日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(企画)週刊三題「セカイは奏でる」

──これから毎週、小説を書こうぜ?

毎週一回、ツイッタの「診断メーカー」で出たお題で小説を書いてみるという
自己鍛錬、 それがこの『週刊三題』であります。
さてさて。紡がれる文章は良分か悪文か、或いは怪文か?
とある物書きの拙文晒し、此処に在り。

【今週のお題:音、橋、見えない】


 彼らとの出会いも別れも、それは同じあの河川敷だった。
 最初、その切欠だってよく覚えている。あれはまだ冬の肌寒さが残る春先のことだった。
小枝子はこの年、地元の役場に採用された新人であった。
 初年の配属先は、土木課。と言ってもペーペーの下っ端で大抵は古典的にお茶汲みから始
まり、簡単な書類作りを少しずつ覚えていくという日々だ。……もしかしなくても、女性の
新入社員というのは何処でも似たようなものなのかもしれないが。
 そうして、一月ほどが経った頃だろう。それが切欠だった。
 現場へ同行させて貰えることになったのである。場所は郊外のとある河川敷だった。
 市のロゴを印字した薄灰のワゴンに同乗し、先輩達(全て男性だった)の気だるい空気に
馴染めずにいながら道路を往く。
 二十分ほど走っただろうか。やがて小枝子の眼には、そこそこ年季の入ったコンクリ橋と
その眼下に広がる草木が繁茂した河川敷が映った。
 それまで走っていた幹線道路から逸れ、車は逆の道へ入った。
 急に狭苦しくなる。大型トラックが通れば半分以上を塞いでしまう程度の幅だ。そんな途
中にある斜面際のスペースに、運転手役の先輩は手馴れたように横付けした。
「……桃井。先ずお前が挨拶してこい」
「えっ」
「何でここに来たかは知ってるだろ? 俺達はもう顔が割れてるからな」
「お前の経験にもなるさ。それに相手が女なら多少は警戒しないかもしれねぇしな」
 そう言われて、小枝子は車を降りた。フォロー役なのか、内先輩が一人遅れて後をついて
くるのが足音で分かる。
 小枝子は自然と静かに顔を顰めていた。
 言っていることは解るが、それは即ち先方に対しある種の“敵意”を抱いていることに等
しいのではなかろうか? 新参でこの案件について詳しい進捗を知らないとはいえ、そんな
“誠意”とは逆ベクトルな心持ちで臨んだところで交渉も何もないのではないか……?
「──ん?」
 遠目から見ると分からなかったが、河川敷は思った以上に猥雑としていた。浅く茂る堤防
をゆるゆると下りながら、小枝子はそんな風景をぼやっと見る。
 基本的には手入れが行き届いていない、草木が生え放題のだだっ広い浅瀬である。
 だがそこには明らかに人の気配がありありと見て取れた。
 要するに住んでいるのである。年季の入った橋の支柱、物陰。そこに寄り添い隠れるよう
点々と作られた青のビニールシートやダンボール製のハウス──無宿人(ホームレス)達の
“集落”がそこにはあったのだ。
「何だい、あんた?」
「誰かの親御さん……でもないよな」
「あ、えっと……」
 こちらに気付いて、ホームレスらしき男性──青年から壮年まで様々だ──が数人、顔を
向けると近付いてきた。
 それは、まるでこの“集落”の境界線上へ立ち塞がるよう。
 伏し目がち。小枝子はつい気圧される形になり、あたふたと眼鏡のクリアレッドのブリッ
ジを押さえながら第一声──交渉を試みようとする。
「は、初めまして。私は今年配属となりました、市土木課の桃井と申します」
 ……なのに、そう名乗った瞬間に彼らの表情(かお)が変わった。
 立ちはだかるような物理的対峙だけでなく、向けてくる眼光が険しく、明確な敵意となっ
て注がれ出す。
 小枝子はまた一歩、今度は実際に後退っていた。
『治水の為の河川工事、その障害となっている現場のホームレス達を退去させる』
 自分達がここへ足を運んだのはそんな案件があったからだ。
 だが小枝子は正直軽くみていたと言わざるを得ない。何処かで話せば分かってくれる、そ
う楽観的であった自分に気付いたからだ。
「なんだ、役場の回し者か」
「気に入らねぇな。今度はこんな若い子まで引っ張り出して口説こうってか」
「悪いがよ、もうあんたらの話を聞くつもりはねぇんだ。帰ってくれ」
 彼らの言葉尻から、自分に対する妙な同情こそあった気がする。
 しかし総じて返ってきたのは拒絶だった。交渉以前に話をしようという態度すら採らなく
なっている状況が目の前にはあった。
(先輩達は何て話をしてたのかしら……相当嫌われてるじゃない……)
 帰れ! 彼らの声に押され、小枝子は困惑したまま思った。
 フォローはどうした? 確か先輩が一人ついて来ていた筈だがと思い、堤防の上を見遣っ
たが──そこには街灯や工事看板の陰に隠れてじっとこちらを見ているだけの当人の姿があ
るだけだった。
(何で……?)
 目を瞬き、横っ腹へ耳へと飛んでくる拒否の声にふらつきながら、小枝子は考える。
 静観、というよりは傍観に近い。
 ふと車内でのやり取りを思い出した。確か先輩達は「もう顔が割れてる」と言っていたで
はないか。……だとすると、端から彼らは助力する気はなかったのだろう。文字通り自分を
けしかけてみている、それだけの為に現場(ここ)に来させられた──。
「……」
 自覚はしていた。生来の性格から、どうも自分は肩の力を抜くということが苦手だ。
 どうやらそれは役場勤めをしても同じであるらしい。
 要するに、先輩達(かれら)に遊ばれているのではないか? 新入りの癖にあれはこうで
はないか、これはああではないか、そう(実際にため息をつかれ)“真面目”に仕事をこな
そうとする自分を、宛がって試して愉しんでいるのではないか。
(……駄目駄目。今は目の前のことに集中しないと)
 だが小枝子は敢えてそんな思考を自ら払った。ふるふると首を振って己を静かに奮い立た
せる。邪推と嗜虐を重ねて、いいことなんてない。実際、おそらく今まで「お役人様」的に
交渉に臨んできた所為で、こうして彼らからただ役場の者だというだけで拒絶を示されてい
るのではないだろうかと考える。
 きゅっと唇を結び、だけども強い言葉で責め立てまいと自身に誓い、小枝子はもう一度彼
らに向き直った。
 ホームレス。住む家を持たぬ、持てなくなった人々。確かに多少身なりも汚れてはいる。
 だがそれよりも小枝子が胸を痛めた、居た堪れなくなったのは、そんな彼らにここまで不
信を抱かせてきた以前までの交渉の如何で──。
「騒がしいのう。また来たか」
 ちょうど、そんな時だった。
 ふと彼らの背後──ダンボールハウスの中から聞こえてきた、一人の老人の声。
 小枝子が、男達が振り向いていた。もぞもぞとハウス群を覆う青シートを捲る音がし、ざ
りっと杖をついた初老の男性が顔を出してくる。
「じっちゃん!」
「だ、駄目だよ馳(はせ)さん。あんたが出てきちゃあ……」
 どうやらこの老人は馳という名らしい。男達が杖をついて近付いてくる彼に駆け寄り、そ
う口々に言っては下がらせようとする。
 小枝子は頭に疑問符を浮かべ、きょとんとしていた。
 彼らなりに年長者を守ろうとしているのだろうか。しかし、それにしては少々彼らの態度
は過保護というか、もっと別な感情があるように見える。
「……ふむ? 違う匂いだの。若い……女子(おなご)さんか」
「え?」
 言われ、思わず小枝子はスーツの袖に鼻を近づけていた。その動作を見て、馳老人はさも
面白そうに笑う。
「ほっほっほっ……そういう意味ではないよ。儂はこんな身じゃから、他人より鼻や耳が利
くんじゃよ」
「こんな……? あっ」
 そこでようやく小枝子は気付いた。
 馳老人。見た目は六十代後半、だけども随分と小柄で白髪の多めな──その両の瞳に輝き
を失った老紳士。
 内、右の目は焼け爛れた跡があった。事故……だろうか。ぼうっと小枝子は思ったが、や
はり邪推でじろじろと見るのはよくないと思い至り、つつっと周りの男達へと視線を遣る。
「気にせんでええ。大体嬢ちゃんが考えとる通りだろうよ。……それで? 皆が騒いどった
ということは、役場の方なんじゃろうが」
「ええ……」
 どうやら小枝子の抱いた印象は間違っていなかったようだった。馳老人が現れてから、男
達は彼を庇うように陣取り、大人しくなっていたのだ。
 最年長。故にこの場にいる老若さまざまなホームレス達のリーダー的存在。
 こほん。小枝子は小さく咳払いをすると、ようやく本来の仕事に入る。
「既に何度かお話があったと思うのですが……この尾利根川は現在の治水基準にそぐわない
古い規模の工法で整備されています。このままでは大雨が降り注いだ際、堤防が機能しない
可能性があります」
 男達は聞きながらも、うんざりと不機嫌な表情(かお)をしていた。
 なのに、馳老人だけは変わらずに杖を片手に佇んでいる。彼らに支えられている。
 酷く落ち着いていた。とても穏やかな物腰だと小枝子は思った。
「その場合……河川の氾濫による近隣住民への被害は決して少なくはありませんで。市とし
ては速やかに、新たな治水工事を施す必要があると……考えています」
 事前に車内で目を通した通知書類の文言を思い返しながら、彼女は言う。
「ですので、皆さんには、ご自身の安全の為にもこの河川敷からの撤去を要求するものであ
ります」
「──すまんが、それはできんよ」
 静から動、そしてはっきりとした答えだった。
「儂らには他に往く当てがない。なくて、そうして集まったのが此処で、儂らなんじゃ」
「で、ですが! もし大水になればここも雨水で満たされます。危険なんですよ?」
「そうじゃの。だがそうならそうで別に構わん。少なくとも儂は、もう御役御免な身分じゃ
からのう」
「何いってんだじっちゃん! 死なせねぇよ。あんたのお陰で俺達も居場所ができたんだ」
「だから……もう何度もそちらにも話しただろう? 贅沢は言わん。ただ私達が腰を下ろせ
る移転先を確保してくれと。退去云々はそこからスタートだと」
「えっ」
 小枝子は思わず目を丸くした。そんな話は……一言も聞いていなかったのだ。
「……ご理解、いただけませんか。それは無理な相談だと、何度も説明しているでしょう」
 すると堤防の斜面を駆け下り、先のついてきた先輩役人が話に割り込んできた。
 あくまで冷静に、理知的に。だがそこには芝居がかった、気だるいわざとらしさがある。
「か、柏木さん! 聞いてませんよ!」
「ああ、話してないからね。……君も理解しておくといい。仮に彼らからの要求を呑んだと
しよう。そうなると市として個人に住居を提供しなければいけない訳だ。だが、額面通りに
アパート以下のボロ屋を宛がう訳にはいかない。人権上、分かるね? だがかといってこの
人数分の住宅を市が買い取るとなれば相応の手続きも予算も必要だ。彼らの身分上、住民達
の理解を得ることも必要かもしれない。だけど……問題なのはもっと別にある。先例を作っ
てしまうということだ。彼らの面倒を市としてみてしまえば、今後類似のケースで財政出動
が“当たり前”になってしまうんだよ」
「……」
 あくまで新米な小枝子(こうはい)に向けて言う柏木。だが勿論その一言一句は全て馳ら
にもしっかりと聞こえている。
 形式的な説明を繰り返すように、言い聞かせるように。
 数拍ぼうっと目を瞬いていた小枝子だったが、ややあってハッと我に返った。そして彼が
言わんとしていることに、沸と怒りに似た感情が込み上げてきたのだ。
 要するに「面倒」が嫌だってことじゃないか。
 いわゆる自己責任と言ってしまえば済むのかもしれない。だけど大事を成す為に必要な便
宜なら、図ってもいいのではないのか? それではあまりにも……冷淡過ぎるではないか。
(……っ)
 なのに小枝子は、終ぞ口に出せずじまいだった。
 新人も新人だからということもある。行政としてそういう線引きは「間違い」ではないの
かもしれないと、未だこの仕事に染まり切っていないが故に一瞬でも考えてしまったからと
いうこともある。
「──」
 だがそれ以上に。
 ちらと見遣った先の馳老人が、まるで「いいんだよ」と小さく微笑んだような気がして。


 結局、小枝子にとって最初のコンタクトで妥結することはなかった。
 だがそれでも彼女は諦めずに彼らとの交渉に臨んでいった。
 先輩達は……やはりというべきか、非協力的だった。まるでこちらの“真面目”を嗅ぎ付
けたかのように、サァッと距離を取っては別々の仕事へと向き、気付けば誰一人として同行
もフォローもしてくれなくなっていた。

『工事は確定してるんだよ。地権者の承諾も取れている』
『こちらが折れる必要なんてないんだ。だって不法占拠だろう?』
『非は明らかに相手にある。代執行になると色々面倒だから、話し合いで済ませようとして
たんじゃないか……』

 だから、結果的に件の交渉は小枝子一人に圧し掛かっていった。
 しかし彼女当人はそこに厭を感じていた訳ではない。むしろ持ち前の正義感が燃え始める
のを自覚するほどだった。
 問題は、折衝できるポイントなら、見えている。
 小枝子は職務の合間を縫っては賃貸情報を集めた。市として無理なら、個人で借りた部屋
を彼らに譲るようにすれば何とかなるのではないかと考えたのだ。
「いいのかねぇ……? 俺達の為にここまでしてくれて」
「桃井ちゃん、立場悪くなるだろ……」
 故に、むしろ橋下のホームレス達(かれら)の方が気が引けている状態だった。
 交渉の度に持参してくる賃貸情報のコピー紙たんまり。錆びたドラム缶で火を焚いて暖を
取りながら、小枝子と馳たち何度となく紙面と睨めっこをし、或いは長らく持てなかった・
持たなかった自分達の家を夢想する。
「すまんのぅ……。儂らがちゃんと家を持てておればお嬢ちゃんにこんなことをさせずに済
んだんじゃが」
「じっちゃん。それが出来てたら俺達そもそもホームレスじゃねぇよ……」
「だはは! そりゃそうだ!」
 幸い、誠意は通じたようだ。そうして何度か橋下の集落に通う内、小枝子はすっかり彼ら
に迎え入れられていた。
 まるで“仲間”を加えたようにして、笑う。
 だけども、その中心にいる筈の馳老人だけは……何処か静かに、穏やかであるには間違い
ないのだろうが、そっと陰鬱を影を抱えているように小枝子は感じていた。
「……馳さん」
「んむ?」
「あの、こんな事を訊くのは不躾だと承知の上ですが、どうして馳さんは」
「離婚じゃよ」
「り、こん」
「ああ。厳密にはこの目に為ってしもうたから、なんじゃが」
 皆が語らう中、たどたどしく口を開きかけた小枝子に、馳老人はフッと微笑むと輪の中央
で燃えるドラム缶の火を眺めながら言う。
「儂は工場で技師をしておってな。定年までもう少しという所じゃった。じゃがあの日、運
悪く調合した材料が熱を持って爆発しおっての……この目の傷は、その時のものじゃ」
 微笑(わら)っていたが、小枝子は居た堪れなかった。やはり問うべきでなかったと激し
く後悔し始めていた。
 もう上司などに、それとなく何度も言われている。
 桃井、お前は──。
「右目は程なくして見えなくなった。仕事も辞めざるを得なくなった。なのに治療費は嵩む
ばかり。もう耐えられませんと妻は離縁を申し出てきた。断れる訳もなかった」
「……」
 さすさすと。馳老人は火傷跡をそっと撫でる。目に光はない。だがとても優しいと小枝子
は思った。後悔の念が一瞬、その穏やかさに癒される。
「家も、妻と子供達にやったよ。せめてもの詫びと思ってな。……だが本当は違ったんじゃ
ろう。儂は、あの時から既に“捨て”始めていた」
 そう一瞬、ほんの一瞬だ。次の瞬間、彼が語りの続きを紡ぐ中で小枝子は再びより一層、
こんな詮索をすべきではなかったと思い直す。
「……信じられなくなったんじゃろうな。妻も子も最期まで一緒にいてくれるもの、いてく
れて当たり前だとすら思っていた。慢心といえば慢心じゃが、それであの時の儂は裏切られ
たと思った。まだ残っていた左目で、再出発しようと思った」
 しかし──それは結局叶わなかったのだという。
 右目だけではなかったのだ。事故と離婚、流浪から暫く、今度は直撃を免れたと思ってい
た左目の視力が失われ始めたのである。
 どうしようもなかった。そもそも懐はとうにすっからかんになっていたのだ、治療など受
けられようもない。やがて彼の世界は真っ暗になった。それでも幸いだったのは、この時既
に今の仲間達との出会いがあり、彼らが献身的に──そこに彼ら自身のアイデンティティを
見出すように支えてくれたことだったろうかと彼は語る。
「一度“脱落”すると、こうも逃げ回る生活になるとは思わなんだよ……」
 この橋の下、河川敷に居を構えたのはそれから数年してからのことだという。
 最初は公園だった。林の中だった。だがホームレスの集団がたむろしているという情報は
地域社会に程なくして届き、やがて様々な理屈を捏ね回されては追い出されたのだそうだ。
 ……だから、離れた。皆と共に社会(ひと)の群れから離れざるを得なかった。
 彼は言う。
 正直を言えば、また追い出されるのか──その怒りが皆には少なからずある筈だと。
「……すみません」
「お嬢ちゃんが謝ることじゃないさ。第一新米だろうがお役人なんだ、そんなにすぐに頭を
下げるもんじゃないよ」
 泣きそうになって、頭を垂れて。
 あくまで微笑(わら)って、少々旧時代な呟きを残して。
 ぱちぱちとドラム缶の中の火が燃えている。まだ体感的には足りぬ暖かさを補うように、
馳も小枝子もそっと手をかざして暫し黙り込む。
「だがまぁ……こうなって良かったなと思うこともあるんじゃよ」
「? 良かったこと……ですか」
「うむ」
 先に口を開いたのは馳老人だった。
 声色はやはり柔らかい。だが今は、つい先程までの話題の重さを掻き消さんとするかのよ
うに、光ない瞳が空を遠くの街並みを眺めているようにみえる。
「最初に会った時も少し言ったように思うが、生き物とはしぶといものでな。こうしてもの
が見えんようになってからというもの、鼻や耳が随分と利くようになった」
「あ、はい。それは確かに以前……」
「だからの……儂には匂うし、聞こえるんじゃよ。世界の奏でる音──とでもいうものが」
 さわっ。風がまるで彼の呟きに応じるように一陣走ったような気がした。
 如何いう意味だろう? 小枝子は馳老人を見遣った。目を閉じ、じっと何かに感覚を凝ら
し始めた彼の横顔をじっと見る。
「……春は芽生えた生命が輝く匂いがある。新しい若者達が初々しく歩み出す足音がある。
夏は緑の葉と陽の光をたっぷりと浴びた生命の匂いがある。セミ達の愛の囁きがある。嬉々
として遊ぶ、子供達の声がある。秋には昼、温かな風の感触と作物の匂いがある。夜は虫の
音が合唱となり、日に日に短くなっていく時間が愛おしくなる。冬には冷たいが紅葉の匂い
が風に乗ってやってくるし、弾む子供達の吐息と足音がする。哀しむことはない、それらは
全て明日を迎える為のものなんじゃ」
「……」
「分かるかの? こうしている間も世界は奏でておる。目に頼り過ぎていたんじゃ。今なら
よーく分かる。誰も一人ではない。他人を信じられなくなった、他人を捨ててやると嘯いて
おったあの頃の自分の、何と小さなことか」
 ほほっ。馳老人は笑っていた。
 惜しむべくは、遊びに来ていた供達が、おそらく大人達が叱ったことで萎縮してすっかり
いなくなってしまったことだが──。
 小枝子はぽかんとしている。まさかこのぼんやりとした老人が、こんなセンチメンタルな
詩を紡ぐとは、流石に思いもしていなかった。
 だが……不思議と嫌ではない。嘘偽りはないのだろうと、すとんと納得できている自分が
そこにはいた。
「……。お嬢ちゃんや」
「は、はいっ」
 彼はふいっとその目を開き、そして実際は映っていない筈の瞳で小枝子を見た。
「儂のことはええ。それよりも若い衆らを優先して面倒みてはくれんかの。今を作ったのは
儂ら年寄りじゃが明日(みらい)は違う。生かすべきは、後から続く者達の筈なんじゃ」


 思えば、あれはまどろみの日々だったのだと思う。小枝子にとっても、馳たち集落の面々
にとっても。愚かだったといえば愚かだと言わざる得ないのだろう。どれだけ空を仰ぎその
美しさを愛でてみても、セカイは無遠慮に進み続けるのだから。

 最初は夏の初めだった。南洋から北上してきた台風が小枝子らの住む県を通り過ぎ、懸念
されていた尾利根川の氾濫が現実のものとなってしまったのである。
 警報が鳴り響いていた。役場内もてんやわんやで対応に追われた。
 それでも、小枝子は心配でならなかった。一通りの避難対応が終わると、巡回をしてくる
と方便をつけて馳らの安否を確かめに急いだ。
 ……無事だった。間一髪、馳らは大雨が本降りになる前に荷物を纏め、堤防の上へと避難
してくれていたのである。
 小枝子は安堵した。だが同時に大きな喪失感を味わった。
 当然ながら、あの河川敷は大水に飲み込まれていた。ごうごうと唸り、土も草も木も、彼
らが慎ましく暮らしていたハウスをも暴力的なまでに流し去った後だったからだ。
『なぁに、気にすることはねぇよ』
『命があっただけマシさ』
『また作ればええ。儂らなら、大丈夫じゃよ』
 それでも、彼は気丈であった。打ち付ける雨で濡れた身体のまま、駆けつけてくれた彼女
に対してそう笑みを返してみせる。

 次は秋の中頃だった。大水による被害から再建(と表現すべきなのか)したハウスの一角
に、ある日火の手が上がって小火騒ぎが起きたのだ。
 幸い、すぐに気づいた集落の面子らによって火は消し止められたという。
 それでも地域周辺に対するインパクトは大きく、避けようがなかった。別の課の同僚から
情報を受けた小枝子が駆けつけた時には既に河川敷には非常線と大きなブルーシートが張ら
れ、少なからぬ不安と憎悪の眼が集まった野次馬(じゅうみん)達よりぶつけられているの
を目の当たりにした。
『──』
 小枝子はそんな人ごみの中で見た。馳らが警官達に囲まれ、取調べを受けているのを。
『本当、気を付けて下さいよ? あんなにゴミを重ねていたら、そりゃあ付け火の標的にな
りますって』
 目を凝らした物陰の隙間から聞いた。そう彼らが、さも被害者(はせたち)の方が悪いと
でも言わんばかりの言葉を漏らし、暗に迫害の眼を向けているのを。

 そして……決定打(じけん)は起きた。
 季節は冬。時刻は陽が沈み始める頃。突如若者と思しき集団が馳らの集落を襲撃、彼らが
大怪我を負って病院に搬送されたという情報が飛び込んできたのだ。
「は、離してください! 課長!」
 勿論、小枝子は飛んでいくつもりだった。もう窓口が閉まるまで間もない。報せを持って
きた同僚にも頼み、すぐにでも飛び出していくつもりだった。
「尾利根の河川敷に行くんだろう? 落ち着け、お前が行って何になる」
 なのに、コートを羽織って歩き出す小枝子の腕を、上司はがしりと取って止めてきた。
 体格差もあって見下ろされる格好。それでもあの人達との架け橋は自分だと、小枝子はこ
の時まで自身に刷り込み、信じていた。
「何って……人が死にかけてるんですよ!? 交渉だって、ようやく──」
「だから落ち着けと言っている!」
 日暮れ時の庁舎に響いた課長の怒声の後、しんと辺りが静まり返った。
 居残っていた他の職員が目を点にしてこちらを見ている。そんな彼らをざっと一瞥して、
課長はそっと小枝子を掴んでいた手を離すと、小さく咳払いをして言った。
「……お前は、肩入れし過ぎなんだよ」
 ぽつり。他の面子には聞こえないような小さな声。
 最初、小枝子は何を言われているのか解らなかった。そもそも上から目線で相手の立場に
立たなかったから交渉が拗れた訳で、だから大水被害に間に合わなかった訳で、他の先輩達
が腫れ物扱いして自分に押し付けてきたからずっと担当してきた訳で……。
「柏木が一から説明したと聞いていたんだがな。……お前は生きるのが下手だな」
 むっとした。小枝子はあの時と同じだと感じた。
 前例になるから嫌だ。正しいのは自分達だ。そう言い続けて、奉仕すべき市民を小馬鹿に
するかのような態度。
 半ば無意識に身構える。だがそんな小枝子に、課長はそっとすれ違うようにして肩越しに
顔を近付け、言ったのである。
「馳といったか。あの老人が脱落すれば、あそこの退去もスムーズに進むだろうな」
「──ッ!?」
 防御など、その一言で撃ち抜かれた。撃ち抜かれたかのようだった。
 にわかに強張り、見開いた眼。小枝子はゆっくりと彼に向き直り、ぱくぱくと口を震わせ
ながらその意図を問おうとする。
「まさ、か」
 なのに、言葉が出ない。それでも彼がじっとこちらを見下ろし、無言のまま通り過ぎよう
とするその態度が全てを物語っていた。
「……お前も来年は異動だ。後のことは任せておけ」
 ごくろうさん。彼はそう小枝子の耳元で呟きながらぽんと軽く肩を叩き、ゆっくりとした
足取りで立ち去っていく。
 呆然と。茜色が差す職場の中で、ただ彼女はその場に立ち尽くす他なくて……。


 季節は巡る。誰も彼も、その想いを置き去りにしてでも。
 世界は春になっていた。小枝子にとっては市役所職員二年目のスタートでもある。
「──」
 事件の直後、それでも何とか傷付いた心を引き摺りながらも小枝子は集落へ、そして話を
聞いて回り、馳らが搬送された病院へと駆けつけた。
 幸いにも無事だった。頭にぐるぐると包帯を巻いてこそいたものの、皆命に別状はないと
いうことだった。
 今でも忘れられない。病室をノックし、顔をみせた時に返ってきた彼らの反応。自分とい
う来客に安堵する表情(かお)と心が疲弊した表情(かお)。そんな面持ちが並んださまを
見るのは胸が痛んだ。……何より、こうなることを予測・回避できなかった自分の至らなさ
がじりじりと焼けるように憎かった。
 色々な話をした。治療の後、どうするのか? そもそも費用は誰が賄うのか?
 流石に小枝子の懐では無理だった。彼らも「ここが引き際なんだろうよ」と遠回しに固辞
してきた。
 一番手酷くやられたのは馳だったという。
 目撃した、同じく襲撃を受けて倒れ込んでいた面々によれば、どうも襲ってきたチンピラ
達は始めから馳を狙っていたように感じたという。まるで彼が自分達のリーダー格だという
ことを知っていたかのように。
 話せなかった。小枝子は宿舎での上司とのやり取り、その態度──この脳裏にこびり付い
ている仮説を終に話せずに終わった。ただひたすらに彼らを見舞った。どうか元気でいて欲
しい。そして住居の件も何とかして詰めるから、どうか……。小枝子は罪悪感なる想いを秘
めたまま、彼らを労わることでそれらを誤魔化そうとした。
「……では、私は一先ずこれで」
「ああ。……さようなら」
「──っ」
 なのにそう応えられたのだ。ベッドの中で、馳はそう静かに微笑(わら)っていたのだ。
 またね、ではなく、さようなら。
 それはおそらく彼自身、何故自分達が襲われたのか、何となく察しがついていたからに他
ならなくて──。
(思えば、あれからちょうど一年か……)
 春になって、小枝子は土木課から異動になった。
 今は住民課の窓口業務。もう彼らと“交渉”する公的な大義名分は自分にはない。
 それでも、引継ぎ相手が理解ある娘(どうりょう)でよかった。
 口ぶりこそ「小枝子は無茶し過ぎだから……」とぼやいていたものの、馳らの住居探しを
含めた対応をホームレス支援のNPOに委任するなど、決して有耶無耶にはしなかった。今
はあの頃探していたアパートを三部屋、そこに数人毎にシェアする形で暮らしており、まだ
働ける若いメンバーを中心として一生懸命生きているのだという。
 自分は頑なだったのだろう。始めから、彼女のような捌き方をするのが賢い方法だったの
かもしれないのに。
「……」
 非番の手持ち無沙汰を持て余し、小枝子はぶらりと駅に向かった。
 降りた先は、郊外。そうあの河川敷を見下ろせるコンクリ橋の上である。
 工事が始まっていた。まるで馳らが退くのを待っていたかのように、ゴンゴンと幾つもの
重機が唸り、土を穿っては盛って叩き固めている。
 生い茂っていた草木も一面すっかり刈り取られていた。地面は土色と中小の岩でむき出し
になり、重機と時に人力で選別し、均す作業へと呑み込まれていく。そんなさまが、小枝子
にとってはあの日々を壊されていくかのような気がして胸が塞ぐ。
 当然というべきか、馳らの集落はとうに綺麗さっぱりなくなっていた。小火の時に警官が
口にしていたように「ゴミ」を撤去したに過ぎないのか。大義名分は分かる。だけども、彼
らをあんなに傷つけて追い出してまで、果たして自分達は……。
「……ふぅ」
 そこまで考えて、いや、もう詮無いことだと思考を無理やりにでも終わらせる。
 橋の上、手すりに両肘をついて河川敷を見下ろし、大きく深呼吸をする。相変わらず下で
はゴンゴンと重機が無遠慮な音を鳴らし、作業を続けている。
 ──馳さんは、この“音”をどう思うのだろう?
 なのにふと今度はそんな疑問、追憶が脳裏に浮かんだ。いつか彼が話していた、目が見え
なくなったからこそ感じ取れるようになった世界の姿のことを思い出す。
 春、芽吹く生命の匂いと子供達の足音。だが自分達がよかれと口にする工事は、そんな確
かだけれど聞き逃してしまいがちなそれらを余計に遠ざけてはいまいか?
 思わず……そっと顔を顰めてしまう。
 穏やかな四季の匂いに音色に、大人達の都合が入り混じる。
「──それでね? それでね?」
「──あー、待ってよ~!」
 そうしていると、ふと初々しいランドセル姿の子供達が傍を駆け抜けていった。
 嗚呼そうか、半ドンか……。走り去っていく彼らの背中を見送りながら小枝子はぼんやり
と思い、そして自分がとても優しい気持ちになっていることに気が付いた。

『今を作ったのは儂ら年寄りじゃが明日(みらい)は違う。生かすべきは、後から続く者達
の筈なんじゃ』

 いつかの馳の呟きを、願いを思い出す。そうだった。彼もまた直接見えなくなってしまっ
てはいたが、そう静かに若者達の幸せを願っていたではないか。
「…………」
 小枝子はすっくと身を起こした。唇を噛み締め、きゅっと姿勢を正す。ぱちんと両頬を叩
いて改めて気合を入れ直した。
 ──そうだ。自分が、後輩(じぶん)達がしっかりしなくては。
 明日(みらい)を作る。自分一人の力では高が知れているのだろうが、公務員というこの
身分は何も自分個人の安寧それだけの為にある訳ではない筈だ。

 この先の音色はどうなっているのだろう? 優しい匂いは残っているだろうか?
 少なくともそれらも含めて、きっと他人事ではなくて……かつて若かった彼らから引き継
いで、今度は自分達が作ってゆく番なのだろうと思う。

 小枝子はゆっくりと踵を返した。橋の上を一人歩いていく。
 温を含んだ風。
 ついっと顔を上げた彼女を、それらはそっと包み込むように追い越していった。
                                      (了)

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  1. 2013/11/24(日) 18:00:00|
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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