日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)死に損いのデッドレス〔1〕

 キセキとは、通常ではおよそ起こらない事象を指して云う。
 という事は……言い方を変えてやれば、起こりうる状態へとそれらを導き出すことが出来
れば、キセキは人の手中に収まるとも解釈できる。
 
 ──そんな理屈を、ある時実行に移した者達がいた。

「準備は整ったか?」
「はい、配置完了しました。いつでも発動可能です」
 そこは薄暗い、窓一つないだだっ広い密室の中であるようだった。
 床一面には巨大な六芒星(ヘキサグラム)を囲む円、それらの隙間にびっちりと書き込ま
れた複雑な文字列らしきものが石灰で描かれている。そんな陣の外周で、ローブを目深に被
った者達が作業を終えて集合しつつあった。
「ならば、早速始めよう。いつ嗅ぎ付けられるか分からん」
 リーダー格らしき男のしゃがれた声が場に響いた。他のローブ達も拝承と言わんばかりに
頷くと、ぐるりと円陣の外周へと立ち位置を変えて広がる。
 彼らが焦る理由は、この部屋の中央──六芒星(ヘキサグラム)の中心部にあった。
「お、おい……。お前ら何をする気だ?」
「此処は一体何処なの? 貴方達は誰なの……?」
「くそっ! 離せっ、ここから出しやがれ!」
 人だった。
 厳密に表現するならば、両手足を縛られて枷と錘を付けられた無数の人間だ。
 目を覚まし、口々に不安や怒りを撒き散らしている者、或いはまだ気を失ったままの者。
少なくとも彼らとローブの一団との間にに面識はないようだ。
 更に付け加えるなら、外界と隔絶されてると見えるこの部屋でどれだけ叫ぼうとも、もう
彼らの訴えは届くことはないという点か。
 ローブの一団は誰一人として彼らの叫びに応じなかった。
 ただ在るのは、静かな狂気だ。
 ──彼らは“人間”じゃない。これは皆“要素”だ。
 そう言い聞かせなければ、自分達の側から脱落者が出る。チカラが乱れる。もし失敗して
しまえば、これまでの苦労が全て水の泡になってしまう。それは一団の共通理解だった。
「……始めるぞ。全ては、人類永遠の夢の為だ」
 感情の失せたリーダー格の声色が密室に響いた。
 その一言を合図に、ローブの一団は懐から一斉にある物を取り出す。
 手にされたそれらは、杖だった。
 木材と思しき本体に艶のある塗料を被せ、黒や焦げ茶など各々の杖が申し訳程度の個性を
演出している。
 だが何よりも目を惹くのは、それらの杖先全てに宝石……のようなものが取り付けてある
ことだろう。赤や緑など色彩は様々だが、共通して受けるその印象は──“何処となく宝石
自体に見返されている”ような、そんな錯覚にある。
 その杖を掲げ、ローブ達が精神を集中し始めた。
 円陣中央内の人々が怪訝に押し黙ったのは、ほんの数秒の事。
『──がっッ!?』
 訴える叫びが、次の瞬間苦痛の雄叫びに変わる。
 床一面に描かれた文様が、余す所なく強い光を放ち始めていた。
 同時、生まれるのは巨大なエネルギーの渦。
 囚われの人々から、まるでもぎ取られるように発生する血色の奔流。
 目には見えない、しかし確実にこの場に生まれ、蓄積されていくエネルギーの膨張に密室
が不気味に震えていた。
 白目を剥き、渇いたように喉を掻き毟りながら次々に床に倒れていく人々。
 重なり合っては断続的に響く、最早人間のそれではない断末魔の叫び声。
 それでも、ローブの一団はかざした杖を下げる事はしなかった。むしろこの阿鼻叫喚の様
を推し進めるように口元を結び、自身の人間性を封じ込めるが如く押し黙っては“儀式”に
ひたすら集中する。
(今更、怖気づく必要はない……我々は古くから“犠牲”を払って今の世を作ってきた)
 リーダー格の男の表情(かお)が僅かに見えた。
 奔流に煽られはためき続けるローブの下から覗くのは、ギラギラとした眼。
 だがそれは野心──私利と言うには違うと印象付けられる。
 むしろ、他益。自分が無数の他の為に礎と為ろうとする、その歪んだまでの決意だ。
「──もう少しだ。もう少しで、奇跡(かみ)はヒトの前に跪くのだ!」
 狂気。叫ぶ声。一層力を込める面々の力。唸るように強く輝く杖先の宝石達。
 
 その日、巨大なエネルギーの奔流が彼らの視界全てを血色の紅に染め上げた。


 Phase-1.白髪紅眼の男

 眩しさで、思わず手で庇を作ると目を細めた。
 季節はまだ晩春とはいえ、空は少しずつ熱気を迎え入れようとしている。
 今日も陽射しの強い一日になりそうだなあ……。エリスはぼんやりとそんな事を考えなが
ら視線を下ろすと、すっくと正面に向き直る。
 レイリア共和国首都エル・レイリー。
 地図的には西大陸の南端。南大陸北部や西大陸の沖合に接続する位置に在る。
 故に、この辺り一帯は古くから交易の要衝として栄えてきた。
 今日レイリアが世界屈指の交易大国──商人の国としての地位を確立しているのも、単な
る偶然ではなく必然の成り行きだったと言っていい。
(……やっぱり、村とは全然違うなあ)
 淡い金髪のセミロング、ちょろっと後ろに垂らしたお下げを揺らして、エリスは気圧され
るように立ち呆ける。
 視界一杯に映るのは、見渡す限りの人・人・人。
 今いるのは街のメインストリートだ。
 往来と商う者。両者が渾然一体となり、しかして個々に眼を向けてみれば多種多彩な商い
と彼らに張り合い交渉する声が色づく。見てみれば見るほど、この街はまるで一つの巨大な
活気の塊のようだ。
「本当にいるのかな……。この街に」
 上京してすぐの頃は毎日が刺激の連続で、エリスは浮かれ気分のままについ本来の目的を
忘れて観光に現を抜かしていたりもしていた。
 だがいけないと我に返り、何よりこの数だけは多い人の荒波に対して徐々に不安を覚えて
くるにあたり、彼女の現在の内心は街の活気とはむしろ反比例し始めている。
「──キュ?」
 そうしていると、背中の──少女が背負うには少々大きい──若草色のリュックの中から
一匹の仔狐が顔を出してきた。エリスのペット・チコである。
「……ふふ、そうだね。諦めちゃダメだよね」
 ふさふさとした金色の体毛と、懐いた者には惜しみのないその愛嬌。
 ちょんと肩に上ってきたこの仔を愛でるように喉元を軽く揉んでやりながら、
「よし……っ。今日も一日頑張りますか」
 少女は緩んだ表情(かお)を再度引き締め、リュックを揺らして街の雑踏を往く。
「──あの~!」
「──す、すみません。少しお時間を」
「──え? 邪魔? ご、ごめんなさい……」
 しかし、田舎娘一人(と一匹)に都会の人間は手厳しかった。
 往来へとエリスは何度となく声を掛け、呼び止めようとするが、そもそも自身の用事を優
先し見知らぬ人間に関わる暇を持とうとしない人々は総じて彼女を素通りしていた。
 或いは何かの売り子ではないかと考えたのだろう。中にはエリスを一瞥するや、実際に言
葉にして邪険に扱い、ずかずかと忙しなく通り過ぎてゆく者も少なくなかった。
 尤も商人の国、その中心地ではむしろそんな思考の方が「普通」なのかもしれない。
「……うーん」
 それでも暫くは粘っていたが、やがて心が折れ、通りに設置されたベンチの一つに腰掛け
るとエリスはついため息をついて落ち込んでしまう。
(都会の人は、冷たいなあ……)
 上京して数日。それが田舎生まれの田舎育ちの彼女にとって、至った感慨だった。
 こちらはただ尋ね人を捜しに来ているだけだというのに、この街の人々はちょっと声を掛
けるだけでまるで異物を見るような眼を向けてくる。
 村でも「知らないおじさんについて行っちゃ駄目よ」的な教育はされてきたが、少なくと
も自分は不審者ではない。その筈だ。
「……」
 念の為、今の服装をチェックし直してみる。
 空色のチュニックに薄い灰色の長袖、上着類と色相を合わせたスカートはまっさら真っ白
のニーソックスと合っていると思う。……うん、別に不審者じゃない。
「うぅん……」
 だとすれば、この傍らのリュックだろうか?
 しかしこれでも荷物は最小限に留めて来たつもりだ。この中には村から持ってきた旅荷の
全てが入っている。思いながら、少し前に露天で買ったリンゴの果汁飲料(ジュース)の蓋
を開けて二口・三口。声を発し続けた喉を宥めるようにして潤す。
「もっと別の方法を試した方がいいのかも」
 肩に乗ったチコが小さく鳴いて小首を傾げていた。
 エリスは再びその喉元をもふもふしてやりつつ、これからの方針に思考を巡らせる。
 ──“あの人”と最後に別れたのが、この街であるらしい。
 そう聞いたので一念発起し、村から村へと乗合馬車を乗り継いで遥々上京してきた訳なの
だが……果たしてその判断は正しかったのか? 弱気や疲れも相まって、脳裏を席巻してい
くのはそんな時の自分のイメージばかりだ。
「…………」
 他に手掛かりが無い状態とはいえ、もしかしたら、もうとっくの昔に──。
「お嬢ちゃん」
 そう、エリスが気難しい顔をしている最中だった。
 ふと掛けられた声。それまで掛ける側(で空回り)ばかりだったこともあり、エリスはつ
いオーバーアクションで反応してしまう。
「どうしたんだい? さっきから必死そうだったけれど……」
 声を掛けてきたのは、一人の壮年男性だった。
 土方の人なのだろうか。身なりは何かしらの着古した作業着だったが、向けてくる表情は
穏やかそうに──いい人そうに見えた。
 嗚呼。やっと応じてくれる人がいた……。エリスは内心じーんとキてしまう。
 ここ数日の苦労が涙となって涙腺を駆け上ってくるのを感じた。それらをゴシゴシと目を
擦る事で押し込め、エリスは何度も頷きながら言った。
「は、はいっ……。実は私、人を捜していまして」
 そう切り出し、リュックの外ポケットから取り出したのは真珠色の装飾品──ロケット。
 エリスは細い鎖で繋がれたその蓋を開けると、彼に中に収められた写真を見せていた。
「この女の人の隣──茶髪の男の人なんですけど。あ、でもこの写真自体随分昔で、この人
が生きていたらかなりのお爺ちゃんになってる筈で……」
 その切り取られた一コマは、とある若者達が互いに肩を寄せた集合写真だった。
 ただエリスの説明するように写真自体は中々に年代物だ。間違いなく、現在この写真に写
っている人間は、何十年単位で歳月を刻んでいることだろう。
「……ふぅむ。ちょっと貸してくれないかい? 目があまり良くなくてね」
「あ、はい。どうぞ」
 男性が言うに任せてエリスはロケットを手渡していた。彼は胸ポケットから眼鏡を取り出
すと、掌に収まった写真に目を凝らし始める。
(どうなんだろう? 見覚え、あるのかな……?)
 そんな姿をじっと窺いながら、内心はドキドキワクワク。
 エリスはこの男性の真剣さ──親切さについつい期待をしてしまう。
 呼び掛けに応じてくれた。それがイコールあの人を知る人とは限らないが、これで少しは
前進したと言えるのかもしれない。
 ……だが。
「キュッ!」
「え?」
 結論からすれば、涙腺は別の意味で緩むことになった。
 肩の上でチコがくるっと振り向き鋭く短く鳴く。次の瞬間、つられて振り向いたエリスに
は自分に起きた事実をすぐには認識出来なかった。
 リュックが──旅荷の全てが、数人の若者によって持ち去れようとしていた。
 人ごみの中へと駆け、消えてゆく彼ら。その肩越しの眼からは「バーカ」と自分を罵って
哂う気色がありありと感じられて。
(盗られた……っ!?)
 数拍。ようやくその事実が意識に飛び込んで来て、エリスは焦った。
 あの中には荷物全てが入っている。着替えも、路銀も、全部。
「どっ、泥棒ー!!」
 思わず叫んでいた。
 だが都会の人間とは無情である。
 一瞬、彼らはエリスの方と駆けて去ってゆく若者達──スリ集団を見遣りこそしたが、ま
るでそれが日常であるかのように、慣れ切った眼は酷くこの少女に無関心を貫いてみせた。
往来の波は崩れない。彼らは何事も無かったかのように各々の歩みの中に戻っていく。
 そんな周囲の反応に──何処かでブレなさという意味で納得し、それでも──目を見開き
憤りが顔を引き攣らせようとした。
 だが、まだだ。こっちには親切なおじさんが……。
「……あ、あれ?」
 いなかった。
 再び彼に振り返った時には、先程の男性の姿はそこになかった。
 その間も、人ごみはむしろエリスの方が邪魔だと言わんばかりに忙しなく流れてゆく。
「──」
 そして……彼女は見つけてしまう。
 刻々と入れ替わり立ち代りする人の波の中で、彼が手にロケットを下げたまま、こちらを
肩越しに見遣って下衆な薄笑いを浮かべているのを。

『バカが。まんまと引っ掛かりやがった』

 そう言われたような気がした。彼も、あのスリ集団の仲間──荷物から注意を逸らさせる
為の囮だったのか。理屈よりも直感、そう全身が告げた瞬間、エリスはその場に崩れ落ちて
膝を折っていた。
「うっ、ぐ……」
 信じた私が、馬鹿だったのか。
 替えの服やお金はともかく、あのロケットは大事な預かり物だというのに……。
「なんで、こんな目にばっかり……」
 感涙は結局嘆きの涙となって頬を伝っていた。
 始めは善意で、彼女の事を思って飛び出してきたのに、これではむしろ失ったものばかり
ではないか。自分の無力さと、都会というものの冷淡さに哀しみと憤りが綯い交ぜになる。
「……おい」
 靴音が近付き、淡々とした声が振ってきたのは、そんな時だった。
 涙目でのそっと顔を上げてみれば、いつの間にか目の前に一人の青年が立っていた。
 ぼさぼさに伸びた髪は白みの強い灰色。瞳は燃えるような紅。
 上下黒一色の服の上に引っ掛けているのは袖なしの禿げた灰色の上着と鞄代わりのズタ袋
で、腰には長剣が一本無造作に下げられている。
「通りの真ん中でメソメソしてんじゃねぇよ。……何があった?」
 また、如何わしい人じゃないよね……?
 明らかに面倒くさそうに、しかし放っておけないと声を掛けてきたらしい彼に、エリスは
くしゃっと涙目の表情を(かお)を返していた。

「そりゃ、お前が無用心だったからだろ」
 ボロボロと泣きながら事情を話したのに、対する青年の返事は呆気に取られるほど無遠慮
なものだった。エリスが涙のついでに出掛かった鼻水をずず~っとすする横で、彼は「お前
何言ってんの?」とでも言わんばかりの半眼を寄越している。
「ひ、酷いです……」
「酷いも何も、実際に盗られてんじゃねぇか」
 奪われたリュックと交替するように、青年はベンチの左側──エリスの隣に座っていた。
 ごしごしと目を擦る彼女を座高の違いで見下ろす格好になりながら、彼は小さく嘆息をつ
くと相変わらず無関心な街の往来へと視線を遣る。
「ここは共和国(レイリア)の都だぜ? つまり世界で一番金にがめつい連中が集まってる
場所なんだよ。合法違法の差はあっても、金づるを見逃すほど連中はお人よしじゃない」
「それはそうかも、しれませんけど……」
 楽観的な安堵はものの数分で水泡と化していた。
 あっけらかんと言い切る彼に、エリスはぷくっとふくれっ面を作って目を逸らし、やる方
なくもごもごと口篭っている。
(……納得いかない。もしかして、此処の人って皆そうなの……?)
 まるで被害者である自分が加害者(わるもの)であるかのような、この街の反応。
 エリスはちらと、この傍らに腰を下ろした青年を上から下まで観察する。
 年恰好は二十代半ば──自分より一回りほど上といった所だと思う。だがそれでも年齢と
しては若い筈だ。なのに彼は(見た目のズボラさも相まって)どうにも虚ろにも見える。
 哀しかった。この街はこんな早い時分から、住人達(かれら)に諦めを強いるのか。
「あの……。おにいさんって、この街の人なんですか?」
「……どうなんだろ。一応宿は此処にあるし、付き合いだって長いけど、普段はあちこちを
ぶらぶらしてるからなあ。住民かってなると正直怪しい気がする」
 エリスは小首を傾げていた。妙に返事が曖昧だ。
 しかし、かといってそれほど大きく驚きはしなかった。
 ──傭兵。或いは無宿人。何かと物騒であるこのご時世で、彼らは珍しい存在ではない。
現に腰に下がった剣はその証拠ではないのか。
「あ、あの……」
 だからこそ、エリスは逡巡のあと訊ねていた。青年の視線がちらりとこちらを向く。
「おにいさんは“イアン・アラカルド”という人を知りませんか?」
 この街に出入りし、且つ各地を点々としている彼のような人なら、もしかすると……。
「……。観光じゃなかったのか」
「違いますよお。人捜しです。ま、まぁ、最初の内は観光もしてましたけど……」
 青年はそっと片眉を上げると、じっと訝しむようにエリスを見遣っていた。紡がれたのは
その一言だけだったが、すぐに言わんとした事に理解が及ぶ。
 エリスは心外なとぷくっと頬を膨らませたが、次の瞬間には上京当初の自分を思い出し、
バツが悪そうに尻すぼみに口篭っていた。
「あ、えっと……自己紹介がまだでしたね。私、エリス・ハウランっていいます。実は……
イアンさんは私のおじいちゃんに当たる人なんです。会った事は、ないんですけど」
 青年はじっと黙っていた。
 そんな彼の視線を受けながら、エリスは改めて名乗ってから話を──エル・レイリーまで
上京してきた理由を語り出す。
「おばあちゃん──ルシア・ハウランはイアンさんと恋人同士でした。当時おばあちゃんの
お腹の中にはお母さん──イリス・ハウランがいて、その日もおじいちゃんは普段通り仕事
に出掛けていったんです」
「……」
「でもそれ以来、おじいちゃんは帰って来ませんでした。おばあちゃんは街の警備隊にも捜
索願を出したりして何度も捜したそうなんですけど……見つからなくて」
 エリスの表情(かお)が哀しみで歪んでいた。ぎゅっと、膝に乗せた両手でスカートの布
地を握り締める。
「それからずっと、おばあちゃんはお母さんを女手一つで育てました。誰か別の男の人と結
婚する事もしないでずっと、おじいちゃんの帰りを待ち続けたんです」
 でも、とエリスは言った。抑え込んでいた気持ちが胸奥から溢れるように、くしゃっと歪
めた顔に涙が伝う。
「だけど……もう間に合わないかもしれないんです。おじいちゃんが行方知れずになってか
ら五十年近くになります。その間におばあちゃんはすっかりおばあちゃんになっちゃって、
ついこの前、とうとう倒れてしまいました」
「……病気なのか?」
 コクンと、エリスが頷いた。
 ようやく短く言葉を紡いだ青年は、眉根を寄せて気難しい顔をしている。
「時間が無いんです。随分昔の事だから、当のおじいちゃん自身、もしかしたらもう死んで
しまってるかもしれない」
 肩の上のチコが、感極まった彼女の頬をぺろぺろと舐める。慰めてくれているのだろう。
 エリスはそんなこの仔狐の頭をそっと撫でてやってから、言う。
「だから、私は此処に来たんです。二人が最後に別れたこの街に。もし死んでしまっていて
も構いません。ただせめて、おばあちゃんにおじいちゃんの消息を報せてあげたくて……」
 その言葉の後は、ただ咽び泣く声だけだった。
 決意を以って村を飛び出してきた想い。
 しかし冷淡に無視され続け、とどめと言わんばかりに騙され、荷物を奪われたショック。
 少女の心は今、多重の哀しみで押し潰さんとされているかのようで──。
「……事情は分かった」
 そんな彼女の言葉に、どれだけ長く寡黙でいたのだろう。
 青年は暫くしてそう短く言うと、ポンとエリスの頭を撫でてやってから、彼女の見上げて
くる表情(かお)をしっかりと見返す。
「でもな。姿を消した奴をそっちの都合で引っ張り出すなんて、よくないぞ」
「──ッ!?」
 だがまた一つ、胸奥に大きなヒビが入れられた気がした。
 エリスは目を大きく見開き、涙目でゆっくりと視線を逸らした青年に、叫ぶ。
「貴方に何が分かるんですかっ! おばあちゃんは五十年間ずっと、あの人を待ち続けてい
たんですよ!!」
 あまりの剣幕に往来の視線が一斉にこちらを見ていた。
 だがやはり要らぬ介入は良しとしない、暗黙の了解の無関心はすぐに彼らを包み、人の波
は結局大きな乱れを起こす事無く二人の前を流れてゆく。
 青年は視線を合わせずに黙っていた。
 歯軋りをし、訴えたエリス。だが急速にその叫びが雑踏の中に吸い込まれ、粉砕されるが
如き感触を覚えてゆくにつれて、胸奥にあった熱は可笑しいほどに冷めてゆく。
(……やっぱり、この人も結局は──)
「虚しいだけだぞ」
 だが次の瞬間、エリスは目の当たりにする。
 内心の呟きが、ふと口を開いた彼の言葉に遮られる格好になる。
「他人(ひと)に自分の感情を押し付けるなんて……虚しいだけだ」
 最初、批難されているのかと思った。
 だが……違う。じっと往来に視線を投げたまま、彼はむしろ“諭す”ように口にしたよう
に、エリスには思えた。
 そんな彼の佇まいに纏う雰囲気に、思わず言葉を失う。
 どうして。どうして貴方は、そんなにも哀しくて堪らない横顔(ひょうじょう)を──。
「……」
 そうしていると、ややあって青年は無言のまま立ち上がった。すぐにでも雑踏の中に溶け
消えてしまいそうな程に、その背中は物悲しい。
 何か言わなきゃ。エリスは殆ど直感でそう思い立っていた。チコを肩に乗せたまま、彼女
は言葉さえ見つからないまま彼の背を追おうとする。
「死んだよ」
「えっ」
 だが、言葉はむしろ青年の方から掛けられていた。
 あまりに短くて。だけどついさっきまでの話の流れから、その意図は明らかで。
「……イアン・アラカルドは、死んだ」
 袖なしの上着がさわさわと風に靡いていた。
 まるで脳髄に直接響くかのように、エリスは立ち上がりかけたまま硬直していた。


 いつの時代も、政治とカネは粘着質な繋がりを以って結び付いている。
 それは商人の国であるここ共和国(レイリア)とて例外ではない。むしろ根深い部類であ
ると言っていいだろう。
 不意打ちに近い青年の呟きの後、ハッと我に返ったエリスは慌てて彼の背中を追った。
 思わせぶり。やっと掴んだかもしれない手掛かり。
 彼の方もまた、時折肩越しに振り返ってはこちらを見ていたので、きっと「ついて来い」
と暗に言っているのだと解釈する。
「──うわぁ……」
 そうして彼の後をついて行くこと暫し。
 エリスの目の前には、大きな大きな屋敷が広がっていた。
 場所はメインストリートの一角。何より商人がひしめくこの都でこれだけの敷地を有して
いるというのは、間違いなく相当な財力だと分かる。
「……ヴァンダム、商会?」
 屋敷──ではなく店舗らしい──の軒先にはそんな屋号の書かれた看板が下がっていた。
 エリスがぽつと読み上げ、記憶の中がざわざわと雑音を上げる。
「ああ。聞いたことないか?」
 横には青年が立っていた。ズタ袋な鞄を肩に引っ掛けたまま、その様子は気安そうだ。
「ない訳ないじゃないですか。有名ですもん」
 そうだ。記憶が正しければヴァンダム商会は共和国(レイリア)でも屈指の豪商である。
 国内は勿論、自分の出身地であるトーア同盟諸領、北の聖教国(エクナート)といった大
陸全土、ひいては海を越えて他の大陸へも手広く商売をしていると聞く。
 でもそんなお金持ちの本拠地に、何を……?
 エリスは頭に疑問符を浮かべながら、傍らの彼をついっと見上げようとする。
「……あれ? デトさん?」
「お戻りになられていたんですね」
 そんな時だった。
 それまで厳粛に軒先を警備していた傭兵らしき一団が彼の姿を認めると、急に態度を軟化
させるようにして声を掛けてきたのである。
「今朝こっちの港にな。ヒューは居るか?」
「はい。確か朝一の会議の後からずっと会長室におられたかと」
「連絡してきましょうか」
「ああ、頼む」
 一方で青年──デトは実にこなれた様子だった。傭兵達に軽く挨拶を交わしながら、何や
らその場でアポイントを取っている。傭兵らしき男が二人ほど、本店の中へと消えていくの
を見送ると、他の面々がようやくエリスに気付いて言った。
「ところで……そこの女の子は?」
「途中で拾ったオノボリさんだよ。こいつも含めて話があるんだ」

 ヴァンダム商会本店は、田舎者(エリス)の想像していた富豪像とはまたタイプが違うも
のであったらしい。
 てっきり華美な装飾で彩られているのかと思ったが、店内は存外こざっぱりとしている。
調度品などはむしろ奥行きのある、主張しない佇まいの類が多いようだ。所謂「成金」では
なく、地に足のついた「商人(あきんど)」という印象である。
 店内でも、デトは商会の面々に手厚く迎えられていた。
 暖簾を潜ったのを認めるや否や、あちこちから掛けられる「おかえりなさい」の言葉。
 それらに「おう」と気安くこなれた様子で応える当人の背を追いながら、エリスはもしか
しなくても、実は彼はとんでもない大物ではないかと思い始める。
「こちらにいらしたんですね。デトさん」
 そうして店内の片隅──間仕切りで囲われた応接スペースの一つで待っていた二人に、や
やあって一人の男性従業員が顔を出し、声を掛けてきた。
 撫で付けた髪と、淡黒の礼装の上からでも分かる引き締まった身体。
 身なりからしても、彼という人間が商会でも相応の地位にあることが窺える。加えて彼の
姿を認めて顔を上げたデトもまた、フッと心なし安堵した横顔のようにエリスには見えた。
「おう、ロッチか。どうだ? ヒューの手、空いてるか?」
「それは勿論。それよりもすみません、こんな場所で待たせるなど……。下の者にはきつく
言っておきますので」
「気にすんなよ。むしろ俺の方が色々集ってる側だからな。案内頼む」
「……畏まりました。どうぞ」
 ロッチと呼ばれたこの男性に案内されて、デトは席を立って歩き出す。エリスもとてとて
とやや遅れてその後を追う。
「会長。デトさんをお連れしました」
「ああ、通してくれ」
 従業員専用の通路を通り、案内された先は会長室のプレートが下がった部屋の前だった。
ロッチが軽くドアをノックし用件を告げると、部屋の中から別の男性の声が返ってくる。
「お待たせしました。少々書類仕事が残っていましてね。おかえりなさい」
「ああ。お前も元気そうで何よりだ」
 ドアを潜った先で出迎えてくれたのは、小柄だが恰幅の良い一人の中年男性だった。
 彼はデトが歩み寄ってくるや否や率先して手を差し出し、彼としっかりと握手を交わす。
そんな様からしても、この二人は相当に交友があるらしいことが分かる。
「エリス。一応紹介しとくよ。こいつはヒューゼ・ヴァンダム。商会(ここ)の会長だ」
「かっ、会長さん……!?」
 部屋のプレートやロッチの言葉からして予想はしていたが、それでもエリスは驚きを隠せ
ずに喉が詰まる感触を覚えていた。
 レイリア屈指の豪商・ヴァンダム商会の会長。
 それだけで、今自分はとんでもない場所に連れて来られていると認識せざるを得ない。
「おにいさ──えっとデトさん、でしたっけ。あの、会長さんとはどういう……?」
「ん? まぁ腐れ縁だな。それよりヒュー」
 エリスの言葉にそれだけを返し、デトはそそくさと肩のズタ袋をテーブルの上に下ろして
呼び掛けていた。まるで何時ものように。彼とヒューゼは互いに向かい合って座り、すぐに
何やら談笑を始める。
「おほ~っ!」
 デトが袋からテーブルに広げたのは、色とりどりの鉱石だった。
 紅に蒼、翠に黄色。掌大のそれがざっと五十個以上はあるだろうか。
 ヒューゼが目の色を輝かせていた。デトはそれを「一応、土産だ」と言って彼に渡す。
「今度は何処に行ってたんです?」
「連邦(サザ)の方だ。こいつらは途中の山ん中で掘ってきた」
「ほう……。あっちにも“輝石”の鉱脈は残っているんですなあ」
「そりゃあ在るだろう。大体、お前らは掘り方が極端なんだよ。理屈の上じゃあ何処の地面
にもこいつらは埋まってるんだろ? 掘るならもっと分散しねぇと枯れちまうぞ」
「そう言われましてもねぇ……。北(ジルヴェール)はともかく、南(あっち)は何かと物
騒なものですから。資本を投入しても回収出来る見込みが、ね……」
「はん。傭兵もたんまり抱えてる奴の言う事かよ」
 口調は荒っぽいが、気の置けない間柄らしい。エリスは傍で聞いていてそう思った。
 現にヒューゼは──商人特有のものかもしれないが──デトからの土産に目を輝かせて嬉し
そうだし、対する彼の方もぶっきらぼうながらに友情らしきものを感じさせる。
「あ、あのっ!」
 だがエリスも、このまま二人のやり取りをぼうっと見ている訳にはいかなかった。
「いい加減教えて下さい。おじいちゃんが死んだって、どういう事なんですか?」
 何となく成り行きでついて来てしまったが、そもそも彼が祖父を知っているかのような発
言をしたからだ。
 気が付けば、安堵よりも不安が胸奥をすっぽりと浸してしまっている。
「デトさん。そういえば誰なんです、この娘は? 報告じゃあ拾ってきたとか」
「ああ……それなんだが」
 そんな彼女の叫びに、デトとヒューゼは沈黙と怪訝、それぞれの表情をじっと返す。
「こいつはイアン・アラカルドの孫なんだそうだ」
 あくまでその口調はそっけなく。
 だが次の瞬間、ヒューゼやドア傍にいたロッチが驚きで目を見開いたのを当のエリスは見
逃さなかった。
「で、消息を辿りに来たはいいものの、スリどもに荷物を盗られちまったらしい。偶々そこ
を俺が通り掛かってな」
「……なるほど。そうでしたか」
 呟いたヒューゼの表情が、明らかに暗いものに変わっていた。
 正面に向き直ったその背中越しでデトの顔色は窺えなかったが、間違いない。
(この人達は、おじいちゃんの事を知っている……)
 思い掛けない形ではあったが、見つけた。
 エリスはそう、ぎゅっと握る掌に力を込めて──。
「だからよ、ヒュー。こいつの帰り賃、出してやってくれねぇか」
「えっ」
 だがそんな内心の意気込みを、デトはそうヒューゼに言いながら挫いていた。
 短く驚いたエリスの声。デトはそこで再び彼女にちらと振り向くと、有無を言わせぬ雰囲
気で以って言う。
「エリス。そういう訳だからお前はさっさと故郷に帰れ。祖父は死んだ──悪い術師に利用
されたって家族に伝えるんだ」
「い……嫌です!」
 反射的にエリスは叫んでいた。ふるふるっと首を横に振り、肩のチコが不安そうに彼女の
顔を見上げてクンクンと鼻を鳴らしている。
「その話、本当なんですか? デトさん達は本当におじいちゃんの最期を見たんですか? 
私を厄介払いする為じゃないですよね?」
 矢継ぎ早に言葉を放ったが、それがむしろ自分の首を締めているのは分かっていた。
 彼が祖父を知っている──だからこそ見知らぬ彼について来たのに、自分からその仮定を
否定するような真似をしている。
 ……怖かった。
 もしかしたら既に死んでいるかもしれない。そうは頭の片隅にこそあったけれど、いざ突
き付けられると……ただ恐ろしくて、頷けなくて。祖母にも何と詫びればいいかという思考
よりも先に、エリスの全身を急にそんな暗い虞(おそれ)が覆おうとする。
 視線が泳いだ。直感が告げる。
 このまま帰ったら、もっと大切な何かを失うような──。
「そ……それに、いくらおじいちゃんの知り合いだからっていきなりお金を貰う訳にはいき
ません。に、荷物なら街の警備隊に通報すれば──」
「止めとけ。連中が田舎娘一人の為に真面目に仕事するとでも思ってんのか? 肩書きを傘
に威張ってるだけの雑魚より、個人的に人を雇った方がまだマシだぜ」
 だが対するデトの表情は冷淡だった。
 何とか食い下がろうとするエリスの内心を見抜いているのか、彼の眼は酷く強く、そして
何故か──哀しく感じられた。
 言うなれば諦観。その中で生きるしかないんだと言わんばかりの、窮屈な自由の弁。
 その視線は、必死になる彼女を何処かそうして“諭そう”としているかのようで……。
「……仕方ねぇな」
 そうしてエリスが半泣き寸前で立ち尽くし、どれだけの沈黙が流れただろう。
 ふとデトはそれまで着いていた席から立ち上がると、まだ座ったままのヒューゼに声を投
げながら歩き始めていた。
「ちょいと出て来る。ヒュー、それまでにこいつの帰り賃用意しておいてくれるか」
「ええ。それは構いませんが……何処へ?」「わ、私はまだ……!」
 ヒューゼの肯定とエリスの否定、二種類の声が同時に重なる。
 だがデトは端から彼女の言葉は聞いていないようで、代わりについっと肩越しに彼の方を
振り向くと、言った。
「こいつの荷物を取り返しに行く。全くあてがない訳じゃねぇしな」


「お待たせしました~」
「おう」「……」
 確か、彼は自分の荷物を取り返してくれると言っていた筈だ。
 なのに──何故自分達は今、料理店に来ているのだろう?
「どうした? 食わねぇのか?」
 店員が数人掛りで運んできた料理を前に、デトは早速フォークを伸ばしている。
 エリスはその声には応えず、じとっと半眼を作って彼を見返していた。
「荷物、取り返しに行くんじゃなかったんですか?」
「行くさ。でもその前に腹ごしらえをと思ってな。船内食じゃあ全然足りねぇしよ」
 何というか、彼とは出会ってからずっとこんな肩透かしばかりを受けている気がする。
 確かに彼とは今朝であったばかりの他人ではある。だけど……向こうだって事情まで聞い
てくれた身だ。もうちょっと親身になってくれてもいいんじゃないかと、思うのだが。
「ぶすっとしてないでお前も食っとけ。間違いなくお前みたいな田舎者じゃあ一生食えない
ようなもんばっかりだぞ?」
 言いながら、既に大きな骨付き肉に齧り付いているデト。
 確かに……テーブルの上に所狭しと並べられた料理はどれも、十六年生きてきた中で見た
事もないご馳走ばかりだ。ざっと見渡した限り、この店の内装自体も相当金が掛かっている
と見える。
「……大丈夫なんですか? その、デトさんのお財布とか」
「ん? ああ、気にするな。ここはヒューのやってる店の一つだからよ。支払いは経費って
形で落ちるからさ。感謝しろよ? 腹一杯美味いもん食って、旅の土産にでもしとけって」
 そこまで聞いてようやくエリスはハッとなった。
 何も彼は考え無しに自分を──いれば邪魔になるかもしれない自分を──ここに連れて来
た訳ではなかったのだ。
 不幸の穴埋めというと「負けた」ような感じだが、酸いの後の甘いを彼は用意してくれた
のだと思った。エリスは一度コクと小さく頷くと、一気にそれまで身体が訴えていた食欲に
身を委ね、暫しデトと二人でこのご馳走達を貪ることにする。
(お……美味しい……っ!)
 実際は口いっぱいに肉汁やら何やらが含まれ喋れなかったが、きっとエリスは周囲の客の
眼を気にせずに叫んでいただろうと思う。
 村にいた時の、いつもの黒パンやミルクなどとは別格・別ベクトルの豊潤な味わい。
 彼が言っていたように、確かにこの経験はいい土産話になりそうだ。思いながらもエリス
は料理を味わう手が止まらない。そもそもこちらに来ても、旅費の節約の為にずっと食事や
宿代も切り詰めながら祖父探しをしていたのだ。
「……」
 そんな彼女と、テーブルの上でスープに顔を突っ込んでいるチコを、デトは横目でそっと
見守っていた。とはいえ彼も、その間も食事の手を止める事はない。
「んっ、ぐ……。ふはぁ、幸せ……。凄いですね、デトさん。いつもこんなご飯を食べてる
んですか?」
「いつもじゃねぇよ。こっちに帰って来た時とか出る前の食い溜めの時に来るぐらいだな。
いくら俺とあいつとの仲だって言っても、毎日来てたらあいつが破産しちまうよ」
 最初のがっつきが一段落し、エリスの質問にデトが壮快に笑って答える。
 確かに彼の方を見てみればその大食漢ぶりは明白だった。体格差があるとはいえ、ざっと
エリスの五倍は皿を空にしている。
「……会長さんと仲がいいんですね」
「言ったろ。腐れ縁だって。あいつとは、商会が立つ前からの付き合いだからなあ……」
 大ジョッキの麦酒を一気に。
 語るデトの横顔は実に嬉しそうだった。
 昼間から飲むなんて……。エリスは半眼を作りかけながらも、思わず頬を緩めて──。
(……あれ?)
 ふと、脳裏に一抹の違和感が奔るのをみる。
 おかしい。計算が合わないのだ。
 確かヒューゼは中年だった。そして今目の前にいるデトはどう見ても彼よりも若い。推測
が間違っていなければ二十代半ばだ。ヴァンダム商会の歴史には詳しくないが、もし設立以
前からの付き合いだとすれば二人の年齢差には少なからぬ矛盾が生じる。
 何より……五十年も前に姿を消した祖父を、何故彼は知っているのか?
 最近まで祖父が生きていた。そう仮定すれば辻褄は合うが……。
(──ッ!?)
 すると刹那、エリスは頭の中に不快なノイズが紛れ込むのを感じた。思わず表情を歪め、
掌でこめかみを押える。
 砂嵐のような像。総じて笑顔で並ぶ人々。その中心にいる若き頃の──。
「デト様」
 そんな時だった。
 ふと二人の席に店員がそっと、耳打ちするようにやって来て声を掛けてきた。視線を向け
てみれば、店の戸口に着古した服装の男が一人立っている。
 エリスも分断され、徐々に遠退くノイズとイメージから立ち直ってデトの遣る視線に倣っ
ていた。離れた距離同士で頷き合う男とデト。するとデトは「案外早かったな」と誰にとも
なく呟くと、頬の中の肉を咀嚼し飲み込んで立ち上がる。
「目星がついたみたいだ。行くぞ、エリス」
「ふぇ……? は、はい……」
 言い放ち、さっさと歩き出していくデト。
 エリスは慌てて立ち上がるとポーカーフェイスな店員に一礼し、ちょっぴり料理達を名残
惜しそうに見遣ってから、トテトテとその後を追っていく。

 デト曰く、先程店先に顔を出してきた男は、彼が途中路地裏から引っ張り出してきた即席
の斥候らしい。前金を握らせ、先ず自分を襲ったスリ集団の目星を絞っていたのだそうだ。
 蛇の道は蛇……ということか。
 店の外で情報と引き換えに再び──より多くの金を貰い、嬉々として路地裏に消える男を
見送りながら、エリスは暗澹たる気持ちを抱いていた。
「そんなしょっぱい顔すんなって。とんずらされなかった分、律儀な部類だったと思うぜ。
幸先はいい方だ」
 それでも、俯き加減になる彼女の内心を気取っても、一方のデトはとうに割り切ったと言
わんばかりの淡々とした声色で歩を進めてゆく。
「人は利で釣れる。商人の国なら尚更にな。……まぁ例外っつーか、奇特な連中もいない訳
じゃねぇんだが」
 フッと笑う彼の横顔。エリスはまただと思った。
 出会ってからずっと、彼から受けている印象──諦めの境地のようなもの。
 事実ずっと自分の方が若い。村からあまり出た事もない、世間知らずの言い分なのかもし
れない。
 でも……何故だろう。
 彼には、もっと心の底から笑って欲しいのにとエリスは思う。
 すたすたと進むデトの背中を追い、エリスはエル・レイリーの街中を歩いた。
 商店や露店が軒を連ねるメインストリート。その各所で静かに口を開ける路地裏への小路
に、二人は出たり入ったりを繰り返す。
 そうしている内に、ふと周囲の雰囲気が変わっている事にエリスは気付いた。
 一言で形容するなら、猥雑──スラム街。
 人でごみごみとしているのは表通りと同じだが、ここには金儲けにギラギラする視線は殆
ど感じられない。在るのは、その競争から零れ落ちた人々の落胆と怨嗟の気色だ。
「あの……」
 不安になって、思わずエリスはデトを見上げた。
 すると彼は既に彼女の言いたいことに予想はついていたようで、
「ここの連中に妙な情を掛けるなよ。それが一番、奴らには頭に来ることだからな」
 ほんの一瞬の一瞥すらなく、彼は歩きながらそっと語ってくれる。
「……貧乏は、悪じゃない。そこから“堕ちた”時に初めて、そいつらは悪人とレッテル張
られるんだ」
 最初何を言いたいのか分からなかったが、エリスは只々頷くしかなかった。
 世界最大の交易都市。その裏側では、持たざる者達が虚ろなたむろのまま日がな一日を過
ごしている姿が広がっている。
 光と闇。月並に言えばそんなコントラストなのだろうか。
 華やかさの裏で──彼(デト)だけではなく──こんなにも多くの人々が絶望、している
なんて……。
「私、ここに来てよかったんでしょうか……?」
「いいも何も、俺はお前が盗られた所を見てねぇんだ。ホシの顔はお前の記憶任せだぞ?」
「え……。えぇ~!?」
 言われて確かにと思いつつ、不安やら何やらがどっと押し寄せてくる。
 正直逃げ出したくても、自分一人(チコはいるが)でこのアウトローな一帯を抜けられる
気などまるでしない。
「……うぅ。分かりましたよお。は、離れないで下さいよ?」
 きゅうっと。エリスは彼の上着の裾を握る。
 へいへい。当のデトはあしらうような声色で返事を寄越し、半眼でこちらを一瞥する。

 それから二人(と一匹)は裏路地──スラム地区の中を調べて回った。
 事前にある程度犯人グループの縄張りは絞り込んであるとはいえ、街の規模が規模だ。足
で把握するにはやはり時間が掛かる。ひび割れ、少なからず崩れたままの路や家屋に踏み込
む度に、スラムの住人達からは一斉に睨み(ガン)が飛んだ。
 デトは何処吹く風と受け流し、エリスはその度に面白ほどに怖気づく。
 彼に「よく見ろ。いねぇか?」と言われて見渡してみるが、記憶にあるあの一団の顔は何
処にも見当たらない。
 エリスがふるふると、すっかり涙目になって首を横に振ると、デトは「またハズレか」と
呟き彼女の首根っこを掴んだまま、また一つとたむろの場所を後にしてゆく。
 ──そうして、どれだけの場所を回った頃だったろうか。
「チッ……質にもならねぇなんて。今日はハズレか……」
 ふと二人が進む先、その一角にある店らしき建物から、一人の男が出て来るのが見えたの
である。
「ッ!? デトさん、あの人です! 私のロケット持ち逃げした人!」
「ほう」「え……?」
 間違いなかった。あの時エリスに声を掛けてきた、作業着姿の男だった。
 傍らのデトが、視線と叫びの向こうで男が、それぞれに目を細め目を見開きまるでスロー
モーションの世界の中でお互いを見遣る。
「──?」
 その、次の瞬間だった。
 フッとエリスの頬を風が掠めた気がした。頭に疑問符が浮かびながら、のそり彼女はデト
の方を振り向こうとし……。
「だはぁっ!?」
 男が急に悲鳴をあげ、にわかに轟音が鳴るのを聞く。
 隣にデトはいなかった。代わりに彼は男の至近距離まで間合いを詰め、左拳を彼の立って
いた質屋の壁にめり込ませている。まるで豆腐でも握り潰すように、バコッとその拳が壁の
中から引っ張り出されていた。
「……ちっ」
 デトが一瞬で駆け出し、拳を振り出した。
 男はその攻撃を殆ど本能で、何とかギリギリに回避した。
 そう理解が追いつくのに、エリスはたっぷり十数秒の時間を要していた。
 次いで、脳裏に満ちていくのは「あり得ない」というフレーズ。
 彼自身は何の造作も無くやってのけたが、普通──いくら廃墟に近い場所でも──石材の
壁を拳で打ち抜くなんて真似など……出来るものなのか。
「ひ、ひぃっ……!!」
 男は腰を抜かしながらもその場から逃げ出そうとしていた。その手には小さな鎖で繋がれ
た首飾り──エリスが祖母から預かったロケットが握られている。
「逃がすかっ!」
 男が路地の奥へと駆けてゆく。
 その姿を追って、今度はデトは一気に跳躍。──これもまたあり得ないレベルの身のこな
しで周囲の建物に次々と飛び移っては、彼もまた路地の奥へと消えてゆく。
「……。え? ちょ、ちょっと待ってデトさん! 置いてかないで下さいよ~!?」

 エリスは猛然と飛び出して行ったデトを追って、スラム街の只中を駆けた。
 姿はあっという間に見えなくなったが、遠くから悲鳴や轟とした破壊音が聞こえてくる。
彼が追跡しながら暴れているのだろう。
「キュッ、キュッ!」
「あっち? うん。オッケー」
 どうやら彼の匂いを覚えていたらしいチコの嗅覚を頼って、エリスは入り組んだ路地の中
を往った。最初は強面だったここの住人達も、突如起こった騒ぎに慌てふためている様子が
あちこちで散見される。
(デトさんって……もしかしなくてももの凄く強いんじゃ……?)
 今更だが、エリスは思った。
 あの最初の一撃、彼を追い始めた際の跳躍。どれを見ても常人の域ではない。
 ヒューゼ会長は賢い選択をしていると思った。あんな人を敵に回したら大変な事になるだ
ろう。むしろ厚遇でも味方に抱え込めば、いざという時に大きな働きをしてくれる。 
『言ったろ。腐れ縁だって。あいつとは、商会が立つ前からの付き合いだからなあ……』
 尤も、あの二人の間にはそんな打算以上の──友情があるように、エリスには見えていた
のではあるが。
 そうして走っていると、ようやくデトの姿が見えた。
 既に一戦を交えたのだろう。男とその部下──隙を突いて自分の荷物を奪っていったあの
若者達が、激しく崩れた瓦礫の上でボロ雑巾になっている。
「おう。やっと来たか」
「おう……じゃないですよ、何やってるんですか!?」
「何って、シメてんだよ。取り返すんだろ? 荷物。持ち金はいくらだったよ? 今こいつ
らから巻き上げて──」
「そ、そこまでしなくていいです! デトさんにそんな事までさせちゃったら、ど、どっち
が悪者か分からなくなっちゃうじゃないですか!」
 もう大分時既に遅しな気はしたが、それでもエリスは彼の猛攻を止める事を選んでいた。
 確かに取り返して欲しいとは思った。だけど、その為に暴力を振るっては結局同じ事をお
互いに繰り返すだけではないか……。
「……お前は優しいな。いや、甘いのか」
 そんな彼女を、デトは肩越しに見遣っていた。
 ぞくりとエリスの背筋に悪寒──のような畏れのような何かが奔る。表情こそ自分に微笑
み掛けてくれてはいるが、十中八九、彼には止める気がない……。
「く、クソが……っ!」
 するとそうした二人のやり取りを隙と見たのか、男──スリグループの面々が瓦礫から立
ち上がっていた。
 満身創痍。だがその身体を鞭打つように、彼らの感情には怒りの炎が点っている。
「何なんだよてめぇは! 此処に攻め込むなんざ正気か? ああ!?」
「馬鹿だろ? こんな大した金にならねぇもんばっかり取り返そうなんて。ったく、今日は
とんでもねぇ厄日だ……」
「欲しけりゃ取って来いよ。こんなゴミばっかの荷物、こっちから願い下げだ!」
 言って男と、エリスの鞄を持っていた若者が、相次いでその手の中の品々を力任せに投擲
していた。旅の着替えや食料を詰めた鞄、エリスが祖母から預かったロケット。それらが放
物線を描いて側方──フェンスの向こうを流れるドブ川へと吸い込まれていく。
「……ッ!?」
 エリスの目がまん丸に見開かれてた。ぼろっと、涙が勝手に溢れ出す。
「おばあちゃんの……ロケット……」
 汚れ切ったドブ川の中に音を立てて落ちてゆく荷物達。何よりも祖母の思い出の品。
 その一部始終を見せ付けられ、エリスはその場で膝をつき泣き崩れていた。肩の上のチコ
も主人の嗚咽に動揺しているのか、しきりに短く鳴いては彼女の頬を舐めている。
「……てめぇ」
 すると、哀しみの向こう側で声がした。
 否──怒声だ。気配だけしかエリスには分からなかったが、自分達とスリグループらの間
に立つ彼が静かにしかし恐ろしく強く憤っている。
「この下衆が。だからカネしか見えてない輩は気に入らねぇんだよ……」
 エリスが涙目のままゆっくりと顔を上げる。横顔のデトは、激怒していた。
 他人の筈なのに。なのに、まるで自分の事のように怒っていて──。
「じゃかましい! 野郎どもやっちまぇ!!」
 男──集団のリーダー格が叫んでいた。同時に部下な若者達が腰や懐から小刀(ドス)を
取り出してデトに襲い掛かる。
 エリスが叫ぶのとほぼ同時だった。複数の刃が、雄叫びと共に棒立ちのデトの身体へ次々
と吸い込まれていった。
 ぐらぐらと、エリスの瞳が揺れる。
 ごめんなさい。私の我が侭の所為で、貴方が──。
「……痛ってぇなあ。こんにゃろう」
『ッ!?』
 だがデトは、そうは呟きつつもまるで効いている様子がなかったのである。
 エリスと同様、目を見開いてよろよろと後退し、立ち尽くすゴロツキ達。
 デトは身体に刃が刺さったままで、
「ぬんっ!」
 適当に一人の脳天を掴むと、そのまま石材の地面にこの若者の身体を叩き込む。
 一同が言葉を失っていた。反撃を受けた当の本人は白目を向いて口から血反吐を吐き、そ
のまま陥没した地面に突っ伏して動かなくなった。
「……ったく。無駄に“消耗”させやがって」
 やばい。本能的に悟った面々が大きく後退りをしていた。
 それでもデトは睨みを利かせたまま、まるで無駄毛を抜くかのように軽々と、自身に刺さ
った小刀(ドス)を抜いてはその場に投げ捨てる。
「カネみたいな物はいくらでも替えが効く。でもな、想い出みたいなのは……それ以外に替
えが効くようなもんじゃねぇんだよ」
 ──言葉よりも、圧倒的な驚愕がそこにあった。
 確かに深々と刺さった筈の小刀(ドス)達、その傷口。
 間違いなく血が流れ出していたそれらが、突如電気のような血色の奔流を纏いながら急速
に塞がっていったのである。
 ボキボキと、拳を鳴らしてゆっくりと近付いていくデト。
 そんな尋常ではない異変に、やがて男がハッと──恐怖に顔を歪めて何かに気付いた。
「お前……まさか“死に損い(デッドレス)”か?」
 震える声色に、仲間達が今までに無いほどの怯えた表情で彼を、互いの顔を見合わせる。
「デッドレスって……まさか、あの?」
「今まで数え切れない人数の術師を殺して回ってるっていう“忌術殺し”の!?」
「あちこちの国が血眼になって捜してるっていう、不死身の──“白髪紅眼の男”……」
「……ああ。どう呼ばれてるかは勝手だが、そりゃあ俺だ」
 デトの至極面倒臭そうな声。
 次の瞬間、面々の悲鳴が遠慮なしに重なった。
 中には腰を抜かしてその場に倒れ込む者もいて、場は一気にパニックに陥る。
(デッド、レス……? デトさんが……?)
 そんな彼の背中を見つめながら、エリスもまた唖然とその場で動けなくなっていた。
 噂になら聞いたことがある。
 如何なる傷もあっという間に回復し、世界中で不正を働く輝術師らを抹殺して回っている
という──表向きには大量殺人を繰り返す大罪人。人呼んで“死に損い(デッドレス)”。
 彼が、私の為に怒ってくれているこの人が、そんな札付きのお尋ね者……?
「な、何でそんな奴がこんな所にぃ!?」
「……さてな。恨むんなら、今日という巡り会わせを恨むこった」
 戸惑いが、目の前の現実と巷説のギャップが、エリスを搔き乱している。
 そんな彼女をそっと肩越しに一瞥し、ニッと口角を吊り上げて。
「──消し飛べ」
 次の瞬間、男達を周囲の街並みごと、彼はその血色に迸るエネルギーと拳で以って破壊の
渦へと吹き飛ばしていた。


 その後の経過を纏めよう。
 目の前で起こった事態にエリスが唖然としていると、暫くして武装した集団──街の警備
隊員らが駆け付けてきた。
 流石に騒ぎが騒ぎだけに無視出来なかったのだろう。
 だが、デトが商会で話していたように、彼らは別段事の詳細を精査し、正義を維持しよう
というつもりではなかったのだ。
 何故なら彼らは、巨大な瓦礫の山の中で伸びているゴロツキ達を片っ端から掴み上げると
酸っぱい表情(かお)で「面倒な事を起こしやがって」と悪態をつき、事情聴取もろくにす
ることなく、そのままゴロツキらを連行し始めたのだから。
 公の正義よりも、自分達に降り掛かる火の粉を払う為──。
 エリスが彼らから受けた印象は、大よそそんな所である。
 最初はエリスを始め、たまたまその場に居合わせた人々も共に連れて行かれそうになった
のだが、警備隊はふとエリスの身なりを認めると「……違うな」と言って解放した。
 おそらくスラム街(ここ)の住人でないと判断されたのだろう。
 しかし事実難を逃れた筈なのに、エリスは釈然としない気持ちが膨らむのを感じていた。
「……行ったか?」
「あ、はい。……あの。これいいんでしょうか? さっき、関係ない人達まで連れて行かれ
ちゃったみたいなんですけど」
「助けに行くってのか? 止めとけ。警備隊(れんちゅう)の目的は逮捕じゃねぇよ。ここ
みたいな掃き溜めの人間を、この街から排除したいだけだ。そうすりゃあ面倒事も減るし、
対外的にも格好がつく」
「……」
 そうして警備隊が去ったのを見計らって、ようやく物陰に潜んでいたデトが姿を見せた。
 エリスは控えめに、しかし確実に良心が痛んで彼に訴えてみたが、当の彼はまたも諦めの
境地が如くそう応えるのみだった。
 確かに、むしろ彼の方が──本当に“死に損い(デッドレス)なら”──彼らと顔を合わ
せるのは色々と拙いのかもしれない。だが元はとは言えば自分の我が侭なのに……。
「……悪いな。結局お前の荷物、ぐしゃぐしゃになっちまった」
 すると、浮かない表情(かお)で表通りの方を見つめていたエリスに、ふとデトが近付き
ながら声を掛けてきた。
 手渡されたのは、間違いなく一度は盗まれた自分の鞄。
 但し先刻ゴロツキ達によってドブ川に捨てられてしまった為、外も中も酷く汚れてぐしょ
ぐしょになってしまっている。文字通り身体を張ってくれた彼には悪いが、おそらくもう使
い物にはならないだろうなとエリスは思った。
「いいえ……。私の我が侭に付き合ってくれて、すみませんでした」
 だけども。エリスはむしろ彼に深く深く頭を下げていた。
 文句を言う気にはなれなかった。言う資格もないと思った。最初話を聞いてくれた時に彼
が言っていたように、自分の不注意がいけなかったのだと思うことにした。
 鞄ですらこの有様なのだ。きっと今頃、祖母のロケットはドブ川の奥深くに沈んでしまっ
たのだろう。瓦礫と用水路が雑じり、最早足を踏み入れようという気も湧いてこない。
(ごめんね……。ごめんなさい、おばあちゃん……)
 心の中で、遠く故郷で待ってくれている筈の祖母に何度も謝る。ボロボロと、自分でも制
御出来ずに涙が零れる。
「……戻るか。ヒューも路銀を用意して待ってくれてる」
「……はい」
 だから殊更に、デトがそう自分の心情を見抜いていると感じ取れたからこそ、エリスは敢
えて言葉少なく促してくれた彼の背中が、とても大きく優しいものに見えて……。

「──そうですか。それはまた、随分と面倒事でしたな」
 スラム街の混乱を抜けてヴァンダム商会に戻った頃には、日は既に暮れ始めていた。
 最初とは違い、夕陽の茜が差し込む会長室。二人から一通りの話を聞いたヒューゼはそう
相変わらずの営業スマイルで呟くと、ちらりと壁に背を預けたデトを見遣っている。
 面倒なこと。それはおそらく自分に彼が“死に損い(デッドレス)”であることを知られ
てしまった内容も含まれているのだろう。
 心持ち、後退り。
 まだ世間をよく知らないながら、エリスは直感的に身を硬くする。
「……そうビビる事はねぇだろ。通報する気か? あの税金泥棒どもに」
 だが当のデトはさして深刻と捉えていなかったようだ。
 むしろ自分を売る真似が出来るのか? そう問うように流し目を寄越してくる。
 エリスはサーッと自身が青褪めるのが分かった。もしあのゴロツキ達を全滅させた一撃を
自分一人に向けられれば、先ず助からない。どんな“輝術”だのトリックだのを使ったかは
専門家ではないのでさっぱりだが、敵に回すべきではないことは馬鹿でも分かる。
「安心しろ。つーか、娘っこ一人の目撃だけでビクビクするような俺じゃねぇっての。逃げ
回るのは慣れてるんでね」
 デトはふっと自信ありげに笑っていた。そういえば彼は、あちこちを行き来しているとい
うような話していた事を思い出す。
 ……あれはきっと、一所に落ち着く訳にはいかない身の上だからなのだろう。
 そう思い返すと、彼の言葉が途端に重みと虚ろさを増すようで……エリスはそのままじっ
と黙り込んでしまう。
「ですが、用心はしておいた方がいいですよ? 既に誰かがデトさんのことをお上に通報し
ているかもしれませんし」
「まぁな……。仕方ねぇ、また何処かへ出掛けるかなあ」
「……あ、あのっ」
 そうしてデトとヒューゼがそんなやり取りを交わしている中、はたっと俯き加減になって
いたエリスが顔を上げて声を強めた。
 怪訝に見遣ってくる二人。肩の上でキョロキョロと辺りを見回しているチコ。
 彼女はぐるぐると、今まさに思考の中にあるものを吐き出そうと口を開く。
「私……村に帰ります」
「……。ああ、そうしろ。荷物もあんな状態だし、帰りはヒューの所で送って──」
「デトさんと一緒に」
「はぁっ!?」
 今度は、デトが面を食らう番だった。
 眉間に皺を寄せ「何言ってんだお前?」とでも言わんばかりに半眼を向けてくる彼。
 そんな彼に──祖父を知っていると語った彼に、エリスは言う。
「デトさんには一緒に村に来て貰いたいんです。おじいちゃんは死んでましたって私が話す
よりも、別の誰かが、おじいちゃんを知っている人が話した方が皆も納得してくれるでしょ
うし……」
「そ、そりゃあそうかもだが……。お前、スラム街で俺のアレを見ただろ? 一応お尋ね者
なんだぞ、俺は。そんな奴を連れて歩くなんざ──」
「だからこそですよ。あれだけ強ければ、また悪い人に狙われても平気です」
 デトが、苦虫を噛み潰したような表情で固まっていた。
 エリスはそんな彼をついっと見上げ、ヒューが見開いた目から「ほう……?」と妙な笑み
の表情に変わり出す。
「それに……私にはデトさんが悪い人だなんて思えないんです。あの時、おばあちゃんから
預かったロケットが荷物ごとドブに捨てられた時、デトさんは自分の事のように怒ってくれ
ました。想い出はお金みたいに替えが効かないんだって、親身になってくれました」
 デトがそっと視線を逸らし、顎鬚を擦るヒューゼと顔を見合わせていた。
 何よりも、エリスはようやく内心で納得する。自分の放った言葉に納得する。
「デトさんは──きっとホントはいい人です」
 そうだ……。彼を“悪人”として勝手に裁くべきじゃない。
 彼は捜していた祖父のその後を知っており、きっと誰よりも優しくて。
 だからこそ、あそこまでじっと世界が放つ虚しさと闘っていて……。
「……こりゃあお嬢ちゃんに一本取られましたね、デトさん?」
 ヒューゼが破顔していた。にんまりと笑い、ポンと眉を顰めるデトの肩を叩いてみせる。
「いいじゃないですか。どうせまた遠出しないといけなくなるなら、彼女の護衛の仕事って
形で行って来たらどうです? ……色々始末がつきますしね」
「ふん……」
 鼻で笑おうとしつつも、デトの表情は冴えなかった。もしかして案外押しには弱いのかも
しれない。伸び放題の白髪をガシガシ。彼は大きな大きなため息をついて言う。
「……分かったよ。行きゃあいいんだろ、行けば。言っとくが、俺は高く付くぞ?」
 エリスがにこっと笑い、チコが小さく鳴く。
 ヒューゼが目を細めて呵々と笑い、言い放って嘆息をついたデトをそれとなく慰める。

 少女と青年(と一匹)の旅が、始まろうとしていた。

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  1. 2012/10/21(日) 18:00:00|
  2. 死に損いのデッドレス
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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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