日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)レディ・ルーン-Bonds of RU'MALE-〔2〕

 それは、もう随分と昔の出来事になってしまった。
 まだ幼かった私。何の力もなかった私。
 そして……まだ目の前で起こってゆく出来事が何を意味するのかを知りえなかった私。
 だけど、どれだけ時と共に風化されてしまおうとも、あの日の光景は今でも私の記憶の中
に、心の中に確かに刻み込まれている。
「──星(しょう)君っ!」
 あの日、まだ小さな子供だった私は、母さんに手を引かれて市立病院の中のとある一室へ
と駆けつけていた。
 母さんは私に何があったのかは詳しく話してくれなかった。
 だが家で電話を受けた時に見せたあの表情(かお)と動揺ぶりを見れば、只事ではないら
しい事くらいは子供心でも分かっていたのではないかと思う。
「? 貴女は……?」
 私達が飛び込むように病室に入ると、中では多くの医者達と看護士達が忙しく動き回って
いた。するとその内の医者の一人が私達に気付き、真剣な面持ちで眼鏡のブリッジを持ち上
げながら確認するように呼びかけてくる。
「ま、真崎珠乃(たまの)──真崎星太郎の妻です」
「真崎……はい、こちらです。どうぞ」
 母さんが焦りのままそう答えると、医師は小脇に抱えていた名簿らしき書類に目を落とし
て確認を取ってから私達を病室の奥へと促してくれる。
(怪我してる人がいっぱい……。何で……? 少し前の地震のせい……?)
 訪れた病室は一度に多人数を収容できる、いわゆる大部屋だった。
 そこには身体中に包帯が巻かれ、各種医療機器に繋がれた男の人達が何人もベッドの上で
苦しんでいる姿があった。そんな彼らの周りを、たくさんの医者や看護士達が休む間もなく
動き回っている。対照的に、自分達と同じく男の人達の家族など思しき人々は彼らに泣きつ
いたり、或いは何をすべきかも分からず呆然としていた。
 緊迫した、明らかに異様な光景と雰囲気。
 私は無意識の内に、母さんに引かれた手をぎゅっと握り締めていた。
「…………珠乃、さん。美月……」
 だが、何よりも私の記憶に強烈に刻み込まれたのは、そんな人達の中に父さんがいたとい
う事に他ならなかった。
 はだけた、そして大きく切り裂かれた迷彩服。しかしそんな日常的な服装でない事よりも
目を引くのは、その身体に大きく巻かれた包帯から滲む真っ赤な色。
「お父、さん……?」
「星君……」
 明らかに酷い怪我。
 にも拘わらず、機器に繋がれて横たわる父さんは、酸素マスク越しに笑みをこぼして私達
を見遣るとそう名前を呼んでくれたのだ。
 しかしその息遣いは荒く、そんな姿は子供でも今目の前の人物が瀕死に近い重症を負って
いる事を知らしめるにはあまりにも十分過ぎた。
「……ごめん、ね。元気に、家に帰るって言葉……嘘に、なっちゃったね……」
「いいのよ。いいから、そんな事……いいからっ! 無理して喋らないで。ねっ!?」
 絶句に近い形で立ち竦む私の横で、初め母さんは口元を抑えていたが、父さんの無理をし
た優しさにやがて表情を崩し、ボロボロと涙を流して傍らに詰め寄る。
 酸素マスク越しの絶え絶えで不規則な父さんの息とは対照的に、周りを取り囲む機器が刻
む電子音のリズムは淡々として無機質だった。
 気のせいかもしれない。いや、気のせいのままであって欲しい。
 そうした対比が、刻一刻と父さんの命を奪おうとしているなんて……。
「……奥さん」
 そうしていると、先程の医者が他の医者数名と共に静かに進み出てくる。
 涙をこぼしながら振り向く母さんに、彼らはやり切れない、悔しそうな苦々しい表情を一
様に浮かべている。
「あの……。主人は、主人は……!?」
「……申し訳ありません。私達も手を尽くしているのですが、ご覧の通り同様の“被害者”
が多過ぎ、尚且つ何より私どもも全く見た事のない症状も併発しておりまして……」
「…………そん、な……」
 何処か引っ掛かる言い方。
 でもそれよりも母さんは医師達から突き付けられた事実に愕然としていた。普段、穏やか
な夫婦で通っている母さんが、この時ばかりは強く強く打ちひしがれたようにその場にガク
リと膝を突いて崩れ落ちてしまう。
「お母、さん……。う、ぐっ……!」
 理由などもうどうでも良かったのかもしれない。
 そんな母さんの痛々し過ぎる姿を目の当たりにして、私は自然と同じ様に瞳を潤ませて泣
き出していた。
 お父さんが──死ぬ。その言葉がまるで鋭利な刃物のように私達を狙う。
「……美月」
 そんな時だった。
 ふっと、頭を撫でる優しい感触。私が涙目で見上げると父さんが静かに私の頭を撫でてく
れながら微笑んでくれていた。
(お父、さん……。何で……? 何で……?)
 その温かい感触に触れて呼び起こされる記憶の数々。
 仕事であまり家には帰って来れなかったけど、その分休みが取れた時には私にも母さんに
も溢れんばかりの愛情を注いでくれた、軍務に関わる人とは思えないほど優しいお父さん。
「……泣かないで。お母さん譲りの美人が、台無しになるよ……?」
「う、っぐ……。で、でもぉ……」
 だけど、この時ばかりはそんな父さんの温かさが余計に心を刺すような錯覚がした。
「……ふふ。珠乃さん」
「? な、何……?」
 それでも父さんは何故か苦しさを訴える事よりも、私達に微笑む事を選んでいた。
 そっと手で私を抱き寄せながら、泣きじゃくっていた母さんの名も呼ぶ。
 少しの間、父さんはこれでもかと顔を近づけてくる私達に微笑んだままだった。だが、
「……最期に、伝えたい事があるんだ」
 不意に、一瞬真剣な表情(かお)をしてそう言う。
「先ずは……ごめんね。こんな形で……お別れに、なるなんて……」
「そう、よ……。そう思うなら、戻ってきて……? 星君がいなくなったら、私……。それ
に子供達はどうするの? どうすればいいの? 美月も、陽も……」
 母さんは咽び上手く喋れなくなりながらも、何とか父さんを引き止めようとしているよう
だった。私の肩を、そしてだいぶ膨らんできたお腹──あと数ヶ月ほどで生まれてくる筈の
私の弟の輪郭を撫でながら、母さんは訴えるように声を漏らす。
「……大丈夫さ。君なら、きっと。だって、君は僕が選んだ女性(ひと)なんだから……。
もっと、自信を持っていい。もっと、もっと素敵になれる筈だよ……」
「星、君……っ」
 更に泣き崩れる母さん。その手を、父さんは私から離した手をそっと優しく包む。
「……大丈夫だよ。大丈夫……」
 どうして、この人はこんなに笑っていられるのだろう?
 きっととんでもなく痛い筈なのに、苦しい筈なのに。それでも私達に笑い掛け続けている
のはどうしてなんだろう……?
 それから暫く──いや、実際は十数秒程度だったかもしれない──の間、私達家族は互い
に寄り添い無言で時を刻んでいた。合わさり混ざるすすり泣く声。無機質に淡々と刻まれる
電子音のリズム。動き回る医者や看護士達の物音。全てがスウッと遠くに感じられる。
「…………珠乃さん、美月。それに……陽も」
「?」「な、何……?」
 そして、そんな沈黙を破るように父さんは口を開いた。
 纏う微笑みと空気は優しく暖かく。だけど、その声色は今までになく真剣そのもの。
 私も、母さんもまるでその静かな迫力に気圧されるように押し黙って耳を傾ける。
「……これから、皆は……色々大変な経験をいっぱいするだろうと、思う」
 そう言い始めた父さんの視線は、だんだん定まり難くなっていた。
 それでも、どうしてもこれだけはとでも言わんばかりに、父さんは時折ぐっと訪れる期限
の足音に耐えながら続ける。
「だけど、挫けないで。皆には、笑っていて欲しいんだ……。いや……僕らだけじゃない。
僕らの周りの人達全て……できうる限り全ての人々を、幸せにしたい……笑っていて欲しい
んだ……。それが、理由、なのかな……。だから僕は自衛隊に……力で保てる幸せがあるの
なら、僕の身の一つくらいって……、ぐっ!」
「!? 星君っ!」
「お父さんっ!」
 そこまで言って、父さんは流石に耐えかねて一瞬苦痛に顔を歪めた。
 思わず叫ぶ私と母さん。
「だ、大丈夫……」
 だけど、父さんはあくまでギリギリまで耐えようとする。笑おうと努め続ける。
「だから……ね。この言葉だけは……、この事だけは、忘れないで欲しいんだ……」
「……?」「それは、何なの?」
 それは懇願に限りなく近い願望。
 そしてきっと、私達に向けられた──いや全ての人へ向けた遺言だったのだろうと思う。
「…………彼女達を、憎まないでくれ」


 STORY-2「誓約、絆ノ証」

 路地裏からアーケード街に戻っても、陽達はその足を止める事はしなかった。
 突然駆けてくる少年達にめいめいに驚きを見せる往来の人々。
 だが陽は必死になって、ぐったりとした亜麻色髪の女性を背負って走る。後ろでは翔が彼
女が自分の背からずり落ちないように時折支えてくれながら、傍らでは周囲に目を配りつつ
進路を確保してくれる憲人が、それぞれ併走している。
 ざわめき。驚き。アーケードを駆けてゆく毎に散発する人々の声。
 しかしそんな周りの反応など気にしていられなかった。
 更に付け加えるとさっきから背中に柔らかくてボリューム満点の感触があるのだが、これ
も気にして……いられなかった。
「……うっ、ぅぅっ……。はぁっ、はぁっ……」
 そして彼女はといえば、相変わらず自分の背中の中で時折小さな吐息を漏らしては辛そう
にしていた。そんな様を肩越しに見遣る度に、切羽詰った緊張感が身体を奔っていく。
(早く、何とかしないと……)
 焦る気持ちを抑えながら、顔を覗かせる煩悩を振り払いながら、陽は自分の体力を顧みる
事も忘れて長々と延びるアーケードのタイル床を蹴った。
 あれだけ自分達第三者に頼る──いや、おそらく迷惑を掛けてしまう事に躊躇っていた筈
の彼女が、陽の背中でもぞもぞと動いているのが分かる。彼女に一体何が起きているのかは
素人に分かるべくもないが、少なくとも苦しさに身をよじっている事は確かだろう。
 だが……気のせいだろうか。
 時折、彼女がぐっと強く自分に密着すると、まるで大きく息を吸い込むような動作をして
いるような気がする。
(……呼吸がし難いのかな?)
 頭の片隅にちらりと過ぎる疑問。
「どうしたんだ、陽? 重いなら代わるぞ?」
「え? う、ううん。だ、大丈夫……」
「……」
 だがそんな一瞬の思考も、翔の掛けてきた言葉に遮断されてしまう。
 余計な思考は後だ。とにかく今は彼女の手当てをできる場所と人を探さないと……。
 陽はふるふると頭を振ると、再び地面を蹴っている脚に、全身に力を込める。
「陽、翔。こっちだ」
 そしてアーケード街の入口、大通りと交わる境目の地点までやって来ると、不意に憲人が
二人(と彼女)を促すように手招きをして、一人先んじて進む方向を変えて駆け出した。
 その先には、歩道脇に設けられた駐車用のスペースの列。
 憲人はその一つに立ち手を挙げると近くを走って来たタクシーを呼び寄せる。
「さぁ、早く」
「うんっ!」「ナイスだ、憲人。これでだいぶ時間を縮められる」
 停まったタクシーの後部ドアを開けてそう促す憲人。
 陽と翔は背から降ろした彼女をそっと車内に運び入れると、自分達も足早に乗り込んだ。
「……どちらまで?」
 その慌てた様に多少なりとも驚いたのだろう、壮年の運転手は僅かに眉根を上げつつも三
人にバックミラー越しに尋ねてくる。
「はぁ、はぁ……。あ、えっと、西本町の『民宿・まさき』までお願いします」
「え?」
 だからこそ、陽達がこの病人らしき女性を病院ではなく、民宿へ連れて行こうとしている
らしい事に流石に驚きを見せた。
「……? もしかして道、分かりませんか?」
「いや、そうじゃなくてですね……。病院じゃないんですか? そこのお方、具合が悪いん
じゃあないんで……?」
「あ、えぇ。まぁ、そうなんですけど……」
 だが陽は歯切れの悪い、曖昧な返事しかできない。
 そう簡単に事情を──彼女が行き倒れの紋女(ルーメル)だと話してしまうのには躊躇い
があった。そもそもだからこそ普通の病院には連れて行けず、
『だけどよ。じゃあどうするんだ? まさかこのねーちゃん、このまま放っておく訳にもい
かねぇだろーよ?』
『あぁ。それはそうだが……』
『……じゃあ、とりあえず家に運ぼう。僕ん家なら二人の家よりも近いし』
『お前の? まぁ、近いのはそうだけどさ……』
『……分かった。お前が言うならそうしよう。時間が惜しい』
 一先ず最寄である、陽の家まで運び込む事にしたのだから。
「……急いでいるんです。早く出して下さい」
「は、はい。分かりました……」
 そんな陽の代わりに、補助席に乗り込んでいた憲人が丁寧ながらも有無を言わさぬ様で運
転手に出発を促していた。
 怪訝こそ見せていたが、運転手はようやくそこで詮索を打ち切りハンドルを切り始めた。
エンジンが再び音を上げて大通りの流れの中へと進入していく。
(……とりあえずごまかせたかな?)
 幸い通りは思ったほど渋滞はしていないようだった。
 陽は交通事情、運にほっとしつつも、ちらりと傍らで目を瞑って座らされている彼女の方
を心配そうに見遣る。
 相変わらず大きく肩で息をついている彼女。だが、
(……? 何だろう。心なしか、少し落ち着いてててるような……?)
 気のせいか、そんな彼女の見た目の辛さは、いつの間にか若干薄らいでいるようにも見え
なくない。
「……なぁ、陽。ねーちゃん、少し落ち着いてきてね?」
「あ? 翔もそう思う?」
「あぁ。ま、つっても何となく……だけどな」
 そしてそんな印象は彼女を挟んで反対側に座る翔も同じだったようだ。
 じっと彼女の様子を注視した後、念の為にと訊ねてくる彼に陽は内心少し驚きと一抹の怪
訝を伴いながら言葉を返す。
「……あまり油断しない方がいいぞ。素人判断は禁物だ」
 その一方で憲人の方はあまり楽観視はしていないらしかった。補助席に座ったまま視線だ
けで振り返り、ぽつりと二人に向かってそう言ってくる。
「う、うん……」「まぁ、そりゃそうだけどさ……」
 陽と翔は何となくちょこんと居住まいを正した。そしてほぼ同時にちらりと傍らの彼女の
様子を見遣ってみる。変わらず肩でする息遣い。時折ゆらゆらを身体を前後に揺らしながら
もその瞼が開かれる様子はない。
(……大丈夫。絶対、大丈夫……)
 そんな彼女の肩をそっと支えながら、陽は静かに口元を引き締め到着を待つ。
「──料金は俺が払っておく。お前らは先に行け」
「オーケー任せた。行くぜ、陽!」「うんっ!」
 陽の家は星峰山系へ続く通りの一つ、そこから折れた先の一角にあった。
 タクシー代を憲人に任せると、陽は翔と共に車から彼女を降ろして再び背負い駆け出して
いく。ちらほらと近代的に改築された街並みが、ふと一昔の名残を漂わせるそれに変わる。
 小さいながらも丁寧に手入れされた庭。濃い茶色の木目調が美しい、二階建ての長屋風の
建物。全体的に和の雰囲気を大事にした、質素だが落ち着いた佇まい。
 傍らの柱には『民宿・まさき』と書かれた墨字の木看板が下がっている。
「……あら?」
 その玄関先に陽達が飛び込むように現れると、そこで箒を片手にいそいそと掃き掃除をし
ていた和服の女性がのんびりとした様子で迎えてくれた。
 この民宿を切り盛りする女将で陽の母、珠乃である。
「おかえりなさい、陽。それに翔君と憲人君も。いらっしゃい」
「ど……どうもっす、おばさん」「ど、どうも……」
 何処かぽわぽわした、温かい穏やかな雰囲気。
 そんな彼女のいつもの様子に、翔も遅れて追いついてきた憲人も一瞬思わずそのペースに
呑まれてしまいそうになる。
「そ、それ所じゃないんだよ母さん! すぐに布団と手当ての用意してくれる? 事情は後
でちゃんと話すから……!」
 だが実の息子には慣れたものなのか、それとも緊急の事態がそうさせるのか、陽は若干早
口になりながらも次の瞬間にはそう急かすように告げていた。
「一体どうしたの? 帰ってくるなりそんなに慌てて──」
 そんな息子の様子にすぐに気付いたのだろう。
 珠乃は初めの内はのんびりとした口調で話していたが、息子に背負われて苦しそうにして
いる見知らぬ女性の姿を認めると、サッとその微笑みの下に真剣さを見せた。すぐさま掃除
の手を止め、踵を返して玄関の戸を開けながら三人に振り向いて言う。
「さぁ、早く上がって。すぐに布団を敷くわ。陽は薬箱を取って来て頂戴」

 珠乃に促されて真崎家に上がる。
 薬箱を取りに行く陽から亜麻色髪の彼女を引き受けると、翔と憲人はそのぐったりとした
身体を珠乃が通してくれた和室に移した。すぐに珠乃に布団を敷いて貰い彼女を寝かせる。
「──そう、そんな事があったの……。大変だったわねぇ」
 そして陽に代わり、翔と憲人は珠乃に事の経緯を説明していた。
 彼女はその話におっとりとしたままの驚きと二人への労いの言葉を返しながら、眠ったま
まの亜麻色髪の彼女の額にそっとお湯で湿らせたタオルを被せてやっている。
「いえいえ。俺達はただ陽に力を貸しただけの事っすから」
「……それよりもすみません。俺達も、この家の事情を知らない訳ではないのに……」
 そんな様子をそっと見遣りながら、憲人はおずおずといった感じでそう口を開く。
 珠乃に話した事のあらまし。
 それには目の前で眠る彼女が紋女(ルーメル)である事を話さない訳にはいかなかった。
 だがその事実を話してしまったら……彼女はどう思うだろうか?
 憲人も、そして一見気安く笑みを浮かべる翔も、事情を話す中で一番気がかりだったのは
その点だったのである。
「ふふっ……気にしないで。それにもし陽がこの娘が苦しんでいる所を見て見ぬ振りをして
逃げて来ていたのなら、今頃お説教している所よ?」
 だが、当の珠乃本人は一見して気分を損ねるような、二人が心配していたような素振りを
見せる事はなかった。
 二人に返されたのは、何度となく目にしてきた彼女の穏やかな微笑む姿。
「ハハ……。そ、そうっすか……」
「……そう言って貰えると助かります」
 ぎこちない苦笑いでごまかす翔と、心持ち俯き加減で静かに頭を垂れて言う憲人。
 ちらりと互いの顔を見遣って、一先ずの安堵。
『…………』
 しかしきっと、彼女は繕っているのだろう。自分達にも、そして……陽にも。
 だからこそ、二人は素直に彼女のその微笑みに応え切れないでいた。
 穏やかな時間の流れ。しかし一見そうは見えても、きっとそれぞれの胸の内には鈍色の石
を飲み込んだかのように重苦しいものがあったのではないか。
 暫し二人は、布団の中の彼女とそれを介抱する珠乃の様子を静かに見守っていた。
「───んぅ……?」
 そしてそんな沈黙が何分程続いた頃だったろうか。
 ふと、それまで眠っていた彼女の瞼が薄っすらと開いたのである。
 思わず心持ち身を乗り出す翔と珠乃。静かにじっと目を凝らしてその様子を窺う憲人。
「……」
 目を覚ました彼女は、暫くぼんやりと横になったまま天井を見上げていた。
 まだ疲労が溜まっているのか、目元も若干とろんとしたままで覚束ない。そんな彼女を覗
き込むようにして、翔が笑いかけるように努めると声を掛ける。
「やっと目が覚めたみたいだな。大丈夫か、ねーちゃん」
「……あなたは、確か……」
 その声掛けを切欠に、彼女の意識も徐々にはっきりしてきた様だった。
 彼女はむくりと起き上がると、ゆっくりと部屋の中を、自分が布団に寝かされている状態
を確かめるようにして見渡し始めた。そんな彼女の背中を珠乃がそっと支えてくれている。
「ここは……?」
「……俺達の友人の家の空き部屋です。貴女が紋女(ルーメル)だと分かったので、勝手な
がら病院ではなくこちらへ運ばせて貰いました」
 憲人のその言葉に彼女は一瞬思わず首元──あの文様“半紋”に手をやっていたが、すぐ
にその手を引っ込めた。そして自分の身に何が起きたのかをその数秒の間で把握したのか、
今度はフッと少しか弱いままながら微笑むと、
「……そうだったんですか。本当にありがとうございます。何てお礼を言えばいいか……」
 そう丁寧に憲人達に礼を述べてくる。
「礼なら陽に言ってやって下さい。そもそもあそこに足を運んだ切欠はあいつですから」
「そうそう。俺達は今回、おまけみたいなもんだったんすからね」
「……陽、君?」
「あれ、覚えてません? もう一人小柄なのがいたでしょ? あいつが真崎陽。で、そっち
がそのお袋さんの珠乃さん。この家の離れにある『民宿・まさき』を切り盛りしてる美人の
女将さんっすよ」
「あらあら? ふふっ♪」
「……。それに、ここまで貴女を背負って運んできたのもあいつです。お世辞にも体力があ
る方という訳でもないのに、貴女を助けようと必死になってね……」
 そこまで言われて、彼女はやっと思い出したようだった。
「……そう、ですか」
 そっと、彼にハンカチを巻いてもらった傷の箇所を服の上から撫でながら、
「あの子が、そこまで……」
 そう誰にともなく呟きつつ、心持ち俯いた微笑みに一抹のはにかみを滲ませる。
「……そういやその陽はどうしたんだ? まだ戻って来てねぇみたいだが」
「薬箱を取りに行った筈だが……ふむ、にしては少し遅いな」
「あの子ったら何をしてるのかしら? 別に置き場所は変えてない筈だけど……」
 その陽が話題に上り、面々はようやく彼がまだ戻って来ない事を訝しがり始めた。
 そしてやれやれと言わんばかりに苦笑し、珠乃が立ち上がろうとする。
「あ、いいっすよ。俺が見てきます」
 それをやんわりと制し、翔が代わりに立ち上がり背後の障子に手を掛けた。
 ちょうど、そんな時だった。
「────どういうつもりなの、陽!!」
 不意に聞こえてきたのは殆ど怒号に近い大きな声。
 翔は一瞬ビクッと固まると一度ごくりと唾を呑み、そっと障子を開けて外を見渡す。
「どういうって……今話した通り、だけど」
 ガラス戸越しに目に優しい緑の小さな庭を臨む廊下の突き当たり。そこに陽はいた。
 手には薬箱。そしてその目の前には、彼に詰め寄るように一人のミドルショートの髪の女
性が明らかな不機嫌面で立ちはだかっている。
 年格好は翔達より四つ五つほど年上といった所だろうか。すらりとした、無駄な肉の無い
身体をトレーナーとジーンズというラフな服装が包んでいる。
「その事情は分かったわ。緊急だって事ならね。でも、何でよりによって紋女(ルーメル)
を家に上げるの!? あんたも母さんの気持ち、知らない訳じゃないでしょう!?」
「そ、それはそうだけど……。で、でも、その……」
 両手を腰に当て、そう再び陽に怒鳴りつけるように言い放つ彼女。その迫力に陽はたじろ
ぎ殆ど反論すらできずに困惑しているようだった。
 そんな様子を、翔と途中からそっと顔を覗かせてきた憲人は恐る恐るといった感じで遠巻
きに障子の物陰から見つめていた。
 その表情は共に「マズイ事になった」といった類の苦々しいもの。
 やがてちらりと互いの顔を見合わせると、二人は気付かれぬようにそっと障子を閉じてそ
そくさと部屋の中へと戻ってくる。
「あ~あ、ややこしい事になっちまったなぁ……」
「……まぁ元より同じ屋根の下だ、遅かれ早かれバレていただろうがな」
「? あの、さっきの声は……?」
「あぁ、美月さんっすよ。陽の姉ちゃんで、大学生」
「陽君の、お姉さん……」
 布団から身を起こした体勢のまま訊ねてくる彼女に、翔は苦笑しながら答えた。再び二人
が彼女と珠乃に向き合う形で畳の上に座り直す。
 だが彼女はその情報だけでは満足してないようにも見えた。
 そっと、口元に手を当てた思案顔。
「……」
 本当はそれが何なのかは勘付いているのかもしれない。
 でもそれを自分から口にしてしまう事には少なからず躊躇いがあった。
 踏み込むべきではない他人の領分か。それとも自分も“罪”を負う一人として知り、向き
合うべき事なのか。
「……あの。さっき、その美月さんが何か言っていませんでしたか? 紋女(わたし)がこ
の家に上がる事がどうのこうのと……」
 だが彼女は最終的に後者の選択をした。
 意を決したように、それでも何かに引き止められるかのように控えめに。彼女はゆっくり
と確かめるようにそう問いかける。
「え、あ。いや、それは……」
 そしてその言葉に対し、翔達は思わず歯切れの悪さを見せた。
 明らかに言葉を濁す翔。静かに眉間に皺を寄せて押し黙る憲人。そして微笑みの中に一瞬
陰のような暗さを滲ませたものの、次の瞬間には覆い隠してしまう珠乃。
 その反応を見て、彼女は抱いていた勘を確信に変えていた。
 ぎゅっと、胸元に掻き抱いた手で無意識の内に服を握り締める。
「……」
 ちらりと。憲人はこっそり珠乃の様子を窺っているようだった。
 気まずさに堪えかねるように、翔もまた胡坐の脚を貧乏揺すりしつつ、あらぬ方向へと目
を背けて黙り込んでいる。
「……いいのよ。翔君も憲人君も、そんなに気を遣ってくれなくていいから」
 苦しげな沈黙。だがそれを最初に破ったのは他でもない珠乃だった。
「えっ……? で、でも……」
 しかし翔はそれでも戸惑いを拭い切れないようだった。
「大丈夫。……話してあげて?」
 だがそんな彼に、珠乃はにっこりと笑ってみせる。
 許しの合図。そしてそれはきっと代弁を頼むという意思表示でもあったのだろう。
 翔は暫し困った顔をしていたが、同じく気兼ねしたように押し黙っていた憲人と顔を見合
わせ互いに頷き合うと、もう一度珠乃を見遣ってから遠慮がちに口を開き始めたのだった。
「……陽と美月さんの親父さん、つまりおばさんの旦那さんは……亡くなってるんっすよ。
今から十六年前の“血の遭遇”の時に」
「────ッ……!?」
 彼女はその事実に言葉を失っていた。予想通り……いや、それよりももっと直球だった事
に驚いていたのかもしれない。
「当時、星太郎氏は国防官──いや、当時はまだ自衛官という名前でしたか、その一人とし
て星峰の駐屯地に詰めていました。そして“血の遭遇”のあった日、その先遣の調査隊の一
員として現場に赴いていたそうです。そこで、両者の交戦に巻き込まれて……」
「……。そう、だったんですか……」
 翔と憲人、二人が珠乃の様子を時折心配げに窺いながら話す過去。
 それだけで彼女は、先程の少女の憤りの意味を理解していた。
 無理もない。たとえ事実として自分の手によるものではなくても、彼女達にとって自分は
“仇”と同等に映っても仕方ないのだから……。
「すみません……。そんな事情があるとも知らずに、敷居を跨いでしまって……」
「いいのよ、気にしないで。貴女が主人の死に直接関わった訳ではないんでしょう?」
「は、はい……。でも……」
 彼女は胸を刺す痛みと哀しさを堪えながら、珠乃に振り向いていた。
 自然に、そして義務として唇からこぼれた謝罪。
 だがそれでも珠乃は怒りをぶちまける様な事はしなかった。先刻に比べて陰が差している
ようにこそ見えども、その顔に見せる微笑みはとても穏やかなままだ。
「もう随分昔の事だもの。いつまでも悲しんでいる訳にはいかないわ。じゃなきゃ、きっと
あの人も安心して眠れないだろうしね」
 くすくすと。口元に手を当てて上品に笑う。
 おそらく本当に、彼女は自分に敵意を抱くつもりはないのだろう。
「それよりもごめんなさいね? 美月はまだ気持ちの整理がついてないみたいでね……。許
して、なんて虫が良すぎるかもしれないけど、あの子も主人の事が大好きだったから……」
「珠乃、さん……」
 だがそれでも、この胸を刺す苦しみがそれで消えてくれる訳でもなかった。
 ぐっと込み上げてくる辛さを堪えて、彼女はふるふると首を横に振る。
「……いいえ。貴女が謝る事はありません。紋女(わたしたち)は、それ相応の事を仕出か
してしまったんですから……」
 気付けば部屋の空気はすっかり重くなっていた。
 翔も憲人も、彼女も、そして珠乃も。皆が一様に次の言葉を紡ぎかねたかのようにじっと
押し黙ってしまっていたのだった。
「あ、目が覚めたんですね。よかったぁ……」
 ちょうどそこへ、薬箱を手にした陽が戻ってくる。
 彼は布団から身を起こしている彼女を見ると、心の底から安堵したようににっこりとした
笑みを浮かべていた。障子を閉めるのも忘れその足で彼女の傍らへと近づいてくる。
「具合は大丈夫ですか? 傷はまだ痛みます?」
「え、えぇ……。傷自体はそんなにでもないから。身体は、まだ少しだるいけれど」
 彼女はそんな陽の表情に、ふっと穏やかな微笑みを引き出されていた。
 彼らの過去を知ったが故の罪悪感。
 だが少なくとも、この目の前の少年からは自分達に対する恨みの念を見出すことはできな
かった。そこにはただ、自分という一人の存在を親身に気遣ってくれる優しい心の気色だけ
が映っている。
「……本当にありがとう。お父さんの事があるのに、私なんかを助けてくれて……」
「え?」
 温かい気持ち、そして表裏一体に漂う申し訳なさ。
 だからこそ彼女はつい、そう口走ってしまっていた。
「……父さんの事、聞いたんですか?」
 すぐにしまったと気付いて口元を塞ぐ。
 だが陽はその一言に特に機嫌を悪くする素振りはなかった。ただ単純に、席を外している
間にその辺りの事情まで知られていたことに若干の驚きを見せる程度だった。
 一度、静かに頷く珠乃の顔を、そして振り向いて二人の友を。
「もしかしなくても……姉さんの怒鳴り声が聞こえてたから?」
 陽は確認するかのようにそれぞれに視線を向けて、小さく首を傾げて苦笑いを浮かべる。
「まぁ、な……。成り行きっつーか、おばさんもいいって言ったから……」
「……すまん」
 一方の翔と憲人は神妙な面持ちだった。
 全く与り知らぬ事もではない以上、無遠慮な対応はできなかった。
 なのに……。
「いいよ、謝らなくても。どうせ調べれば分かっちゃう事なんだし。それに姉さんと違って
僕にとっては生まれる前の出来事だから、正直イマイチ実感が沸かないしね」
 陽はそれでも、笑っていた。
「こっちこそ、ごめんなさい。姉さんの所為で嫌な思いさせちゃいましたね」
 そして逆に今度は陽から彼女へと、申し訳ないと垂れた頭。
「そ、そんな……。悪いのは私達なんです。謝らないで下さい……」
 そんな反応に彼女は明らかに戸惑っている様子だった。
 あたふたと両手を動かし、陽が頭を上げるように慌てて促そうとする。
「……ふふ。はいはい、謝り合いはそこまでにしましょう? さぁ、手当てしましょうね。
男の子達は向こう向いててね~?」
 そしてそうしたやり取りに、珠乃はくすりと笑いながら割り込むとそう言った。
 陽から薬箱を受け取ると三人に背を向かせ、その間に彼女への手当てを開始する。
「ふ~む……? 傷自体はそんなに深くはないみたいね。他に何処か怪我はしてない?」
「い、いいえ。その、撃たれたのは……こっちの腕、だけです」
 サラリとした衣擦れの音。陽達の背後からは珠乃と彼女のそんなやり取りが聞こえる。
 おそらくは薄着、半裸。
 翔が陽と憲人にちらりと目を遣り、照れ隠しに苦笑を浮かべる。
 ちょうど、そんな時だった。
『……あ』
 ふと視線を障子の先に動かした時、不意に陽達の目の前に人影があるのに気付いたのだ。
 畳の上に座る三人を、そしてその奥にいる彼女と珠乃を見下ろす不機嫌な眼。
「…………」
 障子に片手を掛けた形で、美月がいつの間にかそこに立っていたのである。
「姉、さん……?」
 まだ何も喋っていないのにダラダラと冷や汗が出る。
 陽はピシッと怖さで引き攣った顔のまま、恐る恐るこの姉を見上げて呼び掛けてみる。
「……あなたが、さっき陽の言ってた紋女(ルーメル)?」
 だがそんな声を無視して、美月は確認するように逆に問い掛けを放った。
「は、はい。私、妃翠(ヒスイ)といいます。今回はどうも危ない所を助けて頂いて──」
 そしてその眼差しの強さにたじろいでいたのは、この亜麻色髪の彼女・妃翠もまた同じで
あるようだった。若干緊張気味な様子で、彼女はそう美月にペコリと頭を下げる。
「そう。……もう聞いてるかもしれないけど名乗っておくわ。真崎美月、あなたを家に上げ
たそこの陽(おひとよし)の姉よ。残念ながらね」
 しかし対する美月の方は素っ気無かった。
 礼儀として名乗りこそはしたが、全体として好意的ではない様子を漂わせている。
 先程の陽達のやり取りをいつからか分からないが聞いていたらしい事もあって、今更本心
を隠すなどの小細工をするつもりはないらしい。
 聞き及んだ事情のの断片から想定はできた筈の反応。だが妃翠はいざその態度に的確な二
の句を告げることができず、思わず沈黙で間を空けてしまっていた。
 ましてや直情的に反抗を表すもできない。いや、そもそもそんなつもりもない。
「は、はは……。そ、そういえばまだ僕達の自己紹介がまだでし……たわっ!?」
 その気まずさを美月の真正面から受け取っていたからか、その会話に陽が少しばかり強引
に入って来ようと口を挟んできた。
 だがそんなフォローに意識が行った所為なのか、まだ妃翠が服を脱いでいるままなのを忘
れて、陽はついうっかりそのまま振り返ろうとする。そして次の瞬間には出掛かった言葉と
共に顔を赤くして、もう一度慌てて目を背け直していた。
「す、すいません……。えっと、後ろを向いたままで失礼しますね。もう聞いてるかもしれ
ませんが、僕は真崎陽っていいます。姉さんの弟で、母さんの息子、です……」
「で、俺は桐谷翔。陽とはガキの頃からの付き合い……まぁ、幼馴染って奴っすね」
「……藤丸憲人です。翔ほどではありませんが、陽達とはそこそこ長い付き合いをさせても
らっています」
「ふふっ……。改めまして、真崎珠乃です。美月と陽の母よ。宜しくね?」
 そして背を背けたままという妙な位置のままで、各々が改めて彼女に自己紹介をした。
 頬をほんのり赤く染めてポリポリと指先で頬を掻く陽。それをニヤニヤと笑いながら見遣
っている翔と、こんな時も冷静に落ち着いた口調の憲人。更にマイペースなままの珠乃。
「くすっ。はい、こちらこそ宜しくお願いします」
 そんな面々に妃翠は思わず笑みをこぼしていた。手当てをしてくれている珠乃を肩越しに
見遣ると、そう丁寧に返答を返す。
「…………」
 だがただ一人、美月だけは変わらず不機嫌な表情を崩していなかった。
「……なんで」
 互いに微笑み合う珠乃と妃翠。その姿にじっと目を向けながら、
「なんで紋女(ルーメル)相手にそんなに笑っていられるのよ、母さんっ!」
 次の瞬間、爆ぜるように噴き出した感情と共にそう叫ぶ。
「美月、さん……」
 弾かれるように我に返った妃翠。その視線が苛立ちを濃くした美月のそれとぶつかる。
 それはまさに一方的な敵愾心。陽も、翔や憲人もその険悪な様子を嗅ぎ取ってそれぞれに
戸惑いや思案の表情を見せる。
「美月」
 そんな張り詰めんとする空気に最初に手を掛けたのは、珠乃だった。
 妃翠の手当ての手を止めたその表情は、微笑みから強い女性の眼差しに変わっている。
 短い呼びかけの筈だったが、その様に美月の気迫が若干押し返されたようになる。
「…………お父さんが私達にしたお願い、忘れてないわよね?」
「ッ!?」
 そして少し間を置いて彼女が放った一言に、美月が急に顔をしかめだした。
 何かの決定打のような、まるで急所を衝かれたように大人しくなる美月。妃翠を半ば睨む
ようにしていた眼をついと背けると、そのまま不承不承といった感じで押し黙ってしまう。
 珠乃はそれ以上何も言わなかった。
 だがその一言で美月は勢いを削がれてしまったのか、暫くそのまま黙り込んだ後、
「……陽」
「!? な、何……?」
「……あんたが連れ込んだのよ。あんたが最後まで責任持ちなさいよね」
「う、うん。わかってる……」
 突然キッと一度陽を睨むようにしてそう言い放つと、やや早足で踵を返し、その場から立
ち去って行ってしまったのだった。
「ふぃ~……行ったか。相変わらずおっかねぇなぁ、美月さん」
 遠のいていく足音。それを確認すると、陽達は思わずほっと胸を撫で下ろしていた。
「はは……。ごめんね、見苦しい所見せちゃって」
「何。気にする事はない」
「そうそう。別に俺達だって何も知らないって訳じゃねぇんだしさ」
「……そう言って貰えると助かるわ。はい、おしまい。もうこっちを向いていいわよ」
 ややあって珠乃が手当てを終えて陽達に呼び掛ける。
 三人が改めて向かい合うように座り直すと、ちょうど妃翠が消毒と包帯を施してもらった
左腕を庇うようにしながら上着を羽織る姿が目に入った。
 そして彼女は四人に向かい合うように居住いを正すと、改めて深々と頭を下げた。
「……本当にありがとうございます。改めてお礼を言わせて下さい」
「はは、いいんですよ。これは僕達の、個人的なお節介なんですから」
「そうそう。それでねーちゃ……いや、妃翠さんか。具合は大丈夫なんすか? 一応見た感
じは、最初に見かけた時よりも回復してるっぽいですけど」
「えぇ。おかげさまで大分楽になりました。それに、そもそも私がこんな事にはなったのは
怪我というよりはただエーテルが足りなくなって力が出なかった所為だから……」
「へ? それって……要するに俺らで言えば栄養失調みたいなもんだったってこと?」
「そう……ですね。大体そういう解釈で問題ないと思います」
 妃翠と彼女の座る布団を囲んで、そんなやり取りを交わす陽達。
「……」
 だがそんな中で一人、憲人だけはじっと、何かを思案するように黙り込んでいた。
「妃翠さん」
 暫しの思惟の後。まるで何かを纏め終えたかのように、憲人は不意に静かな声色を保った
まま面々を──いや、妃翠をじっと見据えて口を開いていた。
「……そろそろ教えて頂けませんか? そもそも、何故貴女が追われていたのか?」
「えっ。そ、それは……」
 しかし向けられた眼差しの強さの所為か、それとも訊ねられた内容の所為なのか、当の彼
女の反応は何処か鈍かった。ちらちらと、何かに躊躇するように視線を泳がせている。
「の、憲人。別にいいじゃない。もう追っ手は巻いたんだしさ? それに妃翠さんもきっと
怖い思いをしたんだろうから、何も起きてすぐにぶり返すのは……」
「そうもいかないさ。向こうが諦めたとは限らんだろう? それに、相手の出方によっては
陽、お前達にも危害が及ぶ可能性だってあるんだ。曖昧にできるわけ……ないだろう」
「……憲人」「…………」
 そんな様子を窺って陽が苦笑いで話を逸らそうとしたが、憲人の態度は変わらなかった。
 佇まいこそ静かだったが、そこには強い意志を──友に及ぶかもしれない危険を憂慮する
想いが滲んでいるようにも見える。
 そんな気色を、何となく感じ取ったからなのだろうか。
 思わず目を丸くして言葉を詰まらせる陽の横で、妃翠の表情もまた静かに厳しさを増す。
「…………“紋女狩り(ハンター)”ですね?」
「ッ!?」
 それでもまだ躊躇があるのか、すぐには口を開こうとはしない。
 すると憲人はまるでこうなる事を予想していたかのように、そんな彼女の様子を確認する
ように一瞥を寄越すと、先程よりも声色を落として言った。ビクリと、妃翠の全身に瞬間的
な緊張が走る。
「え? それって……」
「もしかしてあれか? 確かルーメル専門の人攫い、だっけ?」
「ああ」
 その名には陽達にも覚えがあった。
 “血の遭遇”以降、大きく変わったこの国、社会。
 その変化は一見するとこの国に再び繁栄をもたらしてくれているようにも見える。
 だがしかし、光ある所には影があるともいう言葉もあるように、今日様々な面において負
の影響が現れつつあるのもまた事実だった。
 特に“血の遭遇”以降の政府の権力強化への反発──或いは紋女(ルーメル)という種族
そのものに対する敵対感情を発端とする種々の反ルーメル勢力の台頭は、しばしば世間を騒
がす事件を散発させる状況を生んでおり、人々の大きな不安の種となっている。
 怯えた様子を気遣いつつこちらを見てくる陽に、首の後ろで腕を組んで記憶を掘り起こし
ながら小首を傾げてみせる翔。
 そんな二人を一瞥して短い返事を返すと、憲人はおもむろにズボンのポケットに手を突っ
込み何かを取り出してみせる。
「……? なんだそれ?」
「弾、みたいだね……」
 それは一個の小さな弾らしき金属片だった。
 色は鈍い光沢を放つ銀色。しかしなだらかな円錐状だったと思しきその先端は、何かの圧
力に押し潰されたかのようにへしゃげてしまっている。
「──ッ!」
 すると、突然それを目にした妃翠が先程よりも明らかにビクついた様子で布団を引き摺っ
てまで後退った。珠乃が逸早くその怯えに反応し彼女を支えてあげると、そっと落ち着かせ
るように背中を擦る。
「ど、どうしたんっすか?」「……ひ、妃翠さん?」
「……」
 怪訝と共に目を丸くして振り返る陽と翔。そんな面々の様子を、
「やはり……そうか」
「え? 何?」「なんだよさっきから。もったいぶらずに言えよ~」
「……俺の記憶が間違っていなければ、これは“吸霊銀(ロスヴァー)”だ」
 憲人はじっと確認するかのように窺ってから続けた。
「……。えっと、何だっけ?」
「翔、特史の授業で習ったよ……。覚えてない?」
「……霊素(エーテル)を吸収する性質を持つ特殊な鉱物だ。元々はルーメル達の宇宙船の
動力機構に使われていたものだが、エーテルを力の源にしている彼女達にとっては唯一無二
の弱点と言ってもいい代物でもある。このように銃弾などに転用した上で身体に何発も撃ち
込めば、彼女達の生命活動を停止させる──殺す事も可能になるからな」
 指先で摘んだその銀弾を静かに転がしながら、淡々と述べる憲人の言葉。
「……うぅ」
 そんな彼の視線は、怯えたように縮こまる妃翠に向けられている。
「これは、俺達が最初に妃翠さんを見つけた場所の近くで見つけたものだ。そして妃翠さん
本人が『撃たれた』と話していた事、あの時の状況から推測するに、この弾は追っ手が威嚇
射撃か何かで撃ったものだと考えるのが妥当だろう。妃翠さんがこうして無事だったのも、
弾が直撃せずに腕を掠める程度で済んだからという面も大きい」
「……そうなんですか?」
「え、えぇ。憲人君の言った通りよ。お見通し、だったみたいね……」
「ふーん……? つーか憲人お前、いつの間にそんなもの拾ってんだよ……。何て言うか抜
け目ねぇよなぁ。あんだけ慌ててた状況だったつーのに」
 その推測は大きく外れていた訳ではなかったらしく、陽が控えめに確認すると妃翠当人も
弱々しく苦笑を浮かべて首肯を見せていた。翔は話が長引きそうな予感にカクカクと肩膝を
揺らし始めていたが、憲人は構わず一瞬そっと目を閉じてからまた開く。
「……さっきも言ったように、ロスヴァーはルーメルによってもたらされた物質──政府が
囲い込んでいるオーバーテクノロジーの一端でもある。だから政府と繋がりのある者でもな
い限り、一般人がこうした代物を入手する事自体、困難な筈なんだ。それもこのようにルー
メルを殺傷する目的であろう、武器の態であるのならば尚更に、な……」
「なるほどね……。だから、あの追っ手の正体がハンターじゃないかって言ったんだな」
「……そういう事だ」
「で、でもそれだと変じゃない? だってここは星峰だよ? 国防隊の基地もあるし、何よ
りも『特保』があるんだよ? ルーメルに関してなら政府のお膝元みたいになってるこの街
でルーメル狩りなんて、リスクが大き過ぎると思うんだけど……」
「あぁ。確かにそれはあるだろうな」
 淡々とした憲人の推測に、今度は陽が疑問を呈した。
 それはきっと、陽ではなくとも思い至った事だった。憲人はまるで予めその質問が飛んで
くる事を予想していたかのように彼に一瞥をくれると、
「だが発想を転換すればこうも言える。この街ほどルーメルが多くいる場所はない。何せ星
峰は彼女達が落ちてきた街、そして今も“共同体(コミューン)”が居を構えている地だ。
ハンター達にとっては、ここほど獲物に困らない場所はないと言っていい。それが当局に目
をつけられるリスクを伴っているとしても、だ」
 そう、落ち着いた声色のままで答える。
「……そっか。言われてみれば、そうかも」
「ふ~ん……? だとしても分っかんねぇなぁ。そもそも何でそこまでしてルーメルを狙わ
なきゃいけねぇんだ? 妃翠さん達を掻っ攫って、一体奴らに何の得があんだよ?」 
「……あるさ。奴らにとってはな」
 そして続いて小首を傾げながら呟かれた翔の疑問に、憲人はスッとその表情をより真剣な
気色へと変えていた。銀弾を弄っていた指先を止め、数拍間を置いてから言う。
「知っての通り政府は“血の遭遇”以来、ルーメルと彼女達の持つ力を囲い込む事でこの国
を再び経済大国として立て直そうとしている。実際、景気も好調になったし俺達一般市民も
少なからず恩恵を受けているしな。……だがその一方で、政府のそうしたやり方には批判も
多い。一つはルーメルの技術を囲い込む事で自国だけが利益を得ている状態に対する国内外
の──特に諸外国からの非難だ。そしてもう一つは、何といっても遺族感情の問題だろう。
公的には一応事件については両者が和解した事になっているが、それもトップダウン──当
事者を置いてきぼりにした、彼女達の技術力目当ての急ごしらえという見方も強く、今も和
解自体に反発している遺族や彼らを支援する形で私腹を肥やしている連中も少なくない」
「お、おい……」
 淡々と紡がれる憲人の言葉。
 そんな台詞に翔は小声で慌てながら、ちらりと真崎母子を見遣っていた。
 何もそこまで、おばさん達(とうじしゃ)の目の前で言わなくてもいいだろ──。
 翔は憲人の意図を読みあぐねつつもそう懸念したのだが、当の真崎母子は幸い彼の言葉で
特に気分を害しているようには見えなかった。陽はじっと憲人の真剣な表情を見つめたまま
話に耳を傾けているし、珠乃に至ってはこちらを一瞥し「大丈夫よ」と言わんばかりに微笑
を返してくれてさえいる。
「……つまり“敵”なら、探せばいくらでもいる状況だという事だ。特にルーメル当人を手
に入れる事ができれば、そこからこの国が囲い込んでいる多くのものを我が物にできる可能
性が高い。だからこそ、紋女狩り(ハンター)という闇業者も成立するんだ。彼らが実際に
ルーメルを攫い、大金と引き換えに依頼主或いはディーラーなど──ルーメルを欲している
勢力に売り払うという形でな」
「……。具体的にその勢力って、どんな奴らなの?」
「実際何処までそうしたネットワークが広がっているかは分からない。だが容易に推定でき
る範囲で挙げるとするなら、何よりも諸外国だろうな。一国の経済を劇的に復活させる程の
オーバーテクノロジーの数々だ、欲しがらない筈はない。囲い込みを批判するのもそういっ
た思惑があるからだろうしな。ある程度力のある国の一つや二つ、裏ルートでルーメルを手
に入れようと暗躍していても何ら不思議じゃない」
「…………」
 静かに一つ質問をした後、陽はじっと黙って憲人の返答を聞いていた。
 一通り話して言葉を止める憲人に、そんな二人のいつもと違った様子を感じ取り、言葉な
く戸惑っている翔。
(……何だ? 憲人も陽も、めっちゃ……怒ってる……?)
 そんな予感はあながち間違っていなかったのだろう。
 見てみれば、当のルーメルの一人である妃翠の表情も神妙に俯いたまま、うかないものと
なっている。憲人の話した通りの知識を持ち合わせているからなのか、或いはそうした同胞
達の不幸を見聞きしたことがあるからなのか。少なくともその様子は彼の話が偽りではない
事を証明するものだった。
「……間違ってる」
 するとぽつりと、沈黙が降りていた中で。
「間違ってるよ、そんなの……っ!」
 それまでじっと黙っていた陽が、突然そう声を張り上げる。
「人身売買そのものじゃないか。それにまるでルーメルをモルモットみたいになんて……。
そんなの、そんなの絶対に間違ってる! 妃翠さん達はモノなんかじゃない! 僕らと同じ
ようにヒトの心を持ってるのに……!」
 それは、まっすぐな憤りだった。
 知る由も知らされる事もなかったこと。
 それでも現実を知り、想像しただけで胸の奥底から湧き上がってきた想い。
 俯いた体勢と前髪で表情を隠したまま、陽は軋むほどに力を込めた拳を畳の上で強く強く
握り締める。
「陽、君……」
 そんな彼の横顔を、妃翠はきゅっと胸元に手を当てながら見つめいた。
 翔達他の面々も驚きで目を丸くしたまま陽を見遣り、思わず言葉が出ないでいる。
 温厚なお人好し。
 陽の周囲の者達が持っている、彼に対する大まかな評。
 だがここに至っては、そこにもう一つ新たな事項を加えねばならないだろう。
 誰よりも、他人(ひと)の不幸を厭う者──と。
(嗚呼、そういやそうだった……。こいつは、こういう奴なんだっけ……)
 そんな思考を今更ながらに改めて過ぎらせつつ、翔は心の中でそう静かに苦笑していた。
 ぴんと張り詰め、熱くなった場の空気を解すように、頭の後ろで手を組みながら気安いよ
うな素振りを見せながら相槌を打つ。
「ま、文字通りのモルモットも“人じゃない”から使われてるんだろうけどよ。だけど、俺
も陽の意見に賛成だな。人じゃねぇからって何でもありだってのは違うだろ」
 その言葉に一瞬微笑んだようにも見えたが、陽はじっと俯き加減のままだった。
 それはまるで、内から沸き上がってくる激情を必死に鎮めようとしているかのように。
「……それだけ、ルーメルをヒトと見なさない者が決して少なくないという事だ。異なると
いうことは、それだけで恐怖やひいては迫害の的になるものだからな……」
 続いて呟くように放たれた憲人の淡々とした言葉。
 陽はちらと、眉間に皺を寄せて彼を見遣ったが反論まではしなかった。それはきっと、彼
からもまた、表面こそ冷静だがその言葉や様子の中に同じく内に秘めた静かな怒り──或い
は嘆きのような気色を読み取れたからなのかもしれない。
「憲人君、随分と詳しいのねぇ」
「……前々から個人的に関心のあった事ですから。折につけて自分なりに色々と調べていた
だけのことです」
 それでも憲人自身はあくまで冷静沈着を貫いていた。
 彼の講釈に珠乃がそう感心した様子を見せても、淡々と返答をするだけで済ませる。
「……それよりも陽、それに妃翠さんにおばさんも。問題なのは今後の事についてです」
「今後……?」
 そして居住いを正すと、改めて面々を見渡してから言った。
「さっきも言った通り、俺達でハンター達を撒きはしましたがそれで奴らが諦めたとは限り
ません。ですから念の為暫くは、妃翠さんには身を隠してほとぼりが冷めるのを待ってもら
う方がいいでしょう。それでも俺達の手に負えない、陽やおばさん達も含めて身の危険が及
び続けるなら『特保』に通報して、彼女を保護して貰うのがベターだと思いますが──」
 そこまで言って、ちらりとその視線が妃翠へと遣られる。
 陽も、彼につられるようにしてゆっくりと彼女を見る。
「…………」
 しかし、当の妃翠の表情は険しかった。
 政府──『特保』の保護下に入れば少なくとも権力の名の下、安全を保障してくれる筈。
 にも拘わらず、彼女の表情はまるでそれは気が進まないとでもいうかのように硬かった。
 憲人は一瞬だけ、静かにそんな彼女の様子を凝視すると、再び視線を戻して続ける。
「……。ただ個人的には先ず妃翠さんの傷が癒え、体調が回復するのを優先すべきだと思い
ます。実際に『特保』に今回の件を報せるかどうか決めるのも、それを待ってからでも遅く
はないでしょうから」
「そうねぇ……。私はそれでいいわよ。陽もいいわよね?」
「え。あ、うん……」
 珠乃に同意を求められて、陽は神妙な面持ちのままコクリと頷いていた。
 元より自分が持ち込んできたこと。姉に言われるよりも以前に、中途半端な責任で事を済
ませたくもなかった。
 それに──このまま彼女がいなくなってしまうのが、何故か正直惜しくも思えたから。
「……いいん、ですか?」
「ふふ、勿論よ。それにうちは民宿──癒しと寝床を求める人がいれば誰であろうとも受け
入れるべき場所ですから。だから気兼ねしないで? ねっ?」
「ですけど……」
「……? あぁ、もしかして美月の事? 大丈夫。あの子の事なら私達でちゃーんと説得し
ておくから。それにいくら何でもあの子も力ずくで貴女を追い出そうとまではしないでしょ
うし。万が一そんな事になっても、私がさせないわ」
 すっかりその気になってきた珠乃に、妃翠は少々気圧されているような状態だった。
 それでも分け隔てない、柔らかな彼女の微笑みを目の当たりにして、じわじわと堅い何か
が解されていく様で。
「……すみません、ありがとうございます。お世話に……なります」
 そしてやがてフッと綻ぶ表情。
 妃翠は居住いを正して正座し直すと、そう言いながら深々と頭を下げる。
 こちらこそと微笑み返す珠乃。頬を静かに掻きながら何か照れているような陽。
「……うん。とりあえずこれで当面の話はまとまったみたいだな」
「そうだな……。では、そろそろ俺達は御暇するとしよう」
 そんな光景を心持ち離れた距離感で眺めながら、翔が満足げに笑って頷きながら言った。
次いで憲人も小さく静かな安堵の息をつき、銀弾を再びズボンのポケットに押し込むと、翔
にそう促して立ち上がろうとする。
「あ、うん。二人ともありがと──」
「陽」
 すると珠乃が、見上げる格好で友二人を見遣っていた陽を短く呼んだ。
「……? 何?」
「日も暮れてきてるから、翔君と憲人君を送っていってあげなさい」
「いいけど……。でも妃翠さんは……?」
「大丈夫、私もいるんだから。いいから行ってらっしゃい。それに……陽、あなた一度外の
風に当たって来た方がいいわよ?」
「え……?」
 そう遠回しに促されるようにして、陽はようやくその意図に気がついた。
 自分の顔が──まだ憤りの気色を残して強張ったままである事に。
「……分かったよ。じゃあ、行って来る」
「はい。行ってらっしゃい」
 そっと頬を撫でてから、思わず苦笑しての首肯。
 そうして陽は、珠乃と布団の上の妃翠に見送られながら、翔・憲人と共に部屋を後にして
いったのだった。

「──じゃあ、またな~」
「あぁ」
「うん。また明日」
 人通りの少なくなった、日没後の町内。
 陽と憲人は、その道中の分岐路で別れていく翔を暫し見送ってから再び歩き始めた。
 ほどよい静寂。夜の帳が深く降りつつある街はしんと静かだった。
 黒々とした夜空に点々と瞬く星々と、音も無く流れてゆく夜風。
 静かなで穏やかな仲春の風が、まるで自分の中に燻っている昂ぶりをゆっくりと鎮めてい
ってくれるかのように陽には思えた。
「……落ち着いたか?」
 翔と分かれてから暫く歩いていると、フッと憲人が視線を寄越していた。
 自分とは背丈があるので、陽は自然と彼を見上げる格好になる。
「うん……。もう大丈夫」
 陽は思わず苦笑いを浮かべつつ答えた。ポリポリと照れたように頬を掻きながら、先刻の
自分の姿を反芻すると、内心静かに落ち込んだ気分になってしまう。
「ごめんね、つい熱くなっちゃって……。みっともない所を見せちゃった……」
「……謝る事はない。憤る気持ちは、俺も分からなくはないさ」
 一方で憲人は相変わらず淡々とした、冷静な声色を崩さなかった。
 苦笑してみせる陽をじっと見遣りながら、少し何かを堪えるような間をおいて言う。
「そう……? ありがと。でもね、つくづく僕って駄目だなぁって思う……」
「……どういう事だ?」
「だって、僕っていざって時になるとどうにも頭の中が狭くなっちゃうから……。今日の事
だって、もし憲人がいなかったらきっと僕も翔もテンパって中々動けなかったと思うし」
「……」
 ポケットの中で例の銀弾を指先で転がしながら、憲人は暫く聞き手に専念していた。
 大柄な制服姿の少年と、一足先に私服に着替えてきた小柄な少年。人気の殆どない夜道を
そんな二人の人影が肩を並べて歩いていく。
「だけど憲人はあんな時でも冷静に妃翠さんがルーメルだって逸早く気付いたし、普通の病
院じゃ治療はできないって判断もできた。それに……これは家に着いてから気付いた事なん
だけど、途中でタクシーを拾ってくれたのも、ハンター達から僕らを含めた全員を確実に引
き離す為……だったんだよね?」
「……それも無かった訳じゃないな」
「やっぱり。ハハ、やっぱり憲人は凄いや……」
 漏れる苦笑い。いや──本当は自嘲。
 陽は控えめな憲人の言葉に、そう乾いた笑いをこぼした。
「……。やっぱり駄目だなぁ……。こんな未熟者なのに誰かを助けようとするなんて、間違
ってるのかな……?」
 そして、ついポロリとそんな弱音が口から漏れる。
「そんな事はない」
 だが対する憲人の言葉は即答に近かった。いつにも増して声色が力強かった。
 思わず陽が目を丸くして彼を見ていた。そこでようやく彼自身も自分の発言に気付いたの
か、憲人も一瞬眉間に皺を寄せるとピクッと唇を振るわせる。
「…………」
 だがそこから先に続く言葉は無かった。
 急にフリーズしたかのように数秒固まる憲人。
「憲人……?」
 きょとんとして見遣ってくる友に、憲人は思っていた。
 ──俺は、その優しさに救われたんだ。
 思考よりも先に感情に近い場所から湧き上がってきた台詞。だが憲人はすぐにそれを言葉
にしてしまう事を躊躇った。
 気恥ずかしさもあったのだろう。しかしそれ以上に、実際に安易に口にしてしまう事でそ
の想いが軽くなってしまうような気がして怖かったのだ。
 それでも自分は、彼が誰かを助けたいと願う心を否定しようとは思わなかった。
 おそらくは分相応ではないのではないか、偽善的や自己満足ではないかといった意味合い
の憂慮があるのだろうと思う。
 しかし、だから何だというのだろう? 少なくともお前には誠意がある。その願いの価値
に揺れ動き、真剣に悩む心がある。何かを変えなければ、与える事も得る事もできない。
 自分は長らくずっと「考えて」ばかりだった。育った家、家業の特殊性がそうさせたのか
もしれない。淡々と進む世界とそこでもがき苦しむ人々との温度差。そこに何時しか言い知
れぬ不安を覚え、気がつけばその答えを探そうと当てのない独学の日々を送っていた。
 だから……正直羨ましかった。彼らのようにまっすぐな心な在り様に。
 たとえそれが、現実の世界の中で往々にして危うい立場に曝されると知っていても。
「……いや。何でもない」
「? そう……?」
 だから。だからお前は──そのままでいい。思うままにその誠を成せばいい。
 もしも足りない部分があるのなら、俺が支えよう。思い悩む部分くらいなら、俺も一緒に
背負ってやれるだろう。
 それが、かつて独りだった自分を救ってくれたお前達への……恩返しとなるのならば。
「……それよりも。今後の事についてだが」
「今後? うん」
 ふぅと深めに一息をついて、憲人はそう静かに話題を変えていた。
 陽も特に彼の数秒の硬直に大きく疑問を持つこともなく、コクと頷いて促してくる。憲人
は再度、頭の中をしっかりと整理しながら続けた。
「とりあえず妃翠さんは、お前の家でまとまったように当面体調が回復するまで面倒を見て
おいてくれ。それに少なくとも暫くはハンター達の追跡を振り切る事が大事になる。皆に話
したように、ほとぼりが冷めるまでは極力家にいて貰うようにしておいてくれ」
「うん……分かった。でもさ、ほとぼりって言ってもどれぐらいなのかな? 一週間? そ
れとも十日、くらい?」
「……そんなものでいいんじゃないか。向こうが諦めるまでの我慢比べ、だな」
 そんな事を話している内に、二人は新たな分岐路の前までやって来ていた。
 通行人を静かに待つ複数の曲がり角。その内の一つは途中で緩い上り坂になり、住宅街の
郊外の方へとぽつんと延びている。
「そう、だね……。あ、もうここまで来ちゃったのか」
「……あぁ」
 憲人はその坂の細道の方へと足を向けていった。陽も途中まで一緒についていく。
「じゃあね。妃翠さんの事は僕らで頑張ってみるよ。何せ自分で乗りかかった船だもの」
 互いに向き合い、陽が努めて微笑みながら言う。
 後は見送るだけだった。だが、憲人は何故かすぐにはそこから動こうとはしない。
「……陽」
「うん? 何?」
 すると憲人はじっと陽を見遣りながら、
「もし、もしもハンター達(やつら)がお前──俺達の手に負えなかった場合は、妃翠さん
の事を『特保』に委ねる心積もりをしておけ」
「……え?」
 まるで何かを躊躇うような様子でそう口を開いた。
「それは、うん……。確かに僕らみたいな一般人よりは、政府に保護して貰った方が身の安
全って意味じゃ確実だとは思うけど……」
 頭に無かった訳ではないだろう。だが、陽は少なからず動揺していた。
 もごもごと。少々口篭もりながら言葉を濁す。しかし憲人は、じっとそんな反応を見つめ
ていた。密かに、もっと別の事を考えていた。
「それは、どうだろうか」
「へっ?」
「……俺には『特保』──政府の庇護が、必ずしも安泰だとは思えない。お前も妃翠さんの
反応を見ただろう? あれは明らかに気が進まないといった感じだった」
「う、うん……」
 彼の言葉に、思わず陽は頷いていた。
 確かにあの時の彼女の様子には違和感があった。現在は政府というオブザーバーがいるに
せよ、元々彼女達は共同体(コミューン)の中で暮らしてきた筈なのに。
「……それに、これは俺自身も確認の取れていない話なんだがな。どうやら彼女達の間では
“今のコミューン”は評判が宜しくないらしい。昔のコミューンではもう無い、と……」
「それって、どういう事……?」
 だからこそ次に憲人が喋ってくれた情報に、陽は更に首を傾げる事となった。
 今と昔のコミューンが、違う。それは一体どういう意味合いなのか……?
「分からん。実際のもの──いや、組織か。俺は見た事もないしはっきりとは言えないが、
少なくとも現在も多くのルーメルが各地に散ったままである以上、彼女達にとって今現在の
コミューンが何かしらの理由で“帰りたくない場所”になっているのかもしれないな」
「……。帰りたくない、場所……」
 その気になるフレーズを静かに反芻する。
 だがそれで彼女達のその理由の見当がつく訳でもなく、暫し二人は黙り込んでいた。
 しんと静かな夜闇が二人を見下ろしてはすり抜けていく。
「……ともかく」
 そしてそれが数分ほど続いた頃だろうか。
「できれば俺達で何とかしたい所だな。そもそも、妃翠さん自身が『特保』──政府に対し
てあまり好意的ではないようだし、本人の意思を蔑ろにして無理強いもできまい」
 その沈黙を破るように、憲人がそっと口を開いてそう言う。
「そうだね……」
 陽も、その意見には賛成だった。
 理由は分からない。だけど、当人の望まぬ救いは救いとは言えないと思うから。
「じゃあ……僕もう行くね。道、暗いけど大丈夫?」
「大丈夫だ。お前こそ気をつけて帰れよ」
「うんっ。じゃ、また明日」
「……あぁ」
 とりあえず彼女の下に戻ろう。
 陽は一先ずその場で考える事は止め、その場を後にしようとした。憲人にすっかり温厚な
心に戻った微笑みを残し、手を振りながら踵を返して小走りで駆け去っていく。
「……」
 そうして彼の後姿が小さくなっていくのを暫し見送って、憲人は一人その場に残された。
 夜風が一瞬ふわっと彼を撫でた。もう周りには誰もいない。皆が皆、それぞれの帰るべき
場所に帰り、世界が夜から朝に変わるのを待っている。
(……かつて家族を失った人間達と、その原因となったルーメルの一人との同居か)
 ポケットの中で弄っていた銀弾から指先を離す。
 まだ自分達が生まれるよりも以前に起こった悲劇、時代の転換点。しかし十六年もの月日
が経つ今でさえ、その本当の真実は定かにすらなっていない。
(傍から見れば、何とも奇妙な組み合わせではあるんだがな……)
 それでも彼ら真崎家は──約一名を除いて──彼女を受け入れようとしている。
 彼の人となりとその経緯を知ってこそはいるものの、それでも正直ある種の不思議さは残
るものだ。
「…………」
 ザワッと吹く風を仰ぎ、友の立ち去った方向を見遣る。静かに呼吸を整え、思う。
 少なくとも今我が友はまた一つ、苦難の道を選ぼうとしているのかもしれない……。
(挫けるなよ、陽……)
 誰もいない暗がりの細道の上で、憲人はそう心の中で願いにも似た祈りを込める。

 時を前後して。
 翔は一人、暗い夜道を鼻歌混じりに歩いていた。
 住宅街からも距離を置いた丘の最中。辺りには民家は点々としかなく、日の落ちた現在は
それが幾ばくかの灯りとなって確認できる程度だ。
 アスファルトといった人工のものではない、草木と土の匂い。
 人によってはこの時間この場所にいる事に不安を覚えるかもしれない。
「~~♪」
 だが翔にそんな様子は見られない。さもそれが普通の、慣れ親しんだ庭であるが如く、月
明かり以外満足な光もない中を迷いもなく歩いていく。
 それから少しして、まとまった灯りが翔を迎えた。
 倉庫と思しき幾つかの棟と、住居スペースらしき家屋。
 そしてそれらが放つ灯りに照らされるようにして、敷地の入口には『桐谷農園』と書かれ
たペンキ塗りの看板が外灯の下で佇んでいる。
 まとまった照明。そこでようやくこの辺り一帯がただの野原ではない事に気付かされる。
 少なくとも視界に入る限りの周囲の敷地が全て、相当な規模の畑になっているのだ。
 昼間は陽の光をたっぷりと浴びて、競い合うように己を育む農作物達。だが日が落ちた今
は、心なしかそんな昼の活力を抑えて静かな寝息を立てているように錯覚する。
「……っと。たっだいま~」
 そんな植物達の佇まいを、灯りの下でざっといとおしいげに見遣ってから、翔はいつもの
調子で玄関の扉を開けると帰宅を果たす。
「んむぅ……? あ、翔か。おかえり」
 家の中に入ると、既に私服姿の翼がスナック菓子をつまみながらリビングでテレビを見て
いた。弟の声に気付くと、口の中のポテチをもぐもぐと飲み込みながら振り向いてくる。
「随分と遅かったじゃない。陽や憲人君と遊んでたの?」
「ん? あぁ……」
 その横からひょいとポテチを数枚抜き取って口に放り込む翔に、そう翼が訊ねた。
 咀嚼する途中のまま、翔は一瞬固まる。つい出掛かりそうな言葉を一旦飲み込むと、少し
思案を巡らせる。今日の事は一応、周りにあまり話さない方がよさそうなのだが……。
(……ま、こいつなら別にいいかな?)
 しかしそんなに思い悩む程にはならず、数秒でそう判断する。
 何も陽とは知らない仲でもない。自分同様、幼い頃からの付き合いの幼馴染なのだから。
「まぁ、途中まではそうだったんだけどな」
「……?」
 そして翔は、小さく怪訝を示す翼に向かい合う位置のソファにどさっと腰を降ろすと、今
日起きた一連の出来事について話して聞かせたのだった。
「──えぇっ!? あ、陽ん家に紋女(ルーメル)!?」
「しぃ~っ! 声がでかいっての。一応、まだ周りには秘密って事になってんだから」
「あ。うん……ご、ごめん」
 その経緯を聞かされた翼の反応は、やはり驚愕だった。
 そんな、思わず大声で叫んだ双子の姉を翔は慌てて窘める。念の為に家の中を見渡してみ
たが、特に他の家族に聞かれたような様子も気配もない。一応、ほっと安堵の息をつく。
「でもさ、大丈夫なわけ? まぁ陽は連れ込んだ本人だし、おばさんもあんな性格だから表
立って拒否するような事はしないと思うけど……美月さんが黙ってないんじゃない?」
「あぁ。実際、相当機嫌悪かったぜ。陽も怒鳴られてたし。でも結局、おばさんが説得して
一先ずは収めてたって感じだったなぁ……」
「……そう。大変ねぇ……」
 懸念するような、もしくは一抹の呆れが混ざっているかのような。
 神妙に頷くような翼の声色。しかしよく見てみると、その表情は何故かもっと別の事柄に
意識が向いているらしいことを窺わせているかのようだった。
 翔は再び手を伸ばしたポテチを咀嚼しながら、密かに彼女そんな様子に違和感を覚える。
「……あ~、そっかそっか」
 しかしその怪訝な表情もほんの数秒だった。
 次の瞬間にはニヤリと、翔の表情は悪戯心の疼いた、気安い感じのそれに変わる。
「悪ぃな、気付かなくって。そりゃあ惚れた相手ん家に──泊まりに来た客でもねぇのに女
が住み着くらしいなんて知りゃあ気が気でもなくなるわな?」
「な……っ!?」
 そしてそんな言葉に、翼は面白いほど食いついていた。
 短く上がった驚きの声。カァッと今にも湯気が出そうなほどに赤くなる顔。
「な、な、何言ってんのよっ、いきなりっ……! な、何で私が……」
「分かりやすい奴……。気付いてないとでも思ってたのかよ? 何年お前と双子やってると
思ってんだ?」
 それを見てますます気安くなり、そして苦笑する翔。
「それに相手がガキの頃からのダチなら馬鹿の俺でも勘付くってーの。ま、肝心の本人は気
付いてないっぽいけど」
「うぅ……。だ、だからぁ……」
 赤面したまま翼はわなわなと両肩を震わせていた。しかし直情の任せて怒鳴ってしまえば
確かに翔の言う通り、思う壺でもある。
「でもさ? 正直な話、そんなカッカばかりしてちゃ勘違いされるぞ。あいつ、変な所で真
面目だからなぁ……。まぁ、言ってももう手遅れかもしれねぇけど」
「う……、うるさいっ!」
 それでも我慢は長くは続かず、次の瞬間には翼の手からソファに置かれていたクッション
が投げつけられていた。しかし翔はこれもいつもの事だと言わんばかりにひょいと身をかわ
すと、苦笑を浮かべたままご機嫌ななめになった姉を見遣り、立ち上がる。
「……まぁ、そう言う事だからさ」
 鞄を再び肩に引っ掛けて、肩越しに姉を見る翔。
 その表情を、フッとそれまでのからかいの気安さから真面目なものに変えながら。
「もし陽がその方面で困ってる事があったら手を貸しやってくれよ。勿論、俺も憲人も協力
は惜しまないつもりだけどさ」
「……それは構わないけど。でもいいの? さっき周りには秘密だって言ってたじゃない」
「なんだよ、お前仲間外れが良かったのか? 別に大丈夫だろ? 陽も怒りはしねぇって。
何もお互い知らない仲じゃねぇんだしさ。あいつに頼られるのが嫌か? いや……それとも
むしろ恋敵に塩を送るのが気に食わ──」
「るっさいっ!!」
 一瞬、語気が弱まった翼だったが、結局また二つ目のクッションが宙を飛んでいた。
「っと……。お~怖ぇ怖ぇ。おっかない姉貴を持つと苦労するぜ……」 
 翔はそれもひょいと交わすとまた悪戯小僧の様子を垣間見せつつ、そそくさとその場を後
にしようとする。
「ま、何にせよ頼むぜ? 俺は一旦部屋に戻るわ。あぁ、それと先に風呂入っていいか? 
別に疲れちゃいねぇけど、走り回ったから汗かいてるしさ」
「……好きにすれば? どうせ私はもっと後だし」
「へ~い」
 背を向けて、ひらひらと手を振りながらリビングを後にする翔。
 その後姿が見えなくなるのを見届けて、残された翼は一人静かに大きな息をついた。
「何よ。こっちの気も知らないで……」
 不機嫌をぶつけるように、ポテチに手を伸ばしてはもぐもぐと頬張る事暫し。
 つけっ放しのテレビの中では、夕刻時のニュース番組からかしかましい芸能人達のトーク
番組へとその映し出される内容がいつの間にかシフトしていた。
「……」
 気が気でない事はない、気にならないと言えば……嘘にはなってしまうのだろう。
(う……。ち、違うわよ? 私はただ陽ん家にルーメルが上がる事でギクシャクしないかが
心配なだけであって……)
 しかし中々そんな本音を認めたくない自分もいる。
 翼はぶんぶんと頭を振りながら、相矛盾する自分の中の思考を振り払おうとする。
 少しだけ、息が荒くなる。ぼーっと揺らぐ思考。でもただ一つだけ確かなのは、陽達一家
への心配の念があるのだという事。
「陽ん家にルーメル、か……」
 チクタクと単調に時を刻む壁時計とテレビの音だけが部屋に響く中で、
「…………面倒な事にならないといいけど」
 再びポテチに手を伸ばしながら、そう翼は誰にともなく呟いていたのだった。


 何時の間にかまどろみ、落ちていた意識。
 それがゆっくりと、自分を抱えて浮き上がろうとしているような感覚がする。
「……んぅ」
 瞼の裏にはカーテンから漏れる朝日の光が、耳には遠くから小鳥の囀りが届いてくる。
 まだ眠いと訴える重い身体でごろりと寝返りを打つと、陽は布団の中に入ったまま仰向け
になって木目の天井を見上げた。カーテンの隙間から漏れる朝の光。それらが静かに部屋の
中に漂う塵すらも照らし、微かなきらめきを演出している。
 そうして暫く布団の中でぼうっとしていると、やがて耳に別の物音が聞こえてきた。
 ゆっくりと眠気が後退を始めて感覚がいつもの通りに戻ってきたらしい。どうやら階下で
家族が言葉を交わしているようだ。
 母さんと姉さ──いや違う。誰だろう、この声は?
(…………あぁ、そっか。そういえば昨日から妃翠さんがいるんだっけ……)
 一瞬浮かんだ疑問だったが、それも数秒で立ち消える。昨日の慌しかった出来事の記憶が
頭の中をサァッとおさらいをするように駆け抜けていった。
 どうやら、彼女は既に起きているようだった。
(別にゆっくり寝ててもいいのに。具合、大丈夫なのかな……?)
 心の中でそうは思ったが、一先ずは自分が起きなくては。
 もそっと棚状のベットボードに手を伸ばし、目覚まし時計で時刻を確認する。いつもなら
まだ余裕のある時間だが、今日はできれば早めに学校に着いておきたい。
「……起きなきゃ」
 そしてまだ眠気を訴える身体を引っ張り出しながら、陽はもそもそと起き始める。
「ふぁぁ……、おはよう~……」
「ふふっ。おはよう、陽君」
「あ、はい……。おはようございます、妃翠さん」
 学校の制服に着替えて階下のダイニングに降りると、食卓には既に妃翠が座り、のんびり
と茶を啜っていた。既に朝食は終えたのか、卓上には平らげた丁寧に重ねられた料理の皿。
 まだ眠気の残る陽の顔を見遣りながら、彼女はフッととても穏やかな微笑みを見せる。
「おはよう~。ご飯できてるから、顔洗って食べちゃってね~」
「うん~……」
 そして珠乃も、流しで洗い物をしながらちらりと振り返って言う。
 陽は一旦空いている席に鞄を置くと、その足を洗面所に向けた。蛇口から流れる冷たい水
で顔を洗うと、井戸水経由のほどよく冷えた刺激がまだ残る眠気を取り払ってくれる。
(……よしっ)
 ぱちんと両頬を軽く叩いて、眠気を抜き取る最後の一発。そして鏡の前の自分に言い聞か
せるように小さく呟くと、陽は再び二人の待つダイニングへと戻っていく。
 席には既に朝食が並べられていた。
 ご飯に若布と豆腐の味噌汁。焼き魚と玉子焼き、そして白菜の漬物。
 家業が民宿という事も影響してなのか、真崎家の食卓は概して和食で占められるケースが
多かった。
「……ところで」
 席に着きながら。
「妃翠さん。身体の方はもう大丈夫なんですか?」
 陽はふと思い出すようにして、そう向かいに座っている妃翠に顔を向けて言う。
「えぇ、お蔭様でだいぶ楽になったわ。昨夜も今朝も、美味しいご飯を頂いたしね」
「ふふっ……。そう言って貰えると私も作り甲斐があるわ」
 微笑んで答える妃翠の前の皿を、珠乃が同じく微笑みながら下げていた。再び流しに戻っ
て洗い物に追加すると流れる水音がまた少し変わる。
 何となくだが、微笑ましかった。水音と共に母の鼻歌も聞こえてきそうな錯覚がする。
 だけど──。
「……姉さんは、もう出たの?」
「……えぇ。一時間くらい前、かしらね?」「……」
 少し間を置いてから静かに投げ掛けてみた言葉。
 その返答に珠乃が一瞬、詰まったようになったのを、予め注意深く窺っていた陽は見逃さ
なかった。それにちらと目を遣ってみれば、妃翠もピクリと数秒、湯飲みを握る手が止まっ
ていたようにも見える。
(やっぱり、か……)
 予想はしていた事だが、やはり実際にそうだとなると彼女には申し訳ない……。
「……やっぱり姉さん、今朝も不機嫌だったんだね」
 思いつつ、確認するように陽が言うと、妃翠は肯定の代わりの微かな苦笑を漏らした。
 珠乃も肩越しにそんな息子を見遣りながら、
「えぇ……。折角一日の始まりの朝ご飯だっていうのに、あの子ったら妃翠ちゃんと顔も合
わせようとしないで、ぶす~っとしたまま早食い気味にね……」
 そう困ったような表情で、ため息を吐き出すかのようにして言う。
「はぁ……やっぱりかぁ。昨日、母さんと二人で説得したんだけど……。ごめんさない、妃
翠さん。朝から嫌な思いさせちゃって……」
「いいのよ。気にしないで? それにああいった反応は別に今回が初めてじゃないし……。
もう慣れっこだもの。それに私達が文句を言うのは……筋違いじゃない?」
「妃翠さん……」
 向き直ってペコリと姉に代わって非礼を詫びる陽。
 だが、対する妃翠はあくまで穏やかな苦笑以上の表情を見せる事はなかった。少しだけ心
持ち俯き加減で呟くようにそう言うと、そっと静かに湯気の立つ茶を啜る。
「……」
 陽は、居た堪れなかった。
 確かに自分達は『遺族』だ。だけどそれを理由にざっくり過ぎる敵意を向ける事は、果た
して本当に“正しい”事なのだろうか……?
「……陽」
 テーブルの上の料理に目を落としながらそんな思考が頭を過ぎっていると、ふと珠乃が静
かに自分を呼ぶ声がした。
 顔を上げると、珠乃は洗い物の手を止めてこちらを見ている。
 その表情は先程よりも幾分か柔らかく、まるで我が子達をそっと見守るかのようだった。
「美月のことなら暫くそっとしておいてあげなさい。あの子も、きっと時間が経てばもっと
冷静になれるわよ」
「うん……」
 言われて、陽は少しトーンを下げてか細い返答で頷いていた。
 その様子に僅かにくすっ微笑むと、珠乃は再び洗い物に戻っていった。カチャカチャと食
器の音がし、軽く水を切って乾燥機の中に並べられていく。
 そんな母子の様子を、妃翠は黙って少し離れた感じで見守っていた。
 おずおずと目を向けてみると、彼女は静かに微笑んでくれる。陽はまだ心の中に引っ掛か
りを覚えながらも、その心遣いに同じく微笑み返す。
「……いただきます」
 一抹の期待と、それを消し去ろうとするリアルさを伴う強い予感。
 自分よりも長く生きている姉。しかしその内面から、ルーメルに対する嫌悪の念が消え去
っていっているようには……正直、思えなかった。
(そう簡単に頭を冷やしてくれていれば、いいんだけど……)
 ぽんと手を合わせ、ようやく目の前の朝食に手をつけ始めながら。
 陽はふと、昨夜の事を思い返していたのだった。

「──は~い、お待たせ~♪」
 それは翔達を見送って家に戻って来てから暫く時間が経った頃。
 珠乃に言われて部屋で休んでいた妃翠を伴ってダイニングに向かうと、陽の五感に美味し
そうな料理とその匂いが飛び込んできた。
 見れば食卓の上には、並べられつつある色取り取りの料理の数々。
 できるだけ効率よく節約した遣り繰りで暮らしている真崎家において、それは明らかにご
馳走の域だった。
「ど、どうしたの母さん? 何なの、こんなご馳走……?」
「ふふ、決まってるじゃない。妃翠ちゃんの歓迎会よ♪」
「私の……ですか?」
 鼻歌混じりに料理を盛り付けている珠乃に話しかけてみると、彼女はにこにことしながら
振り向き、そうさも当然と言わんばかりに答えた。
 予想以上に朗らかな母の姿に、思わずポカンとする陽。その傍らではそっと彼に支えられ
た妃翠が瞳を静かに揺らして突っ立っている。
「……私は別にそんな事しなくてもいいじゃないって言ったんだけどね。でも母さんってば
言っても聞かないし……」
 一方で、既に手伝わされていたらしい美月の表情は相変わらず不機嫌なままだった。
 ぶつくさとそう静かに不満を漏らしながらも、若干ぞんざいな感じで木製のボウルに入っ
た山盛りサラダをテーブルの上に置く。
「もう、美月ったらそんな事言わないの。これもきっと何かの縁なのよ。それを自分から乱
暴に振っちゃだ~め。それに妃翠ちゃんは栄養失調みたいな状態なんでしょう? だったら
しっかり食べて元気つけなくっちゃ」
「……そういう問題? まぁどっちでもいいけど」
「はは……。妃翠さん、母さんはこう言ってますけど無理はしなくていいですからね?」
「ふふっ。ええ……そうするわ」
 陽はそう苦笑しながら妃翠を見遣ったが、当の彼女は上品に笑いながらも何処か目の前の
ご馳走を前に嬉しそうな、柔らかい表情を見せていた。
(この様子なら、食べている途中に倒れる……なんて事はなさそうかな?)
 珠乃に促されて陽と妃翠は隣り合わせで席に着いた。
 その向かいには珠乃と美月が座る。妃翠の真向かいには珠乃、そして美月はわざとなのか
それとも無意識の内になのか、そこから一個席を空けて──妃翠と最大限距離の取れる対角
線上の位置に──不機嫌面を隠し切れないままで陣取っていた。
「じゃあ妃翠ちゃんへの歓迎と、療養の無事を願って……乾杯~っ♪」
「ふふっ。乾杯」「か、乾杯です」「……乾杯」
 そして珠乃の音頭と三者三様の反応と共に。
 真崎家は、予期しなかった客人を迎えての夕食と相成る。
「……どうかしら? 口に合うといいんだけど」
「はい。とっても美味しいです」
「そう? ふふっ、よかったわ~」
 暫しの団欒。若干おずおずとした様子で訊ねてくる珠乃に、妃翠はそう笑顔で答え、彼女
もまた嬉しそうにぽわぽわとした微笑みを返す。
 偽りのない安堵感。それからは二人共はあれこれと雑談を交わしながら食事を共にする。
 そんな二人の様子を微笑ましく度々見遣りながら、陽は料理を口に運んだ。食べ慣れた母
の味。だが民宿の女将として料理も全てこだわるその味は、実の息子という立場を除いても
とても美味だと思う。
「……」
 しかしそんな陽達を、美月だけはぶすっとした表情で視界の片隅に映していた。
 物理的な席の位置だけでなく心持ちも皆とは距離を置いたように座り、何かを考え込むよ
うにしながら黙々と料理を咀嚼する。
 そして、そんな明暗を分けたかのような食事風景がどれだけ続いた頃だっただろうか。
「…………全く。やっぱりこんなご馳走、用意することなかったじゃない……」
 誰にともないような、しかし明らかに聞こえるように美月がそう呟いたのである。
「もう、美月ったら……。まだ言ってるの?」
「そ、そうだよ姉さん。そりゃあ確かにこれは作り過ぎかもしれないけどさ、食べないと元
気が出ないのは変わらないよ?」
 はたと談笑の手を止める珠乃と陽。
 二人はそれぞれにやんわりと彼女を諫めようとする。
「……はぁ。やっぱり気付いていないのね……」
 だが対する当の美月の反応は、むしろそんな家族への嘆きのようにも見えた。
「いい? 相手は紋女(ルーメル)なのよ? 近くに生き物がいれば、そのエーテルを吸い
さえすれば事足りるんだから。私達みたいな食事は本来必要ないでしょ?」
「美月……」
「うーん。そうなのかなぁ……?」
「そうなのよ。っていうか陽、あんたは現在進行形で特史の授業を受けてるでしょうが」
 当人に目を合わさないままの淡々とした言葉。
 その言葉と意図に陽と珠乃は内心に混在した戸惑いを見せていた。陽はあまり深刻なよう
にならないように努めて作った苦笑を漏らしながら、ちらと妃翠の顔色を窺う。
「……そうですね。確かに料理というものは、私達にとってみれば回りくどい方法なのかも
しれません」
 しかし当の本人は、見た目には機嫌を損ねている様子には見えなかった。
 上品に口元に手を当てて口の中の料理を飲み込んでから、彼女は静かに苦笑して言う。
「まだ“共同体(コミューン)”にいた頃は、食事というのは吸引装置……のようなものを
口元に当ててエーテルを補給する作業というのが一般的でしたし……。あ、でも料理の文化
自体が無かった訳じゃないんですよ? 吸引だけで飽きたりすれば食堂で料理を食べること
もできましたから。……あまり利用者が多くはありませんでしたが」
「へぇ……。でも良かった、妃翠さんが料理自体を受け付けなかったらどうしようかと思っ
ちゃいましたよ」
「ふふっ、それは大丈夫。この星(こっち)に来てからは基本的にちゃんと料理で食事を採
るにしているから」
「……当然よ。大っぴらにエーテルを吸われてちゃ、今頃世の中大混乱じゃない」
 だがそれでも、美月の突き放すような態度は変わらなかった。
 いやむしろ先程よりもそれは強くなかったように見える。
「それに、私は言いたいのはそんな事じゃないわ」
 片肘をテーブルの上に乗せて頬杖をついた格好で、一度じいっと妃翠を睨むようにして眉
間に皺を寄せてみせると、
「…………妃翠さん。貴女、陽のエーテルを吸ったんじゃないでしょうね?」
 彼女はまるで尋問する判官のように、鋭い声色に乗せてそう訊ねたのだった。
「え?」「……」
 やや呆気にとられる様な表情を見せる陽。
 しかし一方で妃翠の方は、困ったようにスッと表情を曇らせていた。
「おかしいとは思っていたのよ。陽の話じゃ路地裏で倒れたって事みたいだけど、見た感じ
結構元気そうだし。それに、母さんから貴女が倒れたのはエーテル不足の所為だったからら
しいって話も聞いているしね。……だとすれば、途中で誰かから補給したと考えれば自然で
しょう?」
 声色は平静に、しかし向ける視線は厳しく。
 美月は唇を噛むようにして押し黙る妃翠をじっと見遣りながら言った。そんな傍らの彼女
の困惑したような表情を、陽は心配そうに見上げる。
「……はっきりとは、分かりません。倒れてからこちらで目を覚ますまでは意識が朦朧とし
ていましたから。ただ私自身はそんなつもりは無くても、身体の方が本能的に欲して道中で
陽君達のエーテルを吸っていた可能性は……あります」
「ふぅん……? やっぱり、ね……」
「ま、まぁいいじゃない。仮にそうだとしても僕はこの通りピンピンしてるんだしさ?」
 流れ始める気まずい空気。
 だが次の瞬間にはその居心地の悪さに思わずそう割って入るように、陽はそうやんわりと
美月を諫めようとしていた。
 ──それに妃翠さんが元気になれるなら、エーテルの一つや二つどうって事ないよ。
 続いてそんな言葉も脳裏に浮かんだが、陽は反射的にぐっと飲み込んでいた。
 改めて考えれば気恥ずかしい台詞。いや、それ以上にこの一言が姉を更に不機嫌な方へと
刺激しかねないのではないかと思ったからだ。
「……ふん」
 そんな弟の配慮に気付いたからなのか或いはそうでもないのか、対する美月も、それ以上
の追求の言葉は飲み込んでくれたかのように見えた。
 しかしそれでも見るからな不機嫌さは表情に残したままで、困り顔な妃翠の様子をじっと
見遣るその視線をすぐには外そうとしない。
「そ、それよりも。じゃあ妃翠さんは今までどうやって食べて来ていたんですか? 何かお
仕事をしていたとか……?」
「そうね、私も聞きたいわ。妃翠ちゃんの、今までの事」
「えっ……?」
 だからこそ陽は、その緊張感を振り切るようにまた妃翠に話を振っていた。
 それまで事態を見守っていた珠乃も、ふっと微笑みながら同調する。
「私の、ですか……?」
「あ……。ええっと、その、話し辛い事があれば別に無理しなくていいですよ?」
「そうそう。ただ、私達は聞いてみたいな~ってだけ。紋女(ルーメル)さん達とお話でき
る機会ってありそうで中々ないから」
「そう、ですね……。でもあまり、そんな面白い話ではないですけれど」
「……」
 妃翠は最初の内は少々戸惑いを見せていた。
 謙遜か、或いは美月の相変わらずの威圧が気になるのか。陽と珠乃はそんな緊張を逸らし
解すようにやんわりと言葉を重ねる。
「流石に定職には就いた試しはありませんね……。今まではこの国のあちこちを旅して回っ
てましたから。最初の内は紋女(わたしたち)も人間(みなさん)に対する情報不足があり
ましたし、実際に皆さんが私達をどう思っているのかをこの目で確かめたいという動機が大
きかったんだと思います」
 そんな二人の誠意に、彼女の緊張は和らいでくれたらしい。
 過去の思い出を咀嚼し直すように、彼女はぽつぽつとこれまでの自分を語り始める。
「基本的に衣食住は手持ちの路銀と、旅先でお世話になった方達からの御厚意で賄っていま
した。……中には私がルーメルと知ると態度を変えてしまう方もいましたけど」
 記憶の中から蘇ったのか、フッと妃翠が言葉の片隅に一抹の辛さを漏らす。
 陽と珠乃はどちらからともなく美月の方に視線を向けたが、当の彼女はむすっとしたまま
そんな母と弟の視線をわざとらしく黙殺する選択をした。
「だけど、手持ちのお金って言ったって別に職に就いていた訳ではないのよね?」
「はい。大体はさっき言ったみたいに、旅先で知り合った方々のお手伝いをしてお小遣いを
貰ったりする事が大半でした。農作業を中心に色んな事をやりましたね。あとは、町中など
で時々ちょっとした芸(パフォーマンス)をして見物料を頂いていましたから」
「……パフォー、マンス?」
 その言葉に陽は反射的に小首を傾げていた。
 珠乃や美月も、若干頭の上に疑問符を浮かべている。
「ええ。じゃあ……ちょっと実演してみますね?」
 すると妃翠はそんな陽達の様子を見て言うと、おもむろにそっと片方の手を開いた。
 次の瞬間、陽達の目に飛び込んできたのは……光。
 妃翠の掌の上に突如現れた、淡く優しい陽の光のような輝きを静かに放つ、曖昧な輪郭を
した一個の球体だった。
「綺麗……」「……うん」
 珠乃が思わずそう漏らす、陽もまた同じ思いだった。
 そんな反応に球体越しに妃翠は小さく微笑むと、今度はその球体をそっとテーブルの端に
置いてあった布巾へと被せるように落とし込む。
 すると──どうだろう。
 次の瞬間、球体は布巾に取り込まれるように消えてゆき、突然布巾がひとりでに持ち上が
って動き出したのだ。
「えっ?」「布巾が……動いた」「……」
 驚く陽達。妃翠はそんな三人の表情を見てふっと微笑み、まるで何かを指揮するように指
先をくるくると動かしてみせる。
 するとその動きに従うかのように布巾が立ち上がり、くるくると片足(?)で回転し始め
たのだ。彼女の意志と指先の動き一つで、まるで生きているかのように愛嬌のあるステップ
を踏んでいく。
「生命を生み出し育むエーテルの塊“命種”──私の、ルーメルとしての能力です。実際に
人形劇を開く時は、ちゃんとした人形達に種を与えて動かすんですけどね」
 くすっと笑う妃翠。
 陽達は暫くの間、この紋女(ルーメル)の持つ特殊な能力の一端を目の当たりにして言葉
を失っていた。その間も即席の布巾人形はくるくると回ったりぴょこぴょこ跳ねたりと、妃
翠の指先の動き一つで生き物のそれと全く遜色なく自然にテーブルの上を舞い踊る。
「…………そうやって」
 だが。
「……そうやってあんた達は、父さん達を殺したのね」
 そんな道化の一時すらも、美月の再びの憎しみの声が切り裂いた。
「美月ッ!」
 その言葉に、流石の珠乃も怒鳴るように声を荒げていた。
 一挙に緊迫する空気。陽と妃翠は思わずお互いの手を止めて、まるで自分が怒られたかの
ようにビクリと身を縮める。
「……ごちそうさま」
 しかしそれでも美月の憎しみを宿した表情を変わらなかった。
 言葉だけでそう言うと、食べ残した料理をそのままに席から立ち上がり、ある種の殺気を
必死に抑えるようにしてダイニングを立ち去ろうとする。
「待ちなさい、美月!」
 同じく、美月を呼び止めようと立ち上がろうとする珠乃。
 だがそれよりも早く、彼女はドアを開けてその場を後にしてしまう。
 パタンと。閉じられ美月の姿を消し去ったダイニング。
(姉さん……)
 陽も珠乃も、そして妃翠も。
 暫く三人は互いに何も言えず、動けず、ただただ彼女が立ち去っていった方向を呆然と見
つめることしかできなかったのだった。

(……結局、あの後も姉さんの機嫌は治らなかったんだよなぁ)
 もきゅもきゅと朝食を頬張りながら、陽は内心どんよりした心模様になっていた。
 予想も覚悟もしていた事だが、やはり姉の妃翠──ルーメルに対する態度は一日二日程度
では改善することはないようだった。
「はぁ……」
 思わずため息を一つ。
 しかしそれを小首を傾げる妃翠に見られたと気付くと、陽は出切っていない嘆きを箸で千
切った玉子焼きと一緒に口の中に飲み込んで誤魔化そうとした。そして当然のように咽てし
まい、今度は急いでお茶を流し込む。
 妃翠は、微笑んでいた。湯飲みをそっと両手で持ち時折茶をゆったりと啜りながら。
(……申し訳ないよなぁ)
 喉元を落ち着かせながら、陽は思う。
 成り行きとはいえ彼女を我が家の食客に迎えた以上、できる事なら彼女には快適に過ごし
て欲しい。しかしその意味でも、姉の存在は(予想以上に)大きな懸案になる。
 妃翠本人は「もう慣れている」などと言って寛容でいてくれているが、心が痛まない筈は
ないのだ。だからこそ、自分もまた心苦しい思いをするのだが……。
「……」
 だけども、と同時に別の思考も脳裏に過ぎる。
 それは自分もまた“血の遭遇”の「遺族」の一人であるという事だ。つまり、大っぴらに
は紋女(かのじょ)達を恨んでも文句は言われないのに、気付けば自分は逆に彼女達の側に
肩入れをしているというある種の矛盾についてである。
 もしかして自分は、おかしいのだろうか? 間違っているのだろうか?
 たとえ被害者──父の顔を知らない自分でも、一人の遺族として彼女達とは敵対するのが
本来の姿なのだろうか?
 だがそれでも、陽はどうにもそんな気持ちになれなかった。
 もし仮に、そんな憎しみの連鎖が本当に許されてしまうのなら──。
(…………いや。ここでそんな事を考えても仕方ないよな……)
 しかしそんな煮立ちかけた思考をやや強引に堰き止め、自分に言い聞かせるように深く息
をつくと、陽は過ぎった思考を振り解いていた。
 そう。何よりも大事なのは、妃翠さんの回復とハンター達からの追跡を振り切る事……。
「……ごちそうさま」
「は~い、お粗末さま。お皿、置いておいていいわよ。一緒に洗っておくから」
「うん……。ありがと」
 残りの朝食を平らげ、陽は珠乃に促されて再び洗面所へと足を運んでいった。
 まだ残存する先程の思考がうろつくぼんやりした意識のままで歯を磨き、もしゃっと軽く
手櫛で髪の寝癖を修正する。
 ふるふると。二人に気付かぬ内にダイニングに戻る前に、静かに頭を振って改めて陰気な
思考も排除する。
 姉の感情を今すぐにどうにかはできない。
 だけど、ならばせめて自分だけでも彼女の味方でいようと思う。
 路地裏で見た、あんな傷付き疲れて切った姿に、二度とさせないように……。
「……じゃあ、行ってきます」
「は~い。いってらっしゃ~い」「いってらっしゃい……陽君」
 踵を返した足でダイニングを通り過ぎながら、鞄とテーブルの上の弁当を拾い上げて。
 陽は二人に見送られながら微笑を返すと、若干足早に我が家を後にした。

「──そういう訳で、妃翠さんは元気にしてるよ」
 それから普段よりも早めに学校に着いた陽は、同じく登校してきた憲人と桐谷姉弟が揃っ
た所で面々を屋上に呼び出していた。
 勿論、昨日からの妃翠の経過などを報告するためである。
「……そうか。とりあえずは一安心……といった所か」
「そうだな。ま、昨日目覚ました時点で峠は越してたみたいだったけどさ」
 屋上には陽達以外の人影はなかった。
 柵に背を預ける翔の背後、屋上からの眼下に広がるグラウンドの片隅で朝練に勤しむ野球
部員らの姿が数名、豆粒のように小さく遠くに確認できる程度だ。
「……でもさ? 話を聞く限りだと紋女狩り(ハンター)よりも美月さんの件の方が深刻な
気もするんだけど」
「そう、だねぇ……。でも、姉さんがルーメル関係で機嫌を悪くするのは昔からだから」
 何処か神妙な、複雑な表情で入口付近で腕を組んでいた翼が言う。
 だが対する陽は多少の苦笑いこそ覗かせたが、その表情は明るい部類にあった。
 姉のルーメルに対する態度。それについては何処か一抹の諦めと慣れを滲ませながらも、
彼は努めて微笑んでいるかのようにも見える。
「笑ってる場合? 呑気ねぇあんた……」
 翼自身は先日の一件に居合わせたわけではない。なのにこの場にいる。
 だが陽はその事には言及しなかった。昨夜の内に翔から彼女に一通りの事情を話したとの
電話を受けていたこともあったし、そもそも始めから今日この場で一緒に話を聞いて貰おう
と思っていたのだから。
「……ねぇ陽」
 すると、何やら「な?」と得意げに口元に小さな笑みを描いて翔が向けてくる横目と軽く
小突く肘を面倒臭そうに押しのけながら、
「その、陽ん家で面倒見てるルーメル──妃翠さんだっけ? もし良かったら家か憲人君の
方に移してもいいのよ? 美月さんみたいなルーメル嫌いの人がいたら、やっぱり妃翠さん
も居辛いだろうしさ」
 翼はもごもごと若干口篭もりながら、何やら思案をしつつそう言ってくる。
 ちらりと。そんな彼女から憲人に向けられたアイコンタクト。それに彼は気付いていない
わけでは無かったようだが、その視線に肯定も否定も見せずにじっと佇んでいる。
「……ううん。大丈夫」
 だが数秒のきょとんとした表情の後に、陽はやんわりとその申し出を断っていた。
「元々は僕が最初に首を突っ込んだことだから。僕が責任を持つよ。姉さんともそういう約
束で家に置いておいていいって話になってるしね」
 にっこりと。優しい微笑み。
「そ、そう……。ならいいんだけど。でも困ったら私達を頼っていいんだからね?」
「うん。……ありがと」
 すると、翼は何故か照れたようにそっと視線を逸らす。
 陽はその微笑のままでコクリと小さく頷いていた。
 ──翼達の厚意は嬉しい。いや、そもそも巻き込んだのは自分なのだが……。
 だからこそ、陽はその申し出を実現させようとは思わなかった。一応、妃翠(かのじょ)
をハンター達から引き離す事には成功したかのように見える。だがそれでもまだ向こうが諦
めたとは限らない。
 そんな状況で、皆をこれ以上危険に曝す訳には……いかなかった。
「…………ともかく、全ては妃翠さんの傷が癒えてからだ。少なくともそれまでは彼女の事
は他の者には口外しないようにしてくれ。いいな?」
「分かってるって。何処から奴さんの耳に入るか分かんねーもんな」
 そんな陽の横顔を、憲人と翔はそれぞれに静かな凝視と、吐息と共に見守っていた。
 充分過ぎる程の間を置いてから一同に念を押す憲人に、翔が気安い口調で応えて場の空気
を適度なものへと解し直す。
「さて……と。じゃあそろそろ教室に戻ろうぜ? じきにホームルームも始まるだろうし」
「そうだな」「うん。行こっか」
 そして話が一通り済み、教室に戻ろうとする面々。
 陽もまた同じく友人らと共に出入り口に向かおうとしたのだが、
「……陽」
 不意にぼそっと口を開いた翼に呼び止められる。
「? どうしたの?」
「うん……。そ、その……」
 呼ばれて立ち止まり振り返る陽。
 翼は、その背後で談笑し始めながら先に屋上を後にする翔と憲人の姿が見えなくなるのを
確認するように、
「妃翠さんの、ことなんだけどさ」
「……? うん」
 ちらちらと視線を向けてから言った。
「ひ、妃翠さんって……どんな女性(ひと)なの?」
 何故か躊躇したように尻すぼみになりながらの問い。
 その様子を妙だなとは思いつつも、陽は見当もつかずに小首を傾げながら答える。
「どんなって……さっき話した通りだけど? 長い亜麻色の髪をした──」
「そ、そういう話じゃなくてね。う~ん……なんて言えばいいんだろう……」
 それでも翼は何かもどかしそうに口篭もりながら、頬を若干赤く染めていた。
 目の前の陽とはろくに視線も合わさず、目のやり場に困るように視線をあちこちへと、灰
色の地面の上に何度も落としている。
「見た目だけじゃなくてその、全体的な印象というか……」
「……?? 性格とか、そういう事? でも僕だって昨日今日の事だから本当はどんな人か
なんて分からないし、せいぜい今日までの印象でぐらいしか言えないけど……」
 ますます小首を傾げる陽。
 だが、彼女が妃翠の事を気にしているのは何となく分かった。自分だけがまだ当人と顔を
会わせた事が無いからこそ、もっと情報が欲しいのかもしれないなと陽は思った。
 先日からの一連の出来事を記憶から呼び戻しつつ、う~んと少し思案顔をしてから言う。
「見た感じだけだとおっとりしたお姉さんって感じになるのかな。でも……きっとそれは多
分、表面的なものでしかない気がする。父さんの事を知った時、凄く気に病んで昨日も色々
と気を遣ってくれてたから。……根っこはとっても心の優しい人なんだろうなって思うよ。
“血の遭遇”以来、ルーメルへの感情がいいものばかりじゃない──むしろ悪いものも多い
って類の話は僕も知らない訳じゃないし。普通そんな仕打ちをあちこちで受けたなら、人間
(ぼくら)の事を恨んでもおかしくないのに、そんな様子が全然ないんだもの……」
 ふっと微笑み、やがて苦笑い。
 陽はじわりと自身の奥底から沸き上がってきた思いをそのままに、そう今一番直近で抱い
ているであろう印象を語っていた。
「……そっか」
 そんな幼馴染を、翼はいつの間にか微笑ましいような苦笑でじっと見遣っていた。
(優しい、ねえ……。私からしたらあんたも似たようなもんだと思うんだけど)
 そう思って翼は何だか馬鹿馬鹿しくなった。
 ……何を自分は“張り合おう”としているんだろう?
 昨日、翔が言っていた言葉がどうやらそうであるらしい事は正直癪ではあったが、この目
の前ニブチンがそもそも昨日今日で気付く筈もないのだ。今更気揉みしても仕方ない。
「好意的なんだね。妃翠さんのこと」
「え?」
「……ううん。何でも」
 だけど、これだけは訊いておかずにはいられなかった。
「じゃあさ。妃翠さんって……美人さんだと思う?」
「へ? う~ん……個人の主観もあるだろうけど、綺麗な人だとは思うよ」
 陽の横を通り過ぎ、出入り口の扉を開けながら背中越しに問う翼に、陽はますます怪訝に
思いながらもそう正直な所を述べる。
「…………そっか」
 一瞬、一瞬だけ前髪に隠れてふっとそんな辛そうな表情を漏らした翼。
 だが陽がそれに気付くよりも前に、彼女は扉を開けてその場から立ち去ってしまう。
(何なんだ……?)
 そしてぽつんと一人残される格好になった陽。
 だがその場で暫しいまいち意図が掴み切れずに小首を傾げたものの、次の瞬間には陽自身
もまた皆の後を追って扉を開けると、屋上に続く階段を降りていく。
「──おわっ!?」「!」
 そうして早足気味に駆け下りていた所為だからなのか。
 陽はクラスの教室のある階の踊り場で、危うく階下から上って来た女子生徒とぶつかりそ
うになった。
「ご、ごめん……って、あ。水上……」
「……」
 そして彼女を避けようとして身を捻り、側壁の防火扉に手をついて状態になった陽が振り
返ると、そこには対照的に平然とした様子で佇んでいる凪の姿があったのである。
「え、えっと。お、おはよう……」
「……うん」
 鞄をぶらんと片手に提げたまま、凪は隠れ気味の前髪で陽を見ていた──いや、こちらに
視線を向ける前にちらと陽の降りて来た上階の方を見遣っていたように見えた。
 一先ずぎこちない挨拶をする陽。
 だがいつもの調子なのかどうなのか、対する彼女の反応は変わらず最低限のものだった。
『……』
 そして二人の間に降りる沈黙と、何処か逸らし気味の視線の凪。
(あ……)
 そこでようやく、陽は昨日の図書館での彼女とのやり取りを思い出す。
 彼女の抱える“人が分からない”という悩みと謎めいたあの言葉。その後の妃翠の一件も
あって忘れかけていたが、彼女に関しての懸案もまた深刻なのだ。
「み、水上。その……」
「……先に行く」
 何か言わなければ。
 だがそう陽が思って口を開こうとするよりも早く、凪は再び普段の淡々とした表情に戻る
とそのまま踵を返して歩き出し、教室の中へと消えてしまう。
(……水上)
 陽は、また一人取り残される形になっていた。
 ざわつく朝の校舎の中の生徒達の雑音も、何処か遠い距離にあるように感じる。
(妃翠さんの事もあるけど、水上の方もどうにかしたいんだよなあ……)
 そう思うと、実は昨日はかなりインパクトの強い一日だったように思う。
 そして改めてそんな事を思いながら、独り小さなため息をついてポリポリと頬を掻いた、
そんな時だった。
「どうした~真崎?」
 いつの間にか、背後から担任教師の國定が近づいて来ていた。陽はその声にハッと我に返
ると思わず振り返る。
「え? あ、先生……」
「おう。何ぼうっとしてんだ? ホームルーム始めるぞ、教室入れよ」
「あ、はい……」
 しかし國定は一瞬少しだけ眉根を上げたものの、すぐにいつものように気だるい感じの声
でそう言いながら、凝っているらしい肩と首筋を手にした出欠簿でコツコツと叩いていた。
 そして曖昧に頷く陽を一瞥し、彼もまた教室のドアを開けて中の教え子達に何やら声を掛
けながら姿を消していってしまう。
(……とりあえず、戻るか……)
 色々と思う所はあるが、それでも自分にできる事というのはそれよりもずっと限られてい
るものなのだろう。
 焦らなくともいい──昨日、コンビニの前でそう静かに言ってくれた友の言葉をふと頭の
中で反芻しながら、陽は気を取り直すように学友らの待つクラスの教室へ戻っていく。

 何時の間にか途切れていた意識が、ふっと誰かに呼び戻されたような気がした。
「…………んっ」
 薄目に映った木目の天井。妃翠は布団の中でゆっくりと目を覚ました。
(……今、何時なのかしら?)
 ぼんやりとした意識が次第にしゃんとしてくる。
 足元に差し込んでくる光は朝とは随分違っているように見えた。どうやら朝食の後、暫く
横になっていた最中に眠ってしまっていたらしい。
 あまり褒められた生活サイクルではないのかもしれないが、まだ昨日の怪我のダメージが
そうさせたのだろう。妃翠はそう思う事にして、もそりと身体を起こす。
 そして、そこでようやく彼女は自分を起こしたものの正体に気がついたのだった。
(これは……お香?)
 僅かではあったが、嗅覚に届いてきたのは慎ましげな独特の香り。
 旅先でもしばしば見たことがある。確か、線香と言ったか。この国の人々が故人を弔う際
に焚く御香──。
 そう記憶と知識を辿って、妃翠はそのフレーズに引っ掛かり思わずハッとなっていた。
 故人。そうだ、この家にはかつて私達の所為で亡くなった人がいるのだ……。
 そして布団から出ると、妃翠はまるでその線香の匂いに導かれるように休んでいた部屋を
後にしていた。昨日の今日という事もあり、身体はまだ若干の重苦しさを訴えている。だが
それでも、彼女はそっと腕を庇いつつも足を止める事はしなかった。
(…………やっぱり)
 そして辿り着いた先は、真崎家の住居スペースの一角にある小さな和室。
 その畳敷きの室内に、珠乃が一人じっと静かに仏壇の前に座っていたのである。
「……」
 そっと近付いた所為もあったのだろうが、珠乃は背後の襖の影から様子を見ている妃翠に
気付いてはいないようだった。
 位牌の前に捧げられた線香の煙が、部屋の中を静かに漂う。
 そんな静けさの中でじっと亡き夫と向かい合う彼女の背中は、何処か寂しげな──今朝も
見せてくれたあの柔らかな印象とは違っているように、妃翠には思えた。
(珠乃さん……)
 その後ろ姿をじっと見つめながら、感じるのはズキンとした胸の奥を刺すような痛み。
 妃翠は自分が隠れているのも忘れて、思わずぎゅっと服の上から胸元を握り締める。
「……? あら、妃翠ちゃん」
「──ッ!?」
 そうしていると、ふと珠乃がこちらに気が付いて正座のまま振り返ってきた。
 向けられたのは今朝と変わらぬ微笑みとゆったりとした立ち振る舞い。
 だがついさっきまで漂わせていた一抹の哀しみのような様が脳裏から簡単に消えることは
なく、まるで彼女のその表情が“作られたもの”であるような気がして、妃翠はその微笑み
に応えられずに思わず泣きそうに顔をしかめてしまっていた。
「……どうかした? 起きちゃってて大丈夫?」
 しかしそれでも珠乃はあくまで“何時もの通り”の柔和さで彼女に接してきた。
 客人である妃翠の体調を気遣いながら、和室の入口に突っ立ったままの彼女をそれとなく
中へと促してくる。
「え、えぇ……。まだ少しだるさはありますが、お蔭様で随分と楽になったと思います」
「そう、それは良かったわ~。でもまだ無理はしないでね?」
「……はい。お気遣いありがとうございます」
 そして妃翠も、そこでようやく内心の平静を取り戻すと、おずおずといった感じで彼女の
傍へと歩み寄っていく。
「この方がご主人……確か星太郎さん、でしたか」
「……えぇ」
 昨日憲人が話していた記憶を手繰り寄せながら、妃翠は呟くように訊ねた。
 珠乃は仏壇の方を向いたまま短く頷く。妃翠はその返答をちらと見遣ってから、その傍ら
に並ぶようにそっと静かに正座した。
 遺影の中の男性──真崎星太郎は笑っていた。
 事件自体が十六年前なので今も生きていればもう少し老けてしまっていただろうが、写真
に写る彼の姿には(父子だから当然と言えば当然だが)陽の面影が見て取れる。
 言葉無く眼に映る、彼の優しい微笑み。
 陽君のあの優しさは、もしかしたらこの父親譲りなのかもしれない──。
 妃翠は初めて見るその写真の中の柔和さを見つめながら、漠然とそんな事を思った。
『…………』
 それから暫くの間、二人はそれぞれにじっと星太郎の遺影を眺めていた。
 一人は亡き夫との在りし日の思い出を、一人は“加害者”の側にある自分達のかつて犯し
てしまったあの日の過ちを。
「……珠乃さん」
「……。なぁに?」
 そしてゆっくりと、妃翠はその沈黙の中で口を開いた。
 真剣な問い掛け。それを察してか、尚も正面を向いたままの珠乃の返事の声色と横顔もい
つの間にか神妙なものへと変わっている。
 戸惑うように数拍の間を置き、妃翠は言う。
「どうして……珠乃さんや陽君は、紋女(ルーメル)の私に親切にして下さるんですか? 
珠乃さん達にとって私達は、ご主人が亡くなる原因になった“仇”の筈なのに……」
 それは真崎家の過去を知ってからずっと気になっていた事でもあった。
 人が良いから。しかし、ただそれだけで片付けられるものではない。彼女達は間違いなく
身近な人をあの過ちによって喪った“被害者”なのだ。
 本来ならば、仇である自分達にもっと敵意を向けてきても──美月のようなあんな態度で
あっても、不思議ではないというのに……。
「……妃翠ちゃんは、星君や他の国防官さん達を殺めたの?」
 しかし、顔を向けてきた珠乃の表情は柔らかで優しかった。
「いえ……。あの日、実際に母船(シップ)から飛び出していった者は全体のごく一部です
から。あとはそうした皆を連れ戻す為に出動した“兵部院”の戦士達ぐらいです」
 責めるようでもない、ただ確認するように訊ねられる声。
 妃翠は短く否定してぽつぽつと答えていた。
「大半は飛び出せる程の体力もなくてもがいているか、他の同胞達に食い止められていまし
たから……。私もその一人でした。狂っていく仲間達を抑えるのに、自分自身の渇きを抑え
るのに精一杯で……惨事を、止める事もできなかったんです」
 蘇る記憶。思わず眉根を寄せてしまう表情。
 妃翠の言葉に偽りは無かった。今も、あの日の悲劇の記憶は彼女を苛んで止まなかった。
「……そう」
 そんな彼女の気色をじっと見遣ってから、珠乃は短く呟いていた。
 言葉は短い。それでも、そこには深い理解や共感のようなものすら垣間見える。
「だったら、私が貴女を責める謂われは無いわ。星君には、関わってすらいないのだもの。
それに貴女達も……今までずっと、苦しんできたんでしょう?」
「で、でも……っ」
 同胞達の過ちは自分の過ち。そう見られても仕方ないんです──。
 そんな言葉を続けようとする妃翠。だが珠乃は、フッと静かに微笑んでそれをやんわりと
抑えると、穏やかな表情の中に一抹の追憶を湛えながら遺影の中の夫を見遣った。
「それにね……。あの人が遺してくれたものもあるから」
「……え?」
「──『彼女達を憎まないでくれ』」
「!?」
「あの人は私達にそう向かって言ったの。自分が重傷を負わされていたのにね」
 少し声真似をするようにおどけてみせて、珠乃は言った。
 苦笑のような笑みで「可笑しいでしょう?」と彼女は続けたが、対する妃翠は驚きの方が
大きいかのように、目を見開いて言葉を失っている。
「……最初は何の事か分からなかったわ。でも、少しずつ事件のことが報道されるようにな
って、ようやく私達はあの人が伝えたかった事を理解できたの。多分、薄々分かっていたの
でしょうね……。自分達が死んでしまえば、紋女(ルーメル)と人の対立は少なからず避け
られなくなる。でも、彼はそんな未来を望んではいなかった。せめて私達には、憎しみや悲
しみに明け暮れる日々を過ごして欲しくなかったのかもしれない……」
 妃翠は黙り込んでいた。
 ただ、静かに夫の遺影を眺めながら話す目の前の未亡人の横顔を見つめながら、その想い
を漏らす言葉にじっと耳を傾ける。
「だから、私達は貴女を──紋女(あなたたち)を恨まないようにしているの。それがあの
人の望みだから……。それに、どれだけ恨み節をぶつけても星君は戻って来ないしね」
「珠乃さん……」
「……それにね? こうして陽が妃翠ちゃんを連れて来たのも、もしかしたらあの人の意思
なんじゃないかって思ったりもするの。……周りの人達は殆どが私達を“遺族”として扱っ
てくるものだから、特にルーメルに関する話題には随分神経を使われているのよ。だけど、
それでずっと貴女達との事を知らないままなのは……貴女達との接触を勝手に絶たれてしま
うのは、変だと思わない? 遺族会の他の人達はよく折につけて恨みを漏らしたりするんだ
けど……相手をよく知らないのに敵視するなんて、それこそ一方的でしょう?」
「……」
 確かに理屈としては一理あるのかもしれない。正直そう言って貰えるだけで救われるよう
な気持ちも、確かに胸の奥で生まれてくるような気がする。
 だがしかし、身近な人を喪った遺族達にそんな冷静な理屈が通用するのだろうか……?
「だから……そんなに気に病まないで頂戴。少なくとも此処にいる間は自分の家にいるもの
だと思っていいんだから。ねっ? まぁ美月に関してはまだあの子自身、気持ちの整理がで
きていない所があるからあんな態度になっちゃてるんだろうと思うんだけど……」
「……はい。すみません……」
「ふふっ、だから謝らなくてもいいのに」
 彼女の抱く気持ちは、やはり“遺族”の中にあっては特殊な部類なように思う。
 しかしそれでも喪わせた相手に赦されているということ、そんな存在自体に、妃翠の奥底
にはほんのりと温かな光がそっと差し込んでくるかのように思えた。
「……あの、珠乃さん。私も、ご主人に手を合わせていいでしょうか?」
「ええ。勿論」
 伏目がちに顔を上げた彼女に、珠乃は柔らかく微笑んで頷く。
 記憶の中にある作法の知識を思い出しながら新たに線香を立て、鈴を鳴らして。
 妃翠はあの日に喪われた生命への弔いと謝罪の想いを込めながら、静かに祈りを捧げた。


「……妃翠さんの、買い物?」
 そしてそれは、妃翠が真崎家にやって来てから二週間余りが経った頃の事だった。
 気付けばすっかりそれが普通になった、彼女を含む四人での食卓。その席でふいっと何の
気もないように珠乃から提案されたその話に、陽は思わず箸を止めて聞き返す。
「そう。そろそろ妃翠ちゃん用の服とかもあった方がいいかな~と思って。いつまでも私や
美月のを間借りさせるってのも悪いじゃない?」
「それは……まぁ」
「で、でも。そんなお気遣いまで……」
「いいからいいから。妃翠ちゃんだって女の子なんだし、お洒落だってしたいでしょ?」
「……。はい……」
 陽と妃翠は顔を見合わせて若干の戸惑いを見せたが、既に珠乃の方は既に乗り気でいるよ
うだった。更に続けて投げ掛けられた言葉。その言葉に、妃翠は恥ずかしそうに俯きながら
も小さく頷いている。陽はそんな彼女を横目に見遣りながらぼんやりと思った。
(まぁ、妃翠さんも家に来てからはずっと家の中で過ごしてるしなぁ……)
 ハンター達を撒く為、受けた傷を癒す為とはいえ、彼女が半ば篭り切りな生活になってし
まっているのは確かに悪いなとは思っていた。しかしあれからそこそこ日も経っているし、
何よりも怪我が癒えてきたからなのか、最初の頃よりも彼女の表情(かお)によく笑顔を見
る事ができるようになった気がする。
 確証があるわけではないが……そろそろ頃合なのかもしれない。
「……でもさ、そもそも妃翠さんはハンター連中から身を隠す為に家にいるんでしょ? な
のに外出しちゃって大丈夫なわけ?」
「確かに絶対なんて事はないけれどねぇ。でもあれから結構日が経っているし、妃翠ちゃん
自身の怪我も大分治っているし。いざとなれば追い払う力は……あるんじゃないかしら? 
それに服装や髪型を変えれば向こうにも気付かれ難くなるでしょう? その為の買い物でも
あるのよ」
 それまでやり取りを聞いていた美月が、テーブルの上の野菜炒めに箸を伸ばしながらそう
疑問を呈したが、その質問は想定内だったらしく珠乃はちらりと妃翠を一瞥してから淀みな
く答えた。その言葉に妃翠自身も納得したようで、コクコクと小さく頷いている。
「それに……。美月も、ずっと妃翠ちゃんに家にいられるのは嫌なんでしょ?」
「……うっ。それは、否定はしないけど……。だけど人攫いに遭うかもしれないって分かっ
てるのに追い出すなんて真似、できるわけないじゃない……」
 更にわざと返答に困るような言葉を付け加えて投げ掛けられ、美月はばつが悪いように口
篭っていた。もしゃもしゃと野菜炒めと白飯を咀嚼しながら、ちらりと静かに苦笑を返して
くる妃翠の表情を窺い見る。
(姉さんも根っこは正義感の強い人だからなぁ。母さんも扱い慣れてるっていうか……)
 陽もまた、そんな母と姉のやり取りを見遣りながら夕食に舌鼓を打つ。
 そしてただ単にその言葉が美月をやり込める為ではなく、妃翠に彼女の胸の内を少しでも
知って貰おうとする母の一手である事も、傍目に立つ陽には見当がついていた。
「ふふっ……。じゃあそういう訳だから陽、今度のお休みに妃翠ちゃんとお店に行ってあげ
てちょうだいね? お金はまた後で渡すから」
「うん。分かった……」
 そう何の気なく頼まれ、快諾する陽。ほかほかの白飯を頬張る事、数秒。
(…………。ん?)
 だが、陽は気付いた。
 妃翠の買い物に付き合う=女性の服選びに同行する──。
「ちょ、ちょっと待って! 僕が一緒なの!?」
 思わず陽はガタッと椅子を揺らして声を荒げていた。
 その隣で妃翠はまだイマイチその意図が掴めずにきょとんとしている。すると珠乃は少し
間を置いて「あぁ……」と小さく納得の声を漏らした後に続けた。
「仕方ないじゃない。まさか妃翠ちゃん一人で外に送り出すつもり? 土地勘だって無いだ
ろうしエスコートぐらいしてあげて」
「あ、いや。それはいいんだけど。僕男だし、女物の服とか分かんないし……」
 そうなのだ。心配だから同行する事自体はよしとしても、正直女性物の店に入っていける
だけの勇気は持ち合わせていない。つまり、要するに恥ずかしい。
「でもねぇ、私は宿の方があるから手は離せないし……」
「うぅ。じゃ、じゃあ姉さ──」
「私だって無理よ。普通にバイトあるし。それにあんた、妃翠さんの事は責任持つって約束
したでしょうが」
「それは、そうだけど……。うぅん……」
 陽は隠しきれない苦笑で半笑いを浮かべたまま、トスンと再び席に着いた。
「あ、あの陽君。だったらお店の外で待っていてくれればいいんですよ? 買い物自体なら
何とか自分で済ませますから……」
「あはは、お気遣いどうも……」
 ルーメル自体が女性ばかりの種族な所為か、まだいまいちピンと来ていない様子ではあっ
たが、少し不安げに心配そうに、妃翠は座り直す陽にそう声を掛けてくれた。その親切さに
陽は丁寧に応えたものの、表情にはまだ苦笑が残っている。
 確かに素人な──そもそも自身の服装すらあまり頓着しない自分が、他人のファッション
に注文をつける筋合いは無いのかもしれない。だが、これは同時に彼女の変装用アイテムを
揃える目的も兼ねているのだ。できれば当人以外の眼が欲しい所ではある。
(……だとすれば)
 そして暫し思考を巡らせると、陽は思いついたように立ち上がった。
 妃翠が、そして珠乃と美月が目を遣ってくる。
「陽君……? どうしたの?」
「えぇ。どうせなら助っ人を頼もうかなと思って」
「……助っ人?」
「はい。ちょっと待ってて下さいね」
 席を立ちながら陽はダイニングの端へと歩いていった。同時にズボンのポケットを弄って
携帯電話を取り出すと、慣れた手つきでとある人物へと電話を掛け始める。
(向こうの予定が空いてると、いいんだけど……)
 まだこちらを見遣っている三人を横目にしながら、聞こえてくる呼出のコール音と共に、
陽はその人物が応答してくれるのを待った。

 休日の駅は普段よりも多くの人々が行き交っているようにも思える。
「…………」
 繁華街に程近い駅の正面フロア。その一角の丸柱に背を預けて、私服姿の翼はそんなざわ
つきを絶やさない人の波をぼんやりと眺めていた。
 ちらちらと携帯電話を取り出しては時間を確認する。
 約束の時間まではまだ幾分の余裕はあった。だが、周りの忙しない雑踏が何処となく彼女
をそわそわと内心落ち着かせなくしているかのようだった。
 いや、本当はそれよりも──。
「あ、いたいた。お~い、翼~!」
 そうしていると、ふと雑踏の中から聞き覚えのある声が耳に届いてきた。
 声の方を振り返ってみると、温厚そうな微笑でこちらに手を振っている少年──と、帽子
に長い上着といった若干今の季節にしては厚着とも取れる格好をした女性の姿。翼が小さく
手を挙げて応じてみせると、二人は人の波を縫うようにしてこちらへ近付いてくる。
「思ったより早かったじゃない」
「そっちこそ。ごめんね、わざわざ時間取らせちゃって」
「いいわよ、それ位。何かあったら力を貸すって言ってたんだしね」
 柱の前に翼と陽、そして厚着気味の女性の三人が集まった。
 預けていた身体を起こして二人と迎えてクールに応答すると、翼はその視線をついっと陽
からもう一人の彼女の方へと向ける。
「……で。貴女が妃翠さん、ですか?」
「ええ。初めまして、妃翠です。貴女が翔君の双子のお姉さんの翼ちゃんね? 陽君から事
前に話は聞いているわ」
 帽子を若干ずらし眼鏡を取ると、女性──妃翠はにこりと翼に微笑み掛けた。
「は、はい……。どうも、初めまして……」
 だが翼は何故かその笑顔に対して、妙に緊張したような硬い表情を漏らしている。
『──買い物? 妃翠さんの?』
 そもそもの発端は、数日前に陽から掛かってきた一本の電話だった。
 その用件は、自分の代わりに妃翠の服を選んで欲しいというもの。
『でも大丈夫なの? 妃翠さんって、ハンター達に狙われてたんでしょ?』
『うん。でも多分大丈夫だとは思うよ。あれから結構日も経ってるし、当日は妃翠さんには
変装して貰うつもりだから』
 翼は先ずそこを心配したが、陽もそれなりの対策は取るつもりようだった。
 しかし何よりも、直後こそこそと陽が小声になりながら家に篭り気味になっている彼女を
何とかしてあげたいと漏らした事で、翼はついそれ以上の追求を控えてしまったのである。
「……それで? 陽、具体的なプランはあるの? どういう服にするとかさ」
「あ、うん。それも含めて頼めるかな? 電話で話した通り女の人の服……というかファッ
ション自体僕は詳しくないし。妃翠さんと相談して決めてくれれば。あ、それとこれが母さ
んから預かってきた予算。足りなかったら言ってね、降ろしてくるから」
 女性同士の挨拶の後。
 翼はぎこちない様を振り払うように、陽に視線を向けて言った。
 陽はいつもののんびりとしたペースで応じ、財布の中から一先ず予算分のお金を取り出し
て彼女に手渡すと、
「ん、オッケー。じゃあ、普段私の行ってる店でいい?」
「うん。お願いするよ」
 三人は早速、翼を先頭に目当ての店に向けて歩き出す。
 繁華街へ向かう道を進むにつれ、行き交う人々の構成は徐々に変わり始めていた。
 老若男女の混在から若年者中心へ。その傾向は何度か道を折り入るごとに強くなっている
ようだった。
 淡白で雑然としたターミナルの風景から洗練されたセンスの漂う商業地へ。
 気付けばその様相をガラリと変えて人々を迎える街並みに、当の妃翠もまんざらでもない
ように興味津々といった様子で辺りの景色に目を向けながら歩を進めている。
「……」
 そんな彼女の横顔を、翼は時折ちらちらと窺うように見遣っていた。
(話には聞いてたけど……。うぅ、何が多分よ、掛け値なしに美人じゃない……)
 妃翠の今の格好は目立たぬ為の変装も兼ねている事もあって全体的に地味な服装ではあっ
たが、それでも自己紹介の際に見せた素顔からしても、彼女は同じ女から見たとしても間違
いなく美人だと翼は思った。
 ルーメルには美人が多い──そんな巷の噂も、あながち間違ってはいないらしい。
(こ、こんな綺麗な女性(ひと)が陽と一つ屋根の下に暮らしてたなんて……)
 美人な客人。異性との同居。彼女に好意的らしい陽──。
 様々なキーワードが脳裏に浮かび上がっては、自重しない妄想がどんどん膨らんでいく。
 時折雑談も交わす二人を見るとその度合いは更に加速し、翼は内心胸の奥で焦るように忙
しなく脈打つ鼓動と共に、もやもやとした、妙に複雑に入り混じった想いを感じていた。
「……翼、どうかした?」
「ひあっ!? な、何でもないわよっ」
「……? そう?」
「そ、それよりもっ。つ、着いたわよ……」
 そう一人とぎまぎしている様子に気付き、陽が一抹の怪訝を見せて声を掛けてきたが、翼
は半ば自棄糞気味になってそれを遮っていた。そして運良くちょうど目的地にも到達した。
翼は内心必死になってごまかして呼吸を整えつつ、その店舗をついっと見上げる。
 そこは繁華街を形成する通りの一つ、その一角に居を構える一軒のブティックだった。
 ファッション関係を中心に店は他にも通りのあちこちにあるようで、陽達の立つ通りには
若年層を中心に多くの買い物客の姿が確認できる。
「うはぁ……。はは、やっぱり僕には入り辛いや……」
「そう? 別にこれぐらい普通だと思うけど……。じゃあ妃翠さん、行きましょうか」
「ええ。宜しくね」
「いってらっしゃい。僕はここで待ってるね」
 そのある種のハイソさに気後れしているのか、苦笑いで佇んでいる陽。
 そんな彼に見送られて、翼と妃翠は早速店の中へと入っていく。
「いらっしゃいませ~」
 店内は休日という事もあって中々の客入りのようだった。
 翼は顔馴染みの店員と少し言葉を交わしてから、妃翠と共に念の為、他の客達から距離を
置ける位置へと陣取る。
「じゃあとりあえず、先ずは幾つかざっくりと選んでみましょうか。妃翠さん、何かご希望
はありますか? こうこうこんな服がいいとか」
「う~ん。そうねぇ……」
 店内にディスプレイされている多数の服。
 それらをざっと見渡しながら翼がそう言うと、妃翠は指先を無意識に唇へとやって少し考
え込む様子を見せた。
「できればその、あまり露出しない服がいいかしら。どうしても目立っちゃうから……」
 そして数秒の間の後に、彼女は苦笑いを浮かべながらそう答える。
 当人は“変装も兼ねている服が目立ってはいけないだろう”との意図だったのだが──。
「…………」
 対する翼の視線は、スゥッとゆったりめの服の下からでもその膨らみが分かる彼女の胸へ
と向けられていた。
 無言のままに視線を彼女から自身のそれへ。
 そっと触れてみても既に自身分かり切っている事だったが……平たかった。
「……どうかしたの、翼ちゃん?」
「……いいえ。何でもないです……」
 言葉ではそう言いつつも自嘲めいた薄ら笑いで。
 翼は内心結構な痛手を受けながら、ふらふらと歩を進める。
 それから暫く、二人は吟味の時間を過ごした。妃翠に合いそうな、且つ希望通り派手にな
らない様な落ち着いたデザインのものを最優先にディスプレイから取り出すと、他のものと
の組合せなどを互いに意見交換しながら品定めしていく。
「……こんなものかな。妃翠さん、一度試着してみてくれますか?」
「ええ。分かったわ」
 そして吟味の末に選んだ数着を手に、二人は試着室の前へと足を運んだ。
 何処となく心持ち楽しそうに、いそいそと試着室の中に入ってカーテンを引く妃翠。そん
な彼女に、翼はカーテンの外から一組ずつ二人で選んだ組み合わせを手渡しする。
 かさかさと擦れる衣服の音。
 翼はカーテン越しに妃翠が着替えるのを耳に届けながら、試着室同士を隔てる壁に背中を
預けるとぼうっと店内を眺めた。
 方々でショッピングを楽しむ若年層中心の客達。店の外を通り過ぎていく往来の人々。
 そんな彼らの誰もが、今の平和を当然の如く享受しているかのように見える。
 十六年前、この街でこの国を、世界を変えてしまう切欠となった事件──悲劇が起こった
事などまるで嘘であったかのように。
「……」
 そんな何処か素直に喜べない違和感の中、翼の瞳には陽の後ろ姿が映っていた。
 ショーウィンドウに背を預けて静かに穏やかに佇んでいる幼馴染の少年。
 一見しただけでは、街の風景の中に在る一介の人間に過ぎない筈の彼。
 しかし翼は、その背中を眺めながら何故か何とも言えない寂寥感を覚えてしまう。
(陽……)
 思わず無意識の内に歪む顔。きゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚。
 何とも言えない? いや、本当は自分はその気持ちの正体に気付いている筈なのだ。
 だけど自分が踏み込んでいいのだろうか? そんな躊躇いが自分を抑止する。
 どんなに頑張っても、彼にとって自分は“他人”である事に変わりはない。なのにそんな
身で踏み込んでしまったら……この穏やかさが崩れてしまう気がして。
 それに、おそらくこの気持ちの根本はそんな事よりももっと個人的に過ぎた──。
「翼ちゃん、一応着替え終わったけど……」
「え。あ、はい……どうぞ」
 そんな時、妃翠がカーテンの中からおずおずと顔を出してきた。
 反射的に小さく笑みを作りながら、翼は振り返って促す。するとそっとカーテンが開き、
試着を済ませた妃翠が気恥ずかしそうに姿を現した。
「……どう? おかしくないかしら?」
「ええ。とても似合ってますよ」
 内心に影が差していても、その感想に偽りはなかった。
 彼女自身元がいいこともあり、地味な色合いの服装でも気品や淑やかさという印象が彼女
らしさを上手い具合に引き立たせているように見える。
「……じゃあ、次はこっちを試してみましょうか。脱いだ方はこっちの籠にお願いします」
「ええ。ありがとう」
 そしてざっとチェックを済ませると、翼は足元にあるプラスチック製の籠から引き続き別
の服の組み合わせを取り出し、妃翠に手渡しながら言った。
 ニコッと。妃翠は受け取った服を片手に微笑むと、再びカーテンの中に消えていく。
「…………」
 再び聞こえ出す衣服の音と、籠の中に丁寧に畳まれては放り込まれていく先程の服。
 翼はそんな物音を耳に届かせながら再び壁に背中を預けると、スゥッとその表情に神妙な
気色を宿し直す。
「……妃翠さん」
「……? なぁに?」
 そしてそんな沈黙がどれ程続いてからだっただろうか。
 一度まるで躊躇うように唾を飲むと、翼は二人にだけ聞こえる程度の押し殺したような声
でそっと口を開いていた。
「その。妃翠さんは……この先どうするつもりなんですか?」
 即答は無かった。しかし、試着室の中では妃翠の手がピクリと止まっていた。
「それは、どういう意味かしら」
 少し間を置いてから返された返答。
 声色は変わらず落ち着いたものだったが、同時にその言葉の中には既に翼の意図する所に
気付いているかのような節もあった。翼は彼女へ振り返る事はせず、おずおずと続ける。
「……陽の家には、いつまでいるつもりなんだろうなと思って。こうして買い物に来てる位
ですし、陽も電話で言ってたので、傷は治っているみたいでしょうし……」
「…………。翼ちゃんは私が陽君の家にいるのは、嫌?」
「そっ。そんなことはないです、けど……」
 だが言葉とは裏腹に、そんな翼の反応は遠からず浅からずと言っているに等しかった。
 気まずいように押し黙って俯いてしまう翼と、着替える手を止めたままじっと鏡の前の自
分を見つめている妃翠。試着室とカーテンでお互いを隔てるような状態のまま、二人は斜め
に背中合わせな位置関係で暫し沈黙の時間を過ごす。
「……ごめんなさいね。私に関わったばっかりに……」
「えっ? そ、そんなこと……」
 先にそんな沈黙を破ったのは妃翠の方だった。
 静かに謝るその言葉に、翼は思わず動揺したように振り向いて言葉を濁す。そんな反応を
カーテン越しに耳に届けながら、妃翠はきゅっと着かけた服の裾を握り直して言う。
「正直言うとね、確かに私は陽君や珠乃さん──真崎家の厚意に甘えてきたのかなって思う
の。今まであちこち行ったけど、私がルーメルだと知っても受け入れてくれた人はそう多く
はなかったから……。相手が血の遭遇(あのひ)の関係者なら、特にね」
「妃翠さん……」
「だから、嬉しかった……。本来なら陽君達にとって私は仇、恨まれて当然の存在なのに、
それにも拘わらず私を助けて匿ってくれた。あの日の直近の遺族である筈の人達に受け入れ
られて、赦されたようで……本当に嬉しかった。救われたような気がしたの……」
 翼はじっと、カーテンの向こうにいる筈の妃翠の方を見遣って黙り込んでいた。
 聞こえてくる声色には偽りは感じられない。彼女から語られているのは、間違いなく当人
が陽たち真崎家との出会いによって得つつある“安息”の想い。
「……でも、美月さんは違ってませんか? 赤の他人の私が言うのもなんですけど、あの人
のルーメルに対する態度はちょっと頑な過ぎはしないかなって思いますし……」
「……かもしれないわね。だけど、遺族ならむしろああいう反応が当然じゃないかしら」
「そんなもの、なんでしょうか……?」
「ええ。私達はそれだけの事をしたんだもの……」
「……」
 それは自分を責め過ぎではないか? 翼はそう思った。
 確かに自身も陽らと同様、血の遭遇よりも後に生まれた世代だ。実感として当時の事件を
知っているわけではない。だけど、それでもこれだけは分かるような気がする。
 多分、彼女も陽も……似ているんだ。
 あの日からの痛みを、必要以上に自分で背負い過ぎている──。
「本当なら、もっと早く陽君達から離れるべきだったのかもしれない。多分、遺族の中でも
あの人達は──紋女(わたしたち)を赦してくれる人というのは少数派だと思うから……。
いくら私達を赦してくれるとしても、それに甘えてばかりじゃきっと駄目なんだと思うの。
私にとっても、陽君達にとっても……」
 それはこちらへ語り掛けるというよりは、彼女が自分自身に言い聞かせているような言葉
のように翼には思えた。
 寂しさのような静かな暗さを抱えたような声色。ポツリと零れては再び彼女の心の中に仕
舞い込まれようとするその想いを、
「…………本当に、それでいいんですか?」
 気付けば翼は、ぐっと身体中に力を込め直すようにして繋ぎ止めていた。
「翼、ちゃん……?」
 カーテンの向こう側から、妃翠が小さく驚いたように小声を漏らすのが聞こえる。
 しかしそんな相手の反応すら認識の遠くへと押し遣るように、沸々とした想いが己の内側
から込み上げて来るのが分かる。
「……陽(あいつ)は馬鹿だから。馬鹿が付く位のお人好しだから。少なくともあいつ自身
は人間だからとか、ルーメルだからとか、そんな理由で妃翠さんに手を差し伸べた筈じゃな
いと思いますよ。ただ“困った誰か”を放っておけなかった。それだけなんです」
 カーテン越しに妃翠の方を向けていた視線をふいっと逸らし、再び翼は壁に背を預けてま
るで嘆くかのようにそう言い放つ。
 だがそれが口調通りの罵倒ではない事を、お互いが分かっていた。
「昔っからなんですよ。私達が初めて憲人君と知り合った頃だって、妙な存在感で周りから
浮いていた憲人君をあいつは翔と一緒になって皆の輪の中に引っ張っていって……。本当、
相変わらず子供っぽいって言うか、後先を考えないって言うか……。理由は未だに分からな
いんですけどね。単にそういう性格なのか、それとも本人なりの理由があるのか……」
 幼馴染の少女は在りし日々を思い出すように。亜麻色の髪の客人はその言葉に何処か温か
な心地を覚えながら、噛み締めるように。
「だから……自分が邪魔になるなんて思わないで下さい。もしそれを理由に妃翠さんが姿を
消してしまったら、きっと陽は……珠乃さんだって悲しむんじゃないかって思うんです」
「……。悲しむ……」
 再び彼女を繋ぎ止めるかのように、翼はそう言葉を吐き出していた。
 そして言葉が中空の中に溶けていくと、また二人は沈黙の中に沈んでいく。
 翼の想いに応じる言葉が見つからずに黙ってしまう妃翠に、翼もちらと一度カーテン越し
に視線だけを遣って同じく押し黙ってしまう。
(……何で私、あいつの事を擁護してるんだろ。これじゃあまるで……)
 まるで『恋敵』に塩を送っているかのような──。
(ッ!? なっ、何でそうなるのよっ。わ、私は別に……!)
 沈黙の中、ふと脳裏に過ぎった、何時か聞いたようなフレーズと胸の内に秘めた感情と。
 翼は不意に意識の中を占めてきたそんな感情の混線に戸惑いながら、それらを振り払うよ
うにぶんぶんと左右に頭を振る。
 だからこそ、
「……翼ちゃんは、本当に陽君の事が好きなのね」
「ふぇっ!?」
 ふと沈黙を破るように妃翠がそう口を開いたその瞬間、翼は思わず素っ頓狂な声を上げて
しまっていたのだった。
「あぅぁ……。わ、私は別に……」
 顔を真っ赤にして俯いてしまう翼。カーテンで互いが隔てられているというのに、まるで
その様子が見えているかのようにクスクスと上品に笑っている妃翠。
 カァッと熱くなる思考に中てられるように、翼はただぶつぶつと呟くだけ。
「…………そっか。翼ちゃんも、なのね……」
 それ故に、次の瞬間妃翠の口から零れたその言葉に、翼は耳を傾ける事ができなかった。

 目の前をひっきりなしに人々が通り過ぎてゆく。
 休日の繁華街は、その横道であってもその人の入りは中々のものであるらしい。
 店先のショーウィンドウに背中を預けて、陽はぼうっとそんな往来の流れと雑音に意識を
遣っていた。
 初めの内しか見ていないが、店の外からちらと覗いた限りでは妃翠と翼は普通に接してい
るようだった。最初、翼に彼女の事を話した際には妙な引っ掛かりを覚えたものだが、多分
それは自分の思い違いだったのだろう。
 妃翠(かのじょ)には、もっと伸び伸びと暮らしていて欲しい。
 ルーメルだから隠れ住まなければならないなんて……きっと辛い筈だろうから。
「……」
 それにしても、と陽は思う。
 こうして街角を見ている限りでは、この街がかつてルーメル達が墜落し、今も尚そのしこ
りを残しているようには思えなかった。
 十六年前のあの日を境に変貌していった世界──彼女達の持つオーバーテクノロジーとそ
の争奪戦、或いは彼女達自体を取引せんとする紋女狩り(ハンター)達の存在。
 以前、憲人が話していたように今も蠢いている筈の悪意達も、この見かけの平穏の前では
どうにも霞むように思える。いや、それとも単に隠れているだけなのか……。
 分からない。正直自分は判じかねている。
 妃翠(かのじょ)達にとって今の世の中がどんなものなのか。
 何よりも、こうして自分が彼女と関わっていることは……“正しい”のか。
(…………僕は、一体どうしたらいいんだろう……?)
 今まで取ってきた選択と、これから先に取るべき行動と。
 ゆったりと晩春の日差しが注ぐ中で、陽は独りぼんやりと胸の内でそんな事を想う。
 そしてそれは、ちょうどそんな頃合での出来事だった。
「お? あれ、真崎じゃ~ん」
「……? あぁ、東田に藍川」
 ふと雑踏の中から近付いてきた足音と聞き覚えのある声。
 目を遣るとそこにはクラスメートで翼の友人でもある、紗江と都の両名が立っていた。
「こんにちは、真崎君。珍しいね、一人でこんな所にいるなんて」
「……っていうかさぁ、ここって女物の店だよね? 何でまた?」
「えっ? あ、いや、それは……」
 それぞれに私服。おそらくは自分達と同じく買い物にでも来ていたのだろう。
 穏やかな気質の方の都がやんわりと挨拶をしてきながら問うと、その横で紗江が目の前の
店先の看板を見上げつつ頭に疑問符を浮かべる。
(どうしよう? 流石に妃翠さんの事を話しちゃうのはなぁ……)
 そう陽が、思わず冷や汗をかくように顔を引き攣らせながら口篭もっていると、
「あれ……? 紗江、都?」
 ちょうど背後の店のドアから、買い物を終えて大きな紙袋を提げた翼と妃翠が出てきた。
 二人に目を遣る紗江と都。そして「マズイ……」と言わんばかりにぎこちなくゆっくりと
振り返る陽。三者三様ならぬ、五者五様の視線がその瞬間交差する。
「やっほ~翼。そっかぁ、二人で買いも……あれ?」
「……誰? そのお姉さん?」
 故に紗江と都の注目が、翼の傍らに立っている見知らぬ女性──妃翠に向いたのは当然の
成り行きでもあった。
「あ。え、えっと。その……」
「あー……うん。そのぉ~……ね?」
 今度は翼も加わり、陽達は不味い事になったと互いの顔を見合わせる。
 どうしたものか。どうやって誤魔化せばいいだろう?
 二人は同じくそんな思考を急ピッチで巡らそうとしていたのだが──。
「……? 陽君、翼ちゃん。この子達は、知り合い?」
「いっ!?」
「ちょ、ひ、妃翠さん。このタイミングで……!」
 そんな二人の努力に今一歩気付くのが遅かったのか、次の瞬間に当の妃翠が実に素の様子
でそう訊ねてきてしまう。
 何でそんな悪いタイミングで……。
 そうとでも言わんばかりに二人が驚き焦って視線を向けてきた事で、妃翠もようやく事態
を把握したのか「あら?」といった感じで遅れて指先で口元を塞いでいた。
「んん? 二人とも、このお姉さんと知り合いなの?」
 沙江が若干そのやり取りに怪訝を見せながら言う。陽と翼、そして妃翠は互いにちらりと
顔を見合わせた。もう隠し切れないか……。そう観念し、陽が弁明に口を開こうとする。
「……あ。もしかして真崎君の家のお客さんなのかな?」
 だが、それよりも早く今度は都が思いついたようにポンと両手を合わせながら言った。
「真崎ん家の、客?」
「うん。ほら真崎君の家って民宿をやってるでしょ? そこのお客さんなんじゃない?」
「そ……、そうなのよ。買い物に行きたいって言ってたんだけど、地理が分からないからこ
うして私達が道案内をしてたってわけ。……ね、陽?」
「ぇ? あ。う、うん。そうなんだ。でも僕じゃ女物の店に入って行ける気がしないから翼
に助っ人を頼んでいたんだよ」
 最初は両名のやり取りに少し呆気を取られた二人だったが、ここぞとばかりに翼が機転を
効かせてその話に辻褄を合わせようと同調し始めた。陽も最初の一瞬は出遅れていたが、彼
女からの必死のアイコンタクトで了承し、続いて口を開く。
 妃翠はある意味で真崎家の客人だ。少なくとも説明の中では嘘は言っていない。
「な~んだ、そうだったんだ。あ、初めまして。あたし東田沙江って言います。翼とは同じ
クラスの親友です」
「同じく藍川都と申します。ようこそ星峰へ。ゆっくりしていって下さいね」
「ええ……。ご丁寧にありがとう」
 その弁明に紗江と都も納得しているようだった。それぞれに自己紹介をし、妃翠もまた陽
と翼の合わせた話の辻褄に合うように振舞ってくれる。
「それで、二人も買い物に来たの?」
「うん。紗江が誘ってくれたんだ」
「そろそろシーズンも変わるからねえ。新作もファッションも出始めてるしさ。翼もよかっ
たら一緒に来る?」
「え? あ。うん……」
 そして話題は移ろい、紗江にそう誘われた翼は一度小さく戸惑うようにして陽の方をちら
りと見遣ってきた。
 それは十中八九「行ってもいい?」といった旨のアイコンタクト。
「うん、行って来なよ。後は家──あ、いや宿に戻るだけだし。今日はありがとね、翼」
「……う、ううん。いいのよ、気にしないで……」
 陽は微笑みながら頷き、その誘いにそっと背中を押してあげていた。
 すると翼は何故か頬を淡く赤く染め、ふいっと視線を逸らしながら呟くよう口篭もる。
 紗江と都に翼、陽と妃翠。二手に分かれ直した面々。もう一度互いに軽く言葉を交わし、
陽は翼から買い物の紙袋を受け取ろうとする。
 ちょうど、そんな時だった。
(……ん?)
 紙袋を受け取るのとほぼ同時、陽はその視界の先──翼ら三人の後方の路肩に一台のワン
ボックスカーが停まっているのを見た。
 何時の間にこんな所に?
 そんな小さな疑問符が浮かび掛けたが、それもすぐに立ち消える。
 だが、翼らが立ち去るのを見送りながらその思考を消し去ろうとした事を、陽は即座に後
悔させられることになったのである。
 ガラリと、まるで図ったかのように離れていく翼らと入れ違いに開くバンのドア。
 そこから出て来たのは数人のサングラス男達。
 ゆっくりと、スローモーションの様に認識される視覚の世界の中で、彼らはごく当たり前
のようにこちらへ歩いて来ながら、懐から拳銃を取り出し──。
「っ!? 妃翠さん、危ないっ!!」「えっ?」
 それは一瞬の出来事だった。
 彼らの拳銃が間違いなくこちらに向けられたのを見た次の瞬間、陽は叫びながら反射的に
庇うように彼女を抱き寄せるとそのまま力の限り地面を蹴っていた。
 それとほぼ同時に聞こえてきたのは、銃声と鈍く何かを削るような破壊音。
 それから、やや遅れて辺りに人々の悲鳴が響き渡った。
「えっ? な、何……!?」
 翼達も目を見開いて驚き、こちらに振り返っている。
「妃翠さん、大丈夫ですか!?」
「……え、えぇ。大丈夫……」
 後先を考えずに跳んだものの、その先が歩道の植え込みで助かった。
 クッションの役目を果たしてくれた植木の上でもぞもぞと身を起こしながら、陽はまだ唖
然と驚いている妃翠の安否を確認していた。
 見れば、すぐ脇の街路樹に先程の銃撃の痕と思われる穴ぼこが出来上がっていた。
 それを遅れて見遣って、妃翠もまた状況を理解し掛けたようだったが……。
「ッ!?」
「妃翠さん……?」
 その痛々しい爪痕を見遣ってすぐ、何故か妃翠は急に明らかな怯えの表情を見せたのだ。
 陽は一瞬その反応に怪訝を示しながらも、その答えをかつての記憶の中から見つけ出す。
「まさか……。吸霊銀(ロスヴァー)なんですか」
 呟くだけの陽だったが、妃翠はコクコクと頷いていた。
 自然と陽の眉間に皺が寄る。
 吸霊銀の弾丸。そして何より明らかに妃翠を狙ってきたあの男達……。
(……くっ!)
 陽は己の慢心を恨んだ。キッと、第二射に備えて早足で近付いてくる男達──あの日妃翠
を狙っていた紋女狩り(ハンター)達の姿を見据えた。
 逃げなければ。このまま此処に居ては、周りの人達も無事では済まない……。
「妃翠さん、こっちです!」
「え、えぇ……!」
 そう心身が危険を訴え掛けていた時には既に陽は立ち上がり、妃翠の手を取ってハンター
達の追跡から逃れるべくその場を駆け出していた。
「一体、何なの……?」「わ、分かんない……」
「…………。陽……」
 庇った際に落とした紙袋と妃翠の被っていた帽子。
 そして、突然の出来事に逃げ惑う翼らを含めた往来の人々を置き去りにして。

 沸き立つ後悔の念を胸に、陽は走った。
 迂闊だった。まさかこんな白昼堂々、人込みの中で向こうが襲い掛かってくるとは思って
いなかった。
 しかし……奴らはどうやってこちらの動きを掴んだのだろう?
 一応妃翠さんには変装だってして貰っているというのに。
「はぁっ、はぁっ……!」
 妃翠の手を引いて駆け出した先はビル同士に挟まれた路地裏の一角。
 人込みの中にいたままでは他の人達に被害が出かねない。それに地の利はこちらにある。
上手くいけば以前のように撒く事もできるかもしれない……。
 陽は肩越しに振り返り妃翠を気遣いつつ、後方から追い掛けて来るハンター達との距離を
再確認しようとしていた。
「! 陽君、前っ!」
 しかし、どうやら今回は以前ほど思惑通りには行かせてくれないらしい。
 不意に妃翠が促すように叫ぶ。前方に視線を戻すと、今度は進行方向前方から仲間と思し
き数名のハンター達の一団が姿を現してきたのが見えた。
「くっ、挟み撃ちにするつもりか……!」
 陽は焦った。後ろからも前からも追っ手がやって来ている。しかしこの路地裏は一本道、
周りをビルに挟まれて逃げ場は残されていない。
 どうする? 危険だがどちらか一方へ強行突破するか……?
 そう、陽が急ピッチで思考を巡らせ始めようとした、その時だった。
「……陽君、失礼するわね」
「え? おわっ!?」
 一言妃翠から声を掛けられ、何だと振り向こうとした次の瞬間、陽の身体はぐいと彼女に
引き寄せられたかと思うと──宙に浮いていた。
 ビルの上層階の窓が目に映っている。真下からは遠退いて聞こえるハンター達の驚きが混
じった声が聞こえてくる。
(……ぇ?)
 有体に言えば、陽は妃翠に“お姫様抱っこ”されていた(但し男女逆の)。
 彼女に抱きかかえられたまま、陽は中空を跳んでいた。
 目を丸くする陽に、彼女は優しく包む込むように微笑み返す。
 まるで空を飛んでいたかのような錯覚も時間にして数秒、二人はビルの壁に螺旋状に続く
非常階段の踊り場一角にストンと着地した。
「あ、えっと……妃翠、さん?」
「何を驚いてるの? 私は紋女(ルーメル)だもの。あの時はロスヴァーの所為で力が出な
かったけれど、怪我も癒えた今なら大丈夫。これぐらいの跳躍は朝飯前よ?」
「そ、そうなんですか……。は、はは……」
 目を瞬かせながら降ろされる陽に、妃翠はさも当然と言わんばかりに苦笑していた。
 流石はルーメル……。陽は今更ながらに彼女達と自分達のポテンシャルの違いを思い知ら
されたようで、思わず乾いた笑い声を漏らす。
「上に行ったぞ!」
「追え! 逃がすな!」
 しかしそのやり取りも束の間、二人はハンター達が下の階の非常階段を駆け上ってくる姿
と足音でハッと我に返った。
「のんびりしてはいられないみたいですね。急ぎましょう、妃翠さん」
「……えぇ。そうね」
 二人はすぐ近くの階のドアを体当たりで以ってこじ開けると、駆け足でビルの中へと入っ
ていった。奴らはまだ非常階段の最中。今の内に別の出口から脱出できれば撒ける可能性は
十分にある。それに先程のように妃翠に跳んでもらえば大きく距離も稼げるだろう。
 ……正直言うと、だからといってお姫様抱っこというのは恥ずかしくはあるのだが。
「あ。妃翠さん、エレベーターです」
 廊下を走る事暫し、二人の視線の先にエレベーターホールが見えてきた。
 これで今の内に出口へ直行すれば……。
「!? 危ないっ!」
 しかし辿り着いたのとほぼ同時に、エレベーターの扉が開いた。
 中から姿を見せたのは……待ち構えていたように拳銃を握り締めた数名のハンター達。
 陽は殆ど反射的に身を返し、妃翠を庇うようにして大きく横に跳んだ。次の瞬間、再び複
数の銃声が辺りをつんざき、二人が寸前までいた位置を中心に柱や窓ガラスが音を立てて破
壊を受ける。
(エレベーターは、駄目だ……!)
 既に回り込まれつつあるという事か。
 陽は小さく舌打ちをすると、
「こっちです、妃翠さん!」
 今度はすぐ隣の階段から階下へ降りようと試みる。
 だが、その目論見もすぐに潰える事になった。踊り場へ駆け出した二人の耳に、階下から
複数の足音が聞こえてきたからだ。手すりから顔を覗かせて下を見てみると、こちらからも
ハンター達が階段を駆け上ってくるのが見える。
(不味いな……。これじゃあまた挟まれちゃう……)
 陽は正直焦っていた。
 相手を見くびり過ぎていたのかもしれない。このままでは追いつかれる。
「……」
 それでも、陽は諦めるわけにはいかなかった。
 助けたいと引いた妃翠の手。その手が小刻みに怯えるように震えているのが、握り返して
くる掌越しに伝わってきていたから。
 おそらくは先程の銃撃も、吸霊銀の弾丸だったのだろう。
(助けなきゃ……。妃翠さんだけでも、絶対……!)
 許せない。何故彼女だけがこんな目に遭わなければならないのだ。
 後方からの追っ手、降りるのも駄目。だとすれば後は上るしかない……。
「上に逃げますよ、妃翠さん!」
「……え、えぇ」
 震える妃翠の手を無意識にぎゅっと握り直しながら。
 陽は彼女の手を引くと、上階へと続く階段を駆け上り始める。

 まるで追い遣られるように、気付けば二人は屋上の扉を開けていた。
 刹那、吹き付けてくる風と開ける視界。コンクリートの殺風景な地面が広々と続き、在る
のはぽつねんとした室外機の群れぐらいだ。
「──やっと来たか」
 すると、不意に声が聞こえてきた。
 思わず振り返ると、そこには待ち構えていたかのように数名のハンター達がこちらに銃口
を向けて立ちはだかっていた。その中央にはポケットに片手を突っ込んで鋭い眼つきで睨み
を聞かせてくる男。どうやら彼がこの一団のリーダー格であるらしい。
(まさか……誘き出された!?)
 思わず顔をしかめ、陽はこのリーダー格達を睨み返していた。
 引き返すか? 一瞬そう思い視線を移そうとしたが、それもすぐに追いついて来た残りの
ハンター達の到着によって阻止されてしまう。
 合流し、その数を増したハンター達。陽と妃翠はじりじりと出入り口から離されるように
後退し、両者は暫し互いを注視しながら膠着状態になっていた。
『…………』
 自分達に向けられる数多の銃口と殺気。いつ誰かがその引き金を引いたとしてもおかしく
はなかった。また妃翠に抱えて貰って跳び移るか? いや、だとしてもこの位置からでは隣
のビルまでの距離があり過ぎる。それに、何よりも……。
(……今ここで背を向けたら、殺られる……)
 陽はそう肌で感じ取り、半ば無意識にごくりと唾を飲む。
「まったく……散々手こずらせやがって。一丁前に匿ってくれるなんてな」
「!? 匿……まさか、僕達の事を……」
「ああ、調べさせて貰ったさ。少々手間が掛かっちまったがな……。だがそんな回りくどい
真似も此処で終わりだ」
 一方でリーダー格の男は、淡々とした口調ながらも余裕を垣間見せていた。
 憎たらしそうに漏らすその言葉に、陽はようやくそこで自分のここ数週間の努力がふいに
なっていた事を知る。
「その紋女(ばけもの)をこちらに渡してさっさと失せろ。今なら命だけは助けてやる」
 続けて、リーダー格の男から発せられた言葉。それは実質の最後通牒に等しかった。
 辺りがビリビリと張り詰めた空気を色濃くする。やや俯き気味に前髪で表情を隠したまま
佇む陽に、深刻そうに戸惑いの表情を隠せない妃翠。そんな二人にハンター達の銃口は静か
に向けられている。だが──。
「…………」
「あ、陽君……!?」
 陽は、逃げなかった。
 まるでその言葉を拒絶するかの如く、ゆらりと一歩二歩と妃翠の前に出るとそっと両手を
左右に広げて立ちはだかったのである。
 ざわっと、殺気が増した。ハンター達の銃口が妃翠から陽へと一斉に方向修正される。
「おい、ガキ相手に銀弾を無駄遣いするな。普通の拳銃(チャカ)に代えろ」
 しかしそれでもリーダー格の男だけはそれには乗じず、静かに言い放った。
 初めは今にも勝手に発砲しそうだったハンター達だったが、その言葉で静止が効いたのか
互いに我に返ったように顔を合わせると、命令の通り半々の人数ずつ毎に握る拳銃を吸霊銀
の弾のものから黒光りする普通の(?)それへと持ち替える。
「……俺の言葉が聞こえなかったのか? そいつを渡してさっさと──」
「何でだよ」
 若干の苛立ちを漏らしかけたリーダー格の男。
 だがそれ以上に、割り込むように口を開いた陽の声色はいつもの穏やかなものから一変し
ていた。静かだがずしりと重い憤りの想い。対峙するハンター達も、彼のすぐ後ろで庇われ
ている妃翠も、思わずその変貌ぶりに言葉を失いかける。
「何で、あんた達はそんなに妃翠さんを──紋女(ルーメル)を狙うんだ? 金か? 金の
為にこんな事をしているのか……?」
『…………』
 暫しハンター達は黙っていた。
 それでも向けられた銃口は下がる事はない。むしろその殺気は何処か増しているようにも
見える。リーダー格の男が面倒臭そうに、深く一度息をついてから言った。
「……そりゃあ貰える物は貰うさ。こっちもこれが商売なんでね。でもまぁ、それだけじゃ
ない。単に金儲けをする為だけなら誰もこんなリスキーな仕事なんざ選ばねぇよ」
「えっ……?」「……」
 その言葉に小さく驚いたのは当の妃翠の方だった。
 ちらりと。リーダー格の男は他の仲間達と軽くアイコンタクトをすると、
「理由はシンプルだ。復讐だよ。十六年前のあの日……てめぇらルーメルが世の中に突然割
り込んで来た所為で色んなものが失われた。家族、友人、財産、仕事──俺自身も含めて、
ここにいる面子は皆何かしらの理由でてめぇらに恨みがある。だからこうして俺達はてめぇ
らを狩り捕ってはバイヤー連中に売り渡してるんだ。向こうさんは多少“品物”がボコられ
ても使い物になれば文句は言わねぇ。幸い、てめぇらは頑丈な化け物だ……。少々痛めつけ
た所で売り渡しには支障は出ねぇからなあ……」
 おどろおどろしくその表情を歪める。
「──ッ!!」「…………」
 それは間違いなく“悪意”の発露だった。
 それまでの淡々とした口調も、表情も、いつの間にかなりを潜めてしまっている。
 いや……むしろそれ自体が彼なりの自制だったのかもしれない。少なくとも今彼らが見せ
ているのは、ルーメルに対する煮えたぎるような深い憎悪の感情に他ならない。
 剥き出しの敵意。或いはそれを超えてしまった狂気。
 本性を現した彼らその姿に、妃翠は怯えたように青ざめた顔を引き攣らせていた。
「……間違ってる。そんなこと」
 そんな中で、陽は静かに口を開いた。
 俯き下限のまま、必死に憤りを堪えているかのような。
 語気は静かだった。だがそこにはこの少年の強い意志のようなものが篭っている。
「その台詞、そっくりてめぇに返すよ。確か……真崎とか言ったな。お前、父親が血の遭遇
の時に殺されてるんだろう? 間違ってるのはてめぇだ。なんで被害者のお前がこいつらに
肩入れする!? こいつらは俺達の“敵”なんだぞっ!!」
 だがその呟きは彼らの逆鱗に触れたようだった。
 歪めていたその表情。リーダー格の男を中心にして、そんなハンター達の表情は何時しか
苛烈な批難のそれへと変わっていた。
「……てめぇは端っからこっち側なんだよ。いいからさっさとそいつを渡せ」
 周囲の空気が激しく震えるような錯覚がした。
 瞬間的に噴き出した激情を改めて抑え込むように、リーダー格の男は一度声のトーンを落
とし直すと、もう一度そう陽に通告する。
 急速にしんとした場。激しく戸惑った表情をした妃翠が、変わらず俯き加減で立ちはだか
っている陽の横顔を覗き込もうとした。
「……断る」
 それでも陽は、両手を広げたままその場を動こうとしなかった。
 苛立ちを隠せず舌打ちするリーダー格の男。他のハンター達の向けてくる眼付きも、より
厳しいものへと変わっていく。
「分からねぇ奴だな。お前、自分の立場を分かって──」
「確かに、僕も“遺族”の一人だよ」
 陽は俯き加減に表情を隠したまま、ぽつりと続けた。
 想いに意識が拠っていくためなのか、若干左右に広げていた腕が下がる。そんな彼の後ろ
姿を、妃翠は押し黙ったように目を瞬かせながら見つめている。
「だけど、僕が生まれたのは血の遭遇よりも後なんだ。ルーメルが仇だとか敵だとかそんな
事を言われたって……僕には正直ピンと来ない。でも……母さんや姉さんは違う。僕とは違
って大切な人を喪った記憶が、あるんだ。ある筈なんだ……」
「陽、君……」
「……あん? 何を──?」
 それはハンター達に向けられたものというよりは、まるで自分に言い聞かせているかのよ
うな気色でもあった。対峙する敵意を持つ者達が目の前にいることも意識の中から遠退いて
いるかのように、陽は訥々を呟いている。
「なのに母さんはいつも僕らに笑い掛けてくれている……。一番、辛い筈なのに。僕達の中
じゃ一番悲しんでもおかしくない筈なのに、父さんの遺志を大切に守って……恨み節を漏ら
す事もせずに僕と姉さんを育ててくれた……。姉さんだって多分それが分かっているから、
大人しいままの母さんの分まで妃翠さん達に冷たく当たってしまっているんだと思う……」
 きゅっと、胸元を掻き抱いて沈痛な表情を浮かべる妃翠。真崎家個々人の事情までは調べ
てはいなかったのか、半ば頭に疑問符を浮かべて怪訝な顔をみせているハンター達。
 陽は今一度深く息をつき直すと、湧き上がる想いに身を委ねていく。
「僕はずっと、蚊帳の外だったんだ……。母さんも姉さんも、形こそ違っても父さんが死ん
だ事でずっと苦しんできたって分かっていたのに、僕は何もしてあげられなかった……」
 それは、長い間陽を静かに苦しめてきた締め付けられるような想いの正体。
 同じ家族でありながら、あの日に対する実感が異なってしまっている事へのある種の罪悪
感にも似た感情。そして同時に喪う事の辛さを知っているという記憶の蓄積。
「…………復讐だって言ったよな? それで一体遺族(ぼくら)に何が残るんだよ。やられ
たからやり返すのか? そんな事したって同じ苦しみを持つ誰かが増えるだけじゃないか。
喪う事のの辛さを知っているのは他でもない、僕ら自身じゃないか。……そんな復讐、亡く
なった人達の為になんてならない。所詮、自分の憎しみを発散しているだけじゃないか」
 俯き加減の顔がバッと上げられる。
 そこに宿っていたのは、長い時間の苦悩の中で積み重ねられた強い想いと意志。
 少年の、そんな連鎖は遺族の段階(ここ)でこそ断ち切らなければならないという決意の
現れだった。
「自分が不幸になったからって、他の誰かを不幸にしていいだなんて……そんな理屈、あっ
ちゃいけない。そんな理由、許せるもんか!!」
 静から動へ。陽の叫びが辺りに強く響き渡った。
 リーダー格の男や他のハンター達、そして妃翠は、驚愕や或いは静かな震えでそれぞれに
この少年の姿に目を見張り、思わずその場に立ち尽くす。だが……。
「──?」
 次の瞬間、屋上一帯に響いていたのは一発の銃声だった。
「…………ヒーロー気取りができて満足か? 糞ガキ」
 ゆっくりと銃口から上がる硝煙。リーダー格の男は躊躇無く引いた引き金をそのままに、
静かで苛烈な殺気で以って呟いていた。
「陽君っ!!」
 ほぼ同時、或いは少し送れてぐらり崩れ落ちる陽。
 その背中を、半ば泣き出しそうな声で叫んだ妃翠が受け止めていた。
 彼女に掻き抱かれる格好になった陽は驚いたように、だが片手で真っ赤に滲む自分の腹の
生暖かい感触を──自分が撃たれた事をその目で確認すると、不意にまるで何かを納得した
かのように、フッと僅かな苦笑を漏らす。
「……馬鹿な奴だ。同じ遺族のよしみで、多少は大目に見てやろうと思っていたのに……」
 そんな陽達を、リーダー格の男は冷淡な眼で見下ろしていた。
 そっと、上がる硝煙が薄れてきた銃口を、何処かぼんやりとしてこちら見上げている陽と
慣れない様で睨みの表情を返してくる妃翠に向けて呟く。
「人生の先輩として一つ忠告しておいてやる。……もっと現実を見ろ。理想(ゆめ)ばっか
り追い掛けても、所詮はそれ自体に押し潰されるだけだzp」
 言いながら引き金に指を掛けようとするリーダー格の男。
 しかし、その彼を見上げる陽は……苦笑混じりに笑っていた。
 男の眉間に自然と皺が寄る。顔面に向けていた照準を、今度はその額へと移して──。
「む……っ?」
 だが、引き金は動かなかった。
 代わりに掌に感じたのは、一瞬何かに押し返されたような感覚と固まったように突然動か
なくなった引き金の挙動。その変化に、思わず眉根を上げた瞬間だった。
「──うぉっ!?」
「うわっ!」「えっ!?」
「ちょ、何でこっちに向け……!」
 急に銃を握っていた腕が何かに操られるように引っ張られ、その銃口が仲間達の方へと向
いたのである。突然の事に慌てるハンター仲間達。引き金に引っ掛かっていた指も、釣られ
るように押される感覚がする。
 そうか、これは……間違いない。
 男は咄嗟にもう片方の指を引き金の中に噛ませ、自分の意志とは別物のように動こうとす
る利き手──いや銃を押さえ込みながら、
「くっ……! 貴様かぁ、ルーメルぅ!!」
 揺らめく靄のように立ち上りつつも消えていく霊素(エーテル)を宿した手を自分達の方
へと翳している妃翠の方を振り返って叫んだ。
「うわっ、だからこっちに向けるなって!」
「何なんだ!? あのルーメルの仕業なのか?」
「騒ぐな。それよりも誰か俺のチャカに吸霊銀(ロスヴァー)をぶつけろ! 理屈までは分
からんが結局はエーテルを使ったトリックだ、それで無効化できる筈だ」
「お、おぅ……。分かった!」
 混乱し始める面々を窘めるようにリーダー格の男は語気を強めて言った。
 その指示で、ハンターの一人が腰に下げていた吸霊銀製のコンバットナイフを抜き放つ。
そして男と他の数名のハンターで勝手に暴れ回ろうとする、片腕に握られたまま離れない銃
を押さえつけると、その銀ナイフを振り下ろして銃身へと接触させる。
 するとどうだろう。それまで本人の意思とは無関係に暴れていた銃は事切れたように大人
しくなり、元の無機質な道具へと戻っていた。
 小さく感嘆と安堵の声を上げる他のハンター達。
 その中で当のリーダー格の男は、一瞬だけぐらついた態勢を立て直すと、
「……チッ。逃げやがったか」
 自分達が対峙していたあのルーメルと彼女を匿っていた少年の姿を確認しようと、すぐさ
ま苛立ちつつも視線を戻す。

 ハンター達の隊伍が乱れた隙をつき、妃翠は傷負いの陽を抱えて室外機の群れの中に逃げ
込んでいた。そっと機体の平たい部分に陽の背を預けさせ、周囲の気配に耳を遣る。聴覚に
は多数の足音が散開しつつあった。今度こそ自分達を包囲しようとしているのだろう。
「妃翠、さん……」
「しっ……。無理に喋らないで、傷に障るわ」
 虚ろになった眼で、陽はゆっくりと身を起こそうとした。
 それをやんわりと抑えながら、妃翠は言う。
「ごめんなさいね……。私に関わったばっかりに……」
「……妃翠さんは、悪くないですよ」
 胸元に受けた凶弾。そこから染み出る出血が止まらない。
 じわじわと血の色に染まっていく自身の服を時折押さえながら、陽はそれでも彼女にふっ
と微笑んでみせる。
「やっぱり、無駄なのかな……? 力もないのに、理想論ばかり……お節介ばかりで……」
「陽君……」
 しかしその笑みは厳密には苦笑だった。
 きっと、想いの丈を銃声と共に叩きのめされた瞬間から。
 たとえ皆が手を取り合う未来を願う心はあっても、その想いの中に同居するのはその願い
を揺るがしてやまない多くの逆ベクトル達。深手を負っても尚、彼の意識を占めていたのは
きっと、そんな長い間苛まれてきた苦悩に他ならかった。
「……そんな事、ないわ」
 断片的に聞こえる陽の荒い呼吸。
 その息遣いを耳に届けながら、妃翠はふるふると小さく首を横に振っていた。
「ルーメルの私を、陽君たちは受け入れてくれた──遺族であっても私達を赦してくれた。
その事で救われた私がいるもの……。陽君の願いは絶対、無駄なんかじゃない……」
 そっと自身に胸に手を当て、妃翠はそう断言する。
 胸の奥が締め付けられる。泣き出しそうな自分がいるのが自覚できた。
 今ならはっきりと分かった。
 私は、この子を失いたくない──。
「…………。その言葉聞けて、良かったです……」
 数秒、陽はぼうっと妃翠の真剣な表情を見つめて黙り込んでいた。
 何を追想していたのか。それは定かではないが、少なくとも彼自身もまた、彼女の言葉に
一抹の救いを覚えていたのだろう。
 だがそう呟いて数秒、陽は穏やかな笑みを消していた。
 片手を傷を受けた胸元に、もう片方の手をもたれかかっていた室外機に押して当てながら
ボタボタと流血を漏らしながら立ち上がろうとする。
「陽君……?」
「……妃翠さんは、逃げて下さい。今なら……隣のビルへ、飛び移れると思います」
「駄目よ、陽君を置いてなんて行けないわ!」
 囮にでもなるつもりなのか。
 妃翠は、よろよろと室外機の群れから出て行こうとする陽を引き止めていた。
 思わず触れた彼の服から彼女の手に血が飛び散る。陽は、それでも肩越しに彼女を見遣っ
て静かに笑っている。
「……僕がいたら足手まといですから。一人なら、逃げられます」
「でもこのまま貴方を見捨てたら……私は珠乃さんや美月さん、皆に顔向けできない」
「ですが、このままでは二人ともあいつらの餌食です。それだけは避けないと……」
 家族の名を出されて一瞬迷いを見せたものの、陽はあくまで妃翠を逃がす事だけに目的を
シフトさせようとしていた。
 彼もまた妃翠と同じだったのだ。彼女だけは、何としても守ると──。
「…………いえ。助かる方法ならあるわ」
 お互いが譲らぬようにその場に留まっていた。
 そんな沈黙を先に破ったのは妃翠。浮かんだ何かを決意するかのように、彼女はおもむろ
に真剣な顔を上げて言う。
「えっ……?」
 次の瞬間だった。
 妃翠は、さっと陽との距離を詰めていた。
 至近距離になる二人。何事かと驚きの表情を見せる陽。そんな彼の首の後ろ、付け根の部
分にそっと彼女の指先が添えられる。
「──我が両手に携えるは生命育むの霊素の種。千万の善きの心を育て奉る魂の光。我が力
が願うは慈しむべき全ての者らの成長、安息、幸福なり。導き手の名は妃翠。今此処に、汝
とその誓約(リンク)を望まんとする者……」
「……??」
 突然、何かの呪文ように呟かれ始めた妃翠の言葉。
 陽は成されるまま何事かと困惑しかかったが、ふとその彼女の行為の正体を記憶の中から
導き出す。
『──では今日は“誓約者(リンカー)”について解説するぞ~』
 それは何時かの特史の授業だった。
 國定が何処か嬉々として参考書を片手に解説していたルーメルと他者との関係性。それが
即ち、誓約者(リンカー)と呼ばれるある種の契約システムだった。
『元々、ルーメルは霊素(エーテル)を力の源にしている。これはもう学んだ事だよな?
しかしだからといって他人から好き勝手にエーテルを喰い散らかしていちゃあ共存どころか
次々に周りの連中を敵に回しちまう。下手をすれば滅ぼしちまう。そこで構築されるように
なったのが誓約者(リンカー)だ。行うのはエーテルの流れの人為構築と需給回路の形成が
中心となる訳なんだが……あん? あぁ、分かったよ。そうだな、要するにリンカーっての
は“ルーメルがエーテルの供給契約を結んだ特定の誰か”なんだよ。もっと大雑把に言っち
まえばそのルーメルのパートナーって事だ。……まぁ、勿論無条件って訳じゃない。少なく
とも誓約(リンク)を結ぶ為には互いの合意が必要となる。具体的にルーメル側が誓約を望
む言霊を伝え、それをリンカーとなる相手が承諾すれば成立するんだ。お前らが面倒臭そう
な顔してるから今回はメカニズムなんかは割愛するが……大体の場合、そのルーメルとある
程度の“縁”が出来てないと無理って事だわな』
 誓約──その本質は単に紋女(ルーメル)とのエーテルの需給関係だけに留まらない。
 その誓いの中には互いをより良く在りさせしむ為の『相棒』としての側面を強く持つ。
(妃翠さん……)
 陽は思い出した知識を脳内で反芻させながら、眼を見開いて彼女を見遣っていた。
 ぽつぽつと紡がれていく言霊。その細かい意味は分からなくても、そこからは共存を願う
彼女の意志を汲み取る事ができるような気がした。
「我が誓約を是とするなら承諾を。善き縁を築くに値すると思わばその御心を……」
 そしてそこまで言葉にすると、妃翠は一度口を閉じた。
 じっと、揺れる感情を含めて全てを包み込んでくれるような優しい笑みが陽を迎えてくれ
ている。怪我の痛みなど、何処か遠くに行ってしまいそうだった。
「…………陽君。私の、陽だまりになってくれますか?」
「……はい」
 紡がれた誓約の願いと、その承諾。
 陽がこくりと頷いたその瞬間、辺りが突如として眩い光に包まれていた。
 驚いて周囲に目を遣る。確かに無機質なコンクリートの屋上だった筈の周囲には無数の光
の渦が──以前、彼女が自分の力を見せてくれた時と同じ、いやそれ以上の温かな光が辺り
に満ち満ちていた。
 空中に無数に漂っているのは……まさか彼女の“種”か。
 温かい。陽はそう直感的にそう思った。身も心も優しく包まれるような、身体の芯の芯か
ら癒されていくような──。
「……誓約完了(リンク・エンド)」
 眩い光が一旦少し弱まったと同時に、今度は二人の間に変化が起きていた。
 首の後ろ、その付け根部分──妃翠が半紋を持っていたのと同じ箇所が、翠色の光に押し
当てられるような感覚がしたのだ。
 最後に一言呟いてその手を離す妃翠。そしてお互いの後ろ首の付け根には、翠色に光を宿
す同じ文様が形成されていた。そっと陽はその部分に触れてみる。理屈はどうなっているの
かは正直分からない。だがこれで、間違いなく自分は彼女の誓約者(リンカー)になったの
だなという感覚だけははっきりと全身が伝えてくれた。
「陽君」
 無数の“種”が咲き乱れる中、妃翠は改めて言う。
「もう大丈夫よ。後は私に任せて?」
 温かく光を放つ“種”達が陽の胸元を穿った弾丸を取り除き、瞬く間にその傷を癒し始め
ていくのを見つめながら。

「この反応はまさか……!?」
 一方でその突然の大発光を目の当たりにし、リーダー格の男を始めとしたハンター達は焦
っていた。
「あのガキ……誓約者(リンカー)になりやがったな!」
 だとすれば事情は激変する。概してリンカー持ちのルーメルはディーラー達には評判が悪
いのだ。余計な人間が関わってくる事が手間になることは勿論、リンカーという力の源泉を
得た彼女達はその本来の力を百二十%発揮できる。その意味でも、最早相手はただ銀弾を数
発打ち込めばダウンするような脆弱さを克服してしまうリスキーな存在となったのである。
「優先順位変更だ。あのガキを殺せ! リンカーが死ねば力の供給元も断てる!」
 リーダー格の男はそう叫んだ。
 その言葉を合図にハンター達は散開を再開し、陽と妃翠が隠れていると思われる室外機の
群れを包囲していく。想定していたよりもより慎重に。銃を構えた彼らはじりじりと標的と
の距離を詰めようとする。
 そんな時だった。
 不意に収まり掛けていた光が再び強くなったかと思うと、その渦が彼らの足元を縦横無尽
に縫うように広がり始めたのである。
 それはまるで根を伸ばしていく大樹のような。
 ハンター達、リーダー格の男らは嫌な予感を覚えながらその発端の先へと視線を向ける。
「……陽君、貴方のエーテルを貰い受けるわね。できるだけ節約はするから」
「え、えぇ……。まぁ貰うといっても、僕は全然分かんないですけど」
 そこには光の余波に服をはためかせる妃翠と、治癒が終わりかけた陽の姿があった。
 二人がゆっくりと歩いてくるのに合わせて、多数の光の球──“種”が寄り添ってくる。
「──『庭園(ガーデン)』」
 両手を左右に広げて、妃翠が呟いた。
 次の瞬間、先に奔った渦を経由するするように無数の“種”が中空へと放出された。
 強烈な光を纏うビルの屋上。その光源たる彼女は陽から延びる靄のような力の流れ──彼
からの霊素(エーテル)を受け、その本来力を存分に発揮しようとしている。
「な、何なん……うわっ!?」
 するとどうだろう。戸惑うハンター達に次々と“種”が襲い掛かるように飛び掛かってい
くと、その身体の中に溶け込んでいったのだ。しかしそれで何か傷が付いたのかというとそ
うではなく、彼らは皆一様にまるで何かに操られるようにギクシャクとした動きで奇妙に踊
り始めたのである。
「くそっ……。さっき俺にやってみせたあれか!」
 その効果をリーダー格の男は事前に一度受けていた事もあり、即座に見抜いていた。
「その光った球に憑かれるな、身体を乗っ取られるぞ!」
 腰から吸霊銀のナイフを取り出し、飛び掛ってくる“種”を切り裂いて消滅させながら彼
は叫んだ。しかし時は既に遅し、多くのハンター仲間達は既に“種”によって操られ、意味
無く躍らされている。彼の他にも何人か銀ナイフで応戦し操られずに済んでいる者も散見さ
れたが、如何せん“種”の数が膨大過ぎて対処し切れていなかった。
「……凄い」
 そんな形勢逆転の様を、陽は唖然として見遣っていた。
 眩い光の──不思議な種たちの園の中でハンター達が必死に逃げ回っている。
 いける。これなら追い払う事も……。
「じゃあ陽君、行きましょうか」
「え? 行くって……放っておいて大丈夫なんですか?」
 だが妃翠はそれ以上の深追いをするつもりは無いようだった。
 一通り“種”達をばら撒き終わると、くるりと振り返って陽の方へ歩み寄ってくる。
「えぇ。あの子達なら大丈夫。此処での役目を果たせばまた本来のエーテルに還ってくれる
から。それに……」
「……?」
 陽を安心させるように優しく微笑みながらも、妃翠はちらりと視線を彼とは別の方へと逸
らしていた。その挙動に小さな怪訝を以って同じく視線を向ける陽。
『──そこの紋女狩り(ハンター)どもに通告する。大人しく投降しろ! お前達はもう完
全に包囲されている!』
 すると再び眩い光が収まって行くのに併せて、ずっと足元の方から拡声器を通じて厳つい
声色が響いてきた。よく耳を澄ませばパトカーのサイレンが多段に重なって鳴り響いている
のも聞こえる。
「げっ……!? おい不味いぞ、警察(サツ)が嗅ぎ付けて来やがった!」
「何っ!? ど、どうするんだよ。これじゃあ……」
「チッ……。仕方ないな、ここは退くぞ。急げ!」
 更なる不利な状況に流石のハンター達も身の危険を思い知らされたらしい。
 銀ナイフを振るいながら悔しそうにリーダー格の男が叫ぶと、一斉にハンター達が“種”
から逃げ惑いながら退散していくのが見える。
「……これで一安心かな。ありがとうございます、妃翠さ──んわっ!?」
 これだけ派手に暴れていれば無理からぬ事ではあったのだろう。
 陽はほっと胸を撫で下ろして妃翠に向き直ろうとしたが、次の瞬間、その身体は再び中空
に浮かんでいた。
「……ぇ?」
 二度目の逆お姫様抱っこ。抱きかかえられたその眼下にはビルの建ち並ぶ繁華街とこの騒
動で混乱し始めている人々の様子が見下ろせる。
 陽は目を瞬かせて自分を抱える妃翠を見た。
 まるで空を飛ぶように滞空し、点々とビルの屋上や壁を蹴っては高々と跳ぶ彼女の姿を。
「ごめんなさいね。まだ私は……政府(あそこ)に下りたくはないの」
「妃翠、さん……」
 至近距離の彼女の顔。その表情がふっと辛そうな苦笑いを浮かべていた。
 思わず言葉に詰まってしまう陽。だがそれを見てか、次の瞬間には彼女はフッと優しい微
笑みに表情を戻していた。
「陽君」
「? はい」
「……これからも、宜しくね」
「……えぇ。こちらこそ」
 その腕の中でしっかりと守り抜いた優しき少年の笑顔と応えに、嬉しさを湛えながら。

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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

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