日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)NIGHT GUNNERS〔2〕

 闇の静寂。それはその夜も、変わらずにこの街に広がっていた。
 突如としてやって来た発展の報せ。それにこの地の人々は当初戸惑い、仲違いもしたが結
局は当時の権力の声明を表向きの鶴の一声にして収束をし、もたらされる恩恵を享受する道
を選んだ。
 今宵も街は、かつてもたらされた発展の余韻を引きずりながらまどろむだろう。
「……くっ、ぐ、うっ……」
 そんな喧騒の裏側で、一人の男性は危機を迎えていた。
 年格好はおそらく中年の域であろう。あまり手入れに熱心とは言えないばさついた髪と着
古したコートを靡かせ、人気の無い暗い裏路地をのろのろとしたペースで歩いていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
 否、のろのろという表現は適切ではなかった。彼は必死だったのである。
 薄闇の中、彼の顔には隠し切れない苦痛の色が浮かび、進める足はあたかも引きずるかの
ようだった。季節は冬だというのに、その額や頬には粘ついた脂汗が静かに滴っている。
 それでも彼は気力を振り絞るようにして、一向に歩を止めようとはしなかった。
 壁際に半身を預け一歩一歩と進むその途中、何度も後ろを振り返り、数秒耳を澄ますとい
う行動を繰り返している。
 ローテンポで微かに鳴る彼の靴音。時折僅かに差し込む月明かりに照らされるその人影。
 そこからも彼がただ、迷い込んだ酔い人の類ではない事を物語っていた。
(…………。撒いた、か?)
 暫くの間その重たい歩を進めていた後、彼はやがて少し広い空き地らしきスペースに辿り
着いた。荒くつく息が白く夜闇に消えていく。彼は再びじっと耳を澄ませ、自身に迫ってき
ている危機との距離を測った。
 そして、少しぼんやりしてきた頭でそれが遠のいているらしいと判断すると、彼は鉛のよ
うに重たくなっていた身体を引きずり、灰色の壁の一角に背を預けてゆっくりとその場に座
り込んだ。
「……ふぅ、はぁ、はぁ……」
 整えようとする呼吸。
 だが、それは叶いそうにはないようだった。
 頭から鮮明さが奪われ、鈍っていく。
 身体が内から悲鳴を上げ、重く動けなくなっていく。
「……まずい、な」
 迫る危機は何も向こうからやって来るばかりではないらしかった。
 彼はぼそりと呟くと、大きく深呼吸。それでも何とか乱れた意識と身体を落ち着かせよう
と試みた。
(……僕とした事が油断した。もう、始めから……バレていたなんて)
 肩で息をしながら、そっと片手を脇腹に添える。
 べとつく感触。生温い自身の生命の流れの証。
 路地裏の薄闇の中でも、それははっきりと確認できた。
 コートの下の服を真っ赤に染める……深い出血。
(……生かすつもりは、やはり無いらしいな)
 血で汚れた掌をぼうっと眺めながら、彼は思う。
 そうだ。奴らは決して裏切り者を赦さない。己が目的の為ならどんな事でもやってのける
連中なのだ。たとえ、それが人の道に反する事であろうとも。
 そして、ある意味奴らのその本性を知ったからこそ、自分は今ここにいるとも言える。
 彼はおもむろに夜空を見上げた。
 今夜の冬空は重く鈍い雲が掛かっている。自分の座り込むビルとビル、街を流れていく冬
の冷たさを帯びた風が傍らを通り過ぎて行く。そんな静かな時間の流れと共に、時折、ゆっ
くりと流れる雲の切れ目から月が顔を出してくる。
 そんな様をぼうっと見ていると、何だか可笑しくなってきた。
「……末期、か」
 極限に至ると人間は理性がおかしくなるのだろうか。
 彼はこんな時ですら、慎ましく顔を出しては引っ込める、そんな月の様に趣を感じていた
のだった。こんな時ですら、彼はこの街を愛していた。忘れられなかった。
 自分も……こんな事はせずこそこそとやっていれば案外無事に済んでいたかもしれない。
 だが、その考えを彼はすぐに振り払った。
(……諦めちゃ、駄目だ。まだ……『鍵』の内、二つはここにあるんだ)
 ちらと視線を足元に向ける。
 そこには二つのアタッシュケースが置かれている。
 それは何とかここまで守り抜いてきたもの。
 何よりも、手塩にかけて生み出した“我が子”なのだ──。
(……せめて、この子達だけでも守らなければ……)
 そう心に刻みつけ、彼は立ち上がろうとする。
 だが、できなかった。
 身体が鉛どころではない。鋼鉄のように重い。負った怪我が予想以上に自分の体力を奪っ
ているらしい。加えて頭もぼんやりしてきた。出血や疲労の所為だろうか。
「…………ここまで、なのか?」
 霞んできた景色に眼を細めながら、彼は静かに嘆きに似た小声を漏らしていた。
 無念、後悔、悲しみ。様々な感情だけが重く沈んでくる身体の中でのたうち回っているか
のようだ。冷静な思考力が掻き消えていきそうだった。だが、ここで手放してしまったら、
ここまでの道程が全て無駄に終わってしまう……。
 そんな心の綱引きが続いていた、そんな時だった。
(……!? 誰か、来る……)
 遠く、側方の路地の方から足音らしき物音が彼の耳に届いた。
 ぼんやりとした意識の中で、何とか把握しようとする。数はそんなに多くない。多くても
数人だろうか。奴らが追いついて来たのかもしれない。
 だが……もう、自分には奴らから逃れられるだけの余力は、残っていそうにない。
(ここまで、か……)
 彼の心は最早折れる寸前だった。
 一層近づいてくる足音。程無くして自分は遂に捉えられてしまうのだろう。
 折れかける心とリンクして遠のいていく意識と共に、彼はゆっくりと瞳を閉じた──。


 Slot-2.始まりの夜と万象の力

「ブ、モォォォォッ!!」
 怪人の雄叫びが路地裏に響いた。
 隆々とした身体を震わせ、雲の張った夜空を仰ぐようにして。
「……ふん」
「……」
 それでも不敵に笑い、それでも冷静に様子を窺いながら。
 一聖と大良の二人──ナイトガンナーはこの猪のような怪人と対峙する。
「やっぱ、こいつも野獣に近いみたいだな。こっちの言葉は通じてるっぽいけど」
「そのようだな」
 雄叫びの余韻も、夜の闇の中には溶けていく。
 それと相反する表の道の静けさに誰かが気付いてやって来はしないか。その気配を探って
はみたが、それは感じられなかった。
「……とにかく、ナナの方には寄らせないようにしねぇとな」
「そうだな……。できれば彼女が目を覚ます前に片をつけたい所だが」
 二人はぎゅっと、いつでも銃撃を放てるように引き金に指をかけてグリップを握り直す。
 そして、それとほぼ同時だった。
 怪人が両腕を顔の前で交差させて組み、身を低く屈める構えを取る。
 ──ゴゥッ!
 瞬間、丸太のような脚で地面を蹴り、怪人が突っ込んできた。
『ッ!?』
 速い。風を切って向かってくる姿に一瞬、驚くが二人はすぐさま引き金を引く。
 連打される銃声と、まるで鋼鉄板が衝撃を弾くような重い音が響き渡った。
「くっ……!?」
「……」
 効いていない。身体の厚さに弾かれている。
 そう分かった時には怪人は二人の直前まで突進してきていた。咄嗟に二人は地面を蹴って
飛び上がる。同時にその瞬間まで二人の立っていた場所を、怪人が猛烈な速さで駆け抜けて
いった。直後、背後であがる轟音。半身を返して着地をしながら、二人は怪人の成した破壊
の跡を見遣る。
「……なんつー硬さだよ。あの野郎、コンクリの壁をぶち抜きやがった……」
 二人の立っていた場所の背後、灰色のビル壁に大きな穴が空いていた。
 もくと上がる土埃、パラパラと崩れ落ちるコンクリートの破片の音。突進しただけで壁を
砕き、大穴を空けてみせた当の怪人は勢いのまま壁にめり込んでもがいている。
「二人とも。解析完了だ!」
「あれは、ラッシュ(突撃)の“ドール”です!」
 そうしていると、それぞれ二人の銃身になっていた金色のコウモリ・ゴルダと銀色のコウ
モリ・シルヴィがそう呼び掛けてきた。その報告を聞いて、一聖はぽつりと呟く。
「ラッシュ……なるほどな、猪突猛進ってわけか」
「お二人とも気をつけて下さい。あれの瞬発力は相当なものです。もし直撃すれば無事では
済みません」
「……だろうな。見れば分かる」
 そこで怪人──“ドール”と呼ばれたその存在が体勢を整え直して振り返った。
 内から溢れる攻撃性を窺わせる荒い吐息と口元の牙。数歩、砕けたコンクリート片を踏み
潰しながら再び身を屈めるように全身を込め始める。
(まずい。またこの位置に突っ込んで来られたら……)
 一聖はそう思った瞬間、奈々子の気絶している壁側とは反対方向へと駆け出していた。
 さっきは通り過ぎただけだったが、何度もあんな突進を間近で過ぎさせれば彼女が巻き込
まれかねない。
「こっちだ、猪野郎!」
「グギギッ? フォォ……ッ!!」
 その為に相手の注意を引くべく、叫ぶ。
 できるだけ彼女の位置から引き離す。その目論見は成功したようだった。ドールは一聖の
挑発の声に視線を移し、真正面から斜め直線上の彼へと狙いを定め直している。
(さっきは効いてなかったが……。火力を、上げてみるか)
 そして走りながら一聖は腰のベルトに下げられたスライド展開式のホルダの中から、一枚
のカードを取り出した。
 色は全体的に灰色。形状はフロッピーディスクよりも一回り大きく、やや長細い。
 表面は本体と同じ材質らしき枠で広い部分と狭く細い部分に区切られており、狭い部分に
はそのスペースを埋めるように奇妙な文様が浮かび上がっていた。そして広い部分のスペー
スには「B」の文字を元にしたロゴが描かれている。
『──Bullet(剛弾)』
 キュッと急停止してドールの方を向きながら、一聖はその握ったカードの上蓋の出っ張っ
た部分を指でスライドさせて、開いた。
 同時にカードから無機質な音声が響く。するとそれを合図とするように、彼の銃身部分、
ゴルダがその口を大きく縦長に開いた。一聖はカードをその中に押し込んで再びゴルダの口
を顎ごと閉じさせると、銃口を今まさに突っ込んでくるドールに向け、引き金を引く。
「ガ、ギッ!?」
 銃撃が、変化していた。
 射出されるエネルギーの弾はより大きく、くすんだ色となり、猛然と突進してくるドール
へと次々に浴びせられていく。着弾する音も先の銃撃よりも重いようだった。
 それは、より一撃の威力が上がった、強化された銃撃だった。
 ドールは短く驚きを混じらせた声を漏らし、思わず身体がぐらつく。
 だが、それでも突進の勢いまでは殺す事はできなかった。
 ドールがぐらついたのもほんの僅か。よろめいた次の瞬間にはその体勢を立て直し、一聖
への方へと突進を敢行してくる。
「……ちっ!」
 迫ってくるぎりぎりまで銃撃を撃ち続けていた一聖だったが、すんでの所で大きく横に跳
躍するとその突進をかわした。直後、背後で再び壁を破砕する衝撃音が聞こえてくる。
(ちょいと軌道をずらせただけか……。真正面からのガードは硬いな……)
 空中で半身を返しながら着地、そして再び壁にめり込んだ身体を引き出したドールの姿を
見遣りながら一聖は、
「だったら……」
「フゥゥ……。グオォォォッ!」
 今度は三度構え、突進してくるドールに向かって駆け出し始めた。
 ぐんぐんと迫る互いの距離。そのぎりぎりの所を見計らって、
「後ろだ!」
 ドールの眼前で跳び、空中で前転。そうして上下にすれ違うタイミングで、がら空きにな
っているドールの背中に向けて再び銃撃を撃ち込んだ。
 響くドールの断末魔の叫び。真上から叩き付けられた連撃と突進する勢いのまま、ドール
は体勢を崩して地面を転がっていく。
「へっ、背中ががら空きなんだよ」
 着地し、銃口を向けたまま一聖は倒れ込んだドールを見て手応えを感じる。
「弾切れだぜ。イッセー」
「ん? あぁ」
 そうしているとゴルダの口が開き、そこから先ほどセットしたカードが出てきた。
 一聖はゴルダに言われ、彼の口から排出されたカードを掠めるように受け取る。
 その手の中で、カードに浮かんでいたロゴ文字、そして文様がシュゥゥ……と蒸発するよ
うに薄れ、消えていく。するとカード全体も無色透明の色へと変化し、上蓋が自動的にスラ
イドしてカチリと小さな音を立てて閉じる。
「……グ、ギギギッ」
 一方、少々擦れた声と共にドールも起き上がっていた。
 のろのろと、よろめく身体。
 その様子は確実にダメージを受けている者の様だ。
「よっし。この調子で、もういっちょバレット(剛弾)で……」
 こうなればこっちのもんだ。
 そして一聖がそう思いながらカードをしまい、二枚目を取り出そうとホルダに手を掛けよ
うとした、ちょうどその時だった。
「ヌ、オォォォ……ッ!」
 突然、ドールが犬歯を剥き出しにして隆々とした身体全体に力を込め始めた。
 大きく息を吸い込み、身体に何かを巡らせるような仕草。するとややあってドールの全身
がより分厚い筋肉と毛皮で覆われ始める。
 ボコボコと。一聖が「えっ?」と手を止めたその間にも、それらはドールの身体の至る所
をカバーしていく。
 一聖に剛弾を撃ち込まれた、弱点と思われた背中部分も。
「お、おいちょっと待て。そりゃ反則だろ……」
 不適な笑みから一変、嫌な予感を顔に滲ませる一聖。
 しかしドールは彼のそんな声に耳を貸す事もなく、再度ぐぐっと身を屈め、地面を蹴って
突進してきた。
「って、ぬおっ!?」
 自重が増した事でより破壊力を増したその身体。肉体の弾丸。
 一聖はその攻撃を何とか身を捻りながらかわすと、直後、また背後の壁を破砕するドール
へと振り返る。
「…………」
 その破壊の跡は、先の二回よりもその威力が大きい事を物語っていた。
 増した攻撃力を見せつけるように、更に大きな穴を、ヒビ割れを灰色のコンクリートの壁
に刻み込んで穴の中の暗闇からのそのそと出て来る“突撃”のドール。
 その双眸はより凶暴に、赤く赤く血走っている。
「……ま、そう簡単にヤられてはくれないわな」
 今までだって、てめぇらはいつも化け物に相応しい抵抗をしてくれたんだしよ。
 荒く息をつくドールと距離を置いたまま、一聖はやれやれと息をつき、頭を瞬時に切り替
えていた。月の光が両者の間の空間を照らし、再び雲の中へと隠れる。薄闇が戻ってくる。
「だったら、力には力といきますか」
 一聖は腰に下げたホルダに手を伸ばし、新たなカードを取り出した。
 今度は深い赤紫色。画かれたロゴ文字は「M」。
『Muscle(筋力)』
 上蓋をスライドさせ、再び鳴る無機質な音声。
 その音声が止むのもそこそこに、新たなカードは口を開いたゴルダの中にセットされる。
 だが今度はそのまま銃口をドールに向けなかった。代わりに銃口を覆うように、一聖は空
いた掌を押し付けて握る。迷わずに、そのまま引かれた引き金。
 するとどうだろう。何かが一聖の身体中を駆け抜けていく。それと同時に彼の身体から蒸
気らしきものが立ち上っていた。肌も若干赤みを帯び、口元を引き締めるその表情に妙な威
力を備えさせている。
「……さぁ来いよ。猪野郎」
 銃をホルダとは反対の腰に吊るし、一聖は両拳を握り締めて構えると言った。
「……ググ。グ、ヌォォォォッ!!」
 挑発と受け取ったのだろう。ドールはその言葉に数度脚で地面を削るように擦り、射出さ
れるように一聖に向かって飛び出してきた。
 だが一聖は逃げなかった。にやりと笑い、握った手と腕を開いて待ち構える。
 ズシンと。次の瞬間、両者がぶつかった。
 しかしそれまでと違ったのは、一聖がドールのその強化された突進をがしりと両手で受け
止めていた事だった。
「!? グ、ギッ……!?」
 言葉こそ出せないものの、その結果にドールは大いに驚いた反応を見せる。
「おら、どうした? もっと……」
 するとその隙を衝いて、一聖がぐぐっとドールがクロスさせていた両腕を抉じ開ける。
「踏ん張れよっ!」
 叫ぶ。それと同時に一聖の膝蹴りがドールの顔面にめり込んでいた。
 至近距離からの全力で放たれた蹴り上げ。一瞬の力の拮抗も空しく、ドールはその威力に
吹き飛ばされて宙を舞い、大きく地面に叩き付けられる。
「まだまだぁっ!」
 急いで立ち上がろうとするドール。だが、一聖の攻撃の手は休まらない。
 起き上がりかけたその異形の肉体に猛然と飛び掛ってきた彼から、拳、蹴りと多段の攻撃
が放たれる。重く鈍い衝撃の音。強化された外皮こそ破壊されてはいないが、その威力は確
実にドールの身体に刻まれているようだった。
「ふっ、はっ、せいっ、ふっ、はっ!」
 右フック、左フック、右ストレート、蹴り上げ。
 入れ替わった攻守勢いをそのままに、その一撃を受ける度に仰け反り後退していくドール
に一聖は容赦なく追撃を加えていく。
「らぁっ!!」
「──ガッ!?」
 そしてドールは、今度は一聖の回し蹴りに吹き飛ばされた状態で、自身が空けた壁の大穴
の中へと叩き込まれていったのだった。
「……やれやれ。乾君が目を覚まさない内にという事を忘れたのか」
 だが、その様子をぐったりとしたままの奈々子の傍で見ていた大良は少し呆れ顔を見せて
呟いていた。
 ちらと背中越しに奈々子を見てみるが、幸い目覚める様子はまだない。
(……全く。僕らを目撃されれば後のリスクが大きいのは分かっているだろうに)
 一歩、大良は前に進み出た。
 視界の先では壁の穴の中から飛び出してきたドールを、再び一聖が受け止め、殴り飛ばし
ている姿が見える。地面を転がるドール。だがそれでもその攻撃行動は収まる気配はない。
「シルヴィ、援護するぞ。微調整を頼む」
「はい。お任せ下さい、マスター」
 言って、大良は一聖と同じく腰のホルダからカードを取り出した。
 色は澄んだ青色。画かれたロゴ文字は「F」。
『Freeze(氷結)』
 一聖の時と同じく、カードの上蓋を開けると無機質な音声が再生される。
 その状態のカードを大良は口を開けたシルヴィの中にセットすると、スッと取っ組み合い
を続ける一聖、いやドールの方へと銃口を向ける。
「シュヴァルツ(黒)!」
 大良がそう叫ぶと、一聖が一瞬こちらを見遣った。
 すると承知したと言わんばかりにニッと口元に弧を描き、最後に一発、おまけとばかりに
ドールの腹に回し蹴りを叩き込んで吹き飛ばすと、そのまま着地と同時に地面を蹴って後退
して距離をとる。
「……」
 それを確認して、大良は引き金に掛けた指にぐぐっと力を込めた。
 狙いは一つ。目を細め、意識を研ぎ澄まして確実に。
「グ、ギギ……」
 よろと立ち上がり、一聖に再び突進を敢行しようとするドールの足元を。
(……今だ!)
 そして、大良が引き金を引いたその瞬間、
「ガァッ!?」
 放たれた青白い弾丸がドールにヒットし、一瞬にしてその脚を地面ごと凍り付けにした。
 驚いて突進を止めて視線を下ろし、もがくドール。だが凍り付いたその足元は接着された
かのように頑丈に凝結して身動きを許さない。そこでドールは初めて銃口を向けている大良
の方を忌々しげに睨み付けてきた。
「今だ、シュヴァルツ!」
「おうよ!」
 だが、二人はそれに動じはしない。
 大良の言葉を合図に、それぞれがおもむろにグリップの底蓋に手を掛け、引っ張る。
『FULL BURST』
 すると三度目の機械音と共に、紅い、蒼い放電のような奔流がバチバチッとグリップから
銃身全体へと奔っていった。ゴルダとシルヴィがその眼の色を光らせ、同時に口を開ける。
「これで……」
『Fire(火炎)』
『Slash(斬撃)』
 一聖は赤と銀、「F」と「S」の二枚のカードを取り出しゴルダの中に、
「……とどめだ」
『Thrust(刺突)』
 大良は銀、「T」のカードを取り出しシルヴィの中にセットする。
 複数のカードを取り込み、二人と二体は脚を凍らされて動けないドールに狙いを定めた。
 それぞれの銃身をグリップと垂直、逆さのL字状から直線状に可変すると、一聖の銃口の
先には鋭い刀身が、大良のグリップの底と銃口の先には槍の棍と刃が瞬く間に生成される。
 二人は地面を蹴ってドールへと飛び掛っていった。
 一聖のその刀身からは炎が、大良の槍先には急速に冷気が纏われていく。
「ふっ!」
 助走をつけた一聖がそのまま大きく跳躍した。
 だがそれはただの跳躍ではない。大きく見上げなければならない程の尋常でない高さ。そ
れは間違いなく強化された“筋力”が成せる業。
「はぁぁっ!」
 しかし、ドールにそれを見上げたままでいる余裕などはなかった。
 斜め別方向から、中空に跳び、冷気を纏った槍先を突き出さんとする大良の姿があったか
らである。
 吹き付ける猛烈な冷気。避ける事も叶わないドールは今度は脚だけでなく上半身の大半を
も一気に凍り付かされて、固まった。
 そして次の瞬間、大良の刺突と上空から振り下ろされる一聖の炎剣がドールを捉えたのは
ほぼ同時のタイミングだった。身体の芯まで染み込もうとする冷気を一瞬で溶かし、強化し
た筈の身体が真っ二つに切り裂かれる。脆くなった身体を突き崩すように、勢いをつけた槍
撃が突き刺さる。
 二人の繰り出した渾身の一撃。
 それをもろに受けて、“突撃”のドールは断末魔の叫びと共に粉微塵に吹き飛んだ。
 その叫びの余韻と瞬く間に風化してゆくバラバラに砕け散った身体の残滓と、一瞬だけ見
えた靄のようなもの。
 怪人は消え失せ、路地裏の空間は急に静かになった。
 代わりにそこには一聖と大良の二人が何処か誇らしげに着地し、立っていた。
「……ふぅ。一丁上がりだな」
「あぁ」
 その余韻の中に佇む事数秒。一聖はドールが完全に消滅したのを改めて確認すると、やれ
やれと言わんばかりにぐぐっと伸びをした。
 二人はそれぞれに手にした可変済みの銃を逆さのL字型の本来の形に戻すと、剣となった
刀身や槍となった伸びた両端部分が静かに消滅していく。ゴルダとシルヴィの口からは先程
セットしたカード達も排出された。二人の手の中で、それらは一様に蒸発するように画かれ
たロゴ文字や文様を失いながら静かに無色透明のカードへと変わっていった。
「タ……ヴァイス、ナナの様子は?」
「相変わらず気を失ったままだ。幸いな」
 踵を返して二人は奈々子のいる方へと歩いていった。
 薄闇と時折漏れてくる月明かりに照らされながら、彼女はまだぐったりと気絶している。
「そっか。ま、とりあえず無事で何よりだよ。じゃあ変身解いて起こして……」
「待て」
 無事を確認して苦笑を交えて言う一聖。だが、彼のその言葉を大良は遮った。
「……まだ、やっておかなければならない事がある」
「? 何をだよ?」
 奈々子の前に屈みこんだ格好で一聖は大良を見上げていた。
 その視線に大良は見返すことはせず、静かに奈々子を見下ろしながら腰のホルダに手を伸
ばしていた。一回、二回。スライドさせたホルダの中身を確認してから、大良は無色透明の
カードを一枚取り出す。
「シルヴィ、記憶に関する“ユニテル”について確認してもいいか」
「分かりました。データベース、検索します」
 言われてシルヴィの眼のランプがチカチカと光り始めた。
「そうですね……。代表的なものでは『メモリー(記憶)』や『タイム(時間)』などがあ
るでしょうか」
「……特に記憶操作、抹消に長けるものは?」
「メモリー、ですね。記憶そのものに干渉する作用ですから」
「採取できるのは?」
「記憶を刻むもの。ビデオレコーダーなどの記憶媒体であれば確実かと」
 そこで大良は一旦黙った。
 ちらりと周りを見渡す。勿論、こんな路地裏にビデオレコーダーの類は落ちてはいない。
「……では、タイムの採取源は?」
「時間を刻むもの。時計の類などですね」
「そうか」
 再び短く質問し、シルヴィが答えると、大良は奈々子の前に屈み込んだ。
 一聖が僅かに眉根を上げる横で、彼は手にしていた無色のカードの上蓋を開いてから、そ
れをそっと奈々子がしていた腕時計にかざす。
 するとどうだろう。無色のカードの表面に、あぶり出されていくかのように「T」のロゴ
文字と文様が浮かび上がり、無色だった色も深いコバルトブルーへと変わっていった。
 時間にして数秒。
 まるで何かを満たし終わったかのように、やがて上蓋が自動的にスライドし、閉じた。
「……お、おい。まさかまたアレをやるのか?」
 その様子を見て、一聖が思わず渋面を見せながら大良に訊ねていた。
 ちらとぐったりしたままの奈々子を一瞥し、気が進まないといった感じで再び大良の顔に
視線を戻す。
「あぁ。彼女にドールを見られたからな」
 大良は淡々と一聖を見返すこともなく答えた。小さく手を揺らして、シルヴィの口を開け
させる。だが一聖はポリポリと髪を掻きながら、
「でもなぁ……。その、正直言ってこう目撃者が出る度に記憶を消すってのがどうも……」
 若干口篭りつつそう躊躇いを漏らす。
「……僕達の正体やドールの事が明るみになっていいのか?」
「そ、そりゃあ……本当にバレちまうのは、マズイんだろうけどさ」
 だが大良は一聖とは対照的に落ち着き払っていた。
 ちらと一聖を一瞥すると、返ってきた言葉に小さく頷いてみせる。
「そうだ。リスクが大き過ぎる。僕らでもまだ“敵”の全容を把握し切れていない。それを
前に怪人──ドールが実在している事が分かれば人々にどんな悪影響が出るか。今の段階で
こそまだ都市伝説の域で留まっているが、証人を野放しにしていればこれまで以上に混乱が
増していく可能性が高い」
「……そうは言ってもよ、実際被害者はいるんだぞ。理屈は分かるんだが、それじゃあ結局
の所は時間稼ぎみたいなもんじゃねぇのか?」
「確かにな。現にドールについても、ナイトガンナー(僕達)についてもその噂は少なから
ず広まっている」
「まぁ、俺達二人じゃどのみち全部のドールを始末し切れねぇからなぁ……。俺達がいない
所で被害に遭ったり目撃したりしてる奴は、本当はもっといるんだろうし……」
「……。そうだな」
 そこで、二人は暫く黙り込んだ。
 沈黙が路地裏の薄闇の中に溶けていく。
「でも、助けられる奴がいるなら助けてみせるさ。何がなんでもな……。だからよ、その度
にその人間の記憶を消しちまうのが何だか後ろめたくてさ……」
「心配ない。記憶は消すが、心身に直接影響が出る事はない。だな、シルヴィ?」
「あ、はい。対象の記憶という事象を消し去る以外、干渉は無い筈ですので」
「ああ。まぁそれは分かっちゃいるんだけどよ……その、良心がさ」
「……君は感情に流されて墓穴を掘りたいのか?」
 大良は心なし下らないと言った感じで再び立ち上がり、奈々子の方に向き直った。
「それに、彼女は情報を発信するメディアの側の人間だろう? 僕と共に事情を知っている
君は別としても、そんな種類の人間を野放しにして、ドールや僕達の事を嗅ぎ回られるのは
色々と都合が悪い。違うか?」
「……それは、まぁ」
 その言葉に一聖は曖昧な苦笑いで呟いていた。
 立ち上がった大良の横顔を見上げつつ、返す言葉が続かずに黙り込む。
「……心配するな。君の部下だ、悪いようにはしない」
『Time(時間)』
 言って、大良はカードの上蓋を開きシルヴィにセットした。
 静かに奈々子に向けられた銃口が、彼女の額ギリギリまで突き付けられる。
「ま、大丈夫だろ。シルヴィは俺ほどパワーは出ないけど、精密さの要る出力は得意なんだ
からさ」
「はい。大丈夫ですよ、ちゃんとこちらで微調整は致しますので」
「……あぁ。信用してるぜ、シルヴィ」
 ゴルダが、シルヴィが一聖にそう声を掛ける。
 言われて一聖は、吹っ切ったように小さく息をついて奈々子の横顔を見た。
(許してくれ、ナナ。俺達はお前を巻き込みたくないんだ……)
 心の中で彼女に弁明の言葉を掛けて、静かに一聖は目を閉じる。
 次の瞬間、大良が引き金を引き、奈々子の頭が見えない衝撃でガクンと揺れた。
「……これでいい」
 そっと銃口を離して呟く大良。目を開く一聖。再びうな垂れ気を失ったままの奈々子。
 路地裏の薄闇に、コバルトブルーの光が瞬きながら漂っていた。

 それから暫くして。
 ナイトガンナーから黒田一聖、白沢大良に戻った二人は静まり返った夜道を歩いていた。
 此処にもビルはあったが、繁華街とは違って眩しいネオンの光も昼夜を構わぬ音もしない
郊外の住宅エリア。二人を見下ろす街灯が点々とあるだけで周りに他の人影は無い。
「……今夜は悪かったな」
 暫く言葉少なげに方を並べ歩いている途中で、一聖は言った。
 歩を進める度に紐で括った後ろ髪が揺れる。
「うちのが、また迷惑を掛けちまってよ」
 一聖の背中には、まだ目を覚まさない奈々子がおんぶされていた。
 ドールに遭遇しての気絶と、記憶を消された余韻がまだ残っているからだった。
 彼女はだらりと脱力したまま、静かに一聖の背中に身を預けている。
 その様子をちらと見遣ってから、大良は淡々と答える。
「……気にするな。確かに彼女にとっては今回は災難だったかもしれないが、それが結果的
にドールを一体葬り去れることに繋がったんだ」
「それはそうかもしれねぇが……。でもこうして知り合いが狙われたってのは、流石にな」
 一聖が心持ち重苦しく呟くのを、大良は眼鏡のブリッジを軽く押さえながら黙って聞いて
いた。また二人の間に沈黙が降りる。何処からか犬の遠吠えらしき声が聞こえる。
「ま、まぁそれはもう終わった事だよな。ナナには適当に誤魔化しとくよ」
「……あぁ、頼む。そういうハッタリは君の方が向いている」
 自分で作ってしまった沈黙を破るようにして、一聖はゆさっと奈々子をおぶり直しながら
言った。大良も自分の分の鞄に加えて、代わりに持っていた一聖と奈々子の鞄を静かに提げ
直す。再び数秒の間。
「……他にも一つ、収穫があった」
 すると大良は懐から一枚のカードを取り出すと、一聖に見せてきた。
「ん? 空のカードか。お前のか?」
「いや。違う」
 指に挟まれて示されたのは無色透明のカードだった。
 大良は一聖の言葉に小さく否定を返すと、静かに目を細める。
「……これは、乾君の傍に落ちていた」
「え? ナナの?」
 微かに怪訝を見せる一聖。大良はそれを一瞥し、数秒間を置いて訊ねた。
「念の為に聞くが、彼女はこれを以前から持っていたか?」
「……いや、それは無いだろうな。あいつの事だから、もし何かの偶然でカードを見つけて
たとしても俺とか誰かに見せびらかしてくるだろうし。そもそもそんな事になったら、その
日の内にお前に連絡を入れてる筈だろ?」
「……それもそうか」
 一聖の返答にやはりなといった感じで呟き、大良はカードを再び懐にしまい込んだ。
「だとすれば、これはやはりあのドールが持っていたものと考えるのが自然だな」
「あの猪野郎が? 何でまた……」
 眉根を上げて一聖は小首を傾げていた。
 だがそれも数秒。一聖はふと思い出したようにハッとして言った。
「確か前にも何回かあったよな? 空のカードが見つかったのって」
「あぁ。これで五回目になる」
 二人の進める歩は変わらなかったが、互いの緊張と沈黙はそれとは別に動いているかのよ
うだった。大良は淡々と答え、その怜悧な瞳で点々と街灯の光が注ぐ夜道を見つめている。
「……ほぼ間違いない。ドール達は、出没する際に空のカードを携行している」
「カードを? 何でだよ、あいつらは“ユニテル”そのものみたいなものだろ?」
「……まだ推測の域を出ないが、空のカードを持って現れているという事は奴らは何かしら
をサンプリングするつもりでいたのだと思う」
「何だよ? その何かしらって?」
「…………」
 だが一聖のその質問に、大良は黙っていた。
 口元に手を当て、じっと何かを頭の中で組み立てては修正しているかのように。
「……今は、まだ断言できない。材料が足りな過ぎる」
「何だよ。結局また正体不明ってか?」
 帰ってきた返答に、一聖は少し大仰に落胆してみせた。
 だが大良はその反応に応じる事はなく、またじっと考え込むように黙り込んでいる。
「ま、その辺りの事もその内分かるだろうけどよ。お前に色々調べて貰っているしさ。それ
よりも、今は一人でも多くドールどもから皆を守れるようにならねぇと」
「……そうだな」
 再び、二人は言葉少なげになった。夜の色彩が静かに二人の隙間を埋めていくように、心
なしか深くなっていくような気さえする。
「……この後はどうする? 彼女の家は、知らないのだったな」
 暫くして、ぽつりと大良が沈黙を破った。
「あぁ。それに流石に遅いだろ、出向くのも。何処かナナを寝かせられるような所にでも移
動して目を覚ますのを待つさ。一応、目が覚めるのを待った方がいいんだろ?」
「そうですね。無理に起こして後遺症が残る、というような事はないと思いますが」
「ま、大丈夫なんじゃね? 今までのケースだってそれらしい症状には遭ってないしよ」
 一聖の言葉に、大良の鞄の中からもそっと顔を出したシルヴィが代わりに答えた。それに
同じく一聖の鞄からゴルダも顔を出して同意する。
「……あぁ、そうだ」
 するとゴルダ達──否、鞄を見遣った一聖が思い出したように呟いた。
「タイラ、俺の鞄にここ暫くの取材メモが入ってるんだ。お前の解析作業に使ってくれ」
 言われて大良は一聖の鞄の中を探ると、ファイルに閉じられた書類を取り出した。
 一つは手書きの取材メモを収めたらしきファイル。もう一つはそれらを印刷コピーしたら
しい書類を収めたファイルだった。
「…………ふむ。これか? 分かった、使わせて貰おう」
 大良はそのコピーされた方を軽く検めると、それらを自身の鞄の中へと移した。
 夜空を覆う雲の隙間から月がそっと顔を出していた。
 時折暗さをほんのりと照らす月明かり。二人はどちらからともなく立ち止まり、おもむろ
に静寂を湛える夜空を見上げる。
 穏やかな夜だった。
 まさかこの夜闇に紛れて、正真正銘本物の怪物達が跋扈しているなどとは、おそらく誰も
思わないだろう。都市伝説を聞き及んでいる者であっても、多くは話半分の気でいる筈だ。
「……あの時も、こんな夜だったよな」
 そうしていると、ふと一聖が何かを思い出すかのように呟いた。
「……そうだな。あの時も、今夜のように君と飲んだ帰りだった」
 数秒の間を置いて、大良も同じように夜空を見上げたままそう言葉を返す。
 それは、全てが始まった夜。
 肩を並べたまま、二人は自分達の転機となったその日の事を思い返していた。

 
 それは、今から半年ほど前に遡る。
「悠美さん、日本酒お代わり」
「手羽先と焼きがんももお願いします」
 その日の夜も、一聖は仕事帰りに辰巳と共に「まとや」を訪れていた。
「は~い。ちょっと待っててね」
 カウンター越しに向かい合っていた悠美がいそいそと動き出す。
 一聖はお冷を口に運びながらちらりと横目で店内を見渡してみた。時間がちょうど頃合と
いう事もあって、小さな店内は会社帰りのサラリーマン達でほぼ埋まり切っていた。一聖達
の座るカウンター席にも、後ろのテーブル席にも、どちらにも客達各々の宴席の和やかな空
気が漂っているかのように思える。
 喧騒から距離を置いたかのようなこの店の落ち着いた雰囲気。そこに安らぎを覚えるのは
何も一聖達だけではない。
「……お待ちどう」
 そんな客達の中を、エプロン姿の大良が行き来している。
 大きめの盆に種々のつまみや酒を載せ、テーブル席の客達へと渡しては再びカウンターの
中に戻っていく。その往復の繰り返し。
「兄ちゃん、追加頼むよ~」
「……はい」
 中年客の集団に呼ばれて、今度はメモ帳を片手に彼らの追加注文を控え始める。
 聞き終えると再びカウンターの中に戻り、悠美の傍らの空きスペースにそのメモを置く。
テーブルの番号と注文がそれぞれ綺麗な字で控えられている。そして悠美がそれらの注文の
品を作り終えてそのスペースに置くと、大良は再び盆に品々を載せて客達の方へと配膳に向
かっていく。
 言葉数も少なく正直言って接客としては無愛想だったが、その動線は効率的であり、傍目
からもテキパキとした様だった。
「……白沢君も随分ここに慣れて来たみたいだね」
 そんな大良の働きぶりを見遣りながら、辰巳がビールを片手に呟く。
「ですね。でもまぁ、あいつが接客しているっていうのは未だに違和感というか、あんまり
似合わないなぁって思いますけど」
 一聖も目の前の出汁巻き卵をつまみながら、そう苦笑する。
「似合わないって……そもそも彼を悠美さんに仲介したのはイッセーじゃないのかい?」
「ええ。まぁそうなんですけどね」
 言われて一聖は小さく頷いていた。
 学生の身であり、生活費や学費を稼ぐ必要があった大良。既にその頃にもバイトを掛け持
ちしていたのだがそれでも決して家計は楽ではなかったという。
 ある日そんな話を一緒に飲みながら聞いていた一聖は、話半分で彼に提案してみたのだ。
『……だったら、悠美さんの手伝いでもしてみるか? バイトでさ』
 元々まとやは彼女と亡き夫とで回していた店だ。でも今は彼女一人である。店自体がそん
なに大きくないので特段困っている様子はなかったが、それでも今夜のように満席に近い入
りになると流石に人手が足りなさそうに一聖には見えていた。
『この店のか……?』
『ああ。学問以外の勉強って意味も兼ねて、な』
 とはいえ、正直言って接客業をする大良というのは想像しにくかった。
 元々愛想のいい人間ではない。性に合わないかもしれない。でも彼が少しでも明るくなれ
る一助となればそれもいいだろう。そんな気持ちがあったのもまた事実だった。
『……そんな事は君の一存で決められるものではないだろうに。でしょう、女将?』
『あら、私は構わないわよ?』
『……』
『え。マジで?』
 だが当の悠美は、二人の話にあっさり同意を示してくれた。
『人手が増えてくれれば助かるもの。特に混雑している時分は仕事を分担できるし、その分
お客さんを待たせなくてもいいしね。一人や二人ぐらいなら、雇ってもいいわねぇ』
『……そう、ですか』
『それに……黒田君が言ったみたいに、色んな人と接するのだって勉強よ? うちみたいな
所に来る人達といってもサラリーマンさんが殆どではあるけどね』
 少し驚き、慎重になって黙っている大良に、悠美はにこやかに微笑みながらそう語りかけ
ていた。一聖を通して同じく常連となっていた彼の人となりというものを、彼女も彼女なり
に気に掛けていたのかもしれない。
『だとよ。どうする? ちょっくら急な話になっちまったが、悠美さんもOKだそうだし』
『……分かった。女将、宜しく……お願いできますか?』
『ええ、こちらこそ。宜しくね、白沢君』
『……はい』
 軽いお辞儀と小さく小首を傾ける柔らかな微笑。
 こうして、大良の新しいバイト先が決まったのだった。
「今でも、何処か心配なのかもしれませんね。タイラはあんな性格だから、俺はともかくと
してもいつか他の客と溝を作っちまうんじゃないかって」
 遠目に大良の働く様子を見遣りながら、一聖はやや神妙な面持ちで呟いていた。
 その横顔を、辰巳は黙した微笑で眺めていた。再びビールを口にして静かに言う。
「それはきっと大丈夫さ。イッセー、君自身が彼の為の想って提案したのならね」
「……そう、ですかね」
 一聖は小さく苦笑を漏らしていた。
 確かに人付き合いの練習を、という意図もあったのだろうが……結構、あの時の場の勢い
で言っていた感もある。
 買い被られているようで申し訳ないやら、恥ずかしいやら。
 一聖はそれらを一緒くたに飲み込むようにしてぐいとお冷をあおり、喉を潤した。
「はい。お待ちどうさま」
 悠美がカウンター越しに日本酒と追加のつまみを二人の前に並べた。
 既製品を弄ったものなどではない彼女自身の手作り。そこにもまたこの店の温かみが宿っ
ているかのように思える。
「どうも。ところで悠美さん」
「? なぁに?」
「白沢君の事だけど。悠美さんは彼の働きっぷりをどう思います?」
 空になった皿を整理し悠美に返しながら、辰巳は今度は彼女に話を振っていた。
「う~ん。そうねぇ……」
 悠美は口元に指を当て、少し考え込む仕草を見せた。
 向こうのテーブル席で黙々と動き回っている大良を見遣りながら、
「人手として助かっているのは確かね。それにあの子は頭の回転も速いから、色々仕事の効
率をよくしてくれるアイデアも出してくれてるし」
 まるで我が子を褒めるかのように朗らかな笑顔で言う。
「……あとはもうちょっとお客さんに愛想良くしてくれれば満点かしら」
「はは、愛想ね……。それはちょっとあいつには難しいだろうなあ」
 ふっと緩む頬。一聖達は苦笑でも爆笑でもない穏やかな感情に包まれていた。
「……どうした?」
 そこに、大良が戻ってくる。
 自分が話題に上っていたとは知らず、妙に温かな彼らに一人怪訝に近い表情を見せる。
「何でもねぇよ」
 一聖は微笑んでいた。辰巳も、悠美も。
 かつては他人を頑なに拒んでいた大良(とも)も今はこうして人々の輪の中に混ざろうと
してくれている。怒ると怖いけど頼りになる先輩に、安らげる行きつけの女将もいる。連絡
を取れば、かつての仲間達ともあの頃のように肩を組んで笑い会う事もできる。
「……何でも、ねぇのさ」
 決して裕福とは言えなくても、そうした温かさを得られるのは実は幸せな事である筈だ。
 だが幸福とは目に見えるものではない。何よりその全てが肯定されるべきとも限らない。
 何故なら、傷つけられて、傷ついて、そうして初めてその存在に気付けるもので。
 何よりも……得てして目の届かない誰かの不幸の上に成り立っているものなのだから。

「それじゃあ、俺はこれで」
「はい。お疲れさんです」
 それから暫くして。
 一聖は店の前で辰巳と別れた。まだ残っていた他の客達も、ほろ酔い気分のまま思い思い
に散り散りになって歩き去っていく。
「……うぅ。寒ぃな」
 軒先に立ちながら、一聖はコートをもぞっと羽織り直した。
 季節は冬の峠。薄雲が掛かり月明かりと地上のネオンの光が街を照らしているものの、外
の空気はひんやりと乾いていて冷たい。思わず心持ち身を屈め、殆ど人通りもなくなり静か
になった辺りの風景をぼんやりと眺めてみる。
 離れた位置から聳えているビルの群れ。
 眼には夜闇を抉じ開けるような照明の集合が、耳には日が落ちても活動する事を止まない
街の息遣いが届いてくる。
 こうしてみると、やはりこの街は様変わりしたのだと思う。でもそんな一方で、まとやの
ような昔ながらの清浜の息遣いもまた静かに残されている。
 もしかしたら、この街は今、絶妙なバランスの中にあるのかもしれない。
 一聖の脳裏にふとそんなフレーズが浮かび、消えた。
「……待たせたな」
 そうしていると、店の引き戸を開けて大良が出てきた。
 バイト時のエプロン姿ではない、シックな色合いの防寒着を羽織った普段着姿だった。
「お、早いな。店の後片付けはいいのか?」
 振り返って一聖はちらと店内を見遣った。中はまだ温かな照明が灯っている。
「あぁ。後はやっておくからもう帰っていいと女将が」
 二、三歩進んで一聖の横に並びながら大良は淡々と答えたが、
「……君を寒空の中で待たせたままにするのも、悪いからな」
 続けたその言葉だけは少しだけ尻すぼみになっていた。
「別に気にする事なんざねぇのに。悠美さんも人が良過ぎるよ。なぁ?」
「……。かも、しれないな」
 にたにたと笑っている一聖。
 そんな彼に、大良は僅かに眉間に皺を寄せてながら応えている。
「ま、それじゃあ行くとしましょうかね」
「……あぁ」
 そして二人は、まとやを後にして静けさの漂う道を進み出した。
 道中、二人はあえて繁華街のある表通りに戻る事はしなかった。どちらから言った訳でも
ないのに自然とそうなっていた。もしかしたら、お互いに都会的な煌めきの中よりも静かで
ゆったりとした時間と空気に身を任せる方が心地よいと思っていたのかもしれない。
「で、これからどうする? 開いている飲み屋を探そうか?」
 歩きながら、一聖はそう大良に顔を向けつつ言った。
 右手の指先でくるくると宙に円を描いている。
「別に僕は飲みたいとは言っていないが……。さっきまで飲んでいたばかりじゃないか」
「あれでしまいだとも言ってないだろ。次はお前と飲もうと思ってな」
「……そうか」
 呆れたように小さく肩を竦めて見せる大良だったが、その表情は好意的な苦笑のように見
えた。一聖が「えっとここら辺でまだ開いてる所は……」と記憶を辿ろうとしている。二人
は人気の皆無な、大通りから外れた静まり返った夜道を進んでいく。
 ちょうど、そんな時だった。
 不意に、横殴りの風が吹き付けてきた。
 ビル風だった。海辺に近いこの街では潮風が運ばれてくる事は珍しくはない。しかし街が
現在のようにビルが建ち並ぶ光景に変わってからはその勢いが増しているような気がする。
行き場を失った風が、空間を埋めるビル同士の隙間を駆け抜けて行くからなのだろう。
「うひっ、寒っ!」
 一聖は思わずコートの上から身体を抱き締めていた。
 幸い風は数秒とせず止み、辺りは何事も無かったかのように再び静まり返る。
(ふぅ……。やれやれ、この街の風もだいぶ変わっちまったもんだよなぁ)
 風だ、何という事はない。一聖はそう思ったのだが。
「…………」
「? タイラ……?」
 彼の傍らを歩いていた大良だけは、別の反応を見せていた。
 見遣ると、大良は深刻そうな面持ちでじっと眉間に皺を寄せて立ち止まっている。
 何だろうと一聖は恐る恐るといった感じで声を掛けようとした。だが大良はその呼び掛け
には応じず、じっと風の吹いてきた方向──路地裏に続く家屋とビルの隙間へと視線を向け
ている。
「おい、どうしたんだよ?」
 数歩進み出る。それでも大良はじっと一点を見つめて立ち止まったままだった。
 眉間に皺を寄せた神妙なその横顔。彼のそんな様子を見て、一聖は今度は怪訝の眼差しで
声を掛ける。
「……臭いがした」
「あ?」
「……血の、臭いがした」
 大良の返答は、搾り出すような呟きだった。
 血の臭い。その言葉に思わず一聖の動きが止まる。
「な、何言ってんだ? そんなの俺には全然……」
「…………」
 始めは否定し、笑い飛ばそうとした。
 だが当の大良は真剣な面持ち、眉間の皺を緩める事はなく、じっと何かを考え込んでいる
かのようにその場で立ち尽くしている。十秒、二十秒、三十秒。彼の重い沈黙と共に一聖の
心にもえもいわれぬ不安感が圧し掛かってくるようだった。
「……すまない」
 だがその沈黙を破ったのは、大良の方だった。
「多分、気のせいだろう」
 生真面目な表情は変わらずだったが、彼は一聖の心配そうな表情(かお)を一瞥すると静
かに踵を返して歩き出そうとする。
「ま、待てよ!」
 だが一聖は、思わず立ち去ろうとする彼の肩を掴んでいた。
 肩越しに振り返る大良に、一聖は渋面を作りつつ言う。
「いいのか? 素通りしちまって。もし……もしもだが、本当に何か流血沙汰でも起きてた
らどうするんだよ?」
 大良はじっと一聖を見つめていた。
 動揺を隠そうとするその内心を、静かに見透かしているかのように。
「……行くのか?」
 スッと目を細めて、大良は言った。
 一聖は少しだけ語気を強めてから吐き出すようにして答える。
「お、お前がそんな事言うからだろ? 気になるじゃねぇか……」
「……」
 数秒、二人は黙り込んだ。
 ややあって一聖が掴んでいた手を離し、二人はそっと風が吹いてきた路地裏を覗き込む。
 暗かった。照明などは届いていないらしく、そこにはぽっかりと空いた空洞のような暗闇
が静かに口を開けているように見える。
「……血の臭い、しねぇな」
「気のせいかもしれないと言っただろう。……僕の、勘違いかもしれない」
 そう呟く大良の声色は何処か沈んでいるようだった。
 だが一聖はそんな彼に気づく事はなかった。闇の中にある何かを探らんとするかのように
じっと目を凝らし、身を乗り出そうとしている。
「何だよ今更。いつもはっきりと物を言うお前がらしくもねぇ」
 だが大良は黙っていた。じっと、逡巡するようにその場に立ったままだった。
「まぁ、行くだけ行ってみようぜ? 何も無いならそれはそれでいいんだし」
「……だが」
 言いながら一聖は、
「いいんだよ。仕事帰りだが、俺はこれでも一応ジャーナリストだからな。事件があるかも
しれねぇってのに素通りするわけにはいかねぇよ」
 一歩また一歩と先に路地裏の中へと進んでいく。
「それに……俺はお前の感覚ってものを信じたいんだ。余程の事じゃなきゃ、お前はそんな
表情(かお)はしねぇしな」
「…………」
 その言葉にも、大良は黙っていた。
 感情を読ませまいとするかのような平坦な表情。その顔色を、一聖は肩越しに振り向いた
格好で静かに見遣っている。
「……確かめてみるだけだぞ」
 ややあって、大良が視線を持ち上げてから言った。先を行く一聖の後に続くようにして路
地裏への暗闇にその身を浸していく。一聖は背後に寄って来た大良を確認すると言った。
「あぁ。行こうか、ちょっとした寄り道にな」
 路地裏に入った途端、周囲の物音が急に遠くに退いていくかのような錯覚がした。
 辺りに漂っていたのは、不気味なまでの静寂。発展した街の煌びやかさの裏返しを象徴す
るかのように、手探りで薄暗く細い道を進む二人の周囲は閑散としていた。
「人の気配は……しないか」
「まぁ、時間も時間だからなぁ。もう少し、進んでみようか」
 それでも二人は暫く路地裏を進んでみる事にした。
 表通りも多少はそうだが、こちらの方が一層複雑に入り組んでいる。一聖は時折ちろりと
舐めた指先を外気に当て、風の流れを確認しながらくねくねと進行方向を変えていく。
 それでも暗闇の中の風景は中々変わり映えはしなかった。延々と年数を経た建物の壁同士
に挟まれた細道が静かに延びているだけだった。後ろに続く大良も先程からじっと黙ったま
まで、時折気を掛けなければそのまま空気と同化しそうなほど静かだった。
(やっぱ、気のせいなのかな……)
 暫く歩きながら一聖もその思いに傾きかけていた、ちょうどそんな時だった。
「……お?」
 急に、視界が開けた。
 どうやら路地裏の中の、利用されずに残った空き地の類に出たらしい。
 薄雲から時折顔を出す月明かりが、コンクリートの灰色の地面を静かに照らしていた。所
々に廃材らしきものが積まれてるのが見えたが錆び付いているものも多く、ここが随分と長
い間放置されている場所であることが窺える。
「……イッセー。何か、いる」
「え?」
 そしてそこで二人は見つけたのだった。
「あれは……人?」
 壁際でぐったりと座り込んでいる一人の人影を。
 二人は恐る恐るその人影に近寄っていった。背後からの月明かりが消えては照り、消えて
は照りを緩慢に繰り返している。それでもその人影は項垂れたままぴくりともしない。
「お、おい。大丈夫か?」
 屈み込んで、一聖は軽くその男性の肩を揺さ振りながら声を掛けてみた。
 年格好は四十代から五十代程だろうか。ばさついた髪に着古したコートを羽織っている。
「……ん」
 ややあって、男性が反応を見せた。
 ゆっくりと瞼を開け、薄っすらとぼんやりとした眼で一聖と大良を見る。
「だ、大丈夫か? 起きてるか、おっさん?」
「……」
 だが様子がおかしい。男性は一聖の言葉にはすぐに反応はせず、微かに肩で息をついてい
るようだった。その様子を見て、それまで一聖の後ろに立っていた大良が無言で眉間に皺を
寄せると、男性の前に近付き、屈み込むとぽつりと言った。
「……イッセー。どうやら只事ではないらしいぞ」
「あ? 何を……」
 一聖が言う前に、大良はスッと手を伸ばした。
 男性が先程からずっと押さえていた脇腹の手を、そっと掴んで退けてみせる。
「──ッ!?」
「…………」
 一聖が息を呑んだ。大良が更に深刻な目付きになる。
 脇腹はべっとりとした何かで重たく湿っていた。何だと怪訝に思うのも束の間、その正体
は直後背後から顔を覗かせた月明かりで露わになる。
 鮮血。深い傷口から溢れる出血の跡だった。
「お、おっさん、一体あんたどうしたんだよ!? こんな大怪我、何処で……」
 だが動揺こそしていたが、一聖はそのまま固まるような事はなかった。
 慌ててポケットからハンカチを取り出すと、そのまま傷口に押し当てる。じわりと、あっ
という間に薄い布地が血を吸って鈍く赤黒い色に染まっていく。
「タ、タイラ、救急車だ。救急車を呼んでくれ!」
「あぁ」
 滲んでくる生温い血の感触を掌で感じながら、一聖は既に携帯電話を取り出そうとしてい
た大良にそう呼び掛ける。
「……待ってくれ」
 だが、当の男性はそんな二人の行動に待ったを掛けた。
「待てって……。放っておけるわけねぇだろ。医者じゃないから分かんねぇけど、このまま
じゃおっさん、死んじまうぞ」
「……どのみち同じだ。居場所が奴らに知られれば、結局始末される」
「は? し、始末って……。何だよ、それ……」
 辛そうに息をつきながら彼はそんな事を言う。
 一聖はハンカチを押さえる手はそのままに、戸惑いと怪訝の眼差しを男性に向けていた。
その一方で大良は携帯電話を操作する手を止め、じっと男性の様子を窺っている。
「……君達は、奴らの仲間では……ないのか?」
「? 奴らって誰だよ?」
 そして今度は男性から要領を得ない質問が飛んできた。
 何の事だ? 一聖はますますわけが分からずに、じっと押し黙っている大良とちらりと顔
を見合わせていた。少し間を置いてから、静かに大良が代弁して答える。
「僕達は偶々ここに来ただけです。誰かに頼まれたというわけではありません」
「…………そう、か」
 その言葉に、男性の表情がふっと緩んだような気がした。
「奴らの仲間では、ないんだな……」
 安堵。いや、それだけではない。彼のその呟きには他にも何処か申し訳なさのようなもの
が混じっているかのようにも見えた。
 男性の、弱々しくも荒い呼吸の音だけが周囲の闇の中へと染み入っていく。
 一聖と大良はそんな様子を目の当たりにして、ただ沈黙を返すことしかできなかった。
「……これも、運命なのかも……しれない」
 その沈黙がどれだけ続いただろうか。
 暫くじっと反応を待つようにして固まっていると、男性は長い間を置いてからまるで絞り
出すかのようなか細い声で何かしらを呟いた。
「……君達に、頼みがある」
「えっ?」
「……何でしょう?」
 すると男性は傍らに置かれていた二つのアタッシュケースに手を伸ばした。
 意識は朦朧とし、身体も怪我で思うように動かない筈なのに彼は最後の力を振り絞るよう
にしてそれらを二人の前に差し出し、置く。
「これを持って……逃げて欲しい」
 弱々しい声で紡がれた懇願。
「な……何言ってんだよ、おっさん!」
 だが一聖は、その頼みに対して戸惑いから思わず声を荒げていた。
「あんた、正気か? そんな大怪我してんだ。すぐに手当てしないとやばい事ぐらい自分で
も分かるだろうが。あんたは自分の命よりこの鞄の方が大事だって言うのかよ!?」
「……あぁ。そうだ」
 しかし今度は淀みのない即答が帰ってきた。
 一聖はその言葉と急に真剣な面持ちになった彼に虚を衝かれたように眼を丸くし、言葉を
詰まらせてしまう。
「僕は、もう長くないだろう……。自分の事だ、分かっているさ。だが……この子達だけは
何としても……守らないといけない。奴らには……絶対に渡っては、ならないんだ……」
「おっさん……」
「…………」
 それでも力を込めた表情は長くは続かなかった。
 すぐに心身のダメージが再び男性を襲い、表情を苦痛に変える。
 一聖は居た堪れないと言わんばかりに苦々しい表情になり、心配そうに静かに荒い息遣い
を続ける男性を見つめた。その横で、大良が無言のまま静かに眼鏡のブリッジを指先で持ち
上げている。
「……頼む。奴らから、この子達を守って欲しい」
 かくんと男性が壁に背を預けたまま頭を垂れた。
 その必死さに、一聖は困ったように黙り込んでいた。助けを求めるかのようにちらりと隣
の大良を見遣るが、彼もまたじっと黙したまま、頭を垂れたままの男性を見つめている。
「……本当に、いいんですね?」
 その次に沈黙を破ったのは大良だった。
 眼鏡の奥に怜悧な瞳を宿して、そう男性に静かで、それでいて重苦しい確認の言葉を投げ
掛ける。数秒、大良とゆっくりと顔を上げた男性の視線が交差した。
「あぁ……。僕ではもう、この子達を……守り切れそうにない……」
「……そうですか」
 スッと、大良がアタッシュケースの一つに手を伸ばした。
 そしてもう一度、確認するように男性に一瞥をくれると立ち上がり、そのまま静かに踵を
返そうとする。
「お、おい、タイラ! 待てよ!」
 思わず引き止めようとする一聖。
「君もだ。早くしろ」
「なっ……!? お、お前、本当に言われた通りにする気かよ!? お前、おっさんをこの
まま見殺しに……」
「いいから早くしろ」
 だが大良は至極冷静な雰囲気を崩す事なく、まだ男性の前に屈み込む彼に言い放った。
「……感情に、流されるな。君には分からないのか」
 肩越しに振り返る大良の眼は冷たく、そして苛烈だった。
 思わず一聖は押し黙る。何処かで見たその瞳に、かつての記憶が刺激される。
「だ、だけど……」
 ちらりと男性の方を見遣る。
 何故だろうか。彼は先程よりもずっと穏やかな表情をしていた。それほどこのアタッシュ
ケースには彼にとって大切なものが入っているという事なのか。
 一聖は、戸惑いと混乱でどう動いていいのか分からなくなっていた。
(……ん?)
 ちょうどそんな時だった。
 それまでしんと静まり返っていた場に、何処からか多数の足音が聞こえてきた。
 ただの足音ではない。極力足を忍ばせ、且つ目標(こちら)へ向けて順繰りに距離を詰め
てきているような、そんな何処か「統率」というフレーズが浮かぶ足音の群れ。
 大良が、一聖がそれぞれに何事かとその音のする方向へ目を向ける。
「……まずいな。今度こそ、本当に追いついてきたらしい」
 男性は斜めに天を仰ぎ、息をつきながら呟いていた。
 追いついてきた? その言葉に一聖は怪訝を漏らし、大良は静かに目を細める。
「急げ。奴らが……追いついて来た」
 弱々しくも精一杯の焦りが込もった声が二人に投げつけられた。
 小さく頷く大良。だが、一聖はまだ逡巡を見せて心苦しく男性と大良、もう一つのアタッ
シュケースを交互に見返している。
「で、でも」
「いいから急げっ。君達まで、僕と同じ目にっ……遭わせるわけには、行かないっ」
「……イッセー」
 一聖は頭がパンクしそうだった。
 目の前には大怪我を負った男性がいる。だがその本人は自分の命よりも得体の知れない金
属の鞄の無事を懇願してきている。
 ボリボリと、一聖は髪を掻き毟った。
「……ぬああっ! わ、分かったよ! 言う通りにする。すればいいんだろっ!」
 半ば自棄になりながらも、一聖はガシッとアタッシュケースを握り締めて立ち上がった。
数歩離れて立つ大良の方へと駆け寄り、立ち去ろうとする。
「……ありがとう。宜しく、頼む」
 小さな声で男性が呟いていた。
 肩越しに一聖が、引きつった表情でその場違いな微笑を見返した。すると大良が目だけで
彼に先を促してくる。数秒の逡巡。後ろ髪を引かれるようにして、やがて二人は小走りで路
地裏の闇の中へと消えていく。
「…………」
 場は、男性一人になった。しんとした冷たい静寂が周囲に舞い戻ってくる。
(……これで、あの子達はまだ無事でいられるかもしれない)
 できるだけ部外者を巻き込みたくは無かったが、自分がこんな状況では限界があった。
 せめてあの子達だけは奴らから引き離さないといけない。ただその思いだけがこの時の彼
を突き動かしていた。
 遠くから少しずつ足音が聞こえてくる。
 間違いない、奴らの手の者だ。訓練された者達の隊伍と忍び足の音だ。この辺りを捜索し
ているのだろう。自分が見つかってしまうのは最早時間の問題だった。
(……だが、その前に)
 瞼を閉じ、耳を凝らしてたのを止め、静かに目を開く。
 目に映る景色が霞んでいた。怪我のダメージはもう相当にキているらしい。
 男性はそれでも力が満足に篭らない手を懐に伸ばし、
(やって……おかなければいけないことがある……)
 そっと、一枚のカードを取り出した。
 それはフロッピーディスクよりも一回りほど大きく、長細い。
 シアン色で彩られたその表面には「M」のロゴ文字が刻まれていた。
(……これで、僕の中から彼らの記憶を……消し去る)
 もう彼らと会うことはないだろう。だがそれでも、身勝手ながらに思う。
 願わくば……これから迎えるであろう受難に、彼らが正しく立ち向かえんことを。
 誰にも聞こえぬ祈りと共に、男性はゆっくりとカードの上蓋を開いた──。

 一聖はアタッシュケースを片手に夢中で駆けた。
 脳裏に残る男性の姿、最後に見せたあの状況に不相応な微笑。それらが入り交ざって一聖
の後ろ髪を引き続けるかのようだった。
(くそっ……! 一体何がどうなってんだよ……)
 グッと唇を噛み締めながら、一聖は先を行く大良の背中を見た。
 全速力というわけではなかった。だが早足で、時々何かを手元で確認しながら路地裏の道
をジグサグと進んでいる。
 何故か中々声を掛ける事はできなかった。
 自身の頭が混乱したままで上手く回らなかった事もあるのだろう。一聖は暫くの間、脳裏
に過ぎる不快感と後ろめたさに抗い、振り払うかのように、大良の後ろ姿を追いかける事に
意識を集中させようと試みた。
「……」
「はぁ、ふぅ……」
 入り組んだ中を走って、距離感も時間も分からなくなっていた。
 不安や戸惑いが、疾走という身体的興奮と共に奇妙な綯い交ぜと化しているようだった。
 そうしていると、静かに視界の向こうから暗がりを照らす街灯の光が届いてくる。
 おもむろに、大良がゆっくりと歩を緩めて立ち止まった。一聖も同様に立ち止まり、少々
荒くなった呼吸を整えてから彼の横顔を見遣る。
「……おい、タイラ。どういうつもりだ……?」
 ごくっと息を飲む。少し声が荒くなる。記憶に男性の姿が蘇る。
「どうして、どうしてあのおっさんを見捨てるような真似をした!?」
 次の瞬間には、一聖は声を上げて大良に掴み掛かっていた。
 勢いに押されて少しよろめく彼を引き寄せ、彼の淡白に過ぎる眼を睨み付ける。
「……」
 だが大良は、まるで一聖の態度を予想していたかのように冷静だった。
 顔色一つも変えず、数秒、じっと彼の顔を見返してから言う。
「誰が見捨てると言った?」
「……え?」
 面を喰らったように一聖の手が緩んだ。
 同時に、大良は静かに掴まれていた胸倉から一聖の手を離すと半身を返す。大良によって
遮られていた街灯の光がより強く届いてきた。
「……彼は、あの場で救急車を呼ぼうとして断ってきた。どのみち居場所が割れれば始末さ
れてしまうと」
「ああ。だけどそれがどうしたってんだよ。手当てしねぇとやばいのは間違いねぇだろ」
「……君はもう少し、頭を働かせた方がいい」
 その光に反射的に目を細めた一聖の顔を見遣って、大良は淡々とした口調で話し始める。
「居場所が割れればどのみち始末される──言い換えれば、関わった僕らもその対象となり
かねないという事ではないか?」
「え……? お、俺達が? そ、そんなこと……」
「無いとは言い切れない。実際、彼はあれほどの重症を負わされていたんだ」
「で、でも」
「僕らが走り去る間際、追っ手らしき者達の足音もしていた」
「…………」 
 一聖は押し黙った。
 そう言われればそうなのかもしれない。あの時は目の前の彼を助ける事で頭がいっぱいで
そのような可能性にまでは思考は及びもしなかったのだ。
 大良はそんな彼を数秒、じっと見つめてから続ける。
「……そんな状況になってでも、彼は自分の命よりも大事にしていたものがあった。偶然に
やって来た赤の他人である僕らに託してでも守りたいと言った、大切なものが」
 言われて、一聖は手にしていたアタッシュケースを見下ろした。
『……頼む。奴らから、この子達を守って欲しい』
 あの時、彼が懇願した言葉が再生される。
 半ば勢いと共に受け取った、彼の“命より大切なもの”──。
「……だからって、自分を棄てるような真似までしなくてもいいじゃねぇかよ。自分が死ん
じまったら、どうにもならねぇだろうが……」
 ギュッとアタッシュケースを握る手に自然と力が篭っていた。
「……そうさ。僕だってこんな所で君を失いたくはない」
「え?」
「…………」
 呟くような小さな声。
 一聖はサッと顔を上げたが、大良は変わらず淡々とした表情のまま壁に背を預けている。
「……託された以上、短絡的な行動で僕らが彼の二の舞になるのは彼自身も望んではいない
だろう。だったらどうするか? それは自分達に危害が向かぬように、且つ彼を助ける行動
を取ることに他ならない……違うか?」
 片手の携帯電話の画面操作を終了させて、大良はポケットにしまった。
 ちらと、視線を路地裏の外の方に向ける。
「……あ」
 そこで一聖はやっと彼の言わんとする事を理解できた。
 街灯に照らされた歩道の一角。自分達の潜む路地裏を抜けた向こう側に、公衆電話が静か
に佇んでいるのが見えたのだ。
「携帯電話では発信記録を探れば個人を特定できてしまう。だが、公衆電話ならそうはなら
ないだろう?」
「そっか……。じゃあ、さっきまでジグザグに動いてたのは」
「あぁ。地図上から最寄の公衆電話を検索していたんだ」
「なるほど、そういう事か。でも、それならやっぱおっさんを一緒に連れてきた方が良かっ
たんじゃねぇのか?」
「さっきも言っただろう? 彼と関わった事を追っ手に知られれば僕らの身が危うい。それ
にあれほどの怪我だ、医者でもない僕らが不用意に動かすのは得策ではないと思う」
「うぅむ……。それは、そうかもしれんな……」
 そんな大良の言葉に一聖は少し安堵した。
 彼も、ただの非情ではなかったのだから。
「……流石だよ、タイラ。さっきは……掴みかかって悪かった。よし。そうとなりゃ、早速
救急車を呼んで……」
 そして入り混じる気持ちが再び熱を帯びてくる中、公衆電話へと向かおうとしたのだが。
「待て」
 はしっと、大良はそんな通り過ぎようとする一聖の肩を掴んで止めてきたのだ。
「え? 何言ってんだよ? 早く呼ばないと……!」
 振り返りながら、一聖は少し語気を強めていた。
 何にせよ人命が係っている。時間が惜しかった。もしかしたら……もう、追っ手とやらに
見つかってしまっている可能性だって充分にある。
「通報は、僕がする。それより君はこのアタッシュケースを検めてくれないか?」
「うん……? あ、あぁ……。分かった」
 大良の分も受け取り二つになったアタッシュケース。
 足元に置いたそれらを、一聖は見下ろした。
「ん? でもこれ開けられないぞ。鍵付きみたいだ」
 見てみると、ケースには鍵がついていた。四桁の数字を合わせると開く、オーソドックス
なダイヤル式の施錠だった。
「今この場で開けられなくともいい。どのみちそれらは人目のつかない場所へ運ぶ事になる
だろうからな。所詮は千分の一だ。時間を取って順番に試していけばいずれ開く」
 大良は踵を返しつつ言った。
 指紋などを残さない為だろうか。ポケットからハンカチを取り出して掌を覆っている。
「そちらの優先順位は後だ。拳銃や麻薬か……何にせよ、それに対する対応は中身を確かめ
てからにした方がいいだろう」
「……そうだな」
 周囲を警戒しつつ公衆電話の方へと歩いていく大良を横目に、一聖はアタッシュケースに
向かい合った。
 正しい番号に合わせれば開く筈だ。問題はそれが何なのかだが……。
(千通りも試すのか……面倒くせぇな)
 一聖は僅かに渋面を浮かべた。口では簡単だが実際に試していくのは正直難儀ではある。
「タイラ」
 そこで一聖は歩いていく大良に呼び掛けていた。返事はなく、ただ肩越しにこちらに視線
を寄越してくる。
「何か、適当に四桁言ってみてくれ」
 その言葉の意図を、大良はすぐに瞬時に理解したらしく若干呆れた顔を見せた。だが、
「……三〇五七」
 それでもさほど間は空けず、そう任意の数字を口にして歩き去っていく。
「よっし……」
 その返答を聞いてから、一聖は二つのアタッシュケースの前に屈み込み、それぞれの番号
を合わせ直してみた。
 一つは頭の中に適当に浮かんだ数字を、もう一つには大良が口にした数字を。
 指先で連なる金属の輪に彫られた細かい数字達が回転し、そっと新たな列を成して……。
 ──カチリ。
 重なり合った音と共に、開いた。
「…………ぇ?」
 一聖は思わず手を止めて固まっていた。
 気のせいか? いや、間違いなく音は聞こえた。
 まさか一度で開いてしまうなど思いもしなかったが……。
 静かに鎮座している二つのアタッシュケース。それらを見下ろしながら、一聖は心持ち辺
りをきょろきょろと見渡していた。
(た、タイラは……まだ電話中か……)
 電話ボックスの中ではまだ大良が受話器を耳元に当てて話していた。
 片手には携帯電話が握られている。おそらくメモしておいたという現場への道順も一緒に
救急隊に伝えているのだろう。
(……ど、どうしたもんか)
 いざこうもあっさり開いてしまうと、却って躊躇してしまう。
 一聖は暫し、アタッシュケースと睨めっこするようにその場に座り尽くす。
「……どうした?」
 そうしていると、通報を終えて大良が戻ってきた。
 行きと同じように周囲を見回して警戒しつつ、サッと路地裏の一聖の下に歩いてくる。
「いや、その……」
 一瞬だけ一聖は口篭った。だがすぐに苦笑と共にできるだけ軽い感じで答えた。
「……開いちった。適当に番号を入れたらさ」
 その言葉に、大良は黙ったまま小さく驚いたらしかった。一瞬、表情に「何だと?」と驚
きの色を漏らしたが、すぐにいつもの冷静な顔つきへと戻る。
 確率にして千分の一。まさか一発で開きはしないだろう。だが、開いてしまった。
 静かな苦笑と小さな驚きと。
 一聖と大良は二人して開錠に成功してしまったアタッシュケースを静かに見下ろす。
「こんなあっさり開いちまっていいもんなのかな……? まぁでも、もしかしたらこいつら
は俺達に開けられる運命とかだったりして……」
「…………。そんなものは、信じたくはないがな」
 苦笑のまま半分冗談でそう一聖に対し、大良は生真面目な表情で静かに言い返していた。
眼鏡のブリッジを指で軽く押し上げてから、そっと一聖の隣、もう一つのアタッシュケース
の前に屈み込む。
「……開いたのならそれに越した事はない。中身を見てみよう」
「お、おう……」
 そして二人はそっとそれぞれにアタッシュケースに手を掛けた。
 一度互いの顔を見合わせ、えいやと同時に閉ざされていた鉄の鞄を開け放つ。それはあた
かも未知の発見を前にした探求者の心持ちのように。
「……」
「……何だ、こりゃ?」
 開かれたアタッシュケースの中身。
 だがそれらを見て、二人は暫し固まった。
 中に入っていたのは、保護用の黒スポンジに収められた奇妙なツールらしきものだった。
 一つは先端に金属質の小玉を抱いた円筒形の物体であり、もう一つは長方形をベースにし
たと思われるずんぐりむっくりとしたボディをした、デフォルメなコウモリ型のロボットで
あった。大きさは、ハンディカメラよりも一、二回りほど大きいぐらいであろうか。
 一聖の開けた方は紅い小玉・眼に金色のボディ、大良の開けた方は蒼い小玉・眼に銀色の
ボディとカラーリングが統一されている。
「……なぁ、タイラ。これ何だ?」
「……。僕に訊くな」
 見た事もないアタッシュケースの中身に、二人はそれぞれに反応し、混乱していた。
 一聖は円筒形の物体を手に取って角度を変えながら観察し、大良はそれらの他に収められ
ていた黒い小さな板状のものを取り出して検める。
「何だろ? 見た目は筒っぽいけど……引き金みたいなのがついてるな、これ」
「……。こっちはスライド式のカードホルダといったところか……」
 一聖が大良を見る。
 確かに彼の手に取られた小さな板は、中身がスライド展開して取り出せる作りであるらし
かった。表面を、裏面を。大良は暫しホルダらしきものを観察すると、その中に収められて
いたカードを一枚取り出してみる。
 これもまた、見慣れないものだった。
 形状はやや縦長。大きさはフロッピーディスクよりも一回り大きいぐらいといった所だろ
うか。表面は広い部分と狭い部分に枠で区切られており、後者の上底部分にスライド式の蓋
が取り付けられているのが分かる。
「……何のカードだ? パソコン用だとしてもちっとでかいが」
「そうだな……僕も初めて見る」
「ん……? なぁ、それ色違いもあるみたいだぞ」
 取り出したカードは無色透明だったが、ホルダの中に納まっているカードの中には無色で
はない別の色をしているものもあるのが見えた。一枚一枚、取り出しては確かめてみる。青
や銀など、色がついているものにはその表面にアルファベットを崩したような妙な文様が画
かれているようだった。
「……さっぱり、分からんな」
「あぁ。全くな……」
 カードを全てホルダに戻し、大良は一聖と共にぼやいていた。
「これが何なのか分からない以上、どう対応すればいいものか……。中身が分かれば、後は
然るべき機関なりに届けられるのではと思っていたが」
「然るべきって何処の管轄だよ? 警察か? 消防か?」
「……分からない」
 小さく言い、静かに大良は首を横に振った。
 目の前のもの、あの男性に託された品。だがその正体は判然としない。見てすぐに危険だ
と分かるものならばまだマシだったのかもしれない。しかし全くの未知のものが相手となれ
ば、取れる反応は真っ先に戸惑いであると言っていいだろう。
(……一体、何なんだ?)
 見た目それ自体では、ややもすると玩具にも見える。
 だがそれでは、彼が重症を負ってまで自分達に託したという事実と大きく矛盾する。
 手の中に円筒を握って見下ろす一聖の隣で、大良は長く味わった事のなかった、無知への
不安がまるで自分の中で這い回ってくるかのような感覚を覚え始めていた。
 ────ウィィン……。
 まさに、そんな時だった。
 不意に二人の耳に聞こえてきたのは、何かが起動する時の微かな機械音。
 円筒を握ったままの一聖と、口元に手を当てて考え込んでいた大良はほぼ同時にその音に
反応すると、再度アタッシュケースの中へと視線を向ける。
『──梱包解封ヲ確認。生体反応ヲ感知……個体数、二』
『──再起動条件ノ充足ヲ認定。休止モード、解除開始……』
 それぞれのアタッシュケースの中の、コウモリのようなロボット達から突然そんな音声が
発されていた。
 一方は少年の、もう一方は少女らしき声にも聞こえる。
 だがそれらは何処か淡々とした、機械が読み取ったかのような無機質の声色という印象を
強く受けるものだった。一聖と大良は、そんな突然の変化に思わず息を飲む。
「うわっ!?」
「!?」
 すると次の瞬間、アタッシュケースからロボット達が飛び出してきた。
 一聖は思わず身を引いて仰け反り、大良も警戒した様子で飛び出してきたその姿を慌てて
視線で追う。
『……』
 そこには、ふよふよと中空に浮かんだコウモリロボットが二体。
 紅と蒼の眼。合わせて四つのランプのような眼が一度電源を点したように光っている。
「…………」
 一聖と大良は、暫く唖然としてその姿を見上げていた。
「ふぁ~……よく寝た。ん……? 誰だ、お前ら?」
「あ、あのぅ……すみません。そこのお二方、ここは何処でしょうか?」
「……えっ? あ、えっと」
 そうしていると、コウモリ達が心持ちこちらに眼をやるようにボディを傾けると、急に話
し掛けてきた。
 そこにはもう先程の機械的な声色は消えていた。もしこの時一聖達が目を閉じていたなら
ば、何の違和感もなく其処に誰か別の人間がいると信じ込んでいただろう。
「ど、何処って言われても……。清浜の路地裏、だけど」
 だからこそ、却ってそんな妙な人間臭さと共に声を投げ掛けられた事に一聖は驚き、しど
ろもどろになってしまっていた。
 驚愕と混乱の中、何とか言葉を吐き出すと、一聖は思わず助けを求めるようにして傍らの
大良を見返す。
「……」
 だがその大良も、既に傍らの一聖の事すら意識できなくなっていたようだった。
 ただ唖然と、珍しく驚きを正直に表情に出し、まじまじと中空に浮かぶ二体のコウモリ達
を見上げている。
「……浮いた、だと? 動力らしきものは何も……いや、それよりも一体どういう事だ? 
まるで人間そのものじゃないか……どんなAIを組めばここまで……。あり得ない。こんな
小型の質量の中に、一体どうやってこれほどのギミックを……? いや、そもそもそんな技
術が開発されたなど聞いた事も……」
「…………。いや、驚く方向が違ってねぇか……?」
 ぶつぶつと、まるで呪文のように次々と小難しく呟いている大良。
 その様子を見て、一聖は自分との反応の違いに思わずそうジト目になる。
「裏路地、ですか……? 確かにここは私達の研究室(ラボ)ではないようですが……」
「っていうかさ、お前ら何者だ? もしかしてハカセの知り合いか?」
「……ハカセ?」
 だがそれも束の間。コウモリ達が口にしたその曖昧な呼び名に、一聖は無意識の内に眉を
ひそめた。大良も呟きをぴたりと止め、先程とは別の神妙さを帯びた表情に変わる。
「誰だ、それ?」
「あん? 何だよ。知り合いじゃあねぇのか?」
 一聖と大良は互いに顔を見合わせた。いまいち、話が噛み合わないような気がする。怪訝
を滲ませる一聖の横で、大良は静かに口元に手を当て少し考え込んでから言った。
「……もしかしたら、ハカセとはあの男性の事かもしれないな」
「あのって……さっきのおっさんの事か?」
 大良は静かに頷いた。コウモリ達も、彼の言葉に反応を見せる。
「ん? なんだ。やっぱり知ってるのか?」
「あ、あの。じゃあハカセは今何処に? それにどうしてお二人が私達を……?」
 コウモリ達の問いに、二人は思わず困った顔で互いの顔を見合わせた。
 そんな訊ね方をしてくる事、先程まで動いていなかった事を考慮するとどうやら彼らは今
までの経緯はあずかり知っていないらしい。
「……タイラ」
 一聖は先刻までの出来事を思い出して再び感傷的になったようだ。何も知らないと見える
コウモリ達をちらと見上げてから、静かに大良の方を見遣ってくる。
 しんと静まった路地裏の空気。その冷たさに身を浸しながら、
「…………。話せば少し長くなるが、いいか?」
 大良はスッとコウモリ達を見据えると、今までの経緯を話して聞かせた。
 自分達が偶然この路地裏に足を踏み入れた事、そこで大怪我を負った男性に遭遇した事、
そしてその彼からアタッシュケースを──つまりコウモリ達の無事を託された事……。
 大良はそうした事のあらましを淡々と、感情を抑え込むかのように静かに伝える。
「……お、おい。う、嘘だろ?」
「ハカセが……? そんな……」
 始めは黙って耳を傾けていたコウモリ達だったが、事の深刻さを理解した二人はそれぞれ
にショックを隠し切れなくなったようだった。構造的に表情というものはない筈だが、何処
かそこには動揺のようなものが垣間見えるような気がした。
「……嘘は言っていない。君達の言うハカセという人物が彼であるならば、な」
 大良もそんな人間味を見せる彼らの感情の揺らぎを感じ取っていたのだろう。そう付け加
えた言葉を最後に、それとなく彼らから視線を逸らしている。
「ま、間違いないです。きっとハカセですっ!」
「早く助けにいかねぇと……。場所分かってるんだろ? 早く連れて行ってくれ!」
 だがコウモリ達はそう半ば叫び、詰め寄るように飛び掛ってきた。
 たとえ表情は作れずとも、その声色からは間違いなく、彼らのハカセたる人物への思慕と
心配の大きさが物語られている。
「うっ。そうは言われても……」
「……あぁ」
 数刻前の自分と重ね合わせたのだろう。一聖は何とも言えない複雑な表情を浮かべ、そっ
と大良の表情を見遣っていた。
 苦渋の思いか、それともひた隠しにした逡巡か。
 小さく頷き返してきたその横顔は、何時にも増して真剣な気配を帯びていた。
「今すぐ引き返すのはリスクが大き過ぎる。話した通り彼は怪我を負わされていた。放って
おけば命に関わるかもしれない程の重症をな。……だが、そこまでしてくるような相手を、
武力と無縁な僕達がどうこうできるとは思えない」
「まぁ、そりゃあそうだろうけどさ……。でも……」
 淡々と述べる大良に対し、一聖はもどかしさを隠そうとはしなかった。
 機械。それでも語り掛けて来る様は生身の人間と何ら変わりのないコウモリ達を見上げ、
一聖はもごもごと言葉を詰まらせる。
「……分かっている。僕だって見捨てたくはなかった。だから彼自身が拒んでも、救急車を
呼んだんだ。ただ、問題は間に合うかどうかという事だが……」
 大良もまた、慎重に言葉を選んでいるようだった。
 あくまで冷静に。じっと不安げに漂うコウモリ達を見上げて続ける。
「ここまで来たにしても相応の時間が経っている。彼が既に追っ手とやらに捕縛されている
可能も、否定できないがな」
「そ、それは……」
「ッ! だったら尚更……!」
 戸惑いと、焦りを帯びた勇み足。
 そんな対照的な反応を見せる二体のコウモリに対しても、大良は酷く落ち着いているよう
に見えた。人間味ある機械と、機械のように淡々とした人間。奇妙に入れ違っている両者が
そこにはあった。
「……助けを拒めばこうなる事は彼にも予想はできた筈だ。にも拘わらず、彼は自分の身の
安全よりも君達を僕らに託す道を選んだ。君達を、守って欲しいと託されたんだ」
 その言葉にコウモリ達、そして一聖も黙り込んだ。
 大良もまた、自身が発した言葉を咀嚼するかのように静かに間を置く。
「今なら……分かるような気がする。彼がここまでして君達を守ろうとした理由が」
「……だな。おっさんはお前らを子供って言ってたんだ。そりゃ必死にもなるさ。親が子を
守ろうとする時のエネルギーってのは理屈云々じゃねぇんだからよ」
「……俺達が、子供」
「ハカセ……」
 コウモリ達は、今度は別の意味で続ける言葉をなくしているようだった。
 そんなまるで泣き出しそうな雰囲気を纏って漂う二体を、大良はじっと怜悧な瞳で見据え
ている。
(……そういう取り方ではなかったんだが。可笑しなものだな、相手は機械だというのに)
 そっと眼鏡のブリッジを触りつつ、大良は一度だけ俯き加減になった。
 ややあって、生真面目な顔ばかりのその口元に一瞬、フッと小さな弧が描かれる。
「? タイ、ラ……?」
 まるで何かを自分の中で切り替えたように。
「……本当なら、中身を確かめてさっさと然るべき機関なりに引き渡すべきなのだろうが」
 月明かりを眼鏡のレンズに反射させて、
「……もう、そんな他人面はできないという事なのか。彼に君達を託された以上、僕らは既
に一蓮托生だと……」
 誰にともなく呟きながら、大良は静かに顔を上げていた。
「…………分かった。僕らもリスクを取ろう。僕らは彼に君達を託された。ならばその君達
当人の意思を汲むことに吝かになる必要は、ないのかもしれない」
 まるで自分に言い聞かせるように。
 大良は一見変わらず淡々とした口調で告げた。
「君達の父を……助けに行こう。救急車が着いても本人がいなければ始まらない」
「……! はいっ」
「お、お前……。へへっ」
「何だよ……やきもきさせやがって……」
 その言葉にコウモリ達、そして一聖はにわかに活気付く。
 表情こそ作れないが一抹の希望を漂わせるコウモリ達。目の前のアタッシュケースを片手
に意気込んで立ち上がる一聖。
「……だが、その前に一つ聞かせてくれ」
「はい……?」
「? あ、あぁ……」
 だが大良はそれでも一人静かに、ゆっくりと立ち上がると、コウモリ達を見て言った。
「おいおい何だよ? 時間が過ぎればおっさんが危ないって言ったのはお前じゃ……」
 思わず眉をひそめる一聖。しかし大良はその催促には応えない。
「他でもない君達自身の事だ。君達は……一体何なんだ? 単に人間に近い自意識を備えた
AIを持つ機械、というだけではないのだろう? そうでなければ、彼があそこまでして君
達を追っ手から守ろうとした合理的な説明がつかない」
 そして、変化は彼がそんな言葉を投げ掛けた次の瞬間に起きた。
『──情報照会ノ要請ヲ確認。照会対象者ノ言語質データヲ解析開始……』
 最初にコウモリ達が起動した時と同じように、彼らの様子がふっとスイッチを切り替える
ように機械的なものに変わったのだ。
『──Dr.ニ関スル新規状況追加。言語質判定……信用度ランクA。Dr.トノ善意的接触者
ト認定……メモリスロットニ情報ヲ追加……』
『処理完了。セキュリティプロテクション・フェーズⅠ、解除ヲ実行シマス……』
 忙しくなく点滅を繰り返すコウモリ達の眼のランプ。
 一聖は再び始まったその変化に言葉を紡ぐこともできず、視線を彼らとその様をじっと見
つめている大良の横顔の間で何度も往復させていた。
 機械的な変質はそれでも数十秒といった所だった。
 ややあって、宙を漂う二体のコウモリ型のメカの眼からは光の点滅が消えた。
 まるで感情を取り戻したかのように、ほんのりとした紅と蒼の色の二つの眼差しが大良と
一聖を見下ろす。
「……。俺は、自立型出力装置(オートノミー・デバイス)一号機だ。名をゴルダという」
「同じく二号機、シルヴィです」
「……お。おーとのみー、でばいす……?」
 金色のコウモリ・ゴルダと、銀色・シルヴィは復帰した自意識で第一声をそう自己紹介に
変えた。ぽかんと見上げる一聖。だが大良はそれでも落ち着いた様子を崩す事はなかった。
むしろ本題に入れたと言わんばかりに、そっと口元を撫でながら質問を続ける。
「装置(デバイス)か……。それは何の為のものだ?」
「万象素(ユニテル)の出力、検索、管理などです。私達はその為に作られました」
「……ユニテルとは何だ?」
「森羅万象、あらゆる事象のエネルギーの事だ。俺達はそれらを総合的にコントロールする
為の存在なんだ」
 ぽつぽつと訊ねていく大良と、まるで用意された解答を読み上げるように答えるシルヴィ
とゴルダ。その両者を順繰りに見遣りながら、一聖はその展開に置いていかれ始める。
「お、おい。何がどうなってんだ? オートノ何とかとか、ユニテルとか……俺には全然分
かんねぇけど……」
「……あぁ。僕も初耳だ」
「……え?」
 短く、顔を向けてくる事もなく返された言葉に一聖は益々混乱した。
 科学の専門家(の卵)であるタイラですら知らない? それってどういう……?
「僕が知らないだけという可能性もあるが……。少なくとも彼らが今日の科学の“常識”を
明らかに超えている事は間違いない。……おそらくは、まだ発表されていない新技術の類、
なのだろうな。だとすればあの時の彼の状況も説明がつくかもしれない。そのユニテルとや
らを狙う何者かが、関係者である彼を強襲したとでも考えれば、或いは……」
「そ、そんな漫画みたいな話なんて……」
「……人が思いつくものは全て実現可能だという言葉もある。それに」
 ちらりと一聖を見遣った大良。
 だが、彼はすぐにそう呟くと視線をゴルダとシルヴィに戻しながら、
「現実にだって……“悪”はごまんと存在するものだ」
「……? まぁ、それはそうかもしれんが……」
 静かに、何処か遠い眼をしてそんな言葉を漏らす。
「だ、だけどさ。だとしたらどうしておっさんはこいつら……えっと、ゴルダとシルヴィを
作ったんだ? もしタイラの言う通りライバルとかに狙われてたなら、こんな極力資料にな
るようなものは残しておいちゃマズいんじゃねぇの?」
 どんよりと暗いような、妙な気配。
 そんな気色を見せた大良に、一聖は思わずその暗さを払うようにして言っていた。
「…………」
 すると、それまで感情に乏しかった大良の顔つきが変わった。
「そうか……。その可能性もあり得る」
「……は?」
 小首を傾げる一聖。だが大良は、
「……そうだ、何も敵が外側からばかりとは限らない。未発表の技術となればむしろ内部で
の諍いを原因と仮定した方が自然だ。それに二人のあの反応……」
 ついっと向けた視線を逸らすと誰にともなくぶつぶつと何事かを呟き出す。
 それは彼の中で思考が加速している証であったのだが、一聖達はどうしてもその様を一歩
引いた状態で窺わざるを得なかった。
「ゴルダ、シルヴィ」
 それも数秒。大良はサッと顔を上げてゴルダとシルヴィに呼び掛けた。
「……もう一つ、確認したい事がある」
 一瞬前までの表情がなりを潜め、再び真剣な面持ち。
「ん……。あぁ」
「な、何でしょう?」
 二人はその雰囲気に圧されるようにして思わず彼に先を促す。
 本当なら、今すぐにでもハカセを助けに行きたい。
 だが……。
「……君達のいうハカセの名前と、彼の所属機関を答えて貰いたい」
 大良の放ったその言葉に、二人はまるでフリーズしてしまったかのように一言も返事をす
る事ができずに固まってしまったのである。
「……? どうした、お前ら? 何黙ってるんだよ」
 ややあって、ようやくその様子がおかしいと気付き、一聖は怪訝と共に二人を見た。
 心持ち強張ったようにぎこちなくなったゴルダとシルヴィ。
「い、いや。そ、それが……」
「そ、その……分からないん、です……」
 二人は自身に起こっている状態に驚いているらしく、お互いに顔を見合わせてから、そう
ぽつぽつと答えてくる。
「分からない? 何言ってんだ? 自分の生みの親だろ。忘れたのかよ」
「ち、違ぇーよ! その……」
「その……思い出そうとすると、出力ができなくなるんです」
「? 出力できない……? それはど忘れって事か?」
 一聖は益々わけが分からないと言った感じで小首を傾げた。
「……いえ。ハカセの事はちゃんと覚えています。ですが、口にしようとすると何かに止め
られてしまうみたいで……。ね、兄さん?」
「あぁ……。畜生、一体何がどうなってんだよ……っ!?」
「……タイラ」
「…………」
 その隣で大良は静かに眉をひそめ、口元に手を当てている。
「やはり……そうか」
「え? やっぱりって、何が」
 一聖が見返した大良の横顔。
 そこには、自身の計算が噛み合った時に彼が見せる静かな喜色が覗いていた。
 一聖の声に向き直る事もなく、大良は当惑している機械の兄妹達を見上げながらあくまで
も冷静な調子を保って告げる。
「間違いない。君達の中の情報は、ロックされている」
「……ロック?」
「あぁ」
 一聖に、ゴルダとシルヴィ。
 三人の視線が向けられる中で大良は続けた。
「君達の核心に触れるような情報──ユニテルとやらの具体的な理論や技術、或いはそれを
生み出した関係者について。そうした情報を外部に漏らさない為に、おそらくプログラムの
段階から何重にも規制が張られているのだろう」
「漏らさない為って……。こいつらを作ったのはあのおっさんなんだろ? いくらロックが
掛けられてるっていっても、持ち出しちまったら意味なくねぇか?」
 大良は黙っていた。
「……詳しい経緯までは僕も判断のしようがない。彼の意思で運んできたのか、それとも何
者かに奪われたのを奪い返した後だったのか……」
 一聖の投げ掛けた疑問に対し、ゆっくりと、慎重に言葉を選ぶようにして対応する。
 まだ状況把握が曖昧としている一聖に対して、大良はもっと先の何かを考えているように
も見えた。三者の視線を受けながら、じっと怜悧な瞳の奥で複雑な無数のピースの組み合せ
を試し続けているかのようだった。
「……これはあくまで僕の推測だが、彼は予めこうなる事を想定していたのかもしれない。
だとすれば、君達にロックを掛けたのが単に情報漏洩を防ぐ為だけだったと考えるには少々
不自然になる」
「不自然……?」
「…………彼には、その時既に『敵』が何者か見当がついていたのではないかという事だ」
 大良を中心として、辺りの空気がピンと張り詰めていくかのような錯覚がした。
 思わず息を呑む一聖と、フリーズしたかのようにその場に漂うゴルダとシルヴィ。冬の夜
空から静かに冷たい風が吹いている。
「……イッセー」
「ん?」
 その沈黙を破るように、大良が路地の奥へと歩き始めながら一聖に呼び掛けた。
「二人を、頼む。彼の救助には僕が行ってこよう」
「な……っ! 何言ってんだよ、俺も行くぞ。さっきリスクが大き過ぎるって言ってたのは
お前じゃねぇか」
 思わず、一聖は声を荒げて大良の前に立ち塞がっていた。
「…………」
 大良は立ち止まっていた。見返してくるのは、冷たい瞳と無言の威圧感。
 はっきりした根拠などは無い。だが長い付き合いの中で培ってきた互いの間と空気が自分
に囁き掛けてきていた。
(……こいつ、ここに来て俺を逃がす気でいやがる……)
 それにもし大良の推測通り、あの男性が自分を狙う者の正体に気付いていたのならば相手
もより強い手段に打って出る事は容易に想像できた。現に彼は、あれほどの大怪我を負わさ
れていたのだから。
「元々は僕が呼び込んだ種だ。僕が行くのが当然だろう」
「よかねぇよ。お前一人に任せとけるかってんだ。もし口封じとかで襲われたらどうする気
だよ? お前みたいな理屈専門の人間に、荒事を処理できるような力なんざねぇだろうが」
「……君にだってないだろう?」
 二人はそう言い合ってその場で睨み合うような格好になっていた。
 ある種の苛立ちを見せる表情と、あくまで淡々とした表情が互いをじっと見つめている。
「……力があれば、いいんだな?」
 そんな緊迫を解いたのは、ゴルダの神妙な声色だった。
 睨み合っていた一聖と大良が互いの視線を解いて、漂うゴルダとシルヴィに眼を向ける。
 何処となく真剣な眼差しを向けられているような気がした。
 二人が緊迫を解いたのを確認すると、ゴルダとシルヴィは互いに顔を見合わせてコクリと
頷き合い、言った。
「力が欲しいなら、くれてやるよ。とびっきりのをな」
「……今からお二人が、私達のマスターです」
 今度は一聖と大良が顔を見合わせる番だった。
「……?」
「どういう事だよ?」
「いいからいいから。言う通りにしろって」
「お二人とも、グリップを手にして貰えますか?」
「グリップ……? それって、もしかしてこの筒の事か?」
 一聖はそういえばと、先刻から片手にしたままだった円筒形の装置らしきもの──彼ら曰
くグリップを見た。ちらと横目で大良を窺う。彼もまた、ちょうど自分の開けたアタッシュ
ケースの前に屈み、同じようにグリップを取り出していた。
 金と紅。銀と蒼。形は全く同じだがカラーリングだけが違う二つのグリップが一聖と大良
の手の中に収まっていた。
「じゃ、そのまま握っててくれよ」
 ひゅんとゴルダとシルヴィがそれぞれ二人の正面に移動して、止まった。
 一聖にはゴルダが、大良にはシルヴィが。互いのカラーリングに対応した二組ができる。
『──システムコンフィグ接続……』
『──デバイスユーザー設定。要請案件セルフフォーム。処理ヲ開始シマス』
 すると三度、ゴルダとシルヴィの雰囲気が機械的なものに変わった。
 紅と蒼の眼のランプが内部データを処理するように、忙しくなく点滅し始める。
『生体情報ノ解析・収集…………完了』
『ユニテル・コート生成時基盤データ作成…………完了』
 一聖と大良はグリップを握ったまま、暫しその体勢で立ち尽くす事になった。
 ちらと互いを見遣る。何が起きているのか判然とせず、下手に動くこともできなかった。
『認証設定、オールグリーン……』
『ユーザー名ヲ設定シマス。音声入力ヲ開始シテ下サイ……』
「えっ? な、何だって?」
「……僕らの名前を教えろ、という事だろうな」
「あ、あぁ。そうなのか。よし……」
 故に二人は機械的な音声に導かれるままに、
「んんっ……。黒田一聖だ」
「……白沢大良だ」
 自らの名を目の前の未知なるデバイスへと告げる。
 それから数十秒、ゴルダとシルヴィの中では再び何かしら処理が続いたようだった。その
様子を、一聖と大良はどうにもハラハラとしたまま見守った。
「…………ふぅ」
「……。はい、これで認証終了です」
 だからこそ、よく考えれば奇妙な事ではあるが、二人がふっと人間味のそのものな声色に
戻ってきた時には思わず二人は安堵のような感覚を覚えたのだった。
「そ、そうか。で……? これで何が」
「あぁ。なぁに、これからさ。……シルヴィ」
「うん」
 だがその安堵はすぐに戸惑いに変わる事になる。
 ゴルダがシルヴィに合図を送った、次の瞬間、二人はヒュンと身体を九十度捻りながら中
空で時折はためかせていたL型の両翼のパーツを自身の中に格納したのである。だがそれは
あくまで飾りらしい。変わらず二人は宙に漂っている。
「な、なんだぁ……!?」
「……む?」
 代わりに迫り出して来たのはそれぞれ二重構造の銃口らしきパーツと、コネクション部品
を思わせるパーツだった。その形態になったまま、ゴルダとシルヴィは一聖と大良の握って
いるグリップの先端に飛び込む。コネクション部分がグリップと合わさり、小気味良い金属
音と共に二人はグリップと合体したのだ。
「変……身っ!」
「変身!」
 次の瞬間だった。
 二人の掛け声がまるで合図となったかのように、グリップ先端の紅玉と蒼玉がそれぞれに
その色の光を点滅させながら光り始めたのである。
「お……お、おぉぉぉ……!?」
「……??」
 同時にグリップを握り締めていた一聖と大良にも変化が起き始めた。
 二人の姿はあっという間に靄が掛かるように曖昧になり、何かの力が周囲の空気を巻き込
むようにして歪み、揺らめき震える。
 時間にして、数秒だった。
 やがて二人を包んだ靄は弾けるように消え去り、後に残ったのは、
『…………』
 黒いコートに身を包んだ金髪紅眼の一聖と、白いコートに身を包んだ銀髪蒼眼の大良の姿
だったのである。
「……な、……な、なんじゃこりゃぁぁっ!?」
 黒いコートに、ややタイトに身を包む服。そして黒いスエードグローブ。
 外見がすっかり別人と化した一聖は数秒自分の姿を、大良の姿を交互に見遣って確認して
から思わず叫んでいた。
「……五月蝿いぞ。少しは落ち着け」
「いや、お前は落ち着き過ぎだっての。お前もちっとは驚けよ!?」
 だが一方の大良の反応はこんな状況でも冷静そのものだった。一聖と同様に、姿形の変わ
った自分をその眼で、窓ガラスに映る姿で暫し観察し確認すると、静かに息をついてから混
乱と興奮が入り混じった一聖を淡々と諭す。
「これでも十分驚いているんだがな……。それで? ゴルダ、シルヴィ。これは一体何なん
だ? 僕らに一体何をした?」
 カチャリとグリップを持ち上げる。銃身と化したゴルダとシルヴィは何処か得意げな感じ
で答えた。
「ユニテル・コートさ。今お前らは俺達のユニテルを着ているんだよ」
「ゆにてる、こーと……?」
「ユニテルを着る? そんな事が可能なのか……」
「はい。ユニテル粒子を集約し、お二人の体格に合わせて覆った状態です。ですので、その
効能を受けた今のお二人は大幅に身体能力も向上している筈ですよ?」
「戦闘能力だってな。それに見た目も変わってるし、顔も割れずに済むだろ?」
「へ、へぇ……。でもなぁ、そう言われても実感が沸かねぇんだが……」
「……。いや」
 それでも半信半疑な一聖。
 だが大良は短くそれを遮った。そっと眼鏡を外してその怜悧な瞳を露にすると、視線を向
けてくる一聖を見遣って言う。
「嘘は言っていないようだ。視力もその中に含まれているのならな……。今のこの姿なら、
眼鏡なしでも君達や周りの風景がはっきりと見える」
「そうなのか? うぅむ……」
 一聖は呟いてちらと自身の開いた掌に目を落とした。
 ユニテル。これまで聞いた事のない、未知なる力。
 だが……これなら、何とかなるかもしれない。この力があればあの男性を追っ手から助け
出す事もできるかもしれない。
「……よしっ」
 ぎゅっと力を込めて。
 一聖は静かに拳を握り締めていた。

「──いぃぃ、やっほぉぉっ!」
 ユニテルの力とは予想を大きく超えていた。
 周囲にビルが建ち並んでいても何のその。壁に飛び上がり三角飛びを繰り返すと、一聖の
身体はあっという間に遥か中空に浮いたのである。
「すげぇ……。俺、跳んでる……」
 身体が夜風を切り、世界がゆったりと変わっていく。
 視界、そして眼下には、夜の清浜を照らすネオンの光が闇の中にちりばめられ幻想的とも
いえる光景を作っている。じわじわと延びる滞空時間の中、一聖は漲る力を驚きと共に全身
で感じていた。
「あまり調子に乗り過ぎるな。いくら身体能力が増しているといっても、物理法則にまでは
そう簡単には逆らえない筈……」
「分かってるよ。ったく、お前はこんな状況でも落ち着き過ぎてるっつーかなんつーか」
「……。こんな状況だからこそだと思うんだがな……」
 その隣で、同じく遥か高く勢いをつけて跳躍した大良が並んで言う。
 自らに巡る力に驚きを滲ませている点では一聖と同じだったが、こちらはあくまで冷静に
自身に起きている変化と向き合っているようにも見えた。
 二人同時にビルの屋上に着地し、再び跳び上がる。
 数度放物線を描きながら、二人はビルや家屋の屋根伝いに夜闇を駆けていく。
 その中で、それぞれの腰のホルスターに下げられた状態の、銃器形態のゴルダとシルヴィ
が声を掛けてきた。
「それで、ハカセは何処にいたんだ?」
「……無事だと、いいんですけど」
「……あぁ」
 何度目かの二人の着地。
 ぐっと膝を折ってから身を起こし、大良は眼下に広がる夜景を見渡した。
 上空からではまた勝手が違うのかもしれない。少し目を凝らし、言葉少なげに数刻前まで
いたあの場所との位置関係を確認しているようだった。
「……こっちだ」
 そして二人と二体は、再び目指すべき方向へ向けて跳躍する。
「──よっと……」
 辺りは気味が悪い程にしんとしていた。
 あの男性と遭遇した路地裏の空きスペース。一聖と大良はそこに戻って来た。中空からの
跳躍の終点。ストンと灰色の地面に着地する音だけが、一瞬、周囲の薄闇に染み込んだ。
「ここか?」
「は、ハカセは……」
 じっとしていられなくなったのだろう。ゴルダとシルヴィは自らホルスターから抜け出す
とふよふよと浮いて動き始めた。どうやら、コウモリ型の状態でなくとも飛行は可能のよう
である。一聖と大良はそれまで手に提げていたアタッシュケースを傍の壁際に置くと、彼ら
の後を追って空き空間を斜めに突っ切って歩いていった。
「……あれ? なぁ、タイラ」
「あぁ……」
 だが、すぐに一聖は数刻前との違いに気付いた。大良も同じらしく、僅かに眉間に皺を寄
せて一聖のすぐ傍らでじっと何かを考え込んでいる。
 あの時、男性がもたれ掛かっていた壁。だがそこに彼の姿はなかった。
 不安そうにふよふよと浮いたまま二人を見遣ってくるゴルダとシルヴィ。一聖と大良は何
と言い合う事も無く、神妙な顔つきでちらと一度互いを見る。
「……姿が、ないな」
「えっ」
「そ、そんな……!」
「……。場所を間違ったんじゃねぇのか? 似たような場所なら他にも」
「いや……」
 動揺するゴルダとシルヴィ、そして一聖。
 だが大良はそんな三者とは一線を画して言葉少なげに淡々と口火を切りながら、ゆたりと
暫し辺りを見渡してから言う。
「ここで間違いないようだ」
 そっと、壁際に屈む。
 その背後左右から三人も続いて覗き込む。
「……これって」
「ああ……。血の跡だ」
 そこには僅かであったが、灰色の地面を染める数滴の赤が落ちていた。相応の時間が経っ
ているらしく、その色は地面に染み込み、どす黒く暗い色に変わろうとしている。
「これが彼の血だと言い切るのは拙速かもしれないが、状況的に間違いないと思う」
「そ、そんな……」
「じゃ、じゃあハカセは? 肝心のハカセは何処に行ったんだよ?」
「……」
 ゴルダとシルヴィが見上げるようにして、大良は黙して立ち上がった。
 蒼くなった怜悧な瞳が二人を、一聖をまとめて視界に映す。一聖と大良。二人に挟まれる
ようにして漂う兄と妹は何処となく強い不安を見せている。
「あの怪我の程度からいって自力で逃げたとは考え難い。仮に動けたとしても、そもそも僕
らという見知らぬ他人に君達を託すような真似はしない筈だ」
「じゃあ、おっさんは……」
「……あの後、追っ手に捕まってしまったと考えるのが自然だろうな」
 その言葉に、ゴルダとシルヴィが言葉無く深くショックを受けたのが分かった。
 一聖が悔しそうにぎゅっと唇を強く結ぶ。大良も黙ったまま、彼らから焦点を逸らすよう
にしてその場に佇んでいた。
「…………すまない。僕が保身に走らず彼をすぐに運び出していれば、或いは」
 それは大良にしては珍しい、自身の感情を滲ませた言葉だった。
 その言葉に一聖は驚きを込めて微かに眼を見開き、
「そ、そんな事は……」
「あ、あぁ。そうだよ。あんたらが起こしてくれなきゃ、俺達だってどうなってたか分から
なかったんだからさ……」
 シルヴィとゴルダは若干慌ててそう返す。
「……。ま、過ぎた事を言ってても仕方ねぇさ。それよりもおっさんを探そう。まだ辺りに
いるかもしれねぇ」
「……そうだな」
 そして、取り繕うように、暫し間を置いてから一聖がそう口を開いた。
 大良も静かに頷き、二人はゴルダとシルヴィを再び手に取ってホルスターに収めると、踵
を返してその場を歩き出そうとする。
 ちょうど、その時だった。
「!? この気配……!」
「お二人とも、避けてっ!」
「え……?」
 突然、何かに気付いたように叫ぶゴルダとシルヴィ。
 その声に怪訝を見せた二人に、
「ッ!?」
「……って、うぉっ!?」
 真上から何者かの影が振って来たのはほぼ同時の事だった。
 瞬間的な変化。眼に映ったのは、薄闇を切り裂くかのように振り下ろされた銀閃。
 その軌跡に分断されるようにして、一聖と大良は左右に分かれて飛び退いていた。それか
らすぐ、一刹那分遅れて耳に地面を抉る破砕音が響いてくる。
「な、何だ……!?」
「…………」
 飛び退いた勢いを殺し、ブレーキを掛けながら慌てて顔を上げた。
 パラパラと砕けたアスファルトの塵と、土煙が二人の間で立ち上っている。
 ゆたりと。その土煙にの中に何かの影が見えた。一聖は思わず息を呑み、大良はそっと腰
に下がったシルヴィとグリップに手を伸ばす。
 ややあって、ゆっくりと土煙が四散して晴れていく。
「……グ、ギギ……」
 そこに屈みこんでいたのは、一言で表現すれば大きなトカゲだった。
 だが、その外見は明らかに常識の中のそれではない。大きさは人間の大人、いやそれ以上
もあり且つ隆々とした二本足で立っている。全身も、まるで鎧のような銀の金属めいた鱗で
覆われており、近づく者を許さぬが如く無数の鋭利な棘や刃が伸びていた。
 アスファルトの破片が、バラバラとこぼれ落ちる。
 長く丸太のように太い尾は、その先端が幅広の刃と化し、灰色の地面に深く鋭い爪痕を刻
み込んでいた。
「な、何だ……? ト、トカゲ?」
「……こんな大きなトカゲなどいるものか」
 まさしく、怪物という他なかった。
 顔を引きつらせる一聖に対し、大良はこの怪物をじっと見据えながらその一挙手一投足を
つぶさに警戒している。
「こいつは……万象人形(ユニテル・ドール)!」
 すると怪物の姿を確認し、ゴルダが眼のランプを点滅させながら口を開いた。
「ゆ、ゆにてる、どーる……? 何だそれ?」
「……ユニテルを抽出して具現化した、態のいい操り人形だよ。ぶっちゃければユニテルを
で創られた生体兵器さ」
「生体兵器……? なるほどね。要するに化け物って事だな?」
 まだ正直言って混乱しているが、とんでもない奴だという事に間違いはなさそうだ。
 一聖はゴルダから掻い摘んだ返事を聞き、そう漏らしながら目の前の怪物──ドールの姿
を見据える。
「……」
 だが、どうやら一聖のその呟きがドールの攻撃意識を刺激してしまったようだった。
 それまでその場、灰色の地面に屈みこんでいたトカゲの怪物は、ギロッと一聖の方に振り
向いたのである。隆々とした、金属めいた鱗と無数の刃物に守られた身体を揺らし、刃と化
している尾をゆたりと宙に持ち上げる。
「……ぇ?」
 マズい。そう一聖が思った瞬間にはもう遅かった。
 瞬間、ドールは全身のバネを解き放ち、一聖へと襲い掛かってきたのだ。
「うわっ……! ぬはっ! ひぎっ!?」
 急速に距離を詰めると同時に、霞むような速さで両腕を、尾を振るう。軌跡を残した銀閃
と視界の中に残像のように残る、両腕から伸びた半月型の刃の存在が、辛うじて今自分が斬
り掛かられているという事を一聖に理解させる。
 もし変身した姿でなかったならば、その身体は一撃で真っ二つにされていたに違いない。
 常人を超えた速度から繰り出される斬撃。
「おい、何やってんだ! 反撃しろ!」
「む、無茶言うな……って、うおっ!?」
 それを、一聖は常人を超えた身体能力を以ってギリギリの所でかわしながらも、じりじり
と後退させられていく。
「……ぁ」
 だがそれも束の間の事だった。
 退き過ぎた一聖はあっという間に背後の壁際まで追い詰められた。
 コツッと冷たいコンクリートの感触が背中に伝わる中、真正面からは刃を携え腕を振り上
げながら突撃してくるドールの姿が迫ってくる。
「ひいっ!」
 殆ど泣き叫びに近い声を上げながら、一聖は反射的に前のめりになっていた。
 それとほぼ同時のタイミングで、ドールの横薙ぎの斬撃がコンクリートの壁に叩き付けら
れた。凄まじい威力はそのまま灰色の壁を深くぶち抜き、破砕される音響を撒き散らす。
「あ、わわわ……っ!」
 一聖は半ば転げるようにしてドールの脇から滑り込んでいた。
「……」
 だがその逃走行為を、このトカゲの怪物は見逃さなかった。
 壁にめり込んだ腕をそのまま横に引き、身体を反転させる。コンクリートの壁がまるで包
丁を入れた豆腐のようにサックリと斬り痕を残して、ドールの背後に佇む。
「ちょっ……!?」
 ドールの眼がどす黒く赤い血の色に滾っていた。
 牙だらけの口を開き、獣そのものの吐息を吐くと、再び刃の腕を振り上げる。
 ──ズガンッ!
 だが次の瞬間、ドールは大きく頭を揺らして背後の壁に叩き付けられていた。
「……! タイラ!」
 それが背後から大良がドールの顎を撃った為だと気付くのに、一聖はそれほど時間を取ら
なかった。振り返ると、一聖の背後には銃形態のシルヴィを構え、その銃口から硝煙を吐き
出している大良が立っていた。
「……大丈夫か?」
「あ、あぁ。た、助かったよ……」
 一聖は、そのまま慌てて大良の方に駆け寄っていった。
 だがそれでも、大良は銃口を向けたまま、じっとドールに狙いを定めている。
(……ユニテル・ドール。ユニテルの技術を用いた生体兵器、か……)
 友の帰還と無事を確認しつつ、大良は静かに思う。
(今なら、彼のあの必死さの理由も分かる……)
 推測だが、おそらく彼は知ってしまったのだろう。
 ユニテルという新たな技術がこんな形で結実したという事実を。
 もし、こんな怪物が戦いの道具として使われてしまったら。もし、こんな怪物が罪も無い
市民すらも毒牙に掛ける事になれば。
(……大変な事、では済まされなくなるぞ)
 だとすれば合点がいく。ゴルダとシルヴィが作られた目的も。
 力なのだ。彼が、ユニテルの暴走に立ち向かう為に作り出した対抗手段。単にユニテルに
ついての情報を封印するだけではなく、科学が人を不幸にする、科学者にとって最も不名誉
な事であり、最大級に避けなければならない筈である事態を食い止める為の……。
「イッセー」
 大良は小さく、傍らで呼吸を整えている一聖に呼び掛けた。
「な、何だ……?」
 だが顔色までは窺う余裕はない。
 視線の先では既に、ドールが起き上がって体勢を立て直そうとしている。
「……こいつを、倒すぞ」
 一聖は言葉無く驚いたようだった。
 起き上がったのと同時、目を見開いてこちらを見てくるのが分かる。
「……。あぁ、分かったよ……」
 それでも一聖は拒否するという事はしなかった。
 ギュッと手を握っては開き、数秒自分自身を確認するようにしてから言う。
「もしあんな化け物が街中に出ちまったら……取り返しのつかない事になるもんな」
「……その通りだ」
 大良はその表情を見る事はせず、一瞬だけ口元に僅かな弧を描いていた。
 ホルスターからゴルダ──銃を抜き放った一聖と肩を並べ、息を荒げながら威嚇してくる
ドールと対峙する。
「……解析、完了しました。あれはスラッシュ(斬撃)のドールです」
「え?」
「あ~……。ドールってのはさ、特定のユニテルを抽出して創られてるんだよ。だから奴ら
を相手するには、何のユニテルでできてるかを見れば一番手っ取り早い。個々の能力もその
ユニテルに拠ってるものになるからな」
「……。なるほどね」
 そんな機能もあるのか。そう一聖がゴルダとシルヴィを一瞥したのとほぼ同時に、
「……来ます!」
 トカゲ型の怪物──斬撃のドールが地面を蹴って、再び襲い掛かってきた。
 一撃、二撃目は左右の横薙ぎ。三撃目は振り下ろしの一撃。また硬いアスファルトの地面
が容易く斬り裂かれ、破壊される。
「まとまっていては狙われる。散るぞ!」
 飛び退きながらそれらの攻撃をかわし、大良が叫んだ。
 着地と同時に二人は半身を捻りながら地面を蹴り、それぞれ別方向へと駆けた。その動き
に数テンポ遅れて、ドールは二人の駆けた方向を交互に見遣っている。
 その隙を、二人は見逃さなかった。
「グギッ……!? ガッ、ギッ、ガァッ!?」
 充分に距離を取ったと同時、二人はドールに照準を合わせ、同時に引き金を引く。
 双方の銃口から光る弾丸の射出。それらは次々とドールに目掛けて飛んでゆき、その身体
にダメージを刻んでいく。
「うぉらぁぁぁぁ──っ!!」
 一聖から被弾したと思えば、次の瞬間には大良から被弾する。
 入れ替わり立ち代わり移動し、絶え間なく銃撃を浴びせられて、ドールはその場からろく
に動けずにどちらにとも狙いを定めあぐねていた。
「……シルヴィ」
「はい?」
 このまま押せるか? いや……。
 沸いた期待を冷静さで保留しつつ、大良は引き金を引きっ放したままシルヴィに訊ねる。
「君達の銃撃は……どれぐらい弾切れやジャミングを起こす?」
「あ、それは心配要りません。私達の通常弾は周辺のユニテルを集積・生成したエネルギー
弾を使用しています。ですので、排莢不良はありませんし、ユニテルの無い場所というのも
通常では考えられませんので弾切れの心配に関しても不要です」
「そうか……」
 ならば。その返答聞いて、大良はドールを挟んで銃撃を続ける一聖に呼び掛けた。
「このまま距離を保つぞ! こいつが倒れるまで撃ち続けろ!」
「応ッ!」
 だが、相手のドールも伊達に怪物ではなかった。
 一聖と大良、双方から浴びせられる銃撃に身を捩って耐えながらも、ギリギリと身体中に
力を込めて反撃の一撃を放って来たのである。
「グ……ギギ、ギィッ!」
 皮膚の奥から迫り出すように、腕に新たに鋭い金属質の刃が生えてくる。
 そして、浴びせられる銃弾の雨を鬱陶しいと言わんばかりに振り払うと、その腕を振り抜
きながら大良に目掛けて身体のバネを解き放った。
「ッ!?」
 太めの三日月型の刃が、横回転を増しながら銀閃を描いて大良の顔面へと肉薄する。
 速い。それでも大良は身体を斜めに倒した。同時、壁を砕く轟音が辺りにこだまする。
「……! タイラっ!」
 思わず一聖は銃撃の手を止めて叫んだ。
 もうもうと土煙が上がっている。数秒の間。一聖は目を凝らす。
「……大丈夫だ」
 すると、呟くような声と共に、土煙の中からゆたりと身を起こした大良が姿を見せた。
 背後のコンクリートの壁にはドールの放った円月の刃が深々と刺さり、大きな亀裂を残し
ているのが見える。
 間一髪、かわせたらしい。
 だがその土煙の中では散った銀の毛髪が幾つも漂い、大良の頬にも薄っすらと紅い傷痕が
走っている。
「あ、危ねぇ……。いくらこの姿になってても、あんなのが直撃したら即死だろ……」
 とりあえず彼の無事を確認しながら、一聖は再び全身を駆けて来る緊張を治めながら背を
向けているドールへと目を遣り、
「厄介だな。飛び道具も使えるなん……てえぅっ!?」
 それとほぼ同時に身を捻って、刃の尾を振りかざしてきたドールの一撃をすんでの所で飛
び退いて回避した。半歩遅れて銀閃が掠めていく。
 灰色の地面が強力な破壊力の下、轟音を立てて粉微塵になり、また土煙が上がる。
「とっ……、ひっ、はっ、ほぉっ!?」
 そして土煙から飛び出るように突き出されてきた刺突を半身でかわし、一聖は次いで土煙
から姿を現して突撃してくるドールの多数の斬撃を必死に回避しながら、またじりじりと後
退させられていく。
 横薙ぎ、袈裟懸け、縦割り。
 軌道を次々に変えていくドールの銀閃。一聖はその動きをこの姿の身体能力で把握するの
で一杯一杯になりつつあった。
「くっそ……っ!」
 だがこのまま押されていてはマズい。
 それでも一聖はドールの動きを警戒しながらも、そのモーションの直後を狙ってぐっと引
き金を引く。再び射出されるゴルダの通常弾。攻撃するエネルギーの弾が、ドールの身体に
叩き付けられては音と火花を散らして爆ぜていく。
「ギッ、ガッ……グ、ノォォォォッ!」
「! ぬわっ!?」
 だがそれでもドールは多少ひるみこそしたが攻撃の手を止める事はなかった。
 痛みを怒りに変えるかのように、絞り出した雄叫びと共に再び十数回目の大薙ぎを払う。
 だが一聖はそれもまた、何とかすんでの所で飛び退いてかわした。
「ハァ、ちぃ……いい加減倒れろっての……」
「……やっぱ通常弾だけじゃ厳しいか。おい、カードを使え!」
 そう再び距離を取ろうとしていると、不意にゴルダが一聖に呼び掛けてきた。
「カード?」
「ユニテル・カードだよ。腰のホルダに入ってるだろ」
「腰の……? あぁ、これか」
 ホルスターとは反対の腰元。手を伸ばしてみると確かにアタッシュケースを検めた時に見
たホルダが取り付けられていた。ゴルダは続けざまに言う。
「どれでもいい。透明じゃないカードを一枚出して、蓋を開けろ!」
「どれでもって……ええい、ままよ!」
 スライド式に展開されたカードの一枚に指先を伸ばし、抜き取る。
 色はライトシルバー。表面には「B」のアルファベットのロゴ文字が描かれている。
『Bullet(剛弾)』
 そのカードの上蓋をスライドして開くと、そんな機械的な音声が鳴った。
「よし、そのまま俺の中にセットして奴にぶっ放せ!」
 ガコンとゴルダの口が開いた。
 一聖は言われるままにカードをその中に挿し込んで顎を押さえて押し込む。
 ゴルダの眼のランプが一度、力を認識したように光った。
「……ぬ、おぉぉぉっ!」
 ドールが腕を振り上げて迫ってくる。
 一聖は半ば顔を引きつらせて、その顔面に向かって銃口を向けて引き金を引いていた。
「──ガァッ!?」
 次の瞬間、銃声と共に、ドールが短い悲鳴を上げて大きく仰け反っているのが見えた。
 今までよりも遥かに効いている。手に伝わった発射の反動の大きさからも、この一撃が先
程の通常弾よりもより威力の大きいものである事に気付くのはそう難しい事ではなかった。
(これなら……!)
 大きくよろめくドールを視界に映し、一聖は更にグッと引き金を引き続けた。
 二発目、三発目、四発目。
 先程よりは連射は効かないが、より重く威力を帯びた銃撃が次々とドールに叩き込まれて
いった。その度にドールは短い声を上げながらじりじりと後退していく。今度は一聖が相手
を押していく番になった。
「よしっ、これならいけるっ!」
 これがカードの──ユニテルの力か。
 一聖はその力に驚きつつも、手応えを感じ、より一層引き金に込める力を強めながらじり
じりと全身していく。だが。
「……ん? あれ?」
 急に引き金の感触が軽くなった。
 同時に重い銃撃も出なくなる。
「チッ、駄目だ。カードの中のユニテルが切れた」
「えっ? これって消耗品なのかよ!?」
 言う間もなく、ゴルダがバカッと口を開いた。
 同時に中から先程の銀色のカードが排出されてくる。反射的にそれを受け止める。
 掌の中で、カードの表面から色やロゴ文字が蒸発するように消えていくのが見えた。それ
と共にカードは銀色から無色透明のカードへと変わってしまう。
「あぁ。カードはあくまでユニテルを蓄える充電池みたいなものなんだよ。だからその中身
のエネルギー、つまり蓄えてたユニテルを使い果たせばそれみたいに空になっちまう」
「…………。という事は」
 もしかして……と、一聖はゆっくりと顔を上げた。
 目の前には牙を剥き出して息を荒げているドールの姿。それを見て「あ。やべ」と目を心
持ち見開く一聖とゴルダ。
「グヲォォォッ!!」
「ひゃぁぁっ!?」
 次の瞬間、雄叫びと共に振り上げられた腕と刃。
 一聖も、思わず悲鳴のような声を上げる。
『──Rapid(迅速)』
 だが、その一撃は別方向からの掃射によって遮られた。
 ゴルダから放たれていた重い銃撃より、その個々は小さかった。だがそれを補って余りあ
る連射力が勢いとなり、振り上げられたドールの腕を、横っ腹を、脚を次々と撃っていく。
 銃声とドールから散る火花。その中で、終には連射の勢いに押され、ドールはゴロゴロと
地面を転がっていく。
「……なるほど」
 思わず一聖はその銃撃が放たれた方向──大良のいる方を向き、
「これが、ユニテルの力か……」
 静かにシルヴィの銃口から上る硝煙を目の当たりにしたのだった。
「よし、今の内だ。次だ、次のカードをセットしろ」
「あ、あぁ……」
 言われて一聖はやっと我に返った。
 視線を戻せば、地面に転がっていたドールもよろよろと起き上がろうとしている。
 一聖は空になったカードをホルダの中に戻しつつ、
「次は……」
『Metal(鋼質)』
「こいつだ!」
 新たに別のカードをゴルダの中にセットする。
 それとほぼ同時に復帰し、襲い掛かってくるドール。その振り上げられる腕、顔面、突撃
してくる身体の上半身と、セットしたのと間髪入れず、今度こそと引き金を引く。
 その変化はすぐに目に見えた。
 放たれた鈍色の弾丸。それらがヒットした部分が、あっという間に金属色のグレーに染ま
っていったのである。
「ギッ……!?」
「な、何だ……?」
 ドールも、そして一聖も驚いて。
 じわじわと侵食するようにその変化はドールの身体中を覆っていく。
 思わず動きが止まったドールから、一聖は銃口を向けた格好のままじりじりっと数歩下が
っていた。ドール自身も、何処か苦しそうにふらついているように見える。
「ギ──ッ!?」
 そうしていると、ドールが急に振り上げていた腕を地面に叩き付けた。
 否、叩き付けたのではない。まるで重さに耐えかねてその身を委ねた、そのような反応に
一聖には見えた。一体何事かと小さく眉をひそめる一聖の目の前で、ドールは急に動きずら
そうにしてもがき始める。
「……? ど、どうしたんだ一体?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。お前、メタル(鋼質)のユニテルを使ったろ」
「ん? あぁ。多分」
 再びゴルダの口から排出されるカード。
 先と同じく無色透明に色彩と文様を蒸発させていくカードを掌の中にして、一聖はゴルダ
に指摘を受けた。
「そいつは攻撃向きじゃないんだよ。補助向けのユニテルだ。撃った対象を鋼鉄並みに硬く
重くするっていう効果だからな。普通は自分に使って防御用にするもんなんだが……」
「……。おいおい、だったら先に言ってくれっての」
「仕方ないだろ。まぁ、こういう使い方もアリっちゃアリかもしれねぇけどな。少なくとも
暫くはこいつ、まともに動けねぇだろうし」
「……だけどさっきより硬くなってんだろ? ダメージも通らないんじゃなあ……」
 ユニテルには色んな効果があるものなんだな。
 一聖はそう思いつつ、ある意味で動きを封じたこのドールにどう対処しようかと、引き金
に指を掛けたままで思案をし始める。
『……』
 そんな様子を、大良とシルヴィは少し離れた位置から見ていた。
「メ、メタルのユニテルをドールに……。ど、どうしましょう? もう通常弾程度の攻撃力
では効果がありませんよ……?」
「……。まぁ少なくとも身動きは封じたんだ。策を練る時間くらいは稼げるだろう」
 言いながら、大良はシルヴィから排出される薄緑色の「P」のカードを受け取っていた。
 これもまた掌の中で、蒸発するように色彩とロゴ文字を失いながら無色透明の空のカード
へと変わっていく。
 そのカードをじっと見つめながら、大良は不意にぽつりとシルヴィに問うた。
「……ところで。ユニテルはこれらのカードに蓄えてあると言ったな?」
「はい、そうです。ユニテル・カードなど特別なデバイスを用いない限り、ユニテルを保存
する事は不可能ですから」
「……という事は、このカードはユニテルを集める事もできるということだな?」
「はい。それがユニテル・カードの大きな特徴でもありますから」
 シルヴィの返答に大良はこくと小さく頷いた。そして再び彼女に向かって質問を続ける。
「どうすればユニテルを蓄えられるんだ?」
「えっと、今持っておられるような空のカードを使って行います。上蓋を開いた状態で、採
取したいユニテルの発生源に近づけて貰えればOKです。後は自動的にユニテルを取り込ん
で密封される仕組みになっています」
「……そんな簡単なのか」
「はい。あ、でも、採集源が同じでも条件やカードを近づけた部位によって異なるユニテル
を採取してしまうケースもありますね。ですがご安心を。分からない事などがあれば、随時
お尋ね下さい。その都度フォローさせて頂きます」
「……。分かった」
 言って、大良は空になったカードを片手にざっと辺りを見渡した。
 そして目に留めたのは……配電盤。
 最初、一聖がドールの攻撃を受けていた時にその斬撃でぶった斬ったコンクリートの壁。
 その爪痕の曲線上に設置されていた配電盤が、諸々の配線を千切られてバチバチと静かに
電気と火花を放出しているのが見える。
 大良は横目で一聖とドールの様子を確認しながら、そちらに向けて駆け出していった。
 ちょうどドールの斜め後ろ。注意が一聖に方に向いている内に壊れたその配電盤の方へと
近寄っていく。
 一方で一聖は、ドールに銃撃を浴びせてみていた。
 だがその通常弾はダメージにすらならず、増した自重にもがいているドールを苛立たせる
だけにしかなっていない。
「……マスター?」
 大良は空のカードの上蓋を開けた。
「……たたでさえ、あれは金属質の鱗に全身が覆われていた」
 ぽつりと。呟きながら、彼はそっとカードを配電盤に近づける。
 すると炙り出されるように、カードの表面が色彩を帯びていく。
 色は濃い黄色、ロゴ文字は「T」。
 数秒。力を満たし終わるのと同時に、上蓋が自動的にスライドして閉じる。大良はそれを
握ったまま振り返った。
「そして今はその状態に拍車が掛かっている。全身がいわば、金属の塊のようなもの……」
 ドールが再び動き出そうとしていた。
 重くなった身体を引き摺っても尚、攻撃的な敵意を一聖に向け続けている。
 シルヴィはようやくそこで大良の言わんとする事を理解したらしい。チカリと眼のランプ
を一度光らせ、自ら口を開く。
「……だからこそ」
『Thunder(電撃)』
 すかさずカードがシルヴィの中にセットされ、機械的な音声が響いた。
「……!」
 その音に、離れた位置の一聖達もようやく気付く。
 互いにアイコンタクトを取る大良と一聖。「任せたぜ」そう言わんばかりに頷くと、一聖
はバッとその場から大きく飛び退いてみせる。
「……グ、ギギギッ!」
 ドールが重い身体を引き摺って振り返っていた。
 だがその表情は血に飢えた獣の狂気でしかない。静かに銃口を向けてくる大良の取ろうと
する行動に気付くのは、数テンポ遅かったのだ。
「電気伝導率も……高まっている筈だっ!」
 引き金を引いたその瞬間、シルヴィの銃口から勢いよく弾丸が放たれた。
 それもただの弾ではない。白く光を放つ電撃の弾丸である。
「グギャァァァァ──ッ!!」
 辺りの闇を打ち払うかの如き閃光が瞬いた。同時にドールの絶叫が路地裏にこだまする。
 数秒の瞬きはやがて消え、辺りは再び薄闇の中に戻った。
 だがしかし、変わったのは、
「──ァ、ガッ、ア、ァァァ……ッ!?」
 黒焦げになっても尚、バチバチと自ら放電を続けてその場で大ダメージと痺れを受けてふ
らついているドールの姿が一つ。
「……これならば、お前の身体の芯にまでダメージが通る」
 そんな白目を剥く怪物相手に、大良は銃口を向けたまま呟いていた。
「よしっ、今だ。このまま決めるぞ! グリップの底蓋を引っ張れ!」
「お……おうっ!」
 そして一聖も、ゴルダの声に応じて再び銃身を持ち上げた。
 空いている手の人差し指と中指の付け根で底蓋を挟み、一気に引っ張る。
『FULL BURST』
 次の瞬間、そんな機械的な音声と共に、バチバチッとグリップを中心に銃身全体へと紅い
奔流が伝わっていく。一聖はびくっと驚いて思わず握っていた力を緩める。
「全力全開っ! さぁ、俺に複数枚カードをセットしろ!」
 だが自分の手が痺れるような事はなかった。
 それも間もなく、ゴルダがそう叫んで大きく口を開ける。
「お、おう……。分かった」
 再び握る手に力を込めて。
 一聖はぐっと口元に力を込めながら、ホルダに手を伸ばす。
「こいつと……」
『Bullet(剛弾)』
 一枚。銀と「B」のユニテル・カードを。
「……こいつでっ」
『Fire(火炎)』
 二枚。赤と「F」のユニテル・カードを。
 ゴルダの口の中に複数の力が挿入され、交わる。一聖の手で閉じられた口。同時にゴルダ
の眼が紅く光り、その照準をふらつきながら振り向こうとするドールへと向く。
 銃口の先を中心に熱の渦が集まり始めた。
 じりっと、一聖に向き直り身体を引き摺って飛び掛ろうとするドール。
 一聖とゴルダ。重なるタイミング。そしてそっと指を掛けた引き金を、
『決めるぜ!』
 一気に引き絞る。
 放たれたのは、大玉の火炎弾だった。
 力を込めた指先は緩めなかった。故に何発もの火炎弾がまさに迫ろうと動き出したドール
に向かって次々とヒットしていった。顔面、胴体、脚、腕。弾丸がその身に叩き付けられる
度に轟音と共に瞬間的な爆風が爆ぜていく。
「グガッ!? ホガッ!? ガァッ!?」
 その威力はそれまでで一番強烈だった。
 より頑丈に硬化しているドールの身体を、装甲を、爆発と共に粉砕すると同時にその前進
を阻み大きく吹き飛ばしていく。炎弾が一発ヒットする度にドールの悲鳴が上がった。
「おぉぉぉぉ……っ!」
 一聖はただ力の限り撃ち続けた。あらん限りの炎弾を放ち続けた。
 互いの絶叫が重なる。
 だが、一聖のそれはドールのそれではなく。
 己を奮い立たせるものであり、或いは、こんな怪物を世に出すなど許さないという正義感
であったのかもしれない。
 そして、何度目か分からない炎弾がドールを捉えた次の瞬間、
「ギ、ギャァァァァァァ──ッ!!」
 一聖は遂にドールを、その怪物を、断末魔の叫びと共に撃ち滅ぼしたのだった。

「…………ハァ、ハァ……ハァ」
 数十秒の、間が辺りを漂っていた。
 辺りがしんと静かになっていた。ドールの姿は、爆ぜて消えていた。
 だがしかし、周囲にはその者の爪痕が確かに深々と残っている。
 夢では、ない。一聖は自身の姿と荒くなった息遣い、そして周囲のそれら爪痕によって再
度これが現実であった事だと認識する。
「……どうやら、やったようだな」
 へたりと尻餅をついて息をついていると、そう呟きながら大良が歩み寄って来た。
 辺りに残されたドールの痕跡を何度か見遣りながら、そっと一聖が起き上がれるよう腕を
貸してくれる。
「みたい、だな……。ハァ、ホント、寿命が縮まるかと思ったぜ……」
 起き上がりながら一聖は苦笑していた。
 片手には静かに硝煙を上げているゴルダ。その紅い眼のランプが数度点滅する。
「おいおい、よしてくれよ。力が要るって言ったのはそっちだぜ?」
「まぁそうだけど……。でもこんなの聞いてねぇっつーの……」
 ガコンッとゴルダの口から先程の二枚のカードが排出されてきた。
 一聖はそれを受け取り、それらがやはり蒸発して無色透明のカードになる様を見る。
「……だが、これも結果論としては良かったかもしれない」
「え? 何でだよ?」
「……既に救急隊にこの場所を話してある。もし、僕らよりも早く彼らが来ていたら……」
「あぁ……」
「……。斬殺死体の山の出来上がり、だな……」
 その返事に、大良は黙ったままこくりと頷いていた。
 確かにそう言われればそうかもしれない。
 もし自分達以外の人間があのドールに襲われていたら……。一聖は考えてみただけでも背
筋がぞっと寒くなるような気がした。
「……おそらくは、あのドールは監視役の類だったのだろう。現場に近づいてきた者がいれ
ば始末しろ……大方そんな命令を受けていたのではないだろうか」
「……監視、役」
 反芻するように大良の言葉を呟く一聖。
 ゴルダとシルヴィは大良のその言葉に黙り込んでしまっていた。
(……だとすれば、やはり後者の可能性が高いな。彼にとっての敵は……内部の者、か)
 その一聖を含めた三人の様子を、大良は独り考えを巡らせながら暫し窺う。
「……ま、まぁともかく化け物は追い払ったんだ。今度こそおっさんを探しに行こうぜ」
「ああ。そうだな」
「ハカセ、何処にいるんでしょう……」
 そして一同は改めてハカセの行方を捜す為に、
「……」
「お~い、タイラ。何してんだ、行くぞ」
「……あぁ」
 再びその常人を超える力を以って跳躍し、夜の清浜へと飛び込んでいく。
 ──しかし、肝心の彼の姿は一向に見つかることができなかった。
 夜闇に溶けるビルや家屋の谷間を、一聖と大良は飛び越え行き交い、その姿を懸命に探し
続けたのものの、結局目ぼしい成果はあがらなかったのである。
「……っと」
「……」
 一体どれぐらいの時間が経っただろう。
 上空から人気のない事を確認して、一聖と大良は閑散とした路地裏の一角に着地した。
 互いに口数が少なくなっていた。深刻な表情をそれぞれに滲ませたまま、数歩進む。
「……いない、な」
「あぁ……。そうだな」
 二人のグリップからゴルダとシルヴィが分離した。
 空中でコネクション用のパーツを格納し、再び逆さL字の翼を迫り出す。同時に二人の身
体が靄に覆われて歪み、ややあってから四散して晴れる。変身状態が解け、二人は元の黒田
一聖と白沢大良へと戻った。
 どう声を掛けるべきだろうか。
 そう何処か戸惑い、不安げに漂うゴルダとシルヴィを、一聖は苦笑の表情で見上げる。
「…………ごめんな。おっさん、見つけられなくて」
「い、いいえ。そんな……」
「……あぁ。お前らが気に病む事じゃ、ねぇさ。元々は俺達が巻き込んじまったんだしよ」
 そうは言うものの、ゴルダとシルヴィの声には明らかに落胆の気配が混じっていた。
 一聖は言葉無く小さく息をつき、静かに己を嗤う。
 その傍らで、大良は手に提げていたアタッシュケースにグリップをしまいこむと、そっと
ポケットから眼鏡を取り出してかけ直していた。
「それに関してはお互い様だ。僕らとて首を突っ込んだ身だからな」
「ま、それは……そうだが……」
 小さく頷いて、同じく一聖もグリップをアタッシュケースの中に放り込んだ。
 二人の足元にはアタッシュケースが二つ。彼から託されたゴルダとシルヴィ、そして彼ら
を力とする為のデバイスがそこには収められている。
「……謝らなければならないのは、むしろ僕の方だ。あの時僕は、彼と自分達を天秤に掛け
たんだからな……」
「で、でもっ。マスターはハカセから私達を受け取ってくれました」
「後ろめたさがあったのだろうな。……だからせめて彼の頼みだけでも聞こうとしたのかも
しれない」
 地面に屈み、俯き加減の大良の眼鏡が雲間から漏れてくる月明かりを弾いていた。
 ゴルダとシルヴィは困った様子で漂っている。一聖も、静かに立ち上がったまま、珍しく
己の判断に後悔を表している友を何とも言えぬ表情で見下ろす。
 たっぷりと十数秒後。
 ゆっくりと。やがて大良は眼鏡のブリッジをそっと指先で押さえながら立ち上がった。
「……想定はしていたが。やはり彼は既に追っ手に捕まったと見て間違いないだろうな」
 認めたくはなかった。
 だが静かに、重く塗り固められるようにその言葉が一聖達の中に沈みこんでいく。
「……じゃあどうする? 捜すにしても正直、時間が経てば益々難しくなるぜ?」
 一聖は慎重にそう訊ねていた。
 自分も頭の回転が止まっているわけではない。だがこの友の、無愛想で優秀な頭脳ならば
既に自分よりももっと先の手を考えているのではないかと一抹の期待も込めて思ったのだ。
「……」
 大良はゆっくりと一同を見回した。
 眼鏡の奥で静かに怜悧な瞳が光っている。表通りから挿し込んでくる表面的な煌びやかさ
にすら、ある種冷静過ぎる達観をしのばせて。
「もう後戻りをする事は不可能だろう」
 ぽつりと、大良は口を開き始めた。
「……追っ手の最大の狙いは間違いなくゴルダとシルヴィだった筈だ。だが彼らは今僕らと
共にある。いわば僕らは、既に奴らを敵に回したと言っても過言ではない」
「まぁ確かに言われてみりゃ、そうだよなぁ……」
 言われてみて改めて事の大きさを認識したのか、一聖が乾いた苦笑を漏らす。
 だが、大良の呟きは止まらなかった。
「しかしそれは必ずしもピンチだけではないと思う。彼は僕らにゴルダとシルヴィを託した
際、逃げろと言った。それはおそらく仕方なかったとはいえ、元々無関係な僕らを極力巻き
込ませまいとする彼なりの意識だったのだろう。だが僕は、その意思に従うのはどうかと今
は考えている」
「……だよな。あんな怪我人を見せられて捨て置いたままなんて、夢見が悪いや」
 それに、自分達は奴らの手の者らしき怪物(ドール)とも一線を交えたのだから。
 宙に漂うゴルダとシルヴィを見上げつつ、一聖は「それで?」と先を促す。
「……ユニテルとは何なのか。彼が予見した危険とは何なのか。託された僕らにはそれを知
っておく必要性があるのではないかと思う。彼が僕らに“託した”ものはきっとその先にあ
る筈だ……。そしておそらくだが、きっとそれらの答えは……ゴルダ、シルヴィ、君達の中
にあると僕は踏んでいる」
「えっ……?」
「私達の中に……ですか?」
 言われて、当の二人は顔を見合わせていた。
 だが否定する材料が見つからないのだろう。それ以上の言葉は続かなかった。
 何よりも、大良によって生みの親の情報すらもロックされている事が分かってしまってい
る事もあり、彼の言葉が偽りであるとは到底思えなかったという点もあった筈である。
「で、でもどうなさるおつもりなんですか? 私達の内部データにはロックが掛かっている
のですよね? 肝心の情報となると分からないんじゃ……」
「あ~……、それなら大丈夫。何とかなるだろ、多分」
 不安げに言葉を返したシルヴィ。
 だが、一聖はそれとは対照的に気楽さ──明るい期待を抱いているようだった。
「タイラはな、こう見えても学者の卵なんだ。頭いいんだぜ? お前らの喋れない事だって
きっとパパ~ッと解決してくれるさ」
「……そう易々といけばいいんだがな。それに僕の専門は物理だ。工学ではない」
 一聖がニカッと笑うのを横目に、大良はあくまで慎重なままそう呟いている。
「……かといって諦めるつもりはないがな。知識が足りないのなら……補えばいい」
「ヘヘ……ま、そういうこった。ここは大船に乗ったつもりで任せてみようぜ?」
「あ、あぁ……」
「……えっと。その、よ、よろしくお願いします」
 ゴルダとシルヴィがはにかんだようにコクリと頭(?)を下げていた。
 腰に手を当て、うんうんと頷いている一聖。そんな様を見遣りながら大良は言う。
「……イッセー」
「ん?」
「君にも協力して貰うぞ。奴らの外堀を埋めてくれ。奴らの正体、中身、組織、何でも構わ
ない。彼を追い込んだ奴らについて、少しでも生の情報が欲しい。……いくらユニテルが、
その組織が秘匿されたものだとしても人間の集まりに完全無欠はあり得ないものだ。何処か
に、粗はある筈だ。記者である君になら……おあつらえ向きの仕事だろう?」
「……分かった。そういう事なら、任せとけ」
 一聖はフッと笑うと、口元にニヤリと不敵な笑みを浮かべて応えた。
「それにあんな化け物を飼ってるような連中だ……このまま野放しになんてできねぇしな」
 ぎゅっと握った拳をもう片方の手で覆い、静かに闘志を燃やしてみせる。
 二人はゴルダとシルヴィを見上げた。
 怜悧冷静な眼と正義感に燃える眼。二人の眼差しが心在る機械の兄妹達を見据えている。
「ま、そういう訳だからよ。今後とも、よろしくな」
「……時間は掛かるかもしれない。だが彼の安否も、君達の秘密も必ず突き止めてみせる」
「……。あぁっ、期待してるぜ……」
「はい……。よろしく、お願いしますっ」
 二人と二体。かくして夜の清浜、路地裏の一角でその誓いは交わされた。
 平凡を生きる者達が、まだ見ぬ未知の力に出会った始まりの夜。
 そしてそれは、後に人々から“ナイトガンナー”と呼ばれる事となる銃士達が誕生した瞬
間でもあったのである──。


(……んぅ?)
 深く深く、沈んでいた意識が浮き上がってきた。
 薄暗い。頭がまだ少しぼうっとしている所為もあるのかもしれない。
 奈々子は少しずつ回復してくる意識に身を委ねつつ、ゆっくりと眼を開いた。
「お? 目が覚めたみたいだな」
 最初に視界に飛び込んできたのは、逆さに映る一聖の顔と薄雲の掛かった夜空だった。
「……せん、ぱい?」
 そこで奈々子はようやく自分が寝かされているのだと気付く。
 少しゴツゴツした感触が背中に伝わる。もそっと動かした手の先で触れたのは、背もたれ
だろうか。横目で見ればそれが木製のベンチだと分かった。
 奈々子は少しふらつきながら身体を起こした。ちらりと辺りを見渡してみる。
 夜の闇に紛れて分かり難いが、そこは見覚えのある公園の中だった。実家に程近く、子供
の頃からよく訪れていた木々の緑豊かな公園である。
 夜風がひんやりとしていた。
 膝元を見てみれば、一聖の上着が被せられている。
「……あの、どうしてここに?」
「どうしてって……。お前、覚えてないのか?」
 一聖の方に向き直り、座り直しながら訊ねると彼は何処か苦笑するように言葉を漏らす。
「駅前で別れた後、タイラとあちこち飲み屋をハシゴしててな。で、その途中で偶然お前が
道端でグースカ寝てるのを見つけたんだよ。流石に放ってはおけねぇし、こうして休ませら
れそうな所まで運んできたってわけ」
「……そう、なんですか」
 そう事情を聞かされたが、奈々子はあまり実感はなかった。
 確かに自分は道中ほろ酔いだったとは思うが、道端で寝てしまっていたのだろうか。
「どうしたよ、そんな難しい顔をして」
「え? あ、いえ。その……」
 眉間に皺を寄せて記憶を辿ろうとしていると、一聖が少し真剣な顔になって聞いてくる。
 奈々子は顔を上げると少し言葉を詰まらせながら、
「覚えてないんです。本当に途中で寝ちゃってたのかなぁって。それに……私、何かもっと
別の事をしていたような気がして……」
 ぽつぽつとまだ混乱している頭でそう答えた。
「別の事? 寝てて夢でも見てたんじゃねぇのか?」
「夢……う~ん、どうなんでしょう。何だか頭の中がスースーして、ぽっかりと穴が開いた
みたいな感じがするんですけど……。う~ん……駄目です、思い出せません……」
「……ふぅん? 酒で記憶がすっ飛んでるのかもな。まぁ寝て忘れちまう程度のもんだ、大
した事じゃないんじゃないか」
「そう、ですかねぇ……」
 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
 多少の気持ち悪さは残っていたが、奈々子は一聖の言う通りにそれ以上は深く考えない事
にした。こういったことのは、往々にして自分から攻めていこうとすると肝心の向こうには
却って逃げられてしまうものなのだから。
「ほい、ナナ」
「え? あ、ありがとうございます」
 そうしていると、一聖が鞄の中から二本の缶コーヒーを出して一本を差し出してきた。
 奈々子はこくりと頭を下げつつそれを受け取る。自分をここに運んでくる途中で買ってお
いたのだろう。時間が経って全体的に冷めてきているようだったが、まだほんのりと残って
いる温かさが掌を通して伝わってきた。
 プルタブを開け、ベンチに座ったまま二人並んで缶コーヒーを飲む。
 すぐに効くわけでもないのだろうが、何となくぼうっとした頭や酔いが静かに落ち着いて
いくかのような気がした。暫くの間、二人はちびちびと缶を口に運びながら佇んでいた。
「……お前ん家、この近くか?」
「はい。この公園からですと歩いて五、六分ぐらいですよ」
「そっか。今度こそちゃんと家に帰れよ」
「はは……。流石にもう大丈夫ですよ~、酔いもすっかり醒めてますから」
 何気なしに振舞っているように見えるが、先輩には気を遣わせてしまったかもしれない。
 奈々子は苦笑を漏らしながらも申し訳なさと、そして同時に彼を頼りに思った。
「……あ、あの。先輩も来ますか、家に?」
「? 何でだよ」
「えっと、その。ここまで迷惑を掛けたのにお礼も無しに帰しちゃうのもなぁ……って」
「……今更そんな気を遣うような間柄かよ。気にすんな」
 缶コーヒーの残りを飲み干し、一聖は立ち上がりながら言った。
 気恥ずかしいのか、顔はついっと奈々子から逸らされている。
「それに……こんな時間に人様の家に上がるわけにもいかねぇだろ?」
「別に私は気にしませよ? 先輩の事なら普段からお父さんやお母さんにも話してますし」
「……俺が気にするんだっての。てか普段から話してるのか、俺の事……。まぁいいけど」
 息をつきながら、一聖は背を向けたまま数歩歩き出した。少し離れた別のベンチの傍にあ
る金属網目のゴミ箱の中へ空になった缶を投げ捨てる。カコンッという音が夜の公園の中に
一瞬響き、静まっていく。
「つーか、お前も少しは節操ってもんを持てよ……。女だろ、一応」
「はい?」
「……。いや、何でもない」
「? はい……」
 振り返って戻ってくる一聖は心持ち眉根を上げ、ポリポリと髪を掻いていた。
 奈々子も残りのコーヒーを飲み終えると、膝元に掛けられていた一聖の上着を返してから
彼と入れ替わるようにして立ち上がる。
「そういえば先輩」
「ん?」
 同じくゴミ箱に空き缶を捨ててから、奈々子はふと一聖に訊ねていた。
「白沢さんはどうしたんですか? さっき一緒にハシゴしていたって言ってましたけど」
「あぁ……。タイラなら先に帰ったよ。俺はともかく、あいつまで漫然と待たせるのもどう
かと思ってな」
 とてとてと戻ってくる奈々子を見遣りながら、一聖は更に小声で静かに呟いていた。
「……あいつには、色々とやらなきゃならねぇ事もあるからな」

 ガチャリと施錠の開く音がした。
 大良の住んでいるアパートは表通りからは少し外れた所にある。だが、彼の部屋が六階の
高さにあることもあって通路から見渡せば清浜の街並みの遠景を見る事ができた。
「……」
 後ろ手にドアを閉めながら、大良は部屋の灯りを点けた。
 ごく普通の1LKの一人暮らし用の部屋。入ってすぐの壁際には冷蔵庫とその上に金属の
トレイをかませて乗せた電子レンジ、丁寧に整頓された台所周り。反対側には洗濯機とドア
一枚を挟んでバスルームがある。
「今日もお疲れ様です、マスター」
「……あぁ」
 背中に引っ掛けていた鞄の中からシルヴィが出て行き、器用にドアの鍵とチェーンを掛け
ながら言う。その間に大良は奥のリビング部分に移動してベッドの上に鞄を置くと、ごそご
そと中身を弄っていた。
「……乾さん、ちゃんと目を覚ましたでしょうか」
「大丈夫だろう。君も後遺症は出ない筈だと言っていたじゃないか」
「それはそうですが……。でも、今回は一聖さんのお知り合いですし」
 一聖から受け取った取材メモのファイルと、奈々子の傍で見つけた無色透明のカードを取
り出しながら大良は窓際に移動していた。
 壁のラインに沿うようにL字型に置かれた二台の机。それぞれにノートとデスクトップの
パソコンが置かれ、その周りを取り囲むように、壁際の本棚に収まり切らない無数の書籍や
書類、走り書きされたメモ紙などが積み上げられている。
「……心配ないさ。イッセーが、ついている」
「……。そうですね」
 それらに目を落とし、所々置き場所を変えて整理しながら大良は少し間を置いて呟いた。
 そしてファイルを机の上の本立てに押し込むと、そのままの格好で席に着こうとする。
「マ、マスター?」
 するとその様子を後ろで漂いながら見ていたシルヴィが少しだけ声を荒げた。
「あの、もしかして今から作業なさるおつもりですか? もう遅いですよ。今日はもうお休
みになられた方が……」
 言われて大良は机上の時計を見た。時刻は既に夜中の四時半を回っている。まだカーテン
越しからは夜闇しか見えなかったが、もう数時間もすれば朝日が昇ってくるだろう。
「……そもそもは君達の為でもあるんだ。少しでも、時間は有効に使いたい」
「そ、それは……。で、でも」
 だが大良は肩越しに怜悧な眼でシルヴィを見返していた。
 そう言われて、彼女は思わず押し黙る。
 デフォルメされた機械のボディ。だが、そこには人間と何ら変わらない感情の揺らぎのよ
うなものが見て取れた。
「ですが、無茶をしてマスターに倒れられても困ります。出会ってからずっと……マスター
は殆ど毎日、朝から夜遅くまで研究に、バイトに、私達の解析作業にと働き詰めじゃないで
すか。私はともかくマスターはちゃんと休める時には休んでおかないと……。お願いですか
ら無理だけは……しないで下さい」
 椅子に座って背を向けたまま、大良は黙っていた。
 パタパタと漂いながら、シルヴィはじっとその後ろ姿を見遣っている。
「……。分かったよ」
 暫くの沈黙。それを破るようにして大良はおもむろに立ち上がった。
「少し仮眠を取ろう。三時間だ。念の為、時間になったら起こしてくれ」
「はい……。分かりました」
 シルヴィの声色が心なし安堵の色合いを滲ませているように聞こえた。
 部屋の中を漂う彼女を一瞥すると、大良は空のカードを片手に財布から小さな鍵を取り出
した。机の引き出しの一番上、鍵の掛かった引き出しのその鍵穴にその鍵を挿し込む。
「……」
 几帳面に整理された中身。その区分けされた中に、四枚のカードが入っていた。
 先刻奈々子の足元で見つけたこの空のカードと同じ、無色透明のカードである。
(人々を襲い、ドール達が採取しようとしたユニテル……)
 大良はぼうっと思考する自意識を感じ取っていた。
 街を闊歩する怪人達の目的。シルヴィやゴルダ、今日の科学の「常識」を越える存在を作
り出したその理論と理由。ハカセの残した断片的な情報。
 一聖にはまだ断定できないと言った。だが、繋がりかけている。この半年で積み上げてき
た複雑怪奇なパズルのピースは確実に何かを画こうとしていた。
 だが……やはりまだ、断定はできない。
 それは知性の慎重さなのか、或いは──真実の先を知る事への恐れなのか。
「……マスター?」
 ふと、ふよふよと近づいて来たシルヴィの声に大良はハッと我に返った。
 銀のボディと蒼い眼のコウモリ型ロボット。オートノミー・デバイス。名をシルヴィ。
「……」
 今は緩やかな主従関係だが、それはいつかは変わるのだろうか。
「どうしましたか? そ、その、何だかちょっと怖い表情(かお)でしたけど」
「……何でもない。気にするな」
「? は、はい……。分かりました……」
 大良は小さく答え、カードを引き出しにしまって鍵を閉めた。
 上着をクローゼットの中に掛け、電気を消してベッドの上に転がり込む。再び暗くなった
部屋の中で外した眼鏡をヘッドボードの棚の上にを置いて、静かに瞼を閉じる。
「おやすみなさい、マスター」
 暗がりの中でシルヴィの穏やかな声が聞こえる。相手が機械だというのを一瞬忘れてしま
うほど、今やこのやり取りに慣れてしまっている自分に内心改めて驚かされる。
 だがそれでも、悪い気はしなかった。
(……嵐の前の静けさという奴かもしれないな)
 自分は、このまま友と共に首を突っ込んでいく事になるのだろうか。
 始まりは偶然、或いは運命というものを信じるのなら、今更巡ってきた機運。
 ユニテルという現代の科学技術の「常識」を越えたものへの知的興味、好奇心もあったの
かもしれない。だが……もし、今自分が抱いている仮説が正しければ。真実だとすれば。
「…………」
 思わず思考を断ち切っていた。ぐっと、言葉なく閉じた口に力が入る。
 そうだ、まだ仮定の段階なのだ。不確かな憶測だけで動くのは……美しくない。
(寝よう……)
 一先ず、束の間の休息を。
 頭の中の走り書きを消し去りつつ、大良は徐々にまどろみの中に落ちていったのだった。

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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