日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(企画)週刊三題「流せども」

──これから毎週、小説を書こうぜ?

毎週一回、ツイッタの「診断メーカー」で出たお題で小説を書いてみるという
自己鍛錬、 それがこの『週刊三題』であります。
さてさて。紡がれる文章は良分か悪文か、或いは怪文か?
とある物書きの拙文晒し、此処に在り。

【今週のお題:川、人形、嫌】


 幾つかの船にその者達は乗っていた。
 静かに、しかし全く激しくないという訳ではない自然の流水が成すままに、船は揺られ川
上から川下へと移ろっていく。
『今年もこの時節がやって来ましたな』
 内の一人が瞬きもせず言う。
『既に意味を成さぬと知っている者も多かろうに……。されど惰性に身を任せてしまうのが
人の性ではあるか』
 また別の一人がその呟きに呼応した。
『我々が嘆いたとて変わりませぬ。ただ我々は受け取って流せばいいのです』
『形が違えど信心なくば、そもそも我々の存在すら打ち棄てられてしまいます故な』
 各々の反応は差異こそあったが、総じて許容と諦観の類であった。
 川面を風が撫でる。彼らの纏う衣装がなびく。
 自然(しゅうい)は穏やかだ。今日は日和にも恵まれ、今年の儀式も滞りなく終わるであ
ろうと思えた。
 遠く背後には、自分達を見物する者達が橋や堤防沿いに点在している。
 皆のぼやきにあった通り、既に本来の意味で自分達に“託す”者は殆どいなくなっている
と言っていい。多くはいち風物詩として、畏れとは程遠い気持ちで居ることだろう。
『……そうだな。人は災いからは逃れられぬ』
 時の流れというものだと言ってしまえばそれまでだ。されど、中には時を経ても変わらぬ
ものらもある。変われないものもある。
 そう、たとえば──人それ自身のように。


 青年は貧しかった。日々朝早くから安アパートの一室より出掛け、日没を迎えるまでひた
すら工場の中で流れてくる機械の部品を組み立てて過ごしていた。
 不満はあった。疲労はあった。
 それでも特にこれといった大きな強みを持たない自身に徒な高望みは似合わないと、真面
目だけをよすがにその境遇にぶら下がることを選んでいた。
「──ちょっと浅井君? これ、はめ込みが甘いわよ?」
 だけども、彼にとって一番辛いことがあった。
 同僚である。尤も相手は女性で、歳も随分と離れていたが。
「はあ……。すみません」
「全く、しっかりしないさいよ? フォローしなくちゃいけないのは後ろのあたし達なんだ
からね? 余計な仕事を増やさないでちょうだいよ?」
 ベルトコンベアと機械の奥から、次々に組み立て前の部品が流れてくれる。
 それらと手元に用意されたパーツを合わせ、次の工程に送るのが彼らに与えられた仕事で
あった。単純作業。だけどサービス業──所謂人仕事ではなく物が相手ならそう参ってしま
うことはなかろうと、最初は思っていた。
「はぁやだやだ。最近の若い子はこんな事すら──」
「……」
 なのに話が違うじゃないか。彼はここに勤め始めてから暫くして、ずっと思っていた。
 同じライン、工程に彼女がいた。一見すれば何処にでもいそうな中年女性である。
 だが“普通”ほど大雑把で恐ろしいものはないのだと彼はここに来て学んだ。できること
なら経験したくないことを経験させられている。
 彼女から小言を喰らわない日はなかった。その日もまた、微妙にはみ出した備品の繋ぎ目
を見せつけられながらぐちぐちと注意を受けていた。
 最初の内は、先輩風を吹かせられているのだろうと軽く考えていた。
 しかし……どうもその予想は違ったらしい。
 とうに試験雇用の時期は過ぎている。なのに自分は、彼女から毎日のように小言を喰らい
続けている。まるで、意識的にこちらの粗を探しているかのようだ。
 加え気が付いてみれば、小言をぶつけてくるのは何も彼女だけではなくなっていた。
 ひそひそと、作業中・休憩中を問わず彼女を中心として集まる中年女性達。こちらがその
様子に目を遣ると、あからさまに避けるようにし、またひそひそとこちらを盗み見ながら何
かを語り合っている。
 悪口だ。証拠はないが、状況がそうだと示している。
 お局(おつぼね)──昔風に言うとそんな位置に彼女はいるのだろう。そして自分は、勝
手に彼女達のストレスの捌け口にされていたのだ。
 理不尽だと思った。確かに自分は愛想がいい方ではないとの自覚はあるが、こうも執拗に
口撃を受ける理由が思い当たらない。
 ……多分、明確なものはないのだろう。
 ただ何となく吐き出しやすい。そう感じさせてしまった、その行為に後ろめたさを感じな
い人間と出会ってしまったことが「不運」だと思うしかないのか。
 何処に行っても、物仕事を選んでも、こういう輩は蔓延っている。他人は避けられない。
(また、なのかな……)
 要らぬのに、聴覚には小さく、だけどやけに耳障りに彼女達の陰口が届いてくる。
 青年は休憩時間、生温い缶コーヒーを片手に内心幾度目かのため息をつく。
 彼がその工場を辞めたのは、その数日後のことであった。

「──」
 その男は妻子を持つ、ごく普通の中年サラリーマンだった。
 毎朝早くから自宅を出、満員電車に揉みくちゃにされながら通勤し、特段大きいとも言え
ぬ商社で経理をこなす日々を過ごしていた。
 彼は意図的に残業もした。必然的に帰宅の路に就くのはすっかり夜になってからになる。
 それでも、彼はまっすぐに家に帰りはしなかった。
 共に練り歩くような気の置けぬ友はいない。だが彼は一人、馴染みのバーでちびちびと水
割りを飲んでいた。
「マスター、もう一杯」
「あいよ」
 空になったグラス、半端に溶けた氷を一瞥し、彼は次の一杯を頼んだ。カウンター越しに
立つ角刈りの店主は一瞬だけ片眉を上げて彼を見遣ったが、それ以上は何も言うまいといっ
た様子でグラスを受け取ってサーバーに向き直る。
(……。今日も終電でいいか)
 腕時計をちらりと見て、男は半ば惰性のままにそう決めた。ややあってマスターから注ぎ
直されたグラスが差し出され、目の前に置かれる。
 正直を言って、彼は家に帰りたくなかった。
 理由は明白である。……妻だ。
 女はそういう生き物であるとは分かっている。しかし彼は帰宅する度に、待ってましたと
言わんばかりに一方的に吐き出される彼女の愚痴が鬱陶しくて仕方なかった。
 おかえりなさいの一言がぞんざいだというのもある。あるが、やはり自分にはああして毎
夜飽きもせず、自身の不平不満を垂れ流す醜態が理解できなかった。
 ただ聞いて欲しいだけなんだ──。知識としては知っている。
 しかし中々それができない。つい「じゃあ○○したらいいじゃないか」と具体的な解決策
を答えてしまい、妻はむくれて機嫌を悪くする。あなたは解ってくれないと今度は自分への
不満を延々と語り始めるのだ。
 ……勘弁してくれと思う。
 やれ義母(はは)と反りが合わない、やれ子供達が言うことを聞かない、やれパート先の
バイト君が生意気だ。毎日毎日同じようなことを何度も何度も……厭になる。
 嫁姑の件は諦め、既に認知症が出たのを切欠に施設に預けた。子供達も今や上が大学生、
下が高校生なのだから、いい加減自分の思い通りにならないことくらい学習すべきだろう。
 なのに妻は文句を言う。常に不満を抱いている。
 曰く、自分達は義母(はは)を厄介払いしたのだと周りから陰口を叩かれている。
 曰く、あの子達はまだ独り立ちしていない。もしプータローにでもなったら世間様に顔向
けができない。
 ああそうだな。彼はいつも聞き流しつつ、内心苛々していた。
 施設の件はお前の為を思ったことだし、自分としては過干渉の方がよっぽど子供達を蝕む
と考える。何より口を開くごとに世間体ばかり気にして、相手のことを慮ろうとしないその
性根に腹が立つ。……そして自分がそうしたことを指摘すれば、烈火の如く逆上され大喧嘩
になるのがいつものパターンだ。
「田村さん。そろそろ置かれた方がいいのでは?」
 時折グラスの中の氷を転がし、水割りを少しでも延命させるように僅かずつ口に含むを繰
り返していると、マスターが心配そうな表情(かお)でこちらを見ていた。キュッキュッと
タオルで空のグラスを拭いている。
「……私がここに世話になっている理由、分かっているでしょう?」
「ええ。だからこそですよ。こうして貴方が帰らないこともまた、奥さんのストレスになり
はしませんか?」
 言い返せなくて残りを一気に呷った。つんとアルコールが回って数拍身体が火照る。
 そうなのだ。帰れば愚痴が待っているが、遅くなればそれ自体が妻を不機嫌にさせる火種
になってしまう。
 マスターは静かに苦笑していた。
 別に自分を追い出すつもりはない、そのことは常連の一人として分かっている。だが周り
をみれば他の客達が一人また一人を数を減らし始めている。そろそろ、限界らしい。
「……今夜もすまないね」
 言って、彼は財布から飲んだ分の料金の概算をカウンターに並べると席を立った。向けた
背中には「お構いなく。帰り道、お気をつけて」とマスターの声が掛けられる。
(さて……。今夜の機嫌はどのくらいか)
 そのまま彼は鞄を片手に店を後にしていった。
 夫という肩書きが静かに強いる、彼女の心の吐瀉物を処理する為に。

 仕事を辞めるということは、即ち稼ぎを失うということである。
 青年は当初、楽観半分悲観半分で以って自身の決断を正当化しようとしていた。あの中年
女性が繰り返し嫌味を言ってきたように、まだ自分は若い。それほど拘らなければまた日銭
を得られる場所は見つかるだろうと考えていたのだ。
「ふむふむ……。随分色んな職場を経験しているようですねぇ」
 だが、現実とは哀しいかな大抵が後者に属することが多い。
 いくつか求人情報を漁った末に彼が申し込んだのは、隣町のホームセンター店員の募集だ
った。仲介を受け、数日と経たぬ内に面接を受けられる運びとなる。
 しかしそれは、公共職業安定所(ハローワーク)経由の求人は必ず面接しないといけない
という内部ルールによるものだと、彼はその場に出向いて痛感した。
 店舗裏のスタッフルームの一角で、いかにも神経質そうな痩せぎすの男性が自身の履歴書
を検めながら漏らしている。
 はい。と青年はそれだけを答えた。
 あの工場ラインで、これまで点々としてきた職場での悪意の経験値が活きているのか、彼
の言い口は額面以上に「不信」をありありと伝えてきていた。
 大方、すぐにうちも辞められるんじゃないか? 仕事が続かないんじゃないか? そんな
ことを懸念しているのだろう。しかし、原因は自分以上に周りだった……などとは心証を悪
くするだけだと思い結局言い出せず、青年と男性は暫く机を挟んで黙り込んでしまう。
「……んーまぁ、大体お聞きしたいことはこれくらいです、ね。結果は後日こちらの連絡先
に電話致しますので。お疲れさまでした」
「……はい。ありがとうございました」
 無難な言葉でこそあったが、青年には既に落とされたような気がしてならなかった。
 事実、こちらが会釈を返すのも見ず、面接に応じたあの男性はそそくさと奥へと引っ込ん
でいってしまったのだから。
「はぁ……」
 彼は思わずため息をついた。
 スタッフルームを出て店舗内に出る。とぼとぼと商品棚の間を歩いて帰路に就く。
 また駄目だろうか。いい加減に決めてしまわないと……。
 ジーンズのポケットを探り、自身の黒いスマートフォンを取り出した。スケジュール帳を
開き、日ごとに前進していく日時のマーキングに眉を寄せる。
 あと二週間もない。
 自業自得、お局に負けたのだと言われればそれまでだが、彼にはもう時間がなかった。
 通告されたのである。今住んでいるアパートの大家に、今度家賃の滞納があれば出て行っ
てもらうと。万年金欠ゆえに先延ばしさせて貰うことは少なくなかったが、いよいよもって
自分という金の生らない住民を追い出そうとしているらしい。
 まだ実感はない。経験はない。
 だがもしこれで本当に追い出されてしまったら、自分はホームレスになる。
 頼れる人がいない訳でもないが……できれば迷惑を掛けたくなかった。元はと言えばあの
女性から逃げるように職を手放したのが原因なのだと、折に触れては自分を責めていた。
 最悪、まだ旅費がある内に実家に戻るという選択肢もあることにはあったが、無職と化し
た息子を家族が温かく迎えてくれるという期待は流石に厚かまし過ぎる。
 怖かった。
 頭では理解していたことなのに、今自分は自分で己の首を絞め潰そうと──。
(……ッ!?)
 そんな時だった。
 ふと彼の視界の先に、思わぬ人物の姿があった。
 あの女性だった。自分を辞職に追い込んだあの中年女性が、多分他のパート仲間数人と共
にガーデニングコーナーで談笑していたのだ。
 並べられた苗木らを前に、あーだこーだと言っては豪快に笑う。自分がこんな目に遭って
いるなど知る由もなく、哂っている。
「──」
 身体中が瞬く間に黒い熱に覆われる心地がした。ぶらんと下げていた両の拳をギリギリッ
と壊れそうなほどに握り締めていた。
 そうだ……あいつだ。あの女が自分を追い出した。何とさえ知らぬ手前の鬱憤晴らしの為
だけに犠牲となったのだ。
 憎い、憎い、憎い、憎い、憎い……こんなにもがいているのに、お前は何故そんなに哂っ
ている? 嬉しいか? 他人を、若者を蹴落としてそんなに面白いか?
 彼はゆらりと、しかし確かに前髪の下に怨嗟の炎を宿して足を踏み出していた。
 幸か不幸か、彼女を見つけた時、彼はちょうど台所用具のコーナーに立っていた。だから
凶器はすぐに手に入った。棚に下がっていた包丁を一本、ビニール容器から抜き放って握り
締め、ずんずんと憎き女へと近付いていく。
 向こうもすぐには気付かなかった。客足がそう多くなかったことも彼を後押しした。
「えっ?」
 ようやく周囲の客から悲鳴が上がる。中年女性も顔を上げ、目の前に立った彼と纏う雰囲
気の異常さに気付く。
 だがもう時は既に遅く、距離はほぼ一メートル。
 彼は両手で包丁を握り締め、残りの直線を疾走し、
「あっ、あん──」
 彼女の骨肉を裂いて、根元までその刃を埋める。

「──優人。それ本当……なの?」
 恵美は最初、数週間ぶりに彼氏からの電話に心弾ませた。
 普段から連絡はまめじゃないけれど、何でも背負い込んじゃう所があるから私がついてい
てあげないと。
 だが、通話ボタンを押した瞬間、彼の様子がおかしいことに気付いた。
 声が震えていた。酷く怯えた様子だった。
 何が起きたのか? 恵美は携帯越しに動揺したが、それでも何とか呼吸を落ち着けて何か
あったのかと訊ねた。
『……俺、人を殺してしまったかもしれない』
 たっぷりの間を置いて返って来た答えに、恵美は文字通り度肝を抜かされた。
 更に狼狽する。人、殺し? 声を聞けた嬉しさなど一瞬で、頭が理解に追いつかない。
「どう──ううん、とにかくそっちに行っていい? 今何処?」
『アパート……部屋……』
「わ、分かった。そこにいてね! すぐに行くから!」
 それでも彼女は緊張で息を荒げながらも、そう言って一旦電話を切った。そのまま事情を
訊くべきだったのかもしれないが、何より彼の顔を直接見なければ安心も何もなかった。
 急ぎ彼のアパートへ出向き、合鍵で中に入る。
 最初呼び掛けても反応はなかったが、彼は部屋の片隅に背を預け、むしろこちらが死んで
いるような虚ろな眼をしていた。
 何度も揺り起こし、何度も声を掛け、恵美は彼の語った言葉の詳細を聞き出す。
 そこで明らかになったのは、にわかには信じられない彼の犯行だった。
 隣町のホームセンターでの採用面接を終えたその直後、以前務めていた工場で彼を苛めて
いたオバサン達を見かけて──あろうことか包丁で刺してしまったのだという。
 彼女はそのまま真っ赤に血を流して倒れ、周囲は絶叫。
 そんな周りの反応に、ようやく我に返った彼はおそろしくなって包丁もその場に捨てて逃
げ帰って来たのだと。
「なんで……なんでそんなこと……」
「見た瞬間、自分が自分じゃなくなった。あいつを、殺さないといけないって、思った」
「そんなに? そんなに酷かったの!? 前に工場を辞めたって言ってたのって、その人の
所為!?」
 虚ろな彼の目からぼろぼろと涙が零れ始めていた。
 自己防衛がため? いや、そうじゃない。
「そう……だよ。俺、とんでもない……ことを……っ」
 猛烈に悔やんでいた。酷く自身を責め、その過ちに苦悶していたのだ。
「どうして? そんなになるまで追い詰められていたなら、私に言ってくれれば。お仕事ま
では用意できないけど、住む場所なら私──」
「……。ごめん……」
 今度は恵美は勢いのまま口走る番だった。
 それまでは中々踏ん切りがつかなかったが、工場勤務を辞めて次を探していることは聞き
及んでいた。部屋(ここ)を追い出されそうになっていたなんて聞いていなかったけれど。
 なのに、彼は頼ろうとしなかった。
 口をぱくぱくとさせ、だけども結局ごめんとしか言わなかった。それで理解した。
 頼る──迷惑を掛ける訳にはいかないと思ったのだろう。ギリギリまで背負い込もうとし
たのだ。それに今、自分との共同生活という言葉に頷いてしまったら、その女性を刺しまで
した意味すら否定してしまうのではないか? だから……。
 彼と一緒に、彼女は泣いた。
 理不尽に苦しんだ愛する人を想って。その苦しみとそこから至った凶行を軽くしてあげら
れず、止められなかった自分の情けなさを想って。
「……。ねぇ、優人」
 互いに肩を抱き寄せて、本来の部屋の広さ以下の空間に縮込めて、彼女はやがて言った。
「自首……しよう? 私も一緒に行くから」
 ほんの数時間であろう筈なのに、酷くやつれた青年。
 彼は、枯れるほどに泣き腫らした顔のまま、コクと小さく確かに頷いた。

 その日、見知らぬ番号から電話が掛かってきた。
 どうせ間違い電話か悪戯か。取引先などはしっかり登録しているので、例の如く田村は当
初そのコールを無視していた。
 なのにこの日ばかりはどうも違う。同じ番号から、何度も何度も掛かってくる。
 見れば市外局番。妙だと思い社内の電話帳で調べてみれば……隣町の市民病院だった。
「──御足労すみませんでした。ですがなにぶん事が事なので」
「いいえ、それはお構いなく。こちらこそすぐに気付けずに申し訳ない」
 折り返して聞かされた内容に、思わず彼は眉を顰めた。
 病院側曰く、何でも自分の妻が買い物中に突然刺されたというのだ。
 そういえば今日は、パート仲間と家庭菜園の苗を買いに行くと言っていたか……。
 田村はそうようやく思い出しつつ、珍しく残業もせずに会社を出た。そこから真っ直ぐに
病院に着いた現在、目の前にはいかにも気の弱そうな若い医師が自分と向き合っている。
「……奥さんは一命を取り留めました。出血量が多かったのでまだ目を覚ましてはいません
が、容態は峠を越えたと思います」
「そうですか」
 医師は務めて“お気の毒に”のポーズを装おうとしていた。
 だが対する彼は至って冷静だった。
「それで。何故、うちの家内が狙われたのでしょう?」
「あ、ああ……それなんですが」
 淡々。そんな田村の態度をみて、医師はどうにもばつが悪いと言った感じで小声になる。
「何でも一緒にいた方達の話だと、以前一緒に働いていたバイトの子だったそうで。逆恨み
だなんだって。あ、一応黙っててくださいよ? ちょっと警察の方からお聞きした程度の事
ですので」
「……そうですか」
 なるほど、と正直彼は思っていた。
 あり得るだろう。もしパート先でも普段のあの口の悪さが発揮されていれば、恨みの一つ
や二つ軽く買っていても不思議ではない。
 思って、内心己を哂う。
 薄情だな。
 本来ならこういう時、家族を傷つけた相手に怒るものなのだろうが、むしろ自分は顔も知
らないそのバイト君に同情すら覚えてしまっている。
 自業自得か。妻の口が、バイト君に溜まった鬱積が、災いを招いた。
「あっ、そうでした。その……田村さんがお着きになる少し前、警察から連絡がありまして
ね。何でも刺したそのバイトの子が自首してきたそうです」
「ほう? ちなみに自首ではなく出頭ですね。話を聞くに、顔が割れているようですし」
「え? は、はあ……」
 自分が電話に中々応じない間に、事件それ自体は思いの外進んでいたらしい。
 田村は眼鏡のブリッジを軽く触ると、診察室を辞して再び院内へと出た。
 一度妻の様子を見に行こうかとも考えたが、仮に訪ね目を覚まさせても、むしろ何故来る
のが遅かったのだとどやされはしないだろうか? そう最早癖になったイメージで足が遠く
なってしまった。……勿論、事前に一命は取り留めたという報告を聞いていたからこその余
裕ではあったのだろうが。
「……」
 ふらりと病院のエントランスを出て、玄関先に立った。
 時刻はすっかり夜更け。子供達には連絡は行っているだろうか? 携帯を取り出して電話
しようとしたが、そもそもあの子達の番号を──何度となく変えられた末──自分は知らな
いのだったと思い出し、夜風に当たりながら一服。
 白煙がゆっくりと夜闇に昇っていった。暫しニコチンをたっぷり吸い込んでから、携行用
の灰皿を出して吸殻を押し付ける。
 さて……。色々と面倒な事が増えそうだ。
 近所付き合いの法事だの何だのと妻が愚痴っていた時のことを思い出したが、他人と身内
では話が違う。なのに自分はこうも「他人事」のように佇んでいる。
(……夫婦生活(わたしたち)も、潮時なのだろうな)
 一応、妻の様子だけは見てから帰ろう。家に戻れば子供達も帰って来ている筈だ。話はそ
の時にすればいい。

 嗚呼、それと。
 ──明日は役所にも行っておこう。忘れぬ内に、この機を捉えて。


 事前の計画通り、流し雛を乗せた模型船はゆっくりとこちらに流れ着いてきた。
 川辺に並び立つのは作業着姿の男が数名。背中にはこの街のシンボルマークがプリントさ
れている。
 彼らは手に熊手や柄付きの網、足元には幾つかのダンボール箱を置いていた。
 水流の関係上こちらに流れ着いてくる漂流物──今回は上流で行われた流し雛のイベント
の人形達および船を回収するのが、彼らの今日の仕事だ。
「よーし、そんじゃあ始めるぞ~」
 リーダー格の男の合図で、長靴装備の作業員達は一斉に川へと入っていった。冷たい水が
揺らめきながら人工の革にまとわりつく。それでも彼らは暫し黙々と、物言わぬ人形らを浅
瀬から引き寄せては一まとめにし、ダンボールに詰め直すといった作業を繰り返していく。
「……にしても、何というか無駄さが凄いですよねぇ」
「まぁな。知ってる人間は知ってるんだろうが、こうして流したって結局回収しちゃうんだ
から厄を流すも何もないっていうか」
「だからって放っておく訳にもいかないでしょーよ。片付けなきゃ間違いなくゴミの山にな
るんだ。そうすりゃ近隣住民からクレームが来る。結果、俺達に余計な仕事が増える。アン
ダースタン?」
 はははと、作業員達が互いに笑った。
 一応祭礼行事である、そのことなど分かっていても信じてはいない。所詮気休めであり、
こんな事で悪いものが無くなるなど誰も思っていない。
「喋っている暇があったら手を動かせ。これも職務の内だ。余計な仕事と言うのなら、それ
こそさっさと済ませたらどうだ?」
 リーダー格の男が、面々を窘めるように肩越しに言った。彼に関しては他の彼らとは違い
ずっと真面目に流し雛を回収している。
「……ういッス」
「ま、これもお給料の内……っと」
 互いに顔を見合わせ、再び作業員らは回収に集中し始めた。
 かつては川の流れと共に、遥か遠くへと災いを流すと信じられた慣わし。
 だが今は、世界の姿もその大部分が明らかにされ、魔術は科学に駆逐され、畏怖は冷笑へ
と変わっている。
「課長」
「んっ?」
「今日終わったら、久しぶりに皆で飲みに行きません? 俺達は酒で以って、日頃の色々を
清めちゃいましょうってことで」
 肩越しのまま、やはりリーダー格は気難しい顔をしていた。
「……。割り勘だぞ?」
 しかしややあって、彼は静かに息を吐きながら言う。
 ハイタッチ。作業員達は喜色を漏らし、悠々と残りの作業に勤しんだのだった。
                                      (了)

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  1. 2013/04/22(月) 18:00:00|
  2. 週刊三題
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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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