日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)NIGHT GUNNERS〔4〕

(……こいつは、また酷いな)
 その日、師崎ら清嶺署の刑事達はその現場に赴いていた。
 惨劇の舞台となったのは、街の中心部から少し外れた住宅地の中にある橋の下だった。
 不快感と共に鼻を突く血の臭いが漂う。師崎らが到着した時には既に先遣の人員によって
処理が進められていた最中だったが、この平穏とは正反対の臭いは暫くは辺りに遺り続ける
かもしれない。そう漠然と思った。
 駆けつけた面々は現場に入り、先遣の人員らからの報告を受けながら、とりわけ背の高い
ブルーシートに四方を囲まれたスペースにいた。
 中には布に包まれた物体が集められていた。その数、ざっと十数。
 外の生活音が僅かに聞こえてくる他は、妙に不気味な沈黙が中を支配していた。
「……検めるぞ?」
 面々を見渡し頷いてくるのを確認してから。
 中年刑事の一人がそれらの前の屈み、そっとその布を捲ってみる。
 そして視界に飛び込んで来たのは──血まみれの男性の顔。
 鈍器や刃物。複数の凶器が使われたようだ。何度も殴打され、切り裂かれたその顔や身体
は酷く傷つけられ、損傷し、元の姿が判別し難いほどに痛めつけられていた。
「……全く。むごい事をしやがる……」
 静かに眉間に皺を寄せ、目を細め、先の刑事が呟く。
 それは惨殺死体と言う他なかった。
 その惨状はある意味で慣れている刑事(プロ)でも酷いものであるらしく、中には込み上
げて吐き気で思わず顔を背けた者もいた。
「……」
 師崎も、静かにそんな強烈な不快感に耐える。
 最初の一人の顔に再び布を掛け直して。
 面々は同じように、他の布に包まれた遺体を一人一人言葉少なげに検めていった。
 どの被害者も、執拗に殴られ、切り裂かれた無残で鮮烈な姿を晒してくる。最中、先遣の
人員らが随時現状での報告を加えてくれたが、正直言ってあまり頭に入って来ない。
 十数人分にも及ぶ惨殺死体を検め終わった頃には、面々は流石に顔色が悪くなっていた。
「……こいつは、予想以上の酷さだな」
「あぁ……。むごいもんだよ」
 一挙にどっと疲れたように、ブルーシートの囲いから面々が出てくる。
 皆一様に、決して気楽な表情はしていなかった。被害の酷さとこれからの捜査の大変さを
思い、少なからず気分が重くならざるを得ない。師崎も、そんな先輩刑事達の後ろを追うよ
うにして、ザリザリッと重苦しい表情を隠せないまま、土砂利の混じったコンクリートの地
面の上を歩いた。
「……」
 住宅地の中にある少し大きめの橋の下。
 僅かに残った土色の地面が護岸工事で固められたコンクリートの灰色に圧倒されている。
 視界には、方々の地面や傾斜した壁に掛けられたブルーシートが見える。先程のホトケ達
が元々倒れていた位置である。囲いの中に入る途中で捲ってみたが、まるで大量のペンキを
ぶちまけたかのような血飛沫の痕が生々しく残っていた。それだけでも、今回の被害の残忍
さが推し量れる。
 傾斜した壁の上は路地になっていた。ガードレールや錆掛けたフェンスが見える。
 見てみると、その隙間からちらほらと人が集まって来ているのが確認できた。
「おい。野次馬が集まって来てんぞ」
「まぁ住宅地のど真ん中だからな……。仕方ないっちゃ仕方ないが」
「おーい! もっとちゃんと非常線張っとけ~! くれぐれも部外者は入れるなよ!」
 それに気付いた刑事数人が、作業していた人員達に指示を飛ばしていた。
 既に幾本か張られていた非常線の黄色のテープ。それらを更に延長しながら作業員達があ
せあせと動き出していく。そうしていると、背後から遺体を担架に乗せて運んでいく者達と
擦れ違った。運び去られていく様子を見送る。今後、今回の遺体達は解剖されるのだろう。
 これだけズタボロにされた上でまだ傷つけないといけないのか……。
 師崎は、ふっとそんな思考が過ぎった頭を静かにふるふると横に振っていた。
(……ん?)
 ちょうど、そんな時だった。
 ふと視線を上げた先、集まり始めた野次馬の中に師崎は見知った顔を見つけたのだ。
 ラフな普段着でしかも帽子を目深に被っていたが、間違いない。
(なんで、こんな所に……!?)
 内心慌てながら辺りを見渡す。
 だが幸い、他の刑事達は彼の訪れには気付いていないようだった。それを確認してから、
師崎はそっと現場を抜け出す。
「──ハヤさん」
 早歩きで上の道路に出る。
 野次馬の群れから少し離れた位置にいた男性。師崎は辺りに気を配りながら、そっとそう
彼を呼んで声を掛けた。
「……おう。モロか」
 途中で気付いていたのか、その男性・雪村隼人は声を掛けられた事にさして驚きを見せは
しなかった。くいと指先で帽子の縁を持ち上げながら、そう呟くようにして振り返る。
「なんだ、じゃないですよ。こんな所に出てきちゃマズイでしょう? ……ハヤさんは今、
謹慎中なんですよ」
「何、心配は要らん。ただ散歩していただけだ。偶然、近くを通り掛かっただけだよ」
「……」
 ひそひそと、師崎は控えめながらもこの現在処分中のベテラン刑事をたしなめていた。
 だが当の本人は、あくまで真面目くさった顔でそう答えてみせる。普段、色々と教えを説
かれている立場という事もあり、師崎はそれ以上強くは諫める事もできず、ただ苦々しく唇
を噛んで押し黙るしかなかった。
「……それで? 現状はどうなってる?」
 ふっと、隼人が真剣な声色になって口を開いていた。
 視線はいつの間にかじっと眼下の現場へと向いている。ベテランの、刑事の横顔。
 その言葉に、師崎は一瞬躊躇ったが、
「……殺しです。人数は十六人。全員これでもかって程に全身血みどろに殺られてます。酷
いもんです。惨殺ですよ。第一発見者が通報してきたのは今朝なので、大まかな犯行時刻は
昨日の夜中から未明の間になるでしょうか」
 できるだけ淡々と、事前と現場での報告・検分で得た情報を話して聞かせた。
「ふむ……。にしても十六人か……。それは多いな」
「えぇ。どうやら被害者全員が、あの橋の下で暮らしていたホームレス達みたいなんです。
ただ遺体の損傷が激しいので、個別の身元確認はもう暫く掛かるでしょうけど」
「……ホームレス」
 そして追加で伝えたその情報に、隼人は静かに食いついていた。
 口元に手を当てて、鋭い目付きでじっと何かを考え込み始める。師崎は彼の横に立ち、そ
の様子に言葉少なげに目を遣った。
 暫くして、隼人はちらりと師崎を見ながら訊ねてくる。
「……お前は、この件をどう思う?」
「そうですね……。まだはっきりした情報が少ないので何とも言えませんが、何より人数が
多過ぎますし個人的な怨恨とは考え難いでしょうね。もっと曖昧な……ホームレスのような
弱者をいたぶる事などを目的にした快楽殺人、なのかもしれません」
「ふむ……」
 隼人は短く呟き、暫し黙っていた。眼下の現場では時折指示が飛ぶ声が聞こえる。
 もしかして。そろそろ戻らないとマズイだろうか……?
「……まぁ今後の捜査次第でしょうけど。ハヤさんが抜けてる分、俺、頑張りますから」
 そうしていると、師崎はふとそんな事を思い立ち、
「ですから……。無茶な事はせず、早く戻って来て下さい」
 去り際に隼人の事を気遣う言葉を掛けながら、そっとその場を立ち去ろうとする。
「…………モロ」
 だが、隼人は暫しの間を置いてから静かに彼を呼び止めていた。
 踵を返しかけた師崎が、ゆっくりと怪訝に振り返る。その視線をじっと捉えたまま、隼人
は再び重く間を置いてから口を開いた。
「……お前は、例の事件をどう思ってる? 俺が、上と揉めた奴だ」
 師崎は思わず顔をしかめていた。
 例の事件。それは隼人が謹慎処分を喰らった原因──不明だらけの、謎の連続衰弱事件の
ことに他ならなかった。
 何を、言っているんだろう。此処の事件とそれは別じゃ……。
 師崎は更に怪訝の色を濃くしたが、それでも訥々と答えていた。
「……。正直、俺もわけが分からないですよ。被害者が衰弱してたのは間違いないですけれ
ど、街中でいきなりそうなる理屈も、犯人像も。上だってそうなんじゃないんですか?」
 詳細不明の厄介な事件。署内での印象は概ねそれで一致していた。
 捜査はすれども成果はなく、被害者ばかりが増えるばかり。今はまだ事件自体公表してい
ない──といっても既に黒田のような連中は嗅ぎ付けているようだが──が、表沙汰になれ
ば警察が批判の矢面に立つ事はほぼ間違いないだろう。
 だからこそ、上層部はそんな事件に入れ込んでいたハヤさんを厄介者扱いしたのだ……。
「……」
 しかし隼人は黙っていた。
 いや、黙っているというよりは、師崎の反応に何処か安堵している節すらあった。
 だがその僅かに見せた表情も一瞬、彼は再び真剣な刑事の顔になる。
「……どうも臭うんだよな。例の衰弱事件も、この殺しも」
 その視線は少し遠く、清浜の中心部へと向けられていた。
 開発によって建ち並ぶビル群。そこから響いてくる雑多な営みの音。それらを耳に、全身
に感じるように大きく息を吸い込むと、隼人はふぅと深いため息をついた。
「……俺には、この街に何かが起きてるような気がしてならねぇんだ。とんでもなくやばい
何かが、よ……」
「……それは、ハヤさんの勘って奴ですか」
「あぁ……。そうだな」
 言って、隼人はにやりと苦笑の中に無理矢理に笑みを作ってみせる。
 だが師崎は内心でやはりと思いつつも、何処かで辟易する気持ちが拭えなかった。
 確かにハヤさんは腕のいい刑事(デカ)だ。だけど……そんなアナクロな「勘」ばかりに
頼っていちゃあ、もうこの変化し過ぎた清浜(まち)は守れないんですよ……。
 暫し二人は、横目で互いを見遣っていた。
 昔気質を体現するようなベテランと、その腕を敬愛しながらも自分には合わないと感じて
止まない若き次代。だが、
「……。お前は、俺によく似てるんだ」
 隼人はそっと路地の奥の方へと踵を返すと、そう師崎に呟いた。
 静かに眉根を上げる師崎。隼人はフッと口元に微かな笑いを浮かべながら帽子を再び深く
被り直す。去り際に彼は、そんな目を掛けた後輩を見遣りながら言った。
「お前はもっと自分の感覚を信じていい。……お前が目指しているものは、間違っちゃいな
いんだから」
 そう呟いて、隼人はその場から立ち去っていった。背を向けたまま軽く手を上げた後、路
地の角を曲がって消えていく。
「……」
 師崎は暫くその場に立ち尽くす格好となった。
 隼人に言われた言葉が、妙に頭の中で何度も反響を繰り返しているように感じた。
 その副音声のように、周りの野次馬や下の現場からの声や物音が響いてくる。
『……俺には、この街に何かが起きてるような気がしてならねぇんだ』
 隼人の言った言葉。いやそれはある種、彼なりの予感とでもいうべきものか。
 だがそれは不安のようなものなのではないのかと師崎は思う。
 得体の知れない、自分達の常識が通用しない時、人はそれを、ひいては世界を奇怪なもの
として捉えてしまう。刑事の勘と大層な事を言っても、所詮はいち人間の主観でしかない。
 主観でしか、ない筈なのに……。
(…………この街に起きてる、何か……)
 しかし師崎は、それでも何処かで引っ掛かりを覚える自分を払拭し切れないでいた。
 ハヤさんの勘とやらに影響されたのか。そんな言葉を鵜呑みにしたって……何になる?
 苦々しく空を仰いで、大きく深い息を吐く。
(……全く。今日はどうにも嫌な日だぜ……)
 振り返り、眼下の惨劇のあった現場を見下ろしながら。
 師崎は漠然と、説明のできないもどかしさを一人密かに持て余していたのだった。


 Slot-4.君と僕と戦う理由

 現場に到着した時、そこには既に野次馬達が集まっているのが見えた。
 街の中心部から少し外れた住宅地の一角。錆びかけたフェンスとガードレールで遮られた
道の眼下には、橋の下の土色交じりの舗装された地面が広がっている。
「……ありゃま。結構人が集まってますねぇ」
 事件の発生を聞きつけた一聖と奈々子、そして長嶋の三人は取材をすべくその現場に足を
運んでいた。ざわついている現場(の崖上)の様子を少し離れた位置から眺めながら、奈々
子が片手で庇を作って言う。
「ま、場所が住宅地のど真ん中だからな。否応にも目立つだろうさ」
 一聖は肩に引っ掛けた鞄を時折揺らして掛け直しながら、それとなく周囲の様子を確認し
ていた。
 事前の情報では、此処で殺人事件が起きたという。だが。
(……しっかし。何でまたこんな人目につきやすい場所なんだ……?)
 ふと一聖はそんな疑問を脳裏に過ぎらせながら、静かに目を細める。
「そういう事。だから他の同業者(れんちゅう)だってすぐにやって来るわよ? もう既に
何社かは来てるかもしれないけどね」
 そんな二人ののんびりした反応とは対照的に、長嶋は初っ端からきびきびとしていた。
 気の強そうな眼差しで二人を見遣ると、そう言いながら指示を飛ばしてくる。
「私は警察に直接アタックしてくるわ。その間に、二人はその辺の野次馬とかからできるだ
け情報を吸い上げておいて」
「ういっす。分かりました」
「あ、あの……警察にアタックって、大丈夫なんですか? この前の事もあるのに……」
 コクと頷く一聖と、警察と聞いて思わず不安そうな表情になる奈々子。
 長嶋はふっと苦笑しながら長い髪に指を通して言った。
「そりゃあまぁ、以前よりは口は堅くなってるわよ。でもだからって臆したままなんてのは
嫌じゃない? 記者としても。個人的にも……ね。まぁ喰い付いて引き出してみせるわよ。
あんた達よりも長く記者やってるんだから。ここは先輩に任せときなさい?」
 そう強気な発言を残して、長嶋は一足先に野次馬の方へ、道路の眼下にある現場の方へと
歩き去っていった。一聖と奈々子は、暫しそんな彼女の後ろ姿を見送る。
「さて……俺達も動くか。ナナ」
「はい?」
「お前は撮影な。現場の様子を収められそうなポイント、見つけて撮って来てくれ」
 それからややあって、一聖はサッと指を指して奈々子にそう指示を送った。
 フェンスの向こう、橋の下に広がる灰色の地面には点々とブルーシートが置かれているの
が見える。更にその奥、橋げた付近には周りから遮断するかのように四方を囲った背丈の高
いブルーシートが組まれた骨組みに掛けられている。
「分かりました~。えっと、少しアングルが遠くなっちゃってもいいですかね?」
「そうだな……。程度にもよるが、あの囲いの中が確認できるなら多少は構わねぇだろ」
「そうですか。了解です。じゃあ行って来ますね~」
「おう。気ぃつけてな」
 そして今度は首から提げたカメラを片手に、ひらひらと手を振りながら奈々子が小走りで
路地の向こう側へと消えていった。
 俺は記事。あいつは写真。
 一聖はいつものように相棒の後ろ姿を見送ると、
「……さて。俺も仕事仕事っと……」
 さっと踵を返して一人野次馬の集まっている方へと歩いていく。
 野次馬達はざわざわと互いに時折言葉を交わしながら、眼下の現場を見下ろしていた。
 こんな朝の内からよくもまぁ、これだけ人が集まるもんだ……。
 街の中だから当然と言えば当然ではあるが、一聖は内心少々苦笑しながらその身をそんな
群集の中に紛れ込ませていく。
 さて。誰に声を掛けようか……?
 一聖がそう、色々と話してくれそうな相手を探して人々をさりげなく値踏みしていた。
 ちょうど、そんな時だった。
「……あれ? 黒田さん?」
 ふと背後から届いた自分を呼ぶ声。
「ん……? あ。君らは……」
 ふと振り向いてみて、一聖は思わず僅かに目を見開いていた。
「あぁ、やっぱりそうだ~。やっほ~、黒田さん」
「おはようございます、黒田さん。ご無沙汰しています」
 そこに立っていたのは、先日の取材で知り合った秋奈と小春の女子高生二人組だった。
 登校途中なのか、二人とも鞄を手にした制服姿だった。
 気安い秋奈と、のんびりとしていながらも丁寧な物腰の小春。一聖が「あぁ。久しぶり」
と穏やかに笑ってみせ、三人はそのまま野次馬の群れからそっと抜け出すと彼らから距離を
取った。そこで改めて一聖が二人を見遣って呟く。
「制服姿って事は……二人とも無事に退院したんだな」
「はい。お陰様で」
「まぁね~。私もそんなに重症じゃなかったし」
 ほっと静かな安堵を垣間見せる一聖に、小春がそれ以上の柔らかな笑みで小さく頭を下げ
ながら答えた。その隣で秋奈が追随するように気楽に発言したが、小春は少し苦笑したよう
に保護者よろしく彼女を一瞥する。
「でも何でこんな所にいるんだ? 学校、遅れちまうぞ?」
「あ、それは大丈夫です。まだ時間には余裕がありますから」
「っていうかさ~。ここは私らの通学路なんだよね。通ってて当然っしょ?」
「……通学路?」
 一聖がその言葉にピクリと反応した。もそもそと肩に引っ掛けた鞄からメモ帳とペンと取
り出すと、再び二人に向き直って訊ねる。
「って事は、君らはいつもここを通ってるんだな?」
「そうだよ? 大通り沿いよりもここを突っ切った方が駅が近いからね」
「じゃあこの辺りの事も知ってるんだな? 二人は何か知ってるか? あそこで起きた事件
の事でなんだが」
「事件って……人殺し、なんだよね? さっき周りの人が言ってたけどさ」
「通る事は通りますけど……ご近所というわけでもないですから、私達もそんなに詳しい訳
じゃあ……ねぇ?」
 そう答えながら、秋奈と小春はお互いに顔を見合わせていた。
 どうやらこの二人は偶然、この現場を通りがかって野次馬に混ざっていただけらしい。
「そっか。まぁそうだよなぁ……」
 一聖はペンを挟んだメモ帳を片手に呟いた。
 聞く相手が違ったかな。それに……彼女達にはもう事件の類には巻き込まれて欲しくない
という内心、個人的な希望もある。
「あ、じゃあやっぱり黒田さんは取材に来たんだ? あの事件を調べにさ」
「あぁ……まぁな。仕事だし」
 だがそんな一聖の想いとは裏腹に、秋奈は心なし好奇心で表情を明るめながら一聖を見上
げていた。
 この前の事で懲りてないのかな、この子は……。
 一聖は内心そんな事を思いながら、思わず苦笑を漏らして曖昧に頷いてみせる。
「そっかー。じゃあ私達も協力しないとね? 小春?」
「え? あ、うん……。そう、だね……」
 にかっと笑う秋奈。その勢いに小春が少し押され始めていた。
 心配そうな顔こそしていたが、彼女もまた一聖に恩返しをという態を取られるとあまり強
くは出られないようだった。びしっと元気よく片手を上げて、秋奈が口を開く。
「という事で私達が耳に挟んだ情報~。さっきも言ったけどあそこの橋の下で人が殺された
みたい。少し前には刑事さんらしい人達がぞろぞろ青い囲いの中に入っていくのも見たよ」
「囲い……そうか。やっぱり……」
 あの囲いの中に、被害者が移されていると考えるべきか。
 一聖は秋奈が口にする情報を走り書きのメモに書き留めていった。といっても、二人はい
つものように登校途中にここを通り過ぎようとしただけで、その話は全て先の野次馬達の会
話の中から漏れてきた情報が多くを占めていた。
「……まったくもう、警察は何やってんだか。やる事成す事遅いんだよねぇ」
 途中、この前の件からの不満がちらほらと混じったりもしていたが。
「……本当、物騒ですよね」
 そうしてあれやこれやと断片的に耳に挟んだ情報を話していた秋奈の横で、ふと小春が薄
らと柔らかな苦笑いを浮かべながら呟いた。
「もっと前は、この街だって静かで平和だった筈なのに……」
「…………」
 それはきっと、自分達が襲われた先の事件の事も含んでいるのだろう。
 それでも泣き言らしい泣き言を漏らさず笑っている小春の姿が、一聖の胸には痛かった。
 秋奈もそういった背景を察したのだろう。静かに佇む小春の横顔をちらりと見遣ると、何
とも言えない視線をそっと一聖に向けてくる。
 そしてそんなつい重くなってしまった雰囲気を溶かそうとするかのように、秋奈は努めて
笑顔を作ってみせ、できる限りの気安い声色で以って言った。
「ほ、本当だよね~。橋の下のおっちゃん達もいい迷惑だよ~」
「……橋の下の、おっちゃん?」
 その言葉に一聖は僅かに眉根を上げていた。すると秋奈が「あ……」と少し言いずらそう
な顔になる。代わりに、ちらりと視線を寄越された小春が答えてくれる。
「うん、そのさ……」
「はい……。あの橋の下辺りにはその、ホームレスの方達が何人も住んでいるんです」
「あそこは上手い事周りからは死角になってるし、場所的にも街の中心に近いし、色々と便
利なんだろうね。私達も時々、ここからでもそういうおっちゃんや兄(あん)ちゃんがうろ
ついてるのを見かけるよ」
「……へぇ。そうなのか……」
 それは初耳だった。さらさらとメモを取りながら一聖は呟く。
 ちらりと視線をフェンスの向こうの現場へと向けてみる。確かに二人の言う通り、あの橋
桁辺りはここからではよく見えないが、よくよく見てみれば、ちらほらと彼らの住居らしき
張りぼての小屋が点在しているのが確認できる。
「……」
 ぼうっと二人の情報を頭の中で反芻しながら、一聖はそんな現場の様子を遠目に眺める。
 だがしかし。
(……ちょっと待て。じゃあ一体、そのホームレス連中は何処に行ったんだ?)
 ふと、一聖の脳裏にそんな疑問が過ぎったのだ。
 事件が起きて封鎖されて一時的に締め出されているのだろうか。
 いや……もしかしたら。
「? 黒田さん?」
「……どうかしたんですか?」
 ざわっと全身に這い上がってきた仮説に、思わず眉間に皺を寄せる。そんな一聖を見て二
人が少々訝しげに声を掛けてきた。
 一聖は沸いてきたそんな不快感を押し込めるように苦笑いを浮かべると、
「……いや。何でもねぇよ」
 何とか平静を装って二人に視線を戻す。
 一聖の携帯が着信のメロディを奏で出したのは、ちょうどそんな時だった。
「おっと……。失礼」
 二人に一言残して、一聖はポケットの中に手を伸ばした。
 画面に表示されている相手は奈々子だった。すぐにボタンを押し、電話に出る。
「おう。俺だ」
「あ、先輩? 撮影ポイント確保しましたよ~」
「そっか。……それで、今何処なんだ?」
「今ですか? 向井さん家の二階ですけど」
「……って、また人ん家かよ」
 思わずぼそっと一聖は突っ込んでいた。だが当の奈々子は電話の向こう側から変わらず呑
気な声色で笑い返してくる。
「大丈夫ですよ~。向井のおばあちゃんとはお茶飲み仲間ですし、ちゃんと本人に断わって
上がらせて貰ってますから」
「……まぁいいや。ともかく、くれぐれも迷惑だけは掛けるなよ? それで、そこから現場
の様子は撮れそうか?」
「はい。ちょっと遠めですけど大丈夫です。囲いの中も見えますね~。何だか布に包まれた
のがひー、ふー……えっと、とにかくいっぱい置いてあります。あと周りにも人がいっぱい
いますよ。刑事さんとかなのかな……?」
 それはおそらく今回の被害者の遺体を包んだものなのだろう。状況からして周囲の目から
隔離する為か。それにしてもいっぱい──それなりの大人数という事はやはり……。
 奈々子から報告される情報を頭に入れながら、一聖は再び全身にむずがってくる嫌な感じ
に目を細めていた。携帯を肩と耳の間に挟んでメモを走らせてから言う。
「……ま、その辺は長嶋先輩とかも訊きに行ってるさ。とりあえず何枚か撮って来てくれ。
戻ってくる時にはちゃんとその家のばーさんにも礼言っとけよ?」
「は~い。分かりましたぁ」
 そこまで話して一聖は通話を終えた。携帯をポケットの中にしまい込む。
 すると、それまで黙っていた秋奈が好奇心の伴った眼差しで訊ねてくる。
「ねぇ黒田さん。誰から? 誰から?」
「うちのカメラマンだよ。現場の様子を撮れそうなポイントを探させてたんだ」
「へぇー……。何だか黒田さん、仕事してるねぇ」
「当たり前だろ……。別に俺は遊びとか野次馬根性で来てる訳じゃないんだぞ?」
 一聖は思わずジト目になる。秋奈の傍の小春も、思わず静かに苦笑していた。
「まぁそういう訳だから、君らもそろそろ学校に行きな。長々と野次馬に混ざって見物して
たら遅れちまうぞ? こういうのも何だが、見てて気持ちのいいもんじゃねぇしさ」
「……そうですね。じゃあ行こっか、アキちゃん」
「うん。それじゃあお仕事頑張ってね、黒田さん」
「あぁ。言われずとも」
 そこで一聖は秋奈・小春の二人と別れた。
 大きく手を振ってくる秋奈、微笑の顔で小さく頭を下げる小春。そんな二人の立ち去る姿
を暫し見送ってから、一聖はそっとフェンスに背を預けて静かに深く一息をついた。
 ちらりと、顔を横に向ける。
 路上にはまだ居残ってざわついている野次馬達。その眼下の現場では、現在進行中で警察
が事後処理に奔走している。点々と壁際や地面に乗せられているブルーシート、そして先の
電話で奈々子から聞かされた奥の囲いの中の様子。それは、自分の予想を支持するに足る材
料となっていた。野次馬や周囲の雑音を遠くに聞きながら、一聖は静かに目を細める。
(……やっぱ、そうなのか……? ホームレスのおっちゃん達が……)
 イメージだけが頭の中で先行するかのようだった。
 正直重く沈んでいく内心を抱えながらも、一聖は小さく首を横に振ってそんな考えを頭の
隅の方へと追いやろうとする。
(……ん?)
 ちょうど、その時だった。
 一聖の視界に見覚えのある人影が映ったような気がした。パッと行き過ぎた視線を戻し、
確認するようにもう一度辺りを見渡してみる。
「……」
 間違いなかった。野次馬達の群れから少し外れた所、一聖とは彼らを挟んだ位置に大良が
佇んでいたのである。
 両手をポケットに突っ込んで、じっと眼鏡越しに眼下の事件現場を見下ろしている。
(タイ、ラ……?)
 だがしかし、一聖は彼に声を掛ける事ができなかった。
 それは距離が離れていたからというだけではない。その時の一聖には、事件現場を見下ろ
す彼の眼差しがとても鋭く冷たく……それはまるで分厚い硝子かのように見えて──。
「どうしたの、黒田」
 そんな引き込まれるような錯覚から呼び覚ましたのは、近付いてきた長嶋の声だった。
 一聖は思わずハッと我に返り、驚きを隠せないまま彼女に振り向いていた。そんな一聖の
様子を、長嶋は僅かな怪訝を表情に漏らしながら見つめ返す。
「い、いいえ。何でも……」
「……? まぁいいけど。それで乾は?」
「あ、はい。ナナなら現場の写真を撮らせに向かわせました。さっきいいポイントを見つけ
たって連絡があったんでその内戻ってくるかと思いますけど」
「そう」
 長嶋はうんと満足そうに頷いていた。肩に提げたバッグを揺らして掛け直しながら言う。
「それで? そっちは何か情報は集まった?」
「えぇ、そこそこは。野次馬からの話なんで後で裏を取らないといけないでしょうけど」
 言って一聖はメモ帳を開きながら長嶋に報告をした。
 彼女もまた、自分の手帳を開きながらその情報と自分のそれとを照らし合わせる。
「ふぅむ……。オッケー。まぁ大体こんなものかしらね」
「……。先輩」
「何?」
「その、被害者の事なんですけど。もしかしてこの辺りに暮らしてたホームレス、だったり
とかしませんか?」
「あら。そっちも聞いてたの? そうね。そうらしいわ」
 そう聞かれて、長嶋はあっさりと肯定してみせた。その言葉に、一聖は内心で鈍い音が鳴
り響いたかのように思えた。
 まさか本当に、予想が当たってたなんて……。
「……やっぱり本当、なんですか?」
「間違いないでしょうね。こっちは、当局の人間から直接聞き出した話だから」
「当局、ですか? よく口を開いてくれましたね」
「ふふっ。それはまぁ、気の弱そうなのをとっ捕まえて吐かせたからね」
「そ、そうっすか……」
 強気な笑みの口元にニヤリと弧が描かれていた。
 一聖は思わず苦笑していたが、内心では粘りつくような重みが尾を引いている。
 だが長嶋はあくまでもサバサバとした物言いで、黒く長い髪を揺らすと言った。
「まぁ確かに気持ちのいいものではないけどね。でもホームレスの一人や二人ぐらい、清浜
だけじゃなく、ある程度の街にはそう珍しくもないでしょ? だからって殺していいなんて
理由には絶対にならないけど」
「えぇ……。それは勿論」
「……まぁ一通りざくっと情報も集めたし、一度社に戻るわよ。乾にも連絡して」
「了解っす」
 言って踵を返しだす長嶋の後ろで、一聖は携帯を抜いた。
 コールされる携帯を耳元に当てながら、フッと先程大良がいた筈の方へと目を向ける。
 だが、そこには既に大良の姿はなかった。視界の先には、ざわつきを続ける者と少しずつ
散り散りに帰っていこうとする者に分かれ始めた野次馬達の姿があるだけだった。
(……? 何だったんだろ……?)
 携帯のコール音と周りの雑音を耳に届けながら、一聖は一人静かに目を細めていた。

 そして、それは突然やって来た。
「──おい。今、なんつった?」
 アパートの自室にいた一聖の下にかかってきた大良からの電話。その彼から唐突に告げら
れた言葉に、一聖の表情が瞬間的な強張りを見せる。
「……ユニテルの件から手を引けと言ったんだ」
 それでも電話の向こうの大良の声色は落ち着いていた。不気味な程に淡々としていた。
 数秒、お互いが黙り込む。
 強張りと共に滲ませる圧迫感と落ち着き払い過ぎた言葉。二人は電話越しに互いの空気を
読み合おうとしているかのようだった。
「どういうこったよ? 一体、何でいきなりそんな事言うんだ」
「……」
 やがて、ごくっと唾を飲んでから一聖は訊ねた。
 だが、大良はすぐには答えなかった。返事に詰まるように電話の向こうで数秒、たっぷり
と考え込んだようにしてから、ぼそりと口を開く。
「……君には、もう荷が重過ぎる状況になったんだ」
「荷が、重い……??」
 一聖には大良が何を言いたいのかがよく分からなかった。いや、むしろ彼自身が意図的に
言葉を選びに選んで遠回りな発言をしているような節さえあった。
(一体、何だってんだよ……?)
 瞬間的に沸き、スッと下がった一聖の感情の温度は、徐々に苛立ちという形で再び上昇を
始めていた。
「……分かってくれ。これは、君の為でもあるんだ」
 大良の淡々とした声色に若干の懇願が帯び始めた。
 だが一聖は携帯を耳に当てたまま、じっと俯き加減になって黙っている。そんな沈黙を承
諾と取ったのだろう。大良は更に淡々とした調子を保とうとしながら続けた。
「後の事は僕が引き継ぐ。ゴルダやカードも後日、引き取りに行く。だから君は──」
「ふざけんなっ!!」
 しかし、そんな言葉は次の瞬間、叫ぶように声を張り上げた一聖に掻き消されていた。
 一聖の周りの空気がビリビリと震える。対する大良は電話の向こうで思わず押し黙ったよ
うだった。俯いたまま、ぎゅっと携帯を握り締めた一聖は搾り出すように口を開き始める。
「……ふざけるなよ。何があったかも言わないで手を引けだ? 馬鹿も休み休み言え」
 それは単純な怒りではなく、憤りだった。
「一緒に清浜を守ろうって言ったじゃねぇか。それを今更お前に丸投げして平気でいられる
わけねぇだろうが……」
 沸き立つ感情で何故、大良がいきなりこんな事を言ってきたのかを考える能力は正直、削
がれていたと言わざるを得ないだろう。
 だが、一聖の心の内には一つ確かなものがあった。
 それは、友が自分の事を信頼せずに一人困難を抱え込もうとしているらしいという見立て
とその事に対する抑え切れぬ不満だった。
 だからこそ、
「い、イッセー……。僕は──」
「いいか? お前が何を言おうが俺は今まで通り立ち向かうぞ。俺達が奴らから清浜の皆を
守るんだ。もう二度とそんな事言うんじゃねぇぞ? 分かったな!?」
 電話の向こうで珍しくうろたえようとしていた大良の声を、一聖は聞く耳も持たず一方的
に殆ど叫ぶようにそう言い放つと、その勢いのまま通話を切ってしまったのである。
「…………」
 途端に、部屋がしんと静かになった。
 胸が興奮で鼓動を刻んでいるのが分かった。まだ沸き立つ感情がせり上がろうとしている
感覚がある。一聖は携帯を片手にしたまま、パタンと仰向けに寝転がった。
(……馬鹿野郎が)
 もやもやとした気持ちが、一聖の表情を硬く険しいものにし続けていた。
 沸騰し、一気に爆発した感情の温度は中々下がってくれない。
「──ッ! だから俺は降りないって言ってるだろうが!」
 それ故、その後すぐにかかってきた電話に、一聖は相手を確認しないまま燻る感情を叩き
付けるようにして応じてしまう。
「……か、一聖? どうしたのよ……?」
 だが今度の相手は大良ではなかった。
 それは一聖にとって聞き慣れた女性の声。
 次の瞬間、サァッと昂ぶりが引いていった一聖はゆっくりと携帯の画面を確認していた。
そして「しまった……」といった感じで顔を引きつらせ、再び携帯を耳元に当て直す。
「す、すまん……。何でもない」
「……? そう?」
「あぁ……。それで、いきなり一体何の用だよ? 姉貴」
 電話の相手は、一聖の姉・和美だった。
 向こう側で怪訝な様子を漏らす彼女に、一聖は少し焦りつつ用件を聞き出そうとする。
「何って。忘れてるの? もうすぐお祭りでしょう? 海浜公園で毎年やってる……」
 言われて一聖は壁のカレンダーに目を遣った。
 もうすぐ。海浜公園。毎年の祭り。
「…………あぁ、潮風祭か。もうそんな時期だっけ」
「そうよ? 去年と同じでお祭りの前後には清浜(そっち)に帰るから」
 和美は結婚してからは清浜を出ていた。だが本人は故郷にも思い入れが強いらしく、機会
を見つけてはしばしば帰省してきていたのだった。
「そっか。まぁゆっくりしに来なよ」
 だが電話の向こうの和美は、一聖のそんなそっけない言葉に不満を示してくる。
「そっか、じゃないの。一聖もたまには実家(うち)に帰って父さんと母さんに元気な顔を
見せてあげなさい」
「俺だって仕事してんだよ。そんな姉貴みたいにホイホイ帰れないっての」
 そう答える一聖だったが、正直言うと単に面倒臭いからという理由が先だったりもする。
 また始まったよ。一聖は内心嘆息をついていた。
 我が姉は、大のお節介なのだ……。
「それに、そろそろあんたも身を固めたらどうなの? いつまでも独り身でいちゃ、父さん
も母さんも心配するわよ? 大体あんたは──」
「あ~……はいはい。分かりましたよー……」
 次の瞬間にはくどくどと長くなり始めた和美の話を切るように、一聖は丸っきり棒読みな
台詞でそれを封じてみせる。電話の向こうではやはり和美がまだぶつぶつと不満気に何かを
呟いていた。一聖はそれを無視して続ける。
「……とにかく。潮風祭の日も俺は普通に仕事だって。俺の事はいいから、姉貴達で楽しん
で来なよ。つーか、こっちが非番の日にピンポイントで電話してくんなよなぁ……」
 この時も何時もの如く、一聖は面倒臭さを全開にして姉からの電話に応対していた。
 それに今日は、ついさっきまで、大良からの突然の通告もあったのだから。
「そう……? でも翔太だってあんたに会いたがってるのよ?」
 翔太は和美の一人息子である。確か最後に会ったのは一昨年、小学校に入る直前の事だっ
たか。一聖はまだ二十代の自分を“おじちゃん”と呼んでくる無垢な表情を思い出し、思わ
ず苦笑いを浮かべる。
「そりゃすまなかったな。でも別に翔太の子守は俺じゃなくてもいいだろ? 義兄(にい)
さんはどうしたんだよ」
「今回も仕事よ。あの人、不器用だけど、頑張り屋さんだから……」
 そう答える和美は何処か惚気ているようにも聞こえた。一聖は「またか」と少々うんざり
しながらも、想定していた答えにふっと口元に小さな弧を描く。
「ま、そういう訳だから……そっちはそっちで楽しんでおいてくれよ。ついでに親父と御袋
にも宜しく言っておいてくれ」
「もうっ。そういうのはちゃんと自分で行きなさい? 大体あんたは──」
「あ~……へいへい。じゃあな」
 また疼き出した姉の説教口調から逃げるようにして、そこで一聖は通話を切った。
 再び、部屋の中がしんと静かになる。
「……」
 心の隙間に埋まっていた姉や家族のピースが、そっと静かに抜け落ちて消えていくような
イメージが一聖の脳裏を掠めていた。
 使い込まれた薄いカーペットを敷いたフローリングの上で、一聖は携帯を片手に乗せたま
まぼうっと心持ち背を丸めて佇んでいた。
「……イッセー」
 そんな様子を先程から見つめていたゴルダが、もそもそと部屋の隅に置いてあった鞄の中
から這い出すと、ふよふよと一聖の頭上を浮き始めた。だが一聖はそれでもぼうっとしたま
ま、視線を床の上に落としたまま押し黙っている。
 時折翼の部分をピコピコと動かしながら、ゴルダも押し黙っていた。
 電話の内容は完全ではないが、やり取りや漏れてくる音で把握していたようである。一聖
に掛けるべき言葉を見つけられずに、ゴルダはただ困ったように漂っている。
「……。よしっ」
 だがそうしていると、ふと思いついたように一聖が立ち上がった。
 表情こそ引き締めた厳しいもののままだったが、その様子には何かを決めた潔さがある。
「イ、イッセー……?」
 そのまま、部屋の隅へと歩いていく一聖。ゴルダはその背中を追いながらおずおずと彼に
声を掛けようとする。
「出掛けるぞ、ゴルダ」
「え……? ど、何処に?」
 すると一聖はさっと振り向いてゴルダにそう言い放った。部屋の隅に置かれた鞄をひょい
と拾い上げると、
「タイラの部屋だよ」
 短く答えながら、むんずとゴルダを掴んでその中に放り込む。
「直接会って話さなきゃ駄目だ。多分あいつは……何かを背負い込もうとしてる」
 鞄の開け口を閉じて肩に引っ掛けながら、一聖は自分に言い聞かせるように呟いていた。

 部屋を後にした一聖は、その足で大良の部屋へと向かった。
 街の表通りから少し外れた位置にある白壁のアパート。角柱状の角ばった門の枠のような
エントランスをくぐり、郵便受けと駐輪スペースの間を通り抜ける。一階の部屋のある通路
のすぐ脇にあるエレベーターの上昇ボタンを押す。ややあって降りて来た鉄の籠の中へと歩
を進めると、一聖は目的の階数のボタンをコツと叩き、暫し上っていく籠の振動に身を任せ
ながらそっと壁に背を預けていた。
(……確か、あいつの部屋は六〇五だったな)
 ポンッと安っぽい電子音がして扉が開く。
 一聖は肩に引っ掛けた鞄を揺らして廊下を進みながら、大良の部屋を探した。
 手前から三番目、四番目、五番目。大良の部屋はそこにあった。中からは物音は聞こえて
来ない。いやそれ以前にこのアパート自体が静かだった。
 それほど古く壁が薄い建物という訳でもないので当然といえば当然だったが、ドアの前に
立つ一聖はそれだけで漠然と不安を覚える。
(……よし)
 数秒の逡巡を待って。
 一聖はえいやとチャイムを鳴らした。機械的なメロディが部屋の中で響いているのが辛う
じてこちらからも聞こえる。
 だが、中からの反応はなかった。
 いないのか。それとも……居留守だろうか。
 実際、数刻前の気まずさもある。あり得ない話ではないだろう。一聖は一人静かに僅かに
眉間に皺を寄せながらも、念の為にもう一度呼鈴のボタンを押してみる。
 最初は、無音だった。
 だが、一聖がやはり不在かと思ったのも束の間、突如ドアの向こうで僅かに物音がした。
 ガチャガチャと音がする。どうやらチェーンを弄っている物音のようだった。一聖は何だ
ろうと思いながら、僅かに小首を傾げてドアノブの方に視線を落とす。
「あ。どうも……」
「──ッ!? し、シルヴィ……!?」
 次の瞬間、僅かに開いたドアから顔を出したのは大良ではなくシルヴィだった。
 一聖は思わず声を上げそうになるのを抑え、慌てて周囲を見渡す。幸い廊下には誰の姿も
見えない。顔を出してくる住人もいない。
 それらを確認すると、一聖は急いで半開きになったドアの中に滑り込んでいった。
「……ふぅ」
 そっと、後ろ手にドアを閉める。
 一聖はとりあえず安堵の息を漏らしながら、
「おいおい……。駄目だろ、一人で出てきちゃ。誰かに見られたらどうすんだよ?」
 目の前で漂うシルヴィに言った。
「それはそうなんですが……。覗き窓から一聖さんの姿が見えたので」
 その反応に、シルヴィは元気なく苦笑するような声色で言葉を濁す。
 だが彼女は、自分の姿を認めてわざわざ決して大きくない身体で鍵とドアチェーンを開け
て迎え入れてくれたのだ。
 だからこそ一聖もそれほど本気で怒れる筈でもなく、
「…………まぁいいや。それでタイラはどうしてる? いないのか?」
 おもむろに鞄を手に提げ直しながらそう訊ねる。
「あ、はい……。その、マスターは……出掛けちゃいました」
「……そっか」
 反応がなかったからまさかと思ったが、やっぱりか。
 一抹の落胆と安堵。二つの感情がフッと一聖の胸を掠めていく。
「ま、とりあえず上がらせてもらうぜ?」
 しかしこのまますぐに踵を返して帰る訳にもいかない。
 一聖は一言そう告げると、靴を脱いで部屋の中へと足を踏み入れる。
 大良の部屋は相変わらず本だらけメモまみれだった。こんな活字だらけの部屋で年中過ご
している自分を想像してみると頭が痛くなってくる。一聖は机の上のパソコンに、積み上げ
られた書籍や紙の資料の数々にぼんやりと目を落としながら言った。
「……出掛けてるって、タイラの奴何処に行ったんだ?」
「分かりません。その、一聖さんに電話を掛け終えた後、マスターは五分くらいぼうっとし
ていて……。ふと立ち上がったと思ったら、そのまま何も言わずにふらふらっと……」
「……あいつ」
 シルヴィはもう心配の念を隠そうとはしなかった。
 一聖はその返答にギリッと静かに唇を噛む。
 あいつが、動揺している。
 そもそも何時ドールと遭遇しても対処できるように、お互い外出時にはゴルダとシルヴィ
は必ず鞄などに忍ばせておこうと決めてある。行き先を彼女に見られたくなかったからかも
しれないが、あいつがそんな事も忘れるなんて……。一聖は眉間に皺を寄せる。
(一体、何がどうなってやがる……?)
 一聖の頭の中では、疑問と瞬発的な憤りと、そして何よりもあの時自分の取った感情的な
態度への後悔が渦巻いていた。
「……教えてくれ、シルヴィ。一体タイラはどうしちまったんだ? なんでいきなり俺から
ユニテルの件から手を引けなんて事を言ってきたんだ?」
 シルヴィはその質問が投げ掛けられるのを予め待っていたようだった。
 数拍の間を置いてから、彼女は少し俯き加減に漂いつつ答える。
「詳しい経緯は、私にも分かりません。でも一つ確かなのはあの日──穂波さんをドールか
ら守った日の夜からマスターの様子がおかしくなったという事です」
 一聖は壁際の机の傍から離れ、フローリングの床の上に胡坐を掻いて座り込んでいた。手
元の鞄から、もそもそとゴルダが顔を出してきながら言う。
「あの晩か……。確かにあの日のタイラの様子、ちょっと妙だったよなぁ……」
 言われてみれば、そうかもしれない。
 一聖は宙に浮かぶゴルダに一瞥を寄越してから、眼でシルヴィに続きを促していた。
「あの日、部屋に戻ったマスターは私をパソコンと配線で繋ぎ始めました。いつもの、解析
作業の準備です。そして準備を終えたマスターは、私にあるユニテル・カードの解析を命じ
たんです」
「解析か……。それで? 結局何のユニテルだったんだ? そのカードは」
「……ヒューマン(人間)です」
 一聖の問いに、シルヴィは重々しい口調で答えた。
 無言になった一聖とゴルダがちらと互いに顔を見合わせる。隠さない疑問符を頭に浮かべ
て、一聖は深刻そうな様子のシルヴィに更に質問を投げ掛けていく。
「ヒューマン? 何でまたよりによって“人間”のユニテルなんかを……?」
「それは私にもはっきりとしません。ただ、どうやらこのユニテルは、今までドール達が街
の人々を襲ってサンプリングしようとしていたものの正体であるようなんです」
 ドールが人々を襲う目的は、カードによる採取──。
 一聖は以前、大良がそんな事を言っていたのを思い出していた。それまでにも何度か現場
で見つけた空のユニテル・カード。という事は、ドール達はこのユニテルを採取する為に夜
な夜な清浜の街を暗躍していたというのか。
 一体何故ヒューマン(人間)のユニテルを、一体何の為に?
「……それでそのユニテルは何ができるもんなんだ? 解析、したんだろ?」
「えぇ。そうなんですが……」
 だがシルヴィは、一聖の当然といった質問に言葉を詰まらせていた。
 一聖が怪訝に眉根を寄せる。言い辛いのか、それとも言葉に迷っているのか。シルヴィは
再び数秒ほど押し黙ったままで宙を漂う。
 それからややあって、彼女は申し訳ないと言った感じで口を開いた。
「実はその……肝心の解析時の記憶が、残っていないんです」
「……? 記憶が残ってないって、メモでもし忘れたのか」
「い、いいえ。そうではなくて。その……マスターが私にカードをセットしてから排出され
るまでの間、どうやら私は意識が飛んでしまっていたようなんです。だから肝心の内容につ
いては何も覚えてなくて……」
 再び一聖とゴルダは顔を見合わせていた。
 羽を曲げて恥ずかしげに顔を覆うシルヴィ。そんな彼女を見遣りながら、一聖は小首を傾
げながら呟いた。
「意識が飛ぶって……。普通に会話できるから忘れがちになるけど、お前ロボットだろ? 
機械が物忘れなんてするものなのか?」
「…………いや。それがあるんだな、これが」
 だが一方のゴルダは何かに気付いたらしく、少し黙っていた後、そんな一聖の疑問を覆い
被せるようにして発言する。
「一応、俺達も休眠状態(スリープモード)になってる時は記憶(メモリ)が整理されたり
はするんだが、シルヴィの言うような状況ですっぽり記憶がなくなるなんて事はまずない。
あるとすれば……可能性は一つだ」
「……何だよ、それは?」
「覚えてないか? 俺達には、データベースに対してロックが掛けられてる」
 そこまで言われて一聖もようやく理解に及んだようだった。
 目を見開き、間違いないと頷くゴルダとおずおずとそんな兄を見遣るシルヴィを交互に見
返す。顎に手をやり、指先でポリポリと肌を掻きながら一聖は呟く。
「つまりあれか? そのヒューマン(人間)のユニテルが、お前らの中じゃあ読み取るのも
禁止されてる項目の一つになってる……それだけ何か意味があるものだって事なのか?」
「そうだ。現にさっき俺もデータベースを参照してみたんだが、弾かれちまった。多分シル
ヴィの時もセットして解析しようとした瞬間、システムモードに変わっちまったんだろう。
そうなりゃ、解析中の記憶がないのも説明できる」
「……。じゃあそのユニテルが具体的に何なのかは、タイラしか知らないって事なのかよ」
「え、えぇ。そう……なっちゃいますね」
 一聖の確認するような問いにシルヴィが苦笑するように言った。
 返答を受け、一層考え込み髪をボリボリと掻く一聖。だがややあってから、一聖は弾かれ
たように立ち上がると振り向いて辺りを見渡しながら訊ねた。
「シルヴィ。その時のカードは今何処にある? 中のユニテルは残ってるのか?」
「は、はい……。目が覚めた時、マスターの手の中には空ではないカードがありましたし。
えっと、今まで回収したカードなら机の一番上の引き出しにしまってある筈です」
 その言葉を背に一聖はずんと机に向かった。言われた通り、机の一番上の引き出しに手を
掛けようとする。
「あ。でも開きませんよ? そこの引き出しは鍵付きなので。鍵も普段からマスターが持ち
歩いていますし……」
 シルヴィの言う通り引き出しは開かなかった。
 ガコガコと引っ掛かる音だけがして、一聖はむぅと顔をしかめて振り返る。
「……じゃあマジで、肝心の詳しい事はタイラしか知らない訳か」
「はい……。すみません……」
 一聖は思わず静かにため息をつきながら頭を掻いた。
 その解析作業の前後に大良の様子がおかしくなった──そして自分にユニテルの件から手
を引けなどと唐突に連絡してきたのなら、そこで起きた事さえ分かれば、そうしたそれら大
良の見せた一連の不可解な言動の理由も分かると思ったのだが……。
「いや。お前が謝らなくてもいいって。むしろ謝んなきゃいけないのは俺の方さ。あいつの
事情はよく分かんないけど、手を引けって言われた時、感情に任せてあいつを怒鳴っちまっ
たからな……」
 とんと気落ちしたように見えるシルヴィ。一聖は精一杯の苦笑い混じりの笑みを返しなが
ら、そう自分の言動を反省しつつ彼女を慰めようとした。
 眼のランプを点滅させてシルヴィが無言で漂う。ゴルダも机の方から戻ってくる一聖を迎
えながら掛ける言葉に困っているようだった。
「参ったなぁ……。どうしたもんか」
「すみません。お力になれなくて……」
「いやいや。それでもお前が留守に居てくれて助かったよ。肝心の部分は分かんねぇけど、
タイラに何かあったってのはこうやって確認する事ができたんだしさ」
「……はい」
 押し黙るオートノミー・デバイスの兄妹を従えるようにして、一聖は大良の部屋で行き詰
まりと共に佇んでいた。部屋には無数の書籍や資料が転がっているというのに、自分には彼
の抱く気持ちも、その言動の理由すらも分からない。
(…………タイラ。お前、一体どうしちまったんだよ……?)
 静かに窓から差し込む陽の光に目を細めて。
 一聖は当てもなく立ち尽くしながら言葉少なげに、入れ違いに何処かへと出掛けていって
しまったこの部屋の主を、親友(とも)の事を想ったのだった。


「……これから、このカードを君にセットしてみる。このユニテルの効能を調べて欲しい」
「は、はい。分かりました……」
 シルヴィとパソコン、各種機器を配線で繋ぎ解析の準備を整える。
 僕は穂波君を襲ったドールが携行していたユニテル・カードを取り出すと、そう静かに言
葉を紡いでいた。
 濃淡・白黒のグラデーションのついた肌色。ロゴ文字は「H」。
 内心で手先が緊張して震えていた。ゆっくりと、上蓋に指を掛けてカードを開封する。
『Human(人間)』
 そして、その無機質な音声が響いた瞬間、僕は思った。
 やはり──そうなのか、と。
 だがこのまま止めてしまう訳にはいかなかった。数歩、前に出て開封したそのカードをシ
ルヴィにセットする。その隣に移動し、いつでもデータを収集できるように予め立ち上げて
おいたパソコンの画面に視線を移す。
「始めてくれ」
「はい……」
 僕の合図で、シルヴィはカードを含んでいた口を閉じた。眼のランプが光り、彼女のデバ
イスとしての機能が作動する。
 これでこのカードの、ヒューマン(人間)のユニテルとは如何なるものなのかが分かる。
 その……筈だった。
『──シリアスセキュリティ警告。ヒューマン・ユニテルノ挿入作動ヲ確認』
 耳に入ってきたのは、普段彼女が話す穏やかな声色ではなかった。
 それは機械的そのもの。そう間違いなく僕らが初めて出会った夜に見せた、機械仕掛けの
デバイスとしての根幹を現した時の声色だった。
「……シルヴィ?」
 僕は、思わずパソコンを見ていた画面から彼女に視線を向けていた。
『……ユーザー設定有効中。信用度ランクS。AIモード時ノ意志ニヨル同意的プログラム
アクセスノ痕跡ヲ再確認中…………完了。善意的支援行為ト認定。セキュリティロックNo.
〇〇八五-ASSノ解除ヲ実行シマス……』
 配線につながれたままの彼女が淡々と呟いていた。
 ロック。そうか……という事は、このユニテルはそれ程重要なファクターであるという事
を意味している。僕は、再びパソコンの画面に視線を戻そうとした。
『……データ閲覧及ビ複製用アクセスヲ確認。回線、遮断シマス』
「むっ……」
 だが、その呟きと共に突然パソコンに流れていたデータが途絶える。
 それだけではない。画面上に次々と出てくるウィンドウとそこに流れるマシン語。間違い
なかった。シルヴィのプログラムが、彼女の中の重要情報を守ろうとしているのだ。
 対抗してキーボードを操作したが、受け付けない。
 結局僕は、パソコンに残っていた解析途中のデータを抹消される羽目になった。
(……やはりそう簡単に未知の技術の全容を教えてはくれない、か……)
 そして片手で頭を抱え、思わず静かに唸っていた、その時だった。
『データ再認証……。善意的接触者、現行ユーザー・白沢大良ト確認。起動条件充足ニ基キ
Dr.カラノメッセージヲ再生シマス……』
「!? 何……!?」
 驚いて再度シルヴィを見たと同時に、彼女の眼から光が射出されていた。映画の映写機と
同じようなものだろう。その光の中で何かが大きくブレながら映り込もうとし始めていた。
 やがて、それは淡い光で形作られたとある一人の男性の立体映像となった。
 ホログラム。僕は思わず目を見開いたまま、その姿へとゆっくり歩み寄っていた。
『……どうもこんにちは。初めまして、だろうね』
 間違いなかった。
 格好こそ白衣を纏った研究者風の姿だったが、映像の中の人物は紛れもなくあの始まりの
夜に路地裏で出会った、重症を負い僕らにシルヴィとゴルダを託した彼──ハカセだった。
 僕はそっと目を細めながら、彼の表情が見えるようにその正面へと回り込む。
『このメッセージが再生されているという事は、今僕を見ている君は、何らかの形で僕の研
究成果にアクセスしている筈だ。そしてその成果の結晶……僕の“子供達”に認められた存
在だという事になるね』
 子供達とは、シルヴィとゴルダの事だろう。
 しかしこの言い方は……やはり、彼は自分の身に危険が迫る事を予期していたとしか思え
ない。あの夜、必死になって僕とイッセーに二人を託そうとした彼の顔が蘇ってくる。
『……そして何より、このメッセージが再生されている頃には、僕はもう無事では済まない
状況になっている事だろう』
「……」
 ホログラムの中のハカセは、そこまで言うと少し自虐的な苦笑を漏らしてみせていた。
『……さて。前置きはこの位にしておこう。君は今、多くの疑問を抱えている筈だ。この子
達が出力する力──ユニテルについての……ね。そして僕はここまで我が子達のロックを解
き進めてきた君を、良き心の持ち主と信じてその疑問の幾つかに答えたいと思う』
 僕は思わず身を乗り出していた。
 シルヴィ達の生みの親から、直接真実(こたえ)を知る事ができる……。
 ハカセの言葉を留めた立体映像は、まるでそんな今の僕の顔を確認するように少し視線を
上げると、おもむろにふっと、その微笑を真剣なものへと変貌させた。
『ユニテルは森羅万象、あらゆる事象を司るエネルギーだ。僕らはそれらを発見したという
ある人物の研究施設でその技術の実用化の為の研究に没頭していた。……だが、それの名前
はここでは語る事はできない。今の僕の……これからの立場では、いやそもそも内部の情報
を漏らす事自体が、此処では重大な反逆に等しいんだ。敢えて語らないのは、君という数奇
にも僕に関わってしまった人間を、今まで以上の危険に追いやりたくない……そんな僕の勝
手な意志によるものだ。……どうか許して欲しい』
(……リークする事が、反逆になる……)
 それは、またしてもあの夜の状況と整合する内容だった。
 彼はあの時大怪我を負っていた。それも、おそらく全体としては同じ組織の者によって。
 どうやら……その僕の予想は、間違ってはいなかったらしい。
『では、何故僕がこの組織に反逆しようとしたのか……。その理由は一つだ。それは、組織
の上層部がユニテルの力を良くない方向に使おうとしている事を知ってしまったからだ。僕
はいち科学者として、科学は人々の幸福の為に用いられるべきだと信じている。だが彼らは
そうではない。むしろそんな幸福を……ささやかでも構わない人々の幸せすらも奪い去って
しまう方向へと進もうとしている。僕は、それを止めたいと思っている。我が子達も、実は
その過程の中で改良を加えて完成させたものでもあるんだ』
 その侵奪の一つが、ドールの暗躍という事なのだろう。
 真実のピースが、また一つそっと静かに合わさっていく。
『……だからこそ僕の意志を継いでくれた君には、できる事なら彼らの暴走を止めて欲しい
と思っている。巻き込みたくはない、とはさっき言ったのだがね……。だがこのメッセージ
が実際に再生される状況になっていれば、きっとその時はもう僕のそんな希望は砕かれてし
まっているのだろう……』
 まるで、遺言のようだ。
 僕はそれまでのメッセージを聞きながらそんな事を漠然と思った。
 彼の願い、想い、理由。だが足りない。それがギリギリまで僕やイッセーという関わった
人間を守ろうとする動機からであっても、肝心な事について知り得なければ僕らは何もでき
はしない。対峙すべき「敵」も、取るべき行動も見えなくては……何も……。
『……少し脱線した。話を戻そう。そしてこれが、僕の残す最後のメッセージだ』
 再び表情を引き締めたハカセがそう口を開く。
 思考していた僕の意識は、その言葉に引寄せられるように彼の眼差しに向けられる。
 彼は、次のように言い遺し始めた。
『先も言ったように、彼らの実名は……ここでは話せない。だがこれだけは言っておこうと
思う。彼らはユニテルの持つ力によってこの国を、ひいては世界を大きく自分達の都合の良
いものへと変革しようとしている。そしてはそれは、裏で強力な支援者を引き連れる事を可
能にした。間違いなく、僕一人程度の力では太刀打ちできないであろう大きな存在を……。
そんなユニテルを利用する彼らの目的……それはこの国にとって最も欠け、不足し、脅かさ
れている様々な諸問題を一挙に大逆転させること。だが……これはまだ単に僕の推測に過ぎ
ないのだが、それはあくまで表面的な目的でしかないようにも思える。僕にはもっと、何か
大きな意図がこの組織の中にあるように思えてならないんだ……』
(この国の、問題……? もっと大きな、意図……?)
『……ともかく。君が良き心を持つ事を信じて……僕の意志を君に託そうと思う。仮に僕の
力が及ばなかったその時は、我が子達の力と共に何としてでも彼らの暴走を止めて欲しい。
お願いだ。……もう一度言おう。彼らは、ユニテルを悪しき変革の為に使おうとしている。
それは何としてでも止めなければならない事だと僕は信じている。頼む。彼らの暴走を止め
てくれ。……この街を、悲劇の舞台にさせる訳には、いかないんだ……』
 ふとホログラムの映像が乱れ始めた。
 ビリビリとその姿に視覚的なノイズが混じっている。見てみると照らし出された光も徐々
に弱まろうとしているようだった。
 遺言が、終わる。
 駄目だ……。僕はまだ貴方から聞き足りていない。
 そんな言葉すらも出ずに、僕はホログラムを映し続けようとするシルヴィにぐいと近付こ
うとしていた。
『……最後に一つ』
 だがハカセは映像の中で静かに微笑んでいた。
 するとピッと人差し指を立てて、
『このメッセージを再生させる為のキーとした、ヒューマン(人間)のユニテルが持つ効果
は……“対象を人間にすること”だ』
 また真剣な表情に戻って言う。
「……? それは、一体どういう意味で──」
『それでは、君の健闘と君達全てに良き平穏が来る事を祈って……メッセージを終了する』
 僕は会話が出来ない事を忘れて、思わずホログラムの中の彼に手を伸ばしていた。
 だがそれと同時に、彼は最後にそう言い残して遂に消え失せてしまった。
 シルヴィの眼のランプから伸びていた映写の光が消える。ホログラムの像も消える。僕は
手を伸ばした格好のまま、暫しぼうっとその場に立ち尽くしていた。
「……あれ? マス、ター……?」
 するとシルヴィが僕を呼んできた。どうやら意識(?)を取り戻したらしい。
 思わずさっと手を引き、僕は輩出されてきたカードを手に取る。表面にはまだ色彩が多く
残っているようだった。中のユニテル自体は殆ど消費しなかったようだ。
「……あの、私一体……?」
「何、気にするな。解析は、終わった」
 くいっと見上げてきた彼女に、僕は思わず嘘をついてしまっていた。
 やはり先程までの事は覚えてないと見える。あの機械的な音声の状態に陥っていたのだ、
無理もないだろう。
「そう、なんですか……? でも私記憶が……」
「大丈夫だ。結果はしっかり確認した。相変わらずとんでもない難問だよ、君は」
 僕はカードを引き出しにしまってから、シルヴィを繋いでいた配線を外してやった。
「……。マスター、どうかなさったんですか」
 彼女はふよふよと浮き上がりながら、振り向いた僕をじっと見つめて訊ねてくる。
「……何がだ?」
「その。マスター、何だかさっきと様子が違うような……」
「そうかな? ちょっとばかり、僕の中で収穫があって驚いているからじゃないかな」
 嘘は、言っていない。
「そう、なんですか……?」
「あぁ。だから別に気にすることはない」
「……はい。分かりました」
 シルヴィは怪訝そうにはしていたが、幸いにもそれ以上追求はして来なくなった。
 正直に話す気にはなれなかった。
 生身の確認が取れていないと言う理由はつけられるだろう。だが、あのメッセージはどう
考えても……。
「……マスター?」
「ん。いや、何でもない……」
 頭の中がまだ混乱している。まだ整理が終わりそうにない。
 鈍くなったような感触のまま、僕は残った配線や機材を片付け始めた。
(……悪しき変革、この国に足りないもの、大きな意図、強力な支援者、ヒューマンのユニ
テルは人間になる為のユニテル……)
 ハカセの遺したメッセージの中で語られたフレーズ達が脳裏を駆け回っていく。
 彼は直球に真実を話すことはなかった。それは僕にも危険が伴うだからだという。
 だが多くの言葉は残した。つまりそれは僕にもっと考えろという事。
 そして──僕の手による難解なパズルのピースの組立てが、今の段階であながち間違って
はいなかったらしいという事……。
(…………そうなんですか? ハカセ)
 僕の中の仮説が、そっと静かに、真実という答えに重なろうとしていた。

 気付いた時には、その懐かしい場所に足を運んでいた。
 清浜の中心部から外れた住宅地の一角。そこに、大良が清浜に移り住んでからの幼少時代
を過ごした場所があった。
 始めから訪れようと思って足を運んだ訳ではない。ただ、確かな行き場を失いつつあった
思考と我が身が、半ば無意識の内にここを選んだのかもしれない。
「……」
 大良が静かに佇む場所。その前は一見して何かの施設のようだった。
 遊具が点在する庭、それらを一望できる二階建ての横長の建物。
 そっとその入口の石門の上をそっと撫でる。そこには「児童養護施設・ひだまりのいえ」
と書かれたプレートが嵌め込まれていた。
 視線の先の庭では十数名近い小さな子供達が元気に駆け回っていた。
 あの頃はとても広かった記憶があった庭も、今こうして見てみると随分と手狭に見えるよ
うな気がする。それは元々ここがさして広くなかっただけなのか、それとも自分がそれだけ
成長したからなのか。
 施設だけではない。周りの風景も随分と変わってしまったように思う。
 あの頃はまだ清浜の都市開発も始まったばかりで、中心部から外れていたこの辺りはまだ
のどかな風景の広がる場所だった。なのに今は道路も、周りに建ち並ぶビルも仰々しく威圧
感を放っているかのようだ。道端に点々と植えられた街路樹だけが、辛うじてそんな灰色め
いて変貌した雰囲気に緑の穏やかさを添えてくれている。
(……すっかり変わったな。この街も、僕も……)
 懐かしさと、変化に対する嘆息と、自分自身がそんな事を思うことへの驚きと。
 大良は暫しかつて暮らした施設の門の前で、ぼうっと立ち尽くしていた。庭からは子供達
の声が聞こえ、楽しそうに駆け回る姿が見える。
 無邪気な様子は微笑ましい。だが、同時に歯痒くもある。
 一体あの子達の中のどれだけが、この先の人生の中で己の心を干からびるように変貌させ
ていくのだろう……。どれだけの者が、この世界を憎むようになるのだろう……。
「…………大良、君?」
 そんな時だった。
 ふと横から聞こえてきた声。
 大良が振り向くと、そこには車椅子に乗った初老の女性が佇んでいた。その後ろには買物
袋を片手に提げ、車椅子を押しているもう一人の別の女性が立ち、同じく振り向いた大良の
顔を見ていた。
 一瞬、時が止まるような気がした。
 だが実物を見て大良の記憶は蘇る。時を隔てていても、忘れ難いその表情を。
「院長、先生……?」
「ふふ。やっぱり。やっぱりそうなのね」
 初老の女性は大良が呟いた言葉に、パアッとにこやかな笑顔を見せていた。
 それはまるで久しぶりに家族の顔を見た祖母のように。
 彼女こそが“ひだまりのいえ”の院長、小日向薫だった。
 大良は、静かに目を瞬かせて固まっていた。それでも小日向院長は優しく微笑んだ表情の
ままで続ける。
「本当、久しぶりねぇ。何年ぶりかしら……」
「……五年ほどに、なりますか」
「そう……。そんなになるのねぇ……」
 小日向院長はつっかえながらも答える大良の顔を見上げながら、そっと頬に手を当てて感
慨深げに呟いていた。そして「あぁ、そうだ」と思い出したように後ろを見遣る。
「そうそう。紹介しておくわね。娘の恭子よ」
「初めまして、白沢君。小日向恭子です。清大の院生さんなのよね? 貴方の事なら母から
折りに触れてはよく聞かされているわ。『私の自慢の“息子”だ』ってね」
「ふふ。も、もう。恭子ったら……」
「…………」
 そう笑いかける彼女は言われれば確かに、昔の院長の面影を映しているようだった。外見
は大良よりも一回りほど年上といった所だろうか。
 微笑みながら語る彼女に、小日向院長は苦笑と恥ずかしさを同居させていた。
 その包容力のある穏やかさは、あの頃と変わっていないように見える。
「……院長」
 だが、大良の意識はそんな母娘のやり取りには向いていなかった。
 長く溜め込んだ間を吐き出すようにして、その視線が向けられる先──院長の車椅子姿に
じっと目を凝らしてから大良はゆっくりと顔を見上げて言う。
「一体、院長に何があったんですか? どうして車椅子なんかに……」
 その質問が来る事は承知していたのだろう。小日向院長はふっと静かに穏やかな苦笑を浮
かべなながら答えた。
「えぇ。ちょっと……ね。以前、倒れちゃってねぇ。脳卒中っていう奴よ」
「……幸い命に別状はなかったのだけどね。でも脚に麻痺が残っちゃって。一応歩ける事は
歩けるのだけど、遠出までは無理だからそういう時は今みたいに車椅子を使ってるの。それ
からは私も家族と一緒にこっちに移って同居してるわ。施設の経営を手伝う為にね。元々私
も、保育士をしていたから。お母さんったら『生きている間は、施設をやめたくない』って
いうものだから……。最初は無茶はしない方がいいわよって言ってたんだけどね」
「だって……。たとえ仮初でもここは子供達の家なんだもの。実際、こうして育った場所に
戻ってきてくれる子だっているし。私個人の勝手で閉めちゃうなんてできないわよ」
「……それは一体、いつの事なんですか」
「えっと……三年くらい前かしら?」
「えぇ。そのぐらいだったわね」
 自分達の事なのに、小日向親子の様子は何処かのんびりとしたものだった。
 確かに実際倒れた時は慌てふためいたかもしれないが、年月が経つと落ち着いてしまうと
いう事なのか。それとも彼女らの穏やかさというスローペースが成せる業なのか。
 互いに当時の事を確認し合う彼女らを見遣りながら、大良が一人静かにぎゅっと拳を握り
締める。
「どうして……連絡してくれなかったんですか」
「……だって」
 それでも院長は苦笑交じりながら、微笑みの表情を崩そうとはしなかった。
 まるで我が子を慰めるように、俯き加減な顔の大良を見上げながら言う。
「あの頃はちょうど大良君も大事な時期だったでしょう? 院試……といったかしら。貴方
に迷惑を掛ける訳にはいかないと思って。まぁ結局そのまま今の今まで話そびれていたのだ
れど……。でも便りがないのは元気な証拠っていうし、こうして顔を見せに来てくれるだけ
で私は満足だもの」
「…………」
 大良は静かに眉間に皺を寄せて押し黙っていた。
 確かに自分の事で、多忙で手一杯な時期もあった事は否めない。だがせめてこの良き母代
わりの彼女の一大事を聞いていたなら、きっと自分は駆けつけようとしただろうと思う。
(僕に、迷惑を掛けたくなかった……)
 そんな彼女の言葉が、頭の中を遠のきながら反響する。
 そうか……。だから僕は電話でイッセーに──。
「……まぁとにかく。立ち話も何だから、中に入りましょうか? この後の予定は詰まって
はいないわよね? 久しぶりに色々お話を聞かせて頂戴?」
「……。はい」
 しかしそんな意識の流動も、次に彼女の放った一言で静かに奥底へと沈み始めた。
 ポンと手を合わせ、にこやかに微笑む院長。大良が静かに頷くと彼女の背後の恭子も頷い
てそっと車椅子を押し始めた。
 門を通り、施設の敷地の中に入っていく二人。庭で遊んでいた子供達がそれに気付いてわ
いわいと元気に駆け寄ってくるのが見える。
(…………僕は変わらないんだな。いや、変われていないのか……)
 そんな彼女達の後を追うようにして。
 大良はやや遅れてから、ゆっくりとかつて育った場所へと足を踏み出していく。

(……はぁ。暇だな……)
 その日も、田村はいつものように張りぼてな仮住まいの前で胡坐を掻いて座り込みながら
ぼうっと周りの景色を眺めていた。
 土混じりの灰色の地面に日差しが注ぎ、じわじわと生暖かい。だが頭上の橋が陰になって
いるのと、足元に敷いたダンボールがそれらを幾分か和らげてくれている。
 視線の先には、自分と同じように張りぼての仮住まいで暮らす人々が点々としていた。
 この橋の下辺りはいつしか自分達のようなホームレスが住み着く場所になっている。一般
の人々が暮らす橋の上、路地からは数段も下がった位置にあり、橋などの構造物がそこから
見下ろした場合の死角になっているケースが少なくないからだ。加えて場所が街の中である
為、街外れに仮住まいを構えるよりも何かと利便性が良いのである。
 だが、田村にとってはそれでもこの場所が必ずしも居心地が良い訳ではなかった。
 この場所には、清浜で行き場を失った者の一部が仮初の居を構えている。一見すればここ
にも共同体のようなものは作られるのであろう。
 しかし田村は、未だにその中に馴染めないでいた。
 元々周りと上手くいかず、結果今のような状況に陥った彼にとって、たとえ場所や境遇が
変わってもそれは当然といえば当然の成り行きだった。それにここはただの集団ではない。
より心身を蝕まれた者達が多くいるのである。こういった場所は、田村だけではなく、お互
いに支えあう事自体が不得手な者達がより濃密に集まっている空間でもあるのだ。
「……」
 おもむろに、ゆっくりと視線を上げてみる。
 地面から延びる、凸凹としたくすんだ灰色の壁の上には更にフェンスやガードレールが連
なっている。その奥には路地が、一般の住宅地や清浜の表の街並みが続いてる。
 こうしてぼんやりと物思いに耽る度に田村は思う。
 心理的に、物理的に。街というものは何処かで人同士を隔てているのではないのかと。
 いつか自分はあの場所へと舞い戻れるだろうか。そしてその為の“努力”は自分には足り
ていないのだろうか。
 田村は静かに、何度目とも知れぬため息をつく。
(……ん?)
 ちょうど、そんな時だった。
 橋の下から誰かが近づいて来る気配がした。田村は視線をそちらに向け、黙して何者かと
じっと目を凝らしてみる。
「…………」
 やがて陰の中から現れたのは、一人の青年だった。
 眼鏡の奥の怜悧な瞳。地味だが小奇麗な服装。少なくとも自分達のようなホームレス(同
類)ではない事は間違いないだろう。
 青年は静かに田村の前まで歩いてきて、目の前で立ち止まった。
 田村は座り込んだまま、ゆっくりとその姿を見上げて言う。
「何だお前? ここは兄ちゃんみたいなのが来る所じゃないぜ」
 だが青年は黙っていた。
 数秒、互いに見つめあう格好だった。だがややあって、青年はちらりと周囲の他の人間が
こちらに気付いていない事を確認すると、
「……貴方に、頼みたい仕事があります」
 感情を抑えたかの様子でそう口を開いてくる。
「……仕事だ?」
 田村は思わず眉根を上げていた。
 ハローワークの回し者か? いや役人連中がわざわざこんな事をしてくるとは思えない。
 そもそもこいつは何者なんだ。年格好は自分より一回りほど年下といった所だが……。
「勿論、受けてくれるのなら報酬はお支払いします」
 呟いただけで黙してた田村を見下ろしたまま、青年は更にそう言った。
 ポケットから財布を取り出し、田村の前に現金をかざしてみせる。
 その額、一万円札が五枚──。
「む……」
 正直言って、心は揺らいだ。
 この身分にとってはこの額は大金だ。節約しながらいけばそこそこの間、食い繋げる額で
はあるだろう。だがそれでも怪しさを拭い去る事はなかった。札を見せられた瞬間こそ表情
を変えてしまったが、田村は相手の出方を窺うように慎重に言葉を紡ぐ。
「……悪いがよ。いきなり見も知らない人間の金に踊らされるほど俺も堕ちたくはねぇ」
「……面子、ですか」
「悪いか? こんなになってたって、俺らは人間だ……」
 じりじりと、やや険しい視線が交わされていた。
「……何を考えてるか知らねぇが、さっさと帰りな。こんな所に来るんじゃねえよ」
 田村は目に力を込めて、敢えて柄の悪い様子を見せながらこの青年を追い返そうとした。
 だが青年は動じるような様子は一切見せなかった。相変わらず眼鏡の奥の瞳は怖いくらい
に淡々としていて、逆に睨み返す田村の心の中をざわつかせ始める。
「……貴方は」
 青年は、ぽつりと言った。
「この街が、憎いと思った事はありませんか?」
「……」
 その言葉に、田村は深く眉間に皺を寄せていた。
 ないと言えば嘘にはなる。今の自分の状況があるのは、自分の才覚と努力が足りなかった
からだ。そう自分に言い聞かせてみても、やはり心の何処かには周囲に対する漠然とした不
満は感じている。誰か特定の人間にという訳ではない。
 そういう意味では確かにこの街自体への不信とも言えなくもないのかもしれない。
「今回貴方に頼もうとしている仕事は、今の清浜の歪みを糺す為の一環でもあります。是非
協力しては貰えませんか? 草の根の運動である事に、意味があるのです」
 青年の声色はあくまで淡々としたものだった。
 この街の歪みを……糺す?
 印象としては惹かれるような不思議さと燻る怪訝が半々といった所だった。目的が何なの
かは分からない。だが自分のような人間を敢えて選ぶのには、何か理由があるのだろう。
「……一体、何をやらせようってんだ?」
 このままでは埒があかない。田村は警戒を解かないままそう訊ねていた。
 青年はコクリと小さく頷くと、答える。
「簡単な事です。こちらの指示通りにとある文面をウェブ上に書き込む、それだけです」
「書き、込む……?」
 いわゆる情報戦という奴なのか。田村は口元に手を当てて考え込んだ。
「場所も貴方の身元が割れないような所を選んでおきました。貴方が関わったとは、そう簡
単には分からない筈です」
 という事はバレてはマズイ仕事という訳か。だから……自分のような人間が選ばれた。
「……そう言われても信用ならんな」
 それ故に田村は改めて拒否しようとそう言った。だがしかし。
「そうですか……。仕方ありません、では他の方に頼むとします。報酬の方も上積みして。
一人ぐらいなら引き受けてくれる方もいるでしょう……」
「な……っ!?」
 するとあくまで淡々とそう呟きながら、青年は田村の前を通り過ぎようとした。
 田村は、慌てた。普段から付き合いが深い訳ではないが、自分が断わった事で他の連中に
得体の知れない仕事をやらせることになってしまうのは後味が悪い。
「ま、待てよ」
 田村は思わず青年を呼び止めていた。その声に背を向けたまま足を止める青年。
 田村はぎりっと唇を噛み締めて、腹を括った。
「分かったよ……やればいいんだろ、やれば。俺が引き受けてやるよ」
「……そうですか。助かります」
 田村が搾るように口にした、その承諾の一言。
 その言葉を合図にするかのように、青年はそっと眼鏡のブリッジを触りながら、静かに振
り返ってきた。そして改めて田村に近寄ってくるとしまい直していた財布から再び五枚の札
を取り出してみせる。
 だがその絵柄を見遣ると、田村は目を細めて言っていた。
「ん……? おい。五千円になってるぞ」
「経費です。報酬は後払いという事で。余ればこちらも懐に収めて貰って構いません」
「……そうかよ」
 持ち逃げされては困るという事か。警戒しているのはお互い様という事らしい。
 そう内心で嘆息をつきながらも、田村はもそもそと何やら更に何かを取り出そうとしてい
た青年の様子を見遣る。
「それと……。これが今回の指示を纏めたメモです。内容を果たした後は、燃やすなどして
確実に処分して下さい」
「……分かった」
 札を持った手にメモを挟むと、青年はそっとその手を差し出してきた。
 田村は少し躊躇する間を持ったが、それでも小さく頷くとそれらを受け取る。
「あともう一つ。念を押しておきますが、この件については他言無用でお願いします」
「……あぁ。分かってる」
 漏らしちまったら、俺が引き受けた意味がなくなるしな……。
 田村は注意事項を述べてくる青年に相槌を打ち、費用の五千円をポケットにねじ込むと、
折り畳まれたメモを開いて内容を確認しながら訊ねる。
「それで? こいつの期限みたいなものはあるのか?」
「……そうですね。できるだけすぐに実行に移してくれればこちらも好都合ですが」
「そうかよ。それじゃあ……」
 淡々とした返答を受け、田村はのそりと立ち上がった。
 青年が歩き出すその姿を見送ろうとする。田村はちらりと肩越しに振り向いて言う。
「さくっと今から行ってくるわ。どうせ俺は、四六時中暇してるしな」

 指示された場所は、街の中にある小さなネットカフェだった。
 青年が言っていた言葉通り、そこは本人確認も緩く、確かに誰が利用したかというのも分
かり難い状態になっているようだった。田村は受付で代金を払うと、分厚いボードで仕切ら
れたスペースの一つに入った。そして指示通りのサイトに、メモに書かれていた文面を書き
込み一応の仕事を果たす。
 だが田村は元を取ろうと、利用時間ギリギリまで店内で時間を潰す事にした。
 久しぶりの建物の中、涼み本を読んだりネットを巡回したり、暫しの脱ノールーム状態を
味わう。何よりも店内にシャワーが併設されていたのが嬉しかった。料金は余計にかかった
ものの、田村はホームレス生活で溜まった垢を存分に落とす事ができた。
「──ふぅ……。すっきりしたぁ」
 そうして利用時間ギリギリまで過ごした田村は、心持ちスッキリした心身で店を出た。
 シャワーがあるなら替えの服をもって来ればよかったか。まぁいい帰ってからでいいや。
 田村はざわつく喧騒と人混みの中を歩いていく。
(……それにしても。あの文面はなんだったんだろうなぁ)
 歩きながら、田村は思う。
 メモに書かれていた文面は彼にとって意味の分からぬ内容だった。
 化け物を見たとか。変なカードを拾ったとか。これが清浜の歪みを糺す一環……? あの
青年の考えている事はやはり理解に苦しむ。
 しかし、清浜の化け物。何だか何処かで聞いた事があるような……。
(……まぁ、考えても仕方ねぇか)
 だが田村は敢えて深く考えない事にした。
 頼まれた仕事はこなした。興味本位でこれ以上関わってもいい事になりはしないだろう。
後はあいつから報酬を貰えばさよならだ。
 田村はポケットに手を突っ込んだまま、のんびりと仮住まいのある方へと帰ろうとする。
「……」
(ん……?)
 ちょうどそんな時だった。
 ふと、通り過ぎようとした路地の奥に一度見かけた姿が目に映ったのである。
 数歩進みかけて、立ち止まる。目を遣ってみれば……間違いない、あの青年だった。
 田村はちらと周りの人混みを気にしながらも、悟られぬように静かに青年が立ってこちら
を見ている路地の中へと足を踏み入れていく。
「よう、来てたのか。まぁあそこを指定したのは兄ちゃんだしな……」
 路地の中は薄暗かった。高架下の暗がりとでもいうべきか。
 田村は片手を小さく上げつつ、押し黙っている青年へと歩み寄る。
「……ちゃんと書き込みは済ませましたね?」
「あぁ。ちゃーんとあんたの指示通りにやっておいたよ。内容はさっぱりだったけどな」
 皮肉交じりに田村は笑う。だが青年は眉根一つ動かさない。
 多分無駄だろうな。そう思いこそはしたが、田村は訊ねていた。
「なぁ、あの文面は何なんだ? カードだの化け物だの……俺に電波キャラでもやらせたか
ったのかよ」
「……」
「だんまり、か。まぁ予想はついてたけど」
 ならいいや。予想通りの反応に田村はむしろ安堵さえ感じた。
 すると青年はいつの間にか取り出していた携帯電話に落とした視線を上げると、携帯をし
まい、代わりに財布を取り出して言う。
「……報酬をお渡しします。メモはまだ持っていますか? ならばこちらで処分しますので
それと交換です」
「ん。了解」
 田村はポケットにねじ込んでいたメモを差し出し、青年から今度こそ五枚の一万円札を受
け取る。それらを念の為に数え直してから、田村は中身がすっからかんな財布の中にそっと
収めた。そしてメモをポケットにしまう青年を一度見遣ってから、
「……じゃ、これで俺の仕事は終わりだな。一応礼を言っておくぜ。ありがとよ」
 さっと踵を返そうとする。
「……その必要はありませんよ」
『Memory(記憶)』
 だがしかし。
 田村の背後で青年が重く呟いていた。
 そして何かを開くカチリという微かな音の直後に聞こえてきた、奇妙な無機質の音声。
(? なん──)
 そんな聞き慣れない物音に田村が何となしに振り向いた時には、もう遅かった。
 ガチャリと。振り向いたと同時、いつの間にか至近距離に歩み寄っていた青年が額に何か
冷たいものを押し付けてきたのが分かる。
「……ッ!?」
 そして青年の握るそれが銀色の銃だと分かった瞬間、田村の背中に戦慄が走った。
(ま、まさか……。口封じにこ、殺され──)
 刹那、脳裏に巡る恐怖のイメージ。
 だが田村はそんな僅かな思考の暇すら与えられなかった。
 路地裏に、鈍い音が漏れ、四散する。
 田村の身体が衝撃でゆらりと後方へと倒れようとする。
 しかしその身体は、他ならぬ青年の伸ばした手によって抱き支えられていた。
 一瞬間だけ遠のいていたかに思えた表からの雑音がザァッと戻ってくる。若干のノイズが
混じった歩行者用信号のメロディ。ざわざわと無数の音を鳴らす人の波。青年はゆっくりと
片腕で支えた田村の身体を、そっと近くの壁際にもたれ掛けて座らせた。
「……」
 路地裏の薄闇を、シアン色の輝きが漂うに舞っていた。
 振っては溶けて消えゆく粉雪のように、その光の粒子達は徐々に消えうせやがて路地裏に
は再び満足に届かない薄闇が静かに戻ってくる。
 ぐったりと頭を垂れて気絶してしまった田村を見下ろしながら、
「もう貴方が僕と会う事も、僕を思い出す事も……ない筈ですから」
 青年は、彼にはもう聞こえない言葉を紡ぐ。
 言って、青年はそっと踵を返して歩き出した。路地裏には、立ち去っていく彼の僅かな足
音だけが響いては消えていく。
 その片手には、銀色の銃器を携えたまま。
 そこから事を終えたと言わんばかりに、シアン色と、濃淡・白黒のグラデーションのつい
た肌色の、二枚のカードを吐き出して。

「…………」
 ひだまりのいえを後にしたのち、大良は独り静かに海を眺めていた。
 清浜の海辺を一望できる海浜公園の中にある高台。大良はそのこじんまりとした広場に設
置されているベンチに座り、ぼんやりと遠くまで広がる海とその地平線を眺めていた。
『ふざけんなっ!!』
『一緒に清浜を守ろうって言ったじゃねぇか。それを今更お前に丸投げして平気でいられる
わけねぇだろうが……』
『いいか? お前が何を言おうが俺は今まで通り立ち向かうぞ。俺達が奴らから清浜の皆を
守るんだ。もう二度とそんな事言うんじゃねぇぞ? 分かったな!?』
 電話の向こうで昂っていた、友の言葉がずっと頭の中で何度も反響している。
 説得は、上手くいなかった。
 もう一度話をするべきか。だが今度は彼もただ憤るだけで終わらせはしないだろう。その
時自分は、何と言って彼を納得させればいいのか。何と言って、彼を大き過ぎる敵から避け
させればいいのだろうか。
(……悪しき変革、この国に足りないもの、大きな意図、強力な支援者、ヒューマンのユニ
テルは人間になる為のユニテル……)
 もう一つ、それより前より大良の中でずっと反復されていたのは、ホログラムの中でハカ
セが語っていた断片的な情報の数々。
 それからというもの、大良はずっと考えていた。
 彼が何を伝えたかったのか、何がこの街で起きているのか。
 これまでの事件の資料を何度も読み返し、何度も思考を再検討した。不明瞭な事柄は一度
白紙に戻して考え直し、確実性を得たものはその配置を考えつつ温存する。
 そして……大良はある可能性に辿り着いていた。
 敵の目的。それは、ユニテルによるこの国の基盤強化ではないかと。
 ユニテルは技術と設備さえあれば、ほぼ無尽蔵に利用できるエネルギーだ。それを応用す
る事ができれば、資源の乏しいこの国のエネルギー供給を自前で行う事ができる。他にも、
食物に関わるユニテルを使えば食糧の完全自給も可能になるだろう。それは今まで富の原料
を外国に頼り切っていたこの国のシステムを立て直せる好機ではないのか。
 だが、ハカセは奴らの目的を「悪しき変革」と呼んでいた。
 そこで大良は、それまで考えもしなかった可能性を読み取っていた。読み取ってしまって
いたのだった。
(……ユニテルの技術が、この国だけで発見され、秘匿・独占される状況になれば……)
 それはまさに大変革という言葉に相応しい。
 資源の輸入国が、逆に輸出国になるのだ。ユニテルを囲い込み、独占的な利用を行う事が
できればそれは経済の立て直しにも繋がるであろう。
 だが、ハカセの焦りや憂慮を目の当たりにした大良にとっては、ユニテルによってそんな
ある種の明るい展望だけが起こるとは、到底思えなかった。そもそもある種科学技術に関わ
る人間としても、テクノロジーが誰かに囲い込まれる事には正直賛成はできなかった。
(……それにもう一つ、この国が持たないものがある)
 それは、軍事力だ。雁字搦めのまま屁理屈で運用するものではない、自立した武力。
 自分達はもう何度も出会っている。ユニテルが生んだドールという怪物を。
 あれがもし軍事的アプローチに使われたとしたら……おそらく他国の如何なる人間の兵士
をも凌駕するだろう。
『ヒューマン(人間)のユニテルが持つ効果は……“対象を人間にすること”だ』
 更にドール達が清浜を暗躍して人々から採取していたユニテル──ヒューマン・ユニテル
の存在とその効能。
 もし、その目的が軍事利用の一環だったとしたら。
 もしかして奴らはドールを人間の姿に変える為の研究を重ねているのかもしれない。
 あの怪物を人間にしてしまえば、自由自在にその外見を変える事が可能となれば……戦場
で正面切って戦うような兵士だけでなく、一般人や相手の味方に化けた状態でピンポイント
に標的に接近し、確実に仕留めるいわば「生きた爆弾」のような使い方もできる。
 仮にそこまで研究が進んでしまえば……この国は確実に軍事的な大国になるだろう。ひい
ては、エネルギーなどと併せ自分達の思い通りに世界の勢力図を劇的に塗り替える事すらも
可能になる筈だ。
(……そんな可能性を、強力にバックアップする存在……)
 ここまで来れば、もうパズルのピースはほぼ完成に近い状態になっていた。
 大良でさえ、それに気付いてしまった時は思わずその不気味さに悪寒や怒りすら覚えた。
 ハカセの言っていた強力な支援者──それは他ならぬ、この国そのもの、政府なのだ。
 どれだけの繋がりがあるかまでは分からないが、少なくとも相応の権力と組織は繋がって
いる。この街の人間を犠牲にしながら、密かにユニテルの研究を進めているのだとしたら。
 今までのあらゆる情報が、一本の太い糸で繋がる。
 ドールの情報が人々に伝わらない事も、穂波君の件でこの街の権力機構が急に口を閉ざし
た事も。全てはそれらを上回るこの国自体という大きな権力の介入が少なからずあったから
ではないのか。
 いや……。
 そもそもこの街の今の姿は、かつて国の主導で作られたものだ。
 つまり……清浜は、始めからこのユニテルを巡る一連の陰謀の為に利用される前提であっ
たのだという事になりはしないだろうか?
 実際、この街には多数の研究機関が置かれているのだから。
 ──故に、大良は一つの賭けに出てみる事にした。
 本当にこの街が、この国という巨大な権力によって踊らされているのか。
 大良は街のホームレスを仲介者にして、囮の情報を流してみたのだ。
 ドールの目撃情報や、ユニテル・カードらしきものを見つけたという書き込みを。
 だが……敵からのレスポンスは、大良の予測を大きく上回り過ぎていた。囮の書き込みか
ら一週間もしない内に、そのホームレスが殺されたのである。
 しかもその本人だけではない。彼が住んでいた橋の下に居を構える他のホームレス達もま
とめて殺されていたのである。その情報を掴んだ大良は、大慌てで現場に駆けつけた。
 惨殺だった。
 既に警察も到着し、事後処理も始まっていたが、辺りに漂う血の臭いは隠しようがない。
 点々と被せられていたブルーシートの下はおそらく血痕。シートの大きさからしてもその
犯行の凄惨さは容易に想像できた。
 それは念を入れた口封じか、はたまた自分に対する血の警告か。
 おそらくは両方だろう。少なくとも敵は自分達の邪魔者と判断した人間を短い期間で探し
出し、確実に始末したのだ。依頼の後も、定期的に大良がそのホームレスの動向を密かに監
視していたのにも拘わらず。
 幸か不幸か、自分の正体まではバレてはいないようだった。現に自分は生きている。
 いや……もしかしたら既に自分もバレている可能性はある。にも拘わらず、敢えて敵は仲
介者であるあのホームレス男性を、その居住地を共にする他のホームレス達を皆殺しにする
事で見せ付けようとしたのかもしれない。
『──我らの邪魔をするのなら、貴様の関わる者も全て抹殺する』
 そんな脅し文句を匂わせて。
 だとすれば、自分はその圧力に屈した事になるのだろうか。
 説得には失敗こそしたが、敵からのそのレスポンスの後に、自分はそれまで共に戦ってき
た友を何とか戦線から離脱させようとしたからだ。
 だが、仮に今までの思考を正直に全て打ち明けた所で彼はどう答えるだろう。
 きっと、今まで以上に立ち向かって行こうとするだろう。彼は……そういう人間だ。
(…………すまない。イッセー……)
 暫く頭を冷やしてくれれば、もしかしたら聞き入れてくれるだろうか。
 そんな淡い期待を落としそうになりつつも抱きながら、大良は独り大きなため息をつく。
 可能性は、低そうだった。
 そうなのだ。出会った頃から彼は、どうにもお節介で無駄に熱くて……失う事の痛みを分
かっちゃいない。大人になって多少は落ち着いたかもしれないが、それでも根っ子は変わら
ないのではないかと思う。彼も、自分も。
「……」
 遠く地平線に陽が沈もうとしている。
 海は徐々に茜色に染まろうとしていた。潮風が夕陽の光を帯びて若干生温い。大良はそん
な少しずつ変化する、陰謀にも囚われぬ自然の移り変わりにぼうっと目を向けていた。
 ぽつんと、海の中に島が見える。
 潮城島──そこは大良が生まれ育ち、そして多くを失った場所。
 そして、今は開発事業の目玉の一つ「次世代エネルギー研究所」の所在地となっている。
 大良は敵の正体の思考の中でほぼ確信に近い状態で予想していた。
(敵は……あそこにいる)
 本土からも適度に離れ、外部から踏み入れる事も制限された離島。その施設自体も国が強
く関わったものの一つである。
 次世代のエネルギーを研究する学術施設──敵が本拠地として、隠れ蓑として利用するに
はもってこいの環境の筈だ。
(…………始めから、僕は奴らと対峙する運命、だったのだろうか……?)
 敵が目をつけた土地に生まれ、開発計画の混乱期に親を失い追い出された自分。
 そしておよそ半年前、自分は友と共に奴らと密かに対峙する力を得た。
 彼がアタッシュケースを開けてしまったあの時に言った、運命という言葉。
 自分はあまりそういうものを信じている方ではないが、今なら何故かそれもそうかもしれ
ないと思える。それは諦めに似た感傷なのか。はたまた対決するという意志の表れなのか。
 大良は静かに頭を横に振った。あまりそこは深く考えられない。考えたくなかった。
 敵の姿は、見えてきた筈だ。
 なのに……こんなにも頭の中が、心がざわつくのは何故なのだろう。戦う事への迷いなの
だろうか。その強大さに対する恐怖なのだろうか。
 はっきりとしない。大良にとって、それは不快で不安な心理状態だった。
(……僕は、どうすればいいんだ……)
 苦渋の表情を浮かべ、消化し切れぬ混濁した想いを密かに抱えたままで。
 大良はその日、とっぷりと陽が落ちて真っ暗になるまで、その場から動けなかった。


 そして、潮風祭の当日がやってきた。
 普段は夜闇の暗がりと静けさの中に黙々と潮風や波の音を運ぶだけの海浜公園も、この夜
だけはいつもと違う空気を宿している。長く延びる遊歩道の両翼に軒を連ねる多数の屋台。
その中を行き交う人々のやり取り。そして彼ら全てを照らすオレンジ色掛かった照明の光。
 公園内は祭り特有の活気を発していた。季節の暑さを掃う、夏の風物詩という名の清涼感
が人々の表情を自然と綻ばせている。
「お~……結構混んでますねぇ」
「ま、祭りだからな」
 一聖は奈々子と共にそんな祭りの会場にやって来ていた。
 首から提げたカメラを手に、行き交う祭り客を見渡している彼女の横で、一聖は片手をポ
ケットに突っ込んだまま活気と納涼の狭間を眺めている。
「う~ん……。何処から回ろうかなぁ」
「分かってると思うが……今日は遊びに来たんじゃないぞ?」
「はは。やだなぁもう。分かってますよ~」
「……子供みたいに目を輝かせながら言われても説得力ねぇっつーの」
 奈々子は純粋に祭りというハレの日に胸を躍らせているようだった。
 一聖は呆れ顔を浮かべながらも、そんな素直な心持ちの彼女が少し羨ましくもあった。
 自分だって、子供の頃はこういうイベントになると仲間達と一緒に盛り上がったものだ。
だが時が過ぎ大人になっていく毎に、そうした新鮮味を感じなくなっているのもまた事実で
はある。それは自身が成長したという証なのか。それとも実際に清浜が「街」へと変わり、
昔のような、人々同士を結び付ける慣習が薄れてきているからなのか。
「……あら? 一聖じゃない」
 そんな時、ふと背後から聞き覚えのある声がした。
 振り返ってみると、そこには小さな男の子の手を引いた女性の姿があった。
「おぅ、そっちも。楽しんでるか?」
「さっき来たばかりよ。そっちこそ、この前は仕事だって言ってたじゃない」
「あぁ、仕事だよ。祭りの様子をコラムにするんだ」
 歩み寄ってきた女性と親しげに話し始める一聖。
「……? あの、先輩……お知り合い、ですか?」
 その様子に、後ろに立っていた奈々子が置いていかれたように目を瞬かせながら訊ねた。
「あぁ、お前とは初対面だっけ? 姉貴だよ。俺の」
「えっ? 先輩の、お姉さん……?」
 振り向きながら何の気なしに答える一聖に、奈々子は再度微笑を湛える女性──和美の顔
を見遣った。一聖の台詞を合図にして、和美は一歩彼女の前へと歩み出る。
「どうも初めまして。一聖の姉の和美です。貴女は一聖の……同僚の方、かしら?」
「は、はい。先輩の後輩で乾奈々子といいます。せ、先輩にはいつもお世話になってます」
「あらあら……そうですか。こちらこそ弟がお世話になっています」
 女性二人は往来の中で互いにお辞儀をし合っていた。若干慌てて頭を下げる奈々子と、余
裕な様子で微笑み掛ける和美。一聖は両腕を組んだ状態で、暫しそのやり取りを見守る。
「ナナはうちのカメラマンをやってるんだ。頭の方はアレだが、腕前の方は確かだぜ」
「アレとは何ですか、アレとは! ぁ……、でもカメラの腕は褒め……」
「……? まぁ、ついでだから撮って欲しけりゃ言ってくれ。一枚二枚くらいなら別に構わ
ねぇからよ。義兄さんは来てないけど、こういう時の家族写真としてさ」
 ぽつりと付け加えた一聖に、奈々子はバッと噛み付き始めたがすぐに何事かぶつぶつと呟
いて俯き加減になってしまう。
 言われて和美は少し考えるような素振りをしてから、
「そうね……。じゃあお願いしようかしら。ね、翔太?」
「……」
 先程からずっと手を繋いでいた男の子を見遣り、優しい声色で訊ねてみる。
 男の子──和美の息子・翔太は若干母の陰に隠れる形で立っていた。和美に問われてその
顔を見上げてから、そっと一聖、その横で我に返った奈々子へと視線を移す。
「……おねえちゃんが、とるの?」
「そうだよー。あ、ぼくのお名前は何ていうのかな?」
「…………あいざわ、しょうた(相澤翔太)」
「そっかー翔太君かー。カッコイイ名前だねー?」
 翔太はあまり表情の豊かな子供という方ではないようだった。だがその内面からは独特の
感性とペースを窺わせる。奈々子はそんな小さな少年の前に屈み込むと、あどけないその姿
にすっかり頬を緩めてニッコリと満面の笑みを返していた。
「……いい娘ね。乾さん」
「ん? まぁ根っ子は善人の部類だろうなぁ。ちょい天然だけど」
 そんな様子を、和美と一聖の姉弟は微笑ましく、遠巻きに眺めていた。
 少し逡巡してから手を離れていった息子の前に屈み込んで話し掛けている奈々子の笑顔を
見つめながら、和美は何処か機嫌よさげに言う。一聖は彼女の言葉に、ポリポリと髪を掻き
ながらそう素っ気なさげに返す。
「それで? あの子とは上手くいってるの?」
「あ? まぁ普段通り俺が記事書いて、あいつが写真撮って……」
「そうじゃなくって。ガールフレンドとしてって意味よ」
「……姉貴の目は節穴か? そんなんじゃねぇよ。さっきも言ってたろ? 同僚だって」
 あぁ、機嫌が良くなったように見えたのはそういう事か。
 一聖はやれやれと、大袈裟にため息をつきながら否定していた。
「あら、そうかしら? 私にはそうは思えないけどねぇ……? ああいう子なら私は歓迎す
るわよ? 元気で素直そうでいいじゃない」
「あのなぁ……何でもかんでもそういう方向に持っていこうとするなって。ナナはそんなん
じゃねぇし、俺はまだ所帯持つ気なんてねぇっつーの……」
「ふふ。どうかしらねぇ? 結婚は意志よりも縁だと思うけど」
 しかし和美は変わらず笑っていた。いやむしろほくそ笑むとでもいうべきか。
 一聖はそんなお節介な姉の言葉を鬱陶しく感じながらも、一方では奈々子が嫌われなくて
良かったのかなとも思った。別に、どう思われようが関係ないのではあるが……。
「……カメラ」
「そうだよ。お姉ちゃんはカメラマンなんだー。翔太君はこういうのに興味あるの?」
「……うん」
 翔太は奈々子が提げている一眼レフに興味を持ったようだった。
 あまり感情が出ない顔はそのままだったが、じっと視線を移して奈々子に差し出された本
体部分をそろそろと撫で回してはパチパチと目を瞬かせている。どうやら、あの二人の相性
もさほど悪いものではないらしい。
(……相性、か)
 一聖は、そんな二人を眺めながらふと数日前の事を想っていた。
 突如大良から掛かってきた電話。その一方的な宣告に感情的になってしまった後悔や彼の
行動への疑問。その後二度、三度と訪ねてはみたが何れも会えずじまいに終わっていた。
(結局あれから連絡も取れねぇし、定期の巡回(パトロール)にも顔出して来ねぇし……)
 自分が案件を引き取ると言っていたのだから、その定期の巡回自体は、彼単独で行ってい
る可能性もあるが……。
 それでも、一聖はどうにもスッキリしない気分が纏わりついているような気がしてならな
かった。あいつは何かを隠してる。でもそれが何かははっきりとしない。もどかしさのよう
なものなのだろう。
 もっと突っ込んでコンタクトしようとしてみるべきか。それとも、拒否しているかのよう
な彼を今だけでも刺激せずに暫く時間を置いた方がいいのか。
 一聖は、今も迷っていた。
「先輩~!」
 すると聞こえてきた奈々子の声。
 我に返り顔を向けてみると、いつの間にか奈々子は和美と翔太を立たせてカメラを構えよ
うとしていた。流れていく人々を背景にして、こちらへ手招きをしてきている。
「何ぼうっとしてるんですか~? 撮りますよ?」
「……あ、あぁ」
 若干小走りで、一聖は和美と翔太の傍に駆け寄った。
 真ん中が翔太。左に和美。右に一聖。実母と叔父の二人にそっと手を繋がれて、翔太は心
なしか緊張が緩んだようにも見えた。奈々子が少し離れた位置に陣取り、そんな三人にカメ
ラを向ける。
「じゃあ撮りますよ~。はいっ、チーズ」
 一瞬だけフラッシュが光り三人の姿はカメラの中に収められた。
 奈々子はプロらしい手馴れた様子で数枚、アングルを変えつつ撮影を済ませるとカメラを
そっと撫でながら三人の下へと歩み寄ってきた。
「うん。バッチリですね~。現像できたらお姉さんにもお渡しします。先輩、その時はお届
けの方、宜しくお願いします」
「あぁ……。分かった」
 奈々子はすっかり相澤母子と打ち解けたようだった。
 つい数刻前に知り合ったばかりなのに、和美と翔太、二人と随分と親しげに話している。
彼女の人好きする人柄も手伝っているのだろう。一聖はそんな様子にふっと小さく口元に微
笑を作ると、細かい砂利が敷き詰められた道を踏み出し始めた。
「……じゃ、そろそろ行こうか。姉貴達も来るか?」
「いいの? 仕事だって言っていたじゃない」
「別に構わねぇよ。今夜は撮影メインだから俺はおまけみたいなもんだし、ばったり会った
ついでだ。子守の一人や二人、増えたっていいさ」
「増え……っ? そ、それってもしかして私も含まれてるんですか……?」
「当たり前だろ」
「むぅぅ。私は子供じゃないですよ~!」
 むくれる奈々子の声を聞きながら、一聖は一歩先へと歩み出していた。そんな二人の後を
翔太の手を引いた和美が優しく微笑みながらついてくる。
 そうさ……。俺まで悩んでどうするんだよ。
 一聖は歩き出しながらそう思考を切り替えようとしていた。
 きっとあいつは、何か理由があって俺をユニテルの件から遠ざけようとしている。だった
らその事で俺が悩んじまったら……益々あいつを苦しめちまう。
 だからせめて今だけは。祭りという娯楽のある今夜だけは。
 気分を解して休めておこう。またもう一度、あいつに直接会いに行く、その前に。
(……全部一人で抱え込んでんじゃねぇぞ。タイラ……)
 今あいつは何処にいるのだろうか。そんな事も思いながらも、灯りが照らす祭りの会場の
雑踏の中で、一聖はゆっくりと目の前の道を進んでいく。

 祭りの人の入りは例年に比べても盛況だった。
 食欲を誘う種々の食べ物系の屋台。昔懐かしいものから現代風までが混在する遊戯系の屋
台。祭りという人出にあやかろうとコアな商品を陳列する玩具系の屋台。細かな砂利道の両
翼に、普段は人々が寛ぐ芝生の上に、それらの屋台は軒を連ね、行き交う人々が時折そこで
立ち止まる人々となり、共に夏祭りという一つの風景を形成している。
「それでね、それでね……」
「あははっ! ウケる~っ!」
 早苗もまた、友人達と共にそんな祭りの中の人混みの一人として訪れていた。
 思い思いの浴衣姿。それでも語らう姿は女学生そのもので。
 彼女達よりは少し控えめな位置取りを保ちつつ、早苗はもの静かに祭りの雰囲気を楽しん
でいた。
 田舎町から都市へ。清浜は歳月と共に変貌したが、それでもこうしたかつての空気を残す
催しに触れられるのは、根っからの清浜っ子である自分には喜ばしい気持ちがする。
「雪村さん」
 そうして屋台の立ち並ぶ道を進んでいると、ふと自分を呼ぶ声がした。
「……? あ、花岡君。それに神月君も……」
 その声に振り向いてみると、屋台の一角に見知った顔・ゼミの仲間である花岡と神月の姿
があった。そこは焼きそばの屋台だった。中では神月がヘラを手にしており、花岡は屋台の
前に陣取ってこちらへ小さく手招きをしてきている。
 早苗は二人に近寄っていった。後をついてきた友人達にも簡単に二人の紹介を済ませる。
「やぁ。浴衣、似合ってるよ」
「う、うん……ありがとう。あの、どうしてこんな所に……?」
「見て分からねぇか? バイトだよバイト」
「僕は違うけどね。敏也の様子を見に来て、そのまま呼び子みたいな事をやってるんだ」
「そ、そうなんだ……」
 早苗は心持ち苦笑しながら呟いていた。
 鉄板から上がる煙に混ざって香ばしい美味しそうな残り香が鼻をくすぐってくる。
「ま、折角だ。良かったら食ってけよ」
「ゼミ仲間のよしみで普通よりも安くしておくよ?」
「えっ。いいの?」
「お、おい待てよ。勝手に値引きは……。おやっさんが席外してる間にはよぉ……」
「いいじゃない。何なら差額分が僕が穴埋めしておいてあげるからさ?」
「……ならいいけど」
 作る本人が一時値引きに渋ったが、にこにこと言う花岡の一言で話がついたようだった。
 早苗は振り返って友人達に確認を取ると、早速その厚意に甘える事にした。
「よっしゃ、三人分だな。ちょいと待ってな」
 こういう手の仕事の場数が多いのだろうか。神月は慣れた手つきで手早く熱した鉄板の上
に麺や具材を放り込むと金属のヘラで炒め始める。
 煙の量が増し、食欲をそそる匂いも強くなってきた。そんなちょっと普段よりも漢らしい
雰囲気の彼に、友人達は何やら話し掛けて楽しそうにしている。
 そんな様子を、早苗は少し離れた位置で眺めていると。
「……白沢君とは、一緒じゃないんだ?」
「ふぇっ!? え……?」
 いつの間にか傍に移動していた花岡にそう話し掛けられ、思わず早苗は変な声をあげてし
まう。恥ずかしげにコクコクと頷く彼女に、花岡は相変わらずにこにこと笑っていた。
「そうやっておめかししてるから、てっきり彼を誘おうとしたのかなぁって思ってね」
「……う、ううん。そういう訳では、ない……かな」
 そう苦笑しつつも、早苗は内心ドキッとしていた。
 実は確かに彼を誘おうと考えはした。連絡先自体も知っている(ゼミで初めて一緒になっ
た時分、メンバー全員でお互いの番号を交換している為)。だが……できなかった。
(だって最近の白沢君、何だか元気がなかったし……。話しかけ辛かったもんなぁ……)
 ゼミや学内で見かけていたここ暫くの彼の様子。
 もしかしたら気のせいなのかもしれないが、少なくとも早苗にはどうにも彼が心無しか元
気がないように見えていた。学内にいても、心此処に在らずといったような、そんな印象。
「ふぅん? まぁそうだよねぇ……何だか元気なかったみたいだし、話し掛け辛いか」
「え? もしかして、花岡君も……?」
 だがまるでそんな自分の考えを読んでいたかのように、今度は花岡が口調自体は実に自然
に、何の気なしにそう口を開いて呟くように言う。
 早苗は思わず驚き彼を見返したたが、
「そりゃあゼミが主といっても数年来の付き合いだからね。何となく様子が変かなというの
は僕も薄々勘付いていたよ?」
 当の本人の微笑は揺るがない。
「……ま、敏也は全然気付いてないっぽいけどねぇ」
 花岡はくすくすと笑いながら屋台の中の神月を見ていた。
 学業よりもこういう生の社会の方が、どうやら彼は活き活きとしているようにも見える。
「まぁ敏也はともかくして。白沢君に関しては、暫くはそっとしてあげておいた方がいいか
もしれないね……。雪村さんは別としても、僕や敏也じゃ彼の懐には到底入り込めないだろ
うから」
「……?? う、うん……」
 何となく妙なニュアンスを含ませる花岡の一言。思わず僅かに怪訝を漏らしながらも、と
りあえず同意の頷きを見せておく。
(私が、別? そうは思えないんだけど……)
 正直言って内心動揺していた。花岡も気付いていた事にか、それとも彼の発言になのか。
「あぁ。そういえば少し前に真田教授を見かけたよ。遠巻きだったから声を掛け損ねちゃっ
たけど」
「……そ、そうなんだ」
「うん。教授も来てるし、もしかしたら白沢君も実はここの何処かにいたりしてね」
「そうかも、しれないね……」
 花岡がにこにこと笑っている。
 何を言いたいのか少し見えかねる節がある。だがそれは多分、悪意ではない。
「…………」
 先程までの思考を脳裏に漂わせながら、早苗は暫しぼうっと花岡と共に神月のヘラ捌きを
眺めていた。
「あいよ。おまっとさん」
 やがて神月が三人分の焼きそばを仕上げてプラスチックの容器に詰めて手渡してくれた。
 容器越しにほかほかとした熱さが伝わってくる。漏れる香りが美味しそうだ。早苗達は二
人に代金を払い、礼を言ってから手を振ってその場を後にしていく。
(……気のせいじゃ、なかったんだ)
 道すがら、一息つける場所を見つけて三人で焼きそばを頬張りながら早苗は思っていた。
 やっぱり白沢君に、何かあったんだ……。
 だけど自分では何もできそうにない。花岡君には何となく期待された言葉を掛けられたよ
うな気がするが、直接何があったのかを聞き出せるは怪しいと思う。そもそも話してくれる
かも分からないし、自分がちゃんと力になってあげられるかも分からない。
(白沢君……)
 祭りの雑踏の中で、早苗はおもむろに締め付けられるような胸に手を当てて空を見上げて
いた。祭りの会場を見下ろす夜空は晴天。暗いキャンバスの上に、点々と星々が瞬いている
のが見える。
 空はこんなに静かで綺麗なのに、私も彼も、きっと不安でいる……。
 そっと細めた眼差しの遙か何処かに、早苗は悩みを抱えた大良の寂しげな姿を見る。

「──こんな所にいたんだね」
 後方からした声に振り向くと、大良の目にこちらへ近づいて来る人影が見えた。
 海浜公園の外れにある高台。遠くからは今夜開かれている潮風祭のざわめきが聞こえてく
る。その園内から延びる道に繋がる階段を上がってきながら、その人物はベンチに腰掛けて
いた大良にそう気安くも穏やかな声を掛けてくる。
「……教授」
 大良の大学での指導教官である、真田敬一郎だった。
 思わぬ人物の登場に、大良は静かに目を細めていた。真田は彼にもう一度ふっと微笑み掛
けながら近づき、大良の座るベンチのすぐ脇までやって来る。
「どうして此処に……」
「地元の大学の学者が、地元の祭りに顔を出してはいけないかな? ……隣、いいかい?」
「……。どうぞ」
 静かに訊ねる大良に、真田はそんな言葉を返してきた。
 答え、心持ち端の方に座り直す大良。その反対側、お互いに多少間隔を空けるような格好
で、真田はそっと大良と同じベンチに腰掛ける。
『…………』
 暫くの間、二人は何も言わずに押し黙っていた。
 時折真田が大良をちらと一瞥する。だが大良は彼と間隔を空けて座ったまま、視線すら合
わせずにぼうっと夜闇に紛れた遠くの海を眺めている。
「……少し前に、花岡君と神月君を見かけたよ。屋台のバイトか何かだろうね。人混みの中
からだったから声は掛けずじまいで通り過ぎてしまったけれど」
 遠回りにでも。真田は彼と同じ様に遠くに視線を遣りながら呟き始める。
「うちの大学の子達も少なからず訪れているようだ。……だから君も、もしかしたら来てい
るんじゃないかと思ってね」
「……」
 だが大良は沈黙を続けていた。その様子は返す言葉がないというよりは、何かにじっと耐
えるので精一杯であるかのようにも見える。
 真田はフッと微かに笑うと、少しだけ視線を持ち上げた。
 高台から見える、夜の黒に染められた海。昼間は地平線との境界も見えているが、夜闇の
色で染め上げられた今はそんな二分の様すらも分からない。
 ただそんな夜の海の中で、遠くに煌々と灯りを灯し続ける陸地──離島の姿だけが辛うじ
て確認できるだけだ。
「潮城島、か……」
 再び真田は誰にともなく、いや大良の耳に入るように呟いていた。
 ザワッと潮風が一瞬だけ強くなる。潮の香りが暗闇に紛れて通り過ぎていく。
「故郷が……気になるかい?」
 しかし今度の言葉は無視できなかったらしい。
 大良は黙りはしたまま、それでも驚きを眉根を上げる事で表現しながら、同じく顔を向け
てきた真田に視線を寄越してくる。
 それでも真田は微笑を崩そうとはしなかった。
「そんなに驚かなくてもいいだろう? 君達を受け持つ時に、大よその略歴などは聞かせて
貰っているからね。……大切な教え子達になるんだ。きちんと向き合おうとするのに、その
相手の事を何も知らず存ぜずではあんまりだとは思わないかい?」
 大良の眼差しの中に宿り始めた警戒感に留意するかのように、彼は可能な限りの穏やかな
声色でそう語りかける。
「それに、ね……」
「……?」
「私自身、知らなければいけないと思っていた。他の研究者同様、外部から招聘された身と
して、この街がどんな歴史を辿ってきたのか……学術都市として再開発される事になった際
にどんな混乱が人々の間で在ったのか……」
 だはその瞳は、徐々に真剣なものに変わろうとしていた。
 遠回りに。だが真田が話したかった事。大良は怪訝の色を一層警戒感、臨戦態勢へと変え
てじっと彼の紡ぐ言葉の前に立ちはだかろうとしている。
「あの、潮城島もそうだ」
 ちらとその視線を遙か海の中の島に移す。
 夜にも拘わらず、潮城島には煌々と灯りが放たれていた。微かに見て取れる建造物の影。
そこから漏れている光だった。
「エネ研……次世代エネルギー研究所。開発事業の目玉の一つでもあり、建設に際しても、
そもそもの開発事業全体に対しても、かなりの強い反対運動があったと聞いている」
「……」
「白沢大義氏……」
「──ッ!?」
 そして呟く真田の言葉の途中、彼がある人物の名を口にした瞬間、大良の顔色が明らかに
変わった。
「反対運動の中心的人物の一人でもあり、潮城島有数の名士でもあり、そして何より……君
の父上でもあった人物。そうだね?」
「…………」
 大良の眼差しが苛烈なまでに強くなる。
 真田は何処かその威圧感に耐えるように、言ってから少し押し黙っていたが、ややあって
ふっと引き締めていた表情を緩めると思わず苦笑していた。
「……そんな怖い顔をしないでくれよ」
「……。すみません」
「いや、いいんだ。君にとっても、あまりいい思い出ではないだろうからね……」
 ポリポリと髪を掻きながら、真田はふっと視線を再び潮城島の方へと向ける。
「招聘される前から、私は個人的にあの頃の清浜のニュースを集めていてね……。大義氏の
事もその過程で知っていたんだ」
 大良はじっとそんな彼の横顔を見遣っていた。
 警戒感を滲ませながらも、同時に何故その事を自分に話してくるのかを見極めようとする
かのように。
「……だから君が私の受け持ちの学生となると知った時、あの大義氏の子息だと知った時は
正直言って驚いたよ。だって君は……」
 だがそこまで言いかけて真田はふと言葉を詰まらせた。ちらりと見つめている大良の顔を
確認するように一瞥する。
 大良はその言葉の続きを予測しているようにも見えた。
 一度、数秒目を瞑って開いてから、無言のままに続きを促してくるようにも見えた。
「君は……」 
 真田は暫し逡巡していた。しかし一度ぐっと口元を引き締め、意を決したように続ける。
「あの白沢家事故死事件の……唯一の生き残りでもあるんだから」
「…………」
 やはりか。そう言わんとでもするかのように、大良は静かに瞳を閉じていた。
 真田がその様子を心配げに見守っている。ややあって大良は目を開き、やや持ち上げた視
線で以って真田の瞳を射抜くかのように見つめ返してくる。
「……調べ過ぎですよ。教授」
「……科学者にとって好奇心とは、重要な素質だと思うんだがね」
 静かな非難に、真田はややおどけるようにして呟き返していた。
 暫し二人は互いに無言のまま様子を窺い合っていた。遠くからは祭りのざわめきが聞こえ
てくる。より近くの崖下からは波と風の音が聞こえてくる。
「……わざわざそんな事を言う為に、こんな所まで来たのですか」
 先に口を開いたのは大良だった。
 目上の人間が相手であるにも拘わらず、その口調は何処となく厳しい。
 それだけこの件は、彼にとって大きく圧し掛かっているということなのだろう。
 真田は静かに苦笑を返すだけで、その質問の答えに代える。
「半分は、そうなのかな」
 そっと視線を大良から外して、真田は再び視線を海の方へと向け直した。
 大良も暫しその横顔を見遣っていたが、ついっと同じ様に顔を逸らして座り直す。
「……心配だったんだよ。ここ最近、君の様子が変だったからね」
 潮風が吹き抜けていった。
 呟く真田の言葉を掻き消すように、潮の残り香が漂って消える。大良はそれでもすぐさま
何かを答える事はなかった。
 お互いに顔は見ず、ただ暗闇の中に佇む海原だけを見遣る。
「でも君は何も話してはくれないし。普段訪ねてきても、用事を済ませればさっさと帰って
しまうしね……。こういう機会でもないと、じっくり話す事もできないからね……」
「……」
「花岡君や雪村君も気にしているみたいだ。そうしたら、海浜公園(ここ)に来ては海を眺
めてぼうっとしている君を見たという話を聞いてね。……もしかしたらと思っていたんだ」
 大良は俯き加減で座ったまま微動だにしてない。
 その横顔を、真田はそっと見遣りながらこう続けた。
「…………故郷が、恋しいのかい?」
 ちらりと大良が真田を見遣った。だがそれも数秒。すぐにその視線は先程と同じやや俯き
加減の正面の角度へと戻っていってしまう。
「……あそこには、もう僕の戻る場所なんてありませんよ」
 数拍の間の後に呟かれた大良の言葉には、重々し過ぎる諦観が込められていた。
「研究所ができてからのあそこは、もう僕の知っている潮城島じゃない。いえ……父と母を
亡くした時既に、あそこはもう違った場所になってしまったのかもしれない……」
 独白のようだった。
 ギリギリと眉間に皺を寄せながら、大良はかつての記憶を引き寄せているように見える。
「物理的にも、精神的にも、もうあそこは僕が居れない場所になっている筈です。両親の財
産は、親戚縁者を名乗る者達が跡形のないほどに貪り食っていきました。それに僕は開発計
画に反対した──今の清浜の姿を否定しようとした人間の息子なんです。今やその恩恵に浸
り切った島の人間に、受け入れて貰えるとは到底思っていません」
「……」
 真田は思わず顔をしかめてしまっていた。
 それは故郷を懐かしんで気も漫ろになっているのではなかという自分の予想の浅はかさを
悔いたからではない。言葉の端々から読み取れる彼の苦労を見たようだからだけではない。
何よりも、彼自身がそんな逆境そのものに、ある種の冷め切った諦めを持っていた事により
自分の胸の奥が引き裂かれそうな思いに至ったからだった。
「……それに、教授は事故と言いましたが」
「? あぁ……」
 だが大良の言葉に、
「……。僕は、あれは単なる事故ではないと思っています」
 真田は更に動揺させられることになる。
「それは……」
 まさか。君は、君はあの話を……?
 真田は驚いていた。あの事故の当事者にとってその話はより大きなダメージとなる筈だ。
それを、君は知っているというのか。
 慰めようとした微笑を保つ余裕は消えかけ、その表情は無意識に険しくなる。
「……僕達は殺されたんですよ。開発を、望む者達に」
 真田は返す言葉が見つからなかった。
 自身も聞いていたその話──あの事故は、実は裏で開発事業を推進する勢力が糸を引いて
いた仕組まれた事故……いや、計画的な殺人事件ではないのかという話。事実、大義氏が死
亡したのを一つの契機として反対運動は徐々に下火になっていったという情報もある。
 噂として聞いただけなのか、それとも何らかの形で自分で調べたのか。
 詳しい事は分からなかったが、真田はまるで谷底から引き上げようとした相手に逆に突き
落とされたかのような錯覚を感じていた。
「……」
 あまりに冷たく苛烈過ぎる大良の眼。
 真田は危うくもう少しでその眼差しを直視し切れない域に追いやられようとしていた。
「……いくら教授といえど、他人の懐に土足で入り込もうとするのは感心しませんね。教育
熱心なのは否定しませんが貴方のそれは……少なくとも、僕には要らぬ干渉です」
 真田は言い返す言葉もなかった。
 言葉遣いこそは丁寧だったが、彼の反応は明らかな拒絶に他ならなかった。
 その空白を見計うように、大良はそっと真田から視線を逸らして海を眺める。
 何もできない。真田はゆっくりと向けていた視線を戻すと、渦巻く思考と共に夜空を見上
げていた。
(だがこのまま彼を放置する事は……私には、できない)
 ぎゅっと目を瞑る。折れかけた心を奮い立たせる。
 自分は本当にただの干渉なのか。本当に自分は彼に、辛い過去を抱えさせたままでいさせ
ていいと思っているのか。……違う、そうじゃない。私は……。
「…………一つ、昔話をしようか」
 そして大きく息を吐いてから、真田はそっとベンチから立ち上がる。
 拒絶を口にしても、話してはくれた。自分の深部を。
 それを信じよう。応えてみせよう。その為には、自分の事も……打ち明けるべきだ。
「君はね……。ある意味、昔の私によく似ているんだ」
「……?」
 ちらと大良が目だけで真田を見てきた。その反応を横目で確かめてから、真田はもう一度
自分自身に鞭を打つようにして続ける。
「まだ研究者になって間もない頃、私はお世辞にも人付き合いが上手い、積極的な人間では
なかった。私の関心は、もっぱら物理の奏でる美しい世界にのみ注がれていた。だからある
意味であの頃の私は……人間を嫌い、科学の世界にのめり込んでいた、いや逃げ込んでいた
と言ってしまってもいいだろう」
「……」
「だがそんな私の所にも、見合い話が持ち込まれてきた。故郷の両親からだった。私は研究
以外で特に関心が持てなかった事もあって、所帯を持つ気など無かったんだが……結局、両
親に押し切られてしまってね。結局見合いをする事になったんだ」
 それでも大良は黙って話を聞いてくれているように見えた。
 真田はぽつぽつと、ゆっくりと記憶を辿りながら何処か遠くを見つめている。
 そして、彼はくすっと苦笑いをした。
「そしてどうなったと思う? ……翌年には結婚していたんだ。不思議なものだよ。そんな
つもりはなかったのに、周りの勢いに押されて気付けば所帯持ちになっていんだ」
 だがその苦笑いは、
「だけどね……それでも私は相変わらずだった。それまで通り、研究に没頭する生活を続け
ていたんだ。勿論、そんな生活だから妻の事は殆どほったらかしだ。だから今でも新婚期の
事はあまり記憶にない。でもね……」
 一分もしない内に重く暗い表情へと変貌していく。
「……そんな私にも子どもが出来た。正直、私自身は当時の妻に愛があったとは思えない。
でも彼女は喜んでいたよ。もしかしたら、寂しかったからなのかもしれないな……」
 大良は何かを考えているようだった。
 顔は真田にこそ向いていたが、瞳の奥では何か別の意識が動き出そうとしている。
「……だがきっと、天罰だったんだろう。ある日妻は……流産した。流石にその報せを聞い
て私は駆けつけたよ。何とか妻は無事だった。だが、お腹の子は……結局助からなかった。
今でも、あの時の光景は私の頭に焼き付いて離れない……。大人しかった妻が、周りの制止
も聞かずに大声で泣き喚いていたんだ……ベッドの上で、延々と……」
 じっと、大良の眼が真田を捉えていた。
 彼の事だ。おそらく天罰などという非科学的な言葉を用いるなんて……とでも言いたいの
かもしれない。だが真田は訂正する気にはなれなかった。今までも、これからも。
 暫く真田は、次の言葉が出なかった。
 話し始めたのは自分なのに、身体中から言い表せない痛みが込み上げてくる。
 そう、これが後悔の念だ。比較などできないが、白沢君もまた……少なからずこうした痛
みを心の奥底で、記憶の片隅で抱えて今まで生きてきた……。
「…………悔やんだよ。もう何度も何度も。でも戻ってこない。妻もすっかり変わってしま
った。だから私は、できる限り償えるように自らを戒め、革めてきた。……それで妻が癒さ
れるとは、限らないが……」
 大良が静かに視線を逸らして海を眺めた。
 真田もじっと、静かに浮き沈みする遠い水面を見つめながら暫しの間、黙り込む。
 そして長い長い深呼吸の後に、こう続けたのだった。
「……もしあの子が生きていたら、ちょうど君達くらいの年齢になっている。代わりという
とおこがましいと思われるかもしれない。だが、私はせめて同じ年頃になる君達学生諸君に
は私と同じ過ちを繰り返して欲しくないと切に願っている。……白沢君、特に君にはかつて
の私の姿が重なって見えてならないんだ。優秀だが、何処か人を遠ざけ、科学の美しさに多
大な心を注いでいる君に……」
「……」
「先に失った者であるからこそ、私は言いたい。白沢君、君にはもっと人を愛して欲しい。
確かに人は醜いのかもしれない。かつて君を苦しめたのは人間だろう。だが……それでも信
じて欲しいんだ。君にだっていた筈だろう? いる筈だろう? 君を優しく迎え入れてくれ
た人が。君を受け入れてくれる人が。そうでなければ、きっと君は今よりももっと冷たく、
もっと壊れてしまっているだろうからね……」
 微かに、大良が俯き加減になる。暗がりでその表情は完全には見て取れなかったが、その
言葉に何かを思い出しているのは間違いないように思えた。
「……科学による世界は美しい。だが、そこから人間を排除してしまうのは些か潔癖過ぎる
のではないかな? 人間も、間違いなくこの世界の要素だ。そして何より、科学は人間を、
より多くの人々を幸せにする為に生まれ、使われるべきものである筈だ」
 それはかねてより、大良について真田が感じていた想い。
「……君にはもっと、ありのままの世界を愛せるようになって欲しいんだ。世界は綺麗なも
のだけでは成り立たない。理屈だけでは整えられない。曖昧で、醜くて、それでもだからと
いって美しく整ったものと対立するだけのではない、必要不可欠な総体として」
 一人の教官として、人生の先輩として、彼に話したかった言葉。
「世界は、君が見ているものよりずっと広くて……ずっと色んな美しさがある」
 真田は次から次へと言葉を選び、
「……もっと視野を広げて、愛して欲しい。君には、それらを可能にするだけの力がある」
 且ついつの間にか半ば湧き出るような感情を、そのまま言葉として吐き出していた。
「…………」
 大良はまるでフリーズしたかのように固まっているようにも見えた。
 俯き加減。だがその引き結んだ口元は、僅かに緩み、聞き取れないほどのほんの微かな音
だけを細々と紡いでいた。
 今何を思っているのだろう。聞き入れて、くれただろうか。
 真田は一挙に昂っていた内心を必死に鎮めようとしながらも、じっとそんな彼の様子をた
だただ見下ろし、見守る事だけしかできない。
「……同情、ですか」
「んっ?」
 やがて、ぽつりと大良から放たれた第一声は、そんな一言だった。
「僕は、そんな私情で評価されていたんですね」
「……否定はしない。だけどね、君の才覚を見込んでいるのもまた事実だよ。実際の業績は
今後の君次第だが、君は将来的に間違いなく私を凌ぐ学者になるだろうと思っている」
 大良はじっと真田を見上げていた。
 嘘ではないさ。そう真田は苦笑しながら小さく頷いてみせる。
 それでようやく分かってくれたのだろうか。大良は「……そうですか」とそう小さく呟く
と、ゆっくりと視線を再び海原の方へと戻していく。
 真田も立ったまま海を眺めていた。何度目かの沈黙が、再び二人の間に降りていく。
『…………』
 長い沈黙だった。何かを迷っている間隙のようにも思えた。
「僕は」
「……?」
「僕は……失いかけています」
 ぽつりと。大良が視線を遠く水面に向けたままおもむろに呟いていた。
 真田は、何だろうとちらっとその何処か寂しげにも見える横顔を見遣る。
「失い、かけている……?」
 大良の視線は動かない。じっと遠くを見つめたままで言葉を紡ぐ。
「……大事な友人が、危ない橋を渡ろうとしています。加えて僕の所為で本来無関係な人達
にも危険を負わせてしまいました。だからこそ、尚の事僕は彼を止めたかった……。でも彼
は聞く耳を持ってくれなかった……。このままではいずれ、彼が大変な事になる……」
 その言葉はどうにも断片的だった。
 だが真田には、それが冗談半分で話された事ではないことくらいの察しはついていた。
「……まさかとは思うが、それが最近君の様子がおかしかった理由なのかい……?」
「…………」
 返って来たのは、無言という名の肯定。
 真田は目を細めて黙り込んでいだ。詳細はよく分からない。だがおそらく突っ込んで聞こ
うとしても、彼は答えてはくれないのだろうなと思った。
「そうだね……」
 だからこそ、真田は敢えて追求する事はしなかった。
「……だけど、君の中ではもう本当は答えは出ているんじゃないかな?」
 代わりに、彼はふっと心に浮かんだ言葉だけをこの教え子に贈る事にする。
 大良がようやくちらりと真田を見上げてきた。
 やっと、通じ合えたのかもしれない……。
 そんな想いと共に、真田は自然と綻んだ微笑みと共に続ける。
「悩んでいるというのは、その時点で実はもう、心の底ではどうしたいかは決まっているの
ではないかと思うんだ。でもその本音を実行に移すには色んな枷が邪魔をしている。それが
つまりは悩んでいるという状態なんだろうと私は思う」
 何故だろうか。重い呟きを向けられたにも拘わらず、真田には迷いはなかった。
 彼と向き合えた喜びか。それとも自分自身に……?
 真田はふぅと軽く一息をつくと、言っていたのだった。
「君の本心は何なんだい? 分かっているなら、私が言える事は一つだ。その心に素直にな
ればいい。君個人の場合としても、もっと君は心というものに対して耳をすませるべきだと
思う。……学者の私がこんな事を言うのは、妙に思うかもしれないが」
「……」
 大良は暫し真田を見上げて黙っていた。
 その瞳の奥で何かが駆け回っているかのように見えた。
 まるで高速で動作する精密機器のようだ。だが……君は決して隅々までが冷淡なわけでは
ない筈だ。心を持つ、周りよりも繊細なだけな、心を持つ一人の人間なんだろう……?
 真田はもう一度、彼の背中を押すように、小さく微笑み頷いてみせる。
「……はい」
 大良はか細い声で頷いてくれた。そっと視線を落とし、じっと黙り込む。
 それでも気まずい空気は感じなかった。それは何かが解決したと思えたからなのだろう。
 真田は穏やかに微笑み、静かに背後の祭りの会場を振り向く。
 ──変化はちょうど、そんな時だった。
「ん? 何だ、あれは……?」
 思わず声を漏らす真田の驚き。
 その様子に、ベンチに座り込んでいた大良も何事かと立ち上がって近づいて来る。
「…………青い、霧?」
 それは、祭り会場をすっぽりと覆い尽くす程の青紫色の濃い霧のような何か。
「──おいっ! 姉貴、翔太、しっかりしろ!」
「う~ん……」
「お、おい。ナナ、しっかりしろ!」
「駄目です……先輩。何だか、凄く、眠……」
「ナナっ!」
 そしてその霧の中では突如として奇妙な現象が起きていた。
 青紫の霧が立ち込め始め人々がその異変に気付いた矢先、次々と人々が倒れ、突如として
昏睡状態に陥り始めたのである。
 それは祭りに来ていた一聖や和美・翔太母子、奈々子や、
「──うぅん……? 何、こ……」
「あぅ……?」
「な、に……? 急に、眠……」
 早苗達も例外ではなく。
 海浜公園内は、瞬く間に祭りの活気から倒れた人々が道端にたむろする異様な光景へと変
わっていたのである。
「一体どうしたんだ……。何が、起こっている……?」
「……」
 高台の上から、そんな奇怪な霧が立ち込めるのを見下ろすばかりの真田と大良の二人。
(これは、まさか……)
 驚愕のあまりその場で立ち尽くす真田の背後で、大良は独り静かに眉間に皺を寄せる。
 異変が、始まっていた。

スポンサーサイト
  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
  2. NIGHT GUNNERS
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<(長編)NIGHT GUNNERS〔5〕 | ホーム | (長編)NIGHT GUNNERS〔3〕>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://higurasisouann.blog27.fc2.com/tb.php/23-1053d39a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

訪問者累計

最新記事

最新発言

検索窓

月別履歴

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

分類/索引

【案内板】 (2)
【小説:短編】 (20)
本の蟲 (1)
硝子野不動産店 (1)
夏の日の幻影 (1)
四番線の彼女 (1)
夢視の宿 (1)
線を曳く町 (1)
炬燵の神様 (1)
三者三盗噺 (1)
色眼鏡 (1)
奴らは攻城戦師 (1)
詰め替える (1)
同じ籠の狢 (1)
二十年後の遺言 (1)
轍の先 (1)
水に流せば (1)
真夜中の御二柱 (1)
いつか見た夢 (1)
神様達の初詣 (1)
白い花束 (1)
丸の代償 (1)
【小説:長編】 (147)
Amethyst League (6)
アンティーク・ノート (3)
ユウキのヒカリ (5)
NIGHT GUNNERS (5)
レディ・ルーン-Bonds of RU'MEL- (6)
ユーヴァンス叙事詩録-Renovin's Chronicle- (86)
死に損いのデッドレス (5)
Dear SORCERY (4)
サハラ・セレクタブル (27)
【企画処】 (334)
週刊三題 (324)
その他参加物 (10)
【資料庫】 (15)
【落書帳】 (6)
【詩歌帳】 (6)
【雑記帳】 (315)
【読書棚】 (30)
【遊戯倉】 (24)
path. (4)
decide: (3)
ユー録FW (16)

記事録

交友関係

このブログをリンクに追加する

(RSSリンク)

(QRコード)

QR

@long_month からのツイート