日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(雑記)正しさという言葉について

少し日が経ってしまいましたがこんにちは、長月です。
先日、連載(ユー録)の三十四章をUPしました。第Ⅲ部も終盤となります。
また今週分で以って、週刊三題が通算50本目を達成しましたヽ(・ω・)ノ 塵も積もれば何と
やらですかね。
気付けば2013年最初のこの一ヶ月も、創作漬けな日々であったように思います。
長編を二本併行している(ユー録とデッドレス)現状も大きな要因ですが、ほぼ毎週何かし
らの執筆を抱えうんうんと唸りながら、それでも書き進めていく書き上げていくその達成感
と清濁併せ持った疲労感(しばしば言及している“反動”とでも言いましょうか)が自分に
止める選択肢を取らせないというような……。

……足りない。まだまだ鍛錬の果ては見えてきません。
もっと色んな、新しい物語(特に堅苦しさを掃った毛色)を書きたい創りたいという欲求。
掲載先を増やすなりして、もっと手に取って貰える可能性を「拓く」べきではという思案。
十中八九、疑心暗鬼の類なのでしょうね……f(=_=;)
どれだけ創っても、所詮は手前の想像のセカイの中じゃないか。独り善がりじゃないのか。
そういう自分を哂う自分を掻き消したくって、無理くりに拓こうとする。或いは許せなくて
恥ずかしくって、撤退衝動みたいなものがはたと襲ってくる。
でも実際問題、自分ではキャパの限界があるし残念コミュ力だし、どちらにせよそういった
衝動に任せてしまうと後々苦しむのが自分なのは明らかな訳で。

だから結局一番の道は、今在るセカイをきちんと形にしてあげることなんだろうなあ……。
そんな思考ばかりがループしている気がします。とかく迷ってばかりいる気がします。
……煩悩というか、何というか_(:3 」∠)_


ここ暫く、僕には特に迷っていることがあります。
それは『何が正しい(価値観)かなんて人それぞれだよ』という言い回しについてです。
一つだけの価値観で均す圧力ではなく、多様な価値観が在ることを認める寛容さ──僕自身
はそうした解釈でいるのですが、どうにも昨今の世の中(と言うより主にネット界隈?)を
見ている限り必ずしも他人様方はそうではないようで……。

要するに、この言い回しが方々で“免罪符”にされている感がするのですよね。
確かにSNSをはじめとしたネット環境の発達によって、地理や素性を越えた交流が可能となり
ました。僕自身もそれらの効用を(残念コミュ力ながらも)存分に楽しんでいるつもりです。
ですが皆さんもご存知だったり体験済みの通り、ネット上とはいえ介在するのは結局人間で
あるが故に、そこには「諍い」なるものが散見されます。哀しいかな、むしろそちらの方が
目立ってしまうことすら多いかもしれません。
そうしたトラブルを全て列挙するには頁が増え過ぎるので割愛しますが、今回の雑記で僕が
言及しようと思うのは、そんな中でも“宜しくない人それぞれ”についてです。

例えばAという主張・意見がポンと出されたとする。
するとそれを良しとしない反対意見BやCがそこに噛み付く。
ここまではまぁ、いいんです。色んな考え方があるのは当然で、そういったものを個人単位
でも表明できるのがネットの特徴とも言えますから。
ただ「あれ?何か違う……」と思ってしまうのはここから。幾つかのパターン。

一つは、彼らが「議論」ではなく「口撃」の応酬になってしまい(いわゆる炎上に近い状態)
望む望まずに関わらずその騒ぎが広がった時にふと出るパターン。
別な横槍曰く『まぁ、人それぞれだから』
そうやって結局騒ぎは下火になるものの、成されるべき「議論」もすっぽ抜かれてしまう。
もう一つは、互いの主張を譲らないといったパターン。
A曰く『俺はこう思うんだ』
BやC曰く『いやそれは間違っている』
各々曰く『五月蝿い!人それぞれなんだからこっちの価値観に口出しすんな!』
そう互いに叫ぶことで、結局意見は交わらない。
或いは三つ目。それは傍観者的位置にある者がごちるようなパターン。
曰く『人それぞれなんだし、自分が何か言ったって詮無いよ』
そうして沈黙や無関心を決め込み、彼の者の遠くで諍いは他者の群れにより炎上していく。

……違うでしょう? 人それぞれっていうのは、そういう使い方じゃない。
一つ。議論が未完のままで両方を「正しい」と言って宥めるのは、確かに解決手段の一つで
はあるのでしょう。だけど果たして、そこに真の意味での解決があるのだろうか? そう僕
自身は疑問に思うのです。
おそらく、当事者だった彼らは胸奥にやり切れなさを抱えているでしょう。
それが長く燻り続けた時、彼らが相手方(の価値観)に抱くものは、きっと憎悪の類ではな
かろうかと思うのです
二つ。これが一番“免罪符”的誤用に近いと思うのですが、人それぞれという言い方は他者
を許容する為の自戒の句であろうもので、決して自身の主義主張を正当化する道具ではない
筈です。そもそもそういった使い方が赦されるのであれば、相手方もそうできる訳で、結局
議論=折衝や認識の開拓を試みる素地を殺すことになりかねません。
三つ。この使い方は、厳しいようですが完全に「逃げ」の文句になっていますよね?
まぁ百歩譲ってそこを責めないとしても、こういう態度──ネガティブな意味での沈黙は金
的なスタンスは、多かれ少なかれ(そしてきっと現在進行形で)この世の中を消極的な言論
封殺に追い込んでしまう、その一端を担うことになるのではないでしょうか。

纏めると、こうです。
つまりこういった使われ方は「閉じて」いるのです。
違うものがあることを許し、それらを前提として、では自分はどうするか?
その折衝(再構築)の用意があるんだという「開いた」態度とは逆ベクトルのものなのだと
思うのです。
色々あってそれがいい──。それは今も僕にとって変わらぬ考えです。
でも許容している、その態度以上に、僕らがすべきなのはきちんと「線」を引いてゆくこと
だと思うのですよね……。
共存できるのならそれに越したことはない。
でも、やっぱり人間っていうのはどだい自分勝手であって、そう簡単に異なるものを自分の
中に迎え入れることは現実的に難しいとも僕は考えています。
だからこそ、僕は『共存』というよりは『共棲』という言い回しを使いたい。
一緒に仲良くという超理想的共存よりも、まぁ逃げ切れないんだし同じ大地の上にいるしか
ないよなあ……という「棲み分け」のニュアンス。もっと言うなら“仲良くしない権利”も
また、世の中に確立させたいなという願望とも言える訳で……。
故に「線」が要る。
できることなら緩やかに。ここから先は俺達のフィールド、向こうは貴方がたのフィールド。
そうして取り決めた「領分」を、互いに遵守する。余程の事がない限り越えないようにする。
それは各クラスタにとってのタブーであるだろうし、価値観の多元軸に関係ないルール──
善き倫理(良識)であったりする。
……だから互いに知らなければならない。その為には「開いて」おく必要がある。
何が貴方にとって善で何が悪なのか? それを議論や個々の交流という中などで確認し合い、
互いにとって適切な距離感を──線引きを作る。……そう僕は考えるのです。

実際、こういう構築は個対個でも少なからずやっている筈なのです。
なのに……何故そこに価値観というか、イデオロギーが絡むとそんなに「閉じる」のか。
事の正邪を安易に決めるべきではないという意見には同意しますが、かといってこの世全て
の事象にそのフレーズを当て嵌めるのは拙いとも、僕は思うのです。
世の中、善人もいれば悪人もいる。差別と区別はまた意味合いが違う。
勿論一人の中に光も闇も混在としているのは今更頁を割いて言及することでもないですが、
かといって「皆正しい」では議論も何もありゃしない……というのもまた事実で。

僕には今、二つの危惧があります。そしてこれらは、多分表裏一体に近い関係にあるのだと
思っています。
一つは多様であることを意識する余り、それら枝葉の大元たる善き倫理すら無視されていは
しないかということ。もう一つは多彩に主張されるがあまり(何処からか批判が飛んでくる
だろうと恐れて)逆説的に人々が語らぬことを選んでしまう──消極的封殺がこのセカイを
覆ってしまうという心配。
……確かに僕自身、後ろめたさを感じることはよくあります。
こうして書いている雑記、何より小説などの創作に込める思索・想い。
その「ネタ」の為に使われた事象に、今現実に苛まれている人々に、僕のこういった思考は
不謹慎ではないか?自己満足優先ではないか? そういった罪悪感のようなものではと。

何かについて言及すること、それは確かに根底を突けば自慰的な行為なのだと思います。
だからこそ、発言者の意図するしないに関わらず、受け取った誰かが傷付いたり不快感を覚
えてしまうケースも少なくないのだと思います。
(とはいえ、受け手側の歪んだアンテナがその原因という側面も否定できませんが……)
もう少し、考えてみませんか?
真実は劇薬でもあります。「正しい」ことが必ずしも言葉をぶつける相手にとり「正しい」
訳ではない筈です。貴方が言葉にする、そこに正しさ以外のものはありますか? 善き倫理
は伴っていますか? ただ自分の鬱憤を晴らしたい為という動機ではありませんか? その
言の葉を放った先に、貴方はどんな未来を見ていますか……?

語りましょう。情緒と、ピリリと添えた理性のエッセンスを。
世は常に移ろってゆきます。往々にしてどんな事件も時を経れば世間に忘れられていきます。
そこで貴方がきちんと語ることで、その綻びは少しでも繕えはしないでしょうか?
言葉は力です。ただ暴力として放つのではなく、僕はそれらが人々の意識を渡り歩き、刺激
する言霊で在って欲しいと思うのです。

──だからどうか、その言の葉に品格と誠実を。

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  1. 2013/01/28(月) 22:45:00|
  2. 【雑記帳】
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

誰かが云ってましたが、日本人は持論を認めさせるよりも、議論の相手を叩きのめしたい衝動にかられがちな傾向があるそうです。
実際僕自身もうなずかされるところはありますしね。

それはそうと、目に見えない国境線のようなものはあってしかるべきなのでしょうが、壁をつくってしまうのはいただけないなと。
  1. 2013/01/30(水) 13:41:19 |
  2. URL |
  3. 4E #-
  4. [ 編集 ]

うーん……哀しい傾向ですね。どだい根っこがムラ社会だからかなぁ。個人よりも集団・雰囲気、論よりも情
(厳密には情を論に乗せる、ねちっこい意味での内包さ)とか。
僕自身も周囲にいっぱいいますからねぇ、議論的になるとそれだけで拒否反応示す人達。
まぁ一番の難点は発言者の意見とその人格を一体化してしまうところなのでしょうが。意見を摺り合わせて高め
合うのではなく、得てして人格攻撃に変じちゃうから議論にならないっていう……。

そして壁を作ってしまうのはどうなのという点ですが、正直僕もこの按配には今も迷い続けています。
とはいえ、少なくとも一切の壁を取り払って他人と接するなんて不可能だとは思うのです。だからせめて議論や
交流する心算としては「開いて」おくべきなのかなあと……そんな思案が現状な訳でして。はい。
  1. 2013/01/31(木) 00:35:47 |
  2. URL |
  3. 長月 #oOZ748FU
  4. [ 編集 ]

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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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