日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)レディ・ルーン-Bonds of RU'MALE-〔4〕

 そこに居たのは一人の幼子だった。よく笑う、明るく元気な女の子だった。
 穏やかな午後の日差し。そんな温かさが漂う部屋の中で、彼女はお気に入りのデフォルメ
なウサギのぬいぐるみを片手に一人嬉々として御飯事をして遊んでいた。
「──ただいま~」
 そうしていると、ふと玄関の方から戸を開く物音と優しげな男性の声が聞こえてきた。
 聞き慣れた穏やかなその声。少女はその声を耳にすると、パアッと表情に満面の笑みを咲
かせて振り返る。
「おとーさん♪」
「はは。ただいま、美月」
 近付いて来る足音。そしてドアを開けて姿を見せたのは、優しい雰囲気を漂わせている一
人の男性──真崎星太郎だった。
 父の姿を認め、その娘である幼子・美月は未だ舌足らずさの残る声でそうトテトテと駆け
寄ると、そっと屈み込んだ彼の胸元へ飛び込んでいく。
「ふふっ。美月ってば、すっかりお父さんっ子になっちゃって……」
 そんな父娘の姿を、珠乃は彼の背後から微笑ましく眺めていた。
 その両手には彼の物と思しき大きめの鞄が抱えられている。
「……そうだね。僕は、仕事で中々家に帰ってやれていないっていうのに」
 そっと抱きしめて頭を撫でてやると、きゃっきゃと笑いながら美月は笑う。
 だが屈託無い笑顔を振りまく我が子とは裏腹に、星太郎はフッと表情を曇らせていた。
 星峰の自衛隊駐屯地に配属されている電子通信関係の特技兵である星太郎は、その職業柄
中々家に帰ってくる事はできなかった。今日という日も、任務の合間を縫って取った束の間
の休暇の初日であったりする。
 抱えていた鞄をそっと夫の傍に下ろして、珠乃は問うた。
「……。次に基地に戻るのはいつなの?」
「予定では週明け火曜日の朝一。だけど、状況によってはもう少し早く戻らなくっちゃいけ
なくなるかもしれないね……」
 その問い掛けに彼の声色は寂しそうだった。まだ幼い愛娘がこうして自分に懐いてくれて
いる姿を目の当たりにしているのだから、その気持ちは尚更なのだろう。
「また最近、大陸の方がきな臭くなっているから。西も北も、武力に物を言わせて何度も圧
力を掛けてきている。今月だけでも領海侵犯の類が三度もあっただろう?」
「ええ。それは私もニュースで見たけど……。星君は海自じゃないじゃない」
「それはそうだけどね。でも、危機感は共有しているつもりだよ」
 記憶を思い返し、そしてきょとんとして言う珠乃に星太郎は苦笑した。
 穏やかな微笑。だがそれでも何を思うのか、その表情は綺麗に晴れている訳ではない。
 彼は抱きついてくる美月をそっと引き離すと、わしゃっと再び頭を優しく撫でてやりなが
ら続ける。
「僕らの仕事は、この国や世界の人達の平和に貢献する事だ。何よりも大切な家族や、大切
な人達を守れる役目だと僕は思ってる。だから中途半端な知識や心積もりで臨みたくはない
んだよ。……たとえこの仕事に就く切欠が成り行きであってもね」
「……そっか」
 優しい眼差し。だがその裏側には一抹の決意があった。
 珠乃は敢えて多くの言葉を返さなかった。夫が末尾に若干の自虐を漏らしても、せめて自
分だけはそっと彼の味方でありたいと思った。
「…………。でもね」
 だが、星太郎の瞳は静かに揺れているようだった。
 無邪気に自分を見上げてくる愛娘の笑顔。静かに寄り添い理解してくれている最愛の人。
 だからこそ、彼はつい漏らしていたのかもしれない。
「僕は思うんだ。……僕は、軍人に向いていないんじゃないかって」
 視線はやや俯き加減に固定したまま、星太郎は何処か力なく言う。
「何も今に始まった事じゃない。ずっと前から感じていたものなんだと思う。自分達が盾に
剣になって人々を守る。それがこの役割に就いた者の使命なんだって事は分かっているつも
りだ。だけど……僕は今も迷ってる。そのいざという時に、僕は本当に“敵”を討てるのか
なって……。正直な所、そんな事態になって欲しくないとさえ思ってる」
「……それが普通の感覚なんじゃない? 誰でも戦えるって訳じゃないもの。それに貴方は
特技兵科なんだし」
「そうかな……。でも僕が敢えてその方向を選んだのだって、実は“逃げ”かもしれない」
 夫の言葉を暫し待ってそう言葉を挟んでも、彼は弱気なままだった。
 叱るつもりは無い。だが見ていて辛く思う。
 珠乃の何とも言えぬ少なげな言葉と表情、視線の先で、星太郎は背中を見せたままじっと
佇んでいた。
「……珠乃さんは」
「うん?」
「……。珠乃さんは、僕に今の仕事を続けて欲しいと思う?」
 話の流れから予想できていた投げ掛けではあった。
 しかしいざその言葉が向けられると、すぐに返事はできなかった。珠乃はふと生じたこの
雰囲気に小首を傾げている娘を見遣ってから、一度深く呼吸を整えて言った。
「私は、星君の意志を尊重するわ。確かに中々帰って来れないというのは寂しいかなって思
うけど……貴方の皆を守りたいって願いはとても素敵だと思うから」
「……。ありがとう」
 礼。だがその声色には間違いなく揺らぎ──迷いが混じり込んでいた。
 窓から差し込む穏やかな日差し。その光を浴びるように、星太郎はスッと視線を上げる。
「でもね。やっぱり僕はこのままこの仕事を続ける事には迷いがあるよ。誰かを守れるのな
ら自分一人くらい──確かにそう思ってた。でも、今は違うのかな。誰かじゃなくて、珠乃
さんと美月と……もっと身近な人達の存在が僕の中で大きくなって来ているんだ」
 その言葉は珠乃にとっては嬉しく思えた。
 だがすぐにその嬉々なせり上がりは収まってしまう。理解できたからだ。彼の中で自分達
が大きくなっているという事は、彼自身の自衛官としての任務とある意味矛盾を生み出す。
「怖くなっているんじゃないかと思う。もし、何かの切欠で大きな戦闘に関わる事になった
ら……僕は“身を粉にして国民を守る”ことよりも“家族の為に生き残る”方を選んでしま
うんじゃないかと思えてならないなんだ」
「…………」
 矛盾なんかじゃないわ──。
 そう言いたかったが、珠乃は安易に言葉を紡げなかった。
 苦悩している。表情こそ一見穏やかに見えたが、夫は揺らぐ決意に困惑している。
「だからなのかなぁ、中々昇進がすんなりといかないのは。押しが弱いっていう性格もある
のかなとは思うんだけど……軍人としての軸が定まっていないからなのかなとも思う。もし
このままこの仕事を続けるのなら、これからの美月の成長も考えてちゃんと稼ぎを確保して
いかないといけないのにね」
 返す言の葉に窮していた妻に、星太郎はフッと苦笑いを向けてそう漏らした。
 何処か逸れ始めた話題。それは多分彼の配慮、優しさなのだろうと思う。珠乃はきゅっと
胸の奥が刺激されるのを感じながらも、同じく静かに微笑を返すしかできなかった。
「うーん……やっぱり僕は軍人向きじゃないのかも。押しが弱いというかさ。もっとこう、
組織の中でぐいぐい伸し上がっていこうっていう気概が足りないのかなぁって」
「伸し上がるって……。それって兵藤さんのこと?」
「う、うん……。まぁ具体的に言っちゃうと」
「うーん、別にいいんじゃない? 私は今の生活でも充分過ぎるくらい幸せだけど」
「はは。そう言って貰えるとありがたいけど……。でも、同期がああもどんどん力をつけて
いっているのを見ると流石にね……」
 それでも星太郎は穏やかさを纏い続けた。
 ちょっと自虐的、でもその声色は優しさを。何処かおどけたようにも見える彼に、珠乃は
気付けば一緒になってくすくすと笑っていたのだった。
 穏やかな笑い声が響き、消えていく。
 再び差し込む日差しがそっと自分達を見下ろしてくれるように思えた。
 愛娘を撫で、妻と寄り添い。暫し星太郎はその場に屈んだままで静かに佇む。
「…………珠乃さん」
「? なぁに?」
 それから、どれだけの沈黙を経てからだっただろうか。
「……。やっぱり僕、自衛官を辞めるよ」
 穏やかな日差しを眩しげに眺めたまま、星太郎はぽつとそう言った。
「え。辞めるの?」
「ん? あぁ、いや別に今すぐって訳じゃないよ。生活もあるし。……そうじゃなくてこの
先、もっとこの国が平和になったら退官しようかなって。何時になるか、分からないけど」
 フッと破顔して。星太郎はちらっと珠乃を見遣るとそう補足を加えた。
 希望的観測を前提としたプラン。それはあやふやだった。軍事には素人の珠乃でも今の世
の中がそう簡単に“平和”になるとは正直言って思えなかった。
「そっか……。いいんじゃない? その後はどうするの? 何処かの技術職でも探す?」
 だが不思議とその未来の話を、二人は穏やかに明るく語り合う事ができた。
「うーん、どうだろうなぁ。その時の景気にもよるし、やっぱり家族で一緒にいられる時間
が欲しいし……。そうなると自営業の類なのかな……?」
 そっと軽く目を閉じて思考を巡らせる星太郎。
 その腕には頭に疑問符を浮かべながらも、父にじゃれつくのを止めない美月がふらふらと
身体を揺らして戯れている。
「……そうだな。宿とかはどうだろう? 星峰(ここ)は年中登山客や観光客が来ているか
ら、そういった人達とも一緒に平和な時間を共有できたら……なんて」
「宿……」
「うん。あ、でもあまり大きいのは無理かなぁ。せいぜい民宿レベル?」
 夫の未来の地図に、珠乃は驚きと淡い希望を同時に抱いていた。
 その場で組み立てていくように。星太郎は時折思考を整えるように頭上に眼をやっては、
指先をぴこぴこと動かす。
「守る、守られるじゃどうしても“一緒”にはいられないから。だから落ち着いた後はそん
な関係の中で穏やかに暮らせていけたらなぁって思う。……ちょっと年寄り臭いかな」
「ううん、そんな事ないわ。素敵じゃない。家族とお客さんと皆で穏やかな一時、か……」
 正直嬉しかったのかもしれない。
「間違いなく料理の担当は珠乃さんだね。何せ元プロ、調理師免許持ちだし。後は僕も経営
ノウハウとか資格とかの勉強をしたりして……」
「うんうん♪」
 たとえ皮算用と言われても、夫が自分達をこうも大切に思い、静かな生活を思い描いてく
れているなんて。断片的に発せられる彼の構想。珠乃もまたそんな青写真を聞きながら、自
分なりのイメージを膨らませていく。
「本当にそんな生活ができるといいわねぇ。……でも、そんな日が来るのかしら」
 だが、そんな中でも現実は非情なことに変わりは無い。
 暫しうっとりと希望の未来を抱いても、珠乃の心の中にそんな不安は襲ってくる。
「来るさ」
 しかし、星太郎は迷いなくそう言い切っていた。
「きっと来る。明けない夜は無いんだから」
 キリッと強い意志の瞳で。だけどその表情はとても優しくて。
「きっと大丈夫さ。僕たちが“諦める”ことをしなければ、きっと──」
 穏やかな日差しを背後にしたその笑顔は、きっと未来を信じる者のそれだった。


 STORY-4「想々、顧ミテ」

「特別保安庁…………えっ? と、特保!?」
 蛇に睨まれた蛙のように、陽は思わずごくりと息を呑んでその場に固まっていた。
 門倉が掲げる『特保』のエージェントである事を示す手帳。その証明文言を睨むように、
傍らの美月もまたじっと眉間に皺を寄せて押し黙っている。
 意識を過ぎったのは目の前の光景への動揺と、そして何時からかの漠然とした予感。
 ルーメルに対処する為の政府機関である特保。
 そこが動いた、こうして我が家にまで乗り込んで来たということは……。
「──っ……!」
 すると、ふと背後からガタッと小さな物音と押し殺したように漏れた声が聞こえた。
「母さん……。妃翠……」
 振り返るとそこには明らかに怯えているような様子の妃翠と、そんな彼女が隠れる物陰と
化した感情の読めない、普段の微笑を消していた珠乃がいた。
 先程のやり取りも聞いていたのだろう。陽と美月から少々離れた位置、リビングに続く廊
下の途中に二人はある意味で対照的な様子でこちらを見ていた。
「……真崎珠乃さんに、特質系“命種”のルーメル・妃翠ですね? 共同体(コミューン)
での最終経歴は文部院参事教務官──」
 そんな二人の姿を認めても、門倉は変わらず淡々としていた。
 すると、警戒するようにゆっくりと歩み寄って来る二人を静かに視界に映しながら、彼女
はまるで教科書を暗唱するかのようにそんな言葉を紡いでみせる。
「これで、役者が揃いましたね」
「……えぇ。呼んでもらう手間が省けたわ」
 飄々とした、何処か芝居掛かったような声。
 門倉の隣に立つスーツの男性は、眼鏡のブリッジをそっと撫でつつ言った。
 彼女の放った情報が間違いではなかったのだろう。妃翠はますます動揺し、彼らに強い恐
れを抱いているように見えた。不信感と様子見と。美月と珠乃の視線、そして心底心配そう
な陽の眼差しが一瞬、一斉に彼女に向けられる。
「……それで、一体何の御用でしょう? わざわざ政府の役人さんが直接足を運んで来られ
るなんて」
 最初に口を開いたのは珠乃だった。
 いつもの穏やかな気色とは打って変わった、感情の見えない──それでいて何処か警戒の
念を込めたような表情(かお)。
「何。私の個人的なポリシーに依っただけの事ですよ。……自分が保護する事になったルー
メルには、少なくとも一度は直接会うというね」
 それが門倉達の答えであり、目的だった。
(やっぱり、そうなのか……)
 陽はじわりと首筋に冷や汗が流れるのを感じた。
 嫌な予感は的中してしまった。ピンと張り詰め始めた空気。陽はちらりと斜め後ろにいる
妃翠の方を見遣ってみた。
 ガクガクと。案の定、彼女は少なからず身を震わせていた。
 最初に家に来た時に特保の名を出された時に見せていた反応。それが今、目の前の実体と
して──肉薄する存在として自分を捕捉しに来ているのだ。
「先日、宮座町の雑居ビルにて事件がありました。犯人は紋女狩り(ハンター)の一団。そ
して彼らが追っていたのは、一人のルーメルとその彼女を庇って逃走を図ったとある少年で
した。……貴方達ですね。ルーメル・妃翠、真崎陽君」
 既に映像の解析も裏付け調査も済んでいます。
 身構える陽達に、門倉はそう付け加えて言った。
 それは確認というよりは一種の宣告に近かった。数拍の沈黙が、しんと周囲に染み入るか
のようだった。
 言葉にできない、だが実質は無言の肯定。そうした一様に警戒の類の気色を見せる陽達を
じっと見遣ると、彼女は若干のため息をつくようにして。
「もうお分かりだとは思いますが……用件は簡単な事です。彼女を、保護しに来ました」
 一切の介入も許さないように、そう静かにはっきりと言い切ったのだった。
『…………』
 やはりか。
 戸惑いに一種の諦観、未だ様子見──そして怯え。
 面々の内情は個々に違ってこそいたが、大まかな想いは同じであった事だろう。
 考えれば当然かもしれない。あの日ハンター達と対峙し、そして互いに誓約(リンク)を
結んだあの時点で眼下の街並みは警察も駆けつけ少なからぬ騒ぎになっていた。何よりもあ
の一件は他ならぬルーメルに関する案件。特保が置かれた膝元であるこの街でそんな騒ぎが
起きて、彼らが何もアクションを取らない筈は無かったのだ。
「ま……待って下さいっ!」
 それでも僕は……。
 気が付いた時には、陽は思わず門倉達と妃翠の間に割って入り声を上げていた。
「そ、そんな事、いきなり言われても困ります……」
「困る? 何を困るというのです?」
 しかし、それでも門倉は冷静沈着な様を崩さなかった。
「貴方がたはハンター達に襲われました。今回はルーメルの力によって危機を脱したようで
すが、今後そうしたリスクを負う点は変わりありませんよ。……誓約者(リンカー)である
身でそのパートナーを引き渡すのは気が重いのかもしれませんが、今後の安全を考えればお
互いに決して損はしないと思うのですが?」
 あくまで説得口調、しかしその実は半ば有無を言わせないように。
 陽は彼女に反論する事ができなかった。いや、何か言葉を紡ぐ事すらできなかった。
『妃翠さんの事を特保に委ねる心積もりをしておけ』
『彼女達にとって今現在のコミューンが何かしらの理由で“帰りたくない場所”になってい
るのかもしれないな』
 脳裏に、何時かの憲人(とも)が語っていた言葉が蘇る。
 手に負えない事態になったら。でも……彼女は政府の庇護を、コミューンへの帰還を望ん
でいないかもしれないというあの示唆。
「……」
 陽は肩越しに妃翠を見た。
 そこには心配そうな表情を漏らし、か細く震えているパートナーの姿がある。
 ザワッと、自分の中で何かが──奮い立つ想いが滾るような気がした。
「……配慮ありがとうございます。ですが結構ですよ。妃翠ちゃんは、もう私達の家族なん
ですから」
「珠乃、さん……」
 すると今度は珠乃が口を開いていた。
 それまで様子見の態だった平たな表情は、何時の間にか凛とした確かな感情を宿した気色
へと変わっている。それぞれに二人の子供達は目を見張った。そして当の妃翠も、泣き出し
そうな綯い交ぜな感情を必死に抱えるようにして、感極まるが如く珠乃の横顔を見遣る。
「…………。お言葉ですが」
 一方で、門倉達はある意味真逆な反応を示していた。
 やれやれ面倒な連中だ。或いは、愚かだと内心で哂うかのように。
 何処か見下したとも取れうるような嘆息を経て、彼女は少し間を置いてから口火を切る。
「貴方がたは“血の遭遇”のご遺族なのですよ。その貴方がたがルーメルを庇い立てするよ
うな立場を取り続ける事がどれだけデメリットの大きいことか……分かっていないとは思え
ないのですが」
「……ッ」
「……勘違いなきように。私どもも政府の人間。人間とルーメルが共存できる世の中になる
事を望んでいます。ですが、理想と現実は別物です。実際には今も尚、ルーメルに対する敵
対感情は消えていません。むしろそういった反ルーメル勢力が台頭してきている実情すらあ
ります。そんな中で貴方がたのような態度が存在することは、彼らに格好の攻撃材料──憎
悪の燃料を与える事になりうるのですよ。……お分かりですか? そんな事態に巻き込まれ
て手痛い思いをするのは、きっと亡きご主人も望んでは──」
「分かったような口を効かないでっ!」
「貴方達に何が分かるんですかっ!」
 だが淡々とした門倉の口調は、次の瞬間殆ど怒声に近い美月と陽のぴったりと重なった叫
びによって掻き消されていた。
 ビリビリと場の空気が震えたかのようだった。
 妃翠は驚いたように目を丸くし、傍らの珠乃は何処か複雑なような様子で僅かに苦笑して
いる。何よりも、意図せず声を合わせてしまった陽と美月の当人らは思わずお互いの顔を見
合わせると、少々気まずそうにフツッとその互いの顔を真反対に向けて視線を泳がせた。
「…………私情を持ち込み過ぎるのは如何なものかと思いますがね。高須」
「はい、チーフ」
 しかし一方で、門倉らはそんな真崎家の態度にむしろ嘆息の気色を濃くしているようにも
見えた。ぽつりとわざとらしく窘め、突き放すような声色。そしてそんな彼女の短い呼び掛
けに、傍らの眼鏡の男性・高須が動く。
 彼は笑っていた。口元に僅かな弧を浮かべて。
(こいつ……っ!)
 その微細な変化が目に焼き付いた瞬間、美月は強烈に反吐が出る想いに駆られた。
 飄々とした様。いや……違う。政府の人間(こいつら)はやっぱり信用ならない──。
「え。ちょ、ちょっと!」
 高須、そして彼に続くようにゆらりと白髪の女性は前へ進み出るとそのまま家の中へ上が
り込もうとした。何も言わずにひょいっと。陽は思わずそんな静かな侵入に戸惑いながらも
半ば反射的にその行く手を塞ごうとする。だが……。
「──はい、これ」
「えっ?」
 その反応を待ってましたと言わんばかりに、次の瞬間高須が懐から取り出し広げてみせた
のは一枚の文書だった。
 つい間抜けな声で固まる陽。勿論、掲げられたその文言などは頭に入らず。
「……えっと。何ですか」
「う~ん? 君は文字が読めないのかな? 書いてあるでしょ。紋女特別措置法第七条三項
に基づく、保護代執行許諾証明書だよ」
「?? 一体何を──」
 それでも陽はその意味がよく分からなかった。
 でも確かな事は一つ。このままでは妃翠が無理やりコミューンに連れ戻されてしまうであ
ろうということ。陽は頭に疑問符に浮かべつつも、歩みを止めない彼を押し留めようとした
のだが。
「陽、駄目っ!!」
 次の瞬間、怒号ではなく焦燥のような声色の姉の手がむんずと陽の首根っこを背後から掴
んでいた。必然、陽は思わず後ろに大きくよろめく。
「姉さん……?」
「……」
 陽は目を瞬いて、苦虫を噛み潰したようになっていた姉に振り返っていた。
 何で止めるんだよ? そう口に出しそうになったのに、言えなかった。様子がおかしい。
思うに自分よりは内面はずっと直情的な姉。その彼女がまるであの紙切れ一枚で身動きを封
じられたかのように見える……。
「ふふ、流石は現役の法学部生といった所ですか。物分かりが早くて助かります。もう邪魔
は致しませんね? 星峰大学法学部三年・真崎美月さん?」
「……あんた達、そこまで」
「言った筈ですよ。私達は既に貴方がたの事は調査済みだと」
 したり顔で眼鏡の下で微笑む高須に、淡々と門倉がそう付け加えた。
「確か、貴女は行政法の専攻でしたね……。もしかしたら、将来貴女は僕達の後輩になるの
かもしれませんねぇ」
「ッ……!?」
 高須の、追撃の一言。
 そこで更に美月の表情が歪んだ。
 何だ、何が起きているんだ? 陽はそんな姉の動揺の類らしい変化に戸惑ったが、その理
由を推し量ることもできなかった。代わりに美月は自分を見ている陽の肩をくいっと掴み寄
せながら言う。
「…………手を出しちゃ駄目よ、陽。噛み砕いて言うと、あれは裁判所からルーメルを保護
する権限のお墨付きを貰ったって証なの。たとえ相手が拒否しても強制的に、ね……」
「強……っ!?」
 ようやく高須の取り出した紙切れの(法的な)強さを理解できたらしく、陽は声を詰まら
せ慌てるように自分と彼らの間を往復するように視線を泳がせていた。
(全く、厄介極まりないわね……)
 美月は腸が煮えくり返るような思いだった。
 別に妃翠が連れて行かれるから──ない訳じゃないけれど──ではない。予め用意周到に
自分達のプライベートを調べ、尚且つそれでいて母さんの想いを侮辱するような言動を取っ
ている目の前の彼らが許せなかった。自分達は権力の側だから何をしてもいいなんて理屈、
認められるわけがない。
 大方、こういった拒否反応が来るのはある程度折込み済みだったのだろう。
 それでも話し合いで済めばという軽い楽観はあったのかもしれないが、結局はこうして法
的な強制力をちらつかせてきた。……ハンターとの一悶着から日が経ってからというのも、
おそらくは裁判所からこの証明書が下りるまでの手続きの手間があったからだと思う。
 間違いなく、ここで下手に抵抗──実力行使すれば相手の思う壺だ。十中八九そうなれば
公務執行妨害で現行犯逮捕に打って出てくるだろう。どれだけ陽や母さんが妃翠さんと打ち
解けていても……世間から見れば“違和感のある関係”なのだ。仮に真っ向から法的に争っ
たとしても裁判所も世間の眼を気にする。勝算は限りなくゼロだろう。……そんな絶望的な
リスクを陽や母さんに負わせる訳にはいかない。
(それに……)
 そして美月は家族への留意を維持しながら、ちらりと門倉達──厳密には高須とは反対の
側の脇に立つ白髪の女性を見遣っていた。
 これでも自分も武道を嗜んできた人間だ、じっと黙ったままでもその力量は分かる。私の
目が確かなら、彼女は今まで会ってきた中でも間違いなく一二を争う人物だ。
 おそらくあの肩に結んだ長い布包みの中は剣の類だろう。だとすれば用心棒的な人材か。
真剣かどうかまでは分からない──わざわざ布で覆っている事からそうだとは思う──が、
流石に斬り殺すまではしないと思う。だが武力で以って威嚇してくる、私や家族に何かしら
見せしめ的に多少の痛手を残す可能性は否定できない。
 現に包みの結び目には何時の間にかそっと指が通され、合図があればすぐにでも抜き放た
れる用意ができている。……尚更、迂闊には動くにはリスクが大き過ぎた。
「……では、失礼しますよ?」
 そんな美月の思考を知ってか知らずか、高須と白髪の女性はそのまま一歩、また一歩真崎
家へと上がり込もうとする。
 陽も美月も、そして不安いっぱいの表情を隠せない妃翠をそっと手で制するように庇う珠
乃も思わず眉間に皺を寄せたが、もう下手に抵抗する事もできない。
 ゆっくりと靴を脱ぎ出し、敷居を跨いで。
 もうどうしようもないのか……。そう陽達が諦めかけようとした、その時だった。
「────んっ?」「……?」
 不意に、ピタッと二人の動きが止まった。
 そしてほぼ同時に反応して指先を遣ったのは……自身の耳。いや、よく見てみると小型の
マイク。ほんの僅かではあったが、陽達は小さくノイズが混じった音声らしきものが漏れて
くるのを聞き取る事ができた。おそらくは無線の類なのだろう。
「……チーフ」
 数秒その場でその音声に耳を済ませていた高須。
 飄々としていたその表情に、若干の不機嫌という生の感情が見え隠れする。高須はややあ
って一度ちらと陽達を一瞥すると、短く促すように門倉に呼び掛けた。
 その反応を経て、彼女もまた胸ポケットから無線のマイクを取り出すと耳の中に詰めて、
送られてくる声に暫し耳を澄ませ始める。
「……何ですって?」
 そして彼女もまた、やがて外部からの報告に幾許かの驚きを見せた。
 またも視線が陽達に向けられる。しかしそれもほんの一瞬だった。何が起こったのか? 
陽達は身構えたまま固まっていたが、門倉は少し思案顔を覗かせてから、
「……。随分と小癪な真似をしてくれましたね」
 マイクに指先を添えたままぽつりとそんな言葉を漏らすだけ。
「真崎陽君、ルーメル・妃翠」
「は、はいっ!?」
「はうっ!?」
 少し力の篭った呼び掛けに、陽と妃翠はビクッと身体を震わせて門倉を見た。
「……猶予を与えましょう。一週間、いえ十日……それまでにどうするつもりなのか、貴方
がたの意思を決めて貰います」
 突然の方針転換だった。
 目を瞬かせて、陽と妃翠はお互いを見合わせる。美月と珠乃も何故?という印象を持った
ようで安堵というよりも怪訝を強くしたようだった。
 それでも相変わらずの自分達のペースで。
 門倉達はそう言い放つと早々に身を翻して戸口に集まり直すと、
「……。いい返事を期待していますよ」
 彼女のそんな捨て台詞を残して何処か足早に立ち去っていってしまう。
「……何だったのかしら?」
「さ、さぁ……?」
 暫し陽達は玄関先で唖然と立ち尽くしていた。
 彼女達に何が起きたのか、それは分からなかった。だけど確かな事は、取り敢えずこの場
で妃翠が連れて行かれる事態だけは回避できたらしいということ。
(助かった、のかな……?)
 まだ何処か実感の沸かない妙な安堵感の下で。
 陽は残る疑問符と共に、そう静かに一先ずと胸を撫で下ろす。

「一体、何があったの? 襲撃者だなんて」
 真崎家を後にした門倉達は、何処からともなく合流してきた配下の黒スーツ達を前に事態
の詳細報告を求めていた。
「は、はい。先程から別働で状況把握を行っているのですが……」
 まだ残る混乱か、黒スーツの一人が少し声を詰まらせてから口を開き始める。
 するとちょうどその時、ザザッとノイズの先行があってからその別働の部下達からの報告
が飛んできた。
『──こちらグループD。持ち場から現在地点Bまで辿った所です。現状は……ほぼ全滅か
と思われます。まだ辛うじて意識のある者に聞いている最中なのですが、どうもいきなり夜
闇から襲われたということで……襲撃者の詳細は分からないとの事です」
「そう……」
 無線から聞こえるその報告に門倉はぎゅっと唇を噛んでいた。
 突然、自分達の下に届いたSOS。それは事前に真崎家周辺に散開・待機させていた部下
達が何者かに襲われた──しかも現状でほぼ全滅に追い込まれたというものだった。
 褒めちぎる訳ではないが、自分達特保はルーメルに関する種々の任務を遂行している。
 それ故政府からは強い権限を与えられ、且つそれに見合うだけの戦闘能力を有した人材を
選りすぐっている。そんな荒事担当な部下達がものの数分も経たない内に全滅……? 門倉
には最初、その報告自体が信じられないという印象だった。だが……。
「とにかく、先ずは余力の残っているメンバーを急いで掻き集めて頂戴。そこから三班に再
編成。一班を人員の救護と聴取に、残り二班をその襲撃犯の追跡に回して」
 そうは命令を下したものの、おそらく捕縛は無理だろうなと門倉は思っていた。
 もし今自分の頭の中で過ぎっている可能性──その中でも最も厄介なケースが的中してい
るとすれば、今のこの消耗した戦力では到底対処できない筈だ。
「……それと回線チャネルをスペア4(フォー)に切り替え。百二十秒後こちらから再発信
するわ。いいわね? では、状況開始」
『了解ッ』『了解しました』
 そこまで言って一旦ブツリとお互いの回線は途切れた。
 直接報告にやって来た残存の黒スーツらも、門倉のその指示を受けてそれぞれに夜の住宅
街へと散っていく。するとその後ろ姿を見送りながら高須がふと投げ掛けてきた。
「……宜しかったんですか? あのままいけばターゲットは確保できていたと思いますが」
「部下達が助けを求めているのに捨て置く気? それに……これはおそらく、牽制よ」
 ちらと飄々とした表情の彼を一瞥し、門倉は言った。
 ポケットから無線機の本体を取り出すと手早く周波数を予備用のものに合わせ出す。
「誰かは知らないけど、状況から察するに真崎家とルーメル・妃翠に協力者がいると考える
べきね。それも、かなりの戦闘能力の持ち主の」
「……ですが彼らはそんな手回しをしているような素振りはありませんでしたよ?」
「えぇ。おそらくはその人物の独断専行といった所でしょうね。……あのまま確保行動を続
けていれば直接殴り込みに来たかもしれない。どちらにせよ、対処し切れなかった筈よ」
 高須、そして彼をちらりと見遣った白髪の女性は、押し黙りながらも何処か釈然としない
気色を漏らしていた。
 それでも門倉は方針を変える事はしなかった。
 確かに貴方達は荒事の担当。歯痒い気持ちは分かる。だけど、部下の犠牲は極力出さない
ように慎重になるべきなのが人を率いる者の責務なのよ──。
「……こちら門倉。各班、状況は?」
『こちら第一班。救護、開始しました』
『こちら第二班。逃走経路を確認中です。……今の所、痕跡は無し』
『こちら第三班。捜索の為の散開中。同じく襲撃者らしき不審人物は見当たりません』
 腕時計の秒針を確認し、門倉は再びマイクをオンにして呼び掛けた。
 そして間髪入れず、ノイズ混じりのレスポンスが三件。だが内心の予想通り、部下達の成
果は上がっていないようだった。
「了解。私達は第一班と合流するわ。総員、状況を継続のこと」
 言うと、また『了解』と無線の向こうから重なった承諾の返答が返ってきた。
 そして門倉はごそごそと無線機をポケットに入れ直しながら、
(…………どうやら、また一つ厄介な仕事が増えたみたいね)
 ちらりと高須と白髪の女性に目配せをし、颯爽とその場を後にして歩き出していく。
『──百二十秒後こちらから再発信するわ。いいわね? では、状況開始』
 掌の中の小型マイクからそう特保の役人の合図が聞こえた。
 中々に訓練された連中だな。即座の重なった返答にそう思った次の瞬間、回線はブツリと
途切れてしまう。
「……」
 きゅっとマイクを握り無線機をぶら下げたまま、耀金は遠く眼下の暗がりの中を歩いてい
く彼らの動きを暫しざっと眺めていた。
(ふん、何が保護だよ。やってる事はハンター連中と似たようなものじゃないか)
 内心で、そして表情で鼻で笑いながら彼女はついっと視線を移した。
 夜の闇に紛れた真崎家周辺の路地裏の各所。そこには幾人もの黒スーツの男達が、本来屈
強である筈のその身をだらしなく地面に伏せて沈黙──昏倒している様があった。
「……だから政府(やつら)は信用ならないんだ」
 そんな呟きに反応するかのように、夜風がふわっと吹き過ぎていった。
 変わらない。あの時からずっと。ずっと権力を笠にやりたい放題をしてやがる。
 それでも……と耀金は思った。
 直前の雑事を横に置いても妃翠(とも)の下に飛んで来て結果的に良かったな、と。
 彼女を迎え入れる説得は失敗に終わってしまったが、それでも奴らの魔手から守る事がで
きたのならそれはそれで大きな成果だとしてもいいだろう。
「……ふぅ。やれやれ……」
 引き寄せ握り締め直した掌の中で、マイクと無線機はあっさりと粉微塵になっていた。
 そして静かに散り落ちるガタクタと化した元・無線マイクをそのまま投げ捨てると、耀金
はすっくとその場から立ち上がった。
 立っていたのは住宅街の中の一軒の家屋の屋根の上。少し離れた場所には灯りの灯った真
崎家が見える。
 これで、一先ず喫緊の難は去ったのだと思いたいのだが……。
(どうやら、まだこの街を出るには早いらしいな……)
 思い、バサリとコートを翻し踵を返すと、耀金は溶け入るように夜闇に姿を消していた。

 
 時刻は、四時限目の折り返しを過ぎた頃合だった。
「──であるからして。この場合、ここの現代語訳は二番が最も適切となる」
 教壇に立っていたのは、古典及び現代文担当の教師・小野寺。
 堅物で生真面目なその性格を体現するように、その板書された文字の群れすらも整然と並
んでいる。退屈、或いは昼休みを思いそわそわし始めた生徒達の様子を顧みる様子もなく、
そんな空気が漂う中にあっても小野寺は淡々と授業を進めていた。
(む~ん……??)
 そうした遅々として感じられる時間の流れが包む教室で、翔は内心で唸っていた。
 とはいえそれは苛立ちなどではない。言うなれば怪訝の類のものであった。
 くるくるとシャープペンを指と指の間で回しながら、翔は時折ちらちらとクラスの面々の
方を見遣っているように見えた。
 黒板の板書でもなく、淡々と解説を続ける小野寺でもなく。
 その横目で遣る視線はとあるクラスメートの一点へと。
「…………なぁ、憲人」
 そんな視線を向けては逸らして怪訝を見せる事暫し。
 翔は小野寺が板書を始めて背を向けたのを確認すると、思い切ったように後ろの席の憲人
に半身を返して振り向き、そうひそひそ声で呼び掛けていた。
「……何だ? 授業中だぞ」
 対する憲人は彼の声に、ノートに眼を落としていた顔をフッと上げると同じく静かに抑え
た声量で応えた。カツカツとチョークが黒板の上を走っていく音が耳に届く。翔はもう一度
小野寺の隙を確認し直すと言う。
「それ所じゃねぇっての。……何だか陽の様子、おかしくねぇか?」
「……。お前もそう思うか」
 一瞬の間。二人は合致したと言わんばかりに互いの顔を見合わせた。そしてじいっと今度
はやや凝視気味に、同時にそのとあるクラスメート──陽へと視線を向ける。
「…………」
 クラスの中列、そのやや後方の席に陽は座っていた。
 一見するとじっと小野寺を見つめ、その講釈に耳を傾けているようにも見える。だが陽と
長い付き合いのある二人には彼がいつもの様子と違っていると直感でき、何故と心配の念を
抱かずにはいられなかったのである。
「やっぱ、変だよなぁ」
 ペンすら手にせず、ノートを取る事もなく、その横顔は心此処にあらずといった感じで。
 翔はペン回しの手を止めて片肘をつくと、遠巻きにそんな友を案じて呟く。
「何かあったのかね? 困ったら俺らを頼れっつーのによぉ」
「……陽のことだからな。実際はああやって自分で背負い込みがちになるんだろう」
「ま、そーかもしれねぇけど」
「……。何があったのかは本人に訊けば一番確実なのだろうが、おそらくは妃翠さん関係の
何かではないかと思う」
「妃翠さんの? でもハンターの件は一段落したろ? だとしたら、この前から来てる耀金
さんの隠れ里云々の件か? でもあれって妃翠さん本人が断ったって話だし……」
「だが今も滞在しているんだ、彼女から説得は続いているんじゃないか?」
「さぁ、どうだっけ? そんな事言ってたような気もするが……。でも連休前にあいつん家
に配達へ行った時には今ほど悩んでる感じは無かったぜ?」
「…………そうか」
 二人はそうしたやり取りを交わしたが、結局疑問は解決せずにどちらからともなく黙り込
んでしまった。何かを思案するように再び俯き加減になっている憲人。その様子を暫し眺め
てから、翔はもう一度陽の方へと視線を向けてみた。
 やはり……まだ心此処にあらずな様子は変わっていない。
(全くよぉ、そんな顔してくれるなって……)
 何があったのかは分からないが、気になって仕方がないではないか。
 見れば、陽を挟んで向こう側の席の翼もちらちらと様子を窺っているようだった。すると
はたとお互いの視線が合う。
 ──やっぱり、あんたも気になってたんだ?
 自分で言うのも何だが流石は双子といった所か。翔はそんな眼差しを投げ掛けてくる姉に
控えめの表情と小さな頷きで応えていた。コクと頷き返してくる翼。そしてまた心配そうに
陽の横顔を見遣るその眼差し。
 全く……独りで背負い込むなってのに。改めてそう翔は思う。
「……ん?」
 すると、不意に翔を含めた身の回りが陰った。
 何だろうと思い、思わず何の気なしに振り返ってみると。
「……」
「ぁっ……」
 自分の席の真正面に分厚い教科書を片手にした小野寺が立っていた。
 薄眼鏡の下のその双眸が、黙したままギラリと光ったような気がした。それまでの真剣に
友を案ずる心持ちは何処にいったのやら。翔の背中につ~っと冷や汗が走る。
「私の授業を無視とは……。いい度胸だな、桐谷?」
「あ、いや。別にそんな意図はありま──ぶほぅっ!?」
 弁明しようとした翔だったが、次の瞬間には小野寺が手にした教科書でその額に一発を落
としていた。
「痛ぅぁっ……! か、角は駄目ですって……。ていうかこれ、何か、デジャヴ……」
「それだけ口が回れば大丈夫だ。……授業が終わるまでそこで立ってろ」
 地味な痛さに身を捩じらせてもがく翔に、小野寺は肩越しに顔を向けてそう命ずるとサッ
と踵を返して教壇へと戻っていく。クラスの所々から「またかよ」的な静かな笑いが漏れて
くるのが聞こえる。翔は渋々とまだ痛む額を擦りながら立ち上がった。
「来てたなら言ってくれよ……」
「す、すまん……。あの気迫では俺も喋れなかった」
「……さいで。まぁいいけど……」
 黒板の前で講釈の続きを再開する小野寺に気をつけながら、翔は立ち上がり様にちらと憲
人を見遣ってひそひそと言った。それに流石の憲人も申し訳なさそうに語気を弱め、そう答
えると小声で謝罪する。とはいえ本気で怒っている訳でもないので、翔は半ば諦め気味に呟
くと、だらりとその場で授業を終わるのを待ち始めた。
 静かな笑いが零れたクラスだったが、相手が堅物な小野寺という事もあり、その空気はす
ぐに適度な緊張感を伴うそれへと変わっていった。ぽつねんと立つ翔を放置したまま、残り
の授業時間は淡々と過ぎていく。
「…………」
 だが、そんな一時ざわついた変化の中にあっても、陽は未だにぼうっとしたままだった。

 ──此処で、時は少し遡る。
 人々の行き交う星峰の表通り。そこから枝割れする路地に入った一角にその小さな喫茶店
はあった。時刻は御昼時の一時間ほど前。その為なのか、或いは元々この店自体が繁盛して
いる方ではないのか、店内の客入りは点々とした静かなものであった。
『……』
 そんな店内の奥まったテーブル席に一組の男女が座っていた。
 一人は眼鏡を掛けたスーツ姿の男性──高須と、もう一人は彼の傍らにじっと佇む白髪の
女性だった。真崎家を訪れた特保のエージェント三人組の両サイド、その当人達である。
 二人は特に雑談をする訳でもなく、高須は何やら文庫本を片手に読書を、白髪の彼女はソ
ファ状の隣席の空きスペースに置いてある長い布包みを、時折癖のように撫でていた。
「いらっしゃいませ~」
 そんな状態がどれだけ続いた頃だったろうか。
 不意に聞こえてきた来客を告げる入口のカウベルの音、そして少々間延びした店員の声。
そんな物音を素通りするように一人の人物が店内に足を踏み入れてくる。
「……」
 革のロングコートを羽織った淡い金髪の女性。
 そこに居たのは、間違いなく耀金だった。 
 少しその場で店内を見渡していた彼女だったが、その姿を認めた白髪の女性がスッと心持
ち身を起こして自分達の存在を知らせる。
「……お久しぶりです。隊長」
「ああ。久しぶりだね……ハヤ」
 歩み寄ってきた耀金に、白髪の彼女はそう言った。礼を示すが如く軽く頭を下げる。
 明らかに面識のあるらしい二人。だが耀金はほんの一瞬表情を柔らかくしただけで、すぐ
にまたピンと張り直したような硬い表情に戻った。
 座と立ちの見上げと見下ろし。数秒の沈黙。
 耀金はフッと一度眼を彼女の隣──高須に遣ると、どうっと二人に向かい合うような形で
ソファ状の席に腰を下ろした。
「……予想外だったね。まさか、あの時の襲撃者本人からコンタクトがあるなんて。しかも
それが白早(シラハヤ)の元上官だとは」
「襲撃者とは御挨拶だね。あたしは何処ぞの人攫いからダチを守っただけだよ」
「ふ、文彦さん。それに隊長も。いきなりいがみ合わないで下さい……」
 開口一番、高須と耀金はいきなりそんな静かな火花を散らしていた。
 そんな二人に、この白髪の女性・白早は若干言葉を詰まらせつつも仲裁に入る。
 先ずは互いに牽制や小手調べといった所だったのだろうか。彼女の言葉でその火花は一旦
収まったように見えた。眉根を上げつつ両肘をソファの背に掛ける耀金。光を反射する眼鏡
のブリッジをそっと押さえながら、やや俯き加減になって口元に僅かながら弧を描く高須。
 白早は、そんな両者に思わず静かな困り顔を遣っていた。
「取り敢えずは自己紹介とでもいこうかな? 僕は高須文彦。星峰実働局・門倉班副班長を
務めさせて貰っている。そしてこっちが僕のパートナーの白早。……おっと、彼女について
は説明は要らなかったね」
「ああ。……にしても、やっぱりお前はハヤの誓約者(リンカー)だったか。通りで見た時
からエーテルの流れが妙だと思った筈だよ」
 淡々とした耀金の口調。
 しかしそこには、かつての部下までもがリンカー持ちになっていた事への少なからぬ驚き
が混じっているようにも見えた。
 言って、ちらりと視線が白早に。表情こそ冷静だったが、彼女もまた後ろめたさに類する
気まずさを感じているらしい。
「……まぁ『皆、自分の判断で形振りを決めろ』と命令したのはあたし達だけどね。まさか
お前が“居残り組”になっていたとは思わなかったけど」
「……すみません。でも……」
「謝るなって。……もう、昔のあたし達には戻れない。それだけさ」
 自嘲するように、そして次には軽く距離を置くように。耀金は哀しそうに言葉を詰まらせ
る白早を一瞥すると、一度深くため息をついて軽く天井を仰ぐ。
 沈黙が下りようとした。だが上手い具合にちょうどウェイトレスがやって来て耀金に注文
を訊ねてきた。まだ年若い。おそらくは学生のバイトだろう。耀金は別段飲み食いをするつ
もりで来た訳ではなかったが、彼女のこの場に不釣合いな営業スマイルに折れる形で、
「……じゃ、アイスコーヒーを一つ。ブラックで」
「かしこまりました~」
 結局、申し訳程度の注文をして彼女を立ち去らせた。
「さてと……。それじゃあそろそろ本題に入ろうか。一体僕達に何の用なのかな? わざわ
ざ自分が襲撃者だと知られるリスクを負った上で、こうして接触してきた理由とやらを聞こ
うじゃないか」
 その後ろ姿がしっかり遠ざかるのを確認して、高須は仕切り直すように口を開いた。
 両手を覆う白い手袋。その指先を組み、両肘をトンとテーブルについて、彼は眼鏡を通し
て何処か演技めいた微笑みを耀金に向けてみせる。
「別にお前は呼んじゃいないんだけどな。まぁいいや……」
 そんな彼の所作に、耀金は若干うんざりした表情を浮かべていた。
 だがそんな呆れの混じった解けた表情も束の間、彼女は次の瞬間にはスッとその双眸に力
を込めて二人を凝視すると言い放つ。
「……用件は一つだ。これ以上、妃翠──スイに手を出すな」
 微笑の高須と様子を窺っていた白早の身動きが止まった。
 驚き、いやおそらくは「やはりか」といった的中に対する嘆息か。二人は数秒、それぞれ
にそうはっきりと迫ってきた彼女を凝視する。
「勿論お前らだけじゃない。特保全体に言っている」
「そ、それは……」
「初対面の相手にいきなり命令とは、大胆だねぇ」
 そして、ややあって白早が戸惑いの言葉を漏らす前に高須がそうのんびりと皮肉混じりの
返答を寄越した。それでも静かに威圧する眼を向けるままの耀金に、彼は続ける。
「そもそも、せめてこちらにもメリットがある何かを示してくれなければ、交渉自体──」
「あんまり調子に乗るなよ。……ほれ」
 だが哂おうとする彼を、耀金は静かにピシャリと遮った。
 同時にコートの内ポケットをまさぐって取り出され、ポンとテーブルの上に投げ出された
のは、使い込んだ感のある一冊の小さめの手帳。ちらと僅かに視線を向ける高須に代わり、
白早が一度躊躇を見せてからそれを手に取る。
「!? これは……」
 そうして暫し目を通す事数十秒。白早は、今までで一番明らかな驚きの反応を漏らした。
「……白早。一体何なんだい?」
「リ、リストです。……各地の紋女狩り(ハンター)勢力の」
「…………ほぅ」
 更に高須も、返答した白早の言葉に微笑を崩してその細目を開いた。
 白早が目を落としたそこにあったのは、びっしりと書き込まれた各地のハンター達の動向
についての詳しいメモの数々だった。北から南まで、そしてその勢力規模と最近の犯行内容
など、特保の一員である白早達ですら目を丸くする程の濃い情報の塊がそこにはあった。
 高須も思わず横からそのメモを覗き見ていた。
 そうしている間に、先程のウェイトレスがブラックのアイスコーヒーを持ってくる。
 暫し手帳に記された情報に目を通す二人に警戒の眼を解く事はせず、耀金はカップを口に
運びくいっと一口。軽く喉を潤してから言った。
「こっちの条件を呑むなら、そいつをお前達──いや、ハヤにやるよ」
「……いいんですか? こんなに詳細な情報を……」
「メリットを寄越せって言ったのはそっちだろ。そりゃあ正直政府の連中(そいつら)に助
力する形になるのは気に食わないけどね。だけど、そいつでハンターどもが減って同胞達が
安心して過ごせるのなら安いもんさ」
「なるほど……」
 覗き込んでいた顔を戻し、高須は眼鏡のブリッジを支えながら再び耀金に向き直った。
 その隣では白早がまだ頁を捲ってメモに目を落としている。
 大方、今の内にできるだけ内容を記憶しておこうとでも思っているのだろう。だが耀金は
特段その行為を責めはしなかった。……今は違う道を歩んでいても、自分の元副官だ。他の
連中よりは遥かに信用できる相手である事に間違いはない。
「確かに、これは中々の優良物件だ。何処でこれだけの情報を仕入れてきたのかも、個人的
には興味があるんだけどね?」
「……ま、あたしも彼方此方ぶらついているからね」
 ふふっと笑う高須のその言葉を、耀金はふいっと交わしていた。
(油断ならない奴だぜ。こんなのがハヤのリンカー、か……)
 親心……と云うのは変かもしれないが、正直耀金はこの男──いや本音を隠していい所取
りばかりを狙うような狡猾な種の人間には好感を持てなかった。まだ初対面で分からないだ
けで、彼女が誓約(リンク)を結ぶだけの人徳が何処かにあるのかもしれないが……別にそ
こまで突っ込んで関わろうとも思わない。できればこんな接触はこれっきりにしたかった。
「……ふむ」
 考えている事は案外似ているのかもしれない。
 一方の高須も、耀金が口を滑らさないと分かるとその表情を再びいつもの飄々とした微笑
に戻していた。
「でもねぇ。僕達の一存でその条件を呑む訳にはいかないかな? そっちと同じで、僕達も
一応信念を持ってこの立場にいるんでね。……チーフも怖いしさ」
 更にソファ席に深く腰掛け直すと、そんな遠回しな拒否の意思表示を放ってくる。
「……そうかい。そりゃあ残念」
「あっ……」
 すると耀金は言葉の額面ほどそんな様子は見せずに、ひょいっと白早の手から手帳を回収
した。短く声を上げ、白早は未練がましく顔を上げてこちらを見てきたが、耀金は意に介す
事はなく再び手帳をコートの内ポケットにしまい込む。
「はぁ……交渉決裂、か。まぁ、こんな事だろうとは思ってたけどね」
 言って、耀金は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
 光が反射した眼鏡の下で見えない表情を浮かべて黙っている高須と、申し訳なさとパート
ナーの手前もあって複雑な感情を抱いている様子の白早。そんな二人を一度じっと見つめる
と、大きく一息をついてから耀金はおもむろに立ち上がった。
「……さて。用事も済んだし帰るとしますか。じゃこれ、コーヒー代。釣りは要らないよ」
 ポケットを弄り、トンとテーブルの上に五百円玉を一つ。
「もうあれからそこそこ日も経ってるんだ。もう、あたしの事も調べはついてるんだろ?」
「さて、どうかな? 何も仕事は一つではないしね」
「……ふん」
 やはりはぐらかしてきたか。まぁいいさ。
 耀金はコートのポケットに両手を突っ込んで鼻で笑っていた。
 予想はついていたが交渉は失敗に終わった。だが少なくとも自分という存在が向こうに知
れていれば、特保もスイ達に下手な手出しはできない筈……。そう思いたい。
(あっちにはハヤがいる。あたしの力について何も知らないとは思えないけど……)
 考え過ぎか? だが用心するに越したことは無い。スイの安全を確保する前に自分がこい
つらの手に落ちるなんてヘマは死んでもゴメンだ。
 ──尤も、そんな事には絶対させない。その時には思う存分“暴れて”やるさ。
「隊長」
 そうして踵を返そうとした次の瞬間だった。
 一刹那の逡巡の空気。その直後に耀金の背中に白早が声を掛けてくる。
「……これを」
 差し出されたのは一枚の小さな紙切れ。
 肩越しにそれを見遣り数秒。耀金は僅かに眉根を上げたまま、取り敢えずとその紙切れを
受け取っていた。
 見てみるとそこには数字の羅列──いや、電話番号。
 達筆とは言えないながらもきっちりと大きさや間隔の整えられた筆跡。それは間違いなく
白早自身のものだった。
「私の連絡先です。困った時には何時でも一報下さい。……待っていますから」
「…………。悪いがあたしは政府側(そっち)に転ぶつもりはないよ。これまでも、これか
らもね。もう、あたし達の隊(いばしょ)は無くなっちまったんだ」
 代わりに耀金がぽつりと紡いだ言葉。その返答に白早は心底哀しい顔をしていた。
 全く……相変わらずだねぇ、ハヤ。お前は昔っから──。
 耀金はそんな彼女を振り切るようにゆっくりと歩き始めた。羽織る革のコートがふぁさっ
と靡き、彼女の動きの軌跡を残していく。
「……待っていますから。隊長の戻られる日を、私はずっと……」
「…………」
 背中に届く、感情を無理やり押し殺したような白早の声。
 だが耀金は振り返らなかった。ただ軽くスッと片手を上げて別れの挨拶とし、その場を後
にしていく。ゆっくりとドアが開き、来店時と同じようにカウベルが鳴る。
「隊長……」
 ぽつりと哀しげに漏れる白早の声。
 静かに目を瞑っている高須の傍らで、彼女は長くその立ち去った跡を見つめていた。

 四限目の授業が終わり、クラスは昼休みのざわめきに染まり始めていた。
「……お~い陽、翼。飯にしようぜ~」
 何時ものようにめいめいにグループに分かれていくクラスメート達。
 その中で翔も何時もの面子に呼び掛ける。
「……」
「陽……大丈夫?」
「えっ? あ。う、うん……」
 だが今日だけは翔も翼も、何処かぎこちない。
 それは言うまでもなく陽(とも)の様子が何時もと違う──何やら考え事をしているよう
で、心此処にあらずといった様子だったからだ。
 反応がなくぼ~っとしている陽に、弁当を片手にした翼が恐る恐るといった感じで近寄り
もう一度呼び掛けてみる。それでやっと陽は我に返ったようだった。周囲の変化をざっと見
遣って数秒。彼は苦笑いを浮かべると、そそくさと殆ど白紙なノートや教科書をしまい込み
席の横に引っ掛けた鞄の中を弄り始める。
「……?」
 だが様子がおかしい。
 陽は何故か頭に疑問符を浮かべて、二度三度と鞄の中を弄り直し、覗き込んでいる。
「どうかしたの?」
「……お弁当が見当たらないんだ。入れてくるのを忘れてたみたい」
 傍らを通り過ぎる足を止めた翼に、陽はそう答えて苦笑いを浮かべていた。
 力ない苦笑。普段なら此処で軽口の一つでも叩いていたかもしれないが、今回はばかりは
そうもいかなかった。翼は代わりに乾いた曖昧な笑いを漏らす。
「はは、うっかりさんだねぇ」
「真崎君にしては珍しいね。どうする? 皆におかず分けて貰う?」
「いや……そこまでは。購買で何か買ってくるよ」
「なら急いだ方がいいぜ? 昼飯時は混むからなぁ」
 だがそんなぎこちなさも、集まって来た紗江と都によって幾らか和らいだような気がした
のは救いだったのかもしれない。陽は苦笑いの表情をフッと解いて立ち上がった。ポケット
から財布を取り出して所持金を確認する。今日は……菓子パンとお茶くらいでいいだろう。
(……今日は何時もの水上みたいなお昼になりそうだな)
 ふとそんな事を思いつつ、陽はサッと踵を返そうとする。
 ちょうど、そんな時だった。
「…………なぁ。あそこにいるのは、もしかして妃翠さんじゃないか?」
「あん?」「……ぇ?」
 不意にぽつりと憲人がそう面々に呟いていた。
 先程からじっと黙っていたかと思えば、窓際から眼下(陽達のクラス──二年生の教室は
校舎の二階部分に並んでいる)のグラウンドを見つめている。
 間抜けな声で振り返る翔に、返しかけた足を止める陽。
 面々は憲人のその発言に引き寄せられるように窓際に集合すると、彼の視線の先、眼下の
グラウンドにじっと目を凝らしてみる。
「……ホントだ」
 確かに、そこに居たのは妃翠本人だった。
 グラウンドの外周部分、その中ほど。そこで立ち並ぶ木々の下で掃き掃除をしている用務
員と何やら話し込んでいる姿が確認できた。
 何をしに来たんだろう? というより学校の場所って話した事あったけ……?
 大方母にでも聞いたのだろう。陽はぼんやりとそんな思考を過ぎらせつつも、柔らかな表
情でいる彼女の横顔を眺めていた。
「おお? あれってもしかしなくても前に宮座で見かけたお姉さんだよね? 確か真崎ん家
の民宿に泊まっているっていう」
「……でも、あれからだいぶ日が経ってるよね?」
「そ、その、長期滞在なんだよ。以前からあちこちを旅してる人だそうだから」
「ふ~ん。そうなんだ……」
 何処か懐っこく笑顔を零す紗江と、ちょこんと小首を傾げてそう疑問を口にする都。
 陽は慌てて思わずそう繕っていた。少なくとも全くの嘘ではない……と思う。
「……ねぇ、陽。ちょっとマズくない?」
「そうだな。多分本人は別に悪気はないんだろうが、騒ぎになるとちっと……」
「う、うん……」
 そうしていると、ひそひそと小さな声で翼がそう陽に耳打ちをしてくる。その傍にいた翔
も、用務員と話し終わって校舎の方へと歩き始めている妃翠の姿を横目にしながら頷いた。
「……僕、ちょっと行って来るよ」
「ええ」「おう。行って来い」
「……フォローは俺達に任せておけ」
 陽が同じく小声で言って身を返すと、憲人達はそう口々に言って送り出してくれる。
 コクリとそんな友らに頷いて、次の瞬間、陽は小走りで教室を後にしていく。
「──……うーん?」
 一方その頃、当の妃翠は校舎に足を踏み入れていた。
 目の前にはずらりと並んだ軽金属の収納ボックス──靴箱の山。位置的には此処はどうや
ら昇降口であるようだ。
(陽君の教室は何処かしら? 確か珠乃さんは、二年B組だと言っていたけど……)
 辺りを見渡してみる。だがどちらへ向かえばいいのやら。
 先程校庭で見かけた用務員さんに訊いてみたけれど、元々そういう性格なのか若しくは自
分のことを不審者として怪しんでいたのか、返事はぶっきらぼうで要領を得なかった。流石
に自分と陽君の関係などを話してしまうのはマズいだろうと思ってともかくこうして先に進
んでみたものの、中は思った以上に広く、そして似通った風景ばかり。
「……あ、そうだ」
 妃翠は暫し思案顔を浮かべていたが、ふと何かを思い出したように上着のポケットを弄っ
た。取り出したのは一枚の紙切れと携帯電話。紙切れには真崎家からここまでの経路のメモ
が書かれている。
 妃翠は一緒に出てきたそれをもう一度ポケットに押し込むと、少々知識を手繰り寄せるよ
うに若干おぼつかない手付きで携帯電話を操作し、とある人物へとコールし始めた。
『はい、もしもし。……どうしたの、母さん?』
「あ。陽君? よかった、繋がったわね」
『えっ? その声は妃翠……?』
 電話の相手は陽だった。向こうは掛けてきた相手に小さく驚いた声を漏らす。
 無理もない。これは珠乃から借りてきた彼女の携帯電話なのだから。
 妃翠は安堵と共にくすっと笑って、戸惑う陽に話し掛けた。
「あのね、陽君。今日お弁当忘れていったでしょ? それで珠乃さんから預かって今、学校
まで届けに来ているんだけど……」
『ああ……そういう事だったんだ。あ、ありがとう。えっと……今何処にいるの?』
「うーん。多分昇降口、なのかしら? 靴箱がいっぱいあるから」
『昇降口だね? 分かった。今向かっている所だから待っててくれる?』
「ええ。分かったわ」
『あ~……その、くれぐれも下手に動かないでね? 迷うだろうから。そ、それじゃ』
「ええ。また後で」
 そこで通話は途絶えた。妃翠はパタンと携帯電話を閉じてポケットにしまうと、静かに一
息をついてから靴箱の側面にそっと身を寄せて陽を待ち始めた。
 その手に提げられているのは、何時も陽が使っている弁当用の布袋。
(……ここが陽君の通っている学校、か……)
 彼が到着するまでの間、妃翠はちらちらと興味深げに辺りを見渡していた。
 学校──人間の少年少女が教養を修める場所。共同体(コミューン)でいう所の“文部院
教練棟”に当たる施設……。
 知識では知っていたが、こうして実際に建物の中にまで入るのは初めてだった。
 故に建築物としては特に変り種という訳でもないこの校舎も、彼女の目には何処か新鮮に
映る。本来なら子供達の姿も見れたかもしれないが、今はお昼時。おそらくは皆、教室や中
庭、購買或いは食堂などに集まっているのだろう。
 妃翠は一人静かに微笑んでいた。
 それは多分……懐かしさから来る感情なのだろう。自分もかつてコミューンにいた頃は、
若い世代の同胞達を相手に教鞭を執っていたのだから。
 尤もそれも、途中からは研究活動が主になっていってしまっていたのだが。
「……?」
 そうしていると、ふと何者かの視線を感じる。
 思わずその場から身を返して振り向くと、そこには一人の女子生徒が立っており、じっと
こちらを見ていた。
 この年代にしてはやや高めの背丈とスラリとした細身。そしてその前髪が表情を隠し、片
目だけを見せるミドルショートの髪。
 手に提げたビニール袋からは菓子パンらしき包装と小振りのペットボトルが覗いている。
 ということは、購買の帰りなのか。妃翠はぼんやりとそんな事を思ったが、当の意識の大
半はもっと別の感覚の到来に席巻されつつあった。
(……この子、もしかして……?)
「あ、いたいた。妃翠、お待た──って水上?!」
 ちょうどそんな時だった。
 彼女とは別の方向から、小走りで駆け寄ってくる陽の姿。
 陽はこちらの姿を見てそう呼び掛けかけるが、次の瞬間にはこの女子生徒・凪の姿もよう
やく視界に映ったらしく、思わずそんな驚きの声をあげていた。
「……知り合い?」
 すると、そうして固まった陽に凪はついと視線を向けると、短くそう確認するように訊ね
ていた。背中にじわりと冷や汗をかきながら、言葉に詰まる陽。駄目元で妃翠にちらと眼を
やってみるが……何故か彼女もじっと何処か怪訝の眼差しで凪を見ているように見えた。
「さっき彼女の事、妃翠って呼んでいた」
 その沈黙で何を思ったのかは分からなかったが、またしても凪はぽつりと言う。
「それって、この前宮座町の騒ぎで真崎と一緒だった宿の客……」
「あ、うん。そう……だよ」
 そこまで以前の話の内容を覚えられていると下手に否定する事もできやしない。
 陽は苦笑しながらもぎこちなく頷いていた。
 また、さっきの藍川みたいに誤魔化せば何とかなるだろうか……?
「……でも何故ここまで来てる? 客なのに」
「うぇっ……?」
 突っ込む所はそこか。陽が言い出す前に、凪はまたしても先手を取ってきた。
 スッと彼女の眼が細められるように見えた。これはマズい。何だか妙な疑いを持たれてし
まっている……。
「えっとね? その、珠乃さん──女将さんから代わりにお弁当を届けて欲しいって頼まれ
たの。私、結構長くここに滞在しててお世話になっているから、ちょっとぐらいは頼みを聞
かないとと思って」
 だがそこへ妃翠が助け舟を出してくれた。
 それまで見せていた怪訝の様子は何時の間かに消え失せ、視線を向けてきた凪にほんわか
とした微笑で笑い掛けている。
「はい。陽君、どうぞ」
「あ、ありがとう……。助かっ──いや、助かりました」
「ふふっ、どういたしまして。別にそんなに改まらなくてもいいのよ? もう全くの初対面
という訳でもないんだし」
「そう……だね。あ、はは……」
 そして陽は妃翠から弁当の入った布袋を受け取った。
 その際に口調を訂正しようとしたが、彼女はあくまで“親しくなったお客さん”のような
態で振舞ってくれる。これも助け舟の一環か。陽はそんな彼女のフォローに感謝していた。
「……陽君。ところでその子は誰?」
「あぁ、同じクラスの水上。えっと改めて紹介するね、家のお客さんで妃翠……さん」
「宜しくね。え~と……?」
「……水上凪」
「そう、ナギちゃんね? 宜しく」
「……うん」
 その後、妃翠と凪は互いに自己紹介をしていた。どちらかと言うと、やや一方的に妃翠が
凪の名前を訊いていたようにも見えたのだが。
「じゃ、じゃあ僕らはそろそろ行くね? 水上はもうお昼買った? 皆待ってるよ」
「…………。分かった」
 だがあまりこのまま長居して何かボロが出るのが陽は怖かった。
 別に自分達の事がバレても……という気持ちは健在ではあったのだが、何故か彼女達が同
じ場所にいる今の状況がどうにも緊張──という表現が適切なのかも分からなかったが──
したのである。
 心持ち強引に、陽は凪を促してその場を後にしていった。
 特段の抵抗などはしなかったものの、凪は一瞬ちらりと改めて微笑を湛えている妃翠の顔
を見遣っていた。しかしそれも数秒。彼女は相変わらずの感情の薄い表情で踵を返すと、陽
の後をそっと付いて行ってしまう。
「またね~」
 そんな二人の姿が見えなくなるまで、妃翠は笑みを浮かべてひらひらと手を振っていた。
 ややあって再びしんとする昇降口。そこでようやく妃翠は笑みの細めを開き、手を止めて
自身もサッとグラウンドの方へと身を翻す。
 どうやら彼は女の子──ナギちゃんとも上手くやっている、学校生活で喫緊の悩みがある
ようではないらしい。少なくとも、学校では……。
「……」
 グラウンドの外周をゆたりと横切り、行きに話し掛けてみた用務員にも軽く会釈で頭を下
げて校門へ。さて“宿”に帰ろう。帰りもこの珠乃さんに書いてもらったメモを見ながら歩
いていけば戻れるだろう。
 そうほんわりと楽観的に、だが何処か一抹の寂寥感を。
 妃翠がローブ調の上着を翻して校門を出た、ちょうどその位置だった。
「────用事は済んだのか?」
 ふとすぐ背後から聞こえた静かな声。
 振り返ると、校門のコンクリート塀に耀金が背を預けてこちらを見ていた。
「ヨウ、ちゃん……?」
 どうして貴女も此処に?
 思わず心持ち目を丸くして。妃翠は突然の友の登場を見遣る。

 それから数分後、二人は近くの公園に足を運んでいた。
 遠く、妃翠の座っているベンチの向こう側にはブランコや滑り台といった遊具類が点々と
していたが、時間帯が時間帯だけに子供達の姿も見当たらない。
「ほいよ。茶でよかったか?」
「うん。……ヨウちゃんはいいの?」
「ああ……。いいよ、あたしは。飲みなよ」
「そう? じゃあ……いただきます」
 そうしていると、耀金が歩いて来て手にした缶飲料(緑茶)をひょいっと投げてきた。
 妃翠はそれをポンと両手でキャッチすると、傍らで立ったまま何処か妙に素っ気無いよう
な声色で答える彼女をちらりと一抹の疑問符と共に見遣ってからプルタブを開ける。
『どうしてヨウちゃんが此処に?』
『それはこっちの台詞さ。姿を見かけないんで女将に聞いたら、少年の弁当を届けに行った
っていうじゃないか。……どういうつもりだよ』
 校門前で待ち構えていた耀金は少なからぬ不機嫌──いや、心配の情を漏らしていた。
『どういうって……』
『スイ、お前はもうちったぁ危機意識を持ちなよ。あたし達の正体を知った人間がどんな反
応をするのか、お前だって分かってない訳じゃないだろう? それにお前自身、つい最近ま
でハンター連中に狙われていたんだぞ。気を付けた方がいい』
『それはそうだけど……。ヨウちゃんは悲観的よ』
『お前が楽観的に過ぎるんだよ。まぁ、元々の性格も多分にあるんだろうが……』
 ちょっとだけ言い合いになって。
 二人は何処となく気まずくなって、どちらからともなくフッと視線を逸らした。
 学校周辺の生活音が散発的に二人の耳に届いてくる。
『……もしかして、昔の職場が恋しくでもなったのか?』
『それは……無いわけじゃない、かな』
 少々歯切れの悪い返答。校舎を眺めてコミューン時代の自分を思い返していたのは事実だ
った。だが妃翠は、だからといって未だ今のあそこに戻ろうという気にはなれなかった。
『……でも本音は違うのかも。ちょっとでも陽君達のこと、知りたいなって思ってたから。
もしかしなくても、私はもうあの子達といられなくなるかもしれないから……』
 代わりにそう呟く友を、耀金は黙って半眼で見つめていた。
 既にあの夜の一件で特保が帰った後、彼女にも事の顛末は話している。
『そうか……』
 やや長い沈黙の後、耀金はそれだけを短く言った。
 ポケットに両手を突っ込んだまま、バサリとコートを翻して背を預けていたコンクリート
塀から身体を起こす。
『とりあえず、場所を移すか。……色々積もる話もあるだろうしな』
 ──そうしてこの小さな公園に場所を移して数分。
 妃翠と耀金はまだお互いに妙な気まずさの中に佇んでいた。
 ちびちびと缶の緑茶に口をつけているベンチの妃翠の傍らで、耀金はコートのポケットに
両手を突っ込んだまま静かに目を瞑って立っている。
 そこからまた、たっぷりと数分の沈黙の後。
「……なぁ。スイ」
 その沈黙を先に破ったのは耀金の方だった。
「お前は、どうしたいんだ?」
「…………それは、この前の特保の件?」
「ああ。他に何があるってんだよ」
 一度横目を遣ってくる友に顔を向けて、妃翠は困ったような表情で俯き加減になった。
 それは単に困惑というよりは、複数の気持ちや理屈がせめぎ合っているような逡巡という
表現に近かった。もじもじと、両手で持ったお茶の缶を何度も握り直しながら妃翠はゆっく
りと自分の中で整理するように紡ぎだす。
「私は……残りたい。私の事を“家族”だって言ってくれた珠乃さん達の傍にいたい。恩返
しをしたい。だけど……今回ばかりはもうそんな“我が侭”は通じないだろうし……」
「我が侭、ねえ」
 そんな友の言葉を、耀金は軽く空を仰ぎながら呟くように反復していた。
 しかして浮かべる表情は──苦笑。嘲笑ではなく、苦笑の類だった。
「自覚はあるのな。今のコミューン……政府(れんちゅう)の軍門には下りたくない。でも
あたしと来るのも何か嫌だ、と」
「うぅ……」
「別に責めちゃいねぇって。むしろあっさり特保の脅しに屈する気でいたのなら、あたしは
一発引っ叩いてた所だ」
 妃翠はばつの悪い表情で、少々恨みがましく耀金を見た。
 だがそんな友の様子すら愛しいように、彼女はフッと笑いながら応えていた。
 怒ってはいないらしい。それを妃翠もすぐに察したようで、自身の不平不満な表情も次の
瞬間にはそっとしまい込まれる。
「残りたいなら残ればいい。それが奴らへの、あたしの誘いへの答えなんだろ?」
「……いいの? もしかしなくても、ヨウちゃんはこういう事になるかもしれないと思った
から私を連れて行こうと星峰に来たんじゃ……?」
「まぁな。あ~……勘違いするなよ? 確かに誘いを断わられたのは正直ガックシだけど、
かといって連中に連れて行かれるなんてのはもっと癪だってだけの話さ」
「……そっか」
 言われて妃翠もまたフッと俯き加減で苦笑交じりの笑みを零した。
 くいと再びお茶を一口。改めて喉を潤し直す。
「……あたしがスイの味方だって事は変わらないよ。まだ期限とやらまで日はある。それま
でに何とかしなくちゃな。あたしも、最大限の助力は惜しまないつもりだよ」
「ありがとう……。でもお願いだから殴り込みに行く……なんて真似はやめてね?」
「ふっ、りょーかい。まぁ何にせよ自分の意思はちゃんと女将達に伝えるべきだと思うね。
具体的にどうするのかも、そこからのスタートだ」
「うん……」
 ほんのりと、胸の奥に温かい熱が宿るのを妃翠は感じていた。
 ヨウちゃんが居てくれてよかった……。彼女の誘いを断った後は正直気まずさを抱えてい
たのだが、それでも彼女は自分の友として寄り添ってくれる。これほど、心強い事はない。
 そうだよね? 自分の為にも、陽君達の為にも自分の思いはちゃんと伝えなくては。
 だけど、でもその前に──。
「……ヨウちゃん」
「うん?」
 暫しやや俯き加減で遠くを見遣っていた妃翠だったが、ふと何かを決断したかのように顔
を上げると、傍らの耀金に向かって静かに呼び掛ける。
「協力、してくれるのよね?」
「? ああ。できる事ならやるさ。……何か妙案でも思いついたのか?」
「う~ん、それとはちょっと違うんだけど……」
 もう一度、友の言ってくれた言葉を確認するように切り出して。
 何だと顔を向けてくる彼女に、妃翠は言ったのだった。
「あのね、ヨウちゃん。ちょっと調べて欲しい事があるの」


「────……んぅ?」
 温かく懐かしい記憶の風景がぐわんと揺らぎ、意識が現実に引き戻される。
 珠乃はカクンと崩れ落ちそうになった身体を思わず支えてからぱちくりと目を瞬くと、自
分が何時の間にか転寝をしてしまっていたのだと気付いた。
「あらやだ。私ったら……」
 そこは和室。そして今は亡き夫の仏壇が置かれた部屋。
 珠乃は一人しんとしたその室内に座っていた。
 つぅっとひとりでに零れかけた涙。内心その現象に驚きながらもそっと和服の袖で拭い、
彼女は静かに一息をついて正面を見遣った。
(星君……)
 仏壇の中、遺影の写真。その中で夫は今も優しい笑顔で笑い掛けてくれている。
 確かこの写真は美月が生まれた時に皆で撮った写真を拡大したものだったか。あの頃は幸
せだった。勿論、今も陽を──そして最近では妃翠ちゃんや耀金ちゃんも加わって賑やかに
なり、別の形での優しい時間を感じている。
 だけど、貴方はもういない。こうして写真や記憶の中の貴方と向き合うしかもう……。
「……いけない。私ったら……」
 そこまで込み上げて来た感情を、珠乃は蓋をするように押し込めて静かにふるふると首を
横に振った。
 もう感傷的になってばかりじゃいられないのに。
 忘れてしまう訳ではない。だけど、私達は前に進まなければ。彼が望んだように、言い遺
してくれたように“彼女達を恨むことなく”貴方の分まで慎ましやかに、皆で幸せに暮らす
のだと決めたのだから。
 この「民宿・まさき」だってそんな貴方の抱いていた夢なのよ? だから安らかに──。
「……そろそろ、宿の方に戻らなきゃね」
 フッと、珠乃は静かに己を哂った。
 昔の記憶が夢に出て来たからだろうか。今日はあまり此処に居過ぎると自分が保てなくな
りそうな気がする……。そう思い、彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟くとそっとその
場から立ち上がり部屋を出ようとした。
「あ、母さん」
「あ……。珠乃さん」
 すると襖を開けた所で、向こう側の廊下から美月と妃翠が一緒に歩いてくるのが見えた。
 何時もの家の中でのラフな動き易い服とは違った、黒や灰色を中心とした余所行きの美月
のその服装。珠乃は近付いて来た二人を暫し見つめてから言った。
「あら、二人して何処かに出かけるの?」
「……うん。まぁね」
「そう。気を付けてね」
「分かってる……」「じゃ、じゃあ行って来ます」
 少しぎこちないような二人の返答。だが珠乃は特に気に留めるような素振りもなくそう言
って送り出していた。一瞬探るような細めた目で見てくる美月、静かな微笑で軽く頭を下げ
ながら通り過ぎていく妃翠。
「…………。さて、私も宿の方に戻らないと……」
 そんな二人の後ろ姿を暫し見送ってからポンと手を合わせつつ、珠乃はいそいそと踵を返
して廊下の奥へと消えていく。

『一体どうするつもりなの、陽?』
 それは特保が一時退却をしていって暫くしてからだった。
 混乱と動揺からようやく落ち着きを取り戻し、めいめいに部屋などに戻っていく陽達。
 その陽を、二階の階段へ上る寸前で美月が留めたのだ。
『どうするって……』
 それは言うまでもなく、門倉達に対する返事についてだった。
 陽は思わず視線を逸らして言葉を詰まらせる。……僕だってどうすればいいのか、整理が
ついていないのに。どう答えればいいのさ? そんな事を内心で思いながら黙っていた弟に
美月は強い瞳の眼差しと声色で続けた。
『これはあんたと妃翠さんの問題よ。他でもあんた達が決めなきゃいけない事なの』
『姉、さん……?』
 思わず顔を向け直して目を見開く。
 てっきり姉はさっさと妃翠を特保に渡してしまえとでも言うのかと思っていたからだ。な
のに彼女はまだ自分達に決定権を委ねてくれてるらしい。正直、意外だった。
『……そりゃ、特保──国の権力が乗り込んできた訳だから、もうあんたの“お人好し”だ
けで事を片付けるのは難しいでしょうね。このまま曖昧な返事をしても……真正面から断っ
ても、向こうには代執行の許可書がある。結局は連れて行かれるのがオチね』
『うぅ……。じゃあどうしたら……?』
『単純な事よ。向こうが法的手段をちらつかせて来るなら、こっちもそれに対抗できる方法
を採るだけ。実力行使なんてすれば向こうの思う壺だからね』
『……その方法って?』
『あんたはそこまで気にしなくていいのよ。法律なら私だって専門よ? 策の一つや二つ位
なんとか探してみせるわよ』
『う、うん……』
 陽は姉の意図がいまいち掴み切れないでいた。
 目の前の姉は自分の、妃翠の味方なのか? でも彼女はルーメル嫌いな筈なのに……。
『でも……。どうして……そこまで?』
『……。大した理由じゃないわ。私は政府を信用していないだけ。その使いに家へ土足で上
がり込まれるのが嫌なだけよ』
 ついっと、わざとらしく視線を逸らして美月は言っていた。
 だがその返答でも、陽の頭の上にはむしろより多くの疑問符が付き纏う。
(信用してないって……。でも姉さんって確か“官僚志望”だった筈だけど……)
『…………困ってる弟を助けるのに理由なんて要らないでしょうに』
『え?』
『なっ、何でもない!』
 姉が何か呟いたような気がしたが、次の瞬間には既に彼女は身を起こしてその場を離れよ
うとしていた。
『……ともかく冷静にね。流石に母さんや当の妃翠さんは動揺しているだろうから、今夜の
所はそっとしておいた方が賢明だろうけど……』
『う、うん。そうだね……』
 いまいち流れについていけず目を瞬き頷く陽に、美月は去り際に言い残す。
『ともかく大事なのはあんた達がどうしたいのかって事よ。……しっかり、考えなさい』

「──そう言われてもなぁ……」
 そうして思い起こした数日前の記憶。
 その記憶の中でそう言い残した姉に弱く反論するように、陽はボフンッと自室のベットの
上に倒れ込んだ。
 仰向けの視界に映る部屋の天井。夕焼けの色にほんのりと染まる木目模様。
 だがどれだけそれを睨んでみた所で、何か妙案が返答される訳でもない。
(はぁ。どうすればいいんだよ……)
 陽は思わず力無いため息をついていた。
 今日で特保の一件から三日が経とうとしている。あれから頭の中はその事──国家権力に
歯向かってでも、妃翠を自分達の家に留めるべきなのかという自問自答で一杯だった。
 いや……自分の「想い」ははっきりしている。曖昧だったが、今なら分かる。
 母は妃翠を“家族”だと言った。きっと、自分もそんな気持ちでいるのだろう。だからた
とえ特保に委ねた方が安全ではあると理屈では分かってはいても、彼女を易々と放り出す気
にはなれなかったのだ。
 でも……と思う。
 それは“個人のお節介”である事に変わりは無いのではないか? そんな論拠だけで特保
という権力を跳ね除ける事ができるとは考え難いのだが……。
(でも姉さんは僕と妃翠で決めろって言うし……。真面目な姉さんのことだから、別にこの
期に及んで責任を丸投げしてきているなんて事はないと思うけど……)
 やはり妃翠と思い切って話し合うべきなのだろう。
 しかしここ数日の間、陽はそれすら中々できなかった。
 正直を言えば……怖いのだ。もし彼女が──自分達に危害が及ぶのを懸念して──自ら特
保に連行される事をよしと表明してきたら、自分は……送り出さなければいけなくなる。
 それに妃翠自身も今回の件は自分で背負い込んでいるような印象がある。おそらくこの様
な思考を巡らせている可能性は高いだろう。……お互いに、妙な遠慮や気まずさがあった。
「うぅ~ん……」
 ゴロゴロとベッドの上を転がりながら陽は唸る。
 そんな事で気持ちの整理──特保の方が安全だという理屈と、それをしたくない感情との
せめぎ合い──にけりが付く訳では無かったが、陽はじっとしてはいられなかった。
「ぅ~……んん?」
 ちょうど、そんな時だった。
 不意に零れるように聞こえてきた着信音。陽はもぞもぞと身を起こし、枕元に投げ置いて
いた鞄の中からバイブレーションとランプの点滅を続ける自身の携帯電話を取り出すと、そ
のディスプレイを確認する。
(……憲人?)
 そこには確かに藤丸憲人との表示。
 翔は割合他愛もない会話でも電話してくる事はあったが、彼が自分からこうして連絡して
くる事は珍しい方だった。陽は若干の怪訝を覚えながらもその着信に応じていた。
「もしもし。……憲人?」
『ああ。俺だ』
 電話の向こうでは冷静──いや、何となく何時も以上に存在感のある感を漂わせながら憲
人が待ち構えていた。
「どうしたの? いつもならメールで用件を済ませてるのに」
『それはこちらの台詞だ。……陽、お前一体何があった?』
 そう静かに言われて、陽の胸の鼓動は思わずドキリと速くなっていた。
 心配されていた? 確かに自分でもここ数日はぼ~っとしていた自覚はあったが。それで
も彼に勘付かれているという事は……おそらく翔や翼にも? そう思うと、陽は驚きよりも
申し訳なさが強くなっていくように思えた。
「それは……」
『話してみろ。大方、妃翠さん関係なんだろう?』
 更に彼には既にそこまで推測をされてしまっているようだった。
 別に隠すつもりがあった訳ではない。でも、流石に今回は相手が大き過ぎる……。
「…………うん。実は──」
 それでも陽は次の瞬間には、ゆっくりとだが彼に今回の事の経緯を話し始めていた。
 心配してくれて嬉しかったのかもしれない。或いはぶっきらぼうな口調ながらも自分を受
け入れてくれる彼に、思わず抱えていた想いが零れていったからなのかもしれない。
『……なるほど。やはり特保が動いてきたか……』
 そうして暫く陽の話を聞いていた憲人は、その友の言葉が止むと、たっぷりと間を空けて
からそう静かに呟いていた。
「憲人は、こうなるって分かってたの?」
『多少はな。この前の一件は地元紙にも載った。特保が把握していなかった筈は無いだろう
からな。……それにしても、連中は随分と強引な態度だったようだな。いきなり乗り込んで
実質の最後通牒とは……。政府は俺が思っていた以上にルーメルの囲い込みに躍起らしい』
「うん……」
 それはやはり紋女狩り(ハンター)達の存在が大きいのだろうか?
 恨み辛みで敵意を向けてくる彼らに、国益として囲い込もうとしてくる特保。
 そんな両者に妃翠達が狙われているのかと思うと、陽はきゅうっと胸の奥が痛くなった。
「……ねぇ、憲人。僕は一体どうしたらいいのかな……?」
 陽は力なくそう電話の向こうの友に尋ねていた。いや、助けを求めていた。
 だが憲人は即答はしなかった。たっぷりと数十秒、何かをじっと整えるかのように電話の
向こうで沈黙を続ける。
『……お前はどうしたいんだ?』
「えっ……?」
 そして彼が次に放った言葉はそれだった。
 呆気に取られたように、陽は若干の間を経てそんな言葉にならない声を漏らす。
 彼の事だからてっきりもっと“理性的”な回答をしてくるものと思っていたのに……。
『どうしたいんだ?』
「え? あ、うん……」
 もう一度憲人は問うてくる。
 勿論だが彼はふざけてなどいない。陽は内心戸惑いを引き摺りつつも、コクコクと頷いて
その質問──自分の「想い」を答えた。
「僕は……ううん、僕らは妃翠と別れたくない。だってもう僕らは“家族”だから。確かに
特保に任せた方がハンターに狙われる可能性も低くなって安全かもしれない。血の遭遇の遺
族とルーメルが一緒にいるなんておかしいって思われるかもしれない。……でもそんなの関
係ない。妃翠が悪い訳じゃないんだ。もし妃翠がそれでも気に病んでいるなら、僕らが傍に
居て支えてあげたい。僕らが慰めても救いになるかは分からないけど……それでも」
『……』
 ぽつぽつと、だが徐々に勢いよく溢れるように陽は言葉を紡いでいた。
 その一滴一滴を漏らすことなく、憲人はじっと耳を傾けているように思えた。
「僕はもう、誰も悲しませたくないんだ……」
 身体が震える。視界が濡れたようにぼやける。
 陽は半ば無意識に袖で目元を拭い、電話越しに憲人に訴え掛けていた。
 それで何か変わる訳でもないのに。だけどもうこの感情は止められなかった。
『……よく言った。ならそうすればいい』
「うっ……?」
 ぽつりと、憲人は言った。何処か優しい声色だった。
 ぐずっと涙声になった自分を宥めながら陽は目を瞬かせる。憲人は電話の向こうで静かに
深く息を整えると続ける。
『俺も美月さんの意見に賛成だ。たとえ相手が国家権力の一端であろうと何であろうと、相
手にどう相対するのか、その軸が自身に定まっていない者に物事を成し遂げられるとは思わ
ない。今話した事を臆せず皆に示せばいい。きっとその意思に向かって皆は動く。……お前
は一人なんかじゃない。お前の心が願うままに振る舞え。……お前には、その資格がある』
 陽は暫くポカンと電話を耳元に押し当てて、ベットの上に座っていた。
 だが次の瞬間、陽から漏れたのは──笑い声。
『む? どうした……?』
「あ、ううん……。いやね、憲人も同じ事を言うんだなぁって。前に翔にも言われたんだ。
“自分にとって大事なことくらいは、自分のハートで決めなきゃ後悔するぜ?”って……」
『…………そうか』
 電話の向こうの憲人は、照れているのか少し遠い声になっていた。
 潤んだ瞳が悲しみから喜びの色合いに変わっていくのを感じた。陽は「うん」と頷き、
「……ありがとうね、憲人。何だかスッキリしたよ。今夜にでも……皆に話すことにする」
『……そうだな。それがいい』
 心の中の曇りを拭った後の晴れた笑顔で、この寡黙だが頼れる友に礼を述べていた。
『念の為、俺達も対処できるように特保関係の法令などを調べておこう。尤も美月さんがい
るのだからあまり出る幕はないかもしれないが』
「ううん、そんな事ないよ。……ありがとう」
 そしてもう一度。陽は微笑んだ。
 その表情は見えない筈だったが、電話の向こうの憲人はやはり照れているようだった。
「──……ん?」
 陽がふと小さな怪訝の声を漏らしたのは、ちょうどそんな時だった。
『……どうかしたか?』
「あ、ううん。何だか姉さんが出掛けるみたいだね。……妃翠と一緒に」
『妃翠さんと? それは珍しい組み合わせだな』
「そうだね。何処に行くんだろう……?」
 ふと陽が窓の外に視線を向けた時、階下の外には余所行きの服に着替えた美月と妃翠が一
緒に並んで家を出て行く姿が確認できていた。
 その様子を見遣りながら呟く陽に、電話の向こうの憲人は若干驚いているようだった。
 確かにルーメル嫌いと、そのルーメル当人が行動を共にしているのだ。妙な組み合わせで
はある。しかし陽の目には既にその先の事が映っていた。
 美月が手にぶら提げているのは……空の水桶。そしてその中に放り込まれている、ビニー
ル袋に入った何かの小物が諸々。
(……ああ。そっか)
 すると陽はそこで思い出したように、
(今日は、父さんの月命日だったっけ……)
 ちらりと室内のカレンダーへと目を遣ったのだった。


 二人して住宅街の中を歩いてゆく。
 途中で花屋に立ち寄り、献花用の花束を買ってから、美月と妃翠は心なしか神妙な様子で
星峰山方面へと歩を進めていた。

『──星太郎さんの、月命日……?』
 何やら余所行きな服装で部屋から出てきた美月に妃翠が問い掛けてみると、返って来たの
は父の月命日である今日、これから墓参りに行くという淡々とした声色だった。
『ご、ごめんなさい。そうとは知らずに不躾に……』
『別にいいですよ。毎月墓参りをしてるのって自分くらいですし』
『……珠乃さんや陽君は違うんですか?』
『ええ。二人とも毎月って程じゃないです。命日や季節毎には一緒に行ってますけどね。そ
れに、特に母さんには重荷過ぎますから。……毎月否応なく父さんが死んだって現実を突き
つけられるようなものですし』
『美月さん……』
 だから自分が代わりに、自分の意思でこうして毎月父の墓前に参っているのだと美月は言
った。妃翠は静かな苦笑の中で思った。……やっぱり彼女は本当は優しい子なんだなと。誰
よりも家族を大切にしている。そしてだからこそ、ルーメル(じぶんたち)に対する複雑な
感情も中々消えてはくれないのだろう……。そう思えた。
『……あの、美月さん』
 そして少し考え込んでから、妃翠はその場を立ち去ろうとする美月の背中に呼び掛けてい
た。肩越しに振り返り、小さな怪訝でこちらを見てくる彼女。そんな彼女に妃翠は、
『その、よろしければ私もご一緒していいですか? 私も……ちゃんとした形で星太郎さん
に手を合わせたいんです』
 そう静かに懇願していた。
 反応自体は無言だったものの、美月は明らかに驚いたように目を丸くしていた。そしてじ
っと目を凝らすようにして、暫く返答を待っている妃翠の顔を窺う。
『……分かりました。じゃあ付いて来て下さい』
 やがてその何処か驚きを残した仏頂面のままで。
『そんな事言われて、断われる訳……ないじゃないですか』
 ふいっと再び前を向いて歩き始めながら、美月はぽつりと呟く。
 
 ──星太郎の眠る墓地は、住宅街から少し離れた山際に位置していた。
 住宅地に相応な平たく広がる土地、その路上。だがそれも何度か細道に入り、星峰山の姿
が徐々に大きく聳えるように映るになるにつれて緩い上り勾配が目立つようになった。
 少しずつ住宅地が眼下へと沈んでいくような感覚に包まれる。
 そして、そうして草木の増えてきた道をどれだけ進んだ頃だったろうか。
「着きましたよ」
 道行く二人の視線の先に、ふと質素だが趣のある大きな囲われた敷地が姿を現した。
 頑丈な木材でできた山門。その傍らには太めの達筆さで『星徳寺』と書かれた看板が打ち
付けてあるのが見える。
 思わず仰ぐように寺を見上げている、花束を抱えた妃翠。美月はそんな彼女に静かに言っ
て促すと、手に提げた水桶をカラカラと揺らしながら山門を跨いで中へと入っていく。
 墓地は寺本体の敷地から併設されたようになっていた。
 境内から延びる横道を通り、腰の高さほどの竹の小さな柵を開けると、そこには視界一杯
の墓石が立ち並んでいる。元々広いらしい寺の敷地に併設されたのか、或いは年月に応じて
拡張していったのか。そこまでは分からなかったがかなり規模は大きいようだ。
「……随分と広いんですね」
「そうですね。星峰の人間の大半はこの寺がカバーしているのもあるんでしょうけど」
 美月曰く、この街の少なからぬ家がこの星徳寺を菩提寺としているのだそうだ。
 血の遭遇以降、政府機関の進出もあって今ではだいぶ開けている星峰の街も、元々は一介
の山間の地方都市に過ぎない。そういう意味では土着の信仰が強いというのも頷ける。
 星太郎の墓は、そんな一角に佇んでいた。
 今日以外にも美月を始め家族が丁寧に参っているのだろう。あの日から十六年の歳月が経
過しているのにも拘わらず、墓石は手入れが行き届いているように見えた。
「じゃ、先ずは周りの掃除からね」
「は、はい……」
 そして妃翠は、見よう見まねで美月の墓参りを手伝い始めた。
 一ヶ月で生えた雑草や紛れ込んだゴミを取り除き、持ってきたゴミ袋の中に捨てていく。
それが済めば入口脇の湧き水から水桶にたっぷりを水を張り、古布を持ち出して、二人して
丁寧に墓石を洗う作業へ。
 湿った墓石は静かにつやめいていた。刻まれた真崎家の文字に水がそっと染み入る。
 買って来た花と袋詰めされたお菓子のセット(美月曰く、星太郎は甘い物が大好きだった
そうだ)を供え、線香を立てる。音もなく点る火の粒から香が昇り、嗅覚を刺激される。
『…………』
 携行型の鈴をチンと鳴らし、やがて二人はそっと亡き彼に手を合わせた。
 余韻を残して消えてゆく鈴の音と漂う線香の香り。辺りに他の人の姿は見受けられなかっ
た。少し寒気さえする空気。妃翠は跪き、父の墓前で祈る美月の傍らで、同じく静かに手を
合わせていた。
(星太郎さん──陽君と美月さんのお父さん。そして珠乃さんが愛した人の墓……)
 真崎家の遺影でしか見た事はない彼の姿。
 だが妃翠はこうしてその墓前で手を合わせる今、不思議と彼らの輪を見つめているかのよ
うな心地を覚える。珠乃さんが自分を“家族”だと言ってくれたからなのだろうか。
 しかし……と一方で思う。
 それでもやはり自分はルーメル──人間ではないのだなという感慨も付き纏ってくる。
 この場所にある全てがそうだという訳ではないだろう。だが、妃翠は自分を取り囲むよう
に立ち並ぶ墓石全てが、あの日の犠牲者の魂の証として自分という存在をじっと無言で見つ
めているかのように思えていた。
 僥倖のように得られた赦し──安息と、同時に消えぬ罪の思いと。
 こうして彼の墓前に手を合わせる事で贖罪となるかは分からなかった。それでも妃翠はそ
うしようと、そうしたいと願った。あの方と同じ“共存の未来”を信じつつも散っていた彼
の無念を思い、そしてその遺志を少しでも引き受けられたら……そんな思いを抱きながら。
「…………ふぅ。さて、じゃあそろそろ戻りますか?」
「あ、はい。そうですね……」
 そうしてどれだけ祈りの沈黙の中に自分を沈めていたのだろう。
 やがて美月がそっと目を開き、言いながら立ち上がった。妃翠もその声に感慨の海から引
き戻され、ふっと顔を上げてコクリと頷く。
 鈴と供えておいた菓子の袋をビニール袋の中に戻して、空の水桶を提げる美月。
「……あれは」
「? どうかしましたか?」
 そして同じく立ち上がった妃翠が何となく視線を彼女の方に移した時だった。
「あ、ええ。あそこに何か在るみたいですけど……」
 妃翠の視界に映ったもの。それは茜色の空を背景にして立つ何かしらの建立物だった。
 ちょうど位置的に西日になっているのと、敷地の奥にあるらしい距離感で一見判別できな
かったが、どうやら大きな石柱……のようだ。
「ああ、あれですか。慰霊碑ですよ。血の遭遇の犠牲者を弔うための」
「慰霊碑……」
 二人はどちらからともなくその石柱──もとい慰霊碑の下に歩み寄っていった。
 墓地の奥まった場所にぽつんと立てられた濃い灰色の石碑。高さは二メートル弱といった
所だろうか。近くで見れば石柱も全体的に若干丸みを帯びているのが分かる。
 そしてその表面には、
『我々はあの日を忘れない。だがそれは憎しみの出発点ではなく、認め合える未来の為の出
発として我々は刻みたいと思う。願わくば、全ての魂に安息を──』
 といった文言の碑文と、十六年前の“血の遭遇”の発生日時が刻まれていた。
「五、六年くらい前ですかね。良善(りょうぜん)さんと有志の人達の呼び掛けでこの慰霊
碑を作ろうって話になったんです。ちょうど十年目っていう節目でもありましたから。でも
あの時も──いや、今でも慰霊碑を作る事に反対する声は結構強かったみたいです」
「え? どうして……」
「……簡単な事ですよ。良善さん達は“人間もルーメルも区別しない”で犠牲者全ての魂を
慰めようと考えていたんです。その方針に、色々反発があったみたいで……」
「…………」
 慰霊碑を見上げる美月の背中を見遣りながら、妃翠は続ける言葉が出なかった。
 彼女は淡々とそう語っていたが、その意見の対立は決して激しくないわけはなかった筈。
 やはり遺族感情は根強いのだろうか……。黙したまま、妃翠は自身が責められたような、
何処か物寂しく辛い感情がざわめき立つのを覚える。
「まぁ、最終的には良善さんが皆に頭を下げて押し切った形になったみたいですけど。でも
まぁ……見ての通り今じゃあもう此処に足を運ぶ人は殆どいないんですよね。特に遺族から
すればこう“合祀”されているのはやっぱり気に食わない……みたいな所があるのかも」
「……。美月、さん……」
 背を向けたまま自嘲気味に呟く美月に、妃翠は掛ける言葉を見つけられなかった。
 確かに慰霊碑の周りはあまり人の踏み入った気配はないように思える。寺の関係者か誰か
が時折草むしりや掃除などをしてはいるらしい痕跡はあるのだが、先程の墓地スペースに比
べれば明らかに放置されている状態が窺える。
 所詮、理想は現実には勝てないのものなのだろうか……?
「おや? これはまた珍しい組み合わせだね」
 ちょうどそんな時だった。
 土を踏む音と同時に背後から聞こえてきた穏やかな声。
 二人が振り返るとそこには、ゆたりとこちらへ近付いて来る、僧衣を纏った一人の中年男
性の姿があった。
「貴方は……?」
「ああ、この人がさっき言っていた良善さんですよ。この寺の住職の」
「あ、この方が……」
「ええ。始めまして、だね? 私が星徳寺住職・藤丸良善です」
 美月の補足を受けて、そうこの僧衣の男性──良善和尚は名乗った。
 こちらこそ始めましてとコクリと頭を下げる妃翠。そんな彼女は、彼は文字通り仏のよう
に穏やかに優しい眼差しで見遣っている。
「藤、丸? あの、もしかして貴方は憲人君の……」
「……? という事は、君は息子の知り合いなのかい? ふむ……。しかし息子にルーメル
の知り合いがいるとは聞いた覚えがないが……」
 するとその苗字に一抹の引っ掛かりを覚えた妃翠の驚きを別方向に増幅するように、良善
和尚はごくごく自然にそう──妃翠がルーメルである事を前提にして呟いていた。
「えっ……?」
 思わず驚き目を見開く妃翠と、周りに他の人間がいないかを警戒し始める美月。
 だが、良善和尚本人はそうした反応に特段不機嫌になる訳でもなく、変わらず穏やかに微
笑を湛えていた。
「ふふ。そんなに驚かなくてもいい。私の家系は代々この地で僧職を務めていてね。その影
響なのか、私や息子を含めた一族の中には霊感……というのかな、そういった他人(ひと)
には分からないものを感じ取れる者がいるんだ。詳しい原理までは知らないが、君達のいう
霊素(エーテル)というものが我々のそうした感覚に引っ掛かるのだろうね」
「そう、なんですか……」
 言われて妃翠は、少々戸惑いを残しながらも一応の納得をみせた。
 美月も周りに他の人間がいないのを確認してホッと静かに安堵の息をついている。
 良善和尚はそんな彼女が手に提げる水桶を一瞥すると、言った。
「……あぁ、そうか。今日は星太郎君の月命日だったね」
「ええ……」
 普段から月命日には参っている故に事情はよく知っているのだろう。二人はそれだけの言
葉で充分であるらしかった。
 夕暮れの墓地にサワッと風が吹き抜けて行った。
 妃翠達以外、目立った人気のない周囲。良善和尚はふと目の前の慰霊碑を見上げると。し
みじみとした様子で呟く。
「歳月の経過とは早いものだね。あれからもう十六年か……」
 それは懐かしさか。いや、或いは変わらぬ人々の憎しみに対する嘆きなのか。
「……でも待ち続けてよかった。まさか君がルーメルと一緒に此処に来る日が訪れるとは」
 だが彼は敢えてそんな陰鬱な感情を押し殺すように、笑ってみせているようにも見えた。
「それ、は……」
 美月は何と返答すべきか、言葉に窮するようにしてつい彼から視線を背けていた。
 しかしそれでも、彼は静かに微笑みを崩さない。
「……たとえ一握りの者でもいい。特に君達“遺族”が少しでも憎しみの渦から抜け出して
くれるなら、これほど嬉しい事はない。確かに人間とルーメルでは外見や性質、能力(ちか
ら)などは違っているかもしれない。だがそれでも魂そのものには貴賎も何も無いのだと私
は信じている。……それに、憎しみだけでは君達自身も、周りの皆も誰一人幸せになる事は
ないのだからね」
「……。私は……」
 それは説法などではなかったとしても。
 彼の言葉はスッと相手の胸の奥へと染み込んでいくような柔らかさがあった。
 言葉に窮し、俯き加減でぶつぶつと言葉を濁す美月。そんな彼女を、妃翠は何とも言えぬ
神妙で複雑な面持ちを以って見遣るしかない。
「ここにいたか。親父」
 そんな沈黙がどれだけ続いた頃だっただろう。
 神妙な空気を破ったのは、新たにこの場に足を踏み入れて来た第三者──こざっぱりとし
た私服姿に身を包んだ憲人だった。
「……電話だ。山之辺の御隠居から」
「おお、そうか。分かった。すぐ戻るよ」
 淡々とした生真面目な表情。そこからはあまり彼自身の感情を読み取る事はできない。
 憲人は一度美月と妃翠をざっと見遣るだけ見遣ると、そう父・良善に用件を伝えてくる。
「それじゃあ、私はこれで失礼するよ。暫くしたら日も暮れる。あまり暗くならない内に帰
りなさい。……今の世の中は、物騒だからね」
 息子の無言の促しに応じるように、やがて良善和尚は僧衣を翻した。
 何処か、悲しげに笑いながら。
 茜色の光が強くなって来た敷地にちらと目を遣ってから少し間を置きつつそう言い、彼は
静かにその場を後にする。
 憲人も、そうして立ち去っていく父の後を、もう一度二人を無言で一瞥してから小さく頭
を下げて会釈をしつつ、追うようにして姿を消していく。
『…………』
 そうして、妃翠と美月は慰霊碑の下で再び二人きりになった。
 俯き加減に前髪で表情を隠して、じっと沈黙している美月。そんな彼女の横顔に、妃翠は
何と声を掛けていいかも思いつかずただ不安げな表情で見守るしかない。
「私、は……」
「……?」
 そして更に暫しお互いに沈黙していると、
「私は……まだ許せていないのに」
 美月は妃翠に言う様子でもなく、そう力無く呟いた。
「許しちゃ、いけないのに。何もできずに許したら……私は父さんを無駄死にさせちゃう」
(え……?)
 その呟きに妃翠は一抹の怪訝を──いや、違和感を覚えた。
 許せないのではなく、許してはいけない……。それは剥き出しの感情というよりはある種
の“義務感”に近い位置にある表現ではないかと思えた。
 家族を大切に思うが故の? いや、だとすれば後半の言葉を何と解釈すればいいのか。
「美月さん……。貴女は一体……?」
「……」
 だから妃翠は静かに訊ねていた。
 ゆっくりと美月は心持ち顔を上げると、じっと妃翠を見つめてきた。いつもの強気な態度
からは想像できないような、脆く弱ったかの雰囲気。ゴクリと息を、それまで自分を抑えて
いた感情の栓を抜き除くように、
「分からないんですよ……」
 彼女は訥々と自分の思い語り始めていく。
「ルーメルは父さんを殺した相手です。なのに……どうして妃翠さんはそんなに優しいんで
すか? 妃翠さんが来てから家は……母さんも陽も、笑顔が多くなりました……。おかしい
ですよ。だって、貴女は私達の“仇”の筈でしょう……?」
「……それは」
「なのに、貴女は私達の事を気遣ってばかりで……。優し過ぎです……真っ正直に憎めない
じゃないですか。紋女(あなたたち)は父さんの命を奪った“仇”で、政府は父さんの最期
を隠し続けている“敵”で……。そうしなきゃ、いけないのに……」
 妃翠は思わずハッとしていた。
 彼女の憎しみは──少なくとも今日の憎しみはもっと具体的なのだと。ただ彼女は……。
「もしかして……。さっき何もできないと言っていたのは、貴女達が星太郎さんの最期を知
らないという意味なの……?」
 今にもグシャッと折れてしまいそうになりながら、美月はコクリとか細く頷いていた。
 妃翠は自身も思わず泣き出しそうになりながら手で口元を抑えた。
 自分は何て表面的な理解しかしていなかったのだろう。確かに殺された事は憎い。だが、
それ以上に彼女ら遺族を苦しめていたのは“愛する人の最期を知らない”という他ならぬ自
分自身だったのである。
「それが、貴女の理由……」
「…………」
 確かにあの日の情報は、今でもお世辞にも多くが明らかにされているとは言い難い。
 にも拘わらずこの国の政治はそうしたプロセスを先送りし続け、自分達ルーメルの技術力
と利権ばかりを搾取し続けている。更にはそうした姿勢を批難する勢力すら「反分子」とし
て捕らえ、同胞達の囲い込みを年々強化している。
「……だから、私も何もしなかった訳じゃない。実際にあの日を経験した国防隊に入ろうと
もしたんです」
「えっ? でも確か今は大学生の筈じゃ……」
「……反対されたんですよ。周りに。それに、母さんにボロボロ泣かれながら引き留められ
ちゃったら……突き通せないですよ」
「そう、だったの……」
 考えれば至極当然の反応ではあったのだろう。
 名称を国防隊と変えても、そこは亡き夫が殉職した組織。そこに実の娘までが飛び込んで
しまうとなればその不安やフラッシュバックは相当なものだったと想像しうる。
 美月もその時の母の顔を思い出していたのだろうか、何処か自分を哂うように自嘲の表情
を浮かべていた。
「だから、少し方針を変えました。国防隊じゃなくて、中央官僚になる道を選んだんです。
官庁はあの日の実働部隊じゃないけど、当時の情報は握っている筈。だから敢えて政府(や
つら)の懐に入り込めれば、父さんの最期についても知る事ができるんじゃないかって」
 大学に進学したのもその為のステップアップなのだと美月は言う。
 だが、彼女の表情は哀しみの気色で曇ったままだった。
「……でも、それも難しいのかもしれない。この前、特保の連中が来ましたよね? あの時
あいつらは私達のことを調べ上げていた。だとすれば、もう政府の方にもその情報は伝わっ
ている可能性は高いと思います。……実際に攻め込む前に既にこちらの手が読まれているん
ですよ」
「で、でも。だからといって官僚になれないなんて事は……」
「本当にそう思いますか? 肝心な情報をまるで出さないような権力組織ですよ。私が遺族
だって理由で、あの日の事を知りたいと考えていると予想できるというだけで、官僚に採用
すら──ううん、国家公務員資格すら与えずに蹴落とす事ぐらい平気でやってのけますよ」
 美月は恨み節に近い感じで言ったが、妃翠もそれを否定し切る事はできなかった。
 自分達に都合の悪い事は手段を問わず隠蔽する。そんな態度は、今も昔も同じ──。
「……どうしたら、いいんでしょうね? もう私の力じゃ、手の届かない所に……」
「…………」
 大きく項垂れる美月。その表情には己を哂い、そして必死に悔しさを堪える様があった。
 妃翠は暫くじっとそんな打ちひしがれている彼女を見つめていた。
 数分、いや或いは数十分か。長い長い、沈黙。
 もうどれだけかすらも分からない程の、感覚も狂いそうな痛々しい沈黙を経て、
「…………知りたいの?」
「えっ……?」
 やがて妃翠は。
「……本当に知りたいというのなら、話すわ。……あの日、星峰山で何が起きたのかを」
 何時になく真剣な面持ちでそう彼女をまっすぐ見つめながら、その重い口を開いていた。

「知って、いるんですか……?」
 思いもしなかった。そう物語るかのように美月は驚きを隠さなかった。
 一方で妃翠はじっと真剣な表情で返答を待っているように見えた。目を見開いてその場に
固まる美月に、その覚悟があるのかと言わんばかりに強く静かな眼差しを向けている。
「……ええ。ただ、私自身は直接あの日の前線にいた訳でじゃないからどうしても間接的な
ものに留まってしまうかもしれないけど」
 美月は押し黙った。いや戸惑っていた。
 まさか当事者から話を聞けるとは思っていなかった。しかし彼女はルーメル、当事者と言
っても片方の立場でしかない。でも、彼女自身は……信用できる、と思う。
「……それとね、あの日の事を私達が話すのはある種のタブーになっているの。知っての通
り、政府はあの日の情報を隠したがっている。だから話した側も、聞いた側も、知られれば
文字通り“消される”可能性が高いわ。……実際、私もそんな末路を辿った同胞や人々がい
ると聞いた事もある。それでも……貴女は聞きたい?」
 妃翠は、そんな事も付け加えた。
 本当ならばそれは口調以上に深刻な事なのだろう。だが美月はその事実を話されても不思
議と揺らぐ気持ちは起こらなかった。
 それは多分きっと……こうして前もって自分の身を案じてくれる彼女を信じたいと思うよ
うになっている自分がいたから。
「はい。……お願いします」
 美月は凛として頷いていた。
 その覚悟を見た妃翠も無言のまま頷き、サッと半身を返して背後の慰霊碑を見上げる。
「……その為には先ずは紋女(わたしたち)の社会構造について話さないといけないわね」
「それって、共同体(コミューン)の事ですか? 確か私達の言う行政官庁と似ているんで
すよね。色んな部門に分かれていて、その上に“評議院”──国会みたいなものがあると」
「ええ……」
 中高生時代に特別近代史で習った知識。
 美月は記憶を手繰り寄せながら言ったが、妃翠は何処か元気がないような声色を返しただ
けだった。フッと哀しく笑うその横顔。彼女は慰霊碑を見上げたまま言った。
「やっぱり……貴女も教わっていないのね」
「え?」
「……じゃあ次の手順へと行きましょうか。何故、そもそも私達がこの星に来る事になった
のか。それは……私達が元いた故郷を追われたからよ」
「……えっ?」
 トクンと、美月は自身の胸の鼓動が一瞬早くなるのを感じた。
 ルーメルが故郷を追われた? 意外だった。あれだけ異能の力を持っているのに……。
「そんなに不思議な事じゃないわよ。美月さん。大きな力というのはね、それだけで周りに
とって脅威になるの。たとえ私達がむやみやたらにそれを行使しようとしなくても、ね」
 それはどういう──?
 美月は言いかけたが、妃翠はそれよりも早く自嘲の微笑みを幾許か増して続けていた。
「知っての通り、私達はエーテル──生命力を他者から直接吸い取る事ができるわ。でもそ
れは吸われる側からすれば私達がとんでもない捕食者だという事。確かに昨日今日の話じゃ
ない。でも……気付いた時にはもう遅かった。私達は、故郷の星全ての種族達から討ち払う
べき“敵”とされてしまっていたの」
「……そんな」
 それじゃあ、まるで迫害じゃないですか──。
 美月はそう言いそうになって、慌てて口を塞いでいた。
 そんな事は彼女達自身が痛いほど分かっている筈だ。今更自分が言った所で何になる。
「だから……私達は決めたの。この星を出て行こうって。第二の故郷になりうる星を探しに
行こうって。そう皆に呼びかけたのが──“皇(マザー)”だったの」
「マザー……?」
 美月は殆ど反射的に呟いていた。
 今まで聞いた事のないキーワードだった。これでも学業は優秀な方だ。とりわけルーメル
に関する事なら特に力を入れて修めて来たつもりだ。だけど……記憶の何処にもそんな情報
は見つけ出せない。
 だが、一方の妃翠はそれを織り込み済みだったらしい。
 フッとその哀しい微笑を慰霊碑からこちらへと、静かに向けてくる。
「マザーは、一言で言えば私達ルーメルの長。全てのルーメルを統べる存在よ。この国でも
ずっと昔はそういう“王様”が君臨していたのでしょう?」
「え、えぇ。そうですけど……」
 つまりマザーとはルーメルの王だという事か。
 しかし……と、美月はそこで疑問に思う。
 何故、そんな重要な存在を政府は私達国民に知らせていないのだ? まさか……。
「……そう。このマザーこそ、政府が隠したがっている情報の大元。そして今も尚、多くの
同胞達が散り散りになってしまった大きな原因なの」
 そんな美月の思考を読み取っていたかのように妃翠は言った。
 再び目を見開く美月。そんな彼女を改めて見つめ、妃翠は一度大きく深呼吸をする。
「…………私達は長い長い時間を掛けて色んな星々を渡り歩いたわ。だけど、中々第二の故
郷となりうるような場所は見つからなかった。多少環境が厳しくても何とかなる。だけど私
達ルーメルは他者の生命力を拝借する事で力を保っている。だから豊かな生命に溢れる星で
なければならなかったの」
「……」
 言葉で語るには短かったが、それは一体どれだけの途方のない時間だったのだろう。
 自分達人間とは違い、ルーメルは半不老不死。彼女達の言う「長い時間」とは間違いなく
自分達の予想を遥かに超えるものであるに違いなかった。
「でも……やっと見つけたの。十六年前、この星を」
 ふっと見せた安堵の顔。
「豊かな自然と生命。私達が第二の故郷として住むには申し分のない環境だった。私達は喜
んだわね……。早速先遣隊を派遣して詳しい調査を行う事が決まったわ。でも……そんな時
だったの」
 だがその先は──悲劇だった。
「上空を漂っていた私達の“母船(シップ)”に近付いて来たものがあったの。すぐにそれ
がこの星の戦闘機だという事が判明したけれど……マザーは迎撃することを禁じたそうよ。
これから手を取り合えるように話し合っていくべき時に、一人でもその命を奪ってしまって
はそれすら成り立たなくなってしまう……ってね。だけど、向こうはそんなマザーの想いな
ど知る由も無かった。未だこの星の言語解析も途中だった中で、向こうはひたすら何かの通
信を放ってきているようだった」
「……もしかして、立ち去らなければ撃ち落とす。とかですか」
「……おそらくはね」
 グラリと、世界が歪んだような気がした。
 ちょっと待って。それじゃあ、それじゃあ……ルーメルの宇宙船が星峰に落ちてきた理由
というのはもしかして──。
「コミューンの上層部が対応に走り始めた最中だった。戦闘機からの攻撃が始まったの。そ
れもどんどん、こちらの機体が大き過ぎるからと踏んだのか時間に伴って大量にその数を増
やしながらね……。でも、それでもマザーは決して迎撃を許可しなかったそうよ」
「そんな……。それじゃあ嬲り殺しじゃないですか!」
「そうね。一応始めは防壁力場(シールダー)を展開していたわ。だけど、そのエネルギー
は何時までも続かない。……やがて向こうからの攻撃はシップを直撃し始めた。いくら私達
ルーメル全員が当ての無い長旅を暮らせるようにと造られた巨大船も、そんな状態が長く続
けば落とされてしまうのは当然だったわ」
「そん、な……」
 そしてルーメル達を乗せた巨大建造物──母船(シップ)は墜落を始めた。
 落下地点は日本国・星峰市周辺……人里と判明した。それを知ったマザーは、それまで何
事かと怯えていた同胞達全てにこう呼び掛けたという。
『皆さんの力で、できるだけこのシップを減速させて下さい! 地上の先住民達の犠牲を最
大限回避します!』
 マザーの呼び掛けに同胞達は応えた。
 皆が母船の各動力機構へと向かい、自身の保持するエーテルで何とか最悪の事態を回避し
ようと力を結束したのである。
 その甲斐あって、星峰は壊滅せずに済んだ。強い地震と山中への墜落を起こしただけで、
墜落自体による被害は最小限に抑えられた。
「でも……悲劇はそこからだった。ここからはもう、美月さんも知っているわよね?」
「ええ。勿論です……」
 言わずもがな、それが“血の遭遇”だった。
 エーテルを大量に消耗し強烈な「飢餓」に陥ったルーメル達の暴走と、それに伴う人間側
の第一波──真崎星太郎を含む自衛隊(当時)の先遣隊との交戦。この混乱によって多くの
命が双方失われたのは最早世間の常識、痛々しい記憶でもある。
「でもね。あの日の悲劇は、それだけじゃないのよ……」
「? それって、どういう……」
 だが更に、そこで妃翠の表情が殊更に哀しく曇っていた。
 美月は思わず眉根を寄せる。それだけじゃない? 双方が無闇な争いを展開した、そんな
悲劇の事件だったのではないか……?
「……」
 そしてそう訝しむ美月に、妃翠は長い沈黙を経て言ったのだった。
「その最中に、マザーが殺されたのよ。……人間側の銃撃でね」
「────ッ!?」
 絶句。という表現すらも生温過ぎる告白だった。
 これは、悪寒か。引き攣る様に身体中を走る衝撃と驚愕。そんな美月をじっと見つめ返す
妃翠の眼差しもまた、死んだ魚のように生気がないように錯覚してしまう。
「本当……なんですか?」
「ええ、間違いないわ。この話はあの日交戦の最前線にいた友人から聞いたものよ。信憑性
は保障するわ。それに……マザーがあの日死んだ事は、動かしようの無い事実だから……」
 哀しみ。妃翠はそれ以外の何者でもない表情(かお)だった。
 彼女は言わなかったが、美月はそこでやっとマザーとやらこそが政府の隠したい情報だと
言っていた事に至っていた。
 マザーの死。それには人間側、ひいては政府の落ち度が関わっている。それも……その事
が明るみになれば、今のルーメルを囲い込んでいるというこの国の形すら根本から揺るがし
かねない真実として。
「本来なら銃弾数発ぐらいで私達は死にはしないけれど……あの時はマザーも含めて全ての
ルーメルがエーテルに飢えていたわ。私もそう。私も必死に飢えと戦いながら、我先に暴れ
てシップを飛び出していこうとする同胞達を制止していたのだけど……止め切れなかった」
「で、でも何でそのマザーが人間側に? 船の中にいたんじゃないんですか?」
「……出ていたのよ。無意味な戦闘を続ける両者を何とか止めようと自ら説得に打って出た
らしいわ。勿論、上層部からは反対されたそうだけど。それでも無理に、ね……」
 結局その熱意が仇になったという事か。
 マザーとやらを自分は知らない。だが美月は彼女を無謀と罵る気には到底なれなかった。
「……そしてマザーが討たれた、それが前線に伝った事で混乱は更に大きくなった──いえ
むしろ最悪の形で結束してしまった。皆、マザーを慕っていた。だから許せなかった。あの
方を殺した人間をこのまま許してはおけない……もう、誰も争いを止められなくなっていた
のよ」
 悲劇はそうしてより大きな悲劇へと膨れ上がっていった。
 最初は防衛と守護、しかし気付けばヒステリックな“弔い戦”へと。
 やがて互いに力尽き、戦いが終息した時、そこにはもう勝者などいなかった。ただそこに
在ったのは人間・ルーメル双方に及ぶ無数の犠牲者だけ。
 それが、十六年前の“血の遭遇”の顛末だったのだ──。
『…………』
 しんと静まり返る夕暮れの慰霊碑の下。
 吹き抜ける微風に曝されながら、美月と妃翠は長い長い沈黙の中に沈んでいた。
「知らなかった……。だけど、それじゃあもしかしなくても、悪いのは人間(わたしたち)
の方じゃないですか……!」
 眉間に皺を寄せて美月は項垂れていた。
 知りたいとは願った。だがその“事実”は様々な意味で今までの常識を引っくり返すもの
に違いなかった。
「……そうね。こうした事を隠し続けているからこそ、今も多くの同胞がコミューンに戻る
事はせずに──政府の軍門に下る事をよしとせずに各地に散り散りになってしまっているの
でしょうし。……中には色んな理由で居残っていた同胞達もいなくはないけれど」
「すみ、ません……」
「美月さんが謝る事じゃないわよ」
「で、でもっ……!」
 バッと顔を上げる。感情的になる美月。
 だがその沸騰しかかった想いは、思わぬ反応で冷めさせられる事となった。
「……いいのよ。そもそも、私達がこの星に来さえしなければ何も起きなかったんだから」
 見返した妃翠の、酷く穏やかな苦笑の表情。
 それは笑みの裏で批難を続けるという類のものでもなかった。それは本当に、自分達こそ
が悪いのではないかという自責の念の現れ。美月は面を食らったように唖然とし、顔を上げ
た勢いのままの体勢で固まってしまう。
「でも……腑に落ちない事もあるのよね。マザーは特質系“占眼”のルーメル、未来を視る
力を持った方だった。だからこそマザーは皆の信頼を勝ち取れた訳で、幾らあの時エーテル
が足りずに力が満足に使えなくても、自分があのまま打って出ていれば死んでしまう事など
は予知できていた筈じゃないかって思うのよ」
「……それは、そうかもしれませんね……」
 確かにそうだ。詳しくは知らないが、俗に言う未来予知の類であるのなら、そもそもあの
日のような悲劇は防げたのではないか? 何よりも自分が死ぬ未来を避ける事だって……。
「でもね? 私は思うの。……もしかしたらマザーは、それも全て分かっていた上であんな
決断をしていたんじゃないかって」
「え……? そんな事……」
 妃翠は静かに微笑んでいたが、美月には到底信じられない言葉だった。
 あの悲劇が彼女なりの“良い未来”だったというのか? それとも今はまだ悲劇と苦難で
あっても、いずれは良い未来となるという長い長い目で見た判断だったのか……?
「……美月さん」
 戸惑いを隠せなかった美月を暫し見遣り、妃翠はふとそう呼び掛けてきた。
 ほぼ反射的に顔を上げる。その視線の先には穏やかだが強い意志を秘めた妃翠の表情。
「──『彼女達を憎まないでくれ』」
「!?」
「……星太郎さんが貴女達に残した言葉だそうね。以前に、珠乃さんから聞いたわ」
「……そ、そうなんですか」
 また驚きの追撃を一発。この人は何を考えているのだろう? 美月は怪訝に思う。
「だけどね……。それと同じ言葉を、マザーも遺していたの……」
「え?」
「──『彼らを恨んではいけません。これも良き未来を作る為。今は長く苦難な道のりとな
るでしょう。でも、きっと私達は分かり合える。いいですか? この地で再び安息を得て下
さい。貴女達全てに、良き未来は待っています……』」
 まるで何かの呪文のように、妃翠は次の瞬間そう諳んじてみせた。
 驚きで押し黙る美月。そんな彼女に妃翠はフッと静かに破顔して続ける。
「最初に珠乃さんから話を聞いた時には驚いたわ。まさかマザーが私達に遺した同じ言葉、
同じ想いを持っていた人がいるなんて思ってもみなかったから」
「……同じ、想い」
「嬉しかった……。マザーだけじゃなかった。人間側にもお互いの共存を望んでいた人がい
たんだもの。いがみ合うこの世界がおかしいって思っていた私の想いは、間違っていなかっ
たんだって……。だから私は、貴女達と一緒にいたい。貴女達を、守りたい……」
 美月は戸惑いがうねる胸元をギュッと押さえて押し黙った。
 どうして? どうしてそんなに“共存”に想いを馳せられるの?
 だって貴女達は父さんの仇で、私達は貴女達の仇で……。
「……ッ!」
 止められなかった。ぼろりと、大粒の涙が溢れ出ていく。
 憎まなきゃ、憎まなきゃいけないのに……。でも、私の知りたかった事は──。
「!?」
 だが次の瞬間、ふわりと温かい感触が美月を包んでいた。
 涙の溢れる目を見開く。そしてそれが、自分をそっと抱き締めてきた妃翠だと気付くのに
そう時間は掛からなかった。
「…………もう、いいの」
 静かに、そっと抱き締めながら妃翠は言う。穏やかな声色だった。
「もう一人で背負わなくていい。無理に憎まなくたっていい。すぐにそうしろだなんて言え
ないけれど、何時かはきっと……。私でよければ、一緒に背負ってあげられるから。貴女が
いいと言ってくれるのなら……せめてそれを、私の罪滅ぼしにさせて?」
「ぅ、ぁ……?」
 止まらない。抑えようとしても涙が止まらない。
 振り解く事すらできなかった。むしろ、この温もりが懐かしくて、心地よくて。
 何だか……燻り続けていた胸の奥の痛みが、スゥッと小さくなっていくかのようで。
「あ、ぁぁぁ……」
 最後の一基が崩れるように、次の瞬間、美月の涙から更なる涙が溢れてきていた。
 融けていく。固く固く凍り付いた──いや、自分の手で固め続けた何かが解けていく。
「うぅ、ぁぁぁぁぁぁーーッ!!」
 その日、美月は夕陽の中で随分と久しぶりに心の底から泣いていた。
 弟が連れてきた余所者(ルーメル)──いや、新しい“家族”の温かな胸の中で。

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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