日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)NIGHT GUNNERS〔1〕

『特集・夜に蠢く怪人達と救世主!?』
 都市伝説。それは誰しも耳にした事のある言葉だろう。
 巷で実しやかに囁かれる噂話。科学万能の時代と言われる今日にあって、それらは今尚消
え去る気配は無く、時往々にして好奇を求める人々に一服の刺激を与える。
 それは常に邁進する時代が故に常に、何かの刺激を求める我々の飽く無き欲望の産物か、
それとも本当に未だ我々の知らない世界を垣間見せるおぼろげな報せであるのか……。
 そんな時折々に姿形を変え、題材に事欠かない数多の都市伝説の中でも、今回、私は特に
本誌『清浜ジャーナル』の膝元、清嶺ヶ浜(せいれいがはま)で昨今囁かれているとある都
市伝説に注目する事にした。
 読者諸氏の中には既にご存知かもしれない。
 概要は、次の通りである。

 この清嶺ヶ浜には異形の「怪人」達が跋扈しているという。
 その性質は残忍にして獰猛。
 奴らは夜闇に紛れて蠢き、静かに獲物を狙う。
 その獲物とは、人間だ。奴らは闇に紛れて隙を見せた人間に狙いを定め、人気の薄い場所
に迷い込んだ所へ一気に襲い掛かるのだ。
 一度奴らから狙われれば逃げられない。ただ突如現れた異形に飛びつかれ、生気を吸い取
られてしまうのである。
 そんな“食事”で、たとえその人間が息絶えようが奴からは一向に構う事はない。
 彼らにとって、人間とは単に自分達の空腹を満たす為の餌でしかないのだから……。

 各方面で微妙な違いは散見されるが、大まかな特徴はこんなものである。
 『人間の生気を喰らう異形の怪人』──これがこの都市伝説に出てくる怪異である。
 では、一体その正体はどういうものだろう?
 一説には、清嶺ヶ浜の開発事業で誘致された研究機関が作り出した人工生命体による犯行
であり、あまりに凶暴な為に創り出した機関自体が廃棄し、野生化した為だと言われている
がこれもあくまで一つの噂に過ぎないと言わざるを得ないだろう。
 今回の取材では、確かにこの都市伝説が清嶺ヶ浜の各地で聞き及ぶ事ができた。しかしな
がらこうした巷説は散見されたものの、都市伝説を確たるものとする情報を中々得る事がで
きなかった。
 やはり、所詮は噂話か──。
 少なからずいるであろう、こうした都市伝説に懐疑的な人々の声と、私の落胆が重なって
しまおうとした、そんな時だった。
 現実と都市伝説がリンクする瞬間。
 周辺の情報を当たっていた私の下に飛び込んできたのは、まさしくそう表現するに相応し
い大きなインパクトだった。
 読者諸氏はご存知では無いかもしれない。
 当然だろう。何故なら、この情報は本誌刊行○月△△日現在、公に発表さえされていない
事件なのだ。
 ──謎の連続衰弱事件。
 ここでは便宜的にそう命名することにしよう。
 これもまた、この清嶺ヶ浜一帯で起きている奇怪な“事実”である。

 事件の概要はこうだ。
 現場は、決まって人気の無い場所だ。ビルの狭間の路地裏などで被害者が倒れているのが
発見される。しかもその彼らが皆、発見時一様に酷く衰弱した状態に陥っているのである。
 念の為に付け加えておくが、彼らは食うに困って行き倒れた訳ではなかった。皆、普段は
ごく平凡な生活を送っている一般市民であったのである。
 何故このような場所に? 何故脈絡も無く衰弱していたのか?
 共にその原因は未だに解明されていない。
 そして何よりも、私が注目したのは、被害者の彼らが一様に『化け物に襲われた』という
旨の証言をしている事にある。
 さぁ、繋がりはしないだろうか?
 人気のない場所で、化け物に襲われ、衰弱する……これはまさに今回調査している件の都
市伝説そのものではないだろうか。
 今回の取材で確認できただけでも、この謎の衰弱事件は二十件以上(しかも中には不幸に
も発見前後に亡くなられた方もいた……)。これらがまだ氷山の一角であるとすれば、数の
多さという点でも件の都市伝説との共通性は更に増すだろう。これこそ、この都市伝説の元
となった事象ではないだろうか?
 しかしそれでも、この事実に懐疑的な読者諸氏がいるかもしれない。
 そこで、今回私は幸か不幸か、実際にこの衰弱事件の被害に遭われた一人から話を聞く事
ができた。その時のやり取りを紹介する事にしよう。
(写真中央・Aさん(仮名)。プライバシーの保護のため、顔は伏せてある。尚、Aさんは
現在回復し、退院を果たしている。僭越ながらここで今回の取材協力への謝意と快気祝いの
言葉を述べたいと思う)

 Q.それでは事件当時の事を詳しく教えて頂けますか?
 Aさん:
『はい……。ちょうどあれは終電間近の事でした。あの日は同僚と飲んだ帰り道でして、普
段は普通に電車で帰っているのですが、終電に間に合わせようと近道しようとしたんです。
これでも辺りの地理には詳しいつもりでいましたから……。それで路地裏を通っていた時の
事でした。突然、誰かに背後から羽交い絞めにされたんです』
 Q.背後から襲われたわけですね。
 Aさん:
『ええ。吃驚しましたよ。同時にしまったなとも思いました。場所も場所だし、時間も時間
だし、最初は物取りの類に引っ掛かったんじゃないかと思ったんです。(この直後、思い出
したように震えながら)だけど、だけど違ったんです。あれは……人間じゃなかった』
 Q.人間、ではない? それはどうして分かったんですか?
 Aさん:
『ええと……ですね。確かに薄暗いし背後を取られていたので直接は見ていないんですが、
それでも、あの締め上げてきた腕力は尋常じゃなかったんです。首に巻きついてくる腕も、
もうそれは丸太並に太くって硬くって……。そうそう、それに妙にもさもさしていたんです
よね。体毛っていうのかな。まるで獣みたいに。でも、二本足で立って人間を締め上げる猛
獣なんて普通はいませんでしょう? それでふっと思い出したんですよ。例の……』
 Q.怪人の都市伝説、ですか。
 Aさん:
『ええ。会社の若いのが話しているのを小耳に挟んでいた程度なんですがね。でも、実際に
目の前……あ、いや後ろか。その正体を説明できるとしたら、本当、そんな御伽噺みたいな
事でもないとできませんし。ただ……結局顔も見れませんでしたからね。実は凄いマッチョ
な人間が犯人、だったのかもしれませんけど』
 Q.流石に人相までは覚えていないですか……。
 Aさん:
『ええ……すみません。何分薄暗かったですし、私自身羽交い絞めにされてろくに動けませ
んでしたから。それに、ぐるぐる思考が巡っている内に急に意識が遠くなっちゃって……。
気が付いたら警察やら救急車やらが来ていた所で、犯人も姿が無かったですし』
 Q.ちょ、ちょっと待って下さい。意識が、遠くなった? それはどういう……?
 Aさん:
『さぁ、私にも詳しい事はよく分かりません。気付いたら慌しく搬送されてここに運ばれた
ものですから……。直前で覚えている事といったら、脇腹の辺りに何かが当たったような感
触、ぐらいですね。何か硬いものです。スタンガン、だとしても痺れたような感覚は記憶に
無いですし……。う~ん……やっぱりよく分からないですね。記憶がもう曖昧になっている
みたいで……すみません』
 Q.いえいえ。どうも、貴重なお話をありがとうございます。
 Aさん:
『いいえこちらこそ。こんな話でも、他に被害に遭う方を減らせるというのであればお安い
ご用ですよ』

 Aさんからの取材を終えて、私は確信を深めた。この都市伝説の原型が確かにあると。
 そして……同時に静かな戦慄も覚えたのだ。
 仮にこの一連の衰弱事件=件の都市伝説だとしても、結局その犯人──怪人達は、今も尚
この街の何処かに潜んでいるのだから。それも少なくとも二十件、いやそれ以上の頻度で、
場合によっては人一人の生命まで失われている事態がこの街を静かに脅かしている。
 今回の取材の始まりに際して私自身、好奇心があった事は否めない。
 だが、ここに来てようやく私は事態が相当に危機的状況である事を悟った。
 本誌にこの記事を載せようと意欲を燃やしたのも、その為である。こんな事態にあるにも
拘わらず、未だ公にされないのならば、本誌からでも読者諸氏を通じて人々に注意を促す事
ができれば……そう思ったからだ。
 しかし……。我々は本当にそれだけしかできないのだろうか。
 ただ、突如現れた脅威に振るえ、ただ逃げ惑う事しかできないのだろうか。 
 ──否、そうではない。
 私はただ読者諸氏を不安にさせるだけでは終わらせたくない。
 今回の取材で得たもの。それはこれまで述べた都市伝説の真実だけではなかった。
 それは新たな都市伝説。現に起こっているこの脅威に立ち向かう者の存在を知りえた事で
あった。一縷の希望であった。
 その者は夜の街を駆け、人々を襲う異形と戦う正義の使者。
 片手には変幻自在の聖なる力を。
 もう片手には悪を撃ち抜く聖なる銃器を。
 そう、その者こそ、人呼んで『ナイトガンナー(夜の銃士)』である──。


 Slot-1.潮騒の街と都市伝説

 オフィス街の一角に居を構える『清浜ジャーナル』編集部は、今週号の締め切りが近づい
てきている事もあって忙しない空気に包まれていた。
 無数のキーボードを叩く音、動き回る足音、交わされるやりとりの声。それぞれが重なり
合い、さながら急ピッチで全体を回す大きな歯車を動かしているかのようだった。
「…………却下だ」
 そのオフィスの窓際、編集長と書かれたプレートの置かれたデスクに着く原は、手渡され
たその原稿に暫く目を落とした後そう呟くと、ぺいっと仕事途中で煩雑としたデスクの上に
投げ放った。
「えぇっ!? そ、そんなぁ」
 そんな彼の対応に、その原稿の執筆主・乾奈々子は周りの雑音に負けないくらい遠慮の無
い不満気な声を漏らす。
 ミドルショートの、毛先が少しあちこちにはねた髪。格好もTシャツにジーンズという動
き易さを重視したものだ。背丈はやや低めで、それがただでさえ砕けっぱなしの彼女の口調
と相まって実際の年齢よりも彼女を若く──否、幼く見せている。
「結構いけると思ったんだけどなぁ……」
「……あのなぁ、乾」
 ぽつりと呟く奈々子。だが、その小声を原は聞き逃さなかった。
 心持ちデスクから身を乗り出して両肘をつくと、半眼で彼女の顔を見上げる。
「載せられるわけないだろう、こんな曖昧な情報をよ。怪人の都市伝説? お前、一体何歳
だ? 一応社会人だろうが。仮にも雑誌社の人間がそんな噂話を真に受けてどうする」
 馬鹿馬鹿しい。そう言わんばかりに溜め息を混じらせ、原はそうこの学生気分の抜け切ら
ない部下に言い聞かせようとする。
 噂話で会話に花を咲かせるぐらいは結構だが、それをジャーナリズムに持ち込むのはどう
かと思う。原は清浜ジャーナルからはあくまで「事実」を発信したいと思っていたからだ。
「曖昧じゃないですよ~、実際に被害に遭った人達だっているんです」
 だが、奈々子の方は少しムキになってしまったらしい。
 突き返された原稿のページを捲り、目当ての部分──インタビューの場面の文面と写真を
改めて原に突きつけながら言い返してくる。
「あ~……衰弱事件、だっけ? 確かにそれは実際に起こっている事件みたいだがな……。
だが、それとその都市伝説が一致するっていうのは単にお前の主観だろ? 希望的観測だ。
俺なら都市伝説じゃなく、その衰弱事件の方をクロースアップするがな?」
「うぅ。むぅ……でもちゃんと被害者ご本人に取材だって」
「だ~か~ら、それとその都市伝説とやらが結びつく証拠じゃないだろって言ってるんだ。
あくまでもその衰弱事件の生き証人って所だろう?」
 説教にならないよう、できるだけアドバイスのように。
 だがそれでも奈々子は粘ってきた。
 聴覚に部下達の働きを聞きながら、原はふぅっと一拍の深呼吸を置いて、
「だがそれでも怪しいもんだがな。実際に被害に遭ったとはいってもその証言が『怪物に襲
われました』だなんて一体読者のどれだけが信じると思ってるんだ? せいぜいお前みたい
なゴシップ好きな人種ぐらいなもんだろう。取材ソースとしても、正直弱いぞ?」
 もう一発、冷静な一撃を彼女にお見舞いする。
「そんな事ないですっ、田井中さんは嘘をつくような人じゃありませんでした」
「だからそういう主観ばっかりじゃ記事になんねぇんだろうって……つーか、さらっと本名
晒すなよ。まぁ、俺だからいいけどさ……」
 しかし彼女はすっかり自分の組み立てた都市伝説の真実(?)に酔っているかのように、
原には見えた。
 だが今でこそ編集長という管理職に収まっているが、気持ちは分からなくも無い。
 混線とした世界の情報。その一端でもいい、その流れ、メカニズムをクリアにする事がで
きた時の達成感。それはこの仕事に喜びを感じる内の一つであろう。
 しかし、それを焦れば集めた情報は誤報となってしまいかねない。自分を囲む事実よりも
頭の中の事実が先行してしまう。それは何としても避けるべきミスだと思う。
 だからこそ、彼女にはもう少しクールになって貰いたいと思う。
 同じジャーナリストとして。
「…………」
 だが、そこで原はふと思い出したように動きを止めた。
 対する奈々子は軽く小首を傾げてこちらを見ている。
(……そうだよ)
 同じジャーナリストとして……。
「……違うじゃねぇか。そもそも」
 原はガシガシと髪を掻きながら、大きく溜め息をついた。
 引き止める方に頭が回っていてすっかり忘れていた……。
「そもそも、お前、記者じゃなくってカメラマンだろうがっ!?」
 忘れかけていた自身への小っ恥ずかしさを一緒くたにしてぶつけるように、若干声を荒げ
つつ、原は思わず叫んでいた。
 その声に数人の部下がデスクからちらとこちらを覗き込んできたのが分かったが、原は何
でもないと眼で彼らを作業に戻らせ、自身も乗り出していた身を椅子に深く腰掛け直す。
「それはそうなんですけど……。皆の仕事振りを見てると私も書きたいなぁ~……って」
 エヘヘと、そう緊張感のない微笑を返してくる奈々子。
 その反応に原は続けざまに叱る事はできず、再び嘆息をつくだけに留まる。
「……そうかよ。ま、この仕事に興味を持ってくれるのはありがたいが」
 そう言いつつも、原は思い返していた。
 数年前のカメラマンの補充。そこに応募してきた一人が彼女だった。
 ぱっと見は今と変わらず何処か幼くボケっとしていたが、その写真家として才覚に、当時
面接官の一人として関わった原は何か輝くものを感じ、採用に賛成を述べたのだ。
 だからこそ……彼女には、カメラマンとしての自分の腕を存分に活かして欲しいと思って
いる。今焦って成果を、それも畑の違う道に行かずともよい筈だから。
 世の中才覚と現実が噛み合わない事は多いが、せめて自分の部下達くらいはその例に漏れ
たっていいじゃないか。そう思うのである。
(…………)
 それは、叩き上げでこうして管理職にまで上り詰めたが、それでも現場の記者として活動
したいという一種の疼きが今も燻ぶっている、自分のような者を再び作りたくないという思
いが何処かにあるからなのかもしれない。
「……編集長?」
「ん……? あぁ」
 どれだけ思考に黙り込んでいただろうのか。
 原は少々怪訝に見つめてくる奈々子の声でようやく我に返った。
 そして、思わずわざとらしく咳払いをすると彼女に向き直り、
「と、とにかくこの記事は載せられないぞ。そもそも今週号のレイアウトはもう決まってる
んだからな」
 そうやや早口で言い放っていた。
「……そう、ですか。分かりました」
 そこでやっと折れたのか、奈々子は口先を窄めてそう呟くと、もそもそと原稿を胸元に掻
き抱いてから一歩下がった。
「失礼しました~……」
 ゆたりと身を翻して、デスクの山に戻っていく彼女。
 返事を寄越した相変わらず言葉遣いは砕けた類のものだったが、その背中には明らかな気
落ちの色が見てとれる。
「……乾」
 そんな彼女の後ろ姿に、原は思わず声を掛けていた。
 その声に、先程よりも明らかにスローテンポで彼女は顔だけを向けて振り返る。
「…………持ち込みがあるんなら、せめて会議までには合わせて来いよ」
「……。は~い」
 果たして自分の考えが、フォローが、どれだけ伝わったのだろう。
 こくりと頷いてから、再びゆたゆたと歩いていく彼女を見送りながら、原は改めて自分の
職務の難しさを想った。
(……もっと言い様はあったかのもしれんが)
 それでも厳しさと共に叩き上げられた経験しかない自分を、今の若者の感性に合わせてい
くのは同じく難しい作業である事に間違いはない。
 原はぐぐっと、椅子に腰掛けたまま背伸びをした。
 ぼうっと天井を見上げ、反響してくる部下達の職務の物音が耳に飛び込んでくる。視線を
デスクの上に落とせば、編集長としての仕事がそこに積み残されている。
 数秒の鎮座。
 その後、原は身を起こして普段の調子を取り戻すように声を上げた。
「──黒田!」
「? 何です、編集長?」
 その声にデスクの山からひょこっと顔を出してきたのは、一人の若手社員。
 原は彼がこちらを見てきたのを確認すると、言った。
「乾の御守り。お前の仕事だろ、しっかり繋いどけよ!」
 彼女の相棒に、自分の思いを託すようにして。

「……わ、私は犬か何かですか」
 背後から届いた声に、先ず奈々子当人は苦笑とも何とも言えない表情で呟いていた。
「犬か、上手い事言うな。イヌイだけにってか?」
「むぅぅ……っ」
「あ~……。わ、分かったよ。そんなにむくれるなって」
 その様を、黒田一聖(かずさと)は横目で見ながらにやにやと笑っていた。
 やや着崩したワイシャツにネクタイ。その上から紺のノースリーブのジャケットを羽織っ
ている。ぼさついた髪は伸びっ放しであり、その後ろ髪は紐で括られて小さな尾っぽのよう
にも見える。
 年格好は二十五、六歳といった所だろう。清浜ジャーナルの若手記者であり、現在は後輩
である奈々子とコンビを組んでいる。
「で……。どうだった、持ち込みネタの方は?」
 そのデスクの上には原稿の文字が叩き込まれたノートパソコンが一台。その周りを雑多な
資料やメモの類が占拠している。
 一聖は一旦、キーボードを打っていた手を止めると、ちらとむくれっ面の奈々子の方を見
遣ってそう話題を変えた。
「駄目でした。曖昧な情報じゃ載せられない……って」
「う~ん、やっぱ駄目だったか」
「ぬぅ……やっぱって何ですか。『よし、行って来い!』って背中を押してくれたのは先輩
じゃないですか~」
 そう言い、更に不満を募らせて奈々子がぐいと身を乗り出してくる。
 一聖はその勢いを宥めながら、耳元をポリポリと掻いて言った。
「そりゃあ、締め切りも近いし時期が時期だろ? 少なくとも今週号は無理だろうとは思っ
てたさ。それでもネタがあるなら早い内に打診しておくに越した事はないだろ?」
「それはそうかもしれませんけどぉ……。でも、編集長には撥ね付けられましたし」
「ん~……ま、ネタが都市伝説だからなぁ。大方、確証もないのに載せられない……みたい
な事を言われたんだろ」
「うぐ、正解ですけど……。で、でも確かに怪人伝説の原型は見つかったんです。噂は本当
なんですよっ。火の無い所には煙は立たないんですっ」
「……ところがどっこい、今の時代は火種が無くても煙を起こせちまうんだよなぁ。末恐ろ
しい事に」
 それでも力説する彼女に、一聖はふっと口元に笑いを浮かべていた。
 ポンポンと、傍らのノートパソコンを指先で数回叩いてみせる。ディスプレイには次の文
字を打つべく縦線のカーソルが静かに点滅を繰り返している。
「衰弱事件、だっけ? 原稿に書いてあった」
「はい。ちゃんと被害者ご本人にも取材してきましたし、確かですよ」
「……でも、それも信用性に欠けるとか何とか言われて編集長には撥ねられたんだろ?」
「うぐっ、な、なんで分かるんですか……」
「いや、普通に考えればそうだろうに……。科学的根拠がないって理由でそういうオカルト
の類を否定する人間なんてゴロゴロいるだろうしな……」
 そう語る一聖の視線は、何処か遠くを見ているかのようだった。
 それでも口元のにやけは消えていない。決して合理主義者を見下すようなものでもない。
「そうですけど……でもぉ……」
 だが、当の奈々子の方は不満なようだった。
 もどかしげに一聖のデスクの横に突っ立ったまま、言葉にし難い何かを噛み砕いているか
のようにも見える。
「……どうしたんだい? そんな難しい顔をして」
 そんな降りかけた沈黙。
 それを破ったのは一聖の背後から聞こえてきた男性の声だった。
「あ、辰巳先輩」
「あ、いいえ……。まぁ、そんな大した事じゃあ無いっすよ」
 振り返れば細身の、背の高い男性が歩み寄って来ていた。
 片手には陶器のコップが握られている。
 辰巳拓馬。二人の先輩記者であり、特に一聖にとっては入社当時ノウハウを教わった直接
の師匠のような存在でもある。
 奈々子と一聖は彼に振り返ると、それぞれに返答を返した。
「そうかい? さっき編集長と何か話していたみたいだけど……?」
「……ええ。その、ちょっと、ナナが持ち込みネタがあるっていうんで」
「ふぅん?」
 辰巳はそのにこやかな地の表情を崩す事なく「いいかな?」と奈々子に了解を取って、彼
女の抱えていた原稿を受け取ると、静かに目を通し始めた。
 暫しの沈黙。
 特に奈々子は先刻原に撥ね付けられた記憶が尾を引いているらしく、一層緊張した様子で
立ち尽くしているようだった。
「……あぁ、怪人の都市伝説だね。俺も耳にした事はあるよ」
「!? 本当ですか」
 その彼の第一声。
 すると奈々子は意を得たりと言わんばかりにぱっと表情を明るくした。
「ああ。君はそれを調べたのか……ほう。中々面白いじゃないか」
「はいっ。あ、でも……編集長には曖昧な情報は載せられないって言われました……」
 だが、すぐに思い出しように彼女は何処か愚痴るような声色に戻る。
「そうか。まぁ、確かに妥当な判断ではあるかな?」
「……うぅ。やっぱりそうですかね……?」
 原ほどではないにせよ、批判に乗られるような言葉に奈々子は益々弱腰になっていくよう
だった。それでも辰巳は穏やかな表情を崩す事はなく、そっと原稿を彼女に返す。
「でも、記事にしたいなら会議までの合わせて来いって言われていただろう? もっと内容
をしっかりと詰めれば載せてくれるんじゃないかな」
「ん? ナナ、お前そんな事言われてたのか?」
「え? あ、はい……でも載せてくれるなんて言ってませんでしたけど?」
 確認してくる一聖と答える奈々子のそんなやり取りを見遣りながら、辰巳は静かに微笑ん
でいた。そして取っ手を指先に絡めたコップを揺らしながら、
「ふふ……編集長はちょっと不器用な人だから。それに、一度拒まれたからってそう簡単に
へこたれなくてもいいと思うよ?」
「……そう、なんですかねぇ」
「うん。少なくとも君達よりは人となりを知っているつもりだからね……。あぁそうそう、
コーヒー淹れてくるんだけど、二人も飲むかい?」
「え。あ、はい……」
「じゃあ俺も」
「うん。ちょっと待っててね」
 にこりを笑みを送って給湯室の方へと歩き去っていく。
「……やっぱり、辰巳先輩って何処かぼ~っとした感じですよねぇ」
 暫くぼうっと立ち去った方向を眺めてから、奈々子がそう静かに呟いた。
「……お前に言われちゃあざまねぇだろ」
「はい?」
「いや……。何でもねぇ」
「?」
 頭に疑問符を浮かべて振り返ってくる彼女に、一聖は苦笑を返すだけだった。
 くるりと椅子を半回転戻し、再びパソコンの前に向き直る。カタカタとキーボードの上で
指先が踊り、途中まで書かれていた原稿の続きが書き加えられていく。
「…………」
 奈々子は作業を再開した彼を暫し見遣った後、ストンと隣席の主の出払ったデスクの席に
座り込んだ。抱えていた原稿をその卓上に置くと、不意に周囲の雑音の音量が大きくなった
かのような感覚が自身を包み込んでくる。
 締め切りの迫った編集部。
 確かにこのオフィスは今多忙の中にあるのだろう。しかし、奈々子にはそんな光景すらも
ある種の憧れのような感情が、輝かしい補正を加えているかのように見えている。
 切欠は、短大時代の就職活動で見つけたカメラマン補充の求人広告。
 実家が写真館を営む彼女にとって、写真は身近なものであり、同時に比較的早くから趣味
として嗜んできた得意分野でもあった。
 自分の好きな事が……仕事になるかもしれない。
 ぼんやりとだが、頭を過ぎったそんな理想。他にこれといった道も決めていなかった彼女
はそのままの勢いで応募、そして現在カメラマンと採用されて現在に至る。
 確かに現実はそれほど甘くはない。思ったよりもずっとハードワークな事も決して珍しく
はなかった。
 それでも、この仕事を通して知ることができた。
 生まれ育ったこの街の、良い所も、悪い所も両方併せて。
『──幻滅している暇なんてないぜ。この街の酸いも甘いもひっくるめて全部受け入れて、
それでも好きだと言えなきゃ、どうして地元誌の記者を名乗れってんだよ? 俺達はどーん
と胸を張って、ぶつかっていってナンボなんだ。知る事を、恐れるな』
 そして落ち込んだ時には、先輩はそう言って励ましてくれたっけ……。
 だからだ。
 だから、自分は何時しかただ写真を撮るだけでなく、記事として人々の営みを残し、伝え
たいと思うようになった。
(だけど……私じゃ、無理なのかな……?)
 デスクの上の原稿をそっと指でなぞる。
 好奇心が先走っていた感はあった。でも、あの事が事実ならこのまま野放しにしておけな
いと思った。だって……私は色んな悪い所を見せられても、やっぱりこの街が好きだから。
好きでいたいと思うから。
「はい。お待ちどう」
「あ、どうも……」
「どうもっす」
 そうしていると、辰巳が自分の分と奈々子達の分、三人分のコップに入れたコーヒーを盆
に乗せて戻ってきた。二人がそれぞれにコーヒーを受け取ると、辰巳は再びにこやかな微笑
を残して自分のデスクへと戻っていく。
(……ん。美味し)
 ちびちびと。
 奈々子と一聖はお互いにコーヒーを口にしつつ、オフィスの喧騒の中で言葉少なげにその
場に佇んでいた。遠のいては近づき、近づいては遠のく、多重奏。
「……先輩は」
 言葉少なげに原稿を打っている一聖の横顔。
 その様子をすっと見据えながら、
「先輩は、私に記者は向いていないと思いますか?」
 奈々子は一瞬躊躇してから口を開いていた。
「……何だよ。いきなり」
 ディスプレイが放つ照明に顔を照らされたまま、一聖はいつになく真剣な声色でそう短く
呟き返してきた。それでも、指先の動きは止まっていない。
 奈々子は、次の言葉を紡ぐのに時間が掛かっていた。
 直感は働く。だが論理的な会話が得意ではなかった(だからこそ、こんな質問をしてしま
ったのかもしれないが)。視線が、僅かにデスクの上の原稿に注がれる。
「だって、結構苦労してまとめた記事なのに、編集長にはあっさり却下されちゃうし……。
先輩は背中を押してくれましたけど、やっぱりカメラマンが記者の真似事をしたって駄目な
のかなぁって……」
「…………」
 オフィスの喧騒に混ざるように、暫く一聖のキーボードを叩く音は続いていた。
 無粋な、自分に合わない言葉だっただろうか。
 奈々子が暫くの間の後、そう思い直そうとした時だった。
「一度拒まれたってそう簡単にへこたれなくてもいい、そうタク先輩にも言われただろ?」
 はたと止まった指先。そして返ってきた言葉。
 一聖は顔を上げた奈々子の視線を追うようにしてこちらに顔を向け、不敵な笑みを浮かべ
ていた。
「ま、正直言っちまうと元々記者じゃなく、カメラマンで採用された身だからな。本来はそ
の期待された仕事をするのが筋ってもんだろうけど」
「うぅ……それは、そうですけど」
 そう言われると身も蓋も無い。
 奈々子は思わず苦笑して呟かざるを得なかった。
「……だけどよ。別に記者だのカメラマンだのに拘る必要はねぇんじゃねぇの? 確かに俺
達は原稿は俺、写真はお前って役割分担になってるけどさ。時と場合によっちゃ、逆転した
って別に構いやしないと思うぜ? できた記事を読む人間からすりゃ、問題になるのはその
質なんだからさ」
「…………」
 あっけらかんと。
 そんな一聖の笑う表情に、奈々子はポカンとしていた。
「ネタを撥ねられる? そんなの俺だって何度も喰らってるよ。それでもこうして記者を続
けてる。それはやっぱ、誰かに伝えたいって気持ちがここに」
 そして彼はポンと胸に手の平を当てて、
「ここにあるからだろ? 記者だのカメラマンだのっていう区分けなんて関係ない。ただ単
に媒体が違ってるだけの話じゃねえか」
 そう断言する。
「それに俺の原稿だって、タク先輩とかダチに色々教わって今の形になってる。お前だって
焦る事はねぇよ。まぁ……俺としちゃあ、お前の写真の腕を買ってるつもりだからよ。この
まま上手い事コンビネーションが活きればいいと思ってるんだけど」
「…………」
 彼がそう語る中で、奈々子はいつの間にか下を向いて押し黙っていた。 
「ま、それでももしお前が書きたいっていうなら、俺は応援するぜ。ただ、今回みたいに撥
ねられちまう事もあるだろうけどな」
 何で……。何でこの人は、こういつもストレートなんだろ……。
「それによ……俺自身、今回のお前の持ち込みネタには思う所があってな」
「え……?」
 いつの間にか、自分のデスクの上の資料を整理しながら一聖が呟いた言葉に、奈々子はつ
いっと顔を上げていた。彼は片手にした資料の束の陰から顔を覗かせながら、
「実際、衰弱事件が起きているっていうなら、それについて読者を通じて注意喚起をするっ
て意味でも記事にする価値はあると思ったんだよ。だから、お前が相談してきた時、俺は背
中を押してみたんだ。仮に撥ねらてれも、そういう問題意識をお前が持ってくれた事に意味
があると思ってさ」
 そう言うと、その束をデスクの上に積み直し、再びディスプレイに向き直る。
「そう、だったんですか……」
 奈々子は再び聞こえてくるキーボードの音を耳に聞きながらぼそりと呟いていた。
 そっと口に運んだコーヒーが、少しだけ温くなり始めていた。
 それでも奈々子には、ほっこりと温かい何かが自分に染み込んでいくように感じられる。
(……先輩で、よかった)
 入社当時、一番期が近いという理由でコンビを組む事になった自分達。
 でもそれは偶然であったとしても、自分には幸運であったのだな。そんな事を思う。
「…………」
 ぽ~っとした、こそばゆいような温かいような感覚の中。
 暫くの間、オフィスの喧騒とそんな妙な己の中の感覚にゆらゆらとたゆたうような気分を
静かに味わう。
 ちょうど、そんな最中だった。
「……ナナ」
「!? は、はひっ?」
 突然、キーボードの手を休めた一聖の声が奈々子の意識を現実に引き戻した。
 思わず、心臓の音が跳ね上がったかのように驚いて妙な声色になる。その様子に一聖は若
干怪訝な目を遣りながらも、パソコンの電源を落として閉じ、挿してあったUSBメモリを
鞄の中に放り込んで言った。
「お前、その原稿の取材メモって残してるか?」
「え? 取材メモ、ですか……? はい、勿論残してますけど」
「そっか……。よし」
 小首を傾げつつ答える奈々子の返答に、一聖は独り頷くとそのまますっくと立ち上がる。
後ろのロッカーを少し漁り、せっせと身支度を始めた。
「出掛けるぞ。お前も準備しろ」
「ふぇ? 出掛けるって……何処に」
 使い古した鞄を肩に引っ掛けながらそう告げる一聖。
 奈々子は慌てて残りのコーヒーを飲み干すと、今にも出て行こうとするそんな彼の背中に
思わずそう問い掛けていた。
「さっきも言っただろ?」
 すると一聖は、その声にゆったりと振り返ると、
「お前のそのソース(取材源)を洗い直すんだよ。俺も、この一件には関心があってな」
 そう答えて、口元ににっと弧を描いてみせたのだった。


 清嶺ヶ浜は、元々は何処にでもある地方の小さな海辺の町の一つに過ぎなかった。
 届いてくるのは潮の音と香り。土地柄、シーズンになれば海水浴客やサーファー、釣り人
などでそこそこの賑わいを見せはしたが、観光資源として大振る舞いができるような設備も
意欲も人々にはなかった。そこに在るのはのんびりとした時間の流れと、それらに静かに寄
り添い、そして緩やかな連帯を保つ、ある種地方が持つ濃密な人間模様であった。
 しかし……ある日、そんな小さな町に突如として衝撃が走る事になる。
 それは、清嶺ヶ浜一帯を対象にした大規模な開発事業計画だった。
 「町の発展と更なる科学技術の振興の両立」というスローガンの下、当時の国の全面的な
支援を受けた一大プロジェクト。清嶺ヶ浜が幹線道路を通れば比較的都市圏から近く、且つ
それらの開発の波に殆ど揉まれていないという点が候補地として選ばれた大きな理由であっ
たらしい。
 突如降って沸いた開発事業。町は歓喜と、否……それ以上の混乱に包まれた。
『今こそ清嶺ヶ浜再生の絶好の機会だ。皆で町の再生を盛り上げよう!』
『開発などこの地の環境を壊すだけだ。皆で清浜の在るべき姿を守ろう!』
 賛成派と反対派。混乱の中で生じた大きな亀裂。
 町は計画の是非を巡って大いに混迷を極め、住民レベルでもあちこちで分裂し、対立の構
図を深めていった。
 そんな両者を収めようと何度も対話の場が設けられこそしたが、互いの意見の対立は中々
埋まることはなく、遂には両派による武装衝突にまで発展。そうした当時の混乱ぶりは、国
の支援事業という表看板も手伝い、全国的にも報道される事になる。
 突如として崩された人々の関係。
 それらは折に触れて悪化する一方だったが、そんな対立の構造も、事態を見かねた当時の
市長が行った計画受諾の記者会見を期に徐々に下火となっていった。
 かくして、事業計画はようやく実行に移される事となる。
 駅前の閑散とした商店街も、そこからまばらに点在する家々も、再開発によってその多く
が姿を変えて替わりに多数のビルに、オフィス街や繁華街へと変貌していった。
 まるで無数の鉄の幼虫達が土地を喰い、呑み込んでゆくように。
 道路も大幅に整備・増設され、その周囲も、それまで家々の間を囲っていただだっ広い田
園風景、も雑多なビルや招致・新設された学術施設などによって埋められていく。当時最大
の懸案だった『次世代エネルギー研究所(略称・エネ研)』の建設先も、清嶺ヶ浜沖合いの
離島に置かれる事で決着し、徐々に人々は、賛否を巡る闘争から猛烈に変わっていく自分達
の街の風景への対応にエネルギーを費やさざるを得なくなっていった。
 ──色々あったが、もう争うのは止めよう。
 次第に、人々は暗黙の内にそう思うようになっていったのかもしれない。
 どれだけ理想を描いたとしても、圧倒的な現実を前にした時、人はただそれを時代の流れ
として受け取り、そして享受する他ないのだと。
 そうして、人々はかつての静けさを取り戻していったかのように見えた。
 諦めや恭順、様々な想いを閉じ込めたまま。
 それでも、何時しか発展を遂げたこの街に人々は身も心も慣れていった。
 ──あの日々に何かがあったとしても、もう蒸し返したくは無い……。
 そんなある種のタブーに、支えられながら。

「はい。お会計、四百八十円ね」
 無数雑多な人の声が入り混じる。
 そんなざわつくホールの中でも一際目立つ、威勢のいいパートの中年女性の声が否応なく
耳に響いてきた。
 時は昼食時、昼休み。場所は『清嶺大学』の学生食堂。
 かつての開発事業の中で新設された学術機関の一つであるこの大学は、街の中心部からは
外れた、建設用に用意された広い敷地の中に建っているある種別の地域とも言えるのだが、
それでも昼を始めとした食事時ともなれば、学生や教職員に混じって付近の住民もちらほら
と利用しにやって来る。
「……」
「五百円ね。はい、二十円のお釣りになります」
「…………」
 白沢大良(ひろよし)は、レジで対応してきたこの中年女性の声量に内心で鬱陶しさを覚
えながらも、会計を済ませると言葉少なげにホールの方へと歩いていった。
 生真面目さを垣間見せる白く洗濯の行き届いたワイシャツ、薄いカーキ色の布ズボン。手
にはワンコイン内で収めた定食(和タイプ)を乗せたトレイ。
 背丈はすらりと高く、さらりとした黒髪。顔立ちも二枚目と言って差し支えのない整った
容姿をしている。しかし全体的には軽量の銀フレームの眼鏡とその奥で静かに鋭く佇む目付
きとが相まって怜悧さを、そして何処か近寄り難いかのような印象を与えている。
 年格好からして二十代半ばと思われるが、纏うその雰囲気は彼を実際よりも大人びて見え
させるかもしれなかった。
「…………」
 周囲をちらと見渡し、空いている席へと向かう。
 その最中にもあちこちから“雑音”が耳に届いてくる。その多くは食事を摂りながら談笑
に華を咲かせる学生達の声なのだろう。
(……やはり、騒がしいな)
 だがそんな喧騒も、大良にとってはあまり心地の良いものではなかった。
 視界に映る数人の若者達。
 自分のような院生はこの大学でも限られているだろうから、おそらくは一般学生、自分の
後輩達に当たるのだろう。彼らは共に笑い合い、その一瞬を謳歌しているようにも見える。
 知識として、知ってはいる。
 今の時代、この国の学生というものが勉学以外の事に情熱を注いでその貴重な時間を過ご
してしまう傾向にあるというのは最早珍しくない現象だ。
 だが……大良には、そんな時間の使い方に疑問と遠目からの苛立ちの様な感覚を覚えずに
はいられなかった。自分が特異な──勉学漬けな人間なのであろう事は分かっている。それ
が最早珍しい人種になりつつある事も。
 だが、自分達は「学ぶ」その為にこうしてキャンパスに通っているのではないのか?
 だからどうしても、こうして群れ、享楽に溺れている(ように見える)彼らを見るのは、
大良にとっては正直、決して心地の良いものとは言えなかったのである。
(……さっさと食べて、ここから出よう)
 頭を過ぎったそんな暗がりのような思考を振り払うかのように、大良はその場で数秒を目
を閉じて静かに深呼吸をしていた。そして肩に引っ掛けていた鞄を隣の椅子に置き、空いて
いた席に着く。テーブルの上にはトレイに乗った今日の昼食。無言で小さく手を合わせて、
早々に片付けてしまおうと箸を手に取った。
 ちょうど、そんな時だった。
「……あ、あの。白沢君」
 不意に近づいてきた足音と投げ掛けられた声。
 大良が顔を上げると、そこには見覚えのある一人の女子学生が同じく昼食を乗せたトレイ
を手に立っていた。
 やや長いふんわりとした髪、清楚な印象のブラウス姿。全体的に穏やかな印象の女性。
 自分と同じゼミに所属する、雪村早苗だった。
「あの。せ、席、いいかな?」
「……好きにするといい」
 おずおずと、何処となく緊張したかのような様子で訊ねてくる早苗に、大良はぼそっと気
のない返事を寄越した。「お、お邪魔します……」と呟いて向かいの席に着く彼女には目も
くれず、改めて黙々と食事を開始する。
「…………」
 流れる沈黙と、周囲からの雑音。
 それらと自分を切り離すかのように寡黙に、ご飯を、味噌汁を、焼き魚を口に運んでいく
そんな彼の様子を、早苗は時折ちらちらと窺いながら、自身も丸皿の上に盛られたパスタを
フォークでくるくると巻き付けていた。
「し、白沢君は」
 そして互いの沈黙の後、ややあって、早苗が意を決したように口を開く。
「お昼は……その、いつも学食なの?」
「……いや。今日は偶々だ」
「そう、なんだ」
「……」
「えっと……。な、何で?」
「……今日は朝から講義が詰まっていたんだ。昼食の準備に部屋に戻ろうにも時間が無い。
だから此処を利用する事にした」
「ふ、ふぅん……そっか……」
「…………」
「あ。と、という事は、普段はもしかして自炊なの?」
「……ああ。基本的には」
「そうなんだ……。わ、私はてっきり白沢君の事だから『サプリメントで充分だ』なんて事
を言うんじゃないか……な、なんて」
 ぎこちない、会話。
 それでも何とか早苗は会話を繋げようとするが、
「……確かに栄養補給の点で言えばそれも構わないかもしれない。だが、人間の生命維持に
は多種多様な栄養素が必要だ。それを毎食、全てサプリメントで行おうとすれば現状、その
分量は膨大になる。それに、それらを調達しようとする点でも経済的ではない。どのみち、
現実的な方法ではないな」
「う、うん……そ、そうだよね。あはは、は……」
 対する大良の返答は素っ気無い、或いは生真面目過ぎるものばかりだった。
『…………』
 早苗の乾いた笑いの後、再び二人の間に沈黙が降りる。
 平然と、黙々と目の前の和食を頬張り、咀嚼しては飲み込んでいく大良。その向かいで俯
き加減になってパスタとサラダを交互に口に運んでは、おずおずと彼の顔色を窺う早苗。
(ち、違うっ……! こ、こういうのを私は期待していたんじゃないのにぃ……)
 内心で、早苗は正直のたうち回っていた。
 彼と談笑しながらの昼食、会食。そんな些細な一コマすらままならないなんて。
(やっぱり、無茶だったのかなぁ……)
 脳裏を過ぎる一抹の諦観。
 じゅるっとパスタを飲み込み咀嚼しつつ、早苗はちらりと大良を見遣った。
 整った容姿。食事をするその姿も綺麗というか、様になっているというか。
 内心彼を見てドキドキしながら、そんな事を思う。
(これでもっと社交的なら、完璧さんなんだけど)
 白沢大良の、致命的な短所。
 それはその他人に対する態度にあった。
 一見相応の礼節を以って接しているようにも見えるが、その実は形式的に応じているだけ
で相手に近寄ろうという意識が見えてこない。即ち、何処か相手と距離を、壁を作ろうとし
ているかのような態度ばかりが表に出てくるという点であった。
 故に、その容姿や明晰な頭脳などに惹かれて彼に近づいた者の殆どは、次第に彼から距離
を置き、そして離れていった。
 そして早苗自身も、大良と知り合ったのはここ数年の事でしかなかったが、それでも何度
かそれらしき場面を見聞きした事があったのである。
(うぅ……駄目駄目。駄目だよ、早苗。自分までそんな風に思っちゃ……)
 心の中でふっと沸いた彼へのネガティブなイメージを、早苗は自分に言い聞かせるように
して振り払った。そして改めて想う。
 でも、そんな彼だから。
 だからこそ、せめて自分ぐらいは彼を突き放してしまいたくない。そう思うから──。

 初めて白沢君に会ったのは、私が院に進むよりもずっと前の事だった。
「うぅぅ……むぅぅ……」
 その日、私は図書館の自習室で提出期限が迫っていた課題と格闘していた。
(ど、どうしよう……分かんないよ。今日中に出さないといけないのに……)
 だがその内容は当時の私には未だ難しく、中々解き進めずに、私は完全に詰まってしまっ
ていたのだ。
(阿藤先生、難しいの出し過ぎなんだよねえ……。あぁ、どうしよ……詰まった)
 シャーペンのペン先は完全に止まり、途中まで中途半端に埋まった解答の先の余白を意味
も無く何度もコツコツと叩くばかり。頭を過ぎってくるのは焦りばかりになり、集中力も既
に途切れてしまっていた。
「うぅ~ん……」
 がくりと頭を垂れて降参のポーズ。髪を掻いて乱れる思考を何とか宥めようと試みる。
 だけど、背後左右の気配は変わることがない。皆、それぞれにやるべき事に集中している
ようでましてや都合よく助けてくれそうな人は何処にもいなかった。
『何だ、この程度の問題も解けないのか──』
『困った時にいつも誰かを頼ろうとするのはお前の悪い癖だ──』  
『所詮、お前程度の頭でこの大学に来た事自体、間違いなんだよ──』
 そんな時に限って、脳裏に過ぎるのはネガティブな内なる批判の声だけ。
 清嶺大に入学してから二年が経っていた。
 入学当初のある種の期待感はすっかり消え、あるのは予想以上のレベルの高さと、時折沸
き上がってくる、自分の選択を悔いる気持ち。
 ただ家から近かったから。ただ理系が得意だったから。ただ大学は出ておきたいななんて
思ったから。特に深いとも言えない気持ちで飛び込んだ事への、後悔の念がこの時も私の中
で暴れようとしていたのかもしれない。
(……もういいかなぁ。二、三日ぐらい遅れたって……)
 そして、すっかり気持ちが折れて投げ槍になりかけていた、そんな時だったのだ。
「……おい」
 不意に頭上から掛けられた短い一言。
 私はゆたりと机に突っ伏していた顔を上げ、その声の主の顔を見遣った。
「……」
 私の向かいの席に、眼鏡を掛けた男の子──白沢君が座ってこちらを見ていた。
 手元にはびっしりと文章が書かれた何枚ものレポート用紙と、人によっては見ただけでも
拒否反応を起こしそうな分厚い洋書が数冊。パッと見ただけでははっきりとはしなかったけ
れど、多分あの時は翻訳でもしていたんだと思う。
 始めてみた時、単純に「あ。カッコイイ」と思った。そして同時に何だか凄く頭が良さそ
うにも見えた(実際、私よりも遥かに頭脳明晰だったわけだけど)。
「そのプリント」
「?」
「……見せてみろ」
 最初、私はすぐにその言葉に反応できなかった。
 光と音の速さの違いのように、言葉と意味が互いに時間差を以って私の頭の中に入ってく
るかのような感じだった。
「……。あ、う、うん。どうぞ……」
 数秒の間。私はようやく彼(白沢君)が助けてくれるらしいという事を理解して、おずお
ずと課題のプリントを手渡す。
「…………」
 受け取った白沢君は少しの間、じっとプリントを、私が途中まで書いていた答案に目を通
しているようだった。
 眼鏡の下のひんやりとした、鋭い眼。
 初対面だった所為もあっただろうけど、直接睨まれているわけでもないのに、私はあの時
妙に緊張していたのを今でも覚えている。
「……君も、理工学部か」
「え? じゃあ、あなたも……?」
 数秒後、ぽつりとそう言われて私は思わずそう口を開いていた。
 学生数が多いのだから面識がなくても当然だけど、一緒の学部というだけで妙に親近感が
増したのは……ちょっと調子が良すぎたかもしれない。
「…………」
 白沢君は私の反応に特に応える事もなく、黙したままさっとペンを握っていた。
 直後、サラサラと流れるように動いていくペン先。
 どうしてか、私は僅かに身を乗り出す事もできずに、ただそれだけの、それでいて何処か
神聖な印象を放つ彼の姿をじっと見つめるだけしかできなかった。
「……これでいいだろう」
 そうしてると、やがて彼のペンの動きが止まった。
 確認するように一度プリントを流し見てから、私の手に中途半端だった筈の課題が返って
くる。そして……私はその紙面に変化にドキリとしたのだ。
「……わ」
 難問奇問(少なくともあの時の私にとっては)揃いの問題を、あの僅かな時間であっとい
う間に解いてしまった事も然り、そこに書かれた式・証明の整然とした様にある種の美しさ
すら垣間見えたような感覚を受けた事も然り。
「す、凄い……」
 そして何よりも。その一問一問に、私がつまづいていた部分を見透かしているとしか思え
ない程、分かり易くそして丁寧な解説までもが書き加えられていた事が、私をただただ驚か
せていたのだった。
「……後は、自分で何とかしろ」
 ちょっとした感動に包まれていた中で、白沢君はぽつりと呟きを加えていた。
 だけど私はその言葉も、あの時あまりに耳には入っていなかっただろうと思う。
「う、うん……。だ、大丈夫。これだけ綺麗な解答があれば、多分……」
「…………」
 プリントから顔を上げた時、白沢君は既にテーブルの上に広げていた洋書や紙の類を片付
けて今にも席を立とうとしている所だった。それにも気付かず、私は思わずそんな台詞と共
に、この心強過ぎる助け舟たる彼を見つめ返していた。
「……そうか」
 荷物を鞄に詰めて、肩に引っ掛け立ち上がる白沢君。
 表情は平静そのものだったけど、あの時、もしかしたら嬉しかったのかもしれない。
「……こういう世界を綺麗だと思えるのなら、君にもその住人になる資質は充分にある」
「へ? それってどういう……?」
「…………」
 私から顔を逸らした格好で、そう呟いた白沢君。
 思わず問い掛けても、返事を返してくれる事はなく、
「……ぁ。行っちゃった」
 そのまま、すたすたとその場を立ち去っていってしまったけれど。
(……何だか、不思議な人だったなぁ)
 あの時、私は何を言われていたのかピンと来ずに小首を傾げるだけだった。
 だけど今思えば、あれは悩んでいた私を励ましてくれた言葉だったんだ……そう、私は思
うようにしている。
 その後、間もなく私は白沢君についての情報を得る事となった。
 一つは、彼が当時からとても頭のいい学生だった事。
『あ、いた。あ、あの、白沢君……?』
『……。誰だ、君は?』
『あ、えっと……。白沢君と同じ、理工学部の雪村早苗って言います。この前、図書館で助
け舟を出して貰った……』
『…………あぁ。あの時の』
『う、うん。それでちょっと遅れちゃったけど、お礼を言いたくって。本当にありがとう。
あの後、凄く助かったから……』
『……礼? ……君は、勘違いをしている』
『え?』
『僕はさっさと君に、君の懸案を片付けて欲しかっただけだ。真正面でうんうんと唸られて
いてはこちらも集中できないからな』
『…………ぇ?』
 そしてもう一つは、当時から他人を突き放すかのような態度の持ち主であった事も。
 だけど。
 だけど、私はそれですぐに白沢君を意地悪い人だとは思えなかった。
 だってあんなに綺麗な数式を、丁寧な解説を私に残してくれた人だから。
 多分恥ずかしい……ううん、怖がっているんだと思う。そんな気がする。だから白沢君が
周りから孤立している人だと知った時、彼の力に、身近な人になりたいと思った。きっと彼
は根は悪い人じゃない。ただちょっと……その、不器用なだけなんだって……。
 でも他の子にそれっぽい事を漏らしたら、決まって批判されてしまうのだけど──。

「…………」
 もしゃもしゃと。
 パスタを、そしてサラダを口に運んでは咀嚼しながら、早苗はかつて自身が抱いた想いに
還りつつ、向かいに座る大良の様子を窺っていた。
 静かに味噌汁を一口。
 だが当の大良はそんな彼女の内心に気付いている様子はなく、先刻からずっと淡々とした
調子で目の前の料理を片付けている。
「……し、白沢君って」
 沈黙が重い。何か、話題を切り出さねば……。 
 早苗は何とか笑みを見せながら、再び彼との談笑を試みる。
「もしかして小食? 結構控えめな感じだけど……」
 そう訊ねて見遣ってみる大良のトレイの上。
 大方平らげられていたものの、その献立は品数こそ多めだったが、確かに一つ辺りの分量
は少ない印象を受けた。むしろ丸皿に盛ったパスタとサラダという早苗の方が、食べ盛りの
男性の食事としては量的には相応しいかもしれない。
(……何だか自分で言っておいて恥ずかしくなって来ちゃった。も、もしかして私って、実
は大食いな方なのかなぁ……?)
 内心でふと苦笑いを漏らし、早苗は数拍、大良からの返事を待った。
「……そうだな。確かに今日は少なめに摂っていると思う」
「あ、やっぱり。ん……? 今日、は?」
「……今夜は、人と会う約束がある」
「えっ!?」
 そして、予期せぬ彼の返事に、彼女は思わずそんな驚嘆の声を漏らしていた。
 人と会う約束がある。だから昼間の食事は抑えている。おそらくはそんなニュアンス。
 だけど……白沢君が人と会食? それも夜に? い、一体誰と……?
(ま、まさか……)
 そこで、早苗の想像力の翼はワサッと大きく羽ばき始める。
(……か、彼女っ!?)
 脳裏で抑止も効かぬまま上映されるのは、彼と彼の恋人(?)とのデート、情事。
(そっか……やっぱりいるんだ。そうだよね……白沢君、見た目だってカッコイイもんね。
彼女さんがいたっておかしくはないよね……)
 桃色のモヤモヤから急激に意気消沈へ。
 目まぐるしく変わる自身の心の中の荒れ模様に、早苗はただ静かに苦笑するだけしかでき
ずに口篭もるしかなかった。
「…………」
 だがしかし、
「……僕が人と会う事がそんなに珍しいか?」
 対する大良は別の心情を予想したようであった。
「えっ!? あ、いや、そ、そういう意味じゃなくって……」
 真面目な彼の、一際重く神妙な声色。それで以って発せられたその言葉に、早苗は一気に
思考が吹き飛んで焦りだす。
「……分かってはいるさ。僕が、周りから浮いている事ぐらい」
「そ、そんな事……」
「…………」
 それでも大良はじっと早苗を見上げるような眼で見つめたまま、そう静かに呟いていた。
 早苗は慌てて否定しようとするが、言葉が出なかった。
 適切な言葉が咄嗟に出てこない。いや、それよりも彼のように頭の切れる相手にはそんな
取って付けたような慰みなど意味を成さないだろう。
 眼鏡の奥で静かに湛えられた深く強い瞳の色。
 早苗は、彼のそんな静かな視線にじっと黙して耐える他なかった。
「……だけど」
 それがどれぐらい続いただろうか。実際は数秒、だけどもっともっと長い時間のように感
じられた。ざぁっと、遠くなっていた周囲の喧騒が戻ってくるのと同時に、微かな声で大良
の呟きが重なる。
「僕にも、友と呼べる者はいる。こんな、僕にでも」
「…………」
 いつの間にか外されていた彼の視線。
 だがそれよりも、早苗は驚いていた。
 恋人じゃなくて良かったというのではなく、それ以上に。
(白沢、君……)
 何処かその「友」の名を出した瞬間の彼の表情が、僅かにふっと優しくなっていたような
気がしたから。
 そっか……友達か。
 早苗は安堵していた。恋人じゃなかった事にもだが、何より彼にだってちゃんとそんな、
そんな穏やかな顔ができる大切な人がいるんだという事に。
(だけど……)
 それでも同時に一抹の悔しさもあった。
 その場所に、自分は立っていない。立てていない。
 勝手に想って、勝手に願って、自分勝手かもしれないけれど……それでもやっぱり、私は
貴方の力になりたいと思っているから……。ちょっと、悔しいなって気持ちもある……。
「……そっか」
 静かに視線をテーブルの上に。再び皿の上のパスタに手をつけ始める。
 訪れた沈黙。だけど今度はそんなに重くは感じなかった。相変わらず向こうからは話し掛
けてはくれないけれど、それでも何だかそれだけで満足な気がしたのだ。
「……」
 やがて、大良がぽんと小さく手を合わせる音がする。
 ちらりと目を遣ると、彼は昼食を食べ終えて席を立とうとする所だった。
「あ。白沢く……」
 思わず呼び止めかけた、ちょうどその時。
 ふと、空の皿達を乗せたトレイを片手に、鞄を肩にした大良の方がこちらの方へと振り向
いて来たのである。
 数秒。視線が交わり、固まる。
 早苗は自分の中で、心臓がドクンと高鳴る音を聞いたような気がした。
「……次は」
「え?」
「次の時限は、ゼミだったな」
「あ、う、うん……。そうだよ」
「…………」
 だが大良はそんな確認だけを取るに留まり、そのままホールの奥、返却口の方へと歩いて
いってしまう。座ったままの早苗には、彼の姿はあっという間に多数の他の人々の人影にの
まれて消えていくように見えた。
「……」
 暫く、早苗はその場で彼の立ち去った方向を見遣っていた。
 ふと視線を落とせばまだ自分の分の昼食は幾分残っている。ちらと壁際の時計を見て残り
の昼休みの時間を確認。まだ余裕はあるが、食べるだけで終わらせるのは勿体無い。
(……さっさと、食べちゃお)
 今日は……少しは、白沢君とお話ができたのかな?
 苦しいような、こそばゆいような。
 そんな妙な感覚を胸に覚えつつも、早苗はとりあえず、目の前の昼食を片付ける事に専念
するのだった。

 ──図書館は、自分にとって最も心安らぐ場所の一つだ。
 それはきっと、そこが無闇に雑多な人間で込み入らない場所だから。雑多な騒音が極力廃
された場所だから。
 そして何よりも……豊富な「知」と存分に向き合う事のできる場所だからだ。
 人間は不完全で、そして裏切ることのできる生き物だ。
 だけど、彼らが静かに携えるその真理の数々は裏切る事はない。仮に僕らが彼らに裏切ら
れたと感じたとしても、それはこちらが真理の要求する条件を整えられなかっただけのこと
でしかない。
 世界を構成する数限りない真理の数々。
 それらを示す公式、その過程を締めた証明。
 そのどれをとっても、彼らは皆、整然とした美しさを湛えている。
 人間という不完全さという宿命を背負った存在にとって、彼らはまさに、僕らの前に現れ
る神々である……そう言ってしまってもいいかもしれない。
 そんな数々の真理。そんな彼らと向き合える時間が、僕は大好きだった。
 誰にも邪魔されず、世界を貫く完全なるもの、美なるものを愛で、敬い、そしてその恩恵
に与る。知識は僕らを豊かにしてくれる。僕らにより善い姿を探求せしめてくれる。
 たとえ僕らが全てを得られない存在であるとしても、常にその発見と探求に勤しむ時間と
は、実に有意義で満たされたものである……そう僕は確信している。
 一人一人の力は、小さく儚いものでしかない。
 だが、それらが集い、長い時間をかけて積み上げられていけば、大きな力となる。
 先人達が様々な想いの中で見出し、形を与える事を許され蓄積されてきた「知」。
 それらを僕達は今、定理という形でこの手の中に収める事ができる。
 人の身では届かぬ世界。
 それでも人は、その世界へ手を伸ばそうともがき続ける。
 何時しか僕は……そんな探求者の姿を己に重ねるようになっていた。
 人は、不完全な存在。
 人は、裏切る存在。
 人は、何処までも、何処までも醜くなれる存在。
 彼らとは違う何かが欲しかった。彼らを超える何かが欲しかった。
 無理な欲求だったのかもしれない。
 それでも、確かな何かが、欲しかった。
 得られぬものだと諦めたくなかった。
 だから求め続けた。いや、今も求め続けている。求めずにはいられなかった。
 だからこそ、自分もまた先人達のような探求者となりたいと思うようになった。
 いつの日か、この虚ろなる世界を、美しい「答え」達で満たせるようになる為に──。
(…………)
 キャンパス内にある図書館の三階。そこに、大良はいた。
 一般的な書籍を多く収める一階のような、比較的頻繁な人の出入りは此処にはない。ある
のはより深い静けさと少ない人影、そしてより知的探究心を満たしてくれる専門書の山だ。
 書架にずらりと整理され並べられた書籍の数々。
 このフロアでも特に奥まった場所にいる大良の周りは、それらの中でもひときわ一冊一冊
が分厚く重厚なものばかりだった。
 専攻する物理を始め、数学、工学、生物学……大良はゆっくりと書架の間を縫うように歩
いては立ち止まり、収められたそれらにじっと目を通していく。
 様々な「知」との触れ合い。
 凝縮されたそれらは、一個の人間よりも遥かに多くのものを得られる事ができる。
 大良は、こうして暇さえあれば専門を問わず様々な書物を読み漁っていた。
「……ふぅ」
 パタンと静かな空間に分厚い書籍を閉じる音が駆けていく。
 しんとした室内。自分以外にこのフロアにまで上って来ている学生は数えるほどしかいな
い少なさだった。
(そろそろ出るか……)
 ゆったりと踵を返し、階下へ。
 その小脇には見繕った専門書が数冊。
 ちらりと腕時計を見る。楽しい時間は過ぎるのが早いというが、時刻はそろそろ昼休みの
終わりを告げようとしていた。
 一回、二回。
 踊り場を挟んで階段を降りていくにしたがって耳にざわつく音が聞こえ始めた。
 喧騒との境に近づいている。当然の事だったが、大良は未だにこの変化を心地よいものだ
とは思えなかった。
「…………」
 階段を下りて一階に降り立つ。
 そのまま進めば出入り口とカウンター、逆に進めばデスクトップパソコンも設置されてい
る自習室と新聞コーナーがある。
(……自習室、か)
 ふと、大良は各々にテーブルに向かう学生達の姿に視線を向けていた。
 同時に脳裏に過ぎったのは……早苗と初めて会った時の記憶。
「……」
 何故、今更そんな事を。
 大良は思わず静かに、眉間に皺を寄せていた。
 眼鏡のブリッジを軽く持ち上げ、僅かに目を瞑る。
(食堂で絡まれた所為か……? それとも)
 柄にも無く他人に「彼」の話をしたからだろうか。
(……雑念、だな)
 あまり相手にしなくても良かったかもしれない。
 そう思い直しつつ、大良は再び足を進めてカウンターの前に立った。すると奥で作業をし
ていた司書の女性が一人、ほんわかとした営業スマイルを浮べてやって来てくる。
「いらっしゃい、白沢さん。今日はどうしました?」
 通い詰めていた結果、すっかり図書館職員にとり顔馴染みとなった大良。
「……この前の本の返却を。それとこれと……これとこれを借りたいのですが──」
 彼はいつものように鞄の中の本と、小脇に抱えていた先程の数冊をカウンターの上に乗せ
ていきながらそう口を開いていた。

「~♪」
 昼下がりのキャンパス内は、午前中よりも何処か弛緩し、ゆるやかな雰囲気を漂わせてい
るかのようにも見える。
 季節は初夏の頃合だったが、今日は比較的穏やかな日差しのようだった。
 ある者は次の講義へと。またある者は空き時間を潰すようにのんびりと。
 構内で思い思いに時間を過ごす学生達の姿を方々に認めながら、早苗は微かに鼻歌交じり
に目的の場所へと進んでいた。
 大学の広い敷地。その中でも少し奥まった所にある教員達の自室(研究室)が集中してい
るのが研究棟の本館だ。文系と理系、双方の学務係が入る煉瓦作りの二棟の間を通り、その
正面玄関前へと辿り着く。
 右手には空きスペースを利用した新設の駐輪場。
 既に満員に近い状態で自転車が並ぶ。中には原付もちらほらと見える。
 逆に左手に向かえば、棟の裏手にも続く職員用の駐車場に行き着く。学生達でほぼ一日中
往来のあるキャンパスの中でも、この研究棟の一帯は、訪れる学生は用件のある者だけに限
られ、他の場所と比べると知的な静けさを纏っているかのようである。
(ええっと。補講や休講は……うん、特にないみたい)
 その空気の違いは建物内に入ると一層強くなる。
 早苗はエントランスの横に設置された電子掲示板の画面に目を落としてから、
(……白沢君、もう来てるかな?)
 くるりと向きを変えて廊下の方へと進んでいく。
 無機質な色合いの壁、床、天井。
 それらに埋まるようにして等間隔にドアとその部屋の主である教職員の名、そして在室の
有無を示した可動式のプレートが設置されている。
 途中、上階へ続く階段を上りつつ。
 早苗は時折自室から出てくる教員に軽く会釈をしたり、すれ違う他の学生にちらっと目を
遣りながら、目的の研究室へと向かった。
『理工学部教授 真田敬一郎』
 三階の廊下の突き当たり、一番奥にその部屋はあった。
 プレートには「退席中」とある。だが中の電気は点いているらしく、人の気配と話し声が
聞こえていた。早苗はそっと軽く拳を握ると、遠慮がちにドアをノックした。
「開いてるよ。どうぞ」
 すぐに、穏やかな声が篭りつつ返って来る。
「こ、こんにちは~……」
 そして早苗はノブに手を掛けて、そっと部屋の中に入っていく。
「よっ」
「やあ、こんにちは」
 室内には、二人の男子学生が長テーブルの席に着いていた。
 一人は背の高めな、いかにも今時の若者といった感じ。もう一人は彼よりは背は低いが、
全体的に穏やかな印象の笑顔が爽やかな青年。
「うん。もう来てたんだ? 神月君、花岡君」
 そっと後ろ手にドアを閉めながら、早苗はその同じゼミの仲間の姿を認めて長テーブルの
前に進み出ていた。
「あぁ。俺達四限がなかったからさ、早めに飯食って来たんだよ。外で駄弁るにしてもちょ
いと暑いしな」
「そっか……うん」
 神月がそう答えるのを聞きながら、早苗は同時にさっと室内を見渡していた。
 両壁際の本棚に所狭しと詰め込まれた書籍の数々。それだけでは足りず、机の上にも雑多
な資料や論文集らしき専門雑誌などが積まれている。研究室という態ではあるがこれだけ本
だらけでは果たして仕事をするスペースがあるのかとさえ思える。奥のデスクに置かれてい
るデスクトップパソコンも、何処か窮屈そうにしているかのように見えた。
「……白沢君なら、まだ来ていないよ」
 そうしていると、それまでにこやかに黙っていた花岡がとつとそう口を開く。
「え? あ、そ、そうみたいだね……」
「うん。またいつもみたいに図書館に行っているんだろうね」
 虚を衝かれたように思わず口篭もる早苗。それを見遣りつつ、相変わらず微笑を湛えたま
まで佇んでいる花岡。
「ん~……。でもほんと、雪村は物好きだよなぁ。俺らもアイツとはそこそこの付き合いに
なるけどさ、まだそんなにアイツの事気にかけてるなんてよ」
「ち、違うよ……! べ、別に私はそういうんじゃ……」
「はいはい分かってますって。でもまぁ、性格がアレでも惚れた相手なら嫌じゃないって事
なのかねぇ……?」
「う……。だ、だから、私は別に……」
 するとパイプ椅子の背にもたれながら、神月がぐぐっと伸びをしながらそう呟いた。
 その言葉に早苗は俯き、頬を染めてもごもごと小さな反論を唱える。
「ハァ、やっぱ所詮は顔なのか……。世知辛いもんだよな、充?」
「……そうだね。否定はしないけど。でも、僕が思うに雪村さんの場合は少し違っているん
じゃないかと思うな」
 気だるくぼやく神月と、にこにこしながら早苗を見遣りつつそう述べる花岡。
「…………うぅ」
 早苗はとうとう何も応答できなくなり、俯き加減のままおたおたと席に着いた。
 ほぅっと。胸元や頬が熱を持ってぐらつく感触。
 そんな感触を覚えつつも、半目でにやにやとした表情を見せる神月と静かに微笑を崩さな
い花岡の両名の顔を、早苗は一度上目遣いで見遣ってから、
「……とっ、所で。二人はさっき何を話してたの? 外からも少し聞こえてたけど……」
 そう少し強引に話題を振って方向転換を試みる。
「ん? あ、あぁ……」
「……何。ちょっとした噂話を、ね」
「??」
 するとそれが功を奏したのか、二人はおもむろに互いの顔を見合わせていた。
「……雪村さんは聞いた事があるかな? 清浜に出るっていう怪人の話」
「怪人……? あ、うん。それなら以前友達に」
 そして花岡が返してきた言葉に、早苗は以前に友人から聞き及んでいた件の都市伝説を思
い出していた。
 夜な夜な街を徘徊し、人間の生気を啜るという怪人の噂。
 そのゴシップ好きな友人は『きっと、この街のアンダーグラウンドが生み出した生物兵器
(バイオウェポン)なのよ!』と、嬉々とした様子で熱弁を振るっていたのを覚えている。
「でも、それってあくまで噂……だよね?」
 だがそれをまさか彼らから再び聞く事となるとは。
 あの時は話半分で聞いていたのだが、どうやらこの噂は自分が思っていた以上に人々に広
まっているらしかった。
「ああ。俺も、最初はそこら辺に転がってるものの一つだと思ってたんだけどな……」
 だが、代わって口を開いた神月の口調は重かった。
 言い出しかねる。まるでそんな感じで片肘をついたままポリポリと髪を掻いていた。やや
間を置いてからちらと視線を花岡に寄越し、その僅かな苦笑を混ぜた頷きを確認してから、
「……見ちまったんだよ。俺」
 そう言い、今度は早苗を見据えた。
「? 見たって……?」
「うん。敏也が言うにはさ、実際に怪物に襲われたっていう子を見たんだそうだよ」
「……え?」
 怪人の話は噂ではなかったのか。
 早苗は若干の驚きを以って、僅かな苦笑に変わっていた花岡の方を見て、ポカンとした表
情になる。
「この間、俺、バイクの免許を更新しに警察署に行ってきたんだけどさ……。ちょうどその
時に中から摘み出されてくる女子高生を見たんだ」
 記憶が曖昧な部分があるのか、神月は時折軽く眼を上げるようにして語り始めた。
「ちょい遠目にだったからはっきりしねぇけど、あの制服は多分、市立高校(イチガク)の
子だったと思う」
「イチガクの……? その子、何か悪い事でもしたのかな?」
「最初は俺もそう思ったよ。他人の事は言えないけど、結構遊んでますって感じだったし。
だけどよ、警官に摘み出されながらその子は確かにこう言ってたんだ。『本当に友達が化け
物に襲われたんだ、信じてよ! あいつを捕まえてよ!』……ってさ」
「…………」
 流石に早苗もその言葉を聞いてすぐに笑い飛ばす事はできなかった。
 馬鹿馬鹿しいと跳ね返すよりも、驚きが先行していた為だ。
 最初に悪戯ではないかとも思ったが、そんな事をして果たして彼女に何のメリットがある
のかが分からない。
「しかし……仮に悪戯だとしてもあれが演技には見えなかったし、そもそも警察署に駆け込
んでまでする事じゃないだろ? だから妙に記憶に残っててさ……」
 そして何より、その話をしている神月自身の、己の記憶に抱く疑いと困惑。
 真面目……とはお世辞にも言い切れない彼だったが、その戸惑いぶりに偽りなどはないよ
うに早苗には見えた。
「で、それをさっき敏也から聞かされててね。例の怪人の話は本当に根も葉もない噂話なん
だろうか? ってお互い首を捻っていた……というわけさ」
 そう言って花岡もわざとらしく肩を竦めて見せてそんな台詞。彼もまた、どう態度を示し
たらよいのか決めあぐねているかのようだ。
「……そっか。そんな事があったんだ……」
 そんな二人に、早苗は何とも言えずに苦笑いを浮かべる事しかできなかった。
 単なる噂だと思っていた、記憶の片隅の都市伝説が何とも言えない静かな不気味さをもっ
て迫ってくるような感覚。三人はそのままテーブルを囲ったまま押し黙る。
 数分の沈黙が、室内を流れていった。
「……でも、何も悪い噂だけじゃないみたいだよね?」
 そうしていると、ふと相変わらずの微笑を湛えて、
「え?」
「何がだ?」
「う~んと……二人は聞いたことないかな? ナイトガンナーの話」
 花岡がそう静かに二人を見遣りながら言う。
「……あぁ、それか。俺も聞いた事があるな」
「う、うん。私も……」
 にわかに重かった空気が緩む。それに乗っかるようにして、声色に明るさを取り戻しかけ
た神月がニッと笑う。
 早苗にとっても、それは先の友人の話していた延長で聞き及んでいるものだった。
「確か、その清浜の怪人から市民を守って戦ってるっていう正義の味方……だろ?」
「そう。でもまぁこれもあくまで噂でしかないんだけどね。不穏な噂を打ち消す為の作り話
だという可能性も充分に考えられるし」
「確かにな。俺も実際、ナイトガンナーについて聞いたのって割と最近だしなぁ……」
「そうだよね。時期的にも花岡君の言うように怪人の噂の後追いって事になるから……」
 そう、所詮はやはり噂なのだ。
 早苗は内心でホッとしながら神月の言葉に相槌を打っていた。
 仮に本当に怪人がいるのだとしたら……そんなの怖くて出歩く所じゃないのだから。
「まぁ、それでもただ闇雲に不安を煽るだけの噂よりはマシだろうね。あちこちが不安要素
だらけなんて現実(リアル)だけで充分さ」
「……充、お前って、何か時々すげぇネガティブになるよな」
 二人のやり取り。ゼミ以前からの友であるという二人。
(……私も、白沢君とこれぐらい仲良くなれたらなぁ……) 
 早苗はそんな彼らを見遣りながらふっと微笑ましい気持ちになる。
「ま、でも満の言う事も分からなくはないけどさ。夜な夜な現れる怪人を銃でバッサバッサ
と撃ち倒す金髪のヒーロー……。そういう英雄願望ぐらいあってもいいじゃねぇか」
「……え、金髪?」
 だが次の瞬間、神月が漏らした言葉に早苗は思わず引っ掛かっていた。
「? どした?」
「あ、ううん……。その、私が聞いてたのとちょっと違うなぁって。私が聞いた時は、確か
銀の髪の人だったと思うんだけど……」
「銀? 金髪じゃなくて?」
「うん……多分」
 初耳だといった感じで神月が小さく眉根を上げている。
 早苗と神月。その二人の様子を見ながら、
「……もしかしたら、ナイトガンナーというのは一人じゃないのかもしれないね」
 ぽつりと、そう花岡が呟いていた。
「…………」
 ちょうどその時だった。
 不意に背後のドアが開く音がして、早苗達三人は入り口に眼を遣る。
「あ、白沢君……」
「よ、よう……」
「こんにちは」
「……」
 入ってきたのは大良だった。
 早苗を皮切りに三人はそれぞれに挨拶を交わした。だが、大良はそれに特に応えるような
素振りは見せず、早苗達を一瞥するとすたすたと空いていた席──三人からは離れた対角の
位置に着く。
(……やっぱ無視か。まぁもういい加減慣れたけど)
 その態度に、ぼそっと小声で神月が呟く。
 静かに佇んでいる花岡と、その小声が耳に届き少し慌てる早苗。
「…………」
 それでも大良自身は動じるような様子はなかった。
 席に着くや否や、鞄から一冊の分厚い専門書を取り出すと静かに読み始める。
(……またか。相変わらず小難しい本ばっか読んでるよなぁ)
(そうだね……図書館から借りてきたのかな?)
(多分そうだろうね)
 ひそひそと、早苗達は遠めに大良を窺いながら小声で言葉を交わす。一抹の不愉快さを隠
さない神月とそれを暗に宥めようとする早苗。それらを聞き流しながら、
(……最近、工学系の本が多くなっているのは、気のせいかな……?)
 花岡は独り心の中で、微笑の裏側から鋭い観察眼を覗かせていた。
 大良が加わり室内は四人になる。
 と同時に、場の空気が妙に重くなったように早苗には思えた。
 原因は分かっている。大良その人だ。
 こうしてゼミ仲間が集まっているのに、まるでその自分達を視界から排除するかのような
態度、行動。近寄り難い。そんな雰囲気を彼は無言で醸し出している。
(う~ん……間が、もたないなぁ)
 黙りこくってしまった面々をちらちらと窺いつつ、早苗は思った。
 黙っている事が苦痛だというのは言い過ぎだが、少しでも彼には周りと打ち解けて貰いた
いという思いもあったからなのだろう。
「……し、白沢君?」
 だから、早苗はおずおずと語り掛けていた。食堂での時と同じように。
「……」
「そ、その、白沢君って……ナイトガンナーって、知ってる?」
 すぐさま反応は無く、早苗はその話題を振っていた。
 咄嗟に場の空気を和ますものが浮かんでこなかった事もあったが、そもそも先程まで自分
達が話していた話題である。皆で談笑する分には流れとしてあり得ると思ったのだ。
「お、おい……。雪村、白沢にそんな話したって……」
「……あ」
 すると即座に、神月が苦笑を漏らしてそう早苗を窘めるような言葉を紡いでいた。
 早苗は言われて気付く。確かに真面目を絵に描いたような彼に、都市伝説などという曖昧
模糊な話題など歯牙にもかけないのではないだろうかか。
「…………」
 だが、そんな頭を巡った予想とは裏腹に、大良に動きが見えた。
 自分達と視線を遮断するように広げていた本をついと下げ、こちらを見てくる大良の眼。
 早苗達は若干その反応に驚きつつも、眼を離せず彼からの応答を待つ。
「聞いたことはある」
 ぽつりと、大良はそう答えた。
「……そ、そうなんだ。け、結構色んな人の間に広まっているんだね……」
「あ、あぁ。そうだな……」
 それだけなのに早苗達は何故かしどろもどろ。
「……それがどうかしたのか?」
「う、うん。その、さっきまでその話をしていた所なの。だからこれって白沢君も知ってい
るのかなぁって……」
 妙に緊張してしまう。
「……そうか」
 呟く大良は少しだけ視線を下げて、数秒何かを考えているようだった。
 早苗も、神月も、花岡も。三人は何だろうとその沈黙の先を待った。
「……都市伝説の類はその原因を突き詰めれば案外あっさりとした、呆気ないものである場
合が少なくない。元々噂というもの自体、尾鰭がついて大きくなったものではあるが」
 そう言いながらも、大良の視線はそのまま本の方に戻っていったらしかった。
「……だが」
 分厚い専門書の文章を静かに追いながら、彼の淡々とした口調が室内に染み込んでいく。
「仮にも君達だって理工学部の学生だろう? 真実を探求する者が曖昧な噂に振り回される
というのは、個人的にはどうかと思う。そんな話をしている暇があるのなら論文の一つでも
読んでみたらどうだ?」
「……。生憎お前みたいに優秀じゃねぇんでね、俺らは」
 その言葉に最初に反応したのは、髪をポリポリと掻きながら若干の苛立ちを表明した神月
だった。「おいおい、勝手に含まないでくれよ」と尚も微笑みながら突っ込む花岡を無視し
て、彼は更に続ける。
「どうせ俺らはお前とは違って教授に目を掛けて貰ってないからな。そもそも将来研究者に
なろうっていう意志が強いわけでもねぇんだ。お前と一緒にするなっつーの」
「……当たり前だ。君と僕は違う」
「……」
 だが大良はそんな彼の言葉にもムキになるような事はなかった。
 ただ淡々と僅かな沈黙を添えてからそう言い放ち、再び読書へと意識を集中させていく。
「こ、神月君。け、喧嘩は止めようよ、ね?」
「…………。わーってるよ。こいつにゃ何言っても時間の無駄だ……」
 緊迫した空気を察した早苗は何とか神月を止めようと割って入った。それでも不愉快な気
持ちは燻っていたようだったが、彼はそこでようやく自分を抑えるようにして乗り出しかけ
た身を引き、パイプ椅子の背にギシギシッと体重を預ける。
(ふぅ、危ない危ない……。白沢君も、もうちょっと優しい言い方をしてくれたらいいんだ
けど……)
 その様を確認し、とりあえず一安心と早苗は胸を撫で下ろした。
 右の対角にはぶすっとした神月。向かいにはよく心中の読めない微笑みで大良を見ている
花岡。そして自分達から少し離れた、左の対角には本に集中している大良。
『…………』
 四人は再び気まずい沈黙に包まれた。
 それは主に大良に原因があったと言って間違いないのだが。
「やぁ。皆揃ってるね」
 それから数分。やがてその沈黙を破ったのは、部屋に入ってきたこの研究室の主であり、
早苗達の担当教官・真田教授その人だった。
 五十も峠を越えた人の良さそうな顔立ちの中年男性。がっしりとまではいかないが背丈の
ある体躯をラフなスーツ姿で包み、小脇には何か参考書らしき本を数冊抱えている。
 早苗達はそれぞれに真田に挨拶をした。
 大良でさえも、本を読んでいた手を止め、鞄にしまいコクリと頭を下げている。
「…………。何かあったのかい?」
『えっ?』
 早苗、神月、花岡の声が重なった。
 ゆったりと室内を見渡した後、ふと真田が何の気なしといった感じでそう訊いてくる。
「……べ、別に何ともないっすよ。いつも通りですって」
「そ、そうです。いつも通り、です」
「……そうかい?」
 流石に大良に一発入れかける直前までいったとは言えず、神月はそう繕って何ともない事
を必死にアピール。早苗も内心の焦りを抑えつつそれに同調する。
「……なら、いいんだけどね」
 その反応に満足したのか分からないが真田はふっと口元に笑みを浮かべると部屋の奥に移
動した。小脇の本をデスクの上に置くと、がさごそと本棚から書類を取り出していく。ゼミ
で使っている論文のコピーだった。早苗達も、そして大良もそれを見て自分達も鞄から同じ
ものを取り出して準備をする。
 そうしていると、少し遠い所からチャイムの音が聞こえてきた。
「……さて。では早速ゼミを始めようか」
 昼休み終了と、五限の始まりを告げる合図だった。


 時を前後して。
 オフィスを出た一聖と奈々子は、頭上へと延び、競うように建ち並ぶビルの合間を縫うよ
うにして清嶺ヶ浜の街並みの中を歩いていた。
「ええっと、ここがあれだから……」
 時折手にしたメモに目を落としながら、周囲の住所を確認して進んでいく奈々子。
 一聖はその隣をついて歩き、子供の頃とは随分と様変わりした街並みに目を遣っていた。
 かつては小さく長閑な海辺の町でしかなかったこの清嶺ヶ浜も、今やビルなどの大型の建
物が建ち並び、道路も整備され、何より昔よりずっと広くなった。
「…………」
 だが、それでも。
 こうして静かに息を吸えば、海風に乗ってやってくる潮の匂いが鼻をくすぐる。
「うん。先輩、こっちです」
「ん。あぁ……」
 メモを確認して、奈々子が路地を曲がった。一聖もそれに続く。
 真新しい鉄の棟の群れの中にひっそりと佇むように、路地の先には昔からの家屋が軒を連
ねていた。開発で随分と移転もした街並みだが、今もかつての頃の姿を残す風景はこうして
所々にだが残っているのだ。
 表の雑踏がふっと遠くなり、周囲の空気は静けさを纏う。
 二人は暫くかつての雰囲気を残す家々の間を縫うように細い路地を通り抜けていく。
「えっと……。うん、ここです。ここが田井中さんのお家ですよ」
 やがて、奈々子が一軒の家の前で立ち止まった。 
 手にしたメモに二、三度目を落として住所を確認。一聖に振り向いて到着を告げる。
 二階建ての横長のごく普通の家屋。周りのそれと同様、建てられてから相応の年月が経っ
ているらしい事が窺える。門の横を見てみると、確かに「田井中」と彫られた石材製の表札
が埋め込んである。
「ふぅん。ここがその、前にお前が取材した人ん家か……。ナナ、一応確認しとくが、本人
はちゃんといるんだろうな?」
「はい。編集部を出る前にアポは取っておきましたから。もう退院はしてますけど、まだ自
宅療養中だそうですし、多分いる筈ですよ」
 一聖の言葉に、奈々子はそう答えて一歩を踏み出した。
 表札のすぐ横にある呼び鈴のスイッチを押す。僅かに家の中に響くブザー音。
『…………はい。どちらさま?』
 二人がその場で待っていると、ややあってノイズ交じりにインターフォンから返事が返っ
てきた。少し不機嫌そうな、女性の声色。
 一聖が僅かに眉根を細めて奈々子を見返す。すると彼女は少し緊張した面持ちを浮かべつ
つ、同じくインターフォン越しに挨拶を返して言った。
「あ、あの、私、先刻お電話させて頂いた清浜ジャーナルの乾と言います。田井中さんはご
在宅でしょうか?」
『……』
 だが相手の返事はなかった。
 数秒何か黙した後、急にぶつっとインターフォンが切れ、混じって聞こえていたノイズも
消えてしまう。まるでぽつんと取り残されたように、二人は不安げな表情で互いの顔を見返
していた。
「……なぁ、お前がインタビューしたのって、女か?」
「いいえ……。人の良さそうなおじさんでしたけど」
「じゃあ、さっきのはそのカミさんか?」
「みたい……ですね。田井中さん、大丈夫なのかなぁ……」
 そして二言三言、二人がそう言葉を交わしていた、ちょうどその時だった。
「…………」
 トントンと廊下を渡る音が聞こえると、直後玄関の扉が開かれ一人の女性が姿を見せた。
 おそらくは田井中氏の妻なのだろう。中年の、いかにも気の強そうな感じの女性だった。
加えてそんな印象が、今は顔に滲ませた不機嫌さで割り増しされている。
「田井中さんの奥さん、ですか?」
「……ええ」
「あ、あの。私達、清浜ジャーナルの……」
「記者さんでしょう? さっきも聞きました」
 その姿を認めて奈々子が改めて口を開こうとするが、今度は彼女の声に掻き消されてしま
う。明らかに不機嫌。その眼も全く笑っていない。むしろ敵意すら感じられる。
「……申し訳ないですけど帰って貰えますか?」
「え? あ、あの……」
「うちの人が入院中あなたに何を話したかは知りませんけど、これ以上妙な詮索はしないで
下さい。……ただでさえ『化け物に襲われた』なんて馬鹿馬鹿しい事を言っておかしくなっ
ているのに、貴方達みたいな人に来られたら益々近所から嫌な眼で見られるんです」
 奈々子の言葉を遮り、割り込む余地も与えぬままに、田井中夫人はそう苛立ちを隠し切れ
ずに言い放った。両手を胸の前で組んだその手に、無意識に力が入っているのが分かる。
「これ以上、あの人に関わらないで下さい。今度また妙な事を吹き込むなら……警察、呼び
ますから」
「え。あ、あのちょっと」
「……帰って下さい」
 そして、そのまま決定的な拒絶の意志を告げると、夫人は苛立ちに任せるようにピシャリ
と扉を閉じてしまったのだった。
『…………』
 僅かに空気が揺れ、すぐに沈黙に戻っていく。
 二人は敷地の中にすら入れてもらえないまま、暫しその場で立ち尽くした。
「……やっちまったな」
「……みたい、ですね。何かめちゃくちゃ怒ってました……」
 目の前の家をついと見上げつつ、一聖は静かに息を吐く。奈々子もどんな反応をしていい
のか戸惑っている様子で、たはは……と苦笑を浮かべてから、がくりと頭を垂れる。
「うぅ。まさか奥さんの方から拒否されるなんて~……」
「あり得ない訳じゃねぇさ。本人も言ってたろ? 都市伝説を信じない、真に受ける奴を白
い眼で見る人間だってそりゃあいるさ。詰めが、甘かったな」
 まさかまた田井中氏本人に話を聞きに行くのは無理があるだろう。その妻にあれほどの警
戒心を以って拒否された上でなお上がり込もうとするならば、彼女は本当に警察を呼んでし
まいかねない。
「め、面目ないです……。でも、どうしよう……他に直に取材させて貰えた人なんていない
のに……」
 悔しそうに嘆息をつく奈々子。
 その横で、一聖はくるっと踵を返すとゆっくりと歩き始めていた。
「……って先輩、何処へ?」
「何処へってお前……まさか粘る気か? あの様子だと無理だぜ? 嫌がってるのに根掘り
葉掘り聞き出そうとしたって上手くはいかねぇよ」
「そ、それはそうですけどぉ……」
 奈々子も、トテトテと少し遅れてその後に続く。
「じゃあどうするんです? さっきも言いましたけど、私の持ってる生のソース(情報源)
は田井中さんだけでしたから……もう」
「……そうだな」
 彼女のその姿をちらと見遣りながら、一聖は再び表通りの方へと足を向けていた。
 少し近くなった正面からの雑踏の音量。一度立ち止まり、静かに思案する。生の声を取材
できれば一番なのは確かだが、ナナの持つパイプはこれで途切れた事になる。
「ま、次の手は」
 そして数秒の沈黙の後一聖は、ちらと腕時計の時間を確認してから、
「……飯食いながらでも考えようか。なぁに、どうにかなるさ」
 追いついてきた奈々子に振り返ると、にやっと笑ってそう言ったのだった。

 ──それが、およそ一時間ほど前の事。
「お待たせしました~。牛丼大盛と並盛で~す」
 田井中宅を後にした一聖と奈々子は、再び大通りに舞い戻り、その一角にある牛丼屋へと
やって来ていた。
「~♪ 来た来た……。じゃあ、いっただきま~すっ」
「……ます」
 食券を出してから暫し。二人の前に注文の品が置かれた。
 食欲が優先し機嫌を取り戻しつつあった奈々子はポンと割り箸を握ったまま手を合わせ、
直前まで独り携帯電話を弄っていた一聖と共に手っ取り早い昼食へと洒落込む。
『…………』
 二人は最初数分、先ずは腹を満たすのが先と、互いに無言で牛丼を掻き込んでいた。
 そうしてもぐもぐと咀嚼をしながら、一聖はざっとと店内を見渡す。昼時という時間帯も
手伝い、店内は徐々に混み始めていた。やはり早めに来て正解だったようだ。
 セルフサービスの冷茶をコップにおかわりし、くいと飲み干す。サッと、外回りで渇いた
喉と身体が生き返る心地がする。
「……」
 そうしていると、ふと奈々子がこちらを見ているのに気付く。
「? どうした?」
「ぐ!? は、はも……(うっ!? あ、あの……)」
「あ~……。先ずは口の中のもん片付けろ?」
「んっく。もぐもぐ……」
 こくこくと頷きながら、彼女は口の中の牛丼を咀嚼して飲み込んだ。一聖はその間、箸を
休めて彼女からの反応を待つ。
「えっと……その、今日はすみませんでした。せっかくついて来て貰ったのに無駄足になっ
ちゃって」
 そう口を開いた奈々子は少ししんみりした様子だった。
 顔は苦笑を作っているが、それなりの付き合いだ。冗談で言っているようには見えない。
「気にすんな。取材拒否される事なんてそう珍しい事でもねぇさ。ま、確かに家族に承諾を
得てなかったってのはちょいと詰めが甘かったのかもしれねぇけど」
「あぅ。返す言葉も無いです……」
「……っていうか、何終わった的な言い方してんだよ。諦めるのか、取材?」
 再び茶を啜り、一聖は半分確認のように言った。
 自分にはまだ“手”はある。だが、彼女自身がこれで折れてしまうというのなら、無理に
背を押すのもどうかと思った。意欲の薄れた生半可な心でぶつかったとしても、いい記事は
書けない。そう思うからだ。
「う~ん、それは無いと思うんですけど。でも……」
 その言葉に奈々子は困ったような表情を浮かべていた。
 数秒、言葉を整理するように視線を泳がせた後、
「だって、先輩のお仕事の邪魔になってませんか? 現にこうして引っ張り出しちゃってる
わけですし」
 心持ち真面目な声色になってそう言い返してくる。
「……おいおい。コンビ組んでから俺を散々引っ張り回してきておいて今更かよ?」
 一聖は表面ではそう言って苦笑を漏らしてみせたが、同時に勘付いていた。
 つまり、彼女は今回それだけ真剣だったという事だ。記者に憧れて、自分の力で記事を書
いてみたい。そうした憧れが、想いが偽り無い故に、自分に対して申し訳なさがこみ上げて
きているのだろう。
 一聖は無意識に、そして意識的ににっと笑ってみせ、続ける。
「お前、時々忘れてるみたいだけどさ。俺だって社内じゃ若手──新参の部類なんだぜ? 
任される記事(しごと)だって先輩らに比べれば小さなもんさ。だから軽く見ていいとは思
わねぇけど、他に比べて原稿を上げやすいのは確かだな。……そういうわけだから、邪魔だ
とか、お前がそんな事を気にしなくっていいんだよ」
「……そう、ですか」
 その表情をじっと見ていた奈々子はまだ少し、似合わぬ真面目な顔をしていたが、
「分かりました……そういう事にしておきます」
 訥々とそう呟きながら納得してくれたようだった。
「ああ、そうしとけ。お前に恐縮されるこたぁねぇさ」
「……はい」
 そして再び二人は牛丼の残りを頬張り始めた。
 店内は先刻よりも客が多くなってきたように思う。
 人ごみが嫌いというわけではないが、さっさと片付けて外に出てしまうか?
 一聖は丼ぶりを持ち上げて掻き込みつつ、ぼんやりとそんな思考を過ぎらせる。
(……ん?)
 そんな時だった。
 何度目かの、入り口の自動ドアが開く音と「いらっしゃいませ」の店員達の合唱。
 ちらとその方向へと目を遣った一聖はそこに見覚えのある姿を見つけたのだ。
「あ、長嶋先輩だ」
 奈々子も少し遅れてそれに気付いたらしく、顔を上げている。
「あら……? 黒田と乾じゃない」
 そして当人・長嶋涼子もこちらの姿を認めたらしく、すたすたとヒールの音を鳴らして歩
み寄ってくる。
 片方の肩に乗せた長髪に、ビシッと着こなしたスーツ姿。気の強そうなキャリアウーマン
という表現がぴったりの、辰巳と同じく二人の先輩にあたる記者の一人だ。
「どうもっす、先輩」
「こんにちは~。先輩もこれからお昼ですか?」
「ええ。……もしかして、貴方達外回りしてたの?」
「あ、はい……一応」
 ちょうど一人分空いていた奈々子の隣に鞄などの荷物を置きながら、長嶋は訊ねてきた。
その問いに奈々子は先刻の失敗を頭に過ぎらせてか、苦笑を混じらせて答える。
 それを背中で受けながら、彼女は壁際の食券の販売機を操作していた。
「そう。でもあんまり無茶はするんじゃないわよ。いくら拓馬にべったりじゃなくなってる
といっても、貴方達はまだまだ新米なんだから」
「は、はい」
「はは、分かってますよ……」
 出てきた食券を店員に渡しながら奈々子の隣席へ。
 長嶋はいつものように二人の後輩達に、窘めのような言葉を放つ。
 確かに自分は、奈々子が入ってきてコンビを組む事となったのを期に、比較的早くに先輩
から──タク先輩の下から離れた態にはなっている。だが、それでも今でも彼には色々と助
言を貰ったりなどして世話になりっ放しではあるのだが。
 それであっても、彼女にしてみれば自分は拙速に一人立ちしようとしている様に見えてい
るのかもしれない。一聖は、何度となく形を変えて言われてきたこの彼女の言動に苦笑いを
浮かべながら応えていた。
「先輩も、外回りだったんですか?」
「ええ。あまり芳しくはなかったんだけど。一旦社に戻る前にちゃっちゃと食べちゃおうと
思ってね。貴方達も戻る?」
「あ~……いや、俺らはもう暫く粘ってみようかと思います」
 長嶋が振ってきた言葉に答える一聖。その返答に奈々子が思わず彼の顔を見遣っていた。
「そう。何調べているかは知らないけど、頑張んなさい」
「言われなくてもそのつもりっすよ」
 ちょうどその時だった。
 一聖の上着のポケットから、マナーモードのバイブレーションを被った着信音が聞こえて
きたのだ。
「……っと、噂をすれば何とやら」
 すぐさま一聖は携帯電話を取り出すと、長嶋と乾に背を向けるようにして身体を捻って、
何やら画面にじっと目を落とし、カチカチとボタンを弄り始めた。
「……誰から?」
「あ、いえ、ちょっと伝手からの連絡です……。ナナ、取材のアポが取れたぜ」
「えっ、本当ですか?」
「ああ。さっさと飯片付けちまうぞ。待ち合わせ場所、ちょっと離れてるしな」
「あ、はい。了解です」
 一聖にそう言われて、奈々子は彼と共にスピードを上げて残りを平らげ始める。
「……」
 その横で長嶋は、何処か微笑ましい様子でそんな二人を見ていた。
「……ふぅ。ごちそーさん」
「はふ。ごちそうさまでした~」
 やがて二人は食べ終わり、ほぼ同時に席を立つ。
 それと入れ替わるように店員が奥から出てきて、長嶋の前に注文の品(冷やしざるうどん
&小盛りサラダ)を運んできた。これから食べ始める彼女に一聖と奈々子は声を掛け、
「じゃ、待ち合わせがあるんで俺達はこれで」
「お先です~」
「ええ。行ってらっしゃい」 
 手早く会計を済ませると彼女に、他の客達に見送られて店を出る。
 店内の涼しげな空調がなくなり、むわっと熱っぽい感じが戻ってきた。海辺などではそう
でもないのだろうが、ビルやコンクリートばかりのこんな周囲では、たとえまだ日差しがそ
れほどでなくともやはり多少は汗ばむようである。
「……それで、そのアポって誰とのなんですか?」
 青信号になった横断歩道を渡って向かい側の道へと進みながら、奈々子はひょいを身を乗
り出すようにして一聖に訊ねていた。
「ああ……。お前も知ってるだろ? モロ先輩だよ」
 暑さの所為か、少し面倒気に呟くように。
 上着をパタパタと扇ぎながら、一聖は人でまみれた通りの光景を見遣る。

 待ち合わせ場所に指定された先は、牛丼屋から数分歩いた所にある一軒の喫茶店だった。
 時間帯故に多少の客はいたものの、店自体はチェーン店の類ではなくそれほど広いという
わけでもない。街の大通りから少し折れた所に居を構える個人店舗だった。
 それはおそらくこれから会う彼が、自分達に会っているのを無闇に知られたくないという
事情があるからだろう。その事も考慮し、一聖は敢えて店内の隅の方、外からも表の看板や
植木でよく見えない位置のテーブル席を選んで座っていた。
(……そろそろ、来てもいい頃なんだが)
 腕時計を一瞥し、静かに相手がやって来るのを待つ。
 念の為にとぽつぽつといる客らの様子を窺うが、こちらに注目している様子はない。
「まだですかね? 師崎さんは」
「あぁ。ま、いつもみたいに抜け出してくるのに手間取ってるんだろ」
 これが初めての面会ではなかったが、やはり彼と会う時はこうやって何かと気を遣う。
「……っていうか」
 ふぅと小さく息を吐きながら、ふいっと一聖は隣に座る奈々子を見遣って言った。
 その彼女の前には、ボリュームのあるチョコレートパフェが一つ。
「お前、さっき飯食ったばっかだろ? 腹大丈夫かよ」
「平気ですって~。甘いものは別腹なんですよ♪」
 それを奈々子は美味しそうにスプーンで突き崩しつつ、はくはくと口に運んでいた。
「……ま、いいけど。でもモロ先輩が来る前には片付けとけよ」
「は~い」
 一聖は多少呆れつつも、あまり口煩く言う事はせず再び視線を店の中へと戻した。
 牛丼屋では少し気を揉んでいた様子だったものが、今こうして機嫌を直してくれている。
ならば無闇にそれを穿り返す必要もないだろう。その様は気分がコロコロと変わるある種の
安易さとも言えなくもないが、それでも本人が笑っているのならそれに越した事はない。
「──いらっしゃいませ~」
 そして。
 目当ての人物がやって来たのはそれから十分程が経った頃だった。
 入口で鳴る小振りのカウベルの音と店員の声。それらに一部の客が反応して視線を寄越す
が、特に不穏がるような事はなく、一瞬後には再び思い思いの時間を過ごし始める。
「…………」
 背丈は高くややがっしりめ。年格好は一聖よりも少し上ぐらい。
 眼つきは鋭く、もしスーツ姿でなければチンピラ連中の若頭と言われたとしても違和感を
覚えないかもしれない。そんな、一種の威圧感すら滲ませている。
「……待たせたな」
「いえいえ。こっちから誘ったんですし」
「こんにちは~、師崎さん」
 師崎太一。
 一聖のかつての学生時代の先輩であり、現在は清嶺署の刑事をしている人物でもある。
「ん? 今日は乾ちゃんも一緒か……まぁいいや」
 師崎は二人の姿を認めると、悠々とやって来て向かい合うように椅子に腰掛けた。
 そしてちらと奈々子と、その傍らの空になったパフェのグラスを見遣っていたとほぼ同時
に、ウェイトレスがやって来て注文を聞いてくる。彼はアイスコーヒーを頼むと、彼女が歩
き去っていくのを確認してからようやく心持ち人心地つく。
「……じゃあ先輩。早速メールした件なんですけど」
「あぁ」
 一聖は彼の様子を窺いながら、周りを気にしつつ少し声量を下げて話を切り出した。 
「分かってるよ。だが、お前の方が先だ」
「ええ、そうっすね……。これです」
 がさごそと。言われて一聖は、脇に置いていた鞄の中から複数枚に及ぶ用紙を取り出して
テーブルの上に並べた。A4サイズのコピー紙。その余白には走り書きのメモや何かの表、
×印が所々に書き込まれた地図などで埋められている。
「ちょっと見難いとこがあるかもしれないですけど、まぁ所詮メモなんで……。あとこれは
俺の調べた分なんで、ナナのは別に……ナナ、お前の分の取材メモも出してくれ」
「あ、はい。分かりました」
 並べながら、一聖は補足を加えつつ奈々子にそう指示する。
「…………ふむ」
 一聖と奈々子、二人分の取材メモの束。
 師崎は心持ち身を乗り出し、暫し無言でそれらの資料に目を通していく。
「……全く、お前らの嗅覚は大したもんだよ。署(うち)が公表もしてねぇ案件なのにもう
こんなに尻尾を掴んでるのか」
「ま、それが俺らの仕事ですからね。じゃあ、そっちからもお願いします」
「あぁ……。だがあんま期待はしない方がいいぞ。結構被ってるっぽいしな。そもそも俺は
署内じゃ下っ端の方なわけだし、全部の現場に居合わせてる訳でもねぇんだからな」
 嘆息を交えて呟く彼に、今度は一聖が促した。
 師崎は胸元の内ポケットを探り、手帳を取り出しながら言う。
「それでも警察(ほんしょく)からの情報ってのはありがたいもんですよ」
「……その本職が、お前ら記者連中に遅れを取ってるというのは情けない限りだがな」
「だからこそのギブ&テイク、なんでしょう?」
「……そうだな」
 開かれた彼の手帳。
 その中にはびっしりと各種の捜査についての覚書が書き留められている。
 一聖が師崎とこうして互いの情報を交換し合うのは今回が初めてではない。師崎とは折り
につけ、落ち合って情報を交換する間柄である。
 だがそれは単に先輩後輩という人脈・情の関係故というわけではない。
『だいたい、うちの先輩連中は古い人間が多過ぎるんだよ。これだけ街が変わって犯罪の質
も変わってる、量も増えてるってのに、未だに“足で稼ぐ”ような事に拘ってる節がある。
そんなんじゃ、今の悪党どもには対処し切れねぇよ』
 それは、師崎なりの一つの懸念から来ているものだった。
『昔は多少効果があったのかもしれねぇが……それでも俺は、そればっかりに頼るのはもう
古いと思ってる。効率が悪いんだよ。利用できるものがあれば何だろうが利用するべきだ。
組織の面子とか、慣習とかに囚われて後手後手に回るなんて馬鹿みたいじゃねぇか。向こう
は何でもアリなのに、こっちは凝り固まった対応しかできないだなんてよ』
 だからこそ、たとえベテランと言われる先輩刑事達に釘をさされ、睨まれるようなリスク
を背負ってでも、一聖のような、警察以外で捜査をするような者へのある程度の情報提供を
厭わない所が彼にはあった。
 その代わりに、自分達が未だ得てない情報をより確実に引き出せるメリットを取って。
 つまり、ギブ&テイクの関係である。
 何よりも優先すべきは──この街の悪を狩り、正義を成すことにある。大事なのは自分達
の組織ではない。この街に住む人々の安寧こそにある。師崎が滲ませるのはそんな意識。
 利用され利用する。師崎と一聖にはそんな協力関係が成立しているのだった。
「……じゃあな」
「ええ。ありがとうございました」
「さようなら~」
 それから暫く、三人は互いの持つ情報を擦り合せる作業を行った後、店の前で別れた。
 オフィス街の奥、清嶺署方向へ消えていく師崎の後ろ姿を見送りながら、一聖と奈々子は
軒先に立つ。昼下がりの大通りには、午前中以上の人の波が忙しなく蠢いているかのように
見える。日差しの注ぐ空の下で、一聖は静かに手で庇を作り天を仰いでいた。
「……じゃ、いくか。正直どれだけ取材許可が貰えるかは分かんねぇけど」
「はい……」
 師崎から示された衰弱事件(仮)の発生状況。
 確かに彼の言葉通り既に二人が把握している分も含まれていたが、それ以外にも新たな被
害者がいる事が確認できた。それも、当初よりもずっと大人数の。
 一聖と奈々子は歩き出した。
 ともかく彼らに話を聞けないだろうか。
 それは師崎の言う“足で稼ぐ”という方法に他ならなかったが、内心一聖自身は別段それ
を古臭いという理由だけで軽んじようという気にはならなかった。
 確かに今は色んな情報が足を運ばなくても手に入る時代なのだろう。だがそれでも、それ
らの源はそこに息づく人々から生まれている筈で。だからこそ情報として発信する者として
はその声を大事にしたいと一聖は思う。
 それは多分、同じ情報を元にしても、そこから「犯罪者を捕まえる」警察と「誰かに発信
する」ジャーナリストとの違いでもあるのだろう。
「…………」
 一聖はぼんやりと、そんなギブ&テイクの関係だが見つめる先が違っている自分と師崎と
を想いながら歩いていると、ふと背後で奈々子の足音がゆっくりになったのに気が付いた。
「……先輩」
「ん? なんだ?」
 ポツリと口を開いてくる奈々子に、一聖は何の気なしに視線だけを寄越していた。
「……その。先輩も、随分調べてたんですね」
 一拍置いてそう一言。
 それはきっと、先刻の自分の取材メモの事だろう。
「あぁ。言ったろ? 俺もこの件には関心があるって」
 そう思って、一聖は軽い調子でそう答えていた。
「…………。どうして、ですか?」
 だが奈々子の声色は真面目だった。
 静かに、一聖はそっと目を細める。
(こいつ、普段はボケ~っとしてるくせに、いつの間にかいざ取材ってなると急に真剣とい
うか、カァッと熱したみたいになってるんだよなぁ……。まぁ、それだけ仕事に気合入れて
取り組んでくれるに越した事はねぇんだけど)
 投げ掛けられてくるのは、真剣な瞳の色。
「……そうだな」
 ゆっくりと前に向き直り、背中を彼女に向けたまま、一聖は少し間を置いて押し黙った。
 オフィス街のコンクリートで照り返された熱気と、人混みからの雑踏が意識の方々を無遠
慮に駆け抜けていく。
「やっぱ……好きだからなんじぇねぇの?」
 暫し思考してから、一聖はポツリと答えていた。
「都市伝説が、ですか?」
「ばーか違ぇよ。お前じゃねぇんだから」
 いや、やっぱボケててくれねぇとナナじゃねぇよなぁ……。
 一聖は苦笑いで奈々子を一瞥すると、再び前を向いてぽつぽつと語りだす。
「……ガキの頃の開発計画で色々揉めたり、田舎臭いねちっこさが倦厭されたりとかはする
けどさ。それでもやっぱ、俺はこの街が好きなんだ。確かに随分と見てくれは変わっちまっ
たけど、海の方に行けば潮の香りが届いてくるし、昔っからの知り合い達もいる。なんのか
んの言っても、ここが俺の生まれ育った町だって事実だけは変わりはしないねぇんだ」
 そして少し顔を上げて空を仰ぎ、数秒の間。
「……だからもし、この街を、この街の誰かを泣かせるような輩がいるとしたら、俺は絶対
にそいつを許さねぇ。できる事なら俺がとっちめてやりたいさ。そいつから皆を守りたいと
思うんだ」
「…………」
 風が吹く。二人の間をすり抜け、温くも流れゆくビル風が吹く。
 その風に身を委ねながら、一聖は静かに息を吐いた。
「……多分、それが理由なんだろうな。取材して、少しでもそれを読者と共有する事ができ
れば、この街で泣く人間も減る筈……だからよ」
 その答えに、奈々子は暫く黙ったままだった。
 始めは驚きを。やがて口元に微笑みを。
「……そうですか」
 静かに、何かを咀嚼するかのように。
「……やっぱり、先輩でよかったです」
「あ? 何か言ったか?」
「……いいえ。何も」
「? まぁいいや。ほら、さっさと行くぞ。できるだけ多く回りたいしな」
「……はいっ」

 だがしかし、肝心の取材の方は芳しくなかった。
 師崎からの情報提供で新たに得た、衰弱事件の被害者達。
 一聖と奈々子は早速彼ら一人一人に可能な限りアポイントを取り、そうでなければ直接訪
ねて取材を試みようとしたのだが、
『……すみません。その事はもう放っておいて貰えませんか?』
『お断りします。お願い、もうあの子をこれ以上巻き込まないで……』
『帰ってくれ! また他の奴みたいに面白半分に騒ぎ立てる気なんだろう!?』
 彼らの反応の大半は、個人差こそあれ尽く取材拒否。
 それでも辛うじて話を聞き出せたケースもあるにはあったが、得られた情報はそれまでに
聞き及んでいたものと被る内容ばかりだったのである──。
「……」
「ハァ……」
 結局、一体どれだけの数を回っただろうか。
 一聖と奈々子は肉体的にも精神的にも重くなった足取りで大通りへと戻ってきていた。
 互いに少なくなった口数。
 特に奈々子は中々成果が得られなかった事へのショックを隠し切れず、渋さを噛み殺した
ような顔をしながら時折嘆息をついている。
「……上手く、いきませんね」
「……そうだな」
 そんな彼女に、一聖も思わず気分が沈む。ついポリポリと頭を掻きつつ、この案件の難し
さと自分の記者としての力量の如何を内心で嘆いてしまう。
「正直、思ってた以上にガードが堅かったしな……」
 拒否された人々の姿から思い起こしたのは、田井中夫人が見せたあの時の態度。
 やはり「化け物に襲われた」という証言をする家族・友人知人がいる、それを周りに知ら
れるというのはいい印象ではないのだろう。特に自分自身がオカルトの類を信じていなけれ
ば、彼らが証言する事で自分に振りかかってくる周囲からの好奇、冷笑様々な反応は、まさ
に理不尽以外の何者でもないと言える。場合によっては彼らが厄介者にさえ思えてくること
もあるかもしれない(実際、その片鱗を窺わせる関係者も少なくなかった)。
 仮にそんな心証を抱いていなくとも、被害者となった彼らの精神の異常を疑い、心配する
ような心境に至るというのは考えれみれば当然の結果なのだ。
(……難しいもんだな)
 奈々子ではないが、自分も都市伝説という看板に目が行き過ぎていたのかもしれない。
 一聖は独りそう静かに反省しつつも、おもむろに空を見上げていた。
 時間は過ぎ、空はすっかり茜色に染まっている。もう暫くすれば陽も沈み、街は夜の黒に
とネオンの光へと変わるだろう。
「……そろそろ、社に戻るか」
 頃合か。
 一聖はそう思って自分の中に漂う陰気を吐き出すかのように言った。
「え? もうですか? ま、まだ私頑張れます……よ?」
「無理言ってんなよ。お前、フラフラじゃねぇか。気力が折れてるの見え見えだっつーの」
「あぅ……で、ですけど」
「それに時間が時間だ。もうちょいしたら、個人の家庭に踏み込んでいくのはもっと難しく
なるぞ? お前だって遅くなってから家に急な客が来るのはいい気しないだろ?」
「え、ええ。それはそうですけどぉ……」
「だからさ、焦るなって。別に今日で片付けないといけないわけじゃねぇんだから。それに
焦った所でいい記事は書けねぇよ。どっしり腰を据えて取り組みゃあいいんだ」
「……。はい」
 最初はそれでも何とか根を張ろうとしていた奈々子だったが、一聖の言葉に渋々といった
感じで静かにクールダウンされていったようだった。
 それを横目で見ながら、一聖は内心ほっとしていた。
 どうにも喫茶店を出た後の彼女は、妙にテンションが高くなっていたような節が見受けら
れていたのだ。仕事に熱心なのは歓迎したい所だが、それも程度の問題である。
「よし。じゃあ今から社に戻るとして……うん、大丈夫そうだな」
「? 何がですか?」
 そして交差点の信号待ちで立ち止まり、腕時計を見て独りごちるように何事かを確認して
いた一聖に、奈々子がふいっと耳ざとく訊ねてくる。
「ん? あ、いや、何でもない……」
「ふぅん……?」
 赤信号が青に変わり、立ち止まっていた人々が横断歩道の上を歩き出す。
 追求される側とする側。一聖と奈々子も互いの反応を窺いながらその群集の中に身を委ね
て進んでいく。
「怪しいなぁ……」
「何がだよ。今から社に戻る事がそんなに変か?」
 奈々子は妙に探るような目つきで一聖を見遣っていた。
 女の勘という奴か? 一聖は内心厄介に思いつつも、できる限り何とも無いかのように努
めていた。
「先輩はどちからというと時間には緩い方ですからね。帰社の時間を逆算するなんて珍しい
なぁと思いまして」
「……おいお前、俺をなんと思ってんだよ」
 だが奈々子は「むむむ……」と小さく唸りながら何かを考えているようだった。横断歩道
を渡り切っても尚、その好奇と疑心が混じった眼差しは一聖へと向けられている。
「……ハッ!? 分かりました。さては……女(コレ)ですねっ」
「……は?」
 そして、ピッと小指を立てながら放たれた言葉。
 一聖は思わず目を瞬かせて、妙にフッと頬が紅潮し始める彼女の顔をポカンと見返した。
「だ、だって、男の人が仕事以外に時間を気にするといえばデートでしょう? や、やっぱ
りなんですか? そうですよね、先輩だってお年頃ですし……」
「お、お年頃ってお前……」
 こいつ、妙に勘違いしてやがる。
 いや、それよりも。
『…………』
 時折向けられてくる周りの視線が気まずい……。
(あ~……もう、面倒くせぇな)
 だからだったのか。一聖はボリボリと髪を掻きながら、
「そんなんじゃねぇよ。ダチと呑む約束があるだけだって」
 つい、本当の理由を口に出してしまった。
「……飲みに?」
 そして「あ。しまった」と思った時にはもう遅かった。
 それまで頬を赤らめていた奈々子の目が、次の瞬間にはらんらんと輝いていたのだ。
「なんだ~、そうだったんですか~。つれないですよ~……飲みに行くなら私も誘ってくれ
ればいいのに~……」
「……やっぱ、そう来るか」
 一聖は小さな嘆息と共に頭を抱えていた。だがもう知られた事は取り消せない。
「勿論ですっ。先輩も知ってるじゃないですか~、私、お酒大っ好きなんですから~♪」
「……だったら自分で飲みに行けばいいだろ」
「そうもいきません。うちの安月給じゃあ中々お財布が厳しくって……」
「編集長に聞かれたら怒られるぞ……。ま、そこは正直激しく同意だけどさ……」
 この次の展開が読めた気がして、一聖は少々投げ槍な声色に変わっていた。
 にっこりと、やけに嬉しそうな彼女の顔を何となく見ない風にして再び溜め息を一つ。
「是非私も連れて行って下さい。お友達と会うんですよね? だったら私も先輩の後輩とし
てご挨拶を……」
「いや、お前が飲みたいだけだろ。さっき思いっきり自白してたし……。つーかその論理は
おかしいから」
「何々。それとこれとは話が別です。ささ、そうと決まればさっさと社に戻りましょう♪」
「ハァ……。仕方ねぇなぁ……」
 そう言って先んじて進む奈々子を見遣り、一聖はまた溜め息をついた。
 どうせここで断っても勝手についてくるだろうし……。
「ナナ!」
 一聖は携帯電話を取り出しながら、先を行こうとする奈々子を呼び止めた。
「……連れてってもいいが、奢りはしないぞ。割り勘な」
「むぅ……。まぁ、仕方ないですね。いいですよ」
「……偉そうに言うなっての」
 そして足を止めて戻ってくる彼女を一瞥した後、手早くボタンを操作、ある人物の連絡先
を呼び出してコールする。
「……ああ、もしもし、俺だ。今夜なんだけどさ、一人おまけを連れて行ってもいいか?」
 相手方に了承を取ろうとしているのだろう。
 その通話の様子を見た奈々子は、小首を傾げて小刻みにリズムを取りながら暫しその応答
を待った。
「……ああ。うん、そう、うちの後輩。前にも話した事あっただろ? いいか、そっちに連
れて行っても……? うん……うん……。そっか。じゃあ宜しく頼むわ」
 やがて通話は終わり、一聖は携帯電話をしまいながら奈々子に振り返る。
「どうでした?」
「あぁ。別に構わないってさ」
「~♪ やったぁ」
「……だけどあんまり呑み過ぎるなよ? ダウンした時に後始末するのは俺なんだからな」
「分かってますよ~。ふっふ~、久っしぶりのお酒~♪」
 奈々子はすっかり上機嫌になっていた。
 はて、酒が飲めるだけでこんなに気分が晴れるものかと一聖は思ったが、取材成果の不作
と気落ちを吹き飛ばす意味でも、少しぐらいは飲ませてやってもいいかもなとも思い直す。
「……あ。あの、ところで先輩」
「ん?」
「その、今夜会うっていう先輩のお友達ってどんな人なんですか?」
 そして再び並んで歩き出し始めて少し。不意に奈々子がそう訊ねてきた。
「あぁ……そうだな。お前とは初対面になるんだっけ……」
 そういえばと、対する一聖は彼女に顔を向けると、
「白沢大良。ガキの頃からの付き合いの、親友(マブダチ)さ」
 無意識に笑みを浮かべてそう答えていたのだった。


 清嶺ヶ浜に、何度目とも知れぬ夜がやってきた。
 天と空間を染め上げるのは夜闇の黒色。そしてそれらを彼方此方から引き裂き、押し広げ
ようとするかのように街のネオンの光が灯り、広がっている。
 かつては刻々と移る空間の色彩と共に日々を過ごしていた人々も、今は昼夜を問わずに蠢
き続ける事ができる。
「ふ~む……。結構人いますね」
「繁華街だからな。ま、週末って事もあるんだろうけど」
 一旦社に戻り、雑務を片付けた一聖と奈々子は二人して夜の繁華街へと足を運んでいた。
 仕事を終えて帰路に就く者。終えず動き続ける者。互いの人の波。その本流から外れてい
けば、こうした夜の憩いの為に足を伸ばす人々の支流へと続く事となる。
 昼とはまた違う種類の人混み。そこから思い思いに、まばらに分散していく人の流れの中
を抜けながら、二人は一路待ち合わせの場所へと向かう。
「でも、日によって違うが、ここら辺りの人気はだいたいこんなもんだぞ」
「そうなんですか。でもその、実は私、こっちに来るのは初めてで……。何となくこの辺り
って高級感があるじゃないですか。特に夜の時間ともなると。何だか近寄り難くって」
「あ~……。それはあるかもしれないな」
 奈々子の言葉に一聖は納得したように小さく頷き、視界に広がるネオンの光を見遣る。
 最寄り駅から延びるメインストリート。その表通り、両翼には色取り取りの光を放つ看板
がびっしりと並んでいる。全ての店がそうではないだろうが、建ち並んでいる飲食店の多く
には少々お高い雰囲気──高級感を醸し出している様子が見られる。
 まるで光に引き寄せられる蟲のように、ネオンが光る方々の店へと入っていく先輩世代の
サラリーマン達の姿を認めながら、
「大丈夫ですかね……? 一応、さっき少し下ろしてきましたけど」
「大丈夫。そんな身構えなくたっていいっての。これから行く所はそんな華美な店じゃねぇ
からさ」
「……そうなんですか?」
「ああ。俺らの懐事情を考えてもみろ。そもそもあんな高そう所に通ってたら、うちの安月
給じゃあ幾らあっても足りねぇよ」
 一聖は、自分達にはまだ早い世界なのかもしれないと思った。
「こっちだ」
 やがて、一聖はそんなネオンの華やかさが彩る表通りの一角を曲がる。奈々子がちゃんと
ついて来ているのをちらと確認しつつ、一歩踏み入っただけで纏う雰囲気の違う裏路地の中
を進んでいく。
 そこでは表通りのような光眩い景色は失せていた。代わりに在るのは夜相応のの静けさと
暗がり。その闇を静かに点々と灯すように、提灯の仄かな灯りが僅かに確認できる。
 街の喧騒は背後に遠ざかっていた。
 暗がりで分かり辛いが、街並みもビルが建ち並ぶそれではなく、時代を感じさせる家屋が
その多くを占める。
「……なんだかホッとしますね。ずっと前からの清浜みたいで」
「……そうだな。俺もそう思う」
 いわば、かつての清嶺ヶ浜の姿の香りが漂う空間だった。
「ごちそうさ~ん」
「また来るよ~」
 そして、二人が赤提灯の下がる一軒の店の前に差し掛かった時だった。
 ちょうど数名の中年男性達が、酔いで顔を赤く染めて入り口から出てきた。
 ふらふらと少し危なっかしい感じ。だが彼らは愉快気に笑い合いながら二人の横を通り過
ぎて行く。
「……先客だったみたいだな」
「え? じゃあ、ここなんですか?」
「ああ」
 言われて、奈々子は目の前の店を見上げた。
 小さな、年季の入った和の建物。佇まいからして居酒屋である事が分かる。中からはほん
のりと温かい光が漏れ、外の夜闇を撫でているかのようだ。その軒先に下げられた赤提灯に
は店名だろうか、達筆な墨字で「まとや」と書かれている。
「……まとや、さん?」
「そう。ここのおやっさんが的場さんだから『まとや』。分かり易いだろ? まぁ、当の本
人は随分前に亡くなってるそうなんだが」
「え?」
 だがそこまで言うと一聖は一瞬押し黙った。そして鼻先をポリポリと少し掻いてから一歩
を踏み出すと、一度ちらりと奈々子に振り返る。
「……分かってるとは思うが、粗相な真似はするなよ?」

 店内は落ち着いた静けさに満ちていた。
 外からでも分かっていたが、中は決して広いとは言えなかった。厨房と向き合える対面式
のL字型のカウンター席と、一段底上げした座敷のテーブル席が五つ。おそらく三十人ほど
が入れば満席の鮨詰め状態となる規模だ。しかしそのこじんまりとした様が、かえってこの
店の持つ雰囲気を守っているかのようにも思える。
「……いらっしゃい」
 暖簾をくぐった二人を出迎えたのは、一人の眼鏡の青年だった。
 布巾でカウンターを拭っていた手を止め、向けてきたその怜悧な眼差し。
 知的な二枚目。
 奈々子が抱いたのはそんな第一印象だった。
 だがそれ故に、彼のその黒いエプロン姿は、何処か彼にはミスマッチにも感じられる。
「よっ」
 そんな思考を過ぎらす奈々子の傍らで、一聖は軽く片手を上げ気安い挨拶を向けていた。
「……いい時に来たな。ちょうど居た客を捌き終えた所だ」
「あぁ、あのおっさん達だろ? さっき店の前ですれ違ったよ」
 気のせいだろうか。
 次の瞬間、青年の纏う鋭さのようなものがふっと緩んだように奈々子には思えたのだ。
 ポンとカウンターの隅に布巾を置き、青年と一聖は親しげに話している。
「でも良かったのか? 俺が来るからって他の客を人払いするようにしちまって」
「問題ない。別に追い出すような真似はしていないさ。それとなく彼らの飲食のペースが上
がるようにしただけだ」
「……う~ん。まぁ、迷惑になってなきゃいいんだけどよ。確かにあのおっさん達、出てく
る時、見た目愉快そうだったけどさ……。でもなぁ、俺がこうして来るって度にお前に気を遣
わせるのが、な……」
「……そんな事か」
 そう、少し視線を逸らして軽く髪を掻く一聖。
 その表情を相変わらず感情の色が乏しい顔でじっと見つめたまま、
「客一団あたりの注文数と回転効率を向上させる。飲食業において当然の指針だろう?」
「まぁ、そうだが。なんつーか身も蓋もねぇな……」
「商いの事実を言ったまでだ。だから君がそんな事を気にする必要性は無い」
 青年は何ともないといった感じで呟く。
「……それに、僕は静かな方が好きだ。君と飲むというのなら、尚更にな」
「……そうかよ。でもお前、居酒屋に勤めてて静かな方がいいってのはなぁ……」
 一聖は小恥ずかしいような、それでいてツッコミを忘れずに苦笑していた。それでもその
表情には親しい者と言葉を交わす際の悦びが滲んでいる。
「あの……。先輩?」
「ん?」
「その、お知り合い、なんですか?」
 一聖はこの店の常連なのだから、その店員と懇意でもおかしくはないだろう。
 だが奈々子は気になってつい彼に訊ねていた。
「あ? 知り合いも何も、こいつが“タイラ”だぞ」
「はい? 平、さん……?」
「……イッセー」
 だが一聖からの返答は要領を得ない。何を言っているんだと言わんばかりに。
 奈々子が頭に疑問符を浮かべていると、タイラと呼ばれたこの青年が静かに一聖に向かっ
てそう呼び掛ける。
「彼女がそうなのだろう? 僕らの紹介を忘れている」
「ん? あぁ、そっか……。悪ぃ悪ぃ……慣れ過ぎててすっかり忘れてた」
 やっと気付いて相手に合わせて歩幅を緩めるように。
 一聖は奈々子に軽く弁明しながら、この青年を紹介する。
「こいつが、言ってた白沢大良だ。大良だから『タイラ』。普段はそう呼んでる」
「……初めまして」
「あ、はい、初めまして。私、乾奈々子です。せ、先輩がいつもお世話になってますっ」
「お前は御袋か。つーか、いつも世話になってるのは俺じゃなくお前の方だろ……」
 紹介され、奈々子はようやく目の前の人物が件の友人であると知り、少し慌てて頭を下げ
て挨拶をしていた。その横で、一聖はぼそっとツッコミを入れるのを忘れない。
「……あれ? でも、何で白沢さんはエプロン姿なんですか? 今日は私達と飲みに来たん
じゃないんですか?」
「……あぁ。そりゃ、タイラがここでバイトしてるからだよ」
「え? バイト?」
 そう代わりに答えた一聖を見遣り、奈々子は一瞬思考がこんがらがった。
 変わらず怜悧な眼を向けている大良にも視線を遣り「むむむ?」と眉間に皺を寄せる。
「……イッセー。僕の事は何も話してないのか」
「ん? あぁ……どうせ飲みながら話すだろうし。昔っからのダチって事くらいしか」
「そうか……」
 言われて、大良は眼鏡のブリッジを指先で押さえて一瞬押し黙った。
 あまり乗り気ではない。少々そんな気配で奈々子に続ける。
「……僕はイッセーのように社会人ではないんだ」
「え? それって……?」
「僕は今、清嶺大学の大学院に籍を置いている。だから身分上は学生という事になるな」
「大学院? せ、清嶺大の……!?」
 その答えに、奈々子は素直に驚いているようだった。
 清嶺大は歴史こそ浅いが、開発事業の一環で各地から学者を招いた上で作られた国立大学
の一つでもある。そうした経緯故にそのレベルは決して低くないのだ。
「ふわ~……凄いんですね。白沢さんって」
「……」
 彼女の疑問の眼は、ちょっとした羨望のそれに変わっていた。
 それでも、当の大良本人はそれに殊更に応える事はなく黙っていたが。
「ま、そういう訳なんだが、それでも生活費やら何やらは要るだろ? だからこうして幾つ
かバイトを掛け持ちしてるんだよ。えっと、あとは何だっけ?」
「……学習塾と古本屋だ」
「そうそう。それそれ」
「へぇ、そうなんですか……。じゃあ、もしかして白沢さんって……苦学生さん?」
「お、おいおい……」
「……。少なくとも裕福ではないだろうな」
 少し不躾な質問だっただろうか。一聖は止めに入ろうとしたが、大良自身はその質問に対
し特に不快感を示す事もなく、淡々と答えてくれる。
(おい、ナナ。あんまりこいつの私生活に茶々入れるなよ。色々と……苦労してんだから)
(? あ、はい……。すみません……)
 こそこそと。一聖に耳打ちされ、奈々子はそこで幾許の反省と怪訝を覚えたが、目の前の
大良の様子にはそれに対する反応は窺えなかった。
 相変わらず何処かひんやりとした、それでいてその奥へと踏み込ませない雰囲気ばかりが
在るような気がする。
「──あら? 黒田君じゃない。いらっしゃい」
 ちょうどそんな時だった。
 厨房の奥から橙色の布暖簾をくぐり、一人の女性が顔を出してきた。
 和服の上に割烹着を着た、おっとりとした印象の妙齢の女性。彼女は一聖達の姿を認める
と穏やかな微笑みと共にカウンター越しに近づいて来る。
「どうも、今夜もお世話になります。……ナナ、ここの店主の悠美さんだ」
「あ、はい……。あの、初めまして。私、乾奈々子と言います。先輩の後輩です」
 一聖に促され、奈々子は再び頭を下げての自己紹介。
「奈々子ちゃんね? そう……。黒田君の後輩さん?」
「は、はい。先輩がよくここにお世話になっているそうで……」
「ふふ……そうね。折りにつけて顔を出してくれる子の一人だわ。貴方は初めて、よね? 
うちはあまり広くはないけれど、ゆっくりしていってね?」
「はいっ。お世話になりますっ」
 三度、ぶんっと激しめのお辞儀。
 それをまるで娘を見る親のように、悠美は静かに微笑みを割り増して受け答えしていた。
「ちょうどね、お客さん達が一段落ついた所なのよ。だから今は貸切状態よ?」
 そして彼女はぽんと手を打ちながら、
「さぁ二人とも、立ち話も何だから座って頂戴。今夜は何にする?」
 一聖と奈々子を席に促して言う。
 二人は早速彼女と向かい合うようにカウンター席の一角に陣取った。
「そうだな……。じゃ、とりあえす俺は熱燗を一本貰おうかな」
「私は生中でお願いしま~す」
「……分かった。つまみはどうする?」
「ん~……。ナナ、適当に幾つか選ぶけどそれでいいか?」
「はい。お任せします。あ、えっと、できればボリュームのあるもので」
「……ちったぁ遠慮しろよ?」
 数秒の思慮。二人は先ずはとそれぞれに酒を注文した。そして一聖が壁際に掛かっている
木札のお品書きに目を遣りながら、つまみの品を幾つか選んで告げていく。
「──と、それで。……まぁ、とりあえずはこんなもんで頼む」
「分かった」
 いつの間にか伝票を手にしていた大良がその注文を書き留めると、店の隅に回り悠美と同
じくカウンターの中へと入っていく。
 暫く二人が作業する様子を、一聖と奈々子は眺めていた。
(……あの、先輩)
(ん?)
 そんな適度な静けさの中で。
(……その、悠美さんって未亡人さんなんですか?)
(あぁ……。何年か前にここを一緒に切り盛りしてた旦那さんが亡くなって、それ以来独り
なんだそうだ。俺はそれより後に常連になった人間だから本人に会った事はねぇけど)
 ふと、本人に聞こえないように小声で話しかけてきた奈々子に、一聖は顔を向け直す事も
なく淡々と答えていた。
(そう、なんですか……。その、店の前で先輩、言い掛けてたから……)
 それでも悠美本人はそんな過去など分からないほど、穏やかで落ち着いた雰囲気だった。
 しかし、と奈々子は思った。だからこそ、普段表に出そうとせずに笑おうと努めているの
ではないかと。
(あぁ。何も知らずに、お前が話題に出しちまわないようにと最初は思ったんだがな……。
だけどやめとこうと思い直したんだ。そういう話を先にしちまうと、酒が不味くなる)
 そして一聖も、
(……ま、そういう事だから気をつけておいてくれよ)
(はい……。分かりました)
 多少の事情は知った上でその話題を避けているようであった。
「…………」
 そうしていると、熱燗と生ビール、そして頼んだつまみの一部が運ばれてきた。二人の囁
き合いを聞いていたのかいなかったのか、運んできた大良は終始営業スマイルには程遠い表
情のまま、それらを二人の目の前に置くと再びカウンターの中へと戻っていく。
「……あの。白沢さんって、いつもああなんですか?」
「ああって何がだ?」
「その……。表情が乏しいというか、何となーく近寄り難い雰囲気というか……」
 彼が遠ざかるのを確認して、奈々子が再びひそひそと一聖にそう訊ねてきた。
 初対面の相手をすぐに悪く言いたくはないのだろう。彼女なりに言葉を選ぼうとしている
ようだったが、
「……顔は悪くないのになぁ」
 正直功を奏してはいない。
「う~ん……大体あんなもんだぞ。というか予想通りの反応だよなぁ、お前は」
 それに対して一聖の方はといえば慣れっこといった様子だった。小難しい表情の奈々子を
見遣ってにやりと笑ってさえいる。
「元から愛想なんてのとは縁遠い人間だからな。今院生までやってるのもそうだが、仮に生
活費が勝手に入ってくるようにでもなれば、一日中……いや一年中でも部屋に篭って研究に
没頭してるのが常みたいな男だよ」
「……根っからの学者さん、って事ですか?」
「そう。物理が恋人みたいな人間、って感じに見えるんだろうな。大抵の奴には」
 だがその大良を見遣る眼には、単なる好奇の色はなかった。
 諦めと共に何処か悟って、そして同時に心配の気配も滲ませるような。
「……だけどよ。あれでも随分丸くなったんだぜ? 昔に比べればさ」
「……そうなんですか?」
 ふっと笑って、遠い何処かに記憶をはせるようにして呟く一聖。
 その言葉に奈々子は正直半信半疑といった感じで小首を傾げている。
「そういえば、二人は子供の頃からの付き合いだって言ってましたよね? じゃあその最初
の頃はどんな感じだったんですか?」
「ん? 最初の頃か……?」
 そしてその延長線上から振ってこられた言葉に、一聖は少し動きを止めた。
「そうだな……」
 頭の中の記憶を手繰り寄せているかのように、数秒、薄っすらと目を細め、そっと目の前
の熱燗に手を伸ばす。陶器のカップから上る湯気が、静かに二人の頭上を漂っていく。
「酒の肴に、ちょいと話してやろうか……」

 ──俺がタイラと初めて会ったのは、もう随分昔の事だ。
 まだガキの頃……多分十歳くらいの時だったか。その頃の俺は、毎日のようにダチ連中と
つるんであちこちで馬鹿騒ぎして遊び回ってた記憶が強いな……。
 今風に言うとガキ大将みたいなものだったんだろう。
「は~い、皆さん静かに!」
 そんなある日の事だ。俺達のクラスに、季節外れの転校生がやって来たのは。
「今日から皆の新しいお友達になる、白沢大良君です。皆、仲良くしてあげてね?」
 季節外れなのはさておき、クラスの連中は始め大騒ぎだった。
 とりあえずイベントがあれば騒いどけ……みたいな所があったからなぁ。まぁ、俺も大分
その空気の旗振り役をやってたような気もするけど。
 男子連中だけじゃない、女子連中も随分な反応だったっけ。タイラはあの時から端正な顔
立ちだったからな。見た目の第一印象でホの字になった奴もいたんだろう。
「じゃあ白沢君。何か一言どうぞ」
「……」
「え~っと……。白沢君?」
「…………」
「う~ん。ちょ、ちょっと照れ屋さんかな? とにかく皆、白沢君と仲良くね?」
 だけど、その時の俺は違う印象を持っていた。
 何て言えばいいんだろうか……あいつの眼が、凄い遠い所にあるように思えたんだ。
 すぐそこにいる筈なのに、あいつは俺達を見ていない。いや、俺達を見ようとしていない
みたいな。まるで魂が抜けたみたいに反応が乏しいくせに、その眼は相手を拒んでいるよう
な分厚い硝子みたいに見えたんだ……。
 こいつは、今までの人間とは違う。
 子供ながらに俺は多分感じ取ってたんだろうな。
 それは、他の皆も遠からず少なからずそうだったみたいで。
 皆、最初は興味本位とかであいつに近寄ろうとしたけど、尽く失敗していった。
 応えないんだよ。いくら話しかけても、あいつはずっと教室の片隅で独りじっと本を読ん
でた。誰からの言葉にも応えずに、ひたすら相手を無視し続けてたんだ。
 そんな態度ばっかり取られたら……どうなるかは分かるだろ?
 だんだんクラスの連中も、他の連中も、皆タイラから距離を置き始めた。まぁガキだから
そんなスマートに、冷静に対応してた訳じゃねぇな……。ぶっちゃけちまえば、ある種苛め
のターゲットにされていったんだ……。
 子供ってのは親の背中を見て育つって言うだろ? 実際、あの頃は清浜の開発計画で町が
二分されて争ってた時期とも前後してたから、その姿を少なからず見てた俺らガキも、何か
きっかけがあれば、今じゃ考えられないくらい粗暴にもなっちまってたんだと思う。
「──こんのっ!」
「畜生っ、何とか言えよっ!」
「…………」
「ぬうっ……。この野郎、まだそんな眼しやがって……!」
「ちぃっ、むかつくんだよ!」
 俺は、最初はタイラに何もできなかった。実際、当時の俺も「なんか気に食わない奴」的
な認識が無かったと言えば嘘になるしな。
 だけど、だからといってそいつをボコっていいとまでは、俺は思わなかった。
「うぉらぁぁぁっ! てめぇら何やってんだっ!」
「!? げっ、い、イッセー!?」
「や、やべっ。逃げるぞ!」
 あれが最初じゃなかったかもしれなけど、あいつがボコられてるって聞いた時、俺は他の
ダチと一緒にそこに乗り込んでいった。普段からガキ大将やってたのが功を奏したんだな。
その時は何とか連中を追い払う事ができたよ。
「ふぅ……。おい、大丈夫か白沢」
「……」
「うわぁ、ボロボロだな……」
「い、イッセー……どうする?」
 それでも、あいつは一切手を出してなかった。どれだけ「気に食わない」だけでボコボコ
にされても何一つ抵抗してなかったんだ。
 いや──。
「そうだな、とりあえず学校に行こう。保健の先生に手当てしてもらわねぇと」
「……必要ない」
「え? 必要ないって、お前、そんなボロボロで……」
「そうだぞ。いいから来いって……」
「……僕に、近寄るな」
『──ッ!?』
 代わりに、最初に出会った時以上に、あいつの眼には他人を拒絶する意志が溢れてた。
 まるで“世界の全てが敵”だと信じて疑わないような、そんな俺が今まで見た事のない程
の強烈過ぎる敵意だったんだ。
 思わず身動きが取れなかったよ。
 一瞬、そんなガキとは思えない瞳で睨み返してきたあいつが立ち去るのを、
「……。行っちまった」
「何なんだよ、あいつ……?」
「……分からん。俺にも、分からん……」
 俺達はただ唖然と見送るしかできなかった。
 ──だけど、よ。
 俺はその時以来、気になってしょうがなくなった。
 あの敵意は、普通じゃない。直感的にだがそう思ったんだ。
 あそこまで人を憎むのは何故なのか、何なのか。今から考えりゃ大きなお世話だったのか
もしれねぇけど……でも、知りたかったんだ。きっとこのままじゃ、あいつはとんでもない
事になる。そんな気がして……。
「よっ、白沢」
 だから俺達はそれ以来、折りにつけて積極的にタイラに声を掛けた。
 あんな調子だからすぐにとはいかないだろうなとは思ってたけど、それでも少しづつでも
いいから皆との仲を取り直して欲しい。その点では俺達は一致してたんだ。
「……」
「折角の昼休みなんだ、外で遊ぼうぜ?」
「……断る」
「いいじゃねぇかよ~、ずっと本ばっかり読んでても退屈だろ」
「……そんな事はない」
「そ、そうか? でもよ、たまには身体を動かすのも……」
「帰ってくれ。読書の邪魔だ」
『………』
 まぁ、でもやっぱりそう簡単には事は運ばなかったんだがな。
「はぁ……。なぁ、イッセー、諦めた方がいいんじゃねぇの?」
「正直俺もそう思うよなぁ……。あいつ、筋金入りだもんよ」
 そんな中で俺についてきてくれたダチ達は、何度となく音を上げたもんだ。
「……いや、俺は諦めねぇぞ。あんなトゲトゲした空気をクラスに野放しにするのかよ? 
俺は嫌だぜ。息が詰まるだろーが」
「そ、そりゃあ……」
「そう、だけどさ……」
 だけど俺は不思議と諦められなかった。
 多分、それはあの時のタイラの眼を見たからなんだと思う。好奇心は……確かにあったか
もしれない。だけど、それはほんの最初の時分だけだった。
「だったら協力してくれ。俺一人よりも、頭数で行った方が絶対効果はある筈だからさ」
 意地というか何というか、あいつ自身も、あいつを突き放して敵視する奴らにも、変わっ
て欲しかったんだろうと思う。嫌だったんだ。当時開発計画の賛否で揉めてた大人だけじゃ
なくて、学校っていう俺達子供の空間すらも険悪な空気に呑まれて行くのがさ……。
 まぁそれも、俺一人の自分勝手な理由だったのかもしれねぇけど。
「……仕方ねぇよな。もう暫くアタックしてみますか」
「あぁ。でもさ……この調子でいっても埒が明かないぜ? 間違いなく」
「確かにな……」
「う~ん……。せめて何であいつがあそこまで人嫌いなのか、理由が分かればなぁ……」
「理由、ねぇ……。確かに俺達、白沢の事なんも知らねぇよな」
 だから俺達は。
「……だったら聞いてみたらいいんじゃね? 先生なら、あいつが転校してきた事情とかも
知ってるだろうし」
『それだっ!』
 ある日、一計を案じたんだ。
「──白沢君について知りたい?」
「はい。先生なら知っているかなぁと思って」
 俺達は早速職員室に行って、先生にタイラについての情報を聞き出そうと試みた。
 その当時の俺達の担任は、まだベテランとは言えない若い女の先生だったんだけど、
「う~ん……。だけどねぇ、あまりあの子の事は無闇に話し辛いっていうか……」
「頼むよ、先生。これはクラスの為でもあるんだ」
「先生、気付いてる? 白沢、クラスの中で浮いてるんだよ?」
「いじめも受けてるんだぜ? まぁ、危ないとこはイッセーや俺達が防いでるんだけどさ」
「……」
「お願いだよ。放っておけないんだ……あいつの事」
 それでもタイラが転校してきて以来のクラスの変化には薄々勘付いていたみたいで、
「…………。分かったわ。でも、面白半分に広めないこと。いいわね?」
『……はいっ』
 少し周りを気にしながら話してくれたんだ。
「まず白沢君の転校の理由だけど……。元々はあの子は“島”の生まれなの」
「島? それって潮城島(しおきじま)のこと?」
「そう。清浜の沖合いに浮かんでるあの島よ」
「知ってるよ。泳ぎに行ったりすると見えるよな? 天気のいい日にはさ」
「確か今度でっかい建物が立つんでしょ? この前ニュースでやってたよね」
「ええ……。次世代エネルギー研究所ね」
「へぇ~……なんかカッコイイなぁ」
 だけどあの時の先生の表情は硬かった。一度は話すと言ってくれたけど、やっぱまだ子供
だった俺達に話すのが憚られたんだろうな。
「だけどその潮城島で事故が起きたのよ。酷い、交通事故だったそうよ」
「事故……?」
「……乗っていたのは親子三人。運転席の父親と助手席の母親は殆ど即死だったらしいわ。
そして唯一、後部座席に座っていた男の子だけが辛うじて一命を取り留めたの……」
 そこでようやく俺達は事の深刻さを知ったんだ。
 話の流れからしてその生き残った奴ってのがタイラなんだって事はすぐに分かった。
「……そして退院した後、その子──白沢君は親戚を頼って清浜(こっち)に引越して来た
というわけ」
 分かるでしょう? と言わんばかりに、真剣な顔付きで俺達を見ていたその時の先生の顔
は、今でも記憶に残ってる。
「多分だけど、白沢君が周りの子と上手くいっていないのはご両親を亡くしたショックが今
も彼を苦しめているからじゃないかと思うの。だから……黒田君達も、あまりその事は刺激
しないであげてちょうだいね?」
「……はい」
「分かり、ました」
「りょーかいっす……」
 俺達は互いに顔を見合わせてから、重々しく頷いていた。
 まだガキだったから本当に分かってたかは怪しいが、それでも俺達はその時、あいつの触
れちゃいけない所に手を伸ばしたらしいって事には子供心ながらに感じ取ってたんじゃない
かと思うんだ……。
「…………」
「!? し、白沢君」
「えっ……!?」
 だから、偶然職員室にやって来たタイラ本人にその一部始終を聞かれた時は、
「……吉川先生から預かってきた書類です。どうぞ」
「あ、う、うん。ありがとね……」
「……」
「あ、その。白沢……」
「……他人(ひと)の事を穿り返してそんなに面白いか?」
「あ、いや、俺達はそんなつもりじゃ……」
「では失礼します。先生」
「え、えぇ……」
「……」
 正直もう、
「……。聞かれちまったみたいだな」
「あぁ……。やばいんじゃねぇか? 流石に」
「うぅむ……」
 修復不可能になったかもしれないとまで思ったな。
 ──だけど、それでも俺達はできるだけ今まで通りにタイラに接するように努めた。
 まぁ、タイラは相変わらず俺達の誘いに乗っては来なかったけど……。
 確かに聞き出してる所を見られたのは気まずかったよ。だけど、あいつの過去にあんな事
があったからって今更身を退くのは、どうもできなかったんだ。
 むしろ、やっとあいつの背負っているものが分かったから。やっと本当の意味でスタート
を切れたんだっていう意識が強かったのかもな……。
「あいよ。五百八十円な」
「オッケー。じゃあ……六百円っと」
 そして事件が起きたのは、それから暫くしてからの事だった。
 その日、俺達は知り合いのおっさんがやってる古本屋へ漫画を買いに来てたんだ。
「よ~っし、今週号ゲット!」
「なぁ、なぁ、早く読もうぜ?」
「じゃあ誰ん家に行こうか?」
「そうだなぁ……。ん?」
「? どしたよ、イッセー?」
「あぁ……」
 目当てのものを買い終えて、店先を出たちょうどその時だった。
「……あれ、白沢だよな?」
「え? 何処だ?」
「ほら、あそこだよ。今ビルの横から出てきた……」
「お……。ホントだ」
 俺達は偶然、近くの建築中のビルの前を通り掛かってるタイラの姿を見つけたんだ。
 ん? あぁ……そうだよ。あの頃はちょうど例の開発計画がスタートしてあちこちでビル
が急ピッチで建てられてた時期だったからな。それ自体、田舎者だった俺達にとっても大分
普通の光景になりつつあったな。
 でも……そこで俺達は遭遇したんだ。今も記憶に残ってるぐらい強烈な奴が。
「何処行くんだろ? それとも家が近いのかな」
「さぁ? ついでだ、声掛けるか?」 
「あぁ……そうだな。お~い、白沢~っ!」
 あいつの姿を認めて、俺達が遠巻きから声を掛けた、その時だったんだ。
(……ん?)
 最初、感じたのは妙な悪寒だった。
 弱い風が吹いたんだが、それが妙に生温くて気持ち悪くてな。それで俺は、ふと視線を持
ち上げてみたんだ。
「──ッ!?」
 嗚呼、今も思い出せる……。
 あの時、まるで計ったみたいにビルの傍にぶら下がってた鉄骨が、支えのワイヤーをぶち
切って今まさに落ちようとしていたんだ。
 世界が、スローモーションみたいな感覚になったよ。
 グォンッと空気を押しのけて落ちる鉄骨の音とか、ほぼ同時に異変に気付いた皆の殆ど悲
鳴みたいな声とか。
「……そうか」
 だけど、それ以上に。
「……やっぱり僕も、邪魔なのか」
 今まさに真上から落ちてくる鉄骨を妙に落ち着いてじっと見上げてるタイラの姿が、今も
記憶にこびり付いてるんだ……。
(あの野郎ッ!?)
 次の瞬間、俺は駆け出してたよ。
 後先なんて考えてなかったな。ただこのままじゃアイツが死ぬ。それだけは直感が知らせ
てくれた。それと同時に俺の身体はタイラに向けてダイブしてたんだ。
『イッセー!?』
 でも正直言うとさ、その前後の詳しい記憶は曖昧なんだ。
 ガキが経験するにはあまりに強烈なものだったからなのかもしれない。衝撃とか爆音とか
砂煙とかで、あの瞬間の光景が最初ちゃんと認識できてなかったのかもしれねぇな。
 気が付いた時には、俺はタイラを突き飛ばして地面に転がってたんだ。
 そのすぐ後ろ、ついさっきまでタイラの立ってた場所には馬鹿みたいにでかい鉄骨が突き
刺さってたよ。アスファルトの地面があり得ないぐらい陥没しててさ……。もう少し飛び込
むのが遅かったら、間違いなく二人とも死んでたろうな……。
「……痛ぅ。げほ、ごほっ、す、砂煙で、咽る……っ」
「お~い、イッセー! 白沢ぁ!」
「大丈夫か!? 生きてるかっ!?」
「あ……あぁっ! 何とか……げほっ、生きてる!」
 もう周りは大パニックだったらしい。まぁ、当然の反応だよな。
 そん時の俺は悲鳴やら砂煙や何やらで視界不良の中で、聞こえてくるダチ達の声に応える
ので一杯一杯だったけど。
「…………」
「!? そうだ、白沢!」
 その一方で、タイラは俺のすぐ脇で地面に仰向けになってぼっ~としてた。
「お、おい、大丈夫か? 生きてるか? 動けるか? 怪我ないか?」
 俺はその吐息を耳にして思い出したように近寄ったんだが、
「…………どうして僕を助けた?」
 あんな時でも第一声がそんなだったっけ。
「どうしても何もあるかっ! お前、もうちょっとで死ぬとこだったんだぞ!?」
「……あぁ。そうだな」
 だけどあの時のあいつは動じてる様子は無かったように思う。
 何だかじっと、傍のビルのずっと上を見てたみたいだったが、俺が同じように上を見上げ
た時には何もなかった。途中で切れたワイヤーがぶら下がってるぐらいだった筈だ。
「そうだろうじゃねぇよ……」
 だけど何ていうのかな。俺はあの時、タイラが何故か“諦めてた”ように見えたんだ。
「何で避けなかった!? もし俺がいなきゃ、あのまま潰されてただろうが!」
「……その言葉、そっくり君に返す。あの状況で飛び込めば、君だって死んでいた可能性は
十分に予想できた筈だぞ」
「知るかよ……。気付いたら、走ってたんだ」
「……。無謀過ぎるな」
 だからなのかな。次の瞬間、あいつの放った言葉に俺はカッと頭に血が上ったんだよ。
「……あのまま、死なせてくれればよかったんだ」
「──ッ!? てめぇっ!」
 擦り傷だらけの痛みも忘れて、俺はタイラの首根っこに掴み掛かってた。
「お、おい、イッセー……!?」
「お……落ち着けって!」
 集まり始めた野次馬の視線にも、その中を抜けてやっと駆け寄ってきたダチ連中の言葉も
まるで意識に入ってこなかった。ただタイラの言った言葉が、俺の中で燃え上がるように駆
け巡って殴る寸前まであいつを睨み付けてたんだ。
「もう一度言ってみろっ! 死なせてくれだ? ふざけんなっ!!」
「…………」
「……ッ」
 だけど……。あの時のあいつの眼は怖いぐらい冷たかった。
 分厚い硝子って程度の比喩じゃすまねぇ。自分の周りの世界を拒絶してる眼だった。
 本当にこいつは本気であの瞬間死んでもいいと思っていたんだって分かったよ……。
 だからこそ怖かったし、だから反動みたく怒りに歯止めが利かなくなったんだと思う。
「…………僕は、いない方がいいんだ」
 ぽつりと搾り出したあいつの言葉に。
 次の瞬間、俺はタイラの頬を引っ叩いてた。全力で引っ叩いてた。
 ぐらっと揺れたあいつの身体を視界に映して、初めて自分が手を上げた事に気付いたよ。
『……』
 世界が、しんと静かになったんだ。
 タイラがそっと頬を押さえながら静かに目を細めて俺を見てた。周りの連中も何も言えず
に俺を見てた。視線が俺に刺さってた。
「……ざ、けるな」
「……」
「ふざけるなっ!」
 もうそこからは殆ど爆発した感情そのまんまだったな。
 その所為か俺自身は記憶が曖昧なんだけど、
「いない方がいい? んな訳ねぇだろ……っ!」
「…………」
「この世の中に、いなくていい人間なんかがいて堪るかよっ!!」
 後から聞いた話じゃ、その時の俺は相当鬼気迫ってた様子だったらしい。
 暫く、タイラは黙ってた。何も反応しなかった。
 相変わらずその眼は冷たくて、俺達を見ているようで見ちゃいない。ただただ、じっと何
も言わずに首根っこを掴んだ俺に成すがままになってたんだ。
「…………畜生。何で、だよ」
「……?」
 もう滅茶苦茶だった。
 命がけで助けても礼一つ無い。別にそういう算段があって動いたわけでもねぇけど、正直
タイラのその頑なさには憤りを通り越して泣きそうになったよ。
「お前は何でそんなに、そんなに冷たい眼ぇしてばっかりなんだよ……っ!」
 いや……。
「……ショックなのか? 親父や御袋が死んで……。だから自分もいっそ同じようにいなく
なっちまえばいいとでも思ってるのかよ……?」
 地面をガンガン叩きながら、俺は実際後の方はボロボロ泣いてたんだそうだ。
「生きていいのに理由なんているのか? なきゃ駄目なのか……? 親じゃなきゃ駄目なの
かよっ……!?」
「……」
「そりゃあ、親より先に死ぬってのは親不孝だっつーけどさ……でも、何もお前が死んで悲
しむのは親だけじゃねぇだろーが……」
 そうなんだ。
「ここに、いる! ここにだって、お前が死んだら泣いちまう奴がいるんだよっ!!」
 俺はいつの間にか願っていたんだ。
 タイラをただ皆と仲良くさせてやりたいだけじゃなくて、俺自身も、タイラとダチになり
たかったんだ。
「…………」
 タイラは黙ってた。じっと、拳を胸に当てて叫んでいたっていう俺を見つめたまま。
「……君は」
「?」
 そして首根っこを掴む手が緩んだ俺から、そっと離れて呟いたんだ。
「君は、お人よし過ぎる。何も……知らなさ過ぎる」
 まぁ、相変わらずの憎まれ口だったよ。冷静過ぎるっつーかなんつーかさ。
「でも……」
「……な、何だよ」
 でも、やっと。ほんの少し口元にちょっとだけだったけど。
「……そういう馬鹿は、嫌いじゃない」
 あの時確かに、あいつはゆっくりと立ち上がりながら笑ったんだ……。
 ──それから後の事はもう、大変だったよ。
 救急車が何台も来たり、警察に事情聴取されたり、テレビのカメラを向けられたり本当に
混乱を絵にした騒動っぷりだったな。俺とタイラは事故の被害者って事になってたから、別
に死んでるわけでもなかったのに救急車に担がれて病院に直行。心配して皆が付き添ってく
れたけど、診断結果は多少の軽症以外は異常なし。まぁ、一応念の為に何日か入院させられ
る事になったけど。
 でもそれよりも痛かったのは、駆けつけてきた親父と御袋のカミナリだったっけ……。
 ん? いや、怒られる事がじゃねぇよ。親のいないタイラにそういう「家族」を見せちま
うのが気まずいかなってガキなりに思ったからさ……。
「よっ、タイラ」
「いよっ」
「野球しようぜ、野球」
 でも、それが転機になったのかもしれない。
 事故の一件の後から、俺達の誘いに徐々にタイラが乗ってくるようになったんだ。
「……また君達か」
「人数が足りねぇんだ。頼むよ~」
「……僕はあまりスポーツは得意ではないんだが」
「いやいや、お前の頭で上手い事相手を負かしてくれって事さ。この前だってお前のアドバ
イスのおかげでうちのチーム、大勝利だったじゃん?」
「……それは君達がしつこく頼んでくるから野球の理論を調べてきただけだ。別に僕がとい
うわけじゃない」
「そんな事ねぇよ。お前じゃなきゃできないんだって」
「な? 今回もバシーンと頼むよ」
「……やれやれ。気は進まないが」
 まぁ、それでも大抵は渋々といった感じだったけど。
「よ~し、じゃあ行こうぜ。これで今回も大勝利間違いなしだ!」
『お~っ!』
「……。どれだけ理屈を知っても、慢心があれば負けるぞ?」
 だけど、以前に比べれば俺達はずっと打ち解ける事ができるようになった。
 学年が進んでいっても無愛想なのは相変わらずだったけど、俺達とつるんでる事で以前み
たいに露骨に苛められる事も少なくなっていった。タイラからも、あいつの頭の良さのおか
げで色々なピンチも乗り越える事ができた。
 色々な事はあったけど、俺達はやっと本当の友達になれたんだ──。

「……ふわぁ。お二人にそんな過去があったんですねぇ」
 そんな一聖の昔話に耳を傾けること暫し。
 奈々子は何かを感じ取ったのか、そう少々大仰に呟いていた。
「……ま、今こうして話すと小っ恥ずかしいけどな。あの頃は俺もガキだったしよ」
 その反応に照れくささを覚えたのか、当の一聖は手の中の熱燗をチビチビと呷りながら苦
笑いを漏らして言う。
「そうですか? 私は何だかいいなぁって思いましたよ? 先輩は今も昔も変わってないん
だなぁって」
「……それは褒めてるのか、貶してるのか」
「え? 勿論、褒めてるに決まってるじゃないですか~」
「……そうなのか? まぁいいけど」
 お互いつまみを口に運び、くいと酒を一口。
 静かな店内。ゆったりとした時間と余韻が二人を満たしていく。
「……ふふ」
 そんな二人の様子を、語られた昔話を、悠美もまた見つめ、耳を傾けていた。
「黒田君は、そんなに昔から白沢君と付き合いがあったのね」
「えぇ。まぁ……」
「え? 悠美さんは知らなかったんですか? 先輩は常連さんなんだから、私はてっきりも
う聞いた話なのかと思ってましたけど……」
 奈々子は再度ビールを口に運び、ジョッキを空にしていた。
 そしてそう言葉を投げ掛けてきた彼女に、悠美は上品に口元へ手を添えて、
「いいえ、初耳よ。二人がお友達だって事は知っているけれど」
 柔和な微笑みを見せて答える。 
「……ま、そんな胸張って話す事でもねぇしな」
「そうですかねぇ」
「ふふ……照れ臭いのよ。ね、黒田君?」
「……。まぁ、な」
 さっと水を向けられ、一聖はわざとらしく視線を逸らせていた。
 コップに口をつけたまま、ぼそっと呟いて返事に代える。
「……でもこうして二人の昔話を話してくれるのはありがたいわ。白沢君ったら、中々自分
の事を話してくれないんだもの」
 そして悠美がそう言って笑った、次の瞬間だった。
「…………」
 いつの間にか、その大良本人が悠美の傍らに立っているのに三人は気付いたのだ。
 何か文句を言いたげに三人を見つめる細めた眼。その眉間には小さな皺も刻まれている。
「うぉ!?」
「ビ、ビックリしたぁ……」
 思わず一聖と奈々子は座ったまま反射的に身を引いていた。
 悠美の方も「あら?」と言った感じで微笑はそのままに彼を見遣っている。
「……余計な事は、話さなくていい」
 そんな三者の反応には関心を払う事なく、大良は一抹の不快さを滲ませて呟いていた。
 少し心持ち力を込めて、厨房内、悠美の手元で完成していた残りの品を一聖と奈々子の前
に並べていく。
「もう過去の話だ。振り返る必要なんて、ない……」
「……ま、まぁそうだよな。お前にしちゃ、嫌な思い出も混ざってるわけだし……」
「で、でもっ」
 静かに呟く友の心情を慮り、控えめになる一聖。
 だが反対に、奈々子は少し力んだ声色でぐっと拳を握ると言い放った。
「たとえ昔は苦労してても、今は清大の院生さんにまでなってるじゃないですか。それは立
派なことですよ? 白沢さんは、もっと胸を張ってもいいと思いますっ」
「……」
 ぐっと目に力を込めた彼女と、淡々とした大良の視線がぶつかった。
 ほんの僅か、数秒。奇妙な力の綱引きがそこで行われたように。
「……イッセー。君は本当に変わり者ばかり連れ来るな」
「そんなつもりはないんだが……。まぁ確かにナナが変なのは認める」
「ええっ!?」
 やがて大良は僅かな嘆息をつきながら再びごそごそと動き始めた。
 目の前に揃ったつまみの品々。それを前に真顔で頷く一聖と大仰に反応している奈々子。
大良はちらとそんな二人を、そして自分を見遣って微笑んでいる悠美を一瞥して静かに視線
を逸らしていた。
 背後で賑やかになる二人の声。微笑みを忘れぬ女主人の眼差し。
 店内の雰囲気が、しっとりとしたそれから柔らかな温かみに変わっていく様な気がする。
「白沢君」
 そんな変化から背に向け置き捨てて、仕事に集中しようとしたその時、不意に悠美が呼び
掛けてきた。
「はい……?」
「今夜はもういいわ。貴方も黒田君達と一緒に飲んだらどう? 今夜も、約束しているんで
しょう?」
「……。ですが、女将」
「大丈夫。貴方のお陰でお客さんも捌けちゃってるし。後は私だけでも十分よ」
 ふふと笑いながら、悠美はのほほんとした様子でそう促してくる。
 その言葉に大良は最初渋っていたが、
「……分かりました。では、お先に失礼します」
 ややあって小さく頷くと、そっとエプロンを外して彼女に手渡した。
「ささ、黒田君、奈々子ちゃん。白沢君も混ぜてあげてね」
「お? もういいのか?」
「……あぁ。ちょうど客も空いてる。あとは女将が任せろと」
「そっか。じゃあ飲め飲め。あ、悠美さん。俺と、タイラの分の酒もよろしく」
「……焼酎の水割りで」
「あ、私もビールのおかわりお願いしま~す」
「は~い、ちょっと待っててね」
 厨房内で準備する悠美と入れ替わるように、大良が一聖の隣席に着いた。
 カウンターの上の料理をつまみ、熱燗を分け合いながら、彼を加えた三人は暫しとりとめ
もない雑談に興じて酒のおかわりが来るのを待つ。
「は~い、どうぞ」
「ども」
 熱燗とビールと焼酎と。
 ややあって三人の前に注ぎ直した酒が並んだ。カランと、氷が静かに溶けて音を鳴らす。
「じゃあ、乾杯しましょう、乾杯」
 そしてジョッキを持ち上げ、奈々子が嬉々として音頭を取り始めた。一聖と大良も、一度
互いに顔を見合わせ、コップを、グラスを手に取る。
「ええっと、今夜は白沢さんとの出会いに……あ、それは私だけか。えっと、う~ん……。
あぁ、もうっ、何でもいいや。とにかく乾杯ーっ!」
「ははっ、乾杯!」
「……乾杯」
 テンションを上げていく奈々子と、それに愉快に笑って応えてみせる一聖と、あくまでも
淡々とした調子を崩さない大良と。
 長年の友と、先輩・後輩。
 築いたその縁を祝うようにして。そしてその様子を微笑ましく眺めている悠美もいて。
 カチンと。
 三人の杯が合わさり、小気味の良い音が静かに店内に響いた。

 それから数時間後。
 繁華街の夜はすっかり更けていた。行きは会社帰りのサラリーマン達で人の波ができてい
たが、今はそれが引き潮のように落ち着いたものになっている。それでも街を照らすネオン
の光だけは相変わらず騒々しく、派手なままだ。
「ふぃ~……ひっく」
 結局、三人はまとやの閉店時間まで飲み明かす事となった。
 途中、時折忘れた頃にぽつぽつとやってくる客(その殆どが常連の類だった)があったも
のの、悠美が相手をしていたので大良がアルバイト店員に戻る事もなく済んだ。
 それは友と飲める場をという、彼女なりの気遣いでもあったのだろう。 
『……時々思うよ。果たして僕がここにバイトに来ている必要性があるのだろうか』
 ただ当の大良本人は酒の勢いも手伝い、そんなぼやきをこぼしていたのだが。
「おいおい大丈夫かよ……。全く言わんこっちゃない。飲み過ぎるなっつったろうに……」
 そして今、一番酒の入った奈々子を両脇から支えながら、まとやを後にした一聖と大良は
ネオンの光が衰えぬ繁華街の表通りまで戻って来ていた。
「だ~……大丈夫、れふ。これしきの~……ひっく、酔いではワシは倒せぬぅぅ~!」
「……駄目だな」
「あぁ……」
 元から陽気な彼女だったが、こう酔ってその歯止めが無くなると堪らない。
 淡々と、ふらつく足取りで進む奈々子の進路を後ろからそっと修正するのを繰り返しなが
ら静かに呟く大良に、一聖は呆れを隠さずに大きく溜め息をついて応える。
「すまねぇな。いきなりこんな騒々しいのを連れてきてさ」
「……気にしなくていい。客が来ればその分店も潤う」
 またふらっと車道側に傾く奈々子の肩をぽんと反対側に押し返し、大良は何ともないとい
う感じで言った。わずかに見上げ、ネオンの光が怜悧な瞳に飛び込んでいく。
「それに……。たまにはこういうのも、悪くない」
「……そっか」
 一瞬、一聖は驚いたように眼を丸くしていたが、すぐにニッと笑っていた。
 そして暫く、二人は千鳥足の彼女をエスコートしながら繁華街の中を進んでいく。
「あ、もうダイジョーブれすよ~、先輩。ここまでふれば帰り道はわふぁりますから~」
「ん? そうか? だけどなぁ……」
 そして繁華街のメインストリートを抜け、夜相応の風景となった街並みに差し掛かった所
で、ふと奈々子が二人にそう告げてきた。
「お前、ベロンベロンじゃねぇか。大丈夫か? ちゃんと帰れるか?」
 だが一聖は思わず渋面を見せ、改めて確認するように彼女にそう問い掛ける。
「大丈夫れふよ~。もふ、わたひ大人なんれすから~」
「……呂律の回ってない声で言われても説得力ねぇっつーの」
 しかし結局、一聖と大良は繁華街最寄りの駅前の一角で奈々子と別れる事にした。本人が
そう言っているのだし、無理に同行しなくともいいだろうという判断だった。
『ナナ、実家暮らしだそうだからな。流石に……アレだろ』
『……何がだ? 一応君の部下だろう? 連れ出しておいて何かあったら責任は君が負う事
になるんじゃないのか』
『……。ほんと、頭は良くてもそういう事には疎いよな、お前』
『? 何の話だ?』
 道中、そんな会話をこそこそと交わしつつ。
「では~……これより乾二等兵、帰還しますっ!」
「お、おう……。気ぃつけてな……」
「……気をつけて」
「はい~、ごちそうさまでした~! さよーならっ」
 相変わらずほろ酔い状態のまま、ビシッと敬礼のポーズを見せて立ち去っていく奈々子。
 その後ろ姿を見送りながら、二人は暫しその場に立っていた。
「あだっ!?」
 と、駅前の人ごみの中、遠くで奈々子が通行人とぶつかるのが見えた。
 ふらふらとしながらも頭を下げている。相手は彼女が酔っていると分かったらしく、若干
引いた様子で彼女から離れるとそのまま歩き去っていった。
「……やっぱ、家まで送った方がよかったかなぁ」
「……その方が確実ではあるだろうな」
 まばらになった駅前の人の波の中に紛れ込むように、遠くに消えて見えなくなっていく彼
女を見送りつつ、一聖が苦笑する。大良も淡々としたまま同意を示した。
「ま、いいか……。俺達も行くかね」
「あぁ」
「飲み屋、まだどっか空いてるといいんだけど……」
 そして、やがて二人が踵を返しその場を立ち去ろうとした、その時だった。
「……む?」
「…………」
 瞬間、二人の表情がピンと張り詰めたように真剣なものに変わる。
 もぞもぞと。
 二人の鞄の中で、何かが蠢き始めていた。

 辺りは夜という時間本来の静けさの中に包まれていた。
 奈々子は一聖達と別れた後電車に乗り、自宅最寄りの駅を降りて一人夜道を歩いていた。
 繁華街からはすっかり離れ、ネオンの光は皆無になっていた。代わりに在るのはぽつぽつ
と設置された申し訳程度の街灯ぐらいである。
 清浜の、開発の波の中で埋もれた旧来の街並み。
 決して大きくない家々が身を寄せ合うように建つそのわずかな隙間にねじ込んだかのよう
に、それらを圧倒するビルがあちこちで背丈を競い合うかの如く鎮座している。ちらと視線
を上げれてみれば、まだ明かりが灯っている窓がいくつも見えた。
 開発生まれ変わったこの街は、本当によくこれだけ変貌してしまったものだと思う。
「~♪ ~♪」
 それでも奈々子は変化への慣れとほろ酔い気分と、今日の酒の席の思い出を胸に鼻歌交じ
りの上機嫌を保っていた。
 電車に揺られ、微かな夜風に当たり、酔いの方は醒めてきてはいたが、胸の中でほんのり
と揺らめく妙なこそばゆさは今も持続していた。
 久しぶりに先輩と飲みに行けた。
 酒類が好きな事もあるが、やはり飲むなら一人より二人、二人よりも三人。多い方がいい
と思う。お酒は楽しく飲むべきだと思うのだ。
『……ま、今こうして話すと小っ恥ずかしいけどな。あの頃は俺もガキだったしよ』
 酒の肴にと一聖が話してくれた彼の過去。
 だけど今と変わらない、ちょっと荒っぽいけど優しい心根が聞いていて微笑ましかった。
その場に居合わせた訳でもないのに、酒の勢いも手伝って自分も何だか嬉しくなっていた。
 街の見た目は随分変わってしまった。でも、人と人が触れ合える絆はまだこの街には残っ
ているんだ。そう、確認できたからなのだろう。
「…………」
 だからこそ。奈々子は肩に引っ掛けたバッグに視線を落として思った。
 いくら噂話だと突っ撥ねられても、実際にこの街で悲しむ人がいるのなら、悲しませる誰
かがいるのなら……。私はそれを放っておく事はできない。
(な~んて。これ、先輩の言葉そのままじゃん……)
 自分なりの正義感なのか、単に一聖の影響を受けているのか。
 奈々子はふっとその内なる声を聞いて思わず顔がにやける。
「……明日も、頑張ろう」
 そして己に言い聞かせるように呟いて。
 再び決意を新たに歩き出そうとした、その時だった。
 ────オォォォ……。
 それは不意に頬を掠めた生温い風と、微かな何かの音。
「……んぅ?」
 奈々子は思わず踏み出そうとした足を止めて、その方向に目を向けていた。
 歩道の脇、家々の隙間に林立するビル群の更にその隙間。街灯も無く、光も満足に届かな
い場所なのだろう。不意にその暗い闇が静かに迫ってくるかのような錯覚が奈々子を包もう
とする。思わず、ごくりと息を飲む。
(……空耳、かな?)
 そう思いつつも、奈々子はその隙間、路地裏への入り口の方におずおずと近寄っていた。
 あの瞬間、身を過ぎった風と音。
 何かの……呻き声のような音。
 野犬か何かだろうか。だとしても、それにしては随分粗野な気がしたが……。
「……ま、まさかね」
 ふと、脳裏に過ぎったもの。
 それらを奈々子は殆ど反射的に振り払っていた。脅えで引きつり始めていた苦笑のままで
路地裏に背を向け、その場を離れようとする。
「…………」
 その背後の闇の中で、不気味に赤く光る双眸に気付く事なく。
「──ッ!?」
 次の瞬間、奈々子は強烈な力で引っ張られていた。
 ガクンと身体を伝う衝撃。ほんの数秒の出来事。それが何かが分からぬまま、奈々子はた
だその強烈なエネルギーのベクトルに身を委ねざるを得なかった。
「あぐぅっ、いだぁっ……!」
 身体が、浮いた?
 やっと自分が何者かに引きづり込まれ、放り投げられたと気付いた時には彼女の身体は既
に路地裏のがらくたの中に沈んでいた。
「いづづ……」
 身体に伝わってくる痛み。冷え切ったアスファルトの感触。
 だが幸い、路地裏の放置されたダンボールの山に落ちたらしく大きな怪我を負う事は免れ
たようだった。それでも感電のように身体を駆けていく痛みの余韻は強烈で、奈々子は思わ
ず顔をしかめながらも、ダンボールの山に埋もれた自身の身体を引っ張り出す。
「うぐ……。な、何? 一体誰よっ!?」
 そして突然の暴挙を向けてきた相手に何か一言言い放ってやろうと、バッと顔を上げて声
を張ろうとした、その瞬間だった。
「…………え?」
 思わず、固まっていた。
 誰かが立っている。ざっと見て二メートルはある巨体。
 いや、大きさではない。ふっと冷静さが頭の片隅を走り去る中で急速に回っていく思考。
 自分は小柄なのは確かだ。だが、いくら何でもこれほどまでに軽々と大人人間一人を放り
投げられるような腕力を持つ者が果たしているものなのか……?
 だが、そんな僅かな冷静な思考も次の瞬間には吹き飛ぶ事となった。
 路地裏の闇に、頭上の雲から顔を出した月の光がそっと注がれた。すると奈々子と少し距
離を置いて立っていたその人影が照らされる。
「!?」
 否、それは“人”ではなかった。
 背格好そのものは人間だ。だが、その身体は明らかに常人離れした隆々としたもの。
 何よりも、奈々子を見つめるその顔のパーツ等は、凶暴なる猪のそれだったのである。
 ──まるで、怪人だ。
 次の瞬間、奈々子の脳裏に先ず過ぎったのはそんなワンフレーズだった。
 同時に、背筋がサァッと凍り付いた。身体に残っていた酔いも、まるで逃げ惑う鳥の群れ
よろしく慌しく立ち消えていくのが分かる。
(ま、ま、まさか……。本物っ!?)
 いるわけがないと思っていたわけではない。だが、それでも取材をしていても怪人の存在
に対してはやはり都市伝説という「距離」を自分との間に置いていたのだと思い知った。
 だが、そんな距離は今ゼロに限りなく近くなっている。
 本物の怪人が……化け物が、自分の目の前にいるのだから。
「……」
 猪のような怪人は時折、フシュフシュと荒い鼻息を漏らしながらゆっくりと奈々子の方へ
と近づいて来ていた。
「ひぃ……っ! こ、来ないでぇっ!」
 奈々子もその不気味に響く足音に合わせて、腰が引けたまま後退っていた。
 だがそれでも怪人は歩を緩める事はない。一歩、また一歩と彼女への方へとにじり寄って
くる。
「……う?」
 震える手がコツンと壁に触れる感触がした。
 ちらと見遣ると、そこは行き止まりだった。
「ひぐ……っ!」
「…………」
 全身に恐怖が駆け巡っていた。
 走って別の道を逃げる。それすらできない。震えで身体がいう事を聞いてくれなかった。
 その間にも怪人は距離を詰め来る。一歩、また一歩。既に巨体を見上げなければならない
程にまで迫ってきていた。
 隆々とした獣の肉体。ざっくりと裂けた口元。そこから生える鋭い牙に、深く真っ赤に光
る奈々子(えもの)を狙う野獣の眼。
「たっ……、助け……」
 声まで引きつって。それでも眼が離せない。
 次の瞬間、瞳に映ったのは、ゆっくりと振り上げられた怪人の片腕で……。
「──ったく。よりにもよってナナにかよ」
 声がした。
 暗がりの中を歩いてくる足音が一つ……いや、二つ。
「……やはりちゃんと送っておいた方がよかったな」
「いや……。いくらなんでもこうなる事までは予想できねぇだろ」
 路地裏の暗闇の中を、一聖と大良が歩いていた。
 肩を並べ、真剣な表情のままそう、二言三言と言葉を交わしている。
「だけどまぁ、今夜だったのが幸いだな。俺達が……守ってやれる」
「……そうだな」
 そして二人は足を止めた。
 一聖は後ろ髪を括っていた紐を解き、大良はそっと眼鏡を外してポケットへとしまう。
 顔を上げる二人の雰囲気は、普段とは比べ物にならないほど別人のものだった。それはさ
ながら戦いに赴く高潔な戦士の如く。
「いくぜ、相棒」
「……あぁ」
 二人は懐に手を伸ばし、あるものを取り出した。
 カチャリ。僅かに金属の擦れる音が路地裏の闇の中へと静かに溶けていく。
 ──それは掌サイズよりも少し大きめの、奇妙な円筒型の物体だった。
 縮んだゴムのように数段にくびれた形状をした底蓋と、先端に取り付けられた硬質めいた
金属の小玉。そこには何かの差込口らしき貫通した穴があり、更に筒本体には銃器の引き金
のような部品が付随している。
 一聖のそれは金の本体に紅い小玉。大良のそれは銀の本体に蒼い小玉。
 夜闇の中でうっすらと光沢を放ちながら、それらは二人の手の中に収まっていた。
「ゴルダ!」
「来い、シルヴィ!」
 二人は同時に叫んだ。手にした円筒型の装置(デバイス)を掲げて。
「よっしゃあ! 行くぜっ!」
「はい、マスター!」
 するとその声に応えるようにして背後の暗がりから何かが飛んで来た。
 ──もし一言で形容するならば、コウモリ型のロボットが二機。
 角が丸みを帯びた長方形のフォルムの両側に、九十度に反転したL字型の金属の翼がピコ
ピコと羽ばたいていた。顔と胴体という区別はないようで、ボディ自体にランプのように灯
る小さな眼と牙を生やした口がデフォルメされて備わっている。
 快活な少年の声で応えたのは、金色のボディに紅い眼をしたコウモリ。
 真面目そうな少女の声で応えたのは、銀色のボディに蒼い眼をしたコウモリ。
 二機はそれぞれ、一聖と大良の頭上に漂い、止まる。
 そして彼らはくるっと身体の向きを九十度変えて二人に対して垂直になった。
 同時に、彼らの両翼は格納され、替わってそれぞれ棒状のコネクタと二段構えの銃口がせ
り出てくる。それでも浮力を失わない彼らはその形態になったまま、一聖と大良が掲げる円
筒の側面、小玉の差込口にコネクタをジョイントさせて合体する。
 その姿は、あたかも拳銃のようなシルエットを連想させて。
『変身ッ!』
 一聖と大良が、同時に宣言する。
 するとそれを合図に、紅い小玉と蒼い小玉が点々と発光し始めた。二人の姿は靄をかけた
ように歪み、揺らめいて、何かの力に包まれるように辺りの空気を振るわせる。
 この間、僅か数秒。
 次の瞬間には、二人はその包む靄を払うようにして、別人へと姿を変えていた。
 一聖は黒いコートに金色の髪をした、紅い眼の銃士へ。
 大良は白いコートに銀色の髪をした、蒼い眼の銃士へ。
『……』
 そして二人は互いに小さく頷き合うと、同時に地面を蹴って跳躍する。
「──グァッ!?」
 振り上げた怪人の腕に、多段の銃撃が炸裂した。
 夜闇に火花が散り、猪のような怪人は思わず短い悲鳴を後退る。
「らぁっ!!」
 だがその隙をついて、真横から一聖と大良が飛び蹴りを放っていた。
 虚を衝かれてもろに二人の一撃を受けた怪人は吹き飛ばされ、ゴロゴロと地面を転がる。
「……よっし!」
「……」
 ストンと、姿を変えた一聖と大良が奈々子の前へと着地した。
 小さくガッツポーズを見せた一聖はそれでも警戒は解かず銃口を怪人へと向けながら、
「ヴァイス(白)。容態は?」
 そっと彼女の前に屈み込んでいだ大良にそう呼び掛ける。
「……。バイタル計測完了しました。異常ありません」
「どうやら直前で気絶したようだな」
「そっか……。よかった」
 ちらと二人が目をやった奈々子は、既にがくりと頭を垂れて気を失っていた。
 大良と彼の銃身になった銀のコウモリ・シルヴィの返答を聞いて、一聖はほっと胸を撫で
下ろしたように安堵の言葉を漏らす。
「グ……、ギギッ……!」
 だがその面持ちも、身を起こした怪人の呻き声で再び緊張したものへと変わった。
『……』
 二人は数歩、凶暴な眼差しを向け、荒く息をつく怪人の方へと進み出た。
 そしてその場で気を失ったままの奈々子を庇うように、怪人との間に割って入り肩を並べ
て立ちはだかると、スッとその銃口を向けて言い放つ。
「さぁ、てめぇの在るべき姿に」
「……還って眠れ」

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止します。

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