で攻撃してくる者もいたが、これも太刀を抜きすらしない正明のいなしと足払い、直後の容
赦の欠片もない顔面への鷲掴みで以ってあっという間に床に叩き伏せられる。
「な、何やってる!? 出し惜しみするな! 一個で足りないなら二個でも三個でも──」
「……」
 じりじりっと下がっていくリーダーの少年。がちゃがちゃと持ち込んだ仲間達の私物がそ
の度に転がり落ちる。
 そんな彼にゆっくりと近づいていく人影があった。晴である。彼はようやくこちらに気付
いたこの少年の視線に特段何か感情を向ける訳でもなく、そっと自身の懐に手をやって一本
の小振りな試験管を取り出す。
「Coming, my the water(水の眷属よ、来たれ)──」
 フッと吹いた風、魔力。晴は流暢な英語でそう呪文を唱えた。
 するとどうだろう。唱え終わるや否やぴんっと指先で管のゴム蓋が弾き飛ばされると、そ
こから飛び出した小さな塊──細胞核のようなモノが猛烈な勢いで周囲の水分を凝縮、巨大
な水の身体を持った巨人となってこのリーダーの少年の前に立ち塞がったのである。
「ぁ、ぁぁ……」
 抗う術も暇もなかった。震える手は薬の瓶すら満足に探れない。
 斜めに振り下ろされる晴の腕。その動きに合わせて、水の巨人は渾身の右ストレート。彼
を一瞬にして背後の壁に、大きな陥没と共に叩き付けて倒してしまう。
「ほう……? “魔術人形(ゴーレム)”か」
「あれがあの子の専門分野みたいね。言霊(ろじうら)の時に比べて精度が段違いだもの」
 拳を引き抜いた水ゴーレム、白目を剥いて崩れ落ちる少年、見下ろしている晴。
 巫監の魔術師達もこれには感心した。その間も残りの少年達は取り押さえられていく。
「聖! ここは僕や母さんに任せて尾藤を追え!」
「……ッ。麻弥、伴太、行けっ! 先を越されるな!」
「は、はい!」「うんっ!」
「ん……」
 振り向きながら晴が叫んだ。すると対抗心か、正明もすぐ妹と弟分に同じ指示を飛ばす。
 びしっと緊張して頷く伴太と麻弥、対照的に淡々とした聖。
 二人と一人。三人は混在一体となって、開けっ放しなままの裏口から駆け出していく。

「くそっ! くそっ! 何なんだよあいつら!?」
 尾藤忠男は逃げていた。アジトの裏口から飛び出して程なく、自身も件の薬を服用して身
体を強化し、ビルからビルへと飛び移りながら逃げていた。
(マジでやべぇ……。この薬もぶっちゃけ化け物じみてるけど、あいつらは化け物そのもの
じゃねぇか……)
 途中振り返りながら見た。スーツの大男が半裸になったかと思うと巨大男になっていた。
べっぴんなお姉さんが宙に投げた折り紙がでかいライオンになっていた。
 おかしい。あり得ない。何がどうなってる!?
 尾藤にある記憶が過ぎった。少し前、自分達と取り引きのあったグループが一つ、突然壊
滅したのだ。リーダーは重症を負って入院、他の面子も記憶がおかしくなっているらしく、
それとなく仲間達に探って貰っても要領を得ない。
 まさかあいつらがやったのか? それで、今度は自分を──。
「いた! あそこ!」
「……ッ!?」
 そんな最中だった、尾藤が不意に耳に届いた声で振り返ると、その眼下には明らかに自分
を見上げて自分を追って来ている者達がいた。
 箱みたいな鞄を持った奴、白いニーソの可愛い子ちゃん、あと無愛想。
 一旦は屋根の上でブレーキを掛けかけた彼だったが、その駆け足は再び急激なアクセルを
踏み込んでいた。
「あぁ、また跳んだ! に、逃げられる……!」
「……《狼》か? いや《燕》なら──」
「任せて!」
 慌てる伴太(なかま)。すると麻弥は頭上の尾藤に指先で組んだ両手を向けながら、素早
く印を結んだ。
 するとどうだろう。それまで遮るものの無いと言わんばかりに飛んでいた彼の真正面に半
透明な壁が出来、ごちんとぶつかった次の瞬間には彼をぐるりと囲って閉じ込めてしまった
のである。
「でっ……あがっ!?」
 そのまま、重層的な殻に捕らわれた尾藤は真っ逆さまに地面に落ちてきた。
 何度かバウンドして、立つ殻──もとい結界。何が起こったのかまだ理解できていない彼
の下へ、麻弥達は急いで駆けつけていく。
「くそっ! 今度は何だよ!? 出せ、出しやがれ!」
「駄目です。貴方は私達が責任を持って捕まえなきゃいけないんです。お願いですからじっ
としててください」
 物部君。尾藤の半ば喚きの訴えも虚しく、むっと膨れっ面になった麻弥は伴太にそう促し
ていた。頷き、鞄を置いて中をごそごそと探っている彼。すると。
「く……そぉッ!」
 噛んだ。尾藤は懐からびっちりと例の魔術薬を詰めた小瓶を取り出すと、数粒一気に口に
放り込んで、噛み砕くようにして飲み込んだのである。
「出せよっ! 俺がっ、何したって言うんだよォ!」
 ガンガン。薬の強化によって血走った眼と膨れた腕で彼は何度も激しく結界を叩いた。
 だがそれでも麻弥とて魔術師、彼女が制御に意識を向けて耐えることで簡単には壊れる事
はない。するとそれを見て、彼はポケットからサバイバルナイフを取り出し、今度はその刃
を力任せに叩き付け始めたのである。
「ぐっ……!?」
 麻弥の表情が険しくなった。元より強く拘束する意図がなかった──彼女自身の甘さもあ
って、結界が少しずつひびをきたし始めたのだ。
「あ……アァァァッ!!」
 そして、砕ける。
 半ば狂い始めた尾藤の一撃が、遂に魔術師(見習い)の拘束を破ってしまったのだ。
 急に自由になったその身体。だが彼はそこで踵を返して逃げるということはせず、あろう
ことかナイフを握ったまま、前のめりの姿勢に任せて麻弥に襲い掛かってきたのである。
「──ッ!?」
 目を丸く大きく開いて、彼女が硬直している。気付いた伴太が作業を放り出してその身代
わりになろうと地面を蹴る。
「……?」
 だが、結果としてその凶刃は届かずに済んだ。
「痛ぇなぁ……この野郎」
 伴太よりも速く彼女の前に躍り出た聖が、その構えた腕にこの刃を刺させて食い止めてい
たからである。
 麻弥本人も伴太も、そして尾藤もが驚愕していた。
 確かに刺さっている。だが彼はそう面倒臭そうに呟くだけで、血の一つも流していない。
(あっ……)
 そして麻弥達は見た。
 庇ってくれた聖、彼のその両の瞳が燃えるような赤色に輝いていたことを。
「聖……君?」
「《蛇》だ」
「えっ」
「《蛇》だよ。聞いてんだろ? 俺も、相馬聖(こいつ)ん中の“魔法”の一人だ」
 思いの外あっさりと答えてくれて、麻弥と伴太は思わずコクコクと頷いていた。
 彼もまた《羊》のようなひー君であってひー君でない人格の一人なのだろう。彼は余裕の
笑みを浮かべていた。刺したのにびくともしない、そんな相手に愕然としている尾藤を一度
睨んでやると、ちろっと小さく舌舐めずりをする。
「熱──ッ!?」
 次の瞬間だった。突如として《蛇》の身体中から炎が吹き上がったのだ。
 当然、驚き熱に中てられ、飛び退いてのた打ち回る尾藤。
 ナイフは次には完全に溶けていた。どろりと熱した飴玉のように、刺さっていた傷口から
ずれ落ち、彼を覆っていく炎に呑まれて消えてなくなる。
 更に驚くことがあった。この刺し傷も消えてなくなったのである。
 ごうごうと燃え盛る《蛇》の炎。それらが彼の身体を撫でるに合わせ、傷も諸々な服の汚
れすらも、その全てが綺麗さっぱり消え去っていたのである。
「……さて」
 利き手を押さえていた尾藤を見下ろしながら、《蛇》──この聖はゆっくりと歩いた。
 じりじりっと腰が抜けたまま後退していく尾藤。先ずはそんな彼に、赤い熱を纏った手刀
を一閃。
「だぁっ!? あづっ、熱っ……!」
「喚くな。感謝しろよ? 俺を前にして焼き殺されずに済むんだ。替わる前に《羊》から殺
るのは止めろって散々言われたからなあ……。正直言えば物足りないが、俺は《沼》ほど悪
趣味なつもりはねぇからよ」
 ぱちん、ぱちん。指を弾き一発二発。
 その度に逃げようとする尾藤の手元足元に火が飛び散り、彼を無理やり方向転換させた。
 聖はその間もずんずんと近付く。麻弥と伴太がぽかんとしている間にもこの少年を捕らえ
ようと追い詰めていく。
「くぅ……っ!」
 だが、その焦らしがいけなかったらしい。
 何度目かの転がり、その後。怯えていた尾藤は吹っ切れたのか、突然手にしていた小瓶の
中の薬を全部、一気に口の中に放り込んでしまったのである。
「あっ」「えぇっ!?」
「おいおい……」
 そしてそれは、この薬が魔術世界の産物であり、大きなリスクと隣り合わせであることを
如実に物語っていた。
 豹変──変身してしまっていたのだ。痩せぎすの冴えない風貌は何処へやら。血走った眼
は一層激しくなり、身体は常識の限界を超えて隆々、ボコボコと身体中を沸騰させるように
巨大化させたのである。
「ヴォ、オォォォォォ──ッ!!」
 猿だった。一言で形容するなら、巨大な化け猿だった。
 最早人の形ですらなくなった尾藤。その咆哮が聖達を人気薄い港湾区を駆け抜け、今まさ
に三人に襲い掛かろう力を込め始める。
「ちょ! ちょっとこれは反則でしょう!?」
「あわわ……。に、兄さん達に連絡を!」
 伴太と麻弥の二人は聖の後ろで大いに慌てていた。
 彼は自分を守ろうとはしてくれる。が、如何せん自分と同じく手に余る敵にあたふた。
 だからこそ麻弥は仲間(あに)達を呼ぼうと考えた。自分も彼も、荒事に特化した魔術師
ではないからだ。
「こんな大きなお猿さ……んっ?」
 だが、ふとそう言いかけた自分の言葉にはたと一つの閃きが走る。
 猿=動物=《羊》さんが操ることのできる対象──。
「──」
 はたして、その刹那の直感は現実のものとなった。
 拳を振り上げる大猿(びとう)。なのに聖はまだこの真正面に立っている。
 ……そして麻弥は、伴太は見た。打ち付けられた拳をひらりとかわし、軽く跳びながら半
身を返しているその最中、彼の瞳が赤色から橙色──別人格の“魔法使い”に切り替わって
いくさまを。
 着地と同時、聖──いや《羊》はキッと眼に力を込めた。
 風が吹くような魔力の流れ、さっとかざされた片掌。するとどうだろう、まるで見えない
糸にでも吊り上げられたかのように、大猿の身体がガクンと大の字を描いて硬直したのだ。
当の本人もやはり驚いたらしく、血走った双眸が大きく見開かれる。
「今だ、御門さん!」
 そして振り向いて叫ばれた。ハッと我に返り、されどすぐに麻弥は力強く頷く。
「……」
 取り出した破魔蔓。その翠のカプセルをそっと胸元に抱き、魔力を込める。
 ぴしゃん──心の中で静かな水面に波紋が伝うようなイメージがあった。軽く瞑っていた
目を開き、ピッと握った腕ごと横に払う。すると破魔蔓のカプセルは件の切り込みを中心と
して展開を始め、左右の湾曲が迫り出して本来の和弓の姿になる。
「……汝は霊木。我は巫女。名字(あざな)は御門、真名(まな)は麻弥。陰陽ノ寮に連な
る信徒が願い奉る」
 カプセル状態だった時の中央部分。そこが引き絞られ藤頭と握となり、薄い半透明の魔力
の矢がぎりりと、彼女によって尾藤目掛けて番えられる。
「戒めを与うる其の霊威よ。我が言霊と魂を以って、今此処に悪しき災禍を祓い給え──」
 祝詞だった。麻弥の、巫事監査寮の魔術師が唱える呪文だった。
 表情はとても緊張していた。しかし言霊はしっかりと届いていたようだ。番えていた矢は
半透明から煌く翠へ、そして金色へとその輝きを強く確かなものに変えていく。
 限界まで引き絞り続け──それは放たれた。
 真っ直ぐに金色の軌跡を描いていく一本。その矢は確かに、大の字になったままの大猿の
鳩尾へと突き刺さる。
「ギッ、ギャアァァァァァ──ッ!!」
 断末魔の叫びが上がった。矢がヒットしたその瞬間、彼の身体は同じ金色の無数の蔦によ
って覆われ巻き付かれ、一瞬にしてきつくきつく締め上げられたのだ。
 大量の魔力と光が辺りを満たす。聖や伴太、当の麻弥自身もがあまりの眩しさに思わず目
を細めていた。
 しかしそれも十数秒のこと。光がその自己主張を止めた時には全てが終わっていた。
 蒸発、大きく煙が上がるように丸焦げになった大猿──だった尾藤。
 しかしその身体には巨大化した部分は一切消え去り、ただ痩せぎすの白目を剥いた本来の
姿だけが残っていた。
 ばたりと、そのまま崩れ落ちるように彼はその場に倒れ伏す。
 そこでようやく、麻弥達は勝敗が決したのだと悟ったのだった。
「や……やったぁ!」
 最初に飛び上がるほどに喜んだのは伴太。次いで麻弥も弓を握ったまま呆然としながらも
やがて引き攣った苦笑いを浮かべ、この初陣を我が事のように祝ってくれる仲間とハイタッ
チを交わす。
 すぐに伴太によって尾藤は確保された。今度こそ木枠のアタッシュケースから手錠──和
の文様(ルーン)が刻まれた特殊な手錠が取り出されて彼の両手に嵌められ、今回一番の目
的であった人物を捕らえたのだ。
「……」
 彼がスマホで正明(あに)達に連絡をしていた。程なくして皆も合流してくるだろう。
 ちらり。麻弥は聖の方を見遣った。最初こそは彼も、じっと横目ながらにこちらを見つめ
返してくれていたのだが……ややあってついっと、わざとらしく目を逸らされしまう。

 ──だけど、不思議と哀しい気持ちにはならなかった。
 そっと掻き抱いてみた胸の奥。
 その時そこからは、ほうっと優しい、何か温かさのようなものが感じられていた。


 尾藤忠男が確保されたことで、事件の全容解明は一気に進んだ。
 当初アリスが見立てていたように、彼は魔術師などではなかった。当人も件の薬が魔術側
の技術だとは知らず、ただそのもたされる効果とグループに流れ込んでくる利益の大きさに
酔い、仲間達と際限のない薬物売買の真似事を続けていたらしい。
 当局の応援も加わり、その翌々日には尾藤の家宅捜索も行われた。
 そして分かったのは──今回最大の謎だったこと。何故魔術のイロハも知らぬ素人である
彼が、粗悪品とはいえ魔術薬を作ることができたのか?
 理由は尾藤家の敷地にある古びた蔵の中にあった。家捜しを続けていた正明らが見つけた
のは、そこに放り出されていた、尾藤の調合作業の跡そのものだったのである。
 元凶は一冊の古本だった。そこには筆の旧字がつらつらと並び、それらを要約したものと
思しきメモが挟まっていたのだ。
 要するにレシピだった。これによって彼は魔術を知らず、しかし魔術薬を作り出すという
トンデモな行為を可能にしたのである。
 全ての謎は解けた。
 素人による魔術薬の精製と量産、違法転売、敢えて旧式な製法であった理由。
 それらは一言で片付けるならば「欲」だった。
 蔵の中を検めていくに、どうやら今は亡き尾藤の祖父は魔術──俗な言い方をすればオカ
ルト研究に嵌っていたらしい。
 その中で知ったのが、魔術師(ほんもの)達の中ではとうに廃れていたこの魔術薬の製法
だったのだが……不運なことにこの翁は大事にこれらの記載を残したまま逝ってしまったと
思われる。そして後年、実の孫である忠男によって発見されたことで……。
 後は、もう詳しく語るまでも無いだろう。馬鹿につける薬はない、と云う奴だ。
「──どうも今日までありがとうございました。お世話になりました」
「いえいえ。こちらこそごめんなさいね? 色々と……辛い目に遭わせてしまって」
「……」
 そうして事件は一応の終息をみた。
 この日、瀬名川親子と聖は市内のとあるビジネスホテルの駐車場にいた。事件の捜査とい
う任務を果たし、本部のある京都へ帰ることになった正明ら巫監の面々への見送りである。
 ぺこりと麻弥が深くお辞儀をして別れを惜しんでいた。アリスも静かに微笑む。だからこ
そ返された言葉は重くて、思いやりに溢れていて、麻弥は頭を下げたままつい泣いてしまい
そうになる。
「そうですね。本当……色んなことがありました」
 感慨深く──というよりは、半分聖への当てつけのように見遣って正明が呟いていた。
 しっかりしろ。兄がそう言って促してくる。
 麻弥はごしっと無言で漏れた涙を拭うとゆっくり頭を上げ、笑顔であろうと努めた。
 武蔵も凛も伴太も。それぞれが思い思いにこの別れ際の一時に臨む。
 ──祖父の蔵から見つけた不思議なメモ。
 試しにその通りに作ってみた薬もどきがまさかの効果。
 仲間達と大いにはしゃいだ。これを売り捌いて立ち回ればこのチームは大儲けするし、株
だって急上昇間違いなし。とんだ掘り出し物を見つけた──。
 尾藤とその仲間達、そして彼らから薬を買った者達は、そう遠くない内に表社会の法の裁
きを受けるだろう。
 ただしそれは大方が種々の薬物取締法による罪と罰だ。魔術師達の課すそれではない。
 しかしそれでいいのだろう。それ以上、こちらが踏み込んではいけないのだろう。
 件の尾藤翁の蔵書は全て巫監が処分した。後日同様な書籍が広まっていないか、大規模な
捜査も始まる予定だ。後はより多くの、より組織立った力が災いの芽を摘んでくれることを
期待する他ない。
(ひー君……)
 それでも、一方で麻弥には後ろ髪引かれる思いが残った。他ならぬ聖である。
 その当人は今、じっと目を細めたまま両手をポケットに突っ込み、心ここにあらずといっ
た様子をしていた。
 ──期せずして再会できた、生きていたと分かった幼馴染の男の子。
 だけども彼はすっかり「変わって」しまっていて、自分のことも「覚えて」いなくて。
 折角また出会えたのに……今はもう違う人。彼ではなくて、でも姿は面影は、他ならぬ彼
でしかないその人。
 《羊》達曰く、相馬聖はもう死んだのだと──。
「……そろそろ行くか?」
「ああ」
 間違いなく未練なのだろう。しかし厳然たる事実として自分にはどうしようもできない。
 やがてそんな麻弥の内心を知ってなのか、仲間達の方から出発の素振りがあった。ワゴン
のキーを大きな手の中で弄びつつ、武蔵が言う。正明も素っ気無く、だがそれはきっと自分
に向けられているであろう態度で言う。
 凛はそんな両者をじっと黙して眺めていた。伴太も似ていたが、そこには正明か麻弥か、
どちらを取ればいいのかという類の迷いが大きく占められていたようにみえる。
「帰ろう。俺達の街へ」
 改めて全員でアリスと晴、聖に礼をすると一同はワゴン車に向き合った。ぐるりと往路と
同じ席順に並び、扉を開けようとする。
『──その必要はありません』
 だが、そんな時だったのだ。
 ふと何処からともなく妙にくぐもった声と──確かな羽音が面々の耳に付いたのである。
『いえ、今はまだ……ですね。今はまだ、その時ではありません』
 鴉だった。気付けば近くの柵にちょこんと止まってきた一羽の鴉が、確かにこちらを向い
て話しかけてきていたのである。
「……宗主様」
「えっ?」
「貴女が……? そう、貴女が巫事監査寮の……」
 凛が呟き、そして瀬名川母子(おやこ)がそれぞれに驚き、眉を潜めていた。
 どういう意味だ? 互いに顔を見合わせている正明ら面々。
 何故そんな相手が? 戸惑いと注視、或いは無心。瀬名川親子と相馬聖。
『突然ですが御門班の皆さん。もう一つ、貴方達に与えるべき任務があります』
 にわかにほうっと金色に光った鴉の双眸。
 宗主を名乗るその声は、そう丁寧ながらも静かな威厳を湛えたさまで、告げるのだった。

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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

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