日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)レディ・ルーン-Bonds of RU'MALE-〔1〕

 その来訪者達に対し、我々はあまりにも無慮な対応を取ってしまったのかもしれない。

「──こちら第八中隊。対象区域に到着しました」
 星峰(ほしみね)山系中腹。
 都心からも離れ、面積こそ広いが比較的なだらかな稜線の山々として一年を通して多くの
登山愛好家が訪れる山々であり、ここ星峰市のシンボルともなっている場所である。
 しかし、その山中を進むこの一団はどう見ても登山客には見えなかった。
『こちら司令部。そちらの映像は送れるか? 状況報告を併せて現状を確認したい』
 一言で形容するのなら、軍隊。
 そんな迷彩色の服と装備に身を固めた男達は、一様に山中からある一点を凝視しているよ
うにも見える。
「了解。今準備をさせていますので五分以内にはそちらに送信を開始できるかと思います。
できるかと、思うのですが……」
 そんな大半の面々の後ろで、通信装置の前に屈み込んでいる兵士が言葉を濁して言う。
『どうした、何か問題が起きているのか?』
「問題……というべきかまだ分かりません。ですが、異変には間違いないでしょう」
 通信機の向こうからは、じれったいといった感じを漏らしつつ疑問符が飛んで来ている。
 だがその問い掛けにもこの兵士は再び困ったように言い淀んだ。無言のまま他の仲間達と
互いに顔を見合わせて苦々しい表情を浮かべると、ゆっくりと視線を背後の山中の景色へと
向ける。
 ──そもそも自分達がこの場に赴く事になった発端は、ほんの数時間前に遡る。
 星峰が……揺れた。強烈な威力の地震が、全ての始まりを告げたのだ。
 そして、この揺れを感じ取ったのは何も市民だけではない。自分達、自衛隊星峰駐屯地の
面々も同じだった。突然の天災。急ピッチで始まった復旧作業。
 しかし、突如としてもたらされた衝撃はそれだけに留まらなかったのである。
『本日〇六四七時、星峰山東部中腹に国籍等不明の飛行体が墜落した。大至急、現地へ向か
い詳しい調査を開始せよ──』
 こういった事件がいつもの事である、とは言わない。
 だが自分の仕事──自衛官としての任務が世間一般の職業よりも特殊なものであることは
重々分かっているつもりだった。
 だからこそ自分達は粛々と命令を受け取ると、ある意味で馴染みのある緊張感と共にここ
まで星峰山を登ってきた、のだが……。
(一体、あれは何なんだ……?)
 視界の先に広がる現場の光景は、大方の予想の遥か斜め上を行っていた。
 見る限り確かに何か──詳細不明な飛行体と聞かされている──が墜落しているらしい。
 しかしその姿形はどう見てもヘリや旅客機、或いは戦闘機の類ではない。
 ガラスのような質感で統一された滑らかなフォルムの、とてつもなく巨大な……構造体。
そんなその場で見上げるだけでは到底把握できないほどの巨体が、斜めに傾いた格好で所々
で煙を上げながら大地に突き刺さっていたのである。
「……まるで高層ビルが丸々一つ落ちてきたって感じだな」
「で、でもあれってビル……なのか? 話じゃ正体不明の飛行体なんだろ?」
「さぁな……。とんでもなく馬鹿でかいって何かって事は確かだろうが……」
「お、俺達あんな得体の知れないものを調べるのかよ……?」
 何故、山岳救助隊ではなく自衛隊(じぶんたち)なのか。
 その理由が、何となく分かったような気がした。
『…………』
 非常事態にはそれなりに慣れている筈の仲間の隊員達も、それぞれに驚きや戸惑いの声を
漏らしつつ距離と保っていた。僕はその場から立ち上がると、そんなにわかにざわめく隊伍
の方へと歩み寄る。
(……やっぱり、不自然だ)
 勿論異変の発端であるこの飛行体(構造物?)の見慣れなさに驚きはする。
 だが、脳裏にはもっと別の事が過ぎり僕を混乱させていた。
 それは──被害が何故この程度で済んだのか? という点。
 確かに、墜落現場周辺は巨大なクレーターとなって一面が即席の荒地と化している。
 しかしこれほど巨大な構造物が直撃したのなら、本来なら星峰一帯が吹き飛んでしまって
いてもおかしくなかった筈だ。だが自分達は、星峰の街は幸い壊滅するような被害は受けて
おらず、現にこうして自分達が現場の様子を見に来てさえいる。
 だとすれば……考えられる可能性は一つしかない。
(ギリギリまで減速しようとしていたのか? 星峰への被害を……最小限に抑える為に)
 そう思うとにわかに身体中に緊張が駆け巡った。
 思わずもう一度、大地に突き刺さったままの、天まで届くかのような巨体を見上げる。
「準備完了しました。送信、開始します」
 そうしていると、通信機材の周りの面々が映像送信の準備を整え終えていた。
 専用の機材で録画・録音をしつつ、リアルタイムで現場の様子を司令部に送る。
『何だ……これは……』
 間もなく、司令部の上官達からも驚きと戸惑いの声が聞かれた。
 駐屯地の幹部クラスでも事態を厳密に把握していなかったというのだろうか?
 僕達現場の面々は、静かにざわつく通信の向こうの意思決定をじっと待つ。
『そこからは、何か先方に動きは見えるか?』
 そしてたっぷり数十秒の沈黙があった後、司令部からそう質問が飛んできた。
「いいえ。特に誰かが出てくる様子はありません。もしかしたら中の乗員は既に……」
『……そうか』
 こちらからの返答に、司令部側は再び何やら相談を始めたようだった。
 その間も僕達はちらりと墜落したままの巨体に注意を配り、事態の変化に備える。
 こんな事例は他に例がないのだろう。指示を出す側も困惑しているようだった。そういう
意味では、彼らもまた現場の所謂制服組に変わりはないのだなと漠然と思う。
『……こちらが受けている情報以上に事態は予断を許さない状態のようだ。そちらは墜落体
の調査を開始してくれ。様子は既に飛ばしたヘリ部隊からも確認する。そちらからは大き過
ぎて全体像は見えないようだからな』
「了解しました。ではこれより調査行動を開始します」
 そして、僕達は動き出した。
 通信の向こうからのそのゴーサインに頷き、隊伍を整え直して即席の荒地へと足を踏み入
れていく。途中空を見上げてみると、遠くに数個の機影が見えた。おそらくあれが派遣され
てきたヘリ部隊なのだろう。
 クレーターとなった現場の地面は大きく陥没して長い急斜面となっていた。僕達は用心の
為、ロープを使って降下する事にする。
 その境を過ぎると、頭上を覆っていた木々はなくなり全方位に視界が開ける格好となる。
 墜落時の威力で薙ぎ倒されたのだろう、辺りには大きな倒木がゴロゴロとしている。
 同心円状に陥没したクレーターの痕も然り。その光景はそれらと共に墜落時の衝撃の大き
さを物語っていた。
「改めて近づいてみると……でかいな」
「あぁ……。下手したら星峰自体、吹き飛んでたかもしれないな……」
「気を抜くなよ。少なくとも一般の航空機などではないんだ、何が起こるか分からないぞ」
「おい、支援要員は下がれ。武装要員はもっと前衛に出るんだ」
 張り詰める緊張。否、それ以上に漠然とした不安が皆を包んでいるように見えた。
 少しずつ、しかし一歩一歩確実に。
 小銃を手にした仲間達を先頭にして、僕達は沈黙したままの墜落体へと近づいていく。
「…………ん?」
 ちょうど、そんな時だった。
 突如として、それまで継ぎ目すら見えなかった墜落体の表面にサッと線が走るとその一部
がさながら飛行機のハッチのように開いたのだ。驚いた僕達は、残り数十メートルの距離で
思わず立ち止まる。
 開いた部分はそのままゆっくりと九〇度以上傾いて地面に接地し、昇降口らしき渡り廊下
になる。ただその裏側は階段ではなくどうやらスロープ状になっているようだった。
『──俺達が様子を見てくる』
 そして数秒の沈黙の後、先頭にいた数名が無言で振り返りそう後方の僕達を片手で制して
押し留めると、そのままゆっくりとハッチの方へと近づいていく。
 ひとりでに扉が開いたという事は、内部に誰か生存者がいる可能性が高い。
 僕達は固唾を呑んでその様子を見守ろうとした。だが──。
「! 誰か出てくる……」
「生存者か!?」
 変化は続けざまにやって来た。
 ハッチから墜落体の内部を覗き込もうとした隊員の一人が近づいてくる人の気配に気付い
て短く声を上げる。走る緊張。僕達も、身を乗り出して近づいてくる足音に耳を傾ける。
『……??』
 やがて姿を見せたのは、数名の女性だった。
 しかしすぐに妙な事に気付く。その服装──ローブのようないでたちが明らかにおかしい
のだ。世間一般の服飾というよりも、何処かの民族衣装のような……そんな格好に近い。
 だがそれがこれほどの巨大な飛行物体のクルー(?)が着る服だとも思えない。
 それに何よりも──彼女達は一様に激しく疲労しているように、僕には見えた。
「おい君達、大丈夫か!?」
「いや、それよりも……。君達は何者なんだ? この馬鹿デカいのは一体……?」
 そんな彼女達の様子に慌てて駆け寄ろうとする隊員、先ずは現状を把握しようと質問を投
げ掛けようとする隊員。
「……テ、ル」
「ん?」「え、何だって?」
 だが彼女達は、
「エ……、エーテル……ッ!」
「イル……。イッパイ……イルッ!」
「! なっ!?」「うわぁっ!?」
 あろう事か、僕達の姿を見ると突如として猛烈な勢いで襲い掛かってきたのだ。
 上がる隊員達の悲鳴。それらに覆い被さるように次々と飛び掛ってくる彼女達。見ればそ
の顔つきは荒々しく血走りさえしている。
 突然の事に、僕達は思わず顔を引き攣らせていた。
「エーテル……、エーテルッ!」
「ぬわっ! 何をす──」
 そして、僕は見た。
 彼女達が仲間達の首元の傍まで顔を寄せて大きく口を開けた次の瞬間、彼らの身体から何
か靄のようなものが勢いよく彼女達の口の中へ吸い込まれていくのを。
「る、ん……」
 まるで何かを取り込むよう飲み込む動作をする彼女達。それと連動するように急に力を失
いどうっと地面に倒れる仲間達。
 何が起こったのか理解できない者が殆どだっただろう。
 だが少なくとも今この瞬間、目の前で仲間達が死んだのだ。まるで生気を失ったかのよう
に青ざめた顔色で、彼らはピクリともせずに倒れていた。
「……足リ、ナイ」
「渇ク……渇、ク……」
「マ、ダ……エーテル、ヲ……」
 そして言葉も出ずに目を丸くして立ち尽くす僕らを、血走ったままの彼女達が見据えた。
 ゆたりとした動き。だが僕達は恐怖と驚愕の余り中々そこから動き出す事もできない。
「………ば、化け物だぁー!!」
 そして仲間の内の誰かが堪え切れずに叫んだ、その一言が合図となった。
 震えて力が入らない身体に鞭を打って一斉に逃げ出そうとする面々。そんな僕らに彼女達
はあり得ない身のこなしで飛び掛ってくる。
 最早統制など崩れていた。てんで散り散りに逃げ出そうとした仲間達は次々と彼女達に追
いつかれると組み倒され、そして何か生気を抜き取られるようにして事切れ、倒れていく。
(何なんだ、一体……!?)
 僕は一気に少なくなった仲間達に混じりながら必死に逃げた。
 背後で次々と仲間達が死んでいく。なのに逃げる事で精一杯だった。
 何故。恐怖の感情と共にそんな想いが胸を過ぎった。
 ただ僕達は墜落したあの飛行体が何なのかを調べに来ただけなのに。それだけで殺されよ
うとしている。
(いや……違う?)
 だがそんな想いにふと違和感を覚えた。
 相手の敵意。目の前の事実を見ればそうなのかもしれない。
 だが僕にはそれが本当だと思うには引っ掛かりを感じたのだ。
(彼女達の様子は敵意というよりはむしろ……。これは……飢え?)
 ややあってピンと来た厳密な表現。僕は走り続けながらも振り返る。
 改めて見てみれば彼女達は、一様に捕らえた仲間達の首元に口を近づけては何かを大きく
吸引するような仕草をしていた。その血走った眼も、敵意という怒りというよりは飢餓感に
よる発作のようなものから来ている印象を受ける。
「ウ、アァァァ……ッ!」
「! しまっ──」
 だがその思考が隙になっていた。緩んだ歩を見逃すまいと、一人が僕に飛び掛ってくる。
 しかし次の瞬間、彼女は僕の頭上で爆音と共に吹き飛ばされていた。
「……?」
 瞑りかけた目を恐る恐る開く。
 するとそこには硝煙を上げる小銃を構えた仲間の一人・兵藤が荒く肩で息をついていた。
「……大丈夫か、真崎?」
「あぁ……。助かったよ」
「ぼうっとしてんな、殺られるぞ」
「だ、だけどいきなり銃なんか……」
「そんな事言ってる場合か! 見て分からないのか!? あれは人間なんかじゃねぇ、女の
皮を被った化け物だ!」
「それ、は……」
 兵藤の激しく強い口調。
 だがその言葉に、僕は躊躇いを自覚しながらも言い返す事ができなかった。
「無事だったか! 真崎、兵藤!」
 そうしていると兵藤を皮切りに生き残っていた攻撃要員達が集まってくる。
 良かった、まだ全滅はしてない。少しだけ安心するがすぐにまた不安が心を塗り潰す。
 ちらと向けた視線の先、墜落体の周囲ではまだ彼女達が仲間達に襲い掛かっていた。
「くそ、一体何なんだよ、あの女達は?」
「こっちが聞きてぇよ。畜生ッ……佐伯、中川、大野……」
 小銃を構えながらも迂闊に手を出せない面々。
 それでも当の彼女達はお構いなしに“飢え”をしのぎ続けている。
「……!? しまった、囲まれた!」
 そして彼女達は残った僕達も逃すつもりはないらしかった。
 ふと気付けば四方八方からぞろぞろと、文字通り飢えた眼の女性達が迫って来ていた。
「ぬぅ……」「くそっ……」
 じりじりと。僕達はその包囲網の中で徐々に後退させられる。
 見れば墜落体から開いたハッチの奥から飢えた眼の女性達が次々と現れていた。
 その数はあっという間に膨れ上がり、既にこちらの兵力を上回りつつある。
(ここまで、か……)
 到底、敵う訳がない。
 自分が持っているのは小銃ではなく拳銃が予備を併せて二丁だけ。そもそも僕達は調査の
為に来たのであって、武装も護身用を除けば比較的簡易な物しか持ち合せていないのだ。
(……すまない。珠乃さん、美月……。それに、陽……)
 そうして最期に家族の顔を浮かべて覚悟を決めようとした、そんな時だった。
 突如として次々と地面が抉れて爆ぜた。
 その破壊に、彼女達が巻き込まれて吹き飛ばされていく。
 僕達は反射的に背後の上空を見上げていた。
『第八中隊、聞こえるか?』
 空中には数機の哨戒ヘリがホバリングをしていた。先刻、司令部が派遣したという部隊だ
ろう。するとその内の一機から緊迫した声で通信が飛んできた。仲間の一人が慌てて通信機
を取り出すと応答を開始する。
「こちら第八中隊、助かりました。現状は──」
『承知している。空(こちら)から見てもまるで地獄絵図だ』
 それは正直な感想だったのだろう。聞こえてきた重苦しい声色がそれを物語る。
『それよりも司令部より伝令だ。すぐにここを脱出しろ。先程本隊全軍を以って墜落体ごと
その女(アンノウン)どもを殲滅するとの決定が下された』
 その言葉が飛び込んできた瞬間、僕達は一瞬固まっていた。
 殲滅──彼女達を皆殺しにする……だって?
「わ、分かりました。すぐに撤退を──」
「待て、西岡」
 すると返答しようとした彼を兵藤が止めた。
 彼を見遣る面々。だが当の兵藤はじっと彼女達の跋扈する姿を睨み付けている。
「……その本隊が到着するのにどれだけ掛かる?」
『正確な時間は分かりかねる。十分程度ではないだろうか』
「そうか……」
 淡々と上空の友軍と交わされた言葉。
 そしてその質問で何かを確認すると、兵藤は小銃を構え直して独り前進を始めたのだ。
「ま、待て兵藤、どうする気だ!?」
「伝令を聞かなかったのか、撤退命令だぞ!」
 勿論僕達は彼を止めようとした。命令──いや、その建前以前に目の前の彼女達に勝てる
気などしなかったというのが大きいかったのだろう。
「馬鹿野郎! ここで退いたら街はどうなる!」
 だが兵藤はそんな弱気を吹き飛ばすように怒声を張り上げて振り向いた。
 ビクリと固まる面々。兵藤は今にも誰かを撃ち殺しそうな殺気立った眼で言う。
「本隊が来るまで多少なりとも時間が掛かる。それまでに奴らがここを離れられたら麓の街
が狙われる筈だ。あいつらはどうやら人間(おれたち)を──いや、俺達の何かしらを喰お
うとしているようだからな」
 それは否定できなかった。目の前で実際にそうして多くの仲間がやられているのだから。
「もし奴らが街に降りてみろ、被害は俺達程度じゃ済まなくなる。街には……嫁さんと子供
だっているんだ。俺達がここで食い止めなきゃ……全部失っちまう」
 兵藤の、その静かでいて強烈な言葉が引き金だった。
 始めは立ち向かう事に及び腰になっていた皆が、一人また一人と頷くと銃を構えて兵藤の
傍らに並び始めたのである。
『…………』
 前方では、次々と現れる彼女達が倒れ伏した隊員達に群がっていた。
 周囲では、哨戒ヘリの機関銃で撃たれた筈の彼女達がボロボロになりながらもよろよろと
起き上がろうとしていた。
「お、おい。嘘だろ……?」
「直撃してたよな? 何で生きてんだよ……」
「……文字通り、化け物だという事だろうな。お前ら……死ぬ気で殺さないと、死ぬぞ」
 その姿にたじろぐ面々。それでも兵藤だけは殺気を纏ったまま静かに言い放っていた。
 隊伍を整え、目配せで皆に合図を送る。ガチャリと銃が揺れる音がする。そして、
「掛かれぇ!!」
 その叫び声と共に、兵藤ら生き残った攻撃要員達は半ば自棄に近いと言えなくもない決死
の雄叫びを上げながら彼女達に向かって突撃していく。
「…………」
 僕は他の加わらなかった者達の中で、呆然と兵藤達の背中を見送っていた。
 どうして退けと言われたのにどうして戦おうとするんだ……。自分が死ねば、守りたいと
思う人達の笑顔を見ることもできないのに……。
「こちら第八中隊! 兵藤陸佐達が再び交戦を開始しました! 本隊が到着するまで奴らを
食い止めるつもりです! どうか早く、早く応援を──」
 傍らで別の隊員が必死に通信機から助けを求めていた。
(どうする? このまま兵藤達を置いてここにいる面子と逃げるのか……?)
 心が、迷った。グラグラと、揺れている。
 撤退せよとの命令は出ている。だがどうしてだろう? 自分という心と体が、思うように
言う事を聞いてくれない。
「──くっ……!」
「ま、真崎?」
「おい、待て! 早まるな!」
 だけど、気がついた時には僕は、駆け出していた。
 軍人としては甘いなのかもしれない。だけど、見捨てたくなかった。まだ間に合うんじゃ
ないかと思った。思いたかったから。
 何よりも僕は思った。感じる。この戦いは……僕らも、彼女達も本意ではない筈だと。
(止めなくっちゃ……こんな戦いは……!)
 数多の銃声が聞こえる。悲鳴が響き渡る。撤退しろとの怒声が通信機から放たれている。
 何故僕達はこんな事になってしまったのだろう。
 これから僕達は一体どうなってしまうのだろう。
 ただ一つだけ確かなのは、今僕達が歴史の大きな転機の最中にいるという事だけだった。


 STORY-1「星降、始マリ」

「──そして、これがこの“血の遭遇”の始まりだった訳だ」
 そう言いながら、男性教師は要点をメモしたような黒板の走り書きをコツコツと叩くと、
視線をサッとクラス全体にへと移した。
 時間は四限目、昼休み直前。朝からこの日の授業を消化してきた学生達は全体的に脱力し
つつある空気を醸し出しているように見えた。あるいは昼休みの憩いを思い、徐々に浮つき
始めているとでもいうべきか。
「…………」
 そんな緩んだ教室の雰囲気の中に浸るように、真崎陽(あきら)は授業の内容を耳に届け
つつも、ぼうっと外の景色を眺めていた。
 今日も星峰の上空には澄み切った青色が広がっている。
 だがどうにも……この時間だけは、胸の中がもやもやしてスッキリとはしてくれない。
 頭では割り切っているつもりだ。個人的な実感も、ない筈なのに……。
「その所為で、彼女達の俺達人間への第一印象は最悪だった……と言えなくもないだろう」
 ──全ての発端は、今から十六年前に遡る。
 その日の明朝、突如として正体不明の巨大飛行体が星峰山の一角に墜落した。
 墜落の衝撃で星峰一帯に拡がった強い地震。だが、本当の災厄はそれからだった。
 緊急事態の報を受けて、墜落現場へと調査に向かった自衛隊(当時)星峰駐屯地の部隊は
そこで“彼女”達との最初の接触を果たしたのである。
 現場で彼らが見たのは、地面に深々と突き刺さった、天を衝くような巨大な飛行体。
 そして……突如としてその内部から溢れ出るように現れた、血走った眼の女性達。
 隊員達はその直後、まるで何かに飢えたかのように襲い掛かってきた彼女達となし崩し的
に交戦状態へと陥る事となる。
 しかしその力の差は圧倒的だった。当時の資料によると、応戦直後の数分間で隊員の半数
近くがその命を落としたという。
 だが、それは無理もなかったのかもしれない。
 何故なら彼女達は──人間ではなかったのだから。
「では復習も兼ねて答えて貰おうか。主だった“紋女(ルーメル)”の特徴を三つだ」
 異星人・紋女(ルーメル)。
 それが星峰の地に落ちてきた彼女達の正体だった。
「じゃあこの質問を……む」
 そうこうしていると、この教師・國定の視線がふと何かに気付いたように一点に向かって
いた。その様子に気付き陽もちらりとその方向に目を遣ってみる。
「……ZZZ」
 そこには、間抜けな表情で机に突っ伏し寝息を立てている一人の男子生徒がいた。
 桐谷翔(かける)。陽とは幼い頃からの付き合いの、幼馴染でもある少年だ。
(あ~あ、翔ってばまた寝てる……)
 言葉を中断し、ジト目で彼に近寄っていく國定を見送りながら陽は静かに苦笑を漏らす。
 日頃ちょくちょく家業を手伝っていて疲れるというのは分からないでもないが……。
「あでっ!?」
 と、数拍の間を置いて、國定の手にしたテキストが翔の頭に落ちた。
 そしていきなりの一撃に、思わず素っ頓狂に声を上げて頭を押さえる翔。
「……よう。おはようさん、桐谷弟」
「いでで……。か、角っこは痛いっすって……」
 國定も翔も、そしてクラスの面々もそんなやり取りにはもう慣れているらしく、多少数人
がニヤニヤとしている程度で驚いている様子はない。
「……はぁ。全くあの馬鹿ちんが」
 ただそんな中で唯一、そう呆れた様子で静かに吐き捨てていたのは、廊下側の席で片肘を
ついている、翔と似た顔立ちをした女子生徒だった。
「まぁまぁ……。翔は家の手伝いをやってるんだから、多少疲れてても仕方ないよ」
「手伝い自体は私もやってるけどね。あいつ程じゃないけどさ……。だけど学生の本分を後
回しにしちゃうのは駄目でしょ? 『継いでくれるのはありがてぇが、ちゃんと学校だけは
出とけ』ってのはお父さんからも言われてる事だしね」
 彼女の名前は桐谷翼。翔の双子の姉だ。
「う~ん。それはそうだけど……」
 一見脱力している翔(おとうと)と生真面目な翼(あね)。
 だがこれも、陽にとってはいつも通りの光景ではあった。
 陽はそうして翼と二言三言やり取りを交わすと、穏やかな苦笑いを残しつつ再び視線を翔
達の方へと戻す。
「じゃあ桐谷弟、答えてみろ。紋女(ルーメル)の特徴を三つだ」
「あ、はい。ええっと……」
 机を軽くテキストで叩く國定に促され、翔は寝惚け眼が残るまま髪をポリポリと掻きつつ
記憶を手繰り寄せるようにして数秒間を置いてから口を開く。
「確か、女の子ばっかりの種族で、皆が皆妙ちくりんな力を持ってて……」
「うむ」
「あとは……。あ、結構可愛い子が多い」
「それはお前の主観じゃねーかよ」
 翔本人は至って真面目に答えようとしたようだったが、絶妙な間でツッコミを入れた國定
の言葉を切欠にクラスの面々は微笑ましい笑いに包まれていた。
 その様子に「え?」と皆を見返す翔、呆れ顔で彼にジト目を遣る翼。苦笑する陽。
「ま、あながち間違っちゃいねぇけど……。だがその答えじゃあ六十点ってとこだな」
 そんなクラスの面々を一瞥すると、國定はそう呟きながら再び教壇の方へと歩き出す。
「藤丸。代わりに模範解答よろしく」
「……はい」
 そして代わりに指名されて立ち上がったのは、一人の大柄な少年だった。
 がっしりとした体格と一見近寄り難くもある厳つい雰囲気。しかしクラスの面々の反応は
忌避のそれではなく信頼の様を強く示している。
 藤丸憲人(のりと)。頼れるクラスの委員長、そして陽や翔にとっては普段よく行動を共
にする共通の友人でもある。
「一つ目は──」
 今度はうろ覚えではなく、しっかりとした佇まいで。
 憲人は、静かだが力のある声色で模範解答を紡ぎ始める。
(……ルーメル、か)
 その横顔を一瞥してから陽は視線を自分の机に落とした。机上に広げられている教科書の
ページをそっと指で撫でる。
 今日、紋女(ルーメル)について一般的に知られている事は幾つかあるが、その代表的な
特徴を挙げるとすれば次の三点になるだろう。
 先ずは、彼女達ルーメルが全て女性で構成されている女系種族だという点だ。
 外見は人間の女性と殆ど大差こそないものの、身体の何処かに“半紋”と呼ばれる半分だ
けが半透明になっている文様がある。箇所は個人によって違うが、基本的に外見上から彼女
達をルーメルだと判断するにはこれ以外に目印の類は無い。
 次に、彼女達は皆それぞれに特殊な能力(ちから)を有しているという点が挙げられる。
 その内容・力量は個々人により大きな差があるが、十六年前のあの日、墜落現場に赴いた
調査隊らを圧倒したという戦闘能力の高さも、これらの能力に起因していると言っていい。
 そして何よりも……彼女達ルーメルが生命力──彼女達は“霊素(エーテル)”と呼んで
いるらしいが──を直接、生体から摂取できる能力を持つという事を抜きにしては、彼女達
を語ることはできないだろう。
 彼女達の力の源であり、そして彼女達を並大抵の怪我や病では死ぬ事もない半不老不死の
種にたらしめている、生命エネルギー・霊素(エーテル)。
 それだけにもし彼女達からそれらが大きく喪われてしまった時、そのダメージは計り知れ
ないものとなる。
 十六年前、星峰山に墜落した彼女達の宇宙船。
 しかし高層ビル丸々一棟分以上は下らなかったというその巨体が落ちたのにも拘わらず、
星峰市街への被害は強めの地震が起きた程度で済んでいる。
 それは何故か? 理由は簡単だった──墜落のギリギリまで彼女達は総出で母船の落下を
食い止めようとしていたのだ。
 しかしその判断が結果的に皆にとり“救い”になったのか……?
 その点については今尚見解が分かれている。いや、もしかしたらそんな判断をつける事す
ら本当は不可能なのかもしれない。
 これは後々で判明した事なのだそうだが、巨大な母船を止める……その為に当時の彼女達
は大量のエーテルを、力を消耗したのだという。
 その甲斐もあって幸い星峰市街の壊滅は免れた。しかし、急激に大量のエーテルを喪う事
となった彼女達の多くがそのダメージ……本能を強烈に揺さぶる程の飢餓感に耐え切れず、
暴走状態──エーテルを補給すべく母船から飛び出し、目の前にいた調査隊員達(えもの)
への襲撃へと転じる者が続出したという。
 勿論、そんな事情など知る由も無い時の調査隊員達は、否応無く限りなく勝ち目の無い戦
いに応じざるを得なかった。ただ突然の襲撃に、自分達を守る為に。
 突如具現化した、阿鼻叫喚の地獄絵図。
 飢えた異星人とその餌食となってしまった第一遭遇者である調査隊の血みどろの交戦劇。
 そして後に『血の遭遇』と呼ばれる事となるこの一連の出来事は、混乱の中で双方に多く
の犠牲者を出しながらも、色々な意味でこの国を大きく変える契機ともなった。
 特に、期せずしてやって来たこの紋女(ルーメル)達の持つ、人類のそれを遥かに凌ぐ技
術力は国家の要人達にとって大きな魅力に映ったらしい。
 時の政府は掌を返すように彼女達に正式な謝罪を表明し、この“血の遭遇”によって悪化
した両者の関係修復を急ピッチで進めた。そしてそうした和解交渉と並行して、ルーメル達
を“共同体(コミューン)”──彼女達にとっての政府に相当する組織らしい──ごと諸勢
力からの保護を名目に囲い込む政策も打っていったのである。
 その結果、かつては弱体化の一途を辿っていたこの国も今では彼女達の持つオーバーテク
ノロジーを梃子に奇跡的なV字回復を遂げ、第二の経済成長期を謳歌しようとしている。
 尤も……その過程で敷かれた、強化された国家権力やルーメル達を自国内に囲い込むやり
方などは、現在も方々で批判の槍玉に挙げられてはいるのだが。
「──おっし、満点の解答だな。いいぞ~座れ」
 ふと遠のいていた声が戻ってきて、陽ははっと顔を上げた。
 模範的な解答を終えた憲人が席に着こうとしている。國定はそれをちらと見遣りつつ、授
業を再開して言葉を紡ぐ。
 “血の遭遇”を機にこの国は変わった。
 そしてその変化は、自分達学生にも及んでいる。
 現在進行中のこの『特別近代史(略して特史)』の授業は、その代表的な例であろう。
 事件を切欠に広まったルーメル達という異星人の存在とそれらに伴う混乱。
 何よりも、双方に多くの犠牲者を出した事実とそれらに伴う両者に残った憎悪の念。
 そうした諸々の情勢を鎮静化すべく政府が取った方策の一つが、彼女達についての公式な
情報を開示し、世間に広めることだったのである。
 次代の社会を担う学生達もその対象である点では違いなく、現在では教育カリキュラムの
中にルーメルに関する知識を教えるという項目が追加されており、こうして定期的に専用の
授業時間が設けられている。
 とはいえ、まだ制度としてはスタートして数年であり、専門の教師というものも整備され
てはいない為、現状としては特史の授業は基本的に各クラスの担任が行う事になっている。
 そんな状態故に、この特史の授業に対する力の入れ様は往々にして担任(のルーメルに対
する好感度)によって違っているのだが……。
『つまらないだと? 何を言うか、実に興味深いじゃないか。数多のオーバーテクロノジー
を携えた宇宙からの来訪者……実に知的好奇心をそそる。そうは思わないか、お前ら?』
 幸か不幸か、陽達の担任たるこの化学教師はその意味では積極的な側の人間だった。
「…………」
 そんな、あちこち脱線しながらも熱弁(もとい一人語り)を振るうこの担任から目を逸ら
すと、陽はまたぼうっと外の景色を眺め始めていた。
 少なくとも、自身に関しては“被害者”であるという実感は薄い。
 だがそれでも、胸の奥が静かにざわつくのは何故なのだろう……。
「……?」
 そうしていると、ふと窓際の席の憲人と目が合った。
 また懲りずにウトウトし始めている翔とは違い、しゃんとした姿勢で席に着き、一見國定
の講釈に耳を傾けているようにも見える。
 だが間違いない。この口数こそ多くないが頼れる友は、
『……大丈夫か、陽?』
 そう眼差しで自分の事を気遣ってくれている。
『うん、平気だよ……。心配、しないで』
 だから陽は、静かに笑ってそう同じく眼で返事をする。
 心配を掛けてしまっている申し訳なさと共に、彼の心遣いを温かく頼もしく思いながら。
「よし、では次はルーメルと“誓約者(リンカー)”についてだが──」
 ちょうどそんな時、授業の終わりを報せるチャイムが鳴り始めた。
 その音色に、少し勢いをくじかれる様にして揚々と喋っていた國定の動きが一瞬止まる。
「もう時間か……。じゃあ今回はここまで」
「起立、礼!」
『ありがとうございました~……』
 そしてクラス委員の号令を合図にした、言葉だけの気だるさの滲む生徒達の挨拶。
「おぅ。お前ら、予習復習は忘れずにな~」
 そんないつもの所作に、國定は踵を返しながらひらひらと軽く手を振ってみせると、手早
く纏めた教材を小脇に抱え、悠々と教室を後にしていったのだった。

「ふぃ~……。さぁて飯だ飯~」
 午前の授業の終わりを告げるチャイム、昼休みを告げる音。
 國定を見送ったクラスの空気は気だるさから一気に開放感へと向かった。それは隣近所の
他のクラスも同じな様で、購買・学食組の生徒達がドアを開けて出て行ってしまうと、似た
雰囲気とざわめきの声が入り込んでくる。
「……飯時には起きるんだな、お前は」
「ん? おうよ。食わねぇと何もできねぇからな。腹が減っては何とやらさ」
「さっきまで懲りずに眠りこけていた人間が言っても説得力は無いと思うがな」
「ハハハ……。まぁいいじゃない、食べようよ?」
 陽、憲人そして翔の三人も、そんな緩くのどかな空気の中でいつものように誰からともな
く各々の昼食を持ち寄って集まろうとする。
「……ホント、あんた達って仲いいわよねぇ」
 するとそんな陽たちの下に、弁当包みを提げた翼が近づいてきた。
 嘆息のような、微笑ましさのような。どっちつかずの苦笑い。
 そんな彼女の傍らには、友人である東田紗江と藍川都の両名もいる。
「まーな。つかお前だって陽や憲人とは長い付き合いじゃんよ? よく俺達や他の男連中に
混じって遊んでたじゃねぇか」
「それ、何時の年齢(とし)の話よ……」
 しれっとツッコむ姉とは対照的に、翔は悪戯小僧のように屈託無く笑っていた。
 一歩引いた冷静さと危なっかしい童心と。
 それは陽にとっていつもの、幼馴染の姉弟達の横顔とやり取り。
「和尚、真崎、桐谷。あたしらも混ざっていい?」
「あぁ……構わないが」
「うん。どうぞ」
 紗江の言葉に陽達は頷き、合わせて六人での昼食となる。
 翼たちは主のいない近場の椅子を引っ張って来て、寄せた机に持ち寄った食事を置く。陽
や憲人、翼と都は弁当。残りの二人は惣菜パンやコンビニ飯の類だ。
 ちなみに“和尚”とは、実家が寺(というだけの理由)な憲人のニックネームである。
「つーかよぉ、翼。弁当作れる時間あるなら何で俺の分は無いんだよ?」
「ハァ? 何で好き好んであんたの分まで作らなきゃいけないのよ」
 意外にも小奇麗に整えられた翼の弁当を一瞥し、翔は惣菜パンを頬張りながら言う。
 だが対する翼は何を今更といった感じで露骨な面倒臭さを見せてくる。
「起きてる時間は朝一から家の手伝いしてるあんたの方がよっぽど早いじゃない。それぐら
い自分で作りなさいよ。ま、どうせ碌なものにはならないだろうけど」
「うぐ、ひでぇ……やっぱこの女容赦ねぇよ……」
「はは……まぁまぁ。翼が手厳しいのは翔を思っての事だもの。ね、翼?」
「……別に、そんなんじゃないわよ」
 およよと泣きつく素振りを見せる翔。それをやんわりと慰めつつ陽は微笑む。
 すると翼はついっと顔を背けて言葉を濁した。もしゃっと弁当のおかずとご飯を放り込む
と暫し返答を絶つように咀嚼する。
「しかし桐谷の言う通りではあるな。翔、お前も多少なりとも料理はできた方がいいぞ」
「ん~、そりゃあできるに越した事は無いけどさ。でも俺は“育てる”方専門だから」
 実家の影響なのか、質素な和食テイストで統一された弁当を突付きながら淡々と憲人は言
う。それに対して翔は一応頷きながらも、
「ま、自分で作るより可愛い彼女に作って貰う……みたいな方がいいだろ? 気分的にさ」
 そうサラリと軽い感じで言い放つ。
「……か、彼女」
「ん? どったの、ミヤ? 箸止まってるよ?」
「あ、ううん……。な、何でもない……」
「ふぅん?」「……」
 すると都が思わずビクッと小さな身体を震わせて何某かを呟いていた。その様子に、傍ら
の紗江はニタリとほくそ笑みながらも敢えて追求はしないような素振りを貫こうとする。
 今時の女子高生らしいあっぴろげな紗江と、彼女とは対照的に控えめな印象の都。その友
人二人のやり取りを翼は言葉少なげに横目で一瞥している。
「え? いるの、翔? そんな娘」
「いやいやいねーって。分かってて聞くなよ……」
 だが翔も陽も、そんな女子陣の挙動には気付く様子は無かった。
「そう? 翔や憲人なら、背も高いしカッコいいし、別にモテても不思議じゃないと思うん
だけどなぁ……」
「買い被りだって。俺、結構ボケキャラ扱いだしな。そういう見方されてねぇんじゃね?」
「……三枚目という自覚はあるんだな」
「う、うっせーよ。そ、それにお前だって真面目過ぎも程々にしとけ? ただでさえ見た目
ゴツいんだから、中身くらいちったぁ柔らかくしとかねぇとしんどいぞ?」
「大丈夫だ。色欲は断つに越した事はない。一応これでも僧侶(てら)の跡取りだからな」
「いや、そういう所が糞真面目なんだっつーのに……あ~、もう」
「あはは……。でもそこが憲人のいい所でしょ?」
「…………まぁな」
 弁当を、惣菜パンを突付き、齧りながらいつの間にやら男同士でそんな雑談が交わされて
いく。少し突っ走り過ぎる翔と落ち着き過ぎている憲人、そして何となくその仲立ち的な役
回りをしている自分。だが陽はそんな立場に不満は無かった。むしろとても心地よい、一緒
にいて楽しい気持ちさえ覚える。
 気付けばよく一緒にいる親友とも呼べる二人と、その周りの仲間達と。
 そんな毎日は陽の心を束の間であっても“あの事”から遠ざけてくれる。
(ま、でも実際一番モテるのは陽、お前なんだけどな……)
 思わずほっこりと微笑んでいた陽。
 その表情を、翔は目に映してはそう思っていた。
 ちらりと憲人とも目が合い、小さく頷いてくるのが確認できる。どうやら向こうも考えて
いる事は同じらしい。何だかんだ腐っても親友(ダチ)だな、と翔は苦笑いを漏らした。
(でも絶対気付いてねぇよなあ、こののんびり屋さんはよ……)
 そして今度はちらりと視線を翼へ。
 すると彼女はぼうっと何かを──いや、自分の勘が正しければ陽の横顔を見ていた事に気
付かれると、慌てて視線を逸らし、代わりにこちらへ少々不機嫌な睨みを返してくる。
(全く、ややっこしいよなぁ。俺達も色々と……)
 だが翔はそれもむしろいつもの事とそんな姉の眼差しをかわしてみせると、
「……? 翔?」
「ん、いや。何でもねぇよ」
「? うん……」
 少しきょとんとしている穏やかなる友に、にんまりと、少し意地悪く笑いかけてやる。
 そうしてまったりと昼休みは過ぎていった。
 陽たち男子陣と翼たち女子陣。時にバラつき時に同じ話題で談笑をしながら。
 そして昼休みが始まってから十分程が経ち、購買組の面々がちらほらと教室へと戻ってき
始めていた、ちょうどそんな頃合だった。
「……」
 不意にガラリと開いた教室の扉。そこから姿を現したのは一人の女子生徒だった。
 背丈は女子にしては少し高め、それでも体格は細身でありスラリとした印象。しかしその
表情はミドルショートの前髪に隠れてよく見えない。
 教室にいたクラスメートの一部がちらと視線をやっていたが、それも僅かな間でしかなく
すぐにまたそれぞれの談笑へと戻っていく。だが当の彼女はそうした反応に対して特に気を
止めるような素振りはなく、購買で買ってきたと見られる焼きそばパンと紙パックのお茶が
入ったビニール袋を手に提げたまま、独り自分の席へと戻ろうとする。
(……水上、また独りか……)
 そんなクラスメートの様子を、陽は南瓜煮を頬張りながらぼんやりと眺めていた。
 水上凪。あまり感情を表に出さない、寡黙なクラスメート。
 その為に周囲から──少なくともこのクラスにおいてはあまり目立たず、言ってしまえば
孤立しているような感が彼女にはあった。
 人付き合いが苦手……というよりはむしろまるで自ら周囲との距離を置いているかのよう
な、わざと他人と隔たりを設けているような、何処かそんな印象を受ける。
 そんな──個人的な理由でも内心気にかけている、クラスメート。
(……ぁ)
 そうしていると、フッと陽は凪と目が合ってしまっていた。
 時間にしてほんの数秒。すると彼女はじっとこちらを見つめてきた後、何を思ったのか静
かに身を返して近づいて来たのだった。
「真崎」
 ポツリと陽を見下ろし一言。こちらは座っている為に自然と彼女を見上げる格好になる。
「え……えっと、何かな?」
 口の中に残っていたおかずを急いで咀嚼して飲み込んでから、愛想笑い。
 その横では少し驚いたように翔達がその様子を見遣っているのが分かった。だが対する凪
はそんな反応などはもう慣れっこなのか、
「今日の書庫整理……ボク達にも来て欲しいって言われた」
「え、書庫整理? でも確かまだ僕らの当番じゃなかった筈だけど……」
「今日の当番が二クラス分、外せない用事で出て来れないらしい。さっき購買で小野寺に代
わりに出てくれって頼まれた」
「あぁ、そういう事ね……」
 そう淡々と、用件を陽に告げてくる。
 最初は何事かと思ったが陽はその彼女からの言い伝えを聞いて、こくと頷いた。
「いいよ、そういう事なら。小野寺先生にも了解ですって言っておいてくれる……かな?」
「……分かった」
 対して、凪はごく短く返事をするだけでそのまま踵を返そうとする。
 カサッと小気味良い音を立て、手に提げたビニール袋が揺れる。
「水上、伝言ありがとね」
「……うん」
 陽はその背中に更に言葉を送ったが、彼女はちらと肩越しに僅かな一瞥を寄越すだけで、
そのままテクテクと歩き始めた。
 手元で小さく掌を上げようとしていた陽。だが彼女はそんな様子に振り返る事もなく、再
び扉に手を掛けて教室を後にしてしまう。おそらくは小野寺(委員会の顧問)に先の返事を
伝えに行くつもりなのだろう。
 再び閉まった教室の扉。
 ただそれだけの事なのに、それまでの時間の間、陽を始めとした面々は何処か硬直したか
のような緊張感に包まれていた。
「……行っちゃった」
 先ず最初に、小さく呟くように誰ともになくそう口を開いたのは陽だった。
(どうせなら皆で一緒に食べないかって言おうと思ったのにな……。まぁ小野寺先生に伝え
てくれって言ったのは僕だけど……。う~ん……)
 あの様子ではおそらく、今日も独りで食べる気なのだろう。
 あまり干渉するような真似はよくないのかもしれないが、それでもやはり……。
「ふぃ~……、何だか水上と話してると緊張するな。実際に話してたのは陽だけど」
 続いて、翔が肩の凝りを解すような動作を取りながら言った。
 そしてそれを合図にするように他の面々もやっと妙な緊張から解放されたようになる。
「それにしても陽、お前よく水上と会話が成立するよなぁ」
「……へ?」
 再開され始めた昼食。その中でふと、翔が一度凪が立ち去っていった方向を見遣ってから
しみじみといった感じそんな事を言ってきた。
「へ? じゃねぇっての。ほら、水上って普段殆ど喋らねぇじゃん? 寡黙っつーか何考え
てるか分かんねぇっつーか……」
「そうだよね……。私もあまり水上さんが他の人と話している所、見かけた事ないかも」
「うんうん。凪っちって何だか周りと距離を置いてる感じだもんね~」
 そんな翔の言葉に、都と紗江もそれぞれ頷いて言う。
「それはそうかも、しれないけど……」
 どうやら自分の感慨はどうやら他のクラスメート達から見ても間違いなかったらしい。
 陽は勘違いではないようである事に一抹の安堵を覚えつつも、同時にそうした凪の他人と
の接し方に、内心お節介ながら心配を覚えてしまう。
「でも話し掛ければ返事くらいはしてくれるよ? 確かにぶっきらぼうではあるけどさ」
「だ~か~ら、そうやって会話が成立してるのが珍しいのよ。私も水上さんが話してる所っ
てあんまり見た記憶ないし……。自分の席でじっと本を読んでる姿ならよく見かけるけど」
「だよな~。だから正直、ああやって陽に話し掛けてきた時にはびっくりしたんだぜ?」
「……な、何か酷い言われようじゃない、それ……?」
 それはその凪本人がこの場にいないからこその皆の感想なのだろうが……。
 陽は思わず苦笑いを漏らし、独り内心で何故か胸の奥が痛むような感覚を覚える。
「……なに、陽は一年の頃から水上と一緒に図書委員をやっているからな。少なくとも俺達
よりは面識なり何なりがあるだろう? それだけの事じゃないのか」
 そしてそんな陽の横顔をじっと横目で見遣り、気遣ってなのか、それまでじっと黙ってい
た憲人がそう静かに言葉を付け加えてくれる。
「う~ん……。そんなもんかねぇ」
 多少しっくりと来ない様子ながらも、翔は取り敢えずそういう事にしておくかといった感
じで手にしたペットボトルの烏龍茶に口をつけていた。
 憲人のその一言で各々に思う事があったのか、不意に面々が心なしか言葉少なげになる。
 沈黙の代わりとでもいうように面々の食事が進んでいく。
「……にしたって、もうちょっとでもいいから水上も愛想よくすりゃいいとは思うけどな。
あいつ、見てくれだってそんな悪かねぇんだしさ。なぁ、陽?」
「え? な、何で僕に……」
「何でって……。俺達の中じゃお前が一番仲いいんじゃねぇのか? 面識だってざっと見て
も一年分のアドバンテージ持ってるじゃんか」
「それはそうだろうけど。う~ん……ど、どうなんだろ……」
 それでも翔は時折そうやって話を振る事を忘れなかった。
 陽は急に自分に振られて、しかも内容が内容だけに困惑したが、同時に(おそらく直感的
な判断で)気まずさを嫌って場をリードしてくれる彼には救われるような思いもする。
「……き、桐谷君は」
「うん?」
 と、その時ふと都が何処か緊張した面持ちで口を開こうとしていた。
 それに気付いた翔はにやけ顔で陽に質していた顔を向けると、
「……そ、その。桐谷君は水上さんみたいな娘が好み……なの?」
 ごくりと唾を呑んでおずおずと顔を上げた彼女を見遣る。
「ん~? どうだかなぁ……どっちかっつーと苦手な部類の人間だと思うけど」
 だが訊ねられた翔は数秒、少しだけを間を置いただけで、
「やっぱ一緒にいて楽しい奴といたいじゃん? だからそういう意味じゃ水上みたいな寡黙
な相手は個人的にやり辛いな。間が持てねぇっつーの? そういう感じでさ」
「そ、そう……なんだ」
「あぁ。ま、何にでも相性ってもんがあるしな」
 一見するだけでは至極あっさりとそう答えてみせ、小さく何度かコクコクと頷いて俯いて
しまった都を、何処か不思議そうな様子で見返していた。
「ふ~ん……? だけどさ、寡黙って言ったら和尚だってそうだよね?」
「あぁ、それなら大丈夫。憲人君の場合はノーカンだから」
 すると今度は、そんな都の横顔を見遣っていた紗江が翼に顔を向けて言う。
「基本、憲人君の発言の半分は翔へのツッコミだからね」
「俺がボケるの前提かよ!?」
「……あながち間違っていないのが悲しい所だな。半分とは言い過ぎだろうが」
「あはは……」
 しれっと言い放った翼の台詞に翔がツッコミを重ね、一同に笑いがこぼれた。
 それはいつもの、長い付き合いの気心の知れた仲間達との語らい。
 それはいつもの、密かに波立つ心を穏やかにさせてくれる憩いの一時。
「……」
 だからこそ。陽の脳裏に、ふと先刻独り立ち去っていった凪の姿が過ぎる。
 僕は、これでいいのだろうか?
 僕は本当に──この温かさに身を委ねるに相応しい人間なのだろうか?
(……今度こそはちゃんと、水上も誘わなくっちゃな……)
 そんな事をぼんやりと心の中で思いながら、陽は甘口の出汁巻き卵を頬張っていた。


 そして──放課後。
「……次」
「あ、うん。はい」
 昼休みに受けた伝言の通り、陽は凪と共に他のクラスの図書委員達に混じって図書館奥の
書庫整理に加わっていた。
 時間帯という事もあり、独特な静けさに包まれている室内。
 更に今いる場所がその中でも奥まった所である事も加わって、やけに作業している物音が
大きく耳に届いてくるような気がする。
 陽はそんな静寂と、対比されるように拡張されて感じられる感覚に意識を傾けながら黙々
と作業に追われていた。
 目の前のキャスター付きの机に積み上げられた本の山。
 それらを一冊一冊手に取り内容を確かめて系統・分類ごとに整理して積み直しては、
「……次」
 傍らで脚立に腰掛けて本棚に向き合っている凪に、合図があれば順番に手渡していく。
 ひたすらその繰り返し。
(流石に多いなぁ……。うちの学校、やたら蔵書あるし……)
 単調だが地味に疲れる作業。
 確かに多少の疲労感は無いわけではなかったが、それでも陽自身はこうした仕事を特段苦
痛だとは思わなかった。
 自己主張はさほど激しくないが、肌で感じるような長い時間の蓄積を吸収した本達の放つ
匂い、息遣い。それらが静けさの中にとても似つかわしく佇む様。そんな忙しなさとは一線
を画す一時を与えてくれる空間が陽は好きだった。
 凡庸だと思う。僕にできる事は少ない。だから……せめて知識だけでも、後付けで身につ
ける事ができるのなら可能な限りそうしたいと思った。
 力。それは何も暴力だけには限らない。黒く汚れた権謀術数でもない。
 そんな力が、何処かにあるのだと思っていたから……いや、信じていたかったから。
「…………」
 ふと手を止め、じっと自身のその掌を見下ろす。
 やはり夢物語でしかないのだろうか。それとも、仮に在ったとしても自分にそれらを手に
する資格はあるのだろうか。
 身近なクラスメートの孤独な姿一つにだって、中々手を差し伸べられずにいるのに……。
「……真崎」
「えっ?」
 そんな脳裏に過ぎった思考は果たしてどれだけの時間だったのか。
 気が付いた時には、陽は凪のローテンションな声色に現実へと引き戻されていた。
「ご、ごめん。次の本は……」
 そして内心慌てて積んだ本の山から次の一冊を抜き取って渡そうと顔を上げた。
 そんな時だった。
(……ぅっ!?)
 よくよく考えれば分かる事だっただろう。だが、何となく場の雰囲気と凪の先手によって
気付くのが遅れていた。だいぶ、遅れていた。
 陽はテーブルの前に立ち、床にいる。それに対して凪のいる位置は脚立の一番上。
 当然そんな高低差のある位置関係にあれば、スカートを履いている彼女を陽は見上げる格
好になるわけで……。
「……何?」
「あ、いや。な、何でもないよ……っ」
「そう……」
 伸ばした手から凪が本を受け取るのとほぼ同時に、陽は思わず反射的に彼女から目を逸ら
していた。
(……み、水色……)
 カァッと顔が赤くなる。雑念を払おうとふるふると頭を横に振る。
 しまったと思った。いくら彼女の方から(というより黙ったまま)脚立&陳列担当に回っ
ていったとはいえ、男としてもうちょっと気をつけるべきだった。
「……」
 恐る恐るもう一度、今度はちゃんと角度に注意しながら、陽は凪に視線を寄越してみる。
 だが当の凪は特に反応は見せない。本の擦れる音と共に黙々と書架の整理に集中している
ように見える。気が付いていなかったのか、それとも敢えて騒がずにいてくれたのか。
(何だか僕の方が勝手に慌ててるだけな……。恥ずかしい……)
 ポリポリと照れ隠しに頬を掻きながら、陽は跳ね上がった心拍数を静めようとする。
「……次」
「あ。う、うん……」
 そして何度目とも知れぬ凪の最小限の催促の声。
 落ち着きを取り戻した陽は、手元の山からまた一冊を抜き出すと手伸ばして差し出す。
 だが、ふとそこで気付かされた。
 見上げた彼女の顔立ちは、飾り気こそ無いが確かに端正なものだった。
『あいつ、見てくれだってそんな悪かねぇんだしさ』
 タイミングを合わせたかのように、脳裏に翔が言っていた言葉が呼び起こされる。
 伸ばした前髪に隠れて普段は見えなくて、じっくり見るような事もできなくて意識する事
も無かったが、改めて彼女が……可愛いなと思えた。
(い、いやいや! 駄目だってそんな眼で見ちゃ。水上はあくまで委員仲間であって……)
 翔の言葉の所為なのか、昼休みに思っていた彼女への心配の念の所為なのか。
 陽は再び心臓の鼓動が早くなりそうになるのを必死に堪えようとして俯いてしまう。
 だが、今度こそはそれが仇となった。
「……真崎」
「は、はいっ!?」
「……ボクは別に見えても気にしない。減るものでもない」
「え゛」
 やっぱりバレてた──!?
 思わずサーッっと顔を引き攣らせて見返す陽。だが当の凪は別に怒っている……ようには
見えなかった。少なくとも見た限りは、一見普段通りの感情の乏しい表情に見える。
 そうは言ってくれても、果たして安心していいものなのかどうか……。
 陽は誤魔化しにもなっていない小さな苦笑いを漏らしながら、何とも気まずくその場に立
ち尽くす他ない。
「…………」
 一方で凪はまた淡々と書架を整理する作業に戻っていた。
 ダメージを引き摺ったまま本を渡してくる陽を哂う事も貶す事もなく、ただ黙々と与えら
れた仕事をこなしていく。
「真崎」
 そんな彼女がふと合図ではない声を翔けてきたのは、再び本を受け取り始めて七冊目を本
棚に収め終えた時だった。
「……下着を見られるというのは、そんなに恥ずかしいもの?」
「えっ?」
 至極真面目な声色と、その様子に似つかない質問内容。
 陽は最初その問いを投げ掛けられた時には、思わず自分でも間抜けだなと思うような声を
返してしまっていた。
「どう……なの?」
「え。う、うん……」
 だが対する凪は至って真面目に訊いてきているらしかった。
 だからこそ陽は、正直戸惑いを隠しきれなかったものの、
「そ、そりゃあ恥ずかしいんじゃないのかな、普通は? そ、そもそも見られて恥ずかしい
から隠してるって部分も、あるだろうし……」
 一応、思う所を差し障り無く答えてみせる。
「そう……」
 その返事を聞いて、凪は脚立の上でじっと何かを考えているように見えた。
(う~ん……やっぱり水上って変わってるよなぁ。普通、真顔でこんな事聞くか? しかも
男に……。あ、いや待てよ。という事はもしかして、僕って男として見られてない……?)
 ここは変な誤解を受けずに済んだと安心するべきなのか、それとも一応一人の男として気
落ちしておくべき所なのか。
 そんな微妙な心情にトホホとなりながらも、陽は静かに小さな苦笑いを漏らしつつ、とり
あえずはと目の前の仕事に集中しようとする。
 再び淡々と流れる作業の一時。何度となく再び二人の間を多数の本が渡っていく。
「……やっぱり、ボクは変だと思う?」
「へ?」
 そして、二度目の質問はまたしても突然だった。
 整理と振り分けを続けていた手を止めて顔を上げる陽。そのきょとんとした顔を、凪のあ
まりにも淡々とした、澄んだ瞳が見下ろしている。
「さっきので、真崎はボクの事、おかしいと思ったと思うから……」
 だがその視線も束の間。動きだけは再び整理作業に戻っていたが、それでも彼女は訥々と
ながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「……それは」
「いい。ボクも自覚はあるから」
 そっと陽に手を伸ばす。それが本の催促だとやや遅れて気付き、陽は次の本を手渡した。
それを丁寧に本棚の中に収納して並びを確認しながら、凪は言う。
「…………ボクには、分からない事が沢山ある」
「分からない……事?」
 陽は思わずきょとんとしたが、その次の瞬間には思わずハッと何かを感じ取っていた。
「人というものが……ボクには分からない」
 それは、ある種の告白なのではないかと思った。
 表情はいつもの見慣れた淡々としたもの。だが、今なら分かるような気がする。
 きっと、彼女は戸惑っているのだ。怖いのだ。自分が……一体どう振舞えばいいのか。
 陽は手に持っていた本をそっとテーブルの上に戻していた。
 無言で、だがしっかりと。そして静かに促すように。
 そのまま陽は、僅かな一瞥を寄越してくる彼女の横顔をしっかりと見つめる。
「……どれだけ人の書いた本を読んでも、あちこちから漏れるみたいに分からない事ばかり
が出てくる。どれだけ知っても……きりが無い」
 凪は言いながら、そっと本の背表紙達を撫でていた。
 それらは人が作り出したもの。つまりは人の「心」がそこにはあると言いたいのだろう。
「……もしかして水上は、きりが無いからクラスの皆とも話さないの?」
 だが、そんな事は……こんな自分にでも分かる。
「そうかも、しれない」
「……。駄目だよ、そんなの」
「?」
 人という存在を賛美したい訳じゃない。だけど、他人の心なんてものは……文字で残せる
ようなものばかりじゃないって事くらいは、自分にだって分かるから。
「駄目……?」
「うん。駄目っていうかさ……本来の姿じゃ、ないんじゃないかな?」
 上手く形になってくれない。それでも陽は目の前の彼女の為に何とか紡ぎ出そうとした。
「その……水上にとって人と付き合うって事は何なのかなって。僕はさ、誰かと付き合いを
するって事は、その人を知りたいと思うからするんだと思うんだ。……まぁ仕事上で知り合
いになるっていうような形もあるだろうけど。それでも、誰かに近づこうとするって事はそ
の誰かを知りたいと思うからって事でしょ? だから水上の『分からないから関わらない』
っていう姿勢は……目的と手段が逆になってるんじゃないかなって」
「……」
 脚立の上から、凪はじっと継ぎ接ぎめいた陽の言葉とその様子に耳を傾け、静かな視線を
向けていた。
 果たして届いているのかは分からない。だが陽は、ここであやふやな返事をしてはいけな
いと思った。そして、また今がその時だとも思ったのだ。
「……水上はもっと色んな人と触れ合うべきだよ。確かに本は面白いよ? 僕も本が好きだ
からって理由で図書委員になった訳だし、それでもって水上とも知り合えてる訳だし……。
でもそれだけじゃきっと駄目なんだと思う。目の前の本を手に取るみたいに目の前の人達と
手を取り合う事だって、きっと……」
 だがそこまで言って、陽は急に恥ずかしくなってきた。勢いを削がれてきた。
 とんだ理想論じゃないか。自分は彼女に諭すのではなく、むしろ自分に言い聞かせている
のではないか? こうして彼女の悩みに耳を傾ける事で、自分が満たされたいと思っている
のではないのか……?
 心に差さんとする静かな影。偽善者だと罵る内なる声。
 だが陽は懸命にそれらを振り払おうとした。そんな事はない。無い筈だ。
「……正直さ、傍から見て心配だったんだ。水上はいつも独りぼっちで静かにしてたから。
それを周りも水上自身も変だって思うんなら、今からだって遅くない、友達を作ろうよ?
誰かを知りたいと思うなら、先ずは自分の事も知って貰わなくっちゃ。まぁ分からないから
怖いっていうのは……僕も分からなくはないけど。でも、だからといって何もかも知ってい
る事が常にいい事だとは、僕には思えないかな……」
 ごくりと。唾を飲み込み陽は凪を見据える。
 対する凪も、じっと脚立の上から陽の表情(かお)を見つめていた。前髪に隠れた澄んだ
色の瞳が、何処か僅かに揺らめいているようにも見える。
「ちょっとずつでいいんだよ。お互いに、ちょっとずつでさ……。全部を知らなきゃいけな
いなんて事もない。知り過ぎが逆に劇薬になっちゃう事だって、あるしね……」
 陽はそこで初めて苦笑していた。
 それはきっと、自身の生の体験が語るもの。彼なりの、至ろうとしている道筋の一端。
「そ、その……。折角こうして図書委員で面識もあるんだしさ。よければ水上もさ、先ずは
皆で一緒にお昼を食べるとか……そういう事から始めたらどうかな? 僕だけじゃなくて翔
や憲人、翼に藍川や東田もいるからさ。少なくとも会話に困る事はないと、思うよ……?」
 最初の勢いはすっかり削げて。
 陽はおずおずといった感じでそう凪に語りかけていた。
 今更になり気恥ずかしそうな、ばつの悪そうな苦笑い。しかしその微笑は彼の温厚な性質
を偽る事なく表してもいる。
「…………」
 そんな陽の姿を、凪は暫くの間じっと見下ろしたまま黙していた。
 しんと書庫内は静まり返っている。その中で時折耳に届いてくるのも、せいぜい他の委員
らによるものと思われる作業の物音くらいだ。
「……えっと。ご、ごめんね? その、急に説教みたいな事言っちゃって……」
 やがて間が持たなくなったように陽は苦笑いを漏らすと、恥ずかしげに俯き加減になって
ポリポリと指先で頬を掻きつつ、そんな言葉を紡ぐ。
「でもやっぱりさ、心配なんだよ。水上ってよく独りでいる所を見かけるから……。余計な
お世話かもしれないけど、水上自身がそれを気に病んでるっていうなら……もっと他人と関
わっていった方がいいと思う。きっと……その方が楽しいよ?」
 そう、苦笑いで「ねっ?」と微笑みかける。
 凪はやはりじっと淡々とした表情のまま陽を見ていたが、やがて静かに視線を逸らして本
棚に並んだ背表紙の文字達をぼんやりと眺めだす。
「……人を知りたければ、自分を知らせる……」
 そして、その沈黙がどれだけ続いただろう。
 長い間を置いた後、凪はぽつりと誰にともなくそう復唱するように呟いていた。
(……? 何だ?)
 その横顔。何となく横目で見遣っていた陽は、その様子が何処か妙だなと思った。
 ざっくりと表現するのなら、違和感。もっと言うならばジレンマ、或いは……哀しみ?
「……やっぱり、難しい」
 凪は言った。ついと僅かに天井を仰ぎ、前髪に隠れた瞳に憂いのような色が帯びる。
「きっと後悔する。ボクの事を知ったら……不幸になる」
「えっ?」
 それは想定していなかった言葉だった。
 その憂いの横顔は、何故かはっきりとした断定に変わっていて。
 陽にはそれが驚きだった。不思議だった。いや……哀しかった。そんなのは推測でしかな
いじゃないのか? 誰かと触れ合う事が必ずその誰かを不幸にするなんて……哀し過ぎる。
 一瞬の迷い。だが陽は急ピッチで駆け抜けていく感情と思考を踏み抜いて、改めて彼女の
顔を見上げていた。
 そんな事ない。どうしてそんな事を? そう、言おうと思ったのに……。
「だから真崎も……ボクにじゃなく、他の誰かに優しくなった方がいい……」
「水、上……?」
 だからそうやって急に突き放されたら、どうしたらいいのか分からなくて。
 迷惑がられたのか? それとも本当に“不幸”になるから僕を遠ざけようと……?
 陽は暫し呆然としていた。その傍らで、凪はゆたりとまた独り黙々と作業を再開し始めよ
うとする。
 疑問があちこちから沸いてくる。正直、陽は内心で混乱していた。
 彼女は一体どういうつもりなのだろう? 自分は突き放されたのだろうか? 
 でも自分に己の悩み(?)を打ち明けようと──多少なりとも心を開こうとはしてくれた
のではないのか? それともそんな解釈も、こちらの一方的な自惚れだというのか……。
 別に僕は下心とか、そんなやましさからじゃなくて。
 ただ君の独りな姿を見ていて心配だったから。それなのにどうして……?
「──お~い、そっちはどうだ? 捗ってるか?」
 しかしそんな急遽駆け出した思考の歯車も、不意に書庫の入り口の方から顔を出してきた
先輩委員の声によって寸断された。
 ハッと我に返って顔を上げる陽と、脚立の上に乗っかったままちらりと視線を寄越す凪。
「あ、はい…。このテーブルの上の分が済めば一通り整理終わりますけど」
「そうか。じゃあそれが終わった後でいいから、こっちにも手伝いに来てくれ」
「はい。分かりました……」
 用件を言い、返事を聞くだけ聞いて先輩委員は顔を引っ込めて足音を遠ざけていく。
 また暫しの間。すっかり途切れてしまった疑問と推論の思考。陽は恐る恐ると、その視線
をゆっくりと凪の方へと向けようとする。
「……次」
 だが彼女は既に作業に戻っていた。
 スッと片手を出し、次にしまう分の本を催促してくる。
「あ。う、うん……」
 結局、それ以上陽は聞き返す事も確かめる事もできなかった。
 見返す凪の表情は、また感情に乏しいそれになっていた。そこからはもう、他人との距離
感に悩む憂いの感情を読み取る事は難しい。
(……失敗、しちゃったのかな……?)
 ちょっとだけ、いや内心かなり気落ちや後悔の念を滲ませて。
 そんな思いをひた隠すように、陽はまた一冊、彼女に分厚い本を手渡していく。

 それからの後は、陽も凪も黙々と書庫整理の作業に従事することとなった。
 気まずさや疑念が無かった訳ではない。だが当の凪本人が以降何も語ろうとはせず、加え
て先輩委員の所為でタイミングを逸した事もあって、陽にはもう彼女の漏らした言葉の真意
を確かめる術はなくなっていた。
 やがてそれでも作業は終了し、陽達委員一同に解散が許された頃には、街に降り注ぐ陽の
光は随分とその茜色を濃くしつつあったのである。
(……ふぅ)
 帰り支度を済ませて帰路へ。
 陽は鞄を肩に引っ掛けて独りグラウンド沿いの石畳を歩いていた。
 グラウンド上では未だ複数の運動部が活動する姿と活気のある声がある。夕陽色に染まり
つつあるその光景は、遠目に見ている分には健全な姿のようにも見えなくもない。
『でもきっと後悔する。ボクの事を知ったら……不幸になる』
 すると、ぼうっと無意識に緩めた足と共にふとあの時凪に言われた一言が蘇ってきた。
 一体、あの言葉はどういう意味だったのだろう? つまりそれは、彼女には何かしらの事
情が──知られるとマズい何かがあるということなのだろうか……?
 陽の心は、揺れていた。
 自分に見せた拒否──しかし前後の言動からして、むしろ自分を巻き込むまいとした意思
のようにも思えるのだが──の通り、余計な節介だと身を引くべきなのか。それとも何とか
してもう一度彼女に手を差し伸べてみるべきなのか。
「…………」
 つくづく自分は一体何をしたいのだろうなと思う。
 人と人とのには適切な“距離”というものが少なからずある。しかし自分はそれを、しば
しば手前勝手な節介の為に詰めようとしてきたのではないか?
 自己満足──高慢──偽善者。
 そんな、断片的な言葉。
 もう一人の自分が、深くて暗い所からほくそ笑んで囁いてくるかのように。
 決して今回が初めてじゃない。良かれと思っても、結果的に攻撃されてしまった事だって
これまでも少なからずあったのに。
 単なる学習不足? もう一人の自分の望む結末? それとも悲劇のヒーロー気取り?
 これまでも何度だって少なからず痛みを伴ってきた。その度に後悔してきた。
 なのに、それでも……苦しみ悩む誰かを放っておけないないのは、何故なのだろう?
 いや……きっと理由は分かっているのだ。
 自分自身には実感のない事と割り切ってきた筈のもの。だけど奥底ではそうでないもの。
 理由はそこにあった。あの日からずっと、少しずつ記憶と心に写し取ってきた光景。
 ただ僕は見たくなかった。それ以上に悲しんで欲しくなかった。笑っていて欲しかった。
 そんな思いはきっと、彼女達が身近で大切な人だから──。
「お~い、陽~!」
 次の瞬間、プツッと途切れた思考。
 耳に聞きなれた友の声が聞こえてきたのはそれとほぼ同時の事だった。
 半ば反射的に振り返る。その時、ツッと眼から涙が零れそうになっていたのにやっと気付
くと、慌ててごしっと袖で強めに拭った。
「……翔、憲人」
「よぉ」「ふむ……。思っていたほど時間は掛からなかったようだな」
 視線の先、校門の傍にはそれぞれ鞄を手にした翔と憲人(親友達)の姿。
 陽はフッと苦笑の混じった微笑みを向けると、改めて二人の下へと歩いていく。
「もしかして、待っててくれてたの?」
「あぁ。昼休みの時に委員の仕事で遅くなるってのは聞いてたしな」
「……別に先に帰ってても良かったのに」
「先に帰るとも言ってないだろ?」
 さも当然と言わんばかりに翔は悪戯小僧のような、屈託のない笑いを浮かべていた。
 その表情(かお)を見遣りながら陽が静かに苦笑していると、腕時計に目を落としていた
憲人がサラリと言い放つ。
「……何があった、陽?」
「えっ? な、何でいきなり……」
「……遠目に見た時に、何か悩んでいるように見えたんでな」
「そ、そう? 何でもないよ。大丈夫だから……」
 しかし陽は正直に答えられなかった。
 自分でもまだ複雑な感情で言葉にし切れない面があるという事もあっただろう。だが何よ
りもこれはあくまで自分のやり始めたお節介。いくら気心の知れた友だとしても安易に頼っ
てしまう事には内心少なからず抵抗がある。
 それに、凪の言っていたあの──自分を知れば“不幸”になるという言葉。
 それは正直半信半疑、真意も測れぬものだったが、その不吉なキーワード故に陽が二人に
話してしまう事に躊躇いを覚えたというのもまた一つの事実だった。
「……そうか」
 表面上は引いた憲人。しかし、陽を見つめるその強く静かな瞳は彼がそれらとは別の事を
考えているらしい事を物語る。
(ごめん憲人、翔。もっと落ち着いたら……きっと話すから)
 そうした友の行動パターンを知っているからこそ。陽は心の中でそう申し訳なさを静かに
吐き出して、微笑みで隠した苦笑を代わりとする。
「ふ~ん……?」
 だが今度は翔の出番だった。
 憲人のように生真面目にではなくからかう様にではあったが、彼もまた陽(とも)の微妙
な変化に勘付いていたのかもしれない。
 キョロキョロと、右から左からと陽の顔を覗き込み、暫し思案顔になる。
「……もしかして水上絡みなんじゃね? さっきまでだって図書委員の仕事で一緒だった訳
だしさ」
「え。そ、そんな事は……」
 言われて陽は咄嗟に隠そうとしたが、それが却って翔に妙な確信を持たせる結果になって
しまったらしい。翔はそんな陽の反応を見ると、ふとニヤリと悪戯っ気のある笑みを口元に
浮かべて距離を詰めてくる。
「そうかそうか。いや、皆まで言うな。同じ男同士、その辺りは察してやるさ」
「……へ?」
「お前の好みに口出しはしねぇけど、やっぱ水上は手強かったかー。まぁ、一回振られたか
らってくじけんなって。そんな苦い経験も青春を彩る一頁さ……」
「振られ……?」
 当たっているような外れているような。
 一瞬ドキッとしたが、翔が不意に滔々と芝居掛って話し始めるのを聞きながら陽はキョト
ンとして立ち尽くす。
「よし、今日はパーッと遊ぼう。慰みだ、多少の金なら俺が出してやるよ。ま、元々遊びに
行こうと思ってお前を待ってたんだけどな」
「あ、いや……。えっと……」
 色々誤解されているようだが、取り敢えずはバレていないらしい。
 翔に肩に腕を乗せられながらも、陽は一応ホッとしつつ苦笑いを零した。
「……翔、もうその辺にしてやれ」
「う? へいへい。あいよ~っと……」
 そしてそれに合わせたように、じっとその様を見ていた憲人が静かに割って入ってくる。
 翔が陽の肩から腕をどけ、ひらりと傍らに立つ。
 その反対側には憲人。いつもの面子。気付けば何かと行動を共にしている三人組。
「アーケードの方でいいよな? ゲーセン寄ろうぜ。一昨日、新しい筐体が入ったらしいん
だよ。確かこの前新作が出たガンシューティングの……」
「あぁ、それってもしかして……」
「ふむ……。先客の列ができていなければいいがな」
 リードするのは明るく社交的な翔。それに引っ張られる形で陽が、そんな二人を見守る様
な、それでいて何だかんだで飽きずにつるんでくれる憲人がいる。
「まぁ何とかなるさ。さぁ、行こうぜ?」
 やがて話しながら、三人は歩き始めていた。
 まだ部活に勤しむ学生達を背にして一路、放課後の道草へ。毎日ではないが、陽達は時間
の許す限りこうして夕暮れの星峰を散策して回る事が多かった。
 今回心ざわめく出来事こそ起きたものの、陽にとってそれらはいつもの一時。
 まだ大丈夫。僕達の“日常”を挟んで少し……落ち着こう。
 凪の件も、また測り直せばいい。何かは分からないが、彼女にも事情があるのだから。
 それに今は無理でも──たとえそれが間違いでも、きっと手を差し伸べられる時は来る。
 そう、思いながら。

 ──複雑に入り組んだ路を独り駆ける。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
 咄嗟に選んだのは人気から遠のいた雑踏の外れ、その死角となる場所だった。
 もしかしたら逆にもっと人の多い場所に逃げ込めばよかったのかもしれない。そうすれば
向こうも流石に堂々と襲い掛かってくる事もなかったのではないか。
 だが、その選択をするには良心が痛んだ。
 彼らがどれくらい攻勢にやぶさかでないかは分からない。だからこそ少しでも無関係な人
達に危害が及ぶ事態になるのは避けたかった。
 戦って、追い払えばいいじゃないか──。
 だけど私はそれすらも、まだこんな状態に陥っていても尚、躊躇していた。
 元々自分は文官だから戦いは本分ではないという事もある。
 いや、それよりも自分達の“力”が人々にとってどれだけ恐怖の対象になるのかは、今ま
での旅の中で嫌というほど味わってきたから……。
(…………撒いた、かしら……?)
 ゆっくりとその場に立ち止まながら、乱れた息を整えつつ、気配を探ってみる。
 済ませた聴覚が、まだ彼らが自分を探して駆けている事を報せてくれる。幸いこちらの位
置は把握できていないようだ。だが、それもいずれ時間の問題となるだろう。
 休んでばかりはいられない。逃げなくては。もっと、安全な場所へ。
 しかし身体は疲労を告げてくる。ただでさえ“力”もその源もセーブせざる得ない昨今の
時勢、このような逃亡劇に追いやられれば流石に消耗は色濃くなるという事か。
 とはいえ、身を狙われるのは別にこれが初めてではない。しかし「この街なら大丈夫」と
思っていた事が油断を呼んでしまったのも否めかった。
 そう……逆に考えればこの街ほど彼らにとって“獲物”に困らない狩場はないのだから。
(逃げなくちゃ。もっと遠くへ……)
 疲労した身体に鞭打ち、力を振り絞って再び歩み出す。
 ──あそこなら、きっと。
 そしてこの街に来て何度目かの、脳裏に浮かぶその思考。
 確かにあそこは私達の拠り所「だった」場所だ。しかしもう、現在のあそこはかつて私達
が寄り添い合っていた場所ではない。それは、重々分かっているつもりなのに……。
 そもそも私自身も、それが故に他の皆と同様に出奔した一人なのだから。
(……とにかく、今は彼らを撒く事を考えないと……)
 だが場合によっては、もうそんな事も言っていられないのかもしれない。
 躊躇しては揺れ、混線する思考。
 そんなぐらつくような思いを軽く頭を振って払い除けると、私は再び灰色の地面を蹴って
走り出していた──。


 夕暮れ前のアーケード街は、買い物客や陽達と同じ様な学校帰りの学生などを中心に中々
の賑わいをみせていた。
「ありがとうございました~」
 陽達三人はゲームセンターでひとしきり遊んだ後、本屋を梯子してからコンビニに寄ると
軽い間食を摂っていた。
 翔は肉まん、陽はフランクフルト、憲人はブラックの缶コーヒー。
「翔ってば、結構がっつり食べるよね。こういう時もさ」
「育ち盛りなんだよ、俺は。それを言うならお前もしっかり食ってるじゃんか」
「そうだけど……。僕はその、小腹が空いたっていうか……」
「……小柄な陽はともかく、お前は十分育っているように思うんだがな」
「俺らの中で一番でかい図体のお前が言うかねぇ、それを」
「はは……。翔は家の手伝いもしてるからその分いっぱいお腹が空くんだよ、きっと」
「……そんなものだろうか」
「そーゆーもんだよ。なぁ陽、俺もそれちょっと貰っていいか?」
「うん、いいよ。じゃあ千切って、と──」
 三人は店舗を出ると、店先の脇でそれらを開けてつまみつつ暫し談笑をする。
(…………ふぅ)
 フランクフルトと翔から分け合いっこした肉まんの千切り塊を交互にもきゅもきゅと頬張
りながら、陽はぼんやりと正面のアーケード通りを行き交う人々を眺めていた。
 夕食の買い物に来ているらしき主婦。帰宅の路なのかそれとも単に通っているのかは判然
としないが忙しくなく黙々と歩いているサラリーマン。娯楽店などに出入りしたり路上で話
し込んでいる若者達。そして、自分達と同様に道草を食っているらしい学生の姿もちらほら
と確認できる。
 人の数故に雑音はそこかしこから響いている。だがそれはかといって不快な物音という訳
ではない。むしろ、それは日常という光景を与えてくれる聴覚情報。ゆっくりとマイペース
に流れゆく時間の証だった。
 それはたとえ一人の人間が何か心に残る出来事を受けたとしても、変わる事なく静かに流
れゆくもの。
 あの彼女の様を忘れ去ろうという意図……だとまでは言わないが。
 だが、陽はこうして見慣れた光景を眺めつつ改めて気分がスーッと落ち着いてくるような
感じがした。
「そしたらユカコがさぁ」
「ハハッ! うっそー? それマジぃ?」
 しかし再び、その静まりは意識とは無関係に一瞬ドクンと飛び上がった。
 目の前を通り過ぎていく女子高生達のグループ。
 それは見かけだけなら、少なくとも互いに楽しく笑い合う仲間達の姿。
 少なくともそれは──『人が分からない』と他人との距離感に人知れず悩む姿ではない。
「……どうした? そんな辛そうな顔をして」
「ふえっ……?」
 すると陽のぼやっとした意識の揺らぎを、憲人の声が引き戻した。
 少々間抜けな声で振り向いた陽を、憲人は缶コーヒーを片手にじっと見遣っている。
「な、何でもないよ……」
 だが陽はそっくり話す気にはなれなかった。
 この頼れる友達に打ち明ければ何かいい対応ができるかもしれない。しかしそんな希望的
観測以上に、心の中で彼女の放った意味深なあの言葉が枷のようにその口を閉ざそうとして
くるのだ。
「…………そうか」
 一口。憲人はくいっと缶コーヒーに口をつけるとそう短く呟き、暫し黙った。
 何処か堪え切れなくなって、思わず目を逸らす。そしてその動作の中で翔も、肉まんを頬
張りながら頭に疑問符を浮かべてこちらを見ている事に気付く。
 陽はちらと彼を見遣って苦笑を浮かべておいた。するとその意図を察してくれたのかは分
からないが、翔はニカッと笑い返してくれると肉まんの残りを口の中に放り込み、手の中の
包装紙を捨てにゴミ箱の方へと歩いていってしまう。
「……水上と、何かあったんだな」
 すると、そのタイミングを待っていたかのように憲人が正面を見据えたまま言った。
 陽は肯定の言葉も否定の言葉も出なかったが、思わずハッと彼の横顔を見てしまった事で
実質彼からの問いかけを認めた形になる。
「…………」
 憲人はじっと眼だけを向けて、ぐっと唇を結んで困っている陽を見下ろしていた。
 数秒。短い筈なのに長い時間が流れる。
「人の速さは、それぞれに違う」
 そして、憲人は言った。
「それを変える事は難しい。自身ではなく他人のそれ変えようとするなら尚更だ」
「……」
 ちょっと唐突というか、表現が曖昧で意図が掴み難い。
 だが今この言葉は自分に対するものである事には間違いない筈だ。
「……だが別に、俺はお前のやろうとしている事を止めようとは思わない。かつてお前達の
“お節介”に救われた人間が止めるような謂れなどないさ」
「憲、人……」
 陽は少し驚きの眼で憲人を見ていた。
 寡黙で落ち着いているその様子はいつもと変わらない。だが、それでもその言葉が自分や
翔に対する謝辞であると気付くのにはそう時間は掛からなかった。
「深くは詮索しないが……。だが、焦らなくてもいいと俺は思う」
 憲人は淡々としていた。ゆっくりと視線を外すと、再び正面の往来へと戻す。
「……人の心とは厄介なものではあるかもしれん。だが、決して届かないものだいう事でも
ないんだ。ゆっくりでも、真心を届ける事は可能な筈だ。お前には……それができると俺は
思う」
「そう、かな……?」
 正直言って気恥ずかしかった。僕は、そんな大層な人間ではないよ。憲人……。
 だが同時に嬉しくもあった。憲人がそう自分の事を買ってくれているのかと思うと。
 陽は照れ隠しに視線を逸らしてポリポリと頬を掻きながら、ぼそぼそと呟く。
「……ただ、確かに難しいかもしれんな。俺が思うに水上は──」
「え?」
「…………いや、何でもない。俺の気のせいだろう。……お前の納得のいく所までやってみ
ればいい。俺達でよければ、力も貸す」
「うん。ありがと……」
 その横でふと憲人が何かを言いかけたように思ったが、気付いた時にはもう彼はそう言っ
て話題を打ち切るようにしてしまっていた。陽は妙な引っ掛かりこそ覚えたものの、それで
も追求する事はできず少々詰まり気味にそう返すだけに留まる。
 缶コーヒーに再び静かに口をつける憲人。ゴミ箱の方から戻ってくる、何故かニヤニヤと
口角を上げて笑っている翔。
 そして、肉まんの脂で少々ぬめついた手を包装紙で軽く拭いながら、食べ終わったフラン
クフルトの串と共にそれらを捨てに行こうと陽もゴミ箱に向かおうとした。
 ちょうど……そんな時だった。
「────ッ!?」
 突然、陽の聴覚に明らかに日常とは異質な音が飛び込んできたのだ。
 雑踏の波を切り裂くように、一直線に飛び込んできたそれ。ゴミ箱へ串を投げ入れようと
したその直前の動作で、陽は思わず立ち止まる。
「うん……? どした、陽?」
 驚いて目を丸くして振り返る陽に、頭の後ろで手を組んでいた翔が小さな怪訝を見せた。
 だが陽はその声にはすぐに答えずに、一度歩を戻し──と途中で気付き、串と包装紙を改
めてゴミ箱に捨てると、心なし恐る恐るといった感じで二人の間を歩いていく。
「……」
 陽がそうして覗き込んだのは、コンビニの敷地の横にある路地裏へと続く細道だった。
 夕暮れ時が近づいている事もあるのか、その奥は茜の光が差しているもののその効果はあ
まりないようで静かに薄暗い。
 数度、目を瞬いて奥をじっと見遣る陽。
 その様子に只ならぬものを察し、翔と憲人も同じ傍らにやって来て路地の奥を覗き込む。
「おい、どうしたんだよ。いきなりじっとこんな所覗き込んでさ……?」
「あ。うん……」
 そして二度目の問い掛けで、陽はやっと、しかし内心でも疑りを持っているかのようにし
て自信なさ気に答えた。
「さっき、変な音が聞こえなかった? 何だろう……銃声みたいな。よく映画とかでもある
みたいな大きな音の出ないやつ」
「銃声?」
「……消音器(サイレンサー)の事か」
 翔は分かり易い怪訝で、憲人は静かに陽の言わんとする事を集約してそれぞれ口にする。
 そんな二人に陽は振り返り、困ったような笑いを浮かべていた。
「何かの聞き間違いじゃねぇの? この辺雑音多いし。俺にはそんな音聞こえなかったぞ。
憲人はどうだ?」
「……耳にしていないな」
「だよなぁ。陽、やっぱ気のせいじゃねぇの?」
「う~ん……。そう、なのかなぁ……」
 自分以外は聞き取れていなかった。
 やはり、翔の言うように何かを聞き間違えたのかもしれない……。
 陽はそう言われてその可能性へと舵を切り直そうとしたのだが、
「……待て」
「? 何だよ?」
 ふと、じっと黙っていた憲人が短くそう二人を制してくる。
「…………」
 二歩、三歩。陽と翔の間を抜けて、憲人は一人路地の方へ進み出ていた。
 何事かと二人は見遣る。そんな不安混じりの視線を背に受けながら、彼はその位置に立つ
と暫し何かを見つめるようにじっと目を凝らして押し黙った。
「……乱れ、か」
「へ?」
 そしてやがて静かに息をつくと、憲人は先ず誰にともなく呟く。
 思わず腑抜けた声で疑問符を漏らす翔、そして陽。憲人はもう一度、確認するように路地
の奥を見遣ってから、
「……“気”の乱れがあるみたいだな」
 いきなりそんな言葉を何の躊躇いもなく言い放った。
「ちょっ……!?」
「乱れって……まさか憲人、例のあれ? 霊感?」
 その言葉に、二人は確かに驚きはしたがその意図は奇抜さに対してではなかった。
「これを所謂霊感と呼ぶべきなのかは俺には分からんが……。だが確かに、この奥からは何
某か乱れのようなものを感じるな。奇妙な……違和感だ」
「……」「ま、マジかよ……」
 それは再確認のようなもの。それは今までも何度か立ち会ってきた、彼の持つ感性。
「おいおいお前まで……。ただでさえ寺の息子(おまえみたいなの)がそういう事言うと妙
な説得力っていうか、迫力があるっつーのに……」
「う~ん……。でも僕も翔もそんなものは見えないけど……。ホントなの?」
「視えるというのは違うな。言ったろう? 違和感だ、独特のな。久しぶりの感覚だが、多
分これも似たものではないかと思う」
 あくまでそう淡々と述べる憲人に、陽と翔は思わず顔を見合わせていた。
 そうしている間にその脇を再び通り、当の憲人はゆっくりとゴミ箱の方へと歩いていくと
空になったコーヒー缶を捨てた。ガコンッと金属同士の当たる音がし、怖気づく二人の注意
を再度彼へと向ける役割を果たす。
「…………どうするんだ、陽? 最初に気付いたのはお前だ。お前が決めろ」
「え。う、うん……」
 言われて、陽は正直戸惑った。
 ちらと翔を見遣ってみたがどうやら感じている事は同じらしく、無言でこちらに決定権を
委ねてきてくる眼の合図。
 憲人は勿論、回答を待つ様にゴミ箱の列の前に立って陽と翔を視界に移している。
「……そう、だね」
 ポリポリと頬を掻いて、陽は改めて思案する。
 翔が言っていたように聞き間違いかもしれないが、耳に届いてきた一瞬の強い印象が引っ
掛かっているのも事実だった。それに何よりも、憲人の霊感(?)も何か異変を訴えている
のだ。気のせいのまま片付ける……という訳もいかないのではないか。
 陽は心持ち俯き加減になっていた顔を上げた。改めて翔と憲人の顔を見遣ってから言う。
「……確かめに行ってみようか。憲人まで妙だって言うのは気になるし……」
「あ~、やっぱそーなるんだな……。しゃぁねぇ、俺も付き合ってやるか」
「分かった……。では行こう。念の為、先頭には俺が立つ」
「う、うん。宜しく……」
 背後では相変わらずの往来とその雑踏の物音。
 そんな人の波の本流から漏れ出すように、かくして三人の少年は路地の奥へと足を踏み入
れていく。

 徐々に遠ざかっていく表通りの雑音を背にして、陽達は路地の奥へと進んでいった。
 先頭には憲人、その次に陽、翔の順。基本的にルート選びは(自分達のいたコンビニに物
音が届いた距離というものも考えて)表通りに近い方を優先していったが、それでも幾つか
に路が分かれて判断に迷う場合には憲人の霊感(?)に委ねる事にした。
「……なんか、表とは随分雰囲気が違うよね」
「そーだな。一応まだ昼間の筈なんだが……ホント、何か出そうな位しんとしてるぜ」
 アーケードの表通りとは趣も違う何処か冷淡な空気と色調の、灰色の床や壁が四方八方を
取り囲む空間。
 その中をどれだけ進み、何度路を折れて行った頃だっただろうか。
「……」
「? 憲人?」
「何だよ、いきなり立ち止まるなって」
「……誰か、いる」
「えっ」「……マジで?」
 少し広めの路と合流しようとしたその時、陽達は見つけたのだった。
「…………?」
 そこにいたのは一人の女性だった。
 腰まで伸びた綺麗な亜麻色の長髪に、ローブのようなゆったりとした感じの服装。空から
注ぐ夕陽の茜色が、そんな彼女を更に印象的に染め上げているかのようだ。
 彼女は、灰色の壁に肩を預けてうずくまっているかのような体勢だった。だが当の本人は
突然の人影に驚いたのか、言葉も出ぬまま心なし目を丸くしてこちらを見上げてくる。
(……綺麗な人だな)
 そう、陽は一目見て正直に思った。
 見た目は姉と同じかそれより少し上といった所だろうか。いかにも清楚な、優しそうな感
じのお姉さんといった印象を受ける。
「あなた達は、一体……?」
「そりゃあこっちの台詞だぜ。ねーちゃんこそ一体──」
「ッ!? 翔!」
 だがそんな感慨の余韻に浸る暇は、すぐさま吹き飛んでしまう事となる。
 苦笑する翔の横で逸早くその異変に気付いた陽は、思わず叫んでいた。
「? 何だよ……いきなり?」
 振り向こうとする翔。だが陽はその様には目もくれず、慌ててこの女性も下に駆け寄って
いった。視線を戻す翔と、黙したままゆっくりと二人の後ろに立つ憲人。
「やっぱり……。怪我、してるじゃないですか」
 彼女はじっと左腕の二の腕付近を押さえていたのだ。そしてその掌の下からは衣服を貫い
てじわりと赤い血が滲んでいる。
「怪我……? ホ、ホントだ。お、おい、ねーちゃん大丈夫かよ?」
「えぇ。大丈夫、です……」
「……とてもそうには見えないんだがな?」
 それでも彼女はすぐには掌をどけようとはしなかった。陽や翔に詰め寄られてもあくまで
平気さを装おうとする。だがその強がりも、疲労の色を宿す表情と肩でする息遣い、そして
冷静な指摘を投げ掛ける憲人の言葉の前には無力だった。
 苦しそうに、辛そうに、そしてばつが悪そうに。彼女はぐっと口を噤んでしまう。
「と、とりあえず止血しましょう」
「え? で、でも……」
「いいからじっとしてなって。人の好意は素直に受けとくもんだぜ?」
「そういう事。困った人を見つけたのに放ってなんておけませんから……」
「…………。ごめんなさい」
「ふふっ。だから謝らなくていいですってば」
 頭が多少錯乱し掛けたがそれでも陽は先ずやるべき事をと思い、言いながらポケットから
ハンカチを取り出した。念の為パンパンと空中で掃って広げ、目立った汚れがない事を確か
めてから彼女の腕の患部に巻こうとする。
「……ただ巻くよりも抗菌ができれば尚いいな。翔、茶でハンカチを濡らしてやれ」
「ん? あぁ、おう。ちょい待ち……」
 憲人の助言も加えて、翔も鞄の中からお茶を入れた水筒を取り出した。
 そうして適量の茶をハンカチに染み込ませてから、陽は改めて彼女の袖口にそれを通す。
「……はい。その場しのぎの応急処置ですけど。何にもしないよりはマシでしょうから」
 その際にすべすべで柔らかい肌の感触があったが、今はそんな事に反応している場合では
ない。遠慮気味に袖を捲くってくれた彼女の腕を手探りで測りながら、陽は何とか傷口に濡
れハンカチを巻く事に成功した。
「えっと、どうですか。染みたりしませんか?」
「えぇ……大丈夫。ありがとう。でも、それよりも……」
 だがそれでも、彼女の表情は険しかった。そっと、応急処置をされた腕を擦ってから陽達
にその整った顔を上げて言う。
「お願い。早くここから逃げて。ここにいたらあなた達まで巻き込んでしまう……」
「……巻き込む?」
「? 逃げるとか巻き込むとか……。もしかしてねーちゃん、誰かに追われてるのか?」
 その言葉の意味を、陽達はすぐには察する事はできなかった。
 頭に疑問符を浮かべる陽と翔。しかしそんな戸惑いも、次の瞬間憲人が放った一言で一挙
に緊迫へと変わる。
「……静かに。人の気配がする」
「えっ?」「なっ!?」「…………」
 そう言われて、陽達は殆ど同時に気配を殺して耳を済ましていた。
 やがて遠くから聞こえてきたのは、複数の足音と複数の男達がやり取りする声。
『──おい。見つかったか?』
『いや、こっちにはいなかった』
『こっちにも見当たらない』
『チッ、手間かけさせやがって……』
『ぼやいている暇があれば動け。まだそれほど遠くには行っていない筈だ、もう一度探せ。
お前達はあっちから回れ。俺達はこっちから回る』
『了解』『あぁ、分かった』
 焦りや苛立ちを滲ませた男達の声。
 彼らはそんなやり取りを交わすと再び散開していったようだった。灰色の地面を蹴る複数
の音が、不規則に混じり合いながら遠ざかっていく。
「……行ったか?」
「うん。みたい、だね……」
「そっか。しかしあれってマジもんで追っ手、だよな……?」
「おそらくな」
 殺していた息をほっと緩める。一先ずまだ彼らはこちらの位置までは特定できていないら
しかった。だが当の追われているらしき彼女自身の表情は険しかった。傷を受けた腕を庇っ
たままじっと押し黙っている。
「……どうも長居している余裕はなさそうだ。ともあれここから離れよう」
「そうだな……。取り敢えずアーケードに戻ろうぜ。人気が多けりゃ多少は安心だろ」
「うん、そうだね。行きましょう。立てますか?」
 路地のより奥の方へと先んじて気配を窺っていた憲人が戻ってきてそう言うと、翔も陽も
異議なしと頷いた。そして陽は彼女の傍らに再び屈み込むと、そっと肩を貸そうとしながら
呼びかける。
「え……? な、何を言っているんですか。私は早く逃げてと……」
「ええ。でも貴女も一緒です」
 戸惑い混じりの躊躇いを見せた彼女に、そう陽は微笑んでいた。
 ポカンとする彼女。見上げるその瞳には正面に屈む陽と、その背後に立つ翔と憲人の姿が
映っている。
「放っておける訳ないじゃないですか。そんな事したら……父さんに怒られちゃう」
「ま、元々俺らも野次馬根性で来ちまった身ですしね。最後まで付き合いますよ。そもそも
綺麗なお姉さんが困ってるのを見捨てるなんて選択肢は、端っから持ち合わせてないんで」
「……行きましょう。長居すればするほど、状況は悪くなります」
 だがやがて、三人のそんな言葉に彼女はフッと瞳を潤ませると、小さくコクリと頷いた。
 ニヤリと笑って頭の後ろで手を組む翔。静かに周囲への警戒を続けている憲人。そして傷
を負った彼女に優しく肩を貸し、そっと立ち上がらせてくれる陽。
「…………ありがとう」
 ぽつりと。
 この予期せぬ助けに彼女はそうか細く、震えた声を漏らしていた。

 それから陽達は表通りに戻るべく、彼女を連れて来た道を引き返し始めた。
 しかし追っ手の方も中々にしぶといらしく、時折接近してくる足音を聞きつけてはその場
で息を殺してやり過ごしたり、或いは用心の為に仕方なく迂回を余儀なくされたりもした。
 彼女の事も考え一歩一歩確実に、且つ安全第一で入り組んだ路地裏を引き返していく。
 そして……そんな事を何度繰り返した頃だったろうか。
「撒いた、かな……?」
「……そのようだな」
 灰色の壁に身を隠すように背を預け、じっと息を殺す。苛立ちの声を混じらせた男達の足
音が徐々に遠ざかっていく。
 それを念入りに確認すると、陽達はお互いを見合わせてホッと一息をついた。
「ったく、あいつらもしぶといよな。一体、ねーちゃんが何したってんだよ……?」
「そう、だね……」
 髪をガシガシと掻きながらそう呟く翔に、陽は神妙な面持ちで頷く。
「……ッ、ハァ……、ハァ……」
 自分の肩を借りている彼女を見遣り、陽は思った。
 怪我の影響なのか、はたまた追っ手に追われている(らしい)という精神的なダメージか
らなのか、彼女は随分とぐったりと疲弊しているように見える。
 その苦しそうな俯き加減の横顔。
 何故、彼女がこんな目に遭わないといけないのだろう。大の男に何人も寄って集って追い
回される理由など、一体何処にあるというのだろう。
「…………」
 そんな思い。陽は知らぬ間に、自分の中で静かな憤りが湧いて来ているのを感じていた。
「お、おい……。大丈夫か、ねーちゃん? 何かさっきよりも顔色悪くなってんぞ?」
 すると陽の正面に立っていた翔がふとそんな事を言った。
 その言葉にハッと我に返った陽は、改めて彼女の辛そうな様子に目を凝らす。
「……だ、大丈夫……です」
 しかしそれでも彼女当人はそう言い続けていた。苦しいのに、何とか笑おうとしながら。
 だがそんな言葉とは裏腹に、彼女のダメージの大きさは明らかだった。
 そんな様子に、心配そうに顔をしかめる陽達。にも拘わらず、彼女は一人ヨロヨロと先に
進もうと歩き出そうとする。だが……。
 ──ふらり。
「ッ!? お姉さん!」
 数歩も持たず、彼女はガクンと力を失ったように倒れたのである。
 地面に叩きつけられてしまう手前で、逸早く陽が割って入ってその身体を受け止める。
 自分よりも身長もある筈のこの女性。だがその感触から受けるものは柔らかな肌や髪など
を除けば、驚くほど軽いという印象が強い。
「大丈夫ですか!? しっかり、しっかりして下さい!」
 美人を掻き抱いているという煩悩など一刹那に吹き飛んでいた。
 思わず陽は彼女に向かって叫ぶように呼び掛けていた。しかし彼女はもう目を開ける事す
ら辛いようで、額に汗をかきながら大きく肩で荒い呼吸をしている。
「お、おい……。これってマズいんじゃねぇか? 息絶え絶えじゃねぇかよ」
「うん……。一体どうしたんだろう……? まさか、さっきの怪我の所為なのかな」
「そんな俺にだって分かんねぇよ。でもとにかく急がねぇと。人の多い所まで行けばいいっ
てどころじゃねえぜ? こりゃあ」
「そうだね……。翔、病院を探してくれる? この辺りで一番近い病院を」
「あぁ、分かった!」
 事態は急を要するものであるらしい。
 言われて、翔はポケットから携帯電話を取り出すと最寄の病院の位置を検索し始めた。そ
の結果をじれったく待ちながら、陽は無意識の内に腕の中で苦しそうにしている彼女の身体
をきゅっと抱き寄せる。
「…………いや、病院では駄目だ」
 すると、それまで険しい顔で二人のやり取りを見ていた憲人が急にそんな言葉を漏らして
きた。陽と翔、二人はその言葉に半分の苛立ちと戸惑いを混じらせて顔を上げる。
「は? 何言ってんだよ、どう見ても急病じゃねーか!」
「……少しは落ち着け。そんなに大声を出したら見つかるぞ。それに、普通の病院へ彼女を
連れていった所で何もできないだろうしな」
「……どういう意味だよ?」
「普通の、病院……?」
 憲人のその二の句に、陽と翔は怪訝と共に目を瞬かせていた。
 だが彼は既に二人へと注意は向けていなかった。二人の横、彼女の背後の位置からじっと
苦しそうなその姿を見下ろしたまま、妙に顔をしかめて押し黙っている。
「……これを見てみろ」
 そして彼にそう指差されて、陽と翔は何だとその指先が指すものを覗き込む。
 それは彼女の首の後ろ、その根元付近にあった。
 それは長い亜麻色の髪が肩に流れ落ちた体勢だったからこそ分かったもの。
 そこには複雑な、半分だけが半透明の、淡いエメラルドグリーンの色をした文様が彼女の
柔肌に、首元に確かに存在していたのである。
「……マジかよ」
「まさか、これって……」
「あぁ……」
 三人はそれを目にした瞬間、すぐにそれが何であるかを悟った。
 驚きで目を丸くする翔と、確認するように一度顔を上げてくる陽。
「……間違いない」
 そんな二人をちらりと見遣ってから、憲人は再びその翠色の文様を見つめ、断言した。
「彼女は、紋女(ルーメル)だ」

スポンサーサイト



  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
  2. レディ・ルーン-Bonds of RU'MEL-
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<(長編)レディ・ルーン-Bonds of RU'MALE-〔2〕 | ホーム | (長編)NIGHT GUNNERS〔5〕 >>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://higurasisouann.blog27.fc2.com/tb.php/25-ab2d6e1a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

訪問者累計

最新記事

最新発言

検索窓

月別履歴

07 | 2020/08 | 09
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

分類/索引

【案内板】 (2)
【小説:短編】 (20)
本の蟲 (1)
硝子野不動産店 (1)
夏の日の幻影 (1)
四番線の彼女 (1)
夢視の宿 (1)
線を曳く町 (1)
炬燵の神様 (1)
三者三盗噺 (1)
色眼鏡 (1)
奴らは攻城戦師 (1)
詰め替える (1)
同じ籠の狢 (1)
二十年後の遺言 (1)
轍の先 (1)
水に流せば (1)
真夜中の御二柱 (1)
いつか見た夢 (1)
神様達の初詣 (1)
白い花束 (1)
丸の代償 (1)
【小説:長編】 (205)
Amethyst League (6)
アンティーク・ノート (3)
ユウキのヒカリ (5)
NIGHT GUNNERS (5)
レディ・ルーン-Bonds of RU'MEL- (6)
ユーヴァンス叙事詩録-Renovin's Chronicle- (116)
死に損いのデッドレス (5)
Dear SORCERY (4)
サハラ・セレクタブル (55)
【企画処】 (510)
週刊三題 (500)
その他参加物 (10)
【資料庫】 (2)
【落書帳】 (2)
【詩歌帳】 (9)
【雑記帳】 (419)
【読書棚】 (32)
【遊戯倉】 (25)
path. (4)
decide: (3)
ユー録FW(凍結中) (17)

記事録

交友関係

このブログをリンクに追加する

(RSSリンク)

(QRコード)

QR

Tweets by long_month