日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)ユウキのヒカリ〔5〕

 争いは……嫌いだ。
 それは理屈じゃなくって多分心の、もっと生理的な反応なのだろうと僕は思っている。
 できる事なら誰かと争いたくなんてない。もっと平穏に毎日が送れればささやかでも幸せ
ではないだろうかと思う。
 だけど、現実はそんな簡単にはいかない事も僕達は知っている。
 今日もまた世界中で、国同士やら民族・宗教間、ひいてはもっと小さな範囲での紛争が起
きているという事実は今更僕が語ることではないかもしれないけど、実際には広狭を問わず
争いというものは日夜尽きる事はない。
 世界規模の平和祈願……というのも、現実的には凄く無責任な理想論なのかもしれない。
 だって、僕達にできることは小さいから。結局は自分の身の回りにあるものを守ることで
精一杯な場合が多いと思うから。
 だからせめてそれぞれが自分の周りにあるものを守り、満ち足りる事が限界だし、本来僕
達が弁える程度……領分ってやつなのかもしれない。
 それでも、やっぱり現実は厳しい。
 自分自身。自分の周りのもの。それを守るために、より得ようとするために、自分だけが
満ち足りようとするばかりに、他の誰かを踏みつけて、傷つけて、弾き出してしまう僕ら。
 それがあらゆる諍いの、紛争の火種になってしまう事に気付いている筈なのに、それでも
気付かぬ振りをして邁進してしまう。
 何処かで分かっていても止められないは人の性なのか。それとも、もっと淡々としたシス
テマティックな部分にあるのか。多分両方なのだろう。多分お互いが、色んなところで絡み
合っているのだろう。
 僕達は、一度もつれ始めた糸を解けずにもがくだけなのだろうか。

 ──僕には、二人の幼馴染の女の子がいる。
 姉の方は笑顔が明るくちょっと悪戯っ子っぽくて、それでいて決して憎めないお姉さん。
 妹の方は大人しくて控えめだけど、内に持っているものは決して冷淡ではない良い子。
 そして……二人とも物凄く強い武術の家系に生まれた少女武術家であったりする。
 小さい頃はちょっと皆より腕っ節があるなくらいの認識だったけど、成長に従い、その家
名と実力の特異さを認めざるを得なかった。
 二人とも、悪い子じゃない。それは曲がりなりにも長い付き合いだから断言できる。
 それでも……やっぱり僕は未だにあまり武術家としての二人を喜べないでいる。
 ただの暴力と武術は違う。そう理屈では、頭では分かっているつもりでも、戦う彼女達の
姿を見る度にその届かない決定的な距離が見えるようで居た堪れなかった。どうであれ、彼
女達に無用に争っては欲しくなかった。
 それは昔、僕自身が彼女達と同じ土俵に立とうとして結局は逃げた事にもあるだろう。
 僕に笑いかけてくれる、微笑みかけてくれるけれど、戦う時の二人の横顔は何処かそうし
た普段のものとは違う気がする。素人の僕には決して向けられないであろう表情(かお)。
 住む世界が違うのだろうか。何度もそう思った。
 何度、いっそこのまま距離を取ってしまえば楽になるだろうと思ったことか。
 それでも……僕はできなかった。失くしてしまう事が怖かった。
 だって、たとえ「普通」とは違う部分を持っているとしても、もう二人は僕の「普通」の
一部……いや、なくてはならない存在になっていたから……。
 数え切れないくらいこの身が引き裂かれそうになる心地を経験しながらも、僕は二人の傍
に居続けた。何とかその後姿に追いつこうとしてきた。
 それは、執着なのだろう。僕もまた自分の身近な世界を必死に守ることにしか心を向けら
れない、それぐらいしかできない人間なのだろう。
 
 ちっぽけな願いだろうと思う。
 でも、小さいからこそ僕らでも手が届くのだとも思うんだ。
 お互いに小さなその願いを大切にして胸に抱いていれば……きっと、もっとたくさんの人
が幸せになれるのではないだろうか。
 それは決して、誰かを傷つけることで、奪い取ることで得る幸せじゃなく。
 小さくたって、大切な人達が笑顔でいてくれれば……いつか、きっと。
 だから。
 願わくば、あなたが穏やかな光の下で笑っていられますように……。


 第五話:それは心のヒカリ

(……誰だ?)
 優紀達の行く手を遮るようにして、その少年は入り口に背を預けてこちらを見ていた。
 目付きが鋭い。好戦的というわけではなく冷淡さを垣間見せるような瞳の気配。揺らぐよ
うな様子はなくそこには静かな強さが湛えられているように思う。
 慎重は優紀よりも高め。すらっとしている。だが痩せぎすではなく、大吉のように体格が
がっしりとしたものでもなかったが、無駄な肉がついていない綺麗に鍛えられた身体つきを
しているように見える。多分だが、自分よりも年上。舞子と同年代だろうか。
 少なくとも、優紀は視線の先に佇むこの少年に見覚えはなかった。
 そもそも着ている服が──制服が違っていたのだ。
 彼の着ていた服装は紺色を基調とした暗めで落ち着いた色合いの学ラン。更にその上に同
系色の薄地の上着を羽織っていた。
 ちなみに優紀達、武ヶ原学園の制服は白やベージュが基調となっている。部活にでも出て
いたのか、休日なのに制服姿である理由は判然とはしなかったが、少なくとも学園の生徒で
はないようである。
「……」
 暫くの沈黙の後、少年がゆっくりと身を起こしてこちらに向き直った。
 数歩。言葉を発するものがいない所為かやけに倉庫内に響く足音と共にこちらへ近づく。
「──う……ぁ……」
 その時、彼の足元に転がっていた件の少年達の一人がようやく意識を取り戻した。
 痛みを訴える身体に少し痙攣気味に震えながら、ぼうっと仰向けの体勢でこの少年の横顔
を眺めていたのだが。
「! つ、月城さん……!?」
 恐ろしいものをみたかのように、急に血相を変えて少年が慌てて身を起こしてズザザッと
後退ったのである。驚かれた当の本人はその漏らした声に応えるわけでもなく、ちらと目だ
けを遣って彼を見下ろしている。
 知り合い、なのか?
 優紀はそのやり取りを見て思った。それにしてもこの反応は一体……。
「……目障りだ」
 変わらず冷たく鋭い目付き。
 月城と呼ばれたこの少年はほんの僅かだけ目を細め、
「さっさと失せろ」
 短く、まるで刑を執行するかのような、静かでそれでいて強烈な威圧感と共に呟く。
「ひっ……ひぃぃぃっ!!」
 そして弾かれたように飛び上がり、そのまま大慌てで外へと逃げ出していく少年。
「…………」
 月城はその後姿に一瞥すらくれることもなく、スッと視線を優紀達に戻していた。
 沈黙。僅かに眉根を寄せている大吉、ゴクリと唾を飲むセーラ。舞子と奏に両側を支えら
れて、優紀はこの見知らぬ少年の真意を量りかねていた。
「……今回は」
 ぼそっと、月城が沈黙を破り始める。
「うちの馬鹿どもが面倒をかけたようだな」
 一応の謝罪なのだろうか。しかし、言葉こそ謝罪と取れなくもないが、発せられた声色に
はまるでそんな気持ちは読み取れない。
 むしろ彼の視線、鋭い目付きには目の前で転がっている(おそらくは)同胞達への冷淡な
蔑みの態度すら滲ませている。
『弱い奴ならやられて当然だ』
 そう瞳が語っているような気がした。
「ふぅん。知り合い? 彼らとは」
「……まぁな」
「そう」
 舞子が軽い調子で訊ねる。返って来る無愛想な返事。短く頷く彼女。
「じゃあさ」
 と、ぐぐっと舞子の声色が重くなった。
 思わず優紀は彼女を見遣ったが、少なくともその横顔自体は笑顔のまま。しかしそれでも
何処となく静かに少し影が差しているような気もする。
「ユウをこんな目に遭わせた黒幕って……君?」
 いや、間違いない。舞姉、怒ってる。 
 間近の静かな殺気に思わずびくついた優紀の逸らした顔。だがその視界の隅に今度は奏の
横顔が映る。
「…………」
 彼女もまた、静かに殺気立って目を細めていた。
「……こんな馬鹿どもと一緒にするな」
 だが月城は心外だと言わんばかりに片方の眉をくいと上げてそう答える。
「こいつらが勝手にやった事だ。俺は後をつけてきただけさ」
「そう。ならいいんだけど」
「……本当ですか?」
「ああ。嘘は言っていない」
「……そうですか」
 無関係。その返答に舞子も奏も込めていた殺気を収めたようだった。
 だが、それでも二人は警戒感までは解かない。大吉とセーラも。
「あの。後をつけてきたって、それはどういう……?」
 優紀が皆に代わって気になった彼の台詞について訊ねる。
 尾行していた。彼はそう言った。だとすればそれは何の為に? 少なくとも少年達を止め
ようという気ではなかった筈だ。こうして舞子達に全滅させられる、いや、大吉が乗り込ん
で来る前にそれはできた。なのにそうしなかったのだから。
「言葉の通りだ。そいつらが何かやらかす算段をしているのを聞いたのでな」
 それは自分に復讐する計画の事だろう。
 優紀はこくと頷く事で彼に先を促す。
「……別に弱い奴が群れているのをどうこうしようとは思わなかったんだがな。弱い奴は弱
いなりに足掻く権利ぐらいはあってもいいだろう?」
「…………」
 床に転がったままの少年達と特攻服男達を見下ろしながら、月城は淡々とそう言い放つ。
 優紀は静かに目を細めていた。そう……貴方はそういう人なのか。
「だが、聞き耳を立てている内に事情が変わった」
「?」
 そう言って彼はくいっと僅かに顎を引いた。
 視線が動いた? 誰を……。
「そいつらが口にしていた名前だ。お前達だよ、佐々岡姉妹」
 向けられていたのは舞子と奏の二人。彼女達もセットで呼ばれた事に何か合点がいったか
のように、心持ち目を細めて月城の視線と交わらせる。
(……まさか)
 優紀もややあってその可能性に気付き、思わず嫌そうな表情を漏らす。
「お前達の噂はかねがね聞いている。佐々天心流の血筋を継ぐ猛者姉妹……」
 そこで月城は始めて口元に僅かな笑みを見せた。
「奴らが何をしようとしていたのかその時には分からなかったが、泳がせておく事にした。
上手くいけば、お前達と相見えることができるかもしれないと思ってな」
 じゃあ、尾行していたというのは……舞姉と奏に接触する為?
 優紀はこの不穏な少年の言葉を聞きながら、胸の奥の方が小気味悪くざわつき始めるのを
感じた。
「そして今日、奴らが動き出したと聞いて様子を窺いに来てみたらどうだ? 案の定、お前
達はこうしてやって来た」
 再び静かに不適な微笑。
 月城は一歩また一歩と足を踏み出し、止まる。
「……佐々岡姉妹。是非、お前達と戦ってみたい。手合わせ願おう」
 やっぱりそれが目的だったのか。
 二人への挑戦者。それも結構熱烈な。
 優紀はこの月城という少年の行動原理に不可解さを覚えながら、それと共に既に満身創痍
でいう事を聞いてくれない身体と力のなさに改めて後悔の念を抱かずにはいられなかった。
「…………気に入らねぇな」
 代わりに先んじて答えたのは大吉だった。
 先程まで黙って耳を傾けていた彼だったが、両手のトンファーを握り締めつつ、ツカツカ
と月城の方へと歩いていく。身長差で大吉は勝っていたが、ついと見上げる月城の眼光は全
くと言っていいほど弱まってはいない。
「話は大体分かった。が、それでもお前は二つの事を見逃した……いや、見捨てやがった」
「……」
 苛立った声色。無言で見返す冷たい眼。
「一つ。てめぇんとこの連中が今回の事を話し合ってたってのに、耳にしたお前は止めよう
とすらしなかった。てめぇ自身の目的の為だけに」
 ぴっと指を一本立てて、
「ついでに。連中をつけてた俺を、更にてめぇがつけてたってのもだ」
 倉庫内に響く大吉の声。
「二つ。優紀が危険な目に遭ってるってのに──」
 そしてもう一本、立てる指を加えると、
「てめぇが何もしなかったって事だっ!」
 叫びながらトンファーを振り被って殴り掛かったのだ。
「!?」
 突然襲い掛かっていく大吉に、優紀は思わず息を呑んだ。セーラも短く声を上げて何か言
ったようだったが英語だったので何と言ったのかまでは分からない。
 舞子と奏が、キッと表情を引き締める。
「──……」
 だがその一撃は結果的に成功する事はなかった。
 大吉が振り被った刹那、月城の手がさっと懐に伸びる。僅かに耳に届いた、金属のたわみ
伸縮する音。そして目にも留まらぬ速さで手首を返して振り抜くと、
「──ッ!?」
 ピタっと。月城の手に握られた何かが、打撃を叩き込む直前の大吉の喉元ギリギリに突き
付けられていたのだった。
「……ぬぅ」
「……」
 驚いたようにその体勢のまま動きを止める大吉。
 その表情をじっと冷たい眼で見つめている月城。
「は、速い……デス」
 その早業に目を見開き呟くセーラ。
「うん……。でもあれって……」
 そして優紀も頷きながら月城が握っているそれに眼を凝らす。
「棒?」
 それは長い棒だった。色は深い黒一色。身長大はあるであろう長さのそれを、月城はあの
一瞬で取り出して大吉に突き付けてみせたというのか。
「……正確には節棍ですね。多節棍です」
「多節、棍……?」
 あの一瞬の早業が見えていたのか、奏がぽつりと補足を入れてくれる。言葉は丁寧だった
が、何処となく機嫌は悪そうにも見えた。
 棍……多節……。たくさんの、棍棒?
 確かによく見てみると、握られた棍棒には等間隔に節らしき繋ぎ目がある。
「ある程度の長さの棍棒を鎖などで繋げたものです。使用時はああやって内部からパーツ同
士を繋いだ状態になります。使わない時も締まりを緩めておけばある程度折り畳めますので
持ち運びも容易です」
「……ええっと。それって合体する長いヌンチャクみたいなもの、って事でいいのかな?」
「……大雑把に言えば、そんな感じでしょうか」
 一度ちらりと優紀を見遣ってから、奏はまたじっと二人の方へと視線を戻す。
 セーラも「cool weaponデスね」と呟きながら、少しわくわくした感じになって同じく成
り行きを見守っている。
「…………ふぅん?」
 優紀のすぐ隣で、舞子が静かに息を漏らしていた。
「……邪魔だ」
 まるで大吉の話など聞いていなかったように、月城の目はあくまで舞子達の方を映してい
るように見えた。面倒臭そうに、彼は突き付けた棍棒をそのままに、大吉に一瞥をくれて静
かに呟く。
「お前に用はない」
「くっ……」
 それ以上動いたら……今度はその喉をぶち抜く。
 そう言っているかのように、彼の目付きは相手を射殺しそうな鋭さだった。
「大吉君」
 舞子が短く声を掛けてきた。トンファーを握る右手を振り上げたまま、大吉はゆっくりと
彼女の方を振り返った。そして静かに首を横に振る舞子。
「ま、舞子さん……。で、でもこいつはっ」
 その合図に、大吉は顔をしかめて叫ぼうとして声を詰まらせていた。
 ぐっと唇を噛み締め、ちらりと優紀の方を見遣ってくる。
(……大ちゃん)
 大吉は許せなかったのだろう。
 いくら初対面とはいえ、いくら自分の目的の為に佐々岡姉妹が現れるのを待っていただけ
だと言い張っているとはいえ、人が──親友が危険な目に遭っているというのに何ら動かな
かった。その行動に憤懣やる方なかったのであろう。
 優紀は思わず苦笑しながら、この身も心も大きい親友を見つめた。
「いいから下がりなって。それに、私の記憶に間違いがなきゃ……そいつはそこら辺のチン
ピラとは訳が違うよ? 正直言って、大吉君じゃあ荷が重い相手だ」
「…………分かり、ました」
 そんな舞子の神妙な顔を見てか、大吉はか細く頷き、不承不承といった感じでそっと月城
から離れていった。それでも、離れ際にぐっと彼を睨み付けておく事は忘れずに。
「……」
 だが、当の本人はそんな視線などまるで意に介していないかのように佇んでいた。
 ヒュンとその身の丈大の棍棒を振ると、だらりと片手に握って提げる。
 彼と舞子の視線がぶつかった。
 無言だったが既に火花が散っているかのように優紀は錯覚する。
 大吉という徒弟にあやうく手を出し掛けたからか。分からないが、舞子も既に月城が只者
ではない事には気付いているらしかった。
「月城、鋭い目付きの節棍遣い、そしてその制服……」
 ぽりぽりとうなじを数度掻いてから、
「君、御影台の月城朔也だね?」
 舞子が確認するように訊ねる。
 するとその言葉に、当の本人・朔也は少し驚いた様子を見せた後、
「……俺を知っているのか」
「まぁね。私もこの立場上、君みたいな連中の情報はあちこちから入ってくるものだから」
「そうか……。光栄だな」
 今度こそ嬉しそうな、だが不敵な笑いを静かに浮かべていた。
 ヒュッと、棍棒で指差してくるようにして朔也は改めて問う。
「ならば話は早い。手合わせ……して貰うぞ?」
「……そうだねえ」
 舞子は小さく息をついて僅かに苦笑していた。
 あれ? 妙だな。いつもなら割合嬉々として挑まれる戦いは買う人なのに。
 確かに無用な戦いを避けてくれるなら嬉しいけど……。
 優紀はちらりと彼女の顔を見上げて思う。
『……』
 目が、合った。
 優しい眼だと思った。強くて頼りがいのある、いつもの舞姉の表情。
 だけど、何だか若干いつもと様子が違うように思うのは自分の気のせいだろうか……。
「ま、いいよ。受けようか」
 だがそれも僅か数秒。舞子はふっと笑って朔也に向き直るとそう応える。
「大吉君の言う事も間違っちゃいないからね。ちょいと灸を吸える意味でも、ね」
「……舞子、さん」
「…………」
 また両者の視線がぶつかっていた。無言の、鍔迫り合い。
「カナ」
 そして視線はそのままに、舞子は奏にも声を掛ける。
「いいよね?」
 朔也からの挑戦状は佐々岡姉妹に対するもの。つまりは奏も含まれるという事。
「……うん」
 一体何を想っているのか。そして奏も静かに同意を示す。
「……セーラさん、大吉さん。兄さんをお願いします」
「お、おぅ……」
「ハイです」
 そう託してから前へと歩いていく奏、そして舞子。
 優紀は交替に大吉とセーラに支えられながら二人の後姿を見送る。
 自分から離れていく直前、覗けた彼女達の横顔。笑みの舞子と真剣な面持ちの奏。
 それらはこれまで何度も見てきた表情(かお)。戦いに身を置く際に見せる武術家として
の一面。闘争心を宿す瞳の強さと色彩。
 優紀には手が届かない、そして向けられる事のない彼女達のもう一つの表情。
(舞姉、奏……)
 心配と無力感が綯い交ぜになった胸のざわつきを心の内で宥めつつ、優紀が言葉なく見つ
める中で、二人と朔也は互いに適度な距離を置いて立ち止まった。
 ゆっくりと構えられる拳と木刀、そして節棍。静かな緊張の気配が辺りに満ちていく。
「──ふっ!」
 やがて引き絞るように溜め込んだ力を放つように、朔也が地面を蹴る。
 同時に舞子と奏も、得物を引っ下げて駆け出す。
 それは、優紀の目の前でまた一つ争いの口火が切られた瞬間だった。

 拳と木刀、節棍。三つの得物と三つの力がぶつかり空気が震えた。
『…………』
 力の押し合い。数の上では二対一。だが舞子の拳と奏での斬撃、その両方の軌道を朔也は
一瞬の間に読み取っていた。真っ黒な直線のように、身の丈大の棍の向きを瞬時の判断の中
で調整し、二人の一撃を防いでいたのだ。
 先ずは防御に徹させた分、舞子と奏が一歩先んじる格好であろうか。
 だがそれも束の間、朔也が僅かに動く。
『……!』
 棍の一瞬の揺れ。舞子と奏はそれを見逃さなかった。
 二人が身を交わして飛び退いたと同時、大きく空間に弧を描くように軌道を描いた朔也の
棍が勢いをつけて振り回される。反撃と同時に敵を弾き飛ばす。長物故にできる芸当。
 舞子と奏は床の上をズザザッと滑りながら、既に両脚に力を込めていた。
 長物の利点。それを何も二人は知らないわけではない。
 拳や刀剣よりも長く、広い範囲をカバーできる点。それ故に攻守の切り替えのタイムラグ
を縮められるという点。近接剣闘が距離を詰めなけば攻撃の届かない以上、彼の棍棒のよう
な長物相手は基本的に不利だ。だが、
「破ッ!」
「──ッ!?」
 それはあくまで理屈だけの話。実際はそれぞれの武器を如何に当人が活かすのか、その技
量が大きく勝敗を分ける。
 小柄な体格を活かし、奏が一気に距離を詰める。振り被られた木刀。
 速い。しかし一瞬眉間に皺を寄せた朔也がぶんっと横薙ぎに振るった一閃を、奏は踏み台
にして飛んでいた。
 フェイク。空中で身を捻って、見た目の印象を遥かに超える威力の斬撃が飛んでくる。
 だが朔也は振りぬいた直後の棍から一瞬手を離し、軽く押すベクトルに任せるままに垂直
に起き上がろうとしたその得物をまたすぐさま握って彼女の一撃を防ぐ。そしてまた今度は
逆の端を持ち上げて空中の奏に一撃。しかしそれもまた、彼女は両脚で蹴り返して押し返す
とその間に着地、二撃目・三撃目と連続。
 ガキンと金属と堅木のぶつかる音が響く。
 少し下がりながらも、朔也はその一撃一撃を棍で巧みに受け流し、再び手首を返して棍先
を彼女に振り下ろす。だがそれも、目まぐるしい速さで立ち回りながらもしっかりと相手を
観察する事を怠らない奏相手には空振りに終わるだけだった。
「──私も」
 すると、朔也の視界の隅に掠める影が一つ。
「忘れなさんなよっ!」
 死角から回り込んできた、舞子の唸りをあげて繰り出される拳。
 そうか。つまり妹の方は陽動。速さで撹乱しつつ、決め手の攻撃は破壊力により勝る姉に
任せようという魂胆か。
 奏とは逆方向に向いた棍先を跳ね上げ、舞子の顔面へ。振り被ったその体勢を崩そうと試
みる。だが朔也の案の定、彼女は瞬時に反応し、キュッと短くギリギリの間合いで一歩下が
ってこれを回避する。そして間髪入れずにその突き出すつもりだった拳を掌底に変えると、
時計回りに身を捻って彼の棍をぐいっと重心の外側へと押し出そうとする。
 引っ張られる。だが、そう悟るよりも早く、同時に放った舞子の背中と回し蹴りが飛んで
くるのが目に入る。
「──ッ!」
 しかし朔也の反応も負けてはいない。左足を後ろへ半円を描くようにして半身を捻って顔
を仰け反ると、彼女蹴りが顔面のギリギリの所を掠めていった。
「──……」
 だがそこで休ませてくれるような彼女達ではなかった。
 今度は奏が、朔也のちょうど背中、左手方向から回りこんでくる。
 今度はさっきと逆に身を捻るか? いや、それでは姉の方と面と向かう。間違いなく彼女
の拳か蹴りが飛んでくる筈。
 ならばと、朔也は外側に押された勢いのままに棍に同ベクトルの力を込めた。
 朔也を中心としてちょうど棍が半円を描くように。起点は舞子の立つ位置。そこから横薙
ぎに棍を振り、斜め前から真右へ奏に一撃を放つ。
 ギィンッ!
 だが、彼女は落ち着いて真横からの一閃を木刀で受け止めていた。それでも目はしっかり
と朔也の方を向いている。勢いのまま振り被り、何とか彼女を間近から引き離す。
「こっちがいるよっ」
 そして続けざまに手首を返して、逆の棍先で背中を向けた回し蹴りから半身を返して向き
直り再び拳を振り被ろうとする舞子の前進を払い除ける。
 朔也の右に奏、斜め左前に舞子が、それぞれ朔也の振り回した節棍の軌道から離れて一旦
距離をとった。
(…………流石は佐々岡の者だな。流れるようなこのリズム、実に心地いい)
 急速な三者の立ち回り。だがそれも実際の時間は十数秒程度の僅かな時間。
 朔也は両目の視界の隅に二人を捉えながら思った。
「ふぅむ……」
「…………」
 そして舞子と奏もまた、この挑戦者の中々にいい動きに素直な感心を抱いていた。
(それに。もしかして彼は……)
 僅かな間の小休止と思考を終えつつ、再び二人は同時に朔也へと飛び込んでいく。
 先ず朔也は奏の斜め下からの切り上げを一方の棍先でいなし、それでも伝わってくる衝撃
をの強さをぐっと堪えながら手首を返して木刀もろとも自分の正面に移し変える。更にそれ
と同時に繰り出された舞子の拳を両手持ちでかざして突き出した得物で正確に防御すると、
一歩だんっと踏み込んで殴打を打つ。
 だがそれも交わされ、入れ替わるように真横の位置になった奏からの連続した斬撃を振る
われる。これは受け流す時間も惜しい。それでもいなす体勢は取りながらも数歩後退しなが
ら回避を行い、間隙を縫って横薙ぎの一撃。防ぐ奏を弾いて飛び退かせる。
『…………』
 佐々岡姉妹を一方向に戻して、朔也は彼女達に向き直った。
 再び両者の間に下りる沈黙。数十秒の攻防とはいえ、相当な運動量と瞬発力の消費の筈な
のだが彼女達に疲れた様子は見られない。
 それは、まだまだイケる自分も同様だったが。
(……やっぱり、みたいね)
 拳を構えてその様子をじっと窺っていた舞子は静かに仮説を確信に変えていた。
 ちらりと隣の妹を見る。言葉こそなかったけれど、横目で見つめ返してきた眼差しと僅か
に頷いたことから、やはりこの子も勘付いているらしい。
「──ふっ!」
 脇腹に逆手持ちの棍先を引き寄せて、朔也が地面を蹴った。舞子と奏もそれに応じて再び
飛び出し、斜め下からの突き上げと広域防御を兼ねた一閃に立ち向かう。
 木刀と両手掌底。二つの防御姿勢が木と金属、そして拳の音を混ぜて空中に衝撃音をこも
らせた。それも止まぬ間に、続けて持ち替えた持ち手で二人を横凪ぐ一撃。
「よっ、ほっ……」
「ん……」
 相手の間合いの長さと広さに留意しながら、二人は棍を交わし、いなし、時に防ぎつつ、
身体が覚えている相手の体勢とその時の隙となる部分を見出しては反撃する。そんな攻防が
何度となく繰り返された。相手も然る者だ。それでも中々有効な一撃とはしてくれないよう
でそうした反撃、攻勢に対しても冷静に対処している。
 やはり……間違いない。
 舞子は確信を持ってこの挑戦者の動きを観察する。対応して立ち回っていた。
 そもそも、人間を武術家とそうでない者(素人)に分ける要素は何処にあるのだろうか?
 状況によってもその答えは色々あるだろうが、大きな要因が一つ挙げられるだろう。
 それは──「蓄積」の差だ。
 人が誰かと戦う時、多くの場合は瞬時の判断によって身の振るい方を決する。そしてそれ
は多分に「個人的経験」を糧にしているケースが多いのである。
 これに対し、武術は違う様相を見せる。同じように状況に合わせて瞬時の判断を行うこと
には変わりない。だが彼らは更にそこに「蓄積」を用いるのだ。蓄積といっても先に述べた
個人的経験を指すのではない。佐々天心流なら佐々天心流の、流派として「過去から続いて
きた」蓄積を加えるのである。
 武術が流派として残っているという意味は、ただ単に武名としての看板だけではない。
 そこには少なからず、先人達が残してきた戦闘にまつわる知恵が集積している。そして更
に当代の者達がそれらを受け継ぎ、必要であれば改良を加え、そしてまた次代に繋ぐ。
 長い歴史、そして高い向上心を持てば持つほど、それだけより多くの人々の探究や実践の
結果──もっと言うならば彼らの武術家としての人生そのものを、各流派はその内に大量に
抱いていることになる。
 同じ「蓄積」という表現をとっても、そこには個人的なものと歴史的なもの、一か多数か
の大きな違い、その判断材料自体の絶対量の差があるのである。
 故にプロの武術家という人種が素人よりも強いのは──勿論日頃の鍛錬が欠かせないこと
は言うまでもないが──既にその身に大量の武器を備えているからなのだ。知恵、情報とい
う名の受け継がれてきた蓄積が意識下、無意識下で共に彼らに大きなアドバンテージを与え
ているのである。
(だけど……っ!)
 何度目になるか分からない朔也の棍を受け流し、反撃を加えて距離を取らせながら、舞子
はそれでもと思う。
(完全なんてものは、この世には存在しない)
 確かに先人達の英知は偉大であると言っていい筈ある。
 だが、それも時の流れと共に流派という形はやがてマイナスの側面も帯びうるものなのだ
という点もまた事実だ。どんなに優れていても、それを使いこせなければ宝の持ち腐れだ。
 それは「型」の存在。歴史的な蓄積を一定の形にまとめ上げられた末のもの。それはある
意味流派にとっての証、アイデンティティにもなり得るものだろう。
 しかし絶対に固定化するもの、永続するものなどないのがこの世の道理だ。
 偉大と叫びつつも、それらが内包していく「負」に真摯に目を遣らず適切な手を講じずに
威を借りて居座り続ければ……いずれ、他の力に破られてしまうのが末路。
 そしてそれは何も「型」だけの話ではない。世は無常の理によって動いている。
 故に、武術を修める者同士の戦いにおいて仮にその技量が互角でさえあれば、勝敗を分け
てしまうのは如何に相手の「型」を見極め、その穴を衝くかにあると言える。
 だが──。
「はっ……!」
 奏の斬撃が軌跡を描く。薙ぎ、突き、払い。
 それでも朔也は喰らい付いて来ていた。彼女の一撃一撃を彼は受け、いなし、防ぎ切って
いた。それはあたかも奏でられた音に合う別の音を組み込んでいくかのよう。
 ──そんな要素とはまた別の戦い方がある。
 詰まる所、流派や型とは理屈……経験的知識の解釈の積み重ねである。当代の者達はそれ
を借りてから鍛え出し、自分の戦い方を作っていく。
 だが、もしそれを真逆の方向から極めていけばどうなるのか。
 そこには決まった「型」などはない。ただ徹底的に研ぎ澄まされた瞬間瞬間の判断力とそ
れらを確実に実行に移す心身の技量が最大唯一の武器となる。
(要するに彼は──)
 奏の攻撃に加勢する舞子。それでも朔也は変幻自在の如く節棍を振るい、相手の動きをそ
の意図から外させる。もし相手が修正をしてきてもまた対応する手を打つ。それだけ。
 我流。それもとことん突き詰めた。
 型を持たない故に、型に囚われた戦い方をする相手の穴を効果的に狙い打ちてる。
 逆に、同じく型を持っていない相手なら純粋に技量の勝負に持ち込める。だが、おそらく
この少年はそんな場合であっても相手のリズム、スタイルの穴を衝いてしまうだろう。
 それだけの技量を備えているのがこの月城朔也という少年なのだ。そう舞子はこの戦いの
中で彼の戦い方の性質を見抜いていたのだった。
 多くの場合、我流の蓄積だけでは流派の持つ歴史的な蓄積(知恵)の絶対量の前に屈する
ものだが、彼は違っていた。何処でどんな場数を踏んできたのかは推測の域を出ないが、こ
の少年はやはり只者ではない。そう思わされる。
(……厄介だなぁ)
 大きく振られた棍。それを交わして飛び退き、また間合いを取り直す舞子と奏。
 しかし相当攻撃を打ち込んでみた筈だが……どれもこれも対応されてしまっている。
 末恐ろしい戦闘センスだ。常道の逆を貫き通す事で、ここまでの域に達するか。
「……どうした。佐々岡姉妹」
 節棍を構えたまま、朔也の鋭い眼差しが二人を捉えている。
「下手に打ち合っても時間の無駄だ。何故、本気を出さない……?」
「……う~ん。そう言われもねぇ」
「……」 
 確かに無駄ではあったけどね。
 舞子は思わず苦笑しながらこの挑戦者を見遣る。
 君の言う通り、今の「ギア」じゃあ君の対応できるレベル内らしい。このままで戦い続け
てもいずれは消耗戦という形になるだろう。スマートな戦法ではない。
(どうしたもんかな……)
 ちらりと、背後に立っている幼馴染の姿を目に映す。
 優紀は大吉とセーラに支えられた格好で、やはり心配そうな表情でこちらを見守っている
ようだ。向き直り、舞子は思案する。
 毎回本気を出したら相手がもたないという部分は、ある。
 それは妹共々、道場で鍛えてきた成果ではあるのだが、強さは責任を伴うものでもあると
舞子は思っている。拳を交えるのは武術家としての愉しみだが、その度相手に重症を負わせ
てしまうのは元より本意ではない。
(それに、ユウがここにはいるし……)
 いやむしろ、それこそが大きな理由だった。
 幼馴染の少年。弟のような存在。
 彼が無用な争いを好まない、止めたいと願う穏やかな心の少年である事は、舞子も、そし
て奏もよく知っているつもりだった。
 だから仮にこうして戦う事になっても、彼の前ではできる限り穏当に済ませられるように
と意識してきたのである。
 武術家としての欲求と、大切な人の想いとを鑑みた妥協。
 だが、この目の前の相手はそれだけでは退いてくれそうにはないようだ。
 仕方がない……か。
「……カナ。ギア上げるよ」
 ポキポキと拳を握って鳴らしながら、舞子は隣の妹にそう告げる。
「技も使おうか。だけど『型』に囚われないようにね。もっと柔軟に行こ」
「……分かった」
 コクリと頷く奏。木刀を握るその手に静かに力が篭り、対峙する朔也を見つめる目付きが
すっと細くなった。
「……それでいい。佐々岡の本気はこんなものじゃない筈だ」
 そして彼女達の決断に、当の朔也も不敵に口角を吊り上げている。
(それに。早い所片をつけないとね……)
(早く兄さんの手当て、しなくちゃいけないから……)
 再び構えて機を見る三者。
 次の一手からは更なる高みへ。先程よりもより苛烈な攻防になる……。
 全身に持てる力を滾らせて暫しお互いの出方を窺い、
『──!』
 三人は同時に地面を蹴っていた。

「す、すっげぇ……。あの野郎、あの二人相手にあそこまで……」
「ハイです……。私なんて奏サン一人でも、もう息絶え絶えデシタのに……」
 彼女達の攻防を離れた位置で見守りながら、大吉とセーラが思わず呟いていた。
 朔也を中心に円を描くように振るわれた棍。目にも留まらぬ速さで立ち回り、攻防の関係
も入れ替えていく三人。確かにこれはもうチンピラの喧嘩というレベルではない。
「…………」
 そんな光景を優紀は二人に支えられながら見つめていた。
 また、起きてしまった。
 何度遭遇しても心の底ではどうにも慣れない自分を感じ、優紀は周りの世界がどんよりと
暗く重くなっていくような心地がした。
 舞子と奏に挑もうとする挑戦者達。その殆どはあっさりと敗れて去ってしまっていたが、
こうして素人目にも長引くような相手もたまにいる。
 早く終わってくれればこんな気持ちも尾を引きにくくなるけれど、屈服させられたその姿
を見るだけで胸が苦しい。かといって、今のように長引いて欲しくもない。相手の事もそう
だが、それよりも舞姉や奏の事が心配で堪らない。
 二人とも強い。こんな自分よりは遥かにずっと。
 それはこれでもかというほど分かってはいるが、自分からすれば彼女達が大切な幼馴染の
姉妹であるという事実は変わることはない。
 それに……差別とまでは言わないけど、やっぱり二人は女の子なんだ。できれば、普段の
生活くらいは平穏に……。静かに暮らしたって罰は当たらないんじゃないかと思う。
 それも、自分の押し付けがましい言い分なのか。
「──カナ。ギア上げるよ」
 そう舞子の声が聞こえてきた。
 また、一層熾烈に争うというつもりか。それほどの相手……。
 一瞬、彼女が自分を見ていたような気がしたが、優紀は頭の中、胸の奥で渦巻く心配やら
心苦しさやらで頭も身体もいっぱいいっぱいだった。
 次の瞬間、またぶつかる舞姉・奏と朔也。
 がっしりと重い威力を物語る空気のざわめきが肌をかすめていったような気がする。素人
なのでこうだとは断言できないが、何となくセーラとの試合で見せた奏の気迫を見て思った
感触に似ている。いや、もしかしたらあの時以上かもしれない。
 やめてくれ……。こんな戦いなんて、やめてくれ……。
 止められないと分かっていも心の中でそう叫んでいる。自分が無力で、それは多分に過去
に彼女達の「力」の世界に近づこうとしたものの怖くて逃げ出したという負い目も含まれた 
何処か我侭な懇願であるという事だって分かっている。
 それでも、やっぱり僕は……。
「──はぁっ!」
 激しい打ち合い。
 既にではあったが、彼女達の攻撃速度はもう優紀には霞んだ何かくらいにしか見えなくな
っている。続いて聞こえる衝撃の音。彼女達が立ち回る度に擦れる床の摩擦音や、粉をまぶ
したように中に入り込んできている外の土の砂粒のせわしなく転がる微弱な無数の音。
 目の前で起こっている事なのに、何処か遠い世界の出来事のような。
 それだけ、今自分はまた彼女達と住む世界が違っているんだと感じているのだろうか。
「佐々天心流……」
 ズザザッと飛び退いた身体を踏ん張ってブレーキをかけながら、奏がさっと木刀の構えを
変えた。居合いの格好? いや、もっと後ろ腰に回している。
「群飛蜂(ムレヒバチ)!」
 目にも留まらぬ速さの抜刀。振りぬかれた腕。一瞬でよく見えなかったが、残像のように
見えた腕の動きがくねって見えた。
 舞子の拳を防御して後ろに下がった朔也にめがけて風の塊のような飛ぶ斬撃が襲う。
 それも一つではない。二つ、三つ、四つ、五つ……段違い位置違いの、多数の飛ぶ斬撃。
「──くっ!」
 弾け飛び退きながらも、朔也は隙を狙って打ち込まれた佐々岡の技をしっかりと目に捉え
ていた。足が地に着いた瞬間、身を捻り、跳ねながら彼は敢えてその連撃の中へと飛ぶ。
 軌道と威力を帯びた空間。それらを一瞬一瞬で把握し、そして交わす。まるでバレエの舞
のようにテンポ良く。己がセンスに身を委ねて。
「せいっ!」
「……ッ」
 飛ぶ斬撃達を交わしきると、朔也は半身を捻りつつ棍を奏に向かって振り下ろした。
 ガキンッ! 奏の小さな身体と頭上に持ち上げた木刀がその一撃を受け止める。すかさず
手首を返して受け流し、朔也の着地ざまに一閃。更に追いついてきた舞子が後ろから拳を突
き出す。それでも彼はその二人のほぼ同時の反撃に対応し、少し大きめに身を退いて彼女達
に虚空を描かせてみせる。
「…………技も出た。本気出してきたな、二人とも」
 大吉がぐっと拳を握って固唾を呑みながらその攻防を見つめていた。
 セーラはこくこくと頷きつつも、若干顔つきが険しい。奏との試合での事を思い出してい
るのだろう。しかもあの時より弾数も多い。当然の反応かもしれない。
 優紀は無意識の内にぐぐっと口を結んでいた。
 全身から訴えてくるまだ残る先刻のダメージの蓄積。だがそんなものすら意識に上り切っ
て来ないくらいに、今の彼の胸の内にはもやもやとした辛さばかりが募っていた。
(舞姉、奏……)
 覗く幼馴染達の横顔。いや、戦う者の顔。自分とは違う世界の住人の顔。
 だけど、普段から真面目な奏はともかく、舞姉の表情も心なし真剣さを増しているかのよ
うにも見える。戦いを愉しむ感覚よりも相手の力量に驚いて気を引き締めているのか。
 僅かにそんな小さな疑問が過ぎったが、優紀にとってはそれは些細な事に思えた。
 こうして自分の目の前で争いが繰り広げられている事、何よりその当事者に舞姉と奏が関
わっている事がずしりと心を重くする。
 また、今回も自分は争いが終わるのをじっと耐えて待つしかないのか……。
「ふっ……!」
 目の前で続く、三者の攻防。
 響く打撃、斬撃の音。入れ替わり立ち替わりの目まぐるしい展開の速さ。それでも素人目
ではあっても二人が本腰を入れて、そして相手の力量に警戒している雰囲気が伝わってくる
かのようだ。
 奏が撹乱、舞子が一撃。或いは状況によっては役割を逆に、また或いは同時に踏み込み。
 姉妹ゆえの息の合った連携。だが対する朔也も、その攻撃の雨霰を確実にしのいでは反撃
そして攻勢に転じようとする。
 隙を作り、こじ開けようとする彼女達とさせまいとする朔也。
 互いに有効な一撃が入っていない点では膠着状態。だが数の利もあるのだろう、若干だが
佐々岡姉妹の方が押しているとも取れる戦局。
「──……」
 奏が優紀達の少し離れた位置へと回り込んでいた。
 拳を、続けて蹴りを打ち込んで来る舞子を防ぎながら、朔也もその動きにちらと横目で注
意を注ぐ。舞子を弾いて退かせる。
 そして三者が、舞子と奏が朔也を挟むようにして一直線上に並んだ。
「……佐々天心流」
 その時だった。
 ぐっと姿勢を低くし、奏が再び構える。木刀の切っ先は地面擦れ擦れに。地面と平行にし
て僅かに浮かせた格好。相手が至近距離にいたなら足元をすくう動作かと思われた。
「龍波(タツナミ)ッ!」
 だが、その優紀の思考も一瞬のこと。
 次の瞬間には、奏がその姿勢から突き上げるように木刀を振るっていた。
 グワッと津波のような衝撃が浮き立つ。放たれたのはまた飛ぶ斬撃か。
 いや……だがよく見れば「飛蜂」とはまた違った。
 中腰、相手の腹にめがけて飛ぶ「飛蜂」に対し、この斬撃はまるで地を這うようにした地
面擦れ擦れを滑っていく。しかも威力を発揮するらしい範囲もずっと広くなっている。
 足元を狙う、ちっぽけな人間をすくい上げ押し潰す大波。
「……!」
 そう思ったのだろう。朔也は自分に向かってくるその佐々岡の技に目を細めると、ぐぐっ
と両脚に力を込めていた。
(横に大きく飛び退くか? いや、巻き込んでくる幅が大き過ぎる……)
 次の瞬間、彼が選んだのは──跳躍。
 前に駆け出すと、三段跳びのような要領で助走をつけてから大きく奏に向かって飛び掛っ
たのだ。所詮は地を走るだけ攻撃。当たらなければどうということは……。
(──なっ!?)
 だが朔也の目論みは脆くも外れた。
 跳び上がった、まさにその瞬間をまるで狙い済ましたかのように、斬撃の波が大きく頭を
持ち上げて朔也に牙を剥いたのである。
 しまった……これは、こういう技かっ!
 足元を薙ぐと見せかけて空中に誘導する対空技。更に巻き込む範囲と大きさから、真上で
はなく前へ進みながら跳ぶという彼の判断も裏目に出た。その行動も予測に含まれているが
如く、彼は相手の技の真正面に突っ込む形になっている。
「……!」
「捉えたッ!」
 思わず息を呑むセーラと叫ぶ大吉。
 二人に見えたその様は、あたかも天に昇っていく龍のような。
 開いたその口、重力に垂れ下がる斬撃の雫達はあたかも得物を飲み込む牙に見える。
 昇り押し包んで砕こうとする力の奔流。
 朔也がそれに呑まれようとした、次の瞬間だった。
「──ぬぅッ」
 びゅっと振るったその手の節棍。だがその軌跡は直線的ではなかった。
 龍のような大きな斬撃に対抗するかのように、黒くしなっては伸びる軌跡。それは棍同士
の接続を緩めて振るったという証。棍棒ではなく鞭として。
 ギュルルルッという金属の音。それと共に彼の得物がうねりながら龍の口の中に突っ込ん
でいく。見上げる優紀や大吉、セーラ。僅かに眉間に皺を寄せた奏。
 すると、昇る龍のような斬撃が破裂するように爆ぜた。
「What……!?」
「にゃろう……内側から捻じ込んできやがった」
 朔也に直撃する、そのギリギリの所でしならせた得物で奏の技を相殺したのだった。
 もうっと四散していく奔流。そして、
「!」
 奏に跳んできた伸びる節棍の先端。
 咄嗟に反応して彼女は身を捻ってそれを交わす。
「──ぅ?」
 ピチャリと。
 それとほぼ同時に、優紀は何か生温かいものが目の下に飛んできたのを感じ取った。
 何だろう? おもむろに指先でそっとそれを拭って、見てみる。
「ッ!」
 赤い。赤かった。
 生温かいこれは、血……?
 思わずバッと顔を上げた優紀。
「…………」
 その視線の先には、頬に僅かだが赤い筋をつけた奏の横顔。それでも彼女は気に留めてい
る様子はなく、自身の放った技の行く末を見上げている。
「かな、で……」
 その瞳に今にも自分が崩れそうな瞳の揺らぎを宿して、優紀はか細く呟いている。
(チッ……)
 ──相殺に成功した佐々岡の技。
 それでも朔也を次々に掠めていく無数の小さな威力。朔也は静かに顔をしかめた。
 直撃こそは免れたが、勢いを完全には殺し切れず彼の全身に微小な斬撃が刻まれていく。
 危うく、一本取られかけた……。
(……もう降りられそうだな)
 ちらと視線を下に目を遣ってみる。頭部をもがれた龍はそのまま次々に全身を崩して空気
に解け込んで行く。もう地面に立っても決定的なダメージはないだろう。
 手元を引き寄せて伸びた節棍を普段の長物に戻して、朔也は着地しようとする。
「──!」
 急に視界に影が差していた。
 ここは室内。元より日照は限られる。
 ということは、この変化は……。
『…………』
 空中で振り返った朔也は流石に後悔した。
 自分の更に上に、舞子が跳び上がっている。彼女の真後ろには倉庫の壁。
 にっと笑った佐々岡姉の表情。
 そうか……またか。さっきの技もまたフェイク。こっちを、壁を蹴り上げて跳躍する彼女
の隙を見遣る暇も与えないように。
「佐々天心流──」
 空中で拳を引き寄せて握る舞子。まるでその動作に空気が同調するかのように渦巻いてい
くように朔也には見えた。
 来る。本命の一撃が。姉の方の、爆発的な威力が。
 だが跳躍し切ったこの空中では避けられない……防御、するしか。
「狭紋・潜!」
 重力に委ねた身体。一直線に落ちる加速力。
 それらを加えて舞子の突き出した拳。空気が震えた。その必殺の一撃を、辛うじて朔也は
握り締めた棍で受け止めていた。
 だが……重い。踏ん張れない状況も大きいが、なんと凄まじい破壊力……!
 まるで隕石が振ってきたかのような衝撃が倉庫内を揺るがした。
「あわわっ……!」
「うぉ……っ!?」
「……」
 大量に舞い上がる砂煙と埃と、広がる衝撃の波。
 俯き加減になっていた優紀をしっかりと支えながら、セーラと大吉はその余波にふらつき
ながらも何とか耐えしのぐ。
 もうもうと砂煙が上がり、視界が一気に悪くなってしまった。
 パラパラと落ちる何かの破片の音。余波で震える場の空気、その残響。
「……やったか?」
 ぽつりと大吉が呟く。
 数秒間の沈黙。すると、バッと砂煙越しに二つの影が互いに距離を取るように飛び退く影
が垣間見えた。目を凝らす。少しずつ晴れて戻っていく視界。
「……」
「……ふふ」
 朔也と舞子が身構えて見つめ合って立っていた。
 流石の彼もこの連続攻撃を受けて服が心持ちボロくなっている。僅かに乱れている呼吸の
微音。対する舞子は攻撃を受け切った事に驚いたのか、正直感心したかのように口元に小さ
く弧を描いている。
「……」
 そして、舞子の横に奏が歩いてきて傍らに立った。そっと片手で木刀を構える。
 まだ反撃をするのだろうか。ならば、また打ち込んでいくのみ……。
 そう語っているように真剣な眼差し。
「……Unbelievable」
「なんつーしぶとさだよ、おい……」
 セーラも大吉も圧倒されていた。
「…………」
 だが、優紀はじっと俯いていた。落とした視線、開いた掌が震えている。
 指先についた赤の色。奏の血。ゆっくりと指先を伝い、人差し指の付け根に流れていく。
(奏……。舞姉……)
 世界が、視界が、赤いフィルターを掛けたように赤く歪んでいる。
 脳裏にフラッシュバックするのは真っ赤な血。頭から血を流して倒れている少年の姿。
 そうだあの日の記憶だ。ずっと遠くに置いてきた、でも何かにつけて突然追いついてきて
はまた振り返った時には遠くに退き戻っている記憶。
 悲鳴、戸惑い、呆然。
 色んな子供達の動揺の声が耳の中で反響して現実の音を遮断するかのように不快で不安な
多重の不協和音を奏でている。
 何より──泣いていた。
 気丈な筈の舞姉が、その本当はとても綺麗な心を押し潰されそうに苦しみを滲ます奏が。
 嗚呼……そうだ。そうだったんだよ。
 理屈とか、平和主義だとか、そんな頭の中の知識じゃなくって……。
 生理的とか本能とか根源っぽい言葉を使った半端な感情論でもなくって……。
「…………」 

 ──僕はもう、二人にあんな表情(かお)をして欲しくなかっただけなんだ。
 
「……流石は佐々岡の姉妹。評判通り、いや遥かにそれ以上だ……」
 朔也が静かに口角を吊り上げて呟いた。
 床に片膝をついていた身体を起こし、杖代わりに支えていた節棍をゆっくりと構えて脇の
下に据える。衰えていない。むしろ更に内で燃え上がった闘志。
「まだいる。この土地にはお前達のような強い者がいる……」
 ぐぐっと全身に力を込める。無言で目を細める舞子と奏。
「……まだまだある。道がある。お前達が示してくれている。俺はもっと高みを目指してい
くことができる……」
 一体何をこの少年は背負っているのか。
 あくまで忘れぬ冷静さの中、宿したその瞳の奥には悦びを、いや大きな期待感を。
「……ふむ。こりゃ、相当粘ってきそうだ……参ったね」
「……これで退いては、貰えませんね」
「当然だ。俺の為に、もっとその強さを見せろ」
 その様子に若干困り顔で笑う舞子と、嘆息気味の奏。
 あくまで己の高みの為。朔也はゆらりと今まで以上の殺気を込めて彼女達を見る。
「……仕方ない。カナ、もう暫く付き合ってくれる?」
「……うん」
 拳を、木刀を。二人は改めて構えて、この一癖も二癖もある挑戦者に対峙する。
「……それでいい」
 駄目だ──。舞姉、奏。もう戦わないでくれ。止めてくれ。
 震える身体。全身から噴き出すかのような心の奥からの叫び声。
 優紀は今にも狂いそうだった。
 指先の血の温もり。それは大切な人達が現実にいるという確かな証。
 このまま続けてどうするんだ。これ以上、君達を傷つけられるような状況をどうして見守
ることがある……。
 全身が──ざわつく。
 身体の至る所を溢れてくる、湧き上がる何か。
 何処かで感じた事のあるような。でもそんな記憶を今読み返す時間すら惜しい。このまま
自分は何もできずに見守るだけであってはいけない。
「……ユウ、キ?」
「お、おい……! お前……」
 傍らの二人が自分を見ている。混じった何かの驚嘆の色。
『…………』
 身構え、お互いを窺う朔と舞子・奏。
 切欠さえあればまた彼女達はぶつかっていくだろう。己を滅ぼしかねない道へと転がって
いく、その選択をしてしまうだろう。
「……ろ」
 身体が重い。それでも、僕は……。
「──はぁぁぁぁ……!」
 地面を蹴った朔也。引っ下げ突き出される節棍。
 それに対して彼女達が迎撃しようと動き出そうとした、その時だった。
「やめろぉぉぉぉ──ッ!!」
「!?」
「え……?」
 叫び。いや雄叫び。
 ビュンッと二人の間を縫って飛び出してきた何か。
 過ぎった風圧に二人が目を見開いて驚いた。視線の先には棍を突き出した朔也の姿がごく
間近に迫ろうとしていた。なのに。
「…………な、に?」
 朔也の動きが止まっていた。
「優、紀……?」
「What's……、happen?」
「……ユウ?」
「兄さん……?」
 大吉、セーラ。そして舞子と奏もぽつりと漏らす驚嘆の呟き。
(そんな、馬鹿な……)
 止められていた。棍先が彼女達を捉えるその瞬間に、優紀が間に割って入り、その一撃を
左の掌で受け止めていたのだった。彼の利き腕、突き出されたその一本で。
(止めた……だと?)
 だが、それだけが驚嘆の原因ではなかった。
「…………」
 天粕優紀。
 普段、誰とも争いたくないと願っている筈の少年の、強い瞳。朔也すらも思わず息を呑ん
だその思いもかけない強さの色彩。
 そんな彼が、今、己の大切な人達を庇うようにして掌を突き出している。
「兄、さん……?」
「……これは」
 その掌から、眩いばかりの金色の輝きを発しながら。

 何が、起こった……?
 月城朔也は混乱していた。
 それは挑戦を申し込んだ佐々岡姉妹の噂以上に強さに、ではない。
 今、目の前で自分に立ち塞がっているこの少年にだ。
 真っ直ぐに突き出した得物、黒い節棍の棍先。
 それをこの少年(優紀といったか)が受け止めている。
 俺の攻撃を片手で? そんな馬鹿な。これでも自分の強さにはそれなりに自信を持ってこ
の戦いに臨んでいる。なのに、こんな佐々岡姉妹でもない、こんななよっとした男に受け止
められているだと……?
(それに……こいつはさっきまで満身創痍だった筈だ。なのに、こんなに動けるのか?)
 しかし現実に、こいつは俺達のスピードに割り込む速さで俺の一撃を止めたんだ。
 いや……それだけじゃない。何よりもこの、
(……この光は、何なんだ?)
 優紀の掌から溢れ出るように輝きを発している金色の光。
 目の錯覚などでは有り得ない。確かに、この男から発せられているこの金色の光は彼の掌
を──いや、左腕全体を覆い始めているが朔也には見えている。
(もしかしてこれも佐々岡の技なのか……? いやしかしあの二人の様子からしても……)
 突然の疑問と混乱だらけでパンクしそうな頭のまま、朔也はちらりと彼の背後を見遣る。
「……兄さん。一体、どうしちゃったの……?」
「…………」
 その視線の先、舞子と奏も突然の事態にろくな動きができずにいた。
 いつも落ち着いた印象の奏ですら、その動揺を隠す事ができず思わず声を漏らしている。
そして舞子も、彼女の隣で、何か複雑な表情でじっと金色の光溢れる幼馴染の後姿を見つめ
ている。
「……ユウキ」
「お、おい……い、一体な、何がなんだか……」
 そして更に後ろのセーラと大吉も、驚きが先立ってその場に立ち尽くすばかりだ。
「……な」
「ぬ……!?」
 ぎゅっと。優紀が棍先を握り締めた。
 朔也は咄嗟にその手を振り払おうと両腕に力を込めた。だが……動かない。
 こんな男一人に自分の力が全く通用していない。まるで岩に深々と突き刺さってしまった
かのような重い感触だけが逆に朔也の手に伝わってくる。
 また驚きが増していく。そして、ザワッと。底知れぬ不安が。これは……恐怖なのか?
「二人を……」
 優紀の呟きに応えかのるように、また一段と光の輝きが増した。
 だがそれ以外にも変化が見られた。その金色の光がサァッとグラデーションに燃えるよう
な赤色に変わっていったのだ。
 朔也を始め、皆がその変化にまた驚いて息を呑んだ。
「傷つけるなぁっ!」
「──ッ!?」
 次の瞬間だった。
 やや俯き加減だった優紀がぐっと睨み付けながら顔を上げると、同時にそう叫ぶ。
 ギリギリと締まった力。すると突然、握られた先端部分から順に節棍がひび割れはじめた
のである。思わず反射的に力いっぱい棍を引く朔也。
 だがその抵抗も敵わず、彼の節棍はあっという間に半分以上をボロボロに破壊し、砕いた
のだった。
「……く、砕けマシタ」
「嘘だろ……。舞子さんの一撃を防いでも壊れなかったのに……」
「…………」
 よろっと後ろに下がり、朔也は動揺した眼で半壊した得物に視線を落とした。
 外側も、内側の繋ぎの鎖も何重にも強化を施した金属製の筈なのに……。
 朔也はゆっくりと視線を持ち上げた。
 そこにはやはり優紀が左手を前に出した格好のまま、突っ立っている。左腕全体を覆った
赤い色の輝き。間近で見るガス火のようにゆらゆらと揺らめく、気体というには妙な質感を
持っている光……。
 そこで、ようやく朔也は鋭い目付きに戻った。ぎゅっと節棍を握り締める。
「……ユウ!」
「に、兄さん!」
 それを戦闘続行の意志、或いは優紀への反撃と警戒したのか、後ろの舞子と奏がそれぞれ
身構えて声を張った。だが朔也は二人に視線こそ寄越したがそこから前に進み出す事はしな
かったのである。
「……もういい。得物が壊された。この状態では満足に戦えない」
 そう言いながら彼は半壊して随分と短くなった元・節棍を折り畳み、上着の懐へとしまい
込んだ。それを見て、舞子と奏も構えを解く。
「…………今日の所は退く事にする」
 彼女達、いや優紀を視界に宿したままで彼はそう呟いた。
「それに……」
 ちらと自分達の周りを見渡す。
 そこには先刻に倒された少年達や特攻服男達が気を失ってあちこちに倒れている。
「こいつらの後始末もしないとな」
「……後始末」
「任せちゃっていいの? 伸したのは私達だけど」
「……ああ。こんな奴らでも同校(みうち)だからな」
 舞子の問い掛けに、朔也は面倒くさそうに答えていた。
「…………」
 そして一度、ぼうっと佇んでいる優紀に暫し睨むように目を遣ると、彼はそのまま踵を返
して歩き始める。
「……! ユ、ユウ!」
「兄さん!」
 それを合図に緊縛が解けたかのように、舞子と奏が優紀に向かって走り寄った。後ろで成
り行きを見ていた大吉とセーラも、やや遅れてそれぞれ彼の名を呼びながら同じく駆け寄っ
てくる。
「……皆」
 その四人の声に、優紀はやっと我を取り戻したかのようにゆっくりと振り向いた。
 まるで鎮火するように手の光は燃えるような赤から穏やかな金色に戻っていき、その輝き
も眼を眩しくさせるものから穏やかなそれへと変わっていく。
 そして、駆け寄ってくる仲間達を見るその瞳は何処か虚ろな気配になっていた。
「だ、大丈夫? ユウ?」
「お、お前、一体どうしちゃったんだよ……?」
「そ、そうデス。驚いて暫く動けませんデシタが……」
 とぼとぼと彼らに歩み寄る優紀。だがその足取りは何処となく重く見える。
「兄さん……大丈夫? あんなに怪我だらけなのに無茶、したら……」
 いつも静かな奏が泣きそうになっていた。
 虚ろな彼の瞳を見上げるように、心底心配した様子を見せている。
「……」
 だが、優紀は彼女の言葉にすぐには答えなかった。
 静かに彼女を見返している。しんと静まる五人。じっと何かを見つめているような……。
「……奏こそ」
 そっと動かされた左手。
 静かに灯ったままの金色の光を宿したまま、その掌が静かに奏の頬──僅かに作った赤い
筋にかざされる。
「大丈夫だった?」
「……」
 奏がびっくりしたように、だがすぐに酷く落ち着いた、穏やかな眼になった。
 かざされた彼の掌に、おもむろに自分の手を重ねる。
(……温かい)
 そう奏は思った。何だろう、この静かに抱擁されるような感覚は……。
 気持ちよかった。まるで兄さんそのものみたい。何だか、このまま──。
「か、奏サン、ほ、頬が」
「え?」
 そのまま昇天しそうになった感覚を引き戻したのはセーラの小さく驚いた声色。
 我に返った奏はそこで気付いたのだった。
 あの時、伸びてきた棍先を掠めてできた赤筋。集中していて気に留めていなかった些細な
傷ではあったのだが、そこから感じる微々たる痛みが引いている……。
 そっと指先でなぞってみた。だが、いつの間にか消えている。
「……傷が、消えた?」
「……」
 奏本人も、そして他の皆も心持ち目を見開いていた。
 見上げた優紀の表情がとても穏やかだった。眼は随分と虚ろになっていたままだったが。
 金色の光。温かい。怪我を治す……。
(……あれ? こんなの、昔何処かで)
 そう、奏が不意に頭の片隅に何かが引っ掛かった時だった。
「……良かったよ」
 ぽつりと優紀が呟いていた。
 まさに愛しい者を見るかのように、そっとすっかり跡形もなくなった頬を撫でながら、
「大きな怪我にならなくて、良かった。……女の子だもん。顔に怪我なんてした、ら──」
「!? ユウ!」
「ユウキ!?」
「に、兄さ──!?」
 突然、急に電池が切れたかのように瞳に色を失って倒れ込んだのだった。
 ちょうど、彼の真正面にいた奏を押し倒すような格好で。
「──ッッッ!?」
 同時に、彼の掌から溢れていた光も静かに消えていく。
「なっ、ぁ、ぁ……っ!?」
「ワォ……」
「な……。おい、ど、どうしたんだよ? おい、目を開けろ!」
 間近に感じる優紀の気配。突然の事に、奏は自分では制御できないくらい全身が蒸発しそ
うなくらいに熱くなっていくのを感じた。耳まで真っ赤っかに紅潮していく。
 その様子を見てホウッと頬を赤らめるセーラ。優紀を揺さぶって叫ぶ大吉。
「待って大吉君。ちょっと診せて」
 そこに舞子が割って入る。彼の顔を覗き込んだりして数秒。
「……大丈夫。怪我はともかく、気を失っただけみたいね」
「そ、そうっすか……」
「び、ビックリしました」
「……ぁぅぁぅ」
 その言葉にそれぞれ、とりあえず一安心。
「…………」
 そんな彼らの様子を、朔也はじっと遠巻きに眺めていた。入り口付近で最初彼らと相見え
た時のように背を預けながら。
(分からんな。あれは佐々岡の技、ではないのか……? 直接の血筋の姉妹も見た所、驚い
てばかりで心当たりはなさそうだが……)
 あの光。気絶した段階で消えたか。やはり何らかの力か……。
 彼は暫しその様子から先刻の現象の理由を考えていたが、まとまらなかった。少なくとも
自分の知識の中であんなものは存在しない筈だ。
(厄介な奴が一人、増えたみたいだな……)
 彼らは気絶した彼を介抱しているようである。じきに連れ帰っていく事だろう。
 こっちも、職務(しごと)はやっておくか……。
「…………俺だ。人を寄越して欲しい」
 彼らに背を向け携帯電話を取り出してコール。数度目の呼び出し音で応対した相手に短く
用件を伝え始める。
「場所は倉添町の倉庫群エリア。うちの馬鹿どもが面倒を起こした。こちらに到着次第一報
して来い。……あぁ、そうだな。人数は多い方がいい。出張れるだけ来てくれ。掃除する数
が多いからな」
 ゆっくりと歩いていく朔也。その背後では、
「とりあえず家に運びましょうか。何より先ずユウの手当てね。大吉君、お願い」
「うっす」
 舞子達が次の行動に移ろうとしている。
「……ぅぅ。あ、あの、兄さんをどかして下さ──ぁ、で、でも、も、もうちょっと……」
 回り込んでいく大吉を視界に見上げ、顔を真っ赤にして奏がもごもごと呟いている。
 バクバクと激しく胸打つ心臓の鼓動を感じながら、奏は気を失った幼馴染の兄さんの顔を
おずおずと見遣った。
「…………」
 周りの仲間達の慌てぶりなど知る由もないかのように。
 優紀はその目を閉じたまま、まるで陽だまりのような優しく穏やかな表情で静かに微笑ん
でいたのだった──。


 今日という一日がゆっくりと黄昏に向かおうとしている。
 佐々岡家もその茜色の光の中に佇む事には変わらず、道場に来ていた門下生達も少し前に
本日の稽古を終えて帰って行った後だった。
「……ふぅむ」
「……」
 佐々岡宅の縁側。そこに磐音と長光は将棋盤を挟んで向かい合い、座っていた。
 庭の木々が少しずつ映えてきた夕陽の光を静かに弾き、辺りの景色を徐々に茜色に染め上
げつつある。
 時折敷地の前を通る通行人の足音、晩春の微風に揺れる梢や葉の擦れる音、茜空を飛んで
ねぐらへと帰っていく鳥達の遠い鳴き声。自然の音は決して騒音とは呼ばない。ただ各々に
適度な静寂を彩ってくれる合いの手である。
「……」
 パチンと。暫し考え込んでいた磐音が一手を指す。
「ほう、そう来ますか」
 今度は長光の番。だが彼よりはさほど熟考に時間を取る事なく一手。
 再び互いに黙して将棋盤の上の戦局をじっと見渡し、相手の出方を頭の中で描いていく。
 一見、そのような光景。
「どうじゃ? 彼は」
 再び一手を指しながら、磐音がそうとつと言った。
 パチンと駒が盤の上に置き直される音だけがやけに周囲に響く。
「少し前に舞子達が怪我の手当てを終えて和室に連れて行きました」
 安否の確認。
 それでもお互いに顔を合わせはせず、お互いに盤の上を眺めているままだ。
「気を失っただけですので、暫く休ませてやれば目を覚ますと思いますよ」
「……そうか」
 磐音は短く呟くと、じっと思案顔になった。
 その沈黙の間に長光が自分の一手を指してから、ちらと彼を一瞥する。
 静かだった。黄昏を迎えて街の喧騒は徐々に収まってきている。
 あるべきものはあるべき場所に、あるべき姿に還っていく。再び動き出すべきその時に備
えるために。繰り返されるもの。それらは営みとして己が、そして次の者達へと受け継がれ
大きく長く終わりを持たない循環として成されていく。
 終わりを決めてもそれは終わってはいない。次なる流れへの始まりでもある。
「長光」
 瞑っていた目を開き、磐音が名を呟いた。
 長光は言葉なく静かにその表情を見返す。合った眼差しは互いに静かだが重い。盤を挟ん
だ二人の距離は短いようで長い。長いようで短い。
 二人のいる場所だけがまるで別世界のように無音の緊張を孕む。
「……あの話に間違いはないのだな?」
「……ええ。舞子と奏から、確かに見たと聞きました。それに……」
 一呼吸。数秒、少し遠くを見たような眼をした後、
「私は以前にも一度、彼があれを使った場面に遭遇しています。今回も、二人の話からして
同様のものではないかと思っています」
 再び神妙な面持ちの磐音に視線を戻す。
「……そう、か」
 今度は彼が遠くを見る番だった。
 家の奥。今もこの家の中で身体と心を休めているであろうあの少年の事を思って。
「……皮肉なもんじゃの」
 その視線を戻して盤に目を遣ってから、磐音は駒をまた一つ指す。
「佐々天心流を修めぬと決めたあの子に、あれが強く出るとはの……」
「……そうですね」
 それから暫く、二人は互いに対局の方を進めた。
 沈黙の中で互いの思考の間を置いてから数度、盤の上を駒達が動いていく。
「彼は、武術家にするには優し過ぎるんです。ですから、ああなってむしろ良かったんじゃ
ないかとも思っています。元々天粕の家系自体、我々のような武門ではないですから」
「そうじゃな。じゃが、その神官としての天粕の血も時代と共に随分薄くなったかと思って
いた矢先にのう……」
 パチン、パチン、パチン。長光から磐音、また長光と。
 嘆きとも己に言い聞かせるとも取れる言葉を呟くと、二人はまた交互に一手を指してから
ちらりとお互いの顔を見合った。
「目にはっきりと見えるほど量……それもほぼ間違いなく無意識の状態で。あの者の内に秘
めておるものは……相当のものじゃろうな」
「ええ。ただ、制御できていない。一気に放出し、そして限界を迎えています」
 その通り。
 お互いに呟かれた言葉を是認するように数拍の間。
「……どうしましょう、お義父さん」
「……焦って手を出す事はよそう。できるならばあの子を引き込みたくはない」
 訊ねられた磐音は、僅かに目を細めてそう答える。
 そっと自軍の駒を一つ指先で掴み、
「今はまだ……見守ろうではないか」
 また一手。
「……そうですね。私も同感です。では、王手っと……」
「ぬっ? お……ちょ、ちょっと待──」
「待ったは無しですよ。お義父さん?」
 あくまで微笑を絶やさずに、長光が言い切る。
「……ぬぅ」
 磐音は暫くじっと盤の上の敗北直前の様を見つめていたが、ややあって静かに視線を庭先
の風景へと映した。
 庭先に注ぐ茜色。怒れる赤ではなく、抱擁する金を内包した色。
 終わりを呼ぶのではなく、新たな始まりを告げるための色。
 そんな西日の光に目を細めた彼はふぅ~……と大きく息を吐いて、
「……やれやれ。佐々天心流は、まだこの老いぼれを隠居させてはくれんらしい……」
 そう静かにごちる。

 ゆっくりと目を開いて最初に映ったのは、天井の木目だった。
 ぼんやりと意識が漂っている。
 暫くして気付いた。世界が、色褪せている。古びた写真のようなセピア色。
 ここは何処だろう……。身体の上に乗っているこの感触、このい草のほのかな香り……。
 どうやら僕は布団に寝かされていたらしい。空間も広いし、多分何処かの和室かな。
「──優紀君? 大丈夫かい?」
「……に、兄さん……」
 覗きこんで来た顔が二つ。
 おじさんと女の子。神妙な表情と不安で今にも壊れそうな繊細な表情。
 この面影……もしかして、長光さんと……奏? それにしては奏は随分と小さいし、長光
さんも少し若いような。
 嗚呼そうか、これはまた過去の幻影なのか……。
 でも、今回はちょっと違うな……。過去の僕と今の僕が同じ視線だ。
「舞子、優紀君の目が覚めたよ」
 長光さんが後ろを振り返ってそう告げる。
「…………」
 二人の間から見えたのは、やっぱり過去の、まだ小さい頃の舞姉の姿だった。
 だけど、目の前の彼女は今のような快活な姉御という印象ではなかった。部屋の隅に固ま
って、まるで脅えた猫のようだ。
 さぁ。長光さんに促された舞姉の目は、何故か薄っすら赤くなっている。
 まるで散々に泣き散らしたような……。
「……ユウ?」
 ゆっくりと、畳の上を歩いて舞姉が近づいてきた。僕はゆっくりと身を起こして座る。
 長光さんと奏の間に座り、舞姉は僕の傍らに身を乗り出していた。
「その、あの……大丈夫?」
「え? あ、うん……何とも、ないけど?」
 確かにこの僕は寝かされていたらしいが、今は何ともない。少し未だ身体がだるいような
気もしたが、こんな舞姉の顔を見てしまうと不用意な事を言って心配させたくないと思って
黙っておくことにした。
「そう……。良かった……」
 くしゃっと顔をしかめて今に泣きそうになる舞姉。
 ちょっと待って。何でそこで……? もしかしてそんなに心配だったの?
(え……?)
 次の瞬間だった。
 ぼふっと布団越しに伝わってきた圧力。それが舞姉の重みであると分かるのにはそんなに
時間は掛からなかった。
「グズ……ッ、ウグ…ッ!!」
 泣いていた。舞姉が僕の膝元に顔を埋めて泣き崩れていた。
「え? あ、あの。舞姉、な、何で……」
 わけが分からなかった。今まで(いや今は多分過去の幻影だから、これがその経験なのだ
ろうけど)見たことのない舞姉の号泣っぷり。
 何か悪い事したっけ? そんな心当たりなんて無い僕はただうろたえるしかない。
「ご、ごめんね……グズッ、ユウ……。私、私、あいつだけじゃなくって、まさかユウにも
こんな目に遭わせて……!」
 今度は謝られている。
 あいつって誰だろう? それに僕にも? 一体、僕の身に何が起こっていたっていうんだ
ろうか。上手く言葉を掛けられなくて、僕はちらりと奏と長光さんの方を見遣ってみる。
「…………」
「姉、さん……」
 二人ともろくに言葉が出ない感じだった。
 奏は何だかそのまま貰い泣きしそうな顔になっているし、長光さんも普段見せる優しい顔
とはまた違う、凄く神妙な顔付きで舞姉を見つめている。
「ま、舞姉。そんな泣かなくていいってば。僕はこの通り何ともないしさ……ね?」
「……。でも、でも……」
 ようやく顔を上げた舞姉の顔は涙でぐっしょり濡れていた。
 それでも随分と、まるで何かを猛省しているかのように、すぐさまその表情にいつもの明
るさが戻ってくることはなくて。
(……一体、何があったんだろう?)
 過去の記憶を見ているのだから、それが途切れているのはある意味当然かもしれないが、
何だか僕一人だけこの場面の中で取り残されているような気がする。
 思い出せ。それでも僕の過去なら何処かにこの時の情報があるんじゃないのか……?
「……もしかして、前後の記憶がないのかい?」
「……え?」
 そんな時、長光さんがぽつりとそう訊いてくる。
 そうか、この時での僕はそうだったのかも。だとしたら今の僕でも覚えていないのは一応
の説明がつく。
 ただ単にこの頃の記憶が風化しているという可能性も、あるんだけど。
「…………」
 そして長光さんは、また考え込むように黙ってしまった。
 顔付きもさっきと同じ、やけに深刻そうなもののままだった。
 一体何を考えているのだろう。正直、想像もつかない。何にせよ長光さんの言った通りに
この時の記憶自体が僕の中から飛んでいるなら、当時の僕も、そして今こうしてこの過去の
幻影を直接に再体験している僕も何一つ自分で状況を把握する術はないのだから。
 泣き腫らした顔の舞姉と、どうにもそわそわおどおどしている奏。
 随分と心配……掛けちゃったんだな。
(こんな顔、絶対にさせたくないのに……)
 そう思った時だった。
 カチと何かが僕の中で繋がったような気がした。
 待てよ。さっきの自分の言葉、何処かであったような気がする。いや、この過去(とき)
だけじゃない。多分、多分だけど、もっと最近に──
「…………舞子、奏」
 すると、そんな思考の前を通り過ぎて遮断するかのように、長光さんが二人に声を掛けて
いた。二人は少しビクついて顔を向けている。
 ああ、ちょっとだけ思い出した。長光さんが本当に二人を叱っている時って、こんな感じ
で静かだけど迫力のある時だったっけ……。
「優紀君が目を覚ました事、母さんに知らせてきてくれないか?」
 だけど今回は叱るわけではなかった。何故か内心ほっとする。
 この瞬間もよく分からないのに、いくらこれは過去の幻影なんだという意識がちらついて
いても、やっぱり二人が叱られてしょぼんとなるような、悲しむような顔は見たくないし。
「……」
 二人は数秒、長光さんを見ていた。
 何だろう。何か、おかしい事でもあったのだろうか?
 しかし、この和室にしろさっきの長光さんの言葉にしろ、どうやらここは家じゃ佐々岡の
家の中みたいだな……。
「……分かった」
 先にもそっと答えたのは奏の方。
「行こ……? 姉さん」
「……うん」
 そして舞姉の手を取って立ち上がり、一緒に歩いていく。これではまさに姉妹逆転だ。
 襖が閉まり、少しずつ二人の足音が遠くなっていく。
 また一層、世界が静かになったような気がした。
「…………」
 二人の出て行った方向を見つめていた長光さんが、ゆっくりとこっちを見てきた。
 相変わらず真剣な顔だ。でも柔らかさは戻ってきたような気がする。まさか僕だけが叱ら
れるのかと思ったが、その心配はなさそう。まぁ理由がない(覚えていない)けど……。
「優紀君」
 ぽつり。僕の名を呼んで何か言おうとしている。
「ゆ……──。君は、もしか……て──……を、つ──……かい?」
「え? 今、なんて──」
 突然、長光さんの声が途切れた。まるでノイズだらけで聞き取り難いラジオみたいに。
 思わず僕は問い返していた。
 まさに、その時だった。
「──!?」
 グラリと、世界が歪んだ。
 周りの景色が掻き回された皆ものように歪んで渦巻き始める。
(これは……!)
 そうだ、あれだ。この幻影が終わる予兆。時間切れの合図。
「ま……待って、長光さん!」
 思わず手を伸ばして、傍にいた筈なのに遠くなっていく長光さんに叫んでいた。
 一体、僕に何を言おうとしたんですか?
 この時間に、僕が一体何をしたんというんです?
 それでも幻影の世界は瞬く間に歪み続け、遠ざかっていく。
「ま、待って……!」
 それでもやはりか、届かない。終わっていく。僕を突然見舞った幻影が。
(駄目だ。駄目なんだよ……っ!)
 分からないけど、大事な気がするんだ。
 僕に何が起こったのか、ちゃんと知っておかないといけない気がする。なのに……。
「長光さん……ッ!!」
 幻影は全ての風景を飲み込んで消え失せ、途端に辺りが真っ暗になった。

「────ッ!!」
 脳裏に強烈に駆け巡る何かを覚えた瞬間、優紀は弾かれたように目を見開いていた。
 どっと汗が全身から噴き出る心地がした。何だこれは……?
「……! 優紀!」
 するとその様子にいち早く気付いた大吉の覗き込んでくる顔が視界に映った。
 僅かに遅れて舞子、奏、セーラも同じように次々と優紀の視界に映りこんで来る。
「ユウ、大丈夫?」
「に、兄さん……? だ、大丈夫?」
「大丈夫……デスか? 怪我は痛みませんカ?」
「おい、大丈夫なのかよ? 生きてるか、おい?」
「…………」
 至近距離の四者四様な表情。だが、誰も共通しているのは酷く心配げな眼差しである事。
 何だろう……。あれ? 何だか既視感があるような気がするが……駄目だ。頭がぼんやり
して思い出せない。
「おい、優紀ってば!」
「……あ~、うん。大丈夫。大丈夫だから……」
 ちょっと声が大き過ぎるって、大ちゃん。か、身体に響く……。
 優紀は少しだけ顔をしかめてやっと返事をすると、おもむろに身体を起こそうとした。
「──でぇっ!?」
 だが、次の瞬間身体を駆け巡った痛みに思わず情けない声をあげる。
「に、兄さん!」
「あ~……いきなり駄目だって。手当てはしたけどあちこちボコられてるんだよ?」
 すかさず奏が背中を支えてくれ、上半身だけを起こした格好になる。
 舞子はその様子を見ながら苦笑を漏らすとポンポンと軽く優紀の肩を叩いていた。
「手当て? ボコられ……?」
 優紀は馬鹿みたいにそのフレーズを呟きながら小首を傾げていた。
 手当てを受けた? そう言われると確かに妙に今の自分は薄着のようだった。それに肌の
あちこちを撫でているこの繊維質の感触は……包帯だろうか。
 思わず、優紀は着ていた服を捲って自分の身体の現状を確かめようとする。
「──ッ! に、兄さん。い、いきなり脱ぐなんて、ちょっと……」
「Well……。でもユウキならいいデスかね。綺麗な身体をしてマス。マッチョさんでもあり
ませんし」
「いや、ちったぁ恥ずかしがれよ……。つーか優紀、お前もいつまでもそうしてんな。一応
年頃の女が三人いるんだぞ」
「…………ぁ。う、うん。そ、そうだね……」
「はは。まぁいいよ、こっちは小さい頃から見慣れてるし」
「舞子さんも!?」
 苦笑しながら、今更に恥ずかしがりながら、優紀は仲間達のやり取りを横目にそっと捲り
上げていた服を下ろした。念の為に奏の方を一瞥したがやはり遅かったらしく、頬を染めて
俯き加減に目を背けている。
「……そう言えば僕ってあの人達にボコボコにされてたんだっけ……」
 身体の痛みと共に、優紀は今更思い出すようにして呟く。
「! そうだ!」
 そして次の瞬間に、優紀はハッと顔を上げて皆を見た。
「あの人はどうしたの? 確か月城さんっていう合体ヌンチャクの人」
「合体ヌンチャクってお前……。節棍、だっけ?」
「確かそうでしたネ」
「どうしたのって……ユウが追っ払ったんじゃない」
「……覚えて、ないの?」
 舞子と奏に問われて優紀は眉間に皺を寄せつつ記憶を手繰り寄せようとした。
 確かあの倉庫に少年達に連れられて、ボコボコにされていた所に大ちゃんが来て、その後
に舞姉達も駆けつけて来て増援のお兄さん達諸共全滅させて……その後に月城さんが舞姉と
奏に挑戦状を叩きつけて来た、のだよな?
 だけど……。
「僕が追い払った? そうなの? 二人が戦っていた記憶はあるけど……」
「……え? 覚えていないのか? じゃあ、お前のあれ──」
「大吉君」
 答えた優紀に更に尋ねようとした大吉を、舞子が制止した。まるで目で何かを訴えるよう
にしてじっと大吉を見つめると、彼も眉間に皺を寄せたままだったが小さく頷いてそれ以上
は口に出さなくなった。
「……姉さん」
「舞子、サン……?」
「…………」
 そして舞子は奏とセーラにも目を遣り、小さく首を横に振ったように見えた。
 だが、彼女はすぐにその表情を明るい笑顔に戻し、
「まぁ、ともあれ無事で良かったよ。怪我の方も肋が軽くちょびっと数本折れてるくらいで
済んでるし」
「え。いや、それって結構重症じゃあ……」
 つい他人事のように突っ込んでしまうが、言われただけで優紀はあまり実感がなかった。
この身体の痛みがそうなのか? 折れた経験がないからよく分からないが。
 さっきの事もあるから、またこの場で捲って確かめるわけにもいかないし……。
「でも、妙なんだよな。折れてるぐらいのキツイのを喰らってるなら痣の一つでもあるもん
なんだろうけどさ、それっぽい程酷いのは手当ての時は無かったしなぁ……」
「あ……。その、手当てはお父さんと大吉さんと、その……姉さんが」
「そうなんだ。ありがと。大ちゃん、舞姉。あと長光さんにも」
「いいえ。どういたしまして。なんせユウの一大事だったからね」
「……俺らは男連中でやるって言ったんだが、この人、無理やりついて来てさ……」
「はは。そうなんだ……」 
 そう、怪訝を含ませて言葉を漏らした大吉。そして少し頬を染めて奏が補足を加える。 
 それだけ心配してくれたという事なのだろう。確かに知らぬ内に見られた(らしい)のは
恥ずかしくはあるけれど、それは厚意として受け取っておこう。そう優紀は思う事にした。
「…………」
 その優紀の微笑を湛えた横顔を、奏は何とも言えない気持ちで見つめていた。
(見た目の傷が……消えていた、か)
 大吉の言葉を耳にして奏は漠然と思う。
 もしかして、あの時兄さん自身にも何かが起こっていたのだろうか。
 あの時……自分の頬の赤筋を治してくれたように。だとしたら、やっぱりあの時兄さんの
腕を覆っていた光は何か……気になる。
(それに……あの光、何処かで見た気がする)
 記憶に引っ掛かっているその疑念。一抹の既視感。
 だが、随分前なのかその時の記憶が定かではなかった。
「……」
 奏は無意識にぐっと唇を結ぶと、今度は姉の顔を見遣った。
 もういつも通りの姉さん。だけど確かについさっき、私達に目配せした。
『──あの事は、黙っておこう?』
 そんな意図を含んでいた眼差し。
 気持ちは分かる。自分達でもあれが何だったのかは分からない。そんな状況なのに当の兄
さんに話してしまったら余計な不安を与えてしまうから。
 でも、あれは見間違いじゃなかった。確かに兄さんの……温かくて優しい光。
 そっと、無意識に頬の、赤筋のできていた部分を静かに指でなぞる。
「…………」
 ちらと奏の様子を、舞子も見ていた。
 ユウや大吉君が、セーラちゃんが。かしましくても一緒にいて楽しい瞬間。
(……これで、いいんだ)
 そう舞子は心の中で言い聞かせる。
 あのユウの手の光は何かは分からいけれど、いつかの記憶で見た、彼の起こしたあの奇跡
の再現だったのでないかと思う。
 だけど……だけど、何だっていうんだ。
 ユウは、何があったってユウなんだ。
 私が……いや私達が大好きな、ユウなんだから。
「とりあえず、今日は泊まりね。後でおばさまに伝えておくから」
「え? でも……」
「いいっていいって。目と鼻の先のご近所さんだし。それにユウだって何も勝手を知らない
家ってわけでもないんだしさ」
「……そうだな。俺も賛成だ。手当てしたとはいえ、その身体、まだあんま動かさない方が
いいぜ? 今日はしっかり休んどけ。で、明日は即行で病院行きだ。いいな?」
「……うん。分かった」
 ちょうど、そんな話になっていた時だった。
「オッケー。じゃあ沙紀に言っておくわね」
 ふと和室の襖が開くと響子が入ってきた。その手には、皿にどっさりと乗せられた林檎。
「あ、おばさん。えっと……ご迷惑をお掛けしました。いや……します?」
「ははは。いいのいいの、気にしない気にしない。ま、つまらないものですけど。これでも
食べといて? 病人・怪我人の定番よ」
「あ、はい……いただきます」
 申し訳程度に頭を下げながら、彼女から山盛りになった林檎の皿を受け取る。
 この量。それに爪楊枝が五本。皆で食べてねという事だろう。
「じゃ、お大事に」
「あ、はい」
 そうして響子はふふと妙な笑みを浮かべて去っていく。
 心持ち小首を傾げて優紀が向き直った、その時だった。
「ユウキ。あ~ん、デス」
「あ、あ~ん……」
「…………」
 一個ずつ、林檎を爪楊枝に刺して優紀の前にずいっと身を乗り出しているセーラと奏。
 優紀は思わず数秒、その体勢のままで固まった。
「……あ、いや。流石にこれくらいは自分で食べ──」
『…………』
 だが、二人はじっとその体勢のまま動かない。というより目がマジだった。
 ちょっと怖い……。優紀はどうしたものかと顔を引き攣らせていた。
「ユウ~」
「? わぶっ!」
 その時、不意に呼ばれて顔を向けると、いきなり有無を言わせず半開きになった口に押し
込まれた林檎。正直ちょ、っと咽そうになったぞ。これは。
「~~♪」
 犯人は舞子だった。
 やけに上機嫌になったようで、そのまま別の林檎を刺して今度は自分に一口。
「……ん。美味し」
「……」
 もしゃもしゃと。優紀も仕方なく口の中の林檎を咀嚼する。
 甘い筈なのだが、何故か甘酸っぱいという味に近い気がした。
「姉、さん……」
「抜け駆けはずるいデスよ~!」
「ん~? 何の事かな~? おりゃ」
「むぐ!?」「ぐむっ!?」
 と、今度は同時に不平を漏らした二人の口の中に林檎を放り込む早業。
 驚いて咽た奏、もごもごと咀嚼しながらなので何を言っているか分からないセーラ。
「……ったく。舞子さんも奏ちゃんもセーラも、ここに怪我人がいるの忘れてねぇか?」
「あはは……」
 自身も林檎をもしゃもしゃと。咀嚼して飲み込んで。
 そんな女子連中の戯れを、大吉は少々呆れ顔で一瞥をくれている。優紀も思わず苦笑い。
(……でも、良かったよ)
 ふっと表情を緩め、穏やかに。
 自分は怪我を負ってしまい、結果的に皆に心配を掛けてしまったが、皆が傷つくような結
果だけは免れる事ができたのは……本当に良かったと思う。
「……」
 そっと視線を移して、部屋の外に。
 向かいの障子から、縁側から漏れてくるのは茜色の光。いつの間にか時間は夕暮れになっ
ていた。一日の終わりを静かに告げて夜闇の中に消えていく使者。そして同時にそれは来た
る翌日への準備でもある。
(……皆が、笑顔でいてくれれば)
 再び視線を舞子達に戻す。まだ彼女達はワイワイと騒いでいた。
 でも、微笑ましい。こういったものが日常だと優紀は自然と頬が緩む。
 こんな生活を、皆の笑顔を、僕は守れれば……。優紀は力の無い自分には難しい願いだろ
うなとは思いつつも、そうは願わずにはいられなかった。
 身体の痛みもあったが、何処となく全身がだるい気もする。
 はやく元気になって皆に迷惑を掛けないようにしなきゃ……。
「……ありがとね、大ちゃん。皆も」
「……だから気にすんなって。お互い自分がやりたいからやっただけ……そうだろ?」
 ニッとそう言って笑う大吉。
 優紀も、静かな笑みを返して首肯に代える。
(ありがとう……。こんな僕だけど、これからも宜しくね)
 どんなに非力でも、想いだけであっても。それでも何も思わずに生きてゆきはしない。
 大事な人達がいる。守りたい日々がある。たとえ自分の周りの大事な世界が小さくても、
きっとそれが僕ら一人一人のできる事、するべき事そのものを表すと思うから……。
 歩幅が違っていてもいい。僕は僕のできる事で皆を幸せにしたい。
 優紀は、目の前の愛しい者達を眺めながら強くそう思う。
 
 その微笑み。それは、あたかもあの時に輝いていた温かな金色の光のように。
                                      (了)

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
  2. ユウキのヒカリ
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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