日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(雑記)愛を以って花束を、憎を以って切っ先を

今回で、当庵の雑記も150本目になりました\(^o^)/

しかし無駄に多いですね。よくもまぁこれだけ思考を捏ね繰り回してきたもんだ……;
こんにちは、執筆明けで程よく気だるい長月です。

先週末、連載(ユー録)の四十五章をUPしました。今回から第Ⅳ部中編に突入、そして今年
分の更新はこれにてお終い……ということになります(三題は例の如く続いています)
加えてつい昨日、なろうさんにて累計アクセスが80000PVを超えました。既にツイッタや活報
では言及したところですが、当庵でも改めて御礼申し上げますm(_ _)m

……思えば遠くまで来たなぁと思いつつ、一方で周りの書き手さんを見るに相対的に観れば
自分なんてやはり片隅のそれでしかないんだよなぁとも思いつつ。
思索をぶっ込み過ぎているとか、基本陰鬱な世界観やら堅物な文体やら──これだけ書いて
いたって、尚も問題は山積していて。何より“他者に資する物語”か?と問われれば、どう
しても立ち止まらざるをえない。

果たして自分は成長しているのだろうか?
時間が惜しいから生き急くのだけれど、しかしてどっしりゆっくり己に問い続けなければ。
……そんな、今日この頃φ(・_・;)


思索をぶち込み過ぎ──“作者”が出張り過ぎではないか?
それは僕の創作においてしばしば指摘されることであり、自身も自覚している所です。故に
これまでも何度となく、僕はこの件に関して(も)唸り続けてきたように思います。先日も
物書き仲間さんと話している際、重ねてその話題が出、今回また諸々の私事と思うところを
文字に起こしてみようとこうして筆を執っている次第です。

言い換えれば“自分を投影し過ぎ”ではないか?

雑記など「私」が前提にある書き物はともかくとしても、小説という表現媒体においてこの
按配・立ち位置の如何は考慮しない訳にはいかないでしょう。
確かに実際、今の拙作ら──書き方でもそれなりにレスポンスはありますし、時折コメント
を頂くこともあります。全く駄目だ、という訳では……ないのかもしれません。しかしもの
を書く──創る端くれとして、その臨む心持ちというか精神のレヴェルが高いことに越した
ことはない(むしろその為にあれこれ考え出す?)訳で、技術面は勿論のこと、少なくとも
「このまま」に甘んじているのは宜しくなかろうと思うのですよね……。

そうなると、どうしてもぶつかる命題があります。
他人に資する物語かどうか?──利他性です。或いはエンタメ精神と言ってもいい。
作者が自分を投影し過ぎ、つまり作者の「我」が出ていると感じ、これを嫌ってマイナス評
を持つということは、イコール受け手である自分が蔑ろにされている!物語を押し付けられ
ている!という批判・反発に他ならないのではないかと考えるのです。
従来なら、僕はそこまで気にしてはいません(しないようにしてきたの)でした。
元より八方美人的に受けるものは書いていない自覚があるし、受け手が愉しんでくれる自身
に資するものとして受け取ってくれるかどうか──ウケるか如何かなんて「博打」に近い要
素だろうし。だからそこで萎縮して、自分を削って、そのネガティブな声という可能性に気
を取られて筆を折ってしまっては元も子もないじゃないか……そんな風に。
……でもそれって、改めて考えると「堂々巡り」なんですよねえ。
(プロという限定的ではなく、巷のという広い意味での)書き手は「自分」が書きたいから
書くし、受け手は「自分」の求めるニーズを求めるから創作世界(ないし作者)を渡り歩く。
今までは僕も『結局人なんて“自分勝手”だ』から──お互いごまんといるんだし、合わな
ければどんどん手に取る対象を変えていけばいい──と嘯いていたけれど、やっぱりそれは
性根として「閉じて」いる状態なんじゃないか?と思い直すのです。
“自分の求めるものじゃない”と叫べば“てめぇの都合なんざ知るかよ”と返ってくるし、
そうしたものが表面化してしまえばお互い嫌な思いばかりが出てくる。だからこそややもす
れば“守ろう”とし、余計に他人の「自分」は知らぬ存ぜずと振る舞いがちで、一方自身の
「自分」はより押し通そうとするようになる──。
二元論的に考えてしまうからいけないんでしょうね。少なくとも「面白い」は作者が利己的
か利他的であるかという問いにイコールではなく、その“内容”を受け手がどう理解したり
感じたりしたか? その評価である筈なのです。
そしてだから……その内容に“作者”が出張り過ぎるとややこしくなる、のかな? 実際は
錯綜的であるのに、偶々二元的に映ってしまう格好を作るから両者が「対立」的になってし
まうのかもしれない──。

戦前までの日本では、修身の授業というものがありました。
小中学校などの科目の一つで、教育勅語を拠り所にした国民道徳の実践を教えるというもの
です。今でいう「道徳」の授業の、もっとガッチリとした版(?)といった所でしょうか。
(というか、今の若い世代ではこの科目が残っているのかすら怪しい……)
そこには色々な徳目が説かれているのですが、何よりそられを『世の為人の為』に実践して
いこうと記されていることをここでは強調しておきたいと思います。
……世の為人の為。即ち、利他の精神です。キリスト教圏でいう所の「愛」ですね。
(ひいては忠君愛国の基になった。だから危険思想だ!とか、そういう思想的な食い違いは
置いておくとして)僕はこういう古典を読むと、思います。『結局人なんて自分勝手』だと
嘯くことがどれだけ「正しい」のか、どれだけ虚しさと──「憎しみ」と共に在ることか。

所詮は旧世代の思想だ、所詮は宗教観だから実態にそぐわない。現代人ならそう一笑に付し
てもおかしくはないでしょう。事実僕だって、全面的にこうした古風な価値意識全てに賛同
する訳でもありません(体育会系的なノリで強いられる滅私奉公はその最たる例ですね)。
それでも……これらは間違いなく“善い”心持ちなのだと思うのです。
仏教にしろキリスト教にしろ、古今東西を問わず、僕らヒトは自分を擲ってでも他者を──
肉親や友を助けようとする者らの姿を美徳とし、語り継いできた。たとえそれ以上に人間の
持つ本質的な業が色濃く、これらを霞ませてしまう現実があるにしても、善き倫理(ルール)
とはきっとこうした先人達が経験と修練と思惟を積み重ねたものらの中に在ると思うのです。
……だからこそ、揺れる。
愛(利他)は地球を救うだなんて手垢の付き過ぎた言葉だけれど、きっと僕なんかが斜に構
えて嘯くような処世術・諦観よりはずっと「正しい」もので。だけども、一方でそこに何も
かもすっぱ脱いで飛び込めるだけの純粋さを……僕は失っているんだとの自覚もある。
……少し話が大きくなり過ぎました。創作というフィールドに限定し直しましょう。

『怒りは、創作のエネルギーとして瞬発力はあるが、持続性はない。全ての創造の源は愛で
ある。ストレート過ぎるけれど、他者に対する愛や、尊敬や、優しさを抜きにしては、作品
は成り立たない。人生と同じく(漫画家・小池一夫氏)』

『小説書く人間とかは絶対「世界が許せない」って頭のどっかで思ってると思うし、どんな
きれい事言ってても根底にあるのは究極の憎悪だと思ってる(某一般ユーザーさん)』

以前、自身TL上で見かけた方たちから保存・抜粋させて貰ったツイートです。発言主が違う
ので価値観が違う──と言えば確かにそうだな当然だよなとなりますが、これほどに創作と
いう媒体に限定しても利己・利他への肯定否定には大きな差異が在ることが窺がえます。

まさしくこれなんですよね。
愛を謳うのは確かに美しいし、善いものなのです。でもそれと同じくらい、時にはそれ以上
に憎しみが勝る自分を何度も見ている。他人を見ている。勿論個人差はあって、それまでに
経験してきたもの・置かれてきた環境などが大きく左右していることが厳然たる事実として
あるとはいえ、やはり僕という人間が創作人に至った、その根源を辿っていくとどうしても
『愛(他人を思う心)』よりも『憎(自分を思う心)』が圧倒的だと再認識させられる。
利己なのです。利他──先人の教え曰く、より魂のレベルが高いとされる。或いは僕らが生
まれてきた意味だとすら説かれる──よりも利己の精神であるのです。より「開いた」状態
で拙作らが手に取って貰えればいいなぁと思っていた所で、僕の中にはどうしようもない位
“自分勝手”な本質が核を成している。……だから、合わないのなら別の方に往けばいいの
ですよと、一見寛容な言い方をしながらその実、突き放している。
利己的です。利他──その他人(ひと)に資する物語であるよりも、自分の物語であること
を優先している。安直なハッピーエンドの類よりも、がっつりとした──陰鬱とした世界観
を好み、描き、救いある結末であってもそれは「闇に差す一条の光をみた」的なものばかり。
やはり憎いのでしょう。以前ツイッタでも呟いたように『順風満帆な世界なんてつまらない』
のです。現実がそうじゃないから、たとえ虚構の世界であってもそんな描かれ方でにこにこ
しているようなさまが気に食わない……。これが憎悪による打撃でなくして、何なのか。

先述の物書き仲間さんがその折仰ったように、虚構と自身をもっと区別しないといけないの
でしょうね。だばーっと書き連ねた、ここまでのこちらの心理を想定しての言葉なのかは分
かりませんが、これらの憎悪──作者自身を観たからこそ苦言を呈してくれたのでしょう。

憎しみは非理解は、争いを呼ぶ。そして僕はそうした世の諍いが大嫌いだ。観たくない。
なのに……憎んでいる。そんな世界を憎んでいる。それはある種真っ当な反応(厭気)なの
かもしれないけれど、結局の所はその思いに焦がれることで、僕自身もそうした憎悪の連鎖
へ加わっているに等しいのではないか?

“愛は地球を救う”──それはとうに使い古された、未だに達成されたとは言えない、人々
が鼻で笑って済ませるような美辞麗句。だけども故にイコール「間違い」という訳でもない。

厭で憎しみを燃やすよりも、その厭が世界を善くせんとするエネルギーへ行動力へと変わっ
ていけばいいんだろうな。そして願わくば、その行いらが諍いに合流(ループ)しないこと
を切に祈る。細心に及ぶ真心を尽くす。

この手に握るのは(事実上キーボードなんですが、まぁ)筆で。
それで紡ぐ言葉たちが花束なりパンに為るのか、或いは文字通りの呪詛や刃に為るのか。
自戒。自罰。懺悔。
誰にだって書き手にだって……責任はある。

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  1. 2013/12/10(火) 22:00:00|
  2. 【雑記帳】
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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