日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(企画)本音リバーシブル

【注】先日、物書き仲間さん達とのコンペ(読み合い)企画に出した拙作短編です。
   本文は追記部分からどうぞ↓


「あんたの言葉なんて、聞かない」
 少しずつ陽が傾き始めたグラウンドの片隅で、彼女ははっきりとそう僕に言った。
 短い少しばさついた髪と、強気で張り詰めたような表情(かお)。
 背後遠目から差し込む茜色は、きっと本当ならその端整さを割り増しにしていたのだろう
が、間違いなく拒む意思で紡がれたその一言に僕は返す言葉を失ったままだ。
 下校時間が近付いている。校内放送でもその旨を促すアナウンスが流れている。
 しかし僕には、そんな周りの音全てが、ぐわんと歪んで遠退く錯覚があった。
 自分の性格もあるのだろうけど、反感のような感情はなかった。胸奥にあったのは、ただ
戸惑いばかりで「何故?」が何度も何度も頭の中で反響する。
 どうして?
 何故君は、そこまで……。
 ぱくぱくと、問えそうで問えず、弱く唇だけが動いていた。季節が初夏というのもあるが
妙に乾く感じがする。
 長い長い、沈黙があった。
 僕も彼女も終始互いの視線を逸らすことはなかった──できなかったが、徐々に他の運動
部員や下校しようとしている生徒達の視線が遠巻きに遣られている気配がする。
「……知ってるよ、あんたのこと。品行方正、誰からも頼りにされる生徒会長さま」
 先に沈黙を破ったのは彼女だった。
 ぽつっと呟かれたその言葉だけなら、きっと嬉しかったかもしれない。
 だけど……明らかに彼女はそんな意図を込めていない。むしろ周囲の僕に対するそんな評
を皮肉り、哂っている類のニュアンスだ。
 実際、彼女は小首を傾げ唇を心持ち尖らせ、見下すように僕を見ていた。
 嗚呼……。こういうことか。
 予め聞き及んでいた話ではあったが、なるほど、これはきついものがある。
「でも、あたしはあんたみたいなのが大っ嫌いなんだよ」
 加えてどストレート、芯ど真ん中。
 正直ここまで言われて言い返せないのが情けなかった。……いや、そもそも「悔しい」と
最初に感じられなくなっている時点で、既に僕の“これ”はかなりの重症なのかもしれない
けれど。
「──嘘つきの言葉なんて、信用できるもんか」
 ともかく彼女は言い放った。
 もう一度僕をキッと睨み直し、改めて拒否の意思を明確にするように。


「僕が……ですか?」
 そもそも、秀一がそんな罵声を受けなければならなくなった理由は、数日前に遡る。
 彼は自身も通う此処、高御学園の生徒会長をしていた。
 品行方正で穏やかな物腰、威厳はちょっぴり疑問符がつくけれど、多くの生徒や教師から
頼りにされる人物──それが彼に対するおおよその評である。
 その日の彼は、生徒会室で皆と雑務をこなしていた。
 発端となった依頼は、そうこの日も、忙しくも緩やかな心地よさに浸っていた中で持ち込
まれたものだった。
「そうだ。生徒会長である君から直接、彼女の素行を改めるよう指導して欲しい」
 顧問の乾教諭が、短く刈り揃えた生真面目な顔をみせて言う。
「構いませんが……何故僕に? そういうのは生徒指導担当──寺尾先生の仕事ではないの
ですか?」
 秀一は当然、頭に疑問符を浮かべていた。
 突然ドアを開けて入ってきたと思ったら「ちょっと問題児を何とかしてくれ」だ。
 それだけ信頼されているのかと考えることもできるが、流石に情けなくはないだろうか。
「勿論、何度も呼び出したさ。だが……彼女は一向に聞き入れる様子がない。“自分に正直
に生きると決めてますから”の一点張りなんだ。正直、私達教師陣もお手上げでね……」
 なるほど、と秀一は小さく頷いていた。
 ポンポンと書類の束を机の上で揃え、ホチキスで綴じるとまた一部が出来上がる。
「えっと、本條さん……でしたっけ? 確か陸上部のエースの」
「ああそうだ。うちのスポーツ特待生の一人でもあってね。選手としては、非常に優秀だ。
だからこそ学園側も、今までなるべく強いやり方は避けてきたんだが……」
「避けてきたって……もう違うんスか?」
 それらをまた丁寧に重ね、ダンボールにしまいながら確認するのは会計の一年生・黒澤。
次いで乾に再び疑問を返したのは、二年生の書記で秀一の親友でもある風見だ。
 顔を向けてきた二人。その問いに、乾は暫し眉を顰めて黙っていた。
 逡巡。だがそれも一時のことだった。
 やがて彼は肩越しに、他人の気配がないかを確かめるように廊下外の方を一瞥すると、少
なからぬため息混じりに打ち明ける。
「……この前の職員会議でとうとう方針が変わってね。今度大きなトラブルがあったら自主
退学を促すことも辞さないと理事長が明言したんだ。いくらうちの特待生と言っても、ああ
まで歯に衣着せぬ言動を続けられるとリスクが上回ると判断したのだろう」
 秀一は大きく目を見開き、そう答える乾の顰めっ面を見遣っていた。
 黒澤も風見も、それぞれ別の側に立った同情を漏らしている。
 多分自分の抱いた感覚とあまり違わないのだろう。秀一は次の書類に伸ばしかけていた手
を止めると、ようやく意識をこの依頼へと集中させ始める。
「彼女、そんなにトラブルが多いんですか?」
「そうねぇ……。生徒会(こっち)で把握している限りではそろそろ三桁に届くんじゃない
かって勢いよ? まぁ殆どが、落ち度を指摘された相手の逆ギレが原因みたいだけど」
 代わりに答えたのは、それまでじっと戸棚の書類整理をしていた女子生徒だった。
 副会長の二年生、名取翔子。
 長い黒髪と知的な佇まいが似合うクールビーティー、学園屈指の才媛……というのが周囲
の評だが、秀一達生徒会の面々はそれがまだ上っ面であることをよく知っている。
 要するに、恐ろしく計算高いのだ。
 実際、秀一が生徒会長になれたのも、選挙当時有力候補のはずだった彼女がオファーを蹴
って自分の参謀役についてくれたことが大きい。
 ……だからこそ、秀一は今でも彼女に頭が上がらないままなのだが。
「ふーむ」
 乾と共に彼女に向けていた顔を逸らし、秀一は椅子の背で伸びをしながら唸った。
 歯に衣を着せぬ少女・本條真。
 本人に悪気はないらしいのだが、如何せん“本音”ばかりを口にされるとあちこちで角が
立って仕方ないので何とか止めて欲しい──。
 何とも、皮肉な頼みが舞い込んできたものだ……。
「……先輩?」
「あ、いや……。何でもないよ」
 少しだけ。少しだけ口元の緩みが自分を哂っている。
 だけど漏らす訳にはいかなかった。
 黒澤の、この健気な性格の後輩のちょこんとした表情に、秀一はそう苦笑を返す。

「──はぁ」
 なのに、何故こうもものの見事に玉砕となるのか。
 いや……反発されるのはまだいい。そもそも教師達の注意で変わらなかったからと自分に
役目が回ってきたのだから。
 むしろ堪えるのは、彼女が反発したその理由だ。
 嘘つき。
 確かに彼女の言い放った言葉は、ある意味真実を捉えている。自覚だって、ある。
 会議用のテーブルに突っ伏しながら、秀一は悶々とした気持ちを抱えていた。
 思いを巡らすのは、これまで自分が歩んできた人生──人との接し方の基本姿勢にある。
 要するに「いい顔」ばかりしてしまうのだ。自分という個人が何を思うかは極力、よほど
切実に求められでもしない限り、表には出さない人生を送ってきた。
 結局のところ……八方美人なのである。
 それを自覚できるようになったのはいつの頃だったか。少なくとも周囲から優等生の評を
勝ち取った頃には、もう“建前”という鎧を気安く脱ぐことができなくなっていた。
 だから、あの言葉は手痛かった。
 嘘つき──確かに見方を変えればそう言える筈だ。
 自分の“本音”を出さず、先ず相手が何を求めているのか、言って欲しいのかを先回りし
て想像する。そんな思考回路が常態化している自分は、確かに嘘で塗り固めた人生を送って
きたのかもしれない。
 母が厳しい人だったから……というのは言い訳だ。他人の顔色を窺いながら生きるという
選択を幼いながらにしたのは、間違いなく自分自身なのだから。
「だ、大丈夫ですか、先輩……?」
「手ひどくやられたみたいだな」
 しかし黒澤も風見も、その日自分が何を言われたのかまでは話していないため、ただ単に
辛辣な口撃を受けただけだと思っているらしい。
 四人分のお茶を淹れてくれた彼女が、そうおどおどしながらも心優しく話し掛けてくる。
風見もそこまで寄り添う態ではなかったが、茶を啜りつつ成果が芳しくなかったことに憂慮
はしているように見える。
「……まぁいくら生徒会長だって言っても、ほぼ初対面な相手にいきなり説教されたら誰で
も嫌な顔はすると思うし」
「そ、それはそうですけど……」
「相変わらずお人好しだなぁ。こけ下ろされたらむかつくだろ、普通。……まぁそれがお前
のいいとこなんだけどよ」
 だから秀一は、やはり本音──自身の思う己の偽りを告白することもできず、そう二人に
苦笑を浮かべるしかなかった。
 むくり。突っ伏した身体を起こし、置かれた茶に口をつけた。
 粘ついた喉にサァッと水気が浸透していく。湯飲みを握ったまま、秀一は思う。
 これは勘に近いのだが、彼女のあの極端な姿勢はきっと「理由」がある筈だ。
 ……どうも自分と重なるのである。その中身はまるで真逆ではあるけれど。
 ただの性格の問題、そう片付ける──切り捨ててしまうことに、秀一は言いようもない違
和感を覚えていたのだ。
 確かに彼女の言動は周りとぶつかるだろう。角が立ってしょうがないのだろう。
 でも、だからといって退学を迫る──学園(ここ)から追い出すなんて……。
「……どうするの、立花君。諦める?」
 だからじっと角隅の席に座っていた翔子の言葉に、秀一は半ば反射的に否を返していた。
「そうはいかないよ。僕らが投げ出したら、退学はほぼ確定的だろう? 事実色々トラブル
が起こっているにしても、ただ追い出せばいいなんて僕は思わない」
 風見がニッと声もなく微笑(わら)っていた。黒澤がじーんと感動したように瞳を輝かせ
てこちらを見つめている。
 すると、当の翔子はまるで待ってましたと言わんばかりに、そっとその目を細めた。
 口元には僅か、ほんの僅かに描かれた弧。
 まさに影の大将、参謀に相応しいその面持ちで、彼女は静かに言う。
「そう言うと思っていたわ。だったら、私達もサポートするから頑張りなさい。……頼りに
なる会長さん?」


 とはいえ、秀一には何か新しい手がある訳でもなかった。
 手痛い口撃に沈んでから翌々日。放課後、彼は昇降口で靴を履き替えるとグラウンドへと
向かっていた。
 更にその傍らにはとてとて。先日の顛末もあって心配してくれたのか、黒澤も小さな身体
をきゅっと抱きながらついて来ている。
「……優月(ゆづき)ちゃん。無理はしなくていいんだよ?」
「ふぇっ!? だだ、大丈夫ですっ」
「そ、そう……」
 そう意気込みをアピールこそしていたが、怖がっているのは明らかだった。
 苦笑しつつ、されどそれ以上追及するようなことはせず、秀一は少しずつ西日が差し始め
ているグラウンドの外周に足を踏み入れる。
 今日も運動部は精力的に活動していた。
 野球部、防護ネットの壁の向こうのテニス部、そして件の本條が所属する陸上部。
 秀一自身は文化系の出ゆえこういった空間には馴染みはないが、それでも多分こういう姿
がいわゆる青春って奴なのかな? とも思う。
 二人は遠目に立ったままグラウンドを見渡した。
 そしてお目当ての人物──本條真は、割合すぐに見つけることができた。
『──ッ』
 理想的なクラウチングスタート。そこから数拍置いて、マネージャーらしき女子が手を叩
いて合図をした次の瞬間、彼女は他の部員達から頭二つ以上も抜きん出てスタートダッシュ
をしていた。
 秀一が優月が、思わず目を丸くする。その間にも走り始めた彼女と他の部員達との距離は
どんどん開く一方だった。
 射出されたように飛び出した身体。
 決して大柄ではないが、引き締まった無駄のない肉体。
 なるほど。これが特待生レベルの走りか……。
 あっという間に一直線のレーンを駆け抜けていった彼女達を見遣りつつ、秀一はしみじみ
と思う。……だがそれ以上に、とても輝いていると思った。
「……」
 ややあって模擬レースは終わっていた。
 本條を始め、出走した部員達がそれぞれに膝に手を乗せ、大きく呼吸を整えている。そん
な面々に、マネージャーらがスポーツ飲料やタオルを手渡しているのも見える。
 しかし気のせいだろうか?
 ただぶっちぎりで勝ったからというだけではなく、その立ち位置からして、彼女が他の部
員達と離れて──離れられているように感じてしまうのは。
「ん……?」
 そうしてじっと見つめていたのがいけなかったのかもしれない。
 一息を入れていた中で、はたと当の本條がこちらの存在に気付いたのだ。
 他の部員達もちらりと見遣ってきた。中には「あ、生徒会長だ」「横の子誰……?」など
と小声で話しているのも耳に入ってくる。
「なんだ、お前か」
 そんな彼女達を横目に一瞥しながら、本條がこちらに近付いてきた。
 尤もそれは友好者への挨拶というよりも、明らかに余所者への警戒心に満ちたものだ。
「こ……こんにちは」
「や、やあ。……凄いね。流石はスポーツ特待生だ」
 やはり緊張している優月に被せるように、秀一はなるたけ硬くせず気安い感じでそう呼び
掛けてみていた。いきなりここで“説教”しても無駄だろう。何より他の部員達に迷惑にな
ってしまう。
「何の用だよ。あたしは忙しいんだけど」
 なのに、やはりというか、彼女の反応は素っ気ないものだった。要するに嫌がっている。
 それでも応対自体はしてくれるというのは、自分達が生徒会役員と知ってのことなのかと
思ったが、すぐに秀一は脳内で否定した。おそらく彼女の性分がそうさせるのだろう。
「そんな怖い目をしないでくれよ。……ただ今日は観に来てみたんだ。君が特待生だって聞
いたから、会長としても目にしておくべきだと思って」
 秀一は何とか笑顔を繕いながら、言った。
 嘘は言っていない。先程もそうだが、今日この場で二度目の説得を行おうとはそもそも考
えていなかった。先ずは相手の事を知る──そうでなければ、対話も何もあったものじゃな
いと考えたからだ。
「ふぅん……? まぁいいけど。邪魔だけはするなよ」
 そんな“本音”をみたのか否か、存外本條の反発はさっぱりとしたものだった。
 塗らしたタオルで汗を拭い、そのまますたすたと戻って行こうとする。
「ちょ……。ちょっと待って」
 しかしそれでは何も収穫がない。秀一は思わず彼女を呼び止めてしまう。
「……何だよ。まだ何かあるのか」
「あ、えっと──」
 今度こそ、明らかに面倒臭がる表情と呟きが返ってきた。
 秀一も内心慌てていた。呼び止めたはいいものの、一体何を聞き出せばいいのやら……。
「あっ、あの。やっぱり先輩も今度の大会には出られるんですよね?」
 助け舟はちょっと意外な所から来た。困った自分を察してくれたのか、優月が勇気を振り
絞るようにしてそんな質問を──間を繋げてくれたのである。
(おお。ナイスだ、優月ちゃん)
 流石に一番知りたい、彼女の“極端な本音”の理由を訊くには段階を飛び越え過ぎる。
 無難な選択だなと秀一は思った。
 とりあえず共通項というか、彼女が力を入れている陸上から外堀を埋めていくしかない。
「うん。この前メンバーも決まったし。あたしがいるからには、優勝するよ」
「ふわー……楽しみです。生徒会からも応援させて頂きます」
「自信満々だね。そりゃあんな走りを見たら、だけど」
「……。ま、あたしはこの脚で学園(ここ)に入ったようなもんだし、これくらいしか取り
得らしいものはないからね」
 優月の時に比べ、向けられる態度がやっぱりぞんざいな気がする。
 だがそんなことを嘆いている暇はない。秀一は苦笑いで小首を傾げ、そんな彼女の自虐と
も取れるフレーズに内心哀しさを覚えていた。
 これくらいしか。
 そんな言い方をするというのは、彼女自身、それ以外の言動に難があると自覚しているの
だという証拠──と考えるのは、流石に邪推が過ぎるだろうか。
「そっか……。好きなんだね、陸上」
「ああ」
 短く素っ気なく、だが確かに正直に彼女は言った。
 他の部員達がまたそれぞれにトレーニングを再開しようとしている。
「……陸上はいいもんだ。運もあるけど、努力した分、疲れを残した分、全部身体が正直に
結果をみせてくれる」
 彼女は尻ポケットに突っ込んでいたスポーツ飲料のボトルを取り出すと、二・三度口をつ
けて喉を潤してから、不意に小さく呟いていた。
「嘘なんて、つかないから」

 その日の夜だった。
 風呂から上がって自室に戻ってきた秀一は、ふとベッドの上に置きっ放しにしていた携帯
がチカチカと点滅しているのに気付いたのである。
(着信……。朗(あきら)からか)
 ディスプレイを開き、着信履歴を確認するとその最新には「風見朗」の名。
 秀一は髪を拭っていたハンドタオルを一旦ヘッドボードに引っ掛けると、早速彼へと掛け
直してみる。
「──あ、もしもし。朗? 僕だけど」
『おう。何だ、さっきは出なかったけど、飯でも食ってたのか?』
「いや……。風呂に入ってた」
『ああ、そっか。そーいやお前ん家はそういう生活リズムだっけ』
「悪いな。二度手間になっちゃって」
『気にするなって。で……いいのか?』
「うん。それでどうしたのさ? 言っとくが今週末は遊べないぞ? プール開き関係の予算
処理があるって言われてただろ」
『あ~、いや。そっちじゃないんだがな……』
「……?」
 何度かやり取りをした後、そう朗は不意に口篭ってしまった。
 携帯を耳に押し当てたまま、秀一は頭に疑問符を浮かべ、言葉なき怪訝と促しのニュアン
スを送る。
 暫く、電話の向こうの朗は黙っていた。まるで何かを躊躇っているかのようだった。
「実はだな──」
 しかしそのままでいる訳にもいかないと思ったのか、彼はそんな沈黙の後、覚悟を決める
ように声色を重くしてからゆっくりと口を開く。


「…………」
 翌日、秀一は授業中にも関わらずぼうっと考え事をしていた。
 心ここにあらず。
 だがその理由は、まさしく昨夜朗(とも)から掛かってきた電話にあったのだ。
『実はだな……今日ずっと、調べ物をしてたんだよ』
『調べ物? そういえば放課後、姿を見なかったけど……』
『ああ。名取から命れ──頼まれてな。お前らが本條と話してる内に、あいつの性格の原因
を調べてくれって言われたんだよ』
 秀一はその話を聞いた時、思わず深く深く眉間の皺を寄せていた。
 彼が最初言いよどんだのも分かる。
 間違いなく、それは。
『本條の母親は、中学に上がる前に亡くなってたんだ。ガンだったらしい。それをあいつら
家族は本人に黙ってたんだが、ある時バレちまってな……その時の母親の発狂っぷりと言っ
たら凄かったらしいぜ。“よくも私を騙したわね!”って泣き叫んで、医者や看護婦が総出
で止めに入るまで暴れてたんだと。で、それから一週間と経たない内に……自殺した』
『──ッ!?』
 古傷だった。間違いなく他人に知られたくないであろう、心の傷だ。
 朗が仕入れてきた話が本当なら、これで様々な疑問に合点がいく。
 彼女が極端なまでに“嘘”を嫌うのは、母を狂わせた後悔からなのだろう。そしてその反
動として、自らを本音で生きるように戒め続けてきた。
 経済面からみれば、特待生として入学したのも、そうして母を失ったことで家計が苦しく
なったか、父に負担を掛けさすまいと考えたからではないかと推測できる。
(……ただの、性格の問題じゃなかった……)
 よろしくない予感というものは当たるものだ、とは云う。
 だが流石にこの結果には、秀一も胸が重苦しくなるのを禁じえなかった。
 理由は分かった。だがこれでは益々「説得」など難しくなるのではないか?
 今のような言動に至った内面、感情のさまは理解できなくもない。
 だけど、それは──。
「立花。おい、聞いているのか」
 そんな時だった。ふと、それまで思考と煩悶の海に沈んでいた自分を荒っぽく引き揚げる
ように、野太い数学教師の声がしたのだ。
 秀一はハッと我に返った。……教師に自分の席にまで近付かれている。クラスの皆が心な
し驚いたようにこちらに視線を遣っている。
「……授業中に考え事か? お前にしては珍しい。ほれ、そこの数式、解いてみろ」
 生徒会長ほどの優等生が授業中に上の空とは。
 教師もまた、この意外な状況に少々面を食らっている様子だった。
 それでも彼はそこはかとなく注意する、その代わりに黒板に書かれた問題の一つを指差す
と、秀一を促してくる。
「は、はい……」
 急に恥ずかしくなった。まさか自分がそこまで引き摺っていたとは。
 白い目で見られる訳ではなく、好奇の眼に曝される分、まだマシなのかもしれない。
 だが自分としては、此処でもまた平素の評が悪く働いたと感じてしまう。
「……」
 チョークを受け取り、少なからずとぼとぼと黒板の方へ。
 秀一は一旦頭の中を占拠する懸案を押し込めると、目の前の数式に挑み始める。

 ──事件は、その日の昼休みに起こった。
 いつものように朗を誘おうと隣のクラスに顔を出したがいない。仕方なく一人で弁当を手
に廊下を歩いていると、優月がひょこっと現れた。
 風見先輩は一緒じゃないんですか? そう訊ねてきた彼女に姿が見えないので先に食べて
ようと思うと話すと、何故か彼女は急に頬を赤く染め、おずおずと、では一緒に食べません
かと誘ってくる。
 秀一は断る理由もなく快諾した。見知った顔だし。そう軽く考えていた。
『……』
 なのに、何故こうも彼女はだんまりなのだろう?
 他人に見られると恥ずかしいからと、よくいる中庭ではなく屋上までやって来たのだが、
先程から優月はずっと俯き加減のままちみちみと小振りの弁当を食べ続けている。
「……どうかしたの? 優月ちゃん」
「ふぁい!? い、いえ……。何でもないです……き、気にしないでください」
「はあ……」
 そう言われても気なるんだけどなあ。
 秀一は苦笑を返しつつも、そこまで言われたら仕方ないと自分ももきゅもきゅと弁当の中
身を平らげいてく。
 元々惣菜の詰め合わせ──彼女のような手作り感満載のそれとは(低い意味で)別次元だ
とはいえ、味を感じるような余裕はなかった。
 先の授業の時も今も、ずっと自分は本條真(かのじょ)の理由について考えている……。
「あ、あの。先輩?」
「うん?」
「その……大丈夫ですか? さっきから先輩、何だか顔色がよろしくないです。何か、あっ
たんですか……?」
 だからふと、優月にそう心配げな顔で見上げられた時、秀一は静かに全身が逆立つような
錯覚に襲われた。
 まただ。また僕は、内心を知られることにこうも怯えている……。
 心配しないで。大丈夫だよ。
 だがその実情けなくも、それすら反射的に押し込めてしまう自分がいる。胸の内と裏腹に
また笑顔を繕う。
 そしてそう、この優しい後輩に心配をさせまいと口を開こうとした──そんな時だった。
「ひぁぁぁっ!!」
 突然、バタバタと足音がしたかと思うと、屋上(こちら)へと続く扉が開かれた。
 そこから素っ頓狂な声を上げながら飛び込んできたのは──朗。
 秀一は何気に優月が驚きに任せ自分の背中に隠れたのにも気付かず、弁当箱をそっとその
場に置いていた。
「朗……? どうしたんだ? いや、というかお前、一体何処にいたんだよ」
「しゅ、秀一!? 黒沢まで。何でお前らここに……。い、いや、それよりお前らも早く逃
げろ。拙いぞ、これはひじょーに拙い……」
『……??』
 なのに当の朗は、そんな継ぎ接ぎの言葉を溢すばかり。
 秀一と優月は頭に疑問符を浮かべながら、互いに顔を見合わせる。
「見つけたぞ。観念しろ」
 だがその理由は、すぐに向こうからやって来た。
 先程のドアの向こうから、今度は本條が姿をみせたのである。しかも……どうやら相当お
冠な様子で。
 朗はその剣幕にすっかり怯え、わたわたとコンクリートの地面を這いつくばり、秀一と優
月の方へと逃げてくる。
 そして宜しくないことに、彼女はそんな三人が揃った──あたかも朗が秀一の所へ逃げて
来たように見えるこの状況から、ある思い込みに至ってしまったらしかった。
「……なるほど、お前の指示か」
「へ?」
 秀一が間抜けな声を上げるのと同時、本條はずいっとこちらへ近付いて来た。
 進撃。パッと見の体格で言えばこちらの方がずっと長身の筈なのに、彼女は秀一が気付い
た時には既にその胸倉をあらん限りの力で掴み、持ち上げていた。
「先輩!」「しゅ、秀一!」
 二人の悲鳴が聞こえる。だが秀一の視線は、自分の胸倉を掴み睨み付けてくる、この少女
の鬼気迫る表情に釘付けになっていた。
「何の話? 僕が何をしたって──」
「とぼけるな! お前なんだろう? 会長のお前が指示をして、そこのアホ面に母さんの事
をこそこそ嗅ぎ回させたのは」
 弁明しようとした。事態がどうなっているか把握しようとした。
 しかしそれは他ならぬ彼女の言葉、怒りの訴えによって明らかになる。
「……朗。お前、昨夜の話、どうやって調べた?」
「え? どうって……。聞き込みだけど? 本條と同じ中学の奴らから」
「……」
 案の定と言うべきか、嗚呼確かにこいつはアホだと言うべきか。
 秀一は胸倉を掴まれたその格好のまま、片手で顔を覆うと大きくため息をついた。
 そりゃバレるだろう。たとえ出てきた理由(こたえ)が存外に重いにしたって、そんな近
距離の関係者から堂々と聞き込みをしていたら、彼女にも気付かれてもおかしくはない。
「ほ、本條さん。違うんだ」
 このアホに説教を食らわすのは後でいい。というか、名取は何故この人選にしたのか。
 と、ともかく誤解だけは解かなければ……。
 そう秀一はなるたけ抵抗を見せないようし、穏便に事態を収めようとしたのだが。
「何が違うんだ! お前らもあたしのことが邪魔なんだろう? ならこんな回りくどい事を
しないでそう言えばいいじゃないか!」
「……っ」
 言葉は、妨げられた。自分の弁明が酷く薄っぺらいもののように思えた。
 指示したのは自分ではなく名取──。だが自分たち生徒会が、裏でこそこそと彼女を調べ
ていたことに変わりはない。
 彼女はむしろその事実──手段の方に憤っていたのだ。自分か名取かは、些事なのだ。
 なら、どうすればいい? とにかく謝る。それしかないのではないか?
「やっぱり、お前みたいな奴は大嫌いだ……。どいつも、こいつも……ッ!」
 だから身体が動かなかった。
 そう彼女が怒りを──哀しみを抱えて拳を引き絞るのを、ただ妙に冷静な認識の中で見遣
ることしかできない。
 優月が、朗が叫んでいた。
 ……ごめん。僕が悪かった……。
 そうフッと諦めという名の覚悟がせり上がり、そっと目を閉じようとする。
「おい、そこで何をしている!」
 ちょうど、そんな時だった。
 ドアの向こうから、三度また人がやって来たのだ。
 物理教師、生徒指導担当の寺尾教諭だった。
 強面のその身がずんずんと近付いてくる。するとそれまで拳を引き絞っていた本條の手が
フッと緩み解かれていた。掴まれていた胸倉もそっと外され、彼女は近付いている彼を警戒
するように肩越しから見遣りつつ、秀一達から距離を置く。
「……な、何でもないですよ? ちょ、ちょっとスポーツ談義に熱が入っちゃって」
「そ、そう! 今度の大会について体育会系同士、熱く語り合うっていう……」
「生徒会の風見か。しかし立花やそこの……黒沢は、確か文化系クラスだったと思うが?」
「ははは。細かい事は気にしない気にしない。二人はおまけみたいなもんですよー。秀一と
は昔っからの付き合いですからねぇ。先生も知ってませんでしたっけ?」
「……ああ。聞いた覚えはあるが……」
 故に、秀一らは次の瞬間、必死になって場を誤魔化そうとした。
 最初こそ寺尾教諭は訝しげだったが、まくし立てる三人──何より訴えもしないで黙認し
ている本條を見て、それ以上の追求はできないと判断したらしい。
「……まあいい。昼休みとはいえ、あまり羽目を外し過ぎるなよ? 仮にもお前ら三人は生
徒会のメンバーなんだからな」
 そう言い残して、やっと寺尾教諭は立ち去っていった。
 へーいと、朗が繕える限り繕った笑みでその背中に返事をしている。
 だけど、きっとこの時別の誰かから見られていれば、自分たち三人は間違いなく引き攣っ
た表情(かお)をしていたと思う。
「……。行ったか」
「ふぅ……危ねぇ危ねぇ」
「ちょ、ちょっと寿命が縮まったかもです……」
 彼の姿が見えなくなって、秀一達はようやく深い安堵の息を漏らした。
 半ば無意識に乱れた胸倉を整え、引き攣った笑みが中々戻らず、或いは緊張のあまり激し
く脈打っている胸元を押さえる。そんな三人に、それまで一転、じっと黙り込んでいた本條
が口を開いてくる。
「……何で嘘をついた? あたしを庇っても得しないだろうに」
 秀一は、朗は優月はきゅっと胸奥に皺がいくような心地で彼女を見遣っていた。
 違うんだ。僕らは、君を──。
「……もうあたしに関わるな。母さんの事も、口外したら二度目はないぞ」
 なのに、彼女はただそれだけをピシャリと言い放つと、そのまま独り屋上から立ち去って
しまう。
 場には三人が取り残される格好になった。
 ドアは開きっ放しだ。だがどうにも、秀一達には開放感の類は感じられなくなってしまっ
ている。屋外に吹く初夏の風も、今はただ放置された弁当をじわじわと痛ませるだけの要ら
ぬ刺激ですらあるように思う。
「先輩……」
「……えっと。その……すまん」
 後輩と親友が、それぞれ心配そうに顔見上げていた。ばつが悪そうに声を落としていた。
 だが当の秀一にはもう、応える余力がない。
 昼休み終了五分前の予鈴が鳴り始めていた。
 どうやら午後も、憂鬱な気分からは抜け出せそうになさそうだった。


 それから、一体何日が経ったのだろう。
 やはりというべきか、屋上での一件以来、秀一達は本條とろくに接触できずにいた。
 一応顔を出しに行ったことはあった。だが今度ばかりは嫌な顔を更に露骨にされ、最初に
はあった世間話すらままならない。
 結局秀一は、本條の一件から距離を置き直さざるを得なかった。
 とはいっても、見方を変えればそれが「普通」ではあるのだろう。
 学園の敷地を見下ろせる生徒会室に陣取り、日々細々とした雑務をこなす。生徒や教師か
ら要望があれば、人を遣って対応する。……そもそも、一つの案件ばかりに構っていていい
組織でもない筈で。
 だけども、忘れた訳ではなかった。秀一の脳裏にはまるで焼印を入れたかのように彼女の
言葉が姿がこびり付いている。
 ──嘘つきの言葉なんて、信用できるもんか。
 ──やっぱり、お前みたいな奴は大嫌いだ……。どいつも、こいつも……ッ!
 彼女が言い残した通り、秀一はあれ以来彼女の母親の件は他の誰にも喋ってはいない。
 そもそも嬉々として言い触らしていいようなものではないのだ。だからこそ彼女はあれだ
け怒ったのだし、屋上の一件から四・五日近くも朗がブルーになっていたのである。
 もどかしかった。
 このままでは、彼女は学園によって退学の憂き目に遭うだろう。彼女を極端に走らせた、
その心の傷を真正面から受け止めることもせず、ただ集団に都合が悪いからと爪弾きにされ
てしまうのだろう。
 申し訳なさでいっぱいだった。仮にも自分はそんな集団の自治会長であるのに。
 嘘をつかない、本音を言わない。
 歪んでいるのはどちらも──自分だって同じなのに、彼女だけが不適合者として除け者に
される。自分だけが評価される。
 なのに……そう理解しているのに、尚も建前で自分を塗り固めたままの自分が、どうしよ
うもなく嫌だったのだ。

 変化は、そんな折に起こった。
 その日の夜、秀一は風呂場のシャンプーが切れている事に気付き、夜更けながらも一人外
出していた。
 本来ならドラッグストアなどに行けばいいのだろうが、近場の店はもう大体が閉まってい
る時間だ。かといって一本のシャンプーの為だけに駅を越えるのは、交通費の費用対効果を
考えればマイナスである。
 故に秀一は、多少割高にはなるが、自宅最寄のコンビニでそれを済ませることにした。
(──ん?)
 その帰り道だった。
 小さめの袋にシャンプーを提げてとぼとぼ。街灯も心なしか疎らにしか点っていない夜道
を進んでいると、ふと何処からか聞き覚えのある声がしたのだ。
 耳を澄ませて忍び足になる。
 覗き込んだ先は、行く手途中の路地裏だった。
 街灯の光は一層か細く、暗い。代わりにぽつねんと立っている自動販売機の照明だけが、
辛うじて辺りの様子を見れる状態にしてくれている。
「──どけって言ってるだろ。何なんだよ、お前らは」
 思わず秀一は目を丸くしていた。
 間違いない。そこにいたのは私服姿──青と黒のジャージを着た本條だった。
 しかも、見るからにその状況は不穏である。彼女の周りには、ぐるりと取り囲むように、
如何にもといった感じの不良達が立っていたのだ。
 背後に自動販売機、彼女自身の片手にもジュースらしき缶が握られていることから、どう
やら飲み物を買っている間に背後を取られてしまったらしい。
 それでも、本條は気丈に彼らを睨んでいた。相変わらず負けん気の強い、トラブルの火種
を抱え続ける少女である。
「……。本條真で間違いないな?」
 だが不良達は、彼女の声に耳を貸すことはなく、そう確認するような一言を発していた。
 その瞬間、本條の眉間に深い皺が寄る。手には鉄パイプや金属バット、顔にはマスクや季
節外れのニット帽を装備した彼らを、彼女は数拍確かめるように見渡していた。
「……誰に頼まれた? 大方どこぞの奴があたしを走れなくしようとしてるんだろ? 大会
まで一週間を切ったからな。今あたしが脚を怪我しちまえば、高御(うち)の戦力はがた落
ちだ」
 違うか?
 そう、あくまで不敵に馬鹿正直に問うた彼女に、不良達の態度が一層硬化したように秀一
には見えた。じりっと、彼らは得物を握り締めながら、今にも襲いかかろうとしている。
「──ッ」
 どうする? しかし秀一は考え込むよりも先に地面を蹴っていた。
 振り上げられた鉄パイプ。その一撃に、彼らの包囲の隙間に捻じ込み飛び込む形で、彼は
両者の間に割って入る。
「いっ……てぇ!!」
 当然だが、激痛が走った。咄嗟に出した右腕は勿論、全身に衝撃が伝わって気持ち悪い。
 多分、というか確実に折れただろう。ぷらぷらと、腕に提げていたシャンプー入りの袋が
なければもう少し格好がついていたかもしれないのだけど。
「お前……」
 不良達もだが、本條もまた驚いていた。
 肩越しに見遣れば、その右脇には引き寄せられた拳がある。
 ……色んな意味で危ない所だった。たとえ脚に怪我はしなくても、彼らと暴力沙汰になっ
た時点で大会も何もなくなるじゃないか。
「っ、せいっ!」
『ぎゃっ!?』
 空いていた左手で、秀一は袋からシャンプーを取り出していた。
 ポンプボトル式。即ちプッシュすると中身が飛び出す。それを彼は、目の前に迫っていた
不良達に向けて力の限り勢いよく押し出し、目潰しとしたのである。
「大丈夫、本條さん!?」
「あ、ああ……。というか、あんたの方が重症だろ……」
 詰め替え用が売り切れててよかった……。
 そんな割とどうでもいいような、ないような思考を過ぎらせつつ秀一は振り返る。
 だがむしろ、当の本條は呆れている向きさえあった。目をやられてのた打ち回っている仲
間に慌てる不良達を一瞥し、彼女はぐるりと周りを見渡す。
「……積もる話は後だ。とりあえずここから早く──」
「させるかぁ!」
 しかし時間稼ぎには、どうやら威力が弱かったらしい。
 シャンプーを浴びなかった別の不良の一人が、秀一の手を取って走り出そうとする本條を
金属バットで襲ったのだ。
 それでもそんな一撃を間一髪、彼女は避けていた。ガキンッと振り下ろされたバットの、
冷たいアスファルトの黒を叩く音が響く。
「ちっ。しつこいな……」
 本條はあからさまに舌打ちをし、彼らを睨んでいた。
 そんな彼女に取られた自身の左手。見ればもう片方──右腕はくすんだ赤を帯びて内出血
しており、若干曲がっているようにもみえる。
(あ~……)
 今更ながらに秀一は後悔した。
 そもそも自分に喧嘩だの格闘技だのといった心得などない。朗が一緒なら、剣道をやって
いる彼の助力があったかもしれないが、望んだ所で無いものは無い。
 むしろ気付けば、彼女に庇われているではないか。
 また一つ、迷惑を掛けるのか?
 また彼女に、要らぬ煩いを……。
「走るよ!」
 再び不良達の隙を縫って、二人は走り出した。
 どんどん行く先が暗くなる。彼らが罵声を飛ばしながら追ってくる足音がする。
(そうだ……左手方向(こっち)は奥だ。このままじゃ……)
 そんな秀一の気付きはすぐに現実のものとなった。つい真っ直ぐに走ってしまった先は文
字通りの袋小路──行き止まりであり、二人はややあって彼らに追い詰められてしまう。
「……ったく。ちょこまかと」
「兄ちゃん、悪いがあんたも道連れだ。正義の味方なんて、今時流行んないぜ?」
 ポンポンと、得物を軽く叩きながら不良達が再び自分達を包囲し、じりじりと距離を詰め
てきていた。
 逃げる標的に苛立つ者、突然割って入った秀一を哂う者。
 少なくとも、そこに諦めという言葉は見出せない。
「──」
 だから……立っていた。
 それまで取られていた手を解くと、無言のまま、秀一はまた彼女を庇うように彼らの前に
立ちはだかっていた。
「何で……?」
 不良達もだったが、それ以上に驚いていたのは他ならぬ本條だった。
 多分、こう言いたかったのだろう。
 “あたしを庇ったって、何の得にもならないよ”と──。
「……先ずはごめん、本條さん。ここ暫く僕ら生徒会が君を調べ回ってたのは、知りたかっ
たからなんだ。もう勘付いてるかもしれないけど、君の歯に衣を着せない物言いでトラブル
が相次いでいる。何とか説得してくれ……そう先生達からうちに依頼が回ってきてね」
「……。何でこんな時に、そんな話を」
「だって、もしかしたらもう君と会えなくなるかもしれないから……。これって暴力沙汰に
なるよね? つまりはトラブルだ。これを機会に君を退学に追い込む──学園から追い出そ
うとしてるって、気付いてた?」
 最初こそ、本條は場にそぐわない話として断ち切ろうとしたが、秀一は食い下がった。
 そうだ、隠さずに話そう。彼の意識は不思議と落ち着き払い始めている。
 周りを取り囲んでいる不良達も、生徒会という単語が出てきたからなのか、襲い掛かるタ
イミングを見失いつつあるようにみえる。
「朗──うちの風見が不躾な真似をしたこと、僕からも謝るよ。ごめん。まさかあんな事情
があったなんて思いもしなかった。だから」
「ゆ、許すもんか。安っぽい同情なんて要らない。どうせ面倒臭い相手だって再確認したん
だろ? 放っておいてくれよ……。邪魔ならそっちの希望通り、出て行く」
「……違う」
「えっ?」
「違うよ。少なくとも僕は、そうなって欲しくないって思ってる。うん、そう思ってる」
 ちらりと、確かに瞳が揺らいだ彼女を肩越しに一瞥し、秀一は呟いていた。
 傍から見れば間違いなくピンチだというのに、何故だろう……。今はまるで、胸のつかえ
が取れたように清々しくすらある。
「最初に呼び出した時、言ったよね? 僕のこと、嘘つきだって。あれ……結構当たってる
と思うんだ。自覚はあったんだよ、ずっと。自分がどう思っているかよりも、相手が何を期
待しているのか。それを考えてそっちばかり口にしちゃう。だから、君に嘘つきだって言わ
れた時は返す言葉もなかった」
「……。あ、あれは」
「でもさ? だからって本音ばかり言ってても駄目なんだと思うんだ。誰にしたって言って
いいことと悪いことくらいあるよ。君にだって知られたくないことはあった。実際、僕らが
それを調べたら物凄く怒った。でしょ?」
「……」
「本当のことを黙っていた、だから君のお母さんはあんな事になった。だから君はせめて、
あの時の過ちだけは繰り返させまいとしている。……だけど、違うんじゃないかな? 僕は
その場にいなかったから推測でしかないけど、君のお母さんは騙されたことに憤ったんじゃ
ないと思うんだ。家族なのに、自分を信頼してもらえなかったことが、悔しくって哀しかっ
たんじゃないかな?」
「──ッ!?」
 本條の強気な表情が、始めて目に見えた形で崩れた瞬間だった。
 それでも、秀一は真っ直ぐに戸惑っている不良達を見据えている。
 揺らぐ彼女の瞳には、この痩せ細身の背中が、今までよりもずっとずっと大きく見えた。
「……気付いてたんでしょ? お母さんの訴えたかったこと。だからこんなになるまで嘘を
避けるようになった。自分を罰し続けなきゃいけないって、言い聞かせてきたんだ」
 ふるふる。
 本條は言葉なく力なく、首を横に振っていた。
 だけど、もうそこに説得力も威圧感もなかった。ただ彼女は目一杯に涙を浮かべ、解かれ
る感情を何とか抑え込もうともがいている。
「……君は優しい子なんだと思う。屋上の一件であの時僕らを殴らずに済ませたのも、今問
題を起こせば部員達に迷惑が掛かる──今度の大会に出れなくなるかもしれないって分かっ
てたからなんでしょ? 歯に衣を着せない物言いはしてても、冷静な判断力はちゃんとある
んだ。そうじゃなきゃ……君がそこまで“本音”に駆り立てられてることもないし」
 彼女の動きが、否定の動作が、止まった。
 暗がりと俯き加減で表情は見えなかったが、それはまさしく言葉なき肯定で。
「だから僕は、君をこのまま弾き出させたくない」
 大きく左右に両手を広げて、秀一は言う。
「君は……悪い奴じゃない」
 暫く、暗がりの路地裏にピンと張り詰めた別種の沈黙が差していた。
 だがややあって、そんな彼の口上を最後のワンフレーズを、自分達への徹底抗戦であると
不良達は解釈したらしい。
 それまで半ば押し返されていた、気持ちの上での優劣関係。
 しかしまるで、そんな先刻までの事実を認めたくないかのように、彼らは不快に目一杯顔
を顰めると一斉に得物を振りかざす。
『──ッ』
 秀一は真は、それぞれに眉根を寄せた。
 四方八方。
 害意に満ちた凶器達が、そんな二人に──。
「そこまでよ!」
 闇をつんざく声が響いたのは、ちょうどその瞬間だった。
 聞き覚えのある女性の声。何奴と動きを止めて振り返る不良達。
 そこには……珍しく険しい表情(かお)をした翔子と、左右に控える朗・優月の両名が立
っていたのである。
「……えっ? 何で此処に」
「立花君、本條さん、大丈夫!? ……もう、心配ないからね」
 秀一の問い掛けに翔子は応えなかった。
 代わりに彼女が睨み返していたのは、二人を取り囲む不良達。
 するとどうだろう。数秒、睥睨を続けていた彼女ははたと懐に手を遣ると、ある物を取り
出してみせたのである。
『──本條真で間違いないな?』
『──誰に頼まれた? 大方どこぞの奴があたしを走れなくしようとしてるんだろ? 大会
まで一週間を切ったからな。今あたしが脚を怪我しちまえば、高御(うち)の戦力はがた落
ちだ』
『──兄ちゃん、悪いがあんたも道連れだ。正義の味方なんて、今時流行んないぜ?』
 それは掌サイズの録音機(ボイスレコーダー)だった。
 カチリと彼女が再生ボタンを押しては止めを繰り返すと、そこからは先程までの自分達の
一部始終がはっきりと記録されている。
 不良達の表情から血の気が引いていくのが分かった。更に。
「はーい、こっち向いてくださーい」
 そんな間延びした優月の声に、つい振り向いた全員の顔を、携帯でぱしゃりと撮影。
 またしても不良達の顔が青ざめていった。
 優月が気弱に、しかし珍しく勇気を振り絞ったように「うんっ」と頷き、翔子と同じよう
に秀一と真を見つめている。
「……ったく、何やってんだか。お前はドンパチとか、そういうキャラじゃねーだろうに。
まぁでも中々良かったぜ? やるじゃんか」
 一方で朗は、鉄パイプ(どうやら最初に撃退した不良の物を拾ったらしい)を片手に妙な
ほくそ笑みを浮かべていた。
 秀一は只々、苦笑を返すしかなかった。
 確かに片腕はやられボロボロだし、こういう荒事は専門ではない。今更だが無茶な真似を
したものだ。
 そしてそんな彼の後ろでは、真が真っ赤に頬を染めて俯いていたのだが……結局当の本人
は気付かぬままだった。
「さて……。ばっちり証拠は押さえたけど、どうする? またうちの会長と生徒に危害を加
える気でいるかしら? だとしたら……こっちも手段は選ばないけれど」
 混線する場をぴしゃりと収めるように、翔子がそう口を開いていた。
 その面持ちは気付けばもう怒りではなく、いつもの計算高い知略家のそれになっている。
『……』
 不良達も、流石に状況が不利に傾いていることは理解できていたらしい。
 暫く彼らは互いの顔を見合わせていた。次いで彼女達の手にしている、ボイスレコーダー
と写真を収めた携帯電話を一瞥する。
「ちっ……」
 その舌打ちが合図だった。やがてリーダー格らしき男が面々に目配せをする。
 すると不良達は、最後の最後までこちらを睨み付ける事を止めなかったが、とうとう路地
の向こうへと退散して行ったのである。
「……。助……かった?」
 暫しの間があった。
 しんと再び静まり返った路地裏。消えた彼らの気配に、ようやく秀一は緊張に糸を解く。
 するとへたっと、みるみる内に腰が抜けていた。何よりへし折られた右腕が思い出したよ
うに悲鳴を上げ始めていた。
 そこでようやく、優月が血相を変えて駆け寄ってくる。
 大きく内出血を起こし、全体が曲がり、そんな痛々しさにおろおろ。むしろ当の秀一の方
が彼女を宥める格好になったほどだ。そんな二人を朗はけたけたと笑い、真は心なしか距離
を置くようにして、頬の朱を引かせることができずに眺めている。
「……これで一件落着、かしらね?」
 ぽんと、そんな彼女に、翔子はそっと肩を叩いて話し掛けていた。
 すっかり更けた夜の闇の中、心許ない月明かりの下、秀一達は離れた位置であーだこーだ
とやり取りをしている。
「……」
 こくり。
 そんな中で真は小さく、そう確かに素直に頷いていたのだった。


 幸い、この夜の一件は、真と彼女が所属する陸上部への悪影響とはならなかった。
 それは秀一以下生徒会の面々が学園側にとりなし、翔子が提出してみせた件の証拠物が効
いたのかもしれないし、或いは真の活躍で大会優勝を果たしたことが免罪符となったのかも
しれない。
 あれ以来、真と生徒会の関係性は少しずつ変わってきている。
 何でも、秀一と真の家は結構近いらしいのだ。
 それを教えてくれたのは翔子だったが、正直そんな事を把握していたなら先に言って欲し
かったと秀一は思う。謝罪に出向くチャンスはもっとあったということではないか。
 ……だが尤も彼女のことだ。自分に伝えてくれなかったことも、何か彼女なりの思惑があ
ってのことだったのだろう。そう推測して呑み込んでいた方が、彼女に関しては我が身の為
であると、秀一は経験的に知っている。
『……』
 目下のイベントだった大会が終わって翌々日。秀一は真と一緒に下校していた。
 “だって方向が同じでしょ?”
 そう翔子に何気なく言われて二つ返事をしてしまったのだが、今更になって秀一は少々後
悔し始めていた。
 なにせ……無い。会話がまるでない。
 確かについ先日まで気まずいばかりの相手ではあったが、もう懸案だった誤解は解けてい
る筈なのに。
 どうかしたんだろうか……?
 かといって、中々こちらから話しかけるタイミングも見つけられない。

『──実を言うとね。私個人は、結構早い段階から貴女が退学処分を受けたって構わないと
思っていたの』
 カツカツと、舗装された道の上を秀一と並んで歩く。
 鞄を手に下げ、俯き加減のまま、真は思い出していた。あの変化が起きた夜、不良達に襲
われた末、何とか難を逃れた直後のことを。
『そもそも乾先生に話を持ち込まれた時点で、貴女の排斥は濃厚だったから。私もこっそり
資料を遡っていたし、組織を回す人間としてはその方が“合理的”だったのよ』
 最初、彼女からいきなりそんな“本音”を耳打ちされた時は動揺した。
 何のつもりだろう? そう警戒を上回る戸惑いが、自分を静かに掻き乱していた。
 だが──そんな彼女の真意は、もっと深かったのである。
『……でもね。彼はそうは考えなかった』
 すぐにその人物が秀一であることは分かった。実際彼女はちらりと、優月の応急手当てを
受けている彼を一瞥していた。
『途中から全部聞かせて貰ったけど……解ったでしょう? 彼の性格。もの凄いお人好しな
のよね。優しいの。それも、バカが付くくらいの』
 その瞬間は、気のせいかと思った。
 だがこれでも同じ女だ、間違いないとすぐに直感が告げてくれる。
 彼女の表情がフッと緩んでいた。不良達を睨み付けていたそれでもなく、計算高そうな策
略家なそれでもない、もっと別な穏やかな表情があった。
『……トップはね、彼みたいな“優しいバカ”がなるべきなの。私みたいに、平然と組織の
為に個人を切り捨てる思考ができる人間じゃ駄目。皆に分け隔てなく愛情を注いで、一緒に
笑ったり泣いたりして、悩んで、皆の旗印に為れる人が就くべきなのよ。……だから私は彼
を見出した。まぁ耳障りのいい言葉ばかりがつい出ちゃう癖はリスキーではあるのだけど、
本人が自覚しているならさほど問題ではないわ。……彼にはまとめ率いることに専念させれ
ばいい。目的達成の為に必要な分析眼や冷徹さなら、私が担えばいいんだから』
 真は目を瞬いていた。意味がよく分からない。
 だが彼女は「それでもいいの」と苦笑していた。自分の記憶が正しければ、それはとても
珍しい表情であったと思う。
 ……それにしても、何とも小難しいというか、遠回しというか。
 要するに「私の役目は彼をサポートすることです」とでも言いたいのだろうか?
 真はやはり目を瞬き、そう言葉にならない問い返しを向けていたが、はたしてそれらが伝
わっていたのかは定かではない。
 それよりも何だかちょっと、彼女のことが解りそうで……解りたくなくて。
『だから私は、暫く彼の意思を尊重してみることにしたの。ギリギリまで、彼なりに納得の
いくまでやって貰おうと思ったの。……と言っても、最初私が描いていた筋書きはそのまま
だったのだけど。そもそもこのレコーダーだって、貴女がどこでトラブルを起こしても証拠
を握れるようにと思って鞄に忍ばせていたものだったから』
 なので、不意にそんな告白が交ぜ込まれて、思わず短い声を上げてしまっていた。
 しーっと、彼女から駄目出しをされる。事が済み、一旦はしまわれていた筈の例のボイス
レコーダーが、そっとその唇に添えられていた。
 ということは……もしかしなくても今夜は、いや今夜も尾けられていたのではないか?
 そうならば彼女達がタイミングよく姿をみせた理由も、奴らの証拠を押さえるツールを持
ち合わせていた理由も、しっかりと説明がつく。
 真は少なからずむすっとなって彼女を見つめ返していた。
 今度は伝わったらしい。だが当の本人は何処吹く風、非難の眼差しにも涼しい顔だ。
 だけども真の方も、それ以上追及する気にはなれなかった。
 それは実際、そんな密かな体制のお陰でこうしてピンチを凌げたのだし、今や彼女ら生徒
会の面々を目の仇にする感情、それ自体が徐々に失せていくのを感じ始めていたことも大き
かったからだと言える。
『……ごめんなさいね、本條さん』
 だからか、そうしていると彼女は、何処か宥めるような静かな声でそう結んだのである。
『もう大丈夫。後は……私達に任せて?』

「……あ、あのさ」
「う、うん?」
 長い長い沈黙だったような気がする。そんな中先に口を開いたのは、真だった。
「その、大丈夫なのか? 右腕」
「ああ……。大丈夫、と言うのは変な気もするけど、多分平気。ちゃんと病院にも行ってこ
うしてギブスも巻いてるし、まぁその内治るよ」
「……。そう」
 真は呆れたような反応をしていたが、実際それが秀一自身の感想でもあった。
 包帯でぐるぐる巻きに固定された右腕と、それを下げる三角布。確かに見た目こそ大仰で
痛みもまだ鈍く残っているが、そんな内心というか不満を彼女にぶつけるなどとんでもない
と彼は思っていた。
 そもそもに、あれは自分の自業自得だ。後先も考えずに飛び出し、割り込んだ結果だ。
 寸での所で名取達──後々で聞いた話だと、何と本條を尾けていたらしい──の助けが入
ったからよかったものの、もしそうでなければ腕一本では済まなかっただろう。
 だから秀一は、努めて笑うようにしていた。
 確かにそれは本音ではない。だけど全くの建前かというと……多分違う。上手く言えない
けれど、嘘偽りを張り巡らす時の眼が、自分を向いているか相手を向いているか、その違い
が生じているのではないかと思う。
「その……ごめん。迷惑掛けて」
「謝る必要なんてないよ。これは僕のお節介の結果というか、自業自得というか……。僕と
しては、本條が怪我もなく大会で活躍してくれたことの方が大事だから」
 真はまた暫く黙り込んでいた。心なしか、頬が赤みを差している気がする。
 馬鹿野郎……。何でそんなことホイホイ言うんだよ……。
 そう彼女はぶつぶつ呟いていたのだが、あまりに声が小さく、秀一は「え?」と聞き返し
てしまい、逆に彼女のへそ曲がりを招くだけになってしまう。
「……あたし、これからはもうちょっと言葉を選ぶようにするよ。ま、またあんたみたいな
奴に粘着されるのが面倒だからな」
「あ、ははは……」
 だから、彼女からそんな一言を引き出せた時には、秀一は苦笑いを浮かべながらも内心で
は酷く安堵していた。
 流石に今すぐにとはいかないだろうけど、それでも反省したのなら今後咎められることは
少なくなるだろう。本来のミッションが、ようやく達成された瞬間だった。
「と、ところでさ」
「うん?」
「その……いい加減、本條って呼ぶの止めないか? 生徒会のちっこい子──黒沢っていっ
たっけ? あの子には苗字どころかちゃん付けで呼んでるだろ?」
「うん……。でも優月ちゃんは年下だし、本人もそれでいいって言ってくれてるし──」
「だ、だからー。あ、あたしもそれでいいんだってば。流石にちゃん付けは合わないけど、
名前で呼んでくれていいからさ。……今までが今までだったから、現状あんた達以外にろく
に知り合いがいないし……」
 なのに……この妙な温度差は何なのだろう。
 こっちは一件落着と思っているのに、向こうはそうでもなく何か焦っているような、そん
な感じがする。
 しかも何故か、優月のことを引き合いに出された。
 最初こそどうしたんだろうと思ったが、結局最後のワンフレーズが決め手となった。
 そう言われればそうなのか。
 今までが角が立つ連続だった所為でぼっ──孤立していたのは確かにそうなのだろう。
 なら先ずは、自分達がその脱却の一歩に為っても……吝かではない。
「そういうことなら。じゃあ、改めてよろしく。真」
「!? ~~ッ!」
「えっ? ちょ、ちょっと。真?」
 なのにまた、彼女は様子がおかしかった。
 頼まれたからそう呼んでみたのに、まるで火傷でもしたかのようにいきなりその場でジタ
バタ。言葉にならない言葉を吐き出しながら、彼女はそのまま辺りへぐるぐると駆け出して
行ってしまう。
「どうしたのさー? さっきから変だよー?」
「ううう、うるさい! 何でもないの。何でもないんだから!」
「はあ……」
 あっという間にその姿が遠くになりながら、彼女はあくまでそう主張していた。
 でも明らかに違う。何か隠している。だけど──。
「……」
 不思議と、嫌な感じはしなかった。
 自分達が歩いていく住宅街。初夏の日差しに、所々の植え込みから夏草らがじっと背伸び
をしている。フッと一陣の風が吹いた。からりとした今日のような天気には、それは一服の
清涼剤にもなりうる。
 これでいいのかな……? 
 秀一はそっと夏空を仰ぎ、そう確かめるように心の中で呟いた。
 何だか色んな意味で彼女は変わってしまっている気がするけど、その内落ち着くだろう。

 少なくともその言の葉は、以前のような剥き出しの棘一辺倒ではなくなっている。
 多分それは、嘘を覚えたから。自身の過去の傷ばかりに囚われるのではなく、きちんと今
という瞬間、目の前にいる誰かを見ようとしているから。

 だから……僕は嫌いじゃない。
 嫌じゃない「嘘」だと、秀一は思った。
                                      (了)

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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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