日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(企画)週刊三題「火際」

──これから毎週、小説を書こうぜ?

毎週一回、ツイッタの「診断メーカー」で出たお題で小説を書いてみるという
自己鍛錬、 それがこの『週刊三題』であります。
さてさて。紡がれる文章は良分か悪文か、或いは怪文か?
とある物書きの拙文晒し、此処に在り。

【今週のお題:部屋、時間、燃える】


 ──仕事(バイト)から帰って来たら、家が燃えていた。
 その日の夜、いつものようにアパートへ戻って来た村岡が見たのは、夜闇の中で赤々と燃
え続けているこの我が家達のさまだった。
 呆然とした。事を理解するのに数分立ちぼうけになった。
 鉄筋組みとはいえ、古びた小さな二階建てのアパート。自分を含めて部屋数も全部で八つ
しかない。
 何故……? 只々意識には何故、何故よりによって此処なんだという半強制的な問いが繰
り返し反響している。
「おい、おいおいおい……!」
 ぶるるっと頭を左右に激しく振るって引き攣らせた表情(かお)。
 ややあって村岡は、既に集まり始めていた野次馬の人波、駆けつけてくる消防車と隊員達
を掻き分け横目に一瞥しながら、火の手に煽られる自身の部屋を目指しだす。
「こ、こら! ここは危険だ。すぐに避難しなさい!」
「見りゃ分かる! でも……」
 カンカンッと金属丸出しの階段を駆け上り、頭上──火に巻かれた屋根に叩き込まれる放
水の音を聞く。滴るさまを視界に捉える。
 どうやら住人の救助をしているようだった。防護服姿の消防隊員が数人、二階の各部屋の
ドアをノックして回っている最中に村岡は出くわした。
「二〇二号室の村岡だ。さっきバイトから帰って来たら、こんな……」
「!? 住人の方でしたか」
「よかった、これで一人は無事か……。さぁ、後は私達に任せて。早く!」
 名乗れば返ってきたのは安堵の息遣い、そして改めて避難するよう促す言葉。
 彼らの向こう側を見る。素人目だが、二階の角部屋──二〇五が一番激しく燃えているよ
うにみえた。もしかしてあそこが火元なのだろうか。
「ふ、藤さんを連れてきました! おお、お願いしますっ!」
「ありがとうございます。さあ、貴方も早く!」
 するとその隣、自室の隣でもある二〇三から、老齢の女性を肩に抱いた男性が必死の形相
をして飛び出してきた。
 防護服などは着ていない。軽装なワイシャツ姿の中年男性だ。
 彼は自身も煤を浴びながらこの怯える老婆を隊員に託すと、その瞳をこちらが不安になる
ほど大きく揺るがせながら、他の隊員に付き添われて階段を下りていく。
「さっきの……」
「二〇五号室の黒田さんです。火事を逸早く報せてくれました」
 こちらが言いかけて、隊員の一人が答えた。
 あの角部屋の? 村岡は片眉を上げて残りの言葉を呑み込む。この老婆もそうだが、結局
自分はこんな小さなアパートですら、同じ住人の顔を覚えようともしなかった……。
「本当……すまないねぇ」
「いえ。お怪我はありませんか?」
「弱ってるな……。吸入器の用意を」
 藤老人のか細い感謝の言葉に、隊員達は僅かばかりの微笑を返し、されどすぐに次に手当
てと救出に移り始めていた。
(……俺だけ部屋に舞い戻る訳にはいかねぇ、か……)
 遠巻きにはまだ自室が燃えているようではなかったので少しでも家財を運び出そうと思っ
たのだが、もう状況からして無理そうだ。村岡は心の中で舌打ちをすると、早速損失の勘定
を始めている自分を、存外冷めた眼で見つめていることに気付く。
「はぁ、はぁ……。も、もう、信じらんない!」
「~~ッ、ごめんよぉ……ぼくのお宝達……」
 ばたばたと、下の階で人が飛び出してくる物音がした。
 手摺から覗いてみると、着の身着のまま、鞄を抱えたケバめの女性と何を詰めてきたのか
ぱんぱんに膨れた大きなリュックサックを背負った小太りの青年が、それぞれ憎々しげに燃
えてゆくアパート──部屋を睨み、泣き顔になったりしている。
 ……隊員らが付き添い促しているのを見るに、多分あの二人も下の階の住人なのだろう。
やはり村岡には記憶にない顔だったが。
「村岡さん!」
 藤老人を支え、歩き出そうとしていた隊員がもう一度強めの語気で促してきた。
 今度は心の中ではなく本当に舌打ち。小さく漏れて、抑え冷静を装った感情にガタが来始
めるのを感じる。
「……分かってますよ。もう、諦めるしか……」
 畜生、全部灰になっちまうじゃねぇか。
 理不尽に失われようとする私物達、それに何もできず引き返す自分に苛立ちながら、村岡
は隊員らに前後を挟まれるようにしてガンガンッと鉄階段を駆け下りていった。

 ──住んでいた部屋が、アパートが火事で焼け落ちた。
 佳奈子はソファの端っこに座って膝を寄せ、日がなじっと俯いていた。
 すっかり日が暮れた頃「火事だー!」と男性の声が聞こえ、思わず彼が他の部屋へ駆けて
いくのを見遣りながら外に出てみた。
 燃えていた。轟々と二階の角部屋が火に包まれようとした。
 それからが大変だった。救急車がサイレンを鳴らしてやってきて放水が始まるし、消防の
人達が自分の部屋にもやって来て、急いで逃げてくださいと言ってくる。
 貴重品の類は可能な限り鞄に詰めた。
 服は……お気に入りを除いて諦め、同じくボストンバックに。隊員さん達に促されてあた
ふたと避難した。数年を過ごした部屋を、家財を、自分は見捨ててきたのだ。
「……」
 ぎゅっと、胸元に抱いたクッションに力を込める。
 あの夜から一週間近くが経とうとしている。
 だが、消えなかった。佳奈子の脳裏には今も燃え盛るアパート、迫る熱量が鮮明に、何度
も何度も繰り返し再生される。
 これがフラッシュバックという奴なのか。街中の大きな音、ドラム缶の中で焚かれている
火を見たりするだけでそんな記憶達が蘇った。何度、人通りの中で悲鳴を上げてうずくまっ
てしまったことか。
 仕事など、到底手につかなかった。幸い職場の上司は理解を示し、暫く有給を使って心身
を休めるといいと快諾してくれた。
 だが……本当にそれでいいのだろうか? そう言っておいて、自分のいない所では軟弱者
だの何だのと皆で陰口を叩き合ってはいないだろうか? 自分のデスクは……ちゃんと残さ
れているのだろうか。
「佳奈子」
 そんな堂々巡りの思考に釘を刺すよう、ポンと佳奈子の肩が叩かれる。
 線の細い長身の男性だった。佳奈子の恋人・悠平である。現在、住む家を失った彼女を自
宅アパートに招き滞在させてくれている。
「……怖がらないで。火事は鎮火したんだ。君だってこうして怪我せずに済んだ」
「……。うん」
 肩越しに控えめな笑みの彼を見る。
 怪我は、していない。顔も知らなかった──知ろうとしなかった同じアパートの人の叫び
によって自分達は無事にあの現場から逃げ出す事ができたのだ。
 だが……傷なら残った。体ではなく身体。自分というもっともっと内側に。
「昨夜も眠れなかったの?」
「うん……」
 事情を聞いた彼から、とりあえず僕の部屋に来ないかと言われて今に至るものの、佳奈子
にそうすぐに安らぎは訪れなかった。
 起きていると、ふとした切欠であの時の記憶が蘇る。
 しかし、かといって休養──寝ていても見てしまうのだ。そもそも、記憶という括りでは
こちらの方がむしろ直接的で深刻なのだと思い知らされてしまっていた。
 部屋にそっと昼下がりの光が差し込んでいる。だが佳奈子は何となくカーテンを多めに引
いて自分に届くそれを制限している。
 何となくだが、いけないような気がしたのだ。
 今回自分達は助かったが、過去にはあのまま火と煙に巻かれて亡くなった人達が必ずいる
だろう。
 なのに──飛躍し過ぎだとは分かっていても──自分はこの眩しい光を浴びていていいの
だろうか? そんなことをぼやっとだが思い、萎縮してしまうのだ。
「……」
 悠平は暫く、そんな恋人のやつれた姿を心配そうに見つめていた。
 そっと肩に置かれたままの彼の手。佳奈子にもその感情が伝わってくるかのようだ。
 心遣いが沁みる。
 なのに、なのに自分はまだ立ち直れていない……。
「ねぇ、佳奈子」
「うん……?」
「これから、どうするの」
 彼の声が妙に上ずったような、緊張しているように感じられた。
 ぐらりと瞳が揺れて、佳奈子は視線を逸らしていた。再びぎゅっと、半ば無意識のままで
クッションを抱き締める。
 どうする、なんて。
 今聞く質問じゃないだろう。確かにこのままじゃいけないとは解っているけど……。
「あ、えっと。そういう意味じゃないんだ。休む分にはゆっくり休めばいいさ」
「?」
 すると悠平の表情が苦笑に変わった。弁明するように言う。
「言葉が足りなかった。住む所、どうするのって言いたかったんだ」
「……」
 そういうことか。
 佳奈子はちらと彼を一瞥、小さく頷きこそしたが、やはり正面を──フローリングの何も
無い部分を見つめると、蹲ったまま黙り込んでしまう。
「その、さ」
 なのに対する彼の様子は少しずつ、いやサァッと妙になっていく。
 ちらと見てみると、頬を紅くしていた。照れているらしかった。
 同じく彼もちらちらと様子を窺がっていた。だがこのままではいけないと何か腹を決めた
らしく、こほんとわざとらしい咳払いをしてみせてから言ったのだ。
「よ、よければ、このまま僕と住まないか?」
「──え?」
 こめかみを殴られたような衝撃が佳奈子を襲った。
 しかしそれは痛みではない。ぽかっと小突かれたような、そんなじわっと染み入る言葉で
あったからだ。
「今、君にこんな事を言うのは不謹慎なのかもしれないけど……心配なんだ。このまま君を
一人にしちゃいけないって、思うんだ。だ、だから」
 あたふた。彼が言い訳するように、繕うように口を動かしている。
 少なくとも悪意なんてなかった。心配なんだ──。その一言が自分の胸にすとんと落ちて
いくのが分かる。
「……ぷっ」
 程なくして、佳奈子は堪らず吹き出した。頬を染めて必死だった悠平もきょとんとこちら
を見遣ってくる。
「……いいよ」
 笑っていた。自分でも驚いていた。提案しておいて、当の彼も驚いているのが見えた。
 クッションに顔を埋めながらこの人を見る。短く、たっぷり間を置いた後に紡いだ自分の
返事に、まるで子供みたいに頬を綻ばせている。
「本当に──」
「うん。悠平がいいって言ってくれるなら」
 今度こそ微笑(わら)った。ちゃんと、二人とも。
「一緒に……暮らそ?」
 思わず、抱きしめたクッションが欠けたリンゴみたいに大きく凹む。
 佳奈子の頬も、彼と同じくらいにほうっと紅くなり、こそばゆい温かさを帯びる。

 ──目が覚めた時、何で自分は死ななかったんだろうと思った。
 自分は……引きこもりだ。もうじき三年になる。毎日閉めっ放しのカーテンの薄暗い部屋
の中で、じっと布団に包まってひたすら時間を貪り食うだけの肉塊だったのだ。
 理由は……はっきりしている。今ではもう馬鹿らしいけれど。
 がり勉だった。勉強さえしっかりできれば、将来もそう困らないだろうと思っていた。
 ……いや、そう思い込もうとしていただけなのだ。虚しさなんてとっくに知っていだ筈な
のだ。それでもあんな生き方を続けたのは、ひとえにその「演技」に両親が周りが満足して
いたからに他ならない。止めるなんて、言えなかった。
 高校受験で、自分は難関とされる名門私立に受かった。だけどもそこは実家からはとても
通える距離じゃない。だから両親は私にあのアパートの部屋を貸し与えた。
 もっと、モット……勉強スル……。あの頃も言い聞かせた。引き返せなかった。
 だけど……破綻なんてものはすぐ傍らで口を開けているもので。
 予想以上に難しかった。中学の頃は常に学年トップ数人の常連だった自分が、名門校とい
う学力のハードルに苦戦を強いられたのだ。
 ……いや、それだけならまだよかった。努力すればよかっただけだ。
 苛めがあった。気付けば、クラスの連中の殆どが私を憎み、哂い声をぶつけてきた。
 嫉妬? いや違う。どうやら目障りだったらしい。今の時代“真面目ちゃん”とは侮蔑の
対象であるようだった。
 格好悪い、それだけで奴らはどこまでも醜くなれる。まごう事なき加害者どもだ。
 だが私も悪いのだろう。遠回しに担任にも言われたことだった。人間というものの難しさ
をまるで解していなかった。それが故に担任に「問題」を抱えさせ、その彼女からも厄介者
扱いされるに至ったのだから。
 足が重くなった。学校に行くのがどんどん苦痛になっていった。気付けば、部屋から布団
から殆ど出られなくなっていた。
 何度か、両親が部屋まで乗り込んできたことがある。
 でも出てきた言葉は叱責だった。自分達の保身だった。
 これまでに投資してきた学費のこと。
 勉強の遅れによる将来へのリスクのこと。
 たかが嫉妬に勝てない貧弱さのこと。
 何より……「ずっと嘘をつかねばらないこっちの身にもなってみろ」
 嗚呼、そうかと思った。いつからか、とうに分かっていた事だけれど。
 投資対象であり、将来への備えだったのだ。しっかり勉強し、有名な学校を出て一流の会
社に勤めることができれば将来は安泰だし、何より周りの人間に胸を張って自慢できる。
 ……そんなことだ。
 そんな、手前らの虚栄心の為に、私は操られてきた。自分の意思を持つことを怠った。
 その反動が今大きく来ている、そう考えれば合理的なのだろうか。それともただの言い訳
でしかないのか。
 やがて、両親も部屋を訪れなくなった。食事も風呂も、何もかも面倒になった。
 大方、あいつらも「ええ。娘なら向こうで真面目に頑張っておりますよ」などと周りに繕
い続けているのだろう。作り笑いの下に焦げ付くような焦りを抱えて。
「──や、美弥!」
「……」
 なのに。何で自分は生きているんだろう? あのまま死んでしまえば楽だったのに。この
出来損ないの娘だって災害と共に揉み消せたのに。
「!? 起きた……目を覚ましたぞ!」
 呼び声がした。聞き覚えのある声だ。
 重い重い瞼をゆっくりと開く。別にこのままずっと暗くてもいいのに、開く。
 両親がいた。私を覗き込んでいた。
 あの夜、わざわざ火の中飛び込んできて、私なんかに手を差し伸べてきた隊員さん達の姿
が脳裏を過ぎった。
 記憶が曖昧だけど、何かいっぱい言われて、無理やり担ぎ出されたんだっけ。
 ……何で、生きてるんだろう?
「美弥さんが目を覚ましたんですって!?」
 どたばたと何人もの足音がするのが分かった。ぼうっと見渡す。辺りはやけに清潔感ある
真っ白な部屋。自分のとは正反対だな……なんてことをとり止めもなく考えている。
「美弥、大丈夫か? 父さんだ、分かるか?」
「美弥ちゃん、聞こえてる? お母さんよ?」
「……。五月蝿いなあ」
 つい言葉に出てしまう。
 眠かった。どうでもよかった。そんなに両側から揺さぶるな。
 大体、あれだけ好き勝手に私を利用しておいて、今更親面を──。
「……っ、ひっぐ……」
「……」
 抱き締められていた。母が、こちらが憎まれ口を叩いてやったのに、私を折れるくらいに
きつく抱きしめてきていた。
 言葉が途切れる。代わりに、耳に母の嗚咽が届いてくる。
 視界の殆どを覆った母の身体。その隙間、上から、父がそっと被さっている。一緒になっ
て私を抱きしめているつもりらしい。
「……ごめんな」
 ぽつりと、そんな言葉が聞こえた。
 思わず眉根を寄せる。今更何を言ってるんだと思う。
 払い除けたかった。だが……どうしてもできない。
 物理的な重さ? それとも私がそれだけ痩せこけてしまったから? 少なくとも私は二人
の成すがままにされる他ない。
「ごめんね、美弥ちゃん。ごめんね……っ」
 どっちだ? 火事に巻き込んだことか。今までの傀儡の話か。それとも両方か。
 暫くの間、二人は「ごめん」を何十回何百回と繰り返し続けていた。流石に鬱陶しかった
が、それでもやはり私のこの身体は、抱き起こされた姿勢のまま動かない。動かせない。
「……美弥さん。お二人は火事のことを聞いてからこの一週間ずっと、付きっきりで看病を
続けていたんですよ?」
 傍で見ていた医者が言った。どうやら彼はこの場面を微笑ましく見ているらしい。
 阿呆が。あんたはこの二人の何を知っている? 
 阿呆が。何を勝手に、お涙頂戴を、演出……してる……。
「……」
 歯を食い縛る力も出ない。
 なのに何なんだろう? 赤く熱い何かと黒く粘っこい何かが私の中で互いに激しくぶつか
り合い、ぐるぐると螺旋を交わりをみせている。
「父さん達が悪かった……。お前はお前だ。私達の道具なんかじゃない」
「もう、そんなに頑張らなくていいの。一緒に……元気になりましょう?」
「──」
 赤い方が、黒い方に克つ瞬間がみえた気がした。
 謝罪だ。謝罪の言葉だ。ずっと、ずっと私が求めていた「止めていいよ」の一言。
「…………遅過ぎるっての」
 ありがとうは言えなかった。だけどフッと身体が軽くなる気がした。
 わぁっと母が声を荒げていた。ぎゅっと、今度こそ本当に折られるんじゃないかってくら
いに抱き締められた。
「痛いよ」
 力なくだけど、笑っていた。そんな自分に内心驚いていた。
 わんわんと母が泣き続けている。抱き締め続けている。
 父が「か、母さん。そろそろその辺にした方が……」と声を掛けているが、どう見ても聞
こえている様子ではない。
「……」
 火事で部屋は燃えてしまった。あのぐーたらライフも一緒に。
 だけど、まぁいいやと思う。
 こっちの方が……まだ退屈しなくて済みそうだから。

「──もう私一人では手の付けられない状態でした。だから……」
 火事のあったアパート、その所轄署内の一室で一人の中年男性が取調べを受けていた。
 ぐったりを項垂れ、今もぼろぼろと涙を零しているワイシャツ姿の男性。それはあの夜、
誰よりも早く火事を住人達に報せ、自らも救出活動に加わったあの男だった。
 彼は語った。曰く、あの火事は自分の所為なのだと。
 いつものように、しかしあの日は連日の残業が相まって特に、彼は自室に──火元である
二〇五号室へと倒れ込むように帰って来た。
 くたくたに疲れた身体、草臥れたワイシャツ。スーツをばさばさと脱ぎ捨てて飢えた農民
が如く水を飲み、顔を洗う。棚からタオルを取り出してお湯で濡らし、シャワー代わりに身
体の汗を拭った後は、とにかく休みたいとベッドにもたれ掛かっていたのだという。
 何度も何度も息を吸う。吐く。
 テレビを点けてみたが、面白いなどと感じる余裕はなかった。
 まだ震える手で煙草に火をつける。吹かす。ちょっとだけ身体に「楽」が戻ってくる。
 ……その後がいけなかった。
 彼は、いつの間にか眠ってしまったのである。手に煙草を持ったまま、火が点いたまま。
 ハッと目が覚めた時には、既に足元のカーペットに燃え広がっていたそうだ。事態の深刻
さに飛び上がった彼は急いでバケツ代わりの鍋に水を汲み、消火を試みたのだが……もう火
はその程度では収まらなくなっていた。
「報せないとと思いました。燃え広がっていく部屋を飛び出してお隣さんに。藤さんはお年
寄りでしたから、真っ先に助けないとと思いまして……」
「通報は、その後に?」
「はい。話を聞いた藤さんが。でも、そうしている間に火が……」
 取調室の刑事らの問いに、彼は益々青褪めた顔をして頭を抱えた。
 藤老人は、とにかく他の皆さんに報せてと言ったらしい。それで彼はもう一度飛び出して
アパートの全部屋を回って避難を呼び掛けたのだが、肝心の藤老人は迫ってくる火と煙に巻
かれて動けなくなっていたのだという。
「消防が着くのを待ってはいられませんでした。そもそも私の不注意で起こってしまった火
事なのに、なのにそれで人が死んだとなれば、私は……私はぁッ!」
「お、落ち着いてください、黒田さん!」
「大丈夫です! もう終わったんですよ! 皆さん、無事だったでしょう……?」
 フラッシュバックという奴か。話している内に彼こと黒田は取り乱し始めた。
 慌てて刑事達が彼を押さえ、落ち着かせる。
 暫し物々しい空気が室内を包んだ。その主役、事務机に、黒田は枯れても尚流す涙と共に
頭を抱えて息を荒げている。
「……お話は大体分かりました。確かに貴方の過失は免れようもありませんが、それでも即
座に行動に移りました。逃げずに市民の義務を果たしたからこそ、あれだけの火災で一人も
死者を出さずに済んだのです。そこは、是非ともそっと誇っておいてください」
「……。はい」
 ベテラン風の刑事がちらと壁際の部下を見遣った。先刻からの黒田の話を、彼がさらさら
とペンを走らせ調書に纏めている。
「それにね、黒田さん」
「? はい」
「こう言っちゃあアレだが……貴方があそこで火事を起こしたことで、実は一つ、悪が摘ま
れたんですよ」

 ──それは、火事の起こったその当夜に遡る。
 小さなアパートながら、煌々と夜闇に上がった火の手は程なくして周辺の人々を野次馬に
変えていた。
(こいつはまたデカイな……)
 消防車の一斉放水、隊員らによって救出される住人達。彼もまたそんな一部始終を人波の
後ろで眺めていた。
 自転車に大型のライト、警官の制服姿。
 彼は近所の交番に詰めている巡査だった。あの夜は管轄区内の古アパートで火事が起きた
と聞き、パトロールの途中で様子を見に来ていたのだ。
(こりゃあ、明日くらいには駆り出されるかもなぁ……)
 既に住人達が救出されたらしいと耳に挟んでいたこともあったが、その巡査の当時の内心
は後々の面倒さへの嘆息であったらしい。
 夜闇の中に咲くかのような赤。その一種幻想的だが、間違いなく災禍であるそのさまを、
彼は心持ち見上げつつ眉を顰めて眺めていた。
(……ん?)
 そんな時である。ふと、野次馬の中にぽつんと一組の男女が彼の目に留まったのだ。
 一人はガタイのいい、短かく刈った髪の男だった。もう一人は彼にしなを作って寄り添っ
ている、いかにも水商売っぽい感じの女だった。
 だが巡査がこの時目を付けたのは、そんな二人が珍しかったからではない。
 前者──この男の人相に、彼は見覚えがあったからだった。
「……。吉川威夫だな?」
 自転車をその場に停めて、そ~っと二人の方へ。
 彼らが気付いた時には、巡査は飛びつけばすぐ捉えられる距離にまで詰めていた。そして
半分鎌をかけるようにそう男に向かって訊ねてみる。
 結果は──脱兎のそれだった。
 男、吉川は警官から告げられた自身の名に反応し、女をその場に捨てて逃げ出そうとした
のである。
 やはりか! 巡査は確信し、この男に飛びつく。
 手配書の中にあった顔だった。吉川威夫──彼は三ヶ月前、隣県のとある銀行を襲った強
盗グループの一人だったのだ。
「大人しくしろ! 両手を出せ!」
「ぐぅ……っ」
 野次馬がその視線を彼らに向ける中で、巡査は手錠を掛けた。ややあって連絡を受けた他
の同僚らが応援に駆けつけてくれた。
 これは後から判明した事だが、何と吉川(を匿っていたこの女)の潜伏先は今回火事に遭
ったあのアパートに一室だったのだという。
「ついてねぇぜ……」
 取り押さえられ、パトカーに乗せられゆく彼はそうごちていたそうだ。
 ともあれ、かくしてこの巡査の機転により、吉川はようやく逮捕されたのである。

「──」
 数年の月日が巡っていった。
 かつて住んでいた古アパートは見事なまでに焼け落ち、取り壊され、まるで災禍を人々の
忌避から除くように更地へと均されていった。
 暫くは買い手がつかなかったらしい。売り地の看板だけがぽつねんと建ち、雑草の生えた
その空き地で何も知らない子供達が遊ぶ姿が暫く見られた。
 だけど、それもまた一時のものだ。何処の誰かまでは知らないし、別にそこまで知ろうと
も思わない。やがてこの土地も何者かの手に渡り、今では路地裏の雑居ビルの一つへと成り
変わった。
 それでも……建設前の儀式には自分も顔を出した。かつての被害者の一人として、その場
に加わることを許されていたからだ。
 清めの神事とでもいうのか。それとも今は単に験担ぎ程度のものなのか。
 少なくとも自分は、あの日への祈りとして手を合わせたつもりだ。
 あの夜、燃え盛ったかつての我が家。年寄りの冷や水にならぬよう、息子夫婦から離れて
暮らすようになったあの場所は、何とも呆気なく焼け落ちてしまって……。
「……」
 気付けば、また手を合わせていた。
 いや、もう癖になってしまっているのだろう。この場所を通り過ぎる度、自分はあの火事
を想って静かに手を合わせる。
「母さん」
 そうしていると、背中に声が掛かった。
 振り返れば息子夫婦が立っている。二人に手を繋がれた孫は、今年で六歳になる。
「また拝んでたのかい」
「ええ。何だか、感慨深くてねぇ」
「……あんまりやり過ぎないでくれよ? 真昼間だと他人も見てるんだから」
 息子は苦笑して言う。事情を分かっていない訳ではない。だがこの子にとってはもうあの
事件は過去として処理したいものらしい。
「でも、よかったですよね。お義母さんも皆さんも無事で、だからこうして私達も一緒に暮
らすことができたんですし」
「……まぁ、な」
 嫁がやんわりとフォローの弁を述べる。息子はばつが悪そうに視線を逸らしている。
 焼け落ちたあの部屋はどうしたって戻ってこない。
 さて、何処に新居を構えるか……?
 そうして思案をしていた自分に息子達は、実家に戻って来ないかと言ってきたのだ。
 そもそも、この家は母さんの家なんだからと……。
 最初自分は遠慮した。嫁姑問題、なんてものは今も昔も変わらない。自分から拗らせよう
という気は毛頭ないにしても、始めから至近距離にいなければリスクは避けられる筈で。
『お願いです、お義母さん。戻ってきてください……!』
 それでも、肝心の嫁がそう懇願してくると、ずっと首を横には振れなかった。
 もしかしたら息子の、親を追い遣るような男という風評被害への懸念が故の言葉だったか
もしれないが、そうやって邪推する所から溝は刻まれていくのだと自身に言い聞かせ、結局
自分は家に戻った。
 ……穏やかな生活だ。
 何よりも独りじゃない。それがこの歳になっても嬉しい。勿論この先何も問題が起こらな
いなんてことはないだろうけど、それでも今は──。
「帰るか。日差しも強くなってきたし」
「そうね」「ええ」「お昼ー?」

 親子三人と祖母、合わせて四人。初夏の日差し強まる歩道を往く。
 彼女は真っ白な日傘を差していた。
 優雅に、儚げに。積み重ねたこの齢を優しく包み込むようにして。
「……」
 最後に一度だけ、彼女は件のアパート跡もとい現雑居ビルを見上げる。
 すいっと、日傘がその動きに合わせて動き、街はその姿──藤老人の振り向きざまの微笑
を映す。

 ぼやりと薄い陽炎。
 火とは破壊するものであり、また生み出すものでもあるのだ。
                                      (了)

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  1. 2013/10/27(日) 00:00:00|
  2. 週刊三題
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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

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