日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)ユウキのヒカリ〔1〕

 切欠は……一体何だったか。
 今となってはそれもはっきりしない。
 あの時の事を、夢やふとした事で思い起こす度に僕は薄情だなとも思う。
 まだ僕らは幼かった。だから力加減も分からない。きっとこれからお互いに揉まれていく
中で覚えていく筈のものだったのだ、と言い訳する事はできるのかもしれない。
 だけど、こうして今も記憶に残っているということは、きっと意味がある。
 そう僕は思う。

 一番印象に残っているのは、赤色。公園の土色にじわりと染まる赤色だ。
 僕らの前に男の子が一人仰向けに倒れている。年格好は当時の僕らと変わらないだろうと
思う。その男の子が、頭から血を流して倒れているのだ。
 呆然としている。僕も、男の子の取り巻きの子達も。
 何より……一番驚いているのは僕の傍に立っている女の子達だった。
 一人は手から木の棒(子供からすれば太めの)を落としたまま、揺らぐ瞳で男の子を見つ
めたまま立ち尽くし、もう一人は顔を青白くして同じく立ち竦んでいる。もう事情は覚えて
いないけど、この記憶が蘇る度にこの娘はかなり怯えているように見える。
 そうしていると、記憶の向こうの僕がゆっくりと男の子の前に跪く。
 何か声が方々から聞こえてくる。
 非難? 悲鳴? よく分からない。何かを言っているのは確かなのだけど、もうこの記憶
からはその内容は削ぎ落ちてしまっているらしい。
 その内、少し落ち着いた子が二、三人走り出す。誰か、助けを呼びに行くのだろう。
 先ほど怯えていた女の子もおずおずと手を上げてそれに加わった。逃げると思われたくな
いからなのか、彼女はまだぼうっと立ち尽くしている先の女の子を一瞥して、遅れがちにそ
の場を駆け出していく。
 時間が、ゆっくり流れていた。
 だけど、目の前の男の子は一刻を争っていた。
 感覚と認識。双方が全く違う方向に僕らを引っ張り合っている。
 声が遠い。僕が僕が見ているというのは奇妙な感覚だ。
 その僕の表情は、今にも泣きそうだった。
 あぁ……そうだ。
 あの頃の僕はきっと今よりもずっと弱くって。何もできなくて。いつも二人が傍にいて僕
を護ってくれていたっけ……。
 だけど。
 力が全てじゃない。それが、この日子供心に分かったような気がする。
 何とかしなくっちゃ。助けなくちゃ。
 記憶の向こうの僕が、僕を見ている僕が、思う。願う。
 そっと、無意識に血の流れている男の子の頭へと掌をかざしていた。

 ──溢れて来る。
 何かが湧き上がって来る感覚が、ある。
 おかしいな。僕は記憶を観ているだけじゃなかったっけ? じゃあ、これはあの時の追体
験なのだろうか。離れているのに、繋がっているのだろうか。
 それに……初めてじゃない。
 妙に、懐かしいような。妙に、しっくりと収まるような。
 そっと胸に手を当ててみる。
 嗚呼、そうだこの時だ。この感覚だ。
 僕の胸元に、向こうの僕の掌に、光が溢れる。
 温かい。最初に感じるのはその感触ばかり。堰を切って溢れた黄金色は掌から零れるよう
に広がって、やがて徐々に掌と同じ大きさに収まっていく。まるであるべき姿へと落ち着い
ていくような……。
 周りの皆が、女の子が目を見開いて僕を見ていた。
 だけど、向こうの僕はその視線にすら気付いていないかのように見える。目を凝らしてみ
ればどうも先程に比べて瞳が遠くに、そう、虚ろな眼になっているような……。
『大丈夫かっ!?』
 怒号に近い叫び声と、足音。
 皆の視線がゆっくりとその声の方向へと向く。ある者は安堵した顔、ある者は未だに動揺
を貼り付けたままで。
 大人の男の人だった。さっき駆け出していった彼女達も一緒についてやって来る。
 向こうの僕の横で呆然としていた女の子が、くしゃっと顔を歪めた。
 今まで出ずに待ち構えていたかのように、女の子の眼から涙がこぼれ出した。言葉になら
ない泣き声と共に彼女はそのまま彼の胸元に飛び込んで行く。
 泣いていた。ぐしゃぐしゃになるほどに泣いていた。
 言葉は相変わらず観ているだけの僕には曖昧にしか分からなかったけど、気持ちは何とな
く伝わってくるような気がした。後悔、謝罪、罪悪感……色んなものが彼女を取り巻いては
押し潰そうとしていたであろう。
 そんな彼女を、彼は優しく強く抱きしめて……前を見ていた。
 僕も、ハッとなって視線を移す。
 もう一人の僕が、まだ跪いていた。
 掌はまだ黄金色に淡く光を放ち、倒れたままの男の子の頭にかざされている。
『…………まさか』
 おじさんが目を見開いて呟いていた。
 胸元で泣きじゃくる娘よりも、その光景に驚いている。
 ちょうど、その時だった。
 グラリと世界が揺らぐ。遠くなっていく。
 いや違う。これは……この記憶が終わる?
 駄目だ。またここで終わるのか? 思わず、僕は向こう側の僕に手を伸ばしていた。
 だけど、世界は、記憶の映像はぐんと遠くへと小さくなっていく。
 どうして。何度もこうして僕を引き合わせておいて。結末は教えてくれないというのか。
(くっ……駄目だ! 行かないでくれっ!)
 抵抗しても、無駄だった。
 記憶の世界はどんどん、手の届かない所へと行ってしまう。
 またしても。
 僕が最後に遠のく世界で見たものは、ゆっくりと目を覚ます男の子と、彼の下へと駆け寄
っていくおじさん達の姿。
 そして、それと同時に男の子の胸元へとまるで力尽きたように倒れ込んでいく、あの日の
僕の姿だけで──。


「ま、待っ──てゃぶっ!?」
 まどろみが、突然の衝撃によって吹き飛ぶ。
 天粕優紀は後頭部に走った痛みに思わず間抜けな声をあげながら、
「……よく眠れたか? 天粕(あまかす)」
「…………。あ、はい……おはよう、ございます……」
 教本を片手に半眼で見下ろす教師の眼光を見上げて、ようやく自分が授業中に居眠りをし
ていたのだと分かった。
 同時、寝ぼけたままに答えていた自分の言葉にクラス中からどっと笑い声が沸く。
「……では、そのまま起きてしっかり聞くように」
 だが、生真面目なこの数学教師はそのまま眼鏡の奥の眼光でクラスの面々を黙らせると、
そう淡々と告げてさっと踵を返して教壇の方へと戻っていく。
 余興はこれまでといった雰囲気を感じてさっと授業に集中する者、まだ弛緩した気分のま
ま何処かにやけている者。
「……うぅ。痛い」
「そりゃ、お前。あれだけ無防備に寝てりゃあなぁ」
 優紀の右隣の席に座る、友人・鳴神大吉もその内の後者の一人であったようだ。
 自分よりは一回りは確実に大きい体格と所々ツンツンな髪型。
 しかし見た目のゴツさを緩和するかのように、その表情に浮かんでいるのは悪戯小僧のよ
うな、快活でいて親しみ易いものである。そう優紀は漠然と思う。
 大吉は黒板に向かい、カツカツとチョークの音を立てつつ板書しながら淡々と授業を進め
る先の教師を確認するように一瞥してから、
「だけどよ、何も竹内の時に寝なくてもなぁ?」
「……まぁそれは、うん。でも、気付いてたら起こして欲しかったなぁ」
「悪ぃ悪ぃ。こっちも気付いた時には。な?」
 ひそひそと、バツが悪そうに呟く優紀に片手でごめんとポーズを取ってみせる。
 こくと頷く優紀。何も本気で怒ってはいないのだから。
「それに、さ」
「?」
 すると、大吉は不意に真剣な、いや怪訝な様子を表情に滲ませた。
「……いや。やっぱいいや」
「そう言われると余計に気になるよ。何なの、大ちゃん?」
 何だろう? 基本的におちゃらけている彼がこんな顔をするなんて……。
「もしかして、寝ている間に変な寝言を言ってたとか?」
「ん~……まぁ、外れてなくはないが」
 片目を閉じて思案顔。
 数秒の逡巡を見せた彼だったが、
「いや、な……。途中から魘されてたみたいだったからよ……」
「え?」
 そう答えが返ってきた事に優紀は虚を衝かれたような気がした。
 いや、虚というのは嘘かもしれない。竹内に叩かれた(多分)ショックですっかり寝てい
たらしい間の記憶がぼやけてしまっていたが、何とか手繰り寄せようとしてみれば確かにあ
の夢(?)の最後は、もがいていたように思う。
「で、つい起こし損なってな……。竹内がこっちに気付いたのもちょうどそん時だ」
「……そっか」
 ぽりぽりと、髪を掻きながら大吉は少し大人しくなったように付け加えた。
 優紀もゆがんでぼけやた先刻までの記憶と綱引きをしながらあまり多くの言葉を返す事が
できず、同じようにぼそっとした小声になる。
 カツン。板書が途切れる音が聞こえる。
 竹内の淡々とした講釈が聞こえてくるが、元々の味気なさも加わって随分遠い国の言葉の
ように聞こえるようであまり頭の中で意味を成してくれない。
(……夢の中の事は、黙っておこう)
 優紀は、何となくそう判断せざるを得なかった。
 心配する様子の友を気遣ってなのか、それとも繰り返す何時ぞやかの記憶といい加減ケリ
をつけたかったのか。この時も判然とはしなかったのだが。
「…………」
 ふいと視線を心持持ち上げてみると、竹内の厳しい眼とぶつかった。
 隣の大吉も同じだったようで「やべっ」と小さな声で慌てて教科書に目を移して真面目に
聞いてますよのポーズ。優紀もやや遅れて机の上のノートに視線を移した。
 再び、竹内の講釈の声が聞こえ始める。
 優紀もようやく授業に集中しようと転がっていたシャーペンを手に取った。
(……。後で誰かに見せてもらわなきゃ)
 もやもやは、晴れない。
 だが、ついさっきまで居眠りをしていた自身のノートは清々しいほどに真っ白だった。


 第一話:サムライシスター
 
 四時限目の終了を告げるチャイムが教室に響いた。
 それと同時に教室の空気がにわかに弛緩する。
「ん~……では、今日はここまでね」
 ややフライング気味な場の空気を読んでか読まずか、間延びした世界史の教師がそう区切
りを告げると、のっそりと教材をまとめて教壇を離れていく。
 心なし開放感が増したような気がした。昼食時である。
「優紀~、飯食いに行こうぜ」
「あ、うん。もうちょっと……」
 大吉が椅子の背にぐっと体重を預けて伸びをしながら呼び掛けてくる。
 優紀はこくと頷きながら、残りの板書を片付けている。
 クラスの面々は既に昼休みモードに突入しており、ここで食べる弁当組やこれからの混み
具合を先読みして足早に教室を後にする学食組に大きく分かれ始めていた。
「今日はどうなんだ? 外か?」
「う~ん……。外は晴れてるみたいだけど」
 ノートと教科書を机の中にしまいながら、優紀は窓の外を見遣った。
 時期的にはそろそろ梅雨入りの頃合である。
 例年に漏れず、今年もこの時期に入ってから数度、まとまった雨の日が何日が続いていた
のだが、今日の空は綺麗に晴れている。梅雨の中休みといった所か。
「どうかなぁ。今朝は二人とも稽古に出ていたみたいだから作っている時間は──」
 さっと、慣れたいつものフローチャートが頭の中を流れる。
 そうしつつ視線を大吉に戻したその時だった。
「うん? メールか?」
「そうみたい」
 ズボンのポケット越しに携帯電話の着信音が聞こえてきた。
 大吉は席を立つと、優紀の傍まで歩いてくる。優紀も携帯電話を取り出して送り主と文面
を確認してみる。
『先程まで体育の授業でしたので、少し遅れます。中庭でお願いします──奏』
 丁寧な口調で書かれたいつもの文面。
 そっか、さっき校庭で動き回っていたのは彼女のクラスだったか。
 多分、他の皆にもメールは行っているだろう。
「今日は外みたい。さっきまで体育だったらしいから奏の方は少し遅れるって」
「分かった。そっか……」
 携帯電話をしまい、大吉と並んで立つ優紀。
 遠目にも分かるのだが、やはり大吉の方が背丈も体格も一回りほどは大きい。
 そのまま向おうとした優紀だったが、見てみると、大吉は何処となく真剣な顔で顎に手を
当てている。
「……時期的に、そろそろ水着だな」
「……」
 訂正。これは不真面目の顔だ。
「ほら、行くよ?」
「ん? あぁ。行こうか」
 だがいつもの彼だ。正常ではある……筈だ。ある意味ではだが。
 優紀は微かな嘆息を漏らしつつも、後ろをついてくるこの友人に振り向いていた。

 此処、武ヶ原(たけがはら)は四方を山々に囲まれ、数本の川が流れる土地である。
 その起源は諸説あるが、一番この地の人々の現在の気質の源流となったものをと考えるな
らば、時代は遥か戦国時代以前にまで遡る事になる。
 元々、とある小大名の本拠地であった山間の盆地。武士の原っぱ。故に武ヶ原。
 素朴で実直、それでいて荒事の類にある種の娯楽性を投影している節があるのは、かつて
の武士達の血や精神が今も人々の中に残っているからではないか、と。
 とはいえ、そんな話は何処であってもこじつけられそうな話ではある。
 だが、優紀にとってはもっと説得力を以ってこの地が「武門」である事を認識していた。
「お~い、こっちこっち~」
 教室を抜け、渡り廊下を伝って中庭に出る。
 するとそこに、まさにその説得力の生き証人が待っていた。
「ちわっす。舞子さん、会長」
「ああ」
「やっほ。おはよう……じゃなくて、もうこんにちは、かな」
 中庭の一角、梢の広がった樹の根元に彼女が座っていた。
 人懐っこい笑顔と、長めのポニーテール。女子にしてはやや大きめの身長だが、彼女の場
合はその醸し出すある種幼さに属する爛漫ぶりがゴツさの中和剤となり、全体としては間違
いなく快活な美少女といった印象を相手に与えてくれる。
 佐々岡舞子。優紀達より一つ年上の、ここ武ヶ原学園の三年生だ。
「奏から連絡来たよね? 舞姉」
「うん。遅れるんでしょ? まぁ、気長に待とうよ」
「そうだね」
 優紀と大吉も、適当な場所に腰を下ろす事にした。
「しかし……ほぼ毎日こうして妹さんの厚意に与るというのも恐縮だな。今朝は稽古をして
から来たんだろう? 彼女も、たまには休んでくれても構わないのだが」
 そして一息つき、舞子の隣でそう呟いたのは、彼女の親友であり、学園の生徒会長でもあ
る穂村朱璃(あかり)だった。
 角縁の眼鏡と梳き整えたミドルショートの髪型はいかにも真面目そうである。
「ん~……まぁ、いいんじゃない? カナが好きでやってるんだし。別に朱璃が気にする事
ないって」
「そうっすよ、会長。他人の厚意は有り難く受け取っておくもんです」
「それはそうかもしれんが……鳴神、お前に言われると何だか軽薄に聞こえてならんな」
「えぇっ、何でですか!?」
「ははは。だって大吉君だもんね~」
「……そうだな」
「そ、そりゃないですよぉ。舞子さん、会長……」
 真面目な穂村会長。ある種健全男子だがおちゃらけた大吉。彼を弄って楽しむ舞子。
 優紀は、そんなこの日課と化したゆるやかな時間が好きだった。
 幼馴染のお姉ちゃんに、親友に。またそこからじわじわと広がる輪。
 そうした縁の始まりに特異があると分かっていても、純粋にこうして自分の傍らにいる人
達が笑ってくれている事は幸せだと思う──。
「お待たせしました」
 雑談を暫し。
 そうしていると、ザッと草を踏む音と共に聞き慣れた声が聞こえてきた。
 振り返ると、小柄な、セミロングの髪の少女が立っている。
 佐々岡奏。舞子の妹で、優紀の一つ年下の一年生。今年学園に入学してきたばかりだ。
 姉とは対照的に控えめで物静か。それでも大吉によれば姉共々美少女姉妹として人気なの
だという。優紀はその話に当初、幼馴染──姉弟・兄妹(きょうだい)同然に育ってきた仲
として意外に思っていたのだが。
「どうも~」
「お邪魔しま~す」
 そんな彼女の左右を固めるのは、里見さんと橘さん……だったか。
 クラスメートの女の子達で自分達の昼食時に何時の間にかメンバーとして定着している。
 それでも優紀は、奏にこうしてちゃんと友人がいる事に内心安堵したものである。
 少なくとも、幼い頃は姉や自分に懐いてくれてはいたが、結構人見知りする娘ではなかっ
たか。流石にずっとあの頃のままではない……という事なのだろうが。
 しかし……どうも最近は返ってくる反応が素っ気無いような。正直少し寂しい気もする。
 ──まぁ、彼女も年頃なのだろう。
 優紀はそう思ってなるべく気に病まないようにしていた。
「いよっ、待ってました。奏ちゃん!」
 大きめの弁当包みを抱えた奏と友人達が座るのを見計らって、大吉が嬉々と口を開く。
 それを少し迷惑そうに一瞥し、
「……えと。早速準備しますね」
「うん。食べよ食べよ?」
 奏はいそいそと皆の分の割り箸を配り、紙コップにお茶を淹れ、広げた包みの上に二段
重ねの弁当を開いていく。
「今日も凝ってるな。悪いね、いつも」
「いいえ……。慣れてますから」
 朱璃が今度は感心を込めて言い、表情を緩める。
 それでも奏は終始俯き加減で反応するだけだったのだが、
「ふふん? 慣れている、ねぇ……」
「そりゃ、愛しの先輩に食べて貰うんだものね。力も入るっしょ?」
「!? あ、葵、友里……」
 友人二人の言葉に突然慌て始めた。
 相変わらず地のローテンション加減は抜けていないが、頬は熟したリンゴの様に真っ赤に
なっている。その様子を見て更に二人はにやにやと笑っていた。
「?」
 すると二人がこちらをチラリ。何? そのどや顔。
 優紀は、割りかけていた割り箸が微妙に不恰好に割れたのに気付き「ぁ」と短く声を漏ら
した。時々思うんだけど、この二人……妙に奏を苛めてないか? 弄っているというか。
「……」
 奏は奏で何だか俯いているし。ああ、それはいつもの事か……。
「……ハァ」
「ん? どうしたの、大ちゃん」
 すると隣で大吉が自分を見ているのに気付き、優紀はきょとんとした顔で見返す。
 こっちはこっちで呆れ顔とでもいうべき表情だった。
「……いや。何でもねぇ」
「? そう……?」
 だが、彼は何も答えてくれずわざとらしく視線を逸らして小さく息を吐いている。
 何だこの空気。それに、妙な既視感(デジャヴ)があるのも気のせいか……?
「ふふふ……。まぁ、食べちゃおうよ。ささ、カナ言っちゃってちょうだいな」
「……あ。う、うん」
 そんな内心戸惑う優紀の様子を、舞子は何処か楽しげに眺めていた。
 それでも暫く。彼女はまるで話を逸らすかのように奏を促し、
「……では。いただきます」
『いただきま~す』
 一同、彼女に合わせてポンと合掌。
 少し遅れての昼食へと皆を誘導したのだった。

 二段重ねのボリュームも、七人も集まって突付けばあっという間に減るものである。
「ふぃ~……食った食った」
 談笑を交えながら十数分弱。大吉が満足そうに腹をさすりながら人心地をつく。
「こっちも、ごちそうさま」
 舞子も少し遅れて食べ終わり、ポンと手を合わせて満足げだ。
 優紀達も大方は腹八分目になり、淹れてもらった茶を啜りながらまったりと座っている。
 時間が穏やかだった。
(……平和だなぁ)
 安直だが、こういうのが幸福感というものなのかもしれない。茶を一口。皆の分の弁当を
作って来てくれている奏の方を何気なく見遣ってみる。
「──ッ!?」
 驚かれていた。思いっ切り驚かれていた。
 良いのか悪いのか、目を合わせるタイミングが合っていたらしい。奏はそのまま伏目がち
になって紙コップに口をつけている。前髪で表情がよく見えないが、また頬がほんのりと赤
くなっているような気がした。
「ありがとね、奏。今日も美味しかったよ」
「……う、うん」
 気まずいままにならないようにと、優紀は正直にそんな事でも言ってみる。
 それでも彼女はこくんと頷くだけで様子はそのままだ。
「でも、今日大変だったんじゃない? 朝稽古あったんでしょ?」
「大丈夫、です。用意は前の日からしてるし、それほど時間は掛からないから……」
「ああ。そうなんだ」
 随分と手際がいいことで。
 昔はもっとぐずっていた印象があったんだけど、すっかりしっかり者になっちゃって。
 嬉しいような、ちょっと寂しいような。
「……ひとえに、愛だね」
「……愛ですなあ」
「葵、友里……」
「おお怖い」「怖い怖い」
 だから、優紀はまたにやついて何事か呟いている奏の友人達と彼女のやりとりを、まるで
我が子を愛でるような穏やかな眼で見ているだけだった。
「さて……」
 すると、小休止を挟んでいた舞子が立ち上がった。
 制服の上から引っ掛けた白地の上着(学園指定のジャージである)を揺らし、両指をパキ
ポキと鳴らして、にこやかな表情の中に静かな悦楽が滲みだす。
「大吉君。そろそろいつもの腹ごなしと行こっか」
「はい、お願いしまっす!」
 その言葉を合図に大吉もすくと立ち上がった。
(……やれやれ)
 そんな二人の様子を見ながら、優紀は既に諦めが含まれた、苦笑に近い感情が靄を作って
いくのを感じつつ小さく息をつく。
 空気が、僅かに違ったものになる。
 四方から感じるのは視線。自分達以外にもこの中庭でランチタイムと洒落込んでいた他の
生徒達からものである。
 とはいえ、何もそれは今に始まった事でもなく。むしろ随分自分もこなれたものだとすら
思う好奇に近い色の眼であり、それをもう慣れた事と受け止める周囲の眼である。
 その証拠に一度集中した視線も、ややあって解けていく。
「せいぜい、うちの設備を壊さないようにな」
「分かってるって~」
 生徒会長である朱璃ですら、もう慣れっこといった感じでこの状況に淡とした言葉を少し
掛ける程度に留まっていた。舞子がひらひらと手を振り笑って答える。
「……じゃ、いつでも掛かっておいで?」
「ういっす」
 やや距離を置いて立った舞子と大吉。
 大吉が制服の内ポケットから取り出して握ったのは、トンファー。彼の得物である。
 一方、舞子といえば武器らしい武器は持っていない。いや、持たないのだ。己の拳、それ
のみである。
『…………』
 二人にとっての腹ごなし──もとい、実戦仕様の組み手。
 互いに息を整え、間を図る沈黙。
 ちらちらと周囲の視線が向けられているのが分かる。
(さて……。今日こそは一発入れられるかな? 大ちゃん)
 武ヶ原が「武門」の土地である事は、何も歴史的にそうだったからという“過去形”だか
らではない。
 何故なら“現在進行形”だからである。
「──ふっ!」
 先に動いたのは大吉だった。
 トンファーを握った両脇を締め、瞬発力を最大限に引き出し一気に舞子の懐に飛び込む。
「ふん?」
 それと同時、彼女の腹に向けて素早く叩き込まれる何か。だが舞子はその霞んだ一撃すら
にこやかな笑顔のままで掌で受け止めていた。大吉のトンファー付きの打撃。その勢いを殺
すと同時に手首を返し、彼の重心をそのまま崩そうと試みる。
「なんのっ!」
 だが、彼もそのまま簡単に意のままにはならない。
 彼女が返す方向とは逆に得物を捻り、相手からの力の流れを断ち切る。ふわりと離れ、彼
女の顔の位置で浮いた右腕。その影に隠れつつ今度は左のトンファーが彼女を狙った。
「よっ……」
 しかしその反撃にも、舞子は身体ごと半身を返す事でかわし、ちょうど大吉の右側に陣取
る格好となる。宙を振りかぶっていく自身の腕。大吉はちらと立ち位置を変えてきた彼女を
しかと確認している。
 ゴウッと。
 武器を持った大吉よりも、遥かに空気を揺らす一撃。
 舞子が大吉の反応をまるで楽しむように、わざと少し(時間にして一瞬だが)間隔を置い
てからの、彼女の正拳突きだった。
「ぐぅっ!」
 だが大吉にはその一撃を辛うじて防御するので精一杯だったらしい。
 右足を半円を描くように払いつつ体位を向け直して両腕をクロスさせる。斜めの十文字に
なった二本のトンファーの交差点に、瞬間、舞子の拳がぶつかっていた。
 それだけなのに。ワサワサと風がざわめく。
 大吉の防御も限りなく間一髪。体格がいい筈の彼なのに両脚が後退っている。
「お……?」
 力の拮抗。いや、舞子が押している中、彼女は楽しそうに大吉を見ていた。
「前のよりも頑丈になってるね。材料変えたんだ?」
「……ええ。分かります? 流石に毎度毎度組み手で粉々にされちゃあ堪りませんからね」
「ははは、それもそっか」
 彼女は笑っていた。
 大吉も割合に苦しそうにしながらも、彼女とのやり取りに剣呑さはない。
 拳を交えた友──或いは姐御とその徒弟。そんな関係が見え隠れする。
「……なんというか、凄いなぁ。相変わらず」
 少し離れた位置で茶を啜りながら、優紀はのんびり二人の(拳の)語らいを眺めていた。
 現在進行形の「武門」。 
 それは、優紀にとってごく身近に存在している。
 『佐々天心流』──この地に古くから根を張っている武術の流派である。
 あまり詳しい話までは知らないが、その昔、領主・佐々岡氏とその盟友らによって設立さ
れたものだという。
 佐々岡家と天粕家。『佐々天心』の名の元となった両家。
 この両家はまさにその始祖の家系であり、
「うん……。姉さん、楽しそう」
「はは。楽しそう、ね……。そうも見えるかな」
 特に佐々岡家──舞子・奏姉妹の実家は今もその流派の技と心を受け継ぐ道場なのだ。
 目の前で大吉に稽古をつけている舞子も、そして何時の間にか静かに優紀の隣に座ってい
る奏もまた、佐々天心流の技の数々を修めた猛者であったりする。
 だから、小さい頃から同家と親交のある優紀にとっては彼女達一門が何よりも「武門」を
認識させる身近な存在であり続けてきた。
「もういっちょ!」
「ぬわっ! なんのぉ!」
 舞子が再び拳を振るう。今度はまずいと踏んだのか、大吉は大きく飛び退いてその一撃を
交わす。それでも衝撃の余波だろうか、彼の制服の上着が風圧を受けて大きく靡いていた。
 数度攻守が交差する両者。再び組み手に激しさがやって来る。
「それにしても」
 眼鏡を拭きながら、朱璃が呟く。
「鳴神は、本当に物好きだな。舞子とこう毎日のように一戦交えるのは」
「……かもしれませんね」
 冷静に言う彼女の言う通りだと、優紀は思った。
 ここ武ヶ原を始めとして、佐々天心流は有名であるらしい。特に武芸関係者にとっては。
 その証拠に、優紀もこれまで何度となく市内外からやって来る佐々岡姉妹への挑戦者を見
てきている。尤も、その殆どは舞子という素手のくせにべらぼうに強い姉の方にこてんぱん
に伸される結果に終わっているのだが。
 その為、当初は頻繁にいた挑戦者も、たまにやって来る名誉欲しさに出向いてくるような
類の者を除けば今はすっかり落ち着いている。それだけ、彼女達の武勇が知れ渡っていると
いうことなのだろう。
 でも、優紀はそれでいいと思っていた。
 平穏が一番。本当にそう思う。
 何も、暴力の全てが嫌だというわけではないのだが……。
「…………奏?」
 ふと、視線に気付く。
 奏がじっとこっちを見ていた。今度は伏目がちになる事なく、いやそれでも恥ずかしそう
な様子はあるが、こちらの様子を窺っている感じだった。
 何か言いたげだが、何だろう。
「どうしたの?」
「……うん」
 奏は少し迷っているような素振りだった。彼女の後ろの友人二人も何だろうと聞き耳を立
てているようだ。優紀はゆっくりと彼女の言葉を待った。
「ユウ兄さんは」
 ぽつりと、
「……喧嘩は、やっぱり嫌?」
 彼女はそう訊きながら優紀の反応を待つように、じっと顔を見上げていた。
「……そうだなぁ」
 思わず、優紀は笑みで覆い隠しながら舞子と大吉の方に視線を向け直していた。
 少し言葉足らずな感じだが、何となく彼女の言いたい事は分かるような気がした。きっと
朱璃の呟きに反応しての事なのだろう。下手な繕いは、するべきじゃない。
「嫌というか、辛いのかな」
 言葉を選んで。でも正直な気持ちで。
「……やっぱり」
「あ。だけど、別に奏や舞姉を責めたりする気はないんだよ?」
 肩を落とす奏に優紀は無意識の内に微笑みかけていた。
「僕にただ武術の才能がないってだけの事だから……」
「……それ、は」
 口篭もる奏の声。だが、優紀は舞子と大吉の方に再び視線を戻して呟いていた。
「だから、才能がある奏達を見て何処かで羨ましいと思っているのかもしれないね」
「……」
「暴力を見るのが辛いんじゃなくて、そういう自分の小ささを自覚するのが辛いのかも」
「…………」
 奏は、そんな彼の言葉に困ったような顔でじっと見つめ返してくる。
(やっぱり困っちゃうよなぁ……。でも)
 優紀は静かに笑っていた。明るさは表面に、暗さは内面に湛えて。
 朱璃も掛け直した眼鏡の下から静かに様子を見ている。
 視線の向こうで舞子と大吉が拳を交えている。
「正直、大ちゃんが羨ましいよ。稽古をつけてもらって間もない頃は、すぐにやられていた
けど、今はああやって暫くでもしのぐ事ができてる。ちゃんと成長してるから……」
 憧れはあった。
 昔から強かった舞姉に。
 あれだけの強さを持ちながら、それに決して驕る事のない強さに。
 そして多分、その後知り合った大吉もまた似たような想いを抱いたのかもしれない。
 だからたとえ正式に佐々天心流の門下生、という形でなくとも彼女に師事するという選択
肢を取らせたのだろう。
(なのに僕は……)
 だけど、自分はそれすらしなかった。
 武術の持つ「力」に脅えて、恐れて立ち去ってしまった。
 舞子と大吉。拳とトンファーがぶつかり、離れ、またぶつかる。
 その様子を眺めながら優紀は次の言葉を継げなかった。
『うん……。姉さん、楽しそう』
 そうだ。舞姉は大ちゃんと戦える事を楽しんでいる。笑っている。
 確かに彼女は僕にも笑ってくれるけど、あの笑いとは何処か違うような気がする。
 力。しかしそれは相手を傷つけるものではない、お互いに切磋琢磨し合う愉しみ。ただで
さえ面と向かって挑んでくる者が少なくなってきた今、彼がたとえ彼女自身の本気に及ばな
いとしても、彼は間違いなく好敵手(とも)なのだ。
 その楽しそうな表情を見ていて、正直嬉しく思う。
 だけど……自分がそこにいてあげられない申し訳なさも確かに共存していた。
「まぁ、でも」
 優紀は苦笑ながら笑おうとしていた。自分で重くした空気を振り払うように、
「誰にだって向き不向きはあるからさ。どうしようもないよ。僕は僕で、奏は奏で、自分に
合ったことをできれば充分なんだと思う」
 そう締め括る。
「……そうだな。私も、舞子のように武術をやれと言われても無理な相談だ」
 朱璃も舵を共に変えてくれるように静かに同意を示した。
 間を置き、彼女がそっと茶を啜る。
 優紀もその視線のまま穏やかにいようと努めた。臆病者と言われるかもしれない。だが、
すぐには奏の表情(かお)を直接窺う気にはなれなかった。
「…………兄さんは弱くなんか、ない」
 実際はそれほど長くはなかったかもしれない。
「ん?」
「……何でも、ないです」
 それでも、優紀には妙に長い沈黙だったような気がした。
「──そこっ!」
「! おっと……」
 舞子と大吉の攻防に変化が見られたのは、ちょうどそんな折だった。
 大吉の一撃がもう少しで舞子の脇腹に入ろうかという寸前、彼女の掌がそれを咄嗟に受け
止めたのである。
「あぁ……っ!」
「惜しいっ!」
 里見と橘がぐっと手を握り締めてそう口走った。
 優紀達もその様子に、半拍ほど送れて眼を凝らす。
(……何だ?)
 最初に覚えたのは僅かな違和感だった。
 大吉も少しは鍛えられてきたとはいえ、舞子はそれでも本気ではなく組み手の相手として
加減を心得ている余裕があった。だが、
(余所見……?)
 大吉の攻撃を受け止める、その直前のわずかな一瞬に舞子がこちらに視線を向けていた。
そんな気がしたのだ。それを大吉は見逃さずに打って出たという事なのだろう。
「はは、惜しいね。もうちょっとだったのにね」
「……そう言いながら余裕で防がれてもあんま説得力ないっすよ?」
 だが、大吉はあまり嬉しそうという訳ではなさそうだった。
 僅かに漏らした怪訝。彼も、彼女が簡単に隙を見せる相手ではない事を重々承知している
筈だからだろう。
 次の瞬間には表情を苦笑に変え、間合いを取り直す彼を優紀は眼で追った。
 ちらと。今度は大吉が一瞬だけ優紀の方を見た。
「そろそろ、決めましょうか」
「うん?」
 そしてぎゅっとトンファーのグリップを握り直す。
 引き絞るような間。その大柄な体格をすぼめるように姿勢を低くもっていきながら、大吉
は両脚に力を込めて、
「ふっ!」
 強く地面を蹴った。
 一撃目。交わされる。だがそれも予想済みなのか、二撃目・三撃目と連撃を打ち込む。
 舞子はその軌道の一つ一つを読み交わし、時に両手でいなして受け流していく。間合いは
完全に両者とも己の接近戦の域。だが、大吉の攻撃が舞子に反撃の隙を与えまいと続く。
「ほぅ、舞子相手に頑張るな。鳴神も」
「……多分、様子見だと思いますよ」
 素人目には彼が押しているように見えなくもないが、奏の眼にはそうでもないらしい。
「……来ますね」
「え?」
 加えて、彼女は優紀らには分からない何かを読み取ったようであった。
「──ほっ」
 それは何十発目かの攻撃を舞子が受け流した瞬間だった。
 崩されかけたバランス。だが、大吉は予めその自身の重心のぐらつきを予想していたかの
ように軽く前のめりになった身体をそのままにトンファーを振りかぶっていた。
(え……?)
 そして優紀は見た。
 一つは大吉がその状況で口元を僅かにつり上げていたこと。
 もう一つは、
「──捉え」
 突然トンファーの先端から先に、更に棍棒のようなものがせり出したことだった。
 まさかこれを狙っていたのか。
 だとしたら、先程までの連打は彼女に自分の間合いを短く勘違いさせる為のもの。そして
機を見て間髪いれずに間合いの違う一撃を打つ。つまりフェイクの中に混ぜた本命。
 やるじゃないか。大ちゃ──。
「た……?」
 が、その感心もあっという間に終わった。
 あっさりと舞子が延びたトンファーの先端を受け止めたからである。
 優紀も、そして何より大吉本人も「え?」と驚いた表情をしている。僅かな時間の間の攻
防が見せる、スローモーションのような世界が、
「がへっ!?」
 にこっと白い歯を見せて笑った舞子の放った拳で砕かれるかのようだった。
 一撃入魂。大吉が涙目になって宙に半円を描き、どうっと芝生の地面の上に倒れる。
「舞子の勝ち……だな」
 朱璃が言う。
「……ですね」
 優紀達はショックらしい倒れたままの大吉と、彼をつんつんと突付いて笑っている舞子の
姿を見遣った。
「……うう。ま、参りました」
「はは、中々粘った方だよ。上出来上出来」
 むくりと起き上がり、制服の埃を払う大吉。毎度の結果ながらやはり負けるのは口惜しい
らしい。その一方で舞子は笑っている。敗者を笑うものではなく、健闘を称える笑みだ。
 やがて清々しい様子の二人がこちらに戻ってくる。
「う~ん……今回こそはイケるかなと思ったんスけどね」
 トンファーをしまいながら、大吉は小首を傾げている。
「そうだね~……応用の仕方を変えるとか。あと、もっと早く他のギミックも使ってみても
良かったんじゃないかなぁ?」
「えっ?」
 にこにこと笑ってそう答える舞子に、大吉は若干目を見開いていた。
「……もしかして、気付いてました? コイツに仕込みを詰め込んでた事」
「うん」
「マ、マジっすか……。えと、いつぐらいに……?」
「最初らへんだよ。『材料変えた?』って辺りかな。そのトンファーを叩いてみて材質とか
が変わってる以外にも中に何かごちゃごちゃ詰まっている感触があったからね。おそらくは
何かが仕込んであるんだろうなぁと思ってたよ?」
「あ、ははは……」
 あっけらかんと白状する舞子に、大吉は可笑しさやら詰めの甘さやら情けなさやらで苦笑
しながらケラケラと笑っていた。そしてそのまま、どたんと優紀達の傍でその身を横たえて
寝転んでしまう。
「はは、駄目だ。舞子さんには敵わないや……」
 額には汗が流れ、肩で大きく息をしているのが間近で分かった。
「……大吉さん、どうぞ」
「ああ。ありがと」
 すると奏が大きめのタオルとお茶を入れた紙コップを差し出す。大吉は軽く礼を言って受
け取ると、くいと飲み干しつつ頭や首筋の汗を拭っていた。
「惜しかったね」
「いや……とっくに仕込みはバレてたんだ。今日も完敗だよ」
「でも、あれって卑怯じゃないですか? ひょっとしなくても騙し技ですよね?」
「そうですよ~。舞子先輩は素手なんですから」
「……だったらお前ら舞子さんといっぺん戦って(やって)みろって。素手でも滅茶苦茶に
強ぇぞ? 負けっぱなしの俺が言うのもなんだけどさ」
「あぅ。それは……」
「ご、ご遠慮します……」
「ははは。大丈夫だよ、二人みたいな素人さんを伸しはしないから」
「……鳴神も素人みたいなもんだろう。一応」
「あはは……」
 負けたって大丈夫。喧嘩じゃない。暴力じゃない。
 皆のやり取りを温かく見守り、思わず微笑を漏らす優紀の耳に、昼休み終了の予鈴のメロ
ディが聞こえてきたのだった。


 太陽が天頂を迎え、下降を始めて数時間。
「──連絡事項はこんな所だ。じゃ、今日はここまで」
「起立、礼」
『ありがとうございました~』
「帰り道には気ぃつけろよ」
 午後の授業も満腹から来る眠気こそあれどつつがなく終了し、帰りのホームルームも簡単
な事務連絡だけですぐに終了となった。委員長の合図で発せられる、既に放課後モードに切
り替わりつつある生徒達の気だるげな挨拶を背に受けながら、担任の一橋はひらひらと手を
軽く振りつつ教室を後にする。
「よぅし、終わったぁ~……帰ろうぜ、優紀」
「うん」
 待ってましたと言わんばかりに立ち上がる大吉。
 優紀も同じく支度を済ませた鞄を片手に席を立つ。
「──あ、いえ。そ、その」
(……うん?)
 ちょうどそんな時だった。
 教室の外から何か聞こえてくる。しかも聞き覚えのある……。
「天粕~」
 すると、ひょいと一橋が戻って来て顔を出した。まだ教師陣の中では若い世代に属する、
それでいて熱血でもない、本人曰く「アソビを知る男」のにたり顔。
「彼女さんがお出迎えだぞ?」
「…………」
 その言葉の後、彼にポンと肩を押されて出てきたのは鞄を手にした奏だった。
 昼食時に一度見た時のように、頬を真っ赤に染めてその場に立ち尽くしている。
「じゃあな」
 そして彼はそのままにやにやと笑いつつ、今度こそ教室を出て行った。
「……うぅ」
 とぼとぼと、少々足元がおぼつかず顔も俯き加減で、奏は今にもショートしそうな様子で
こちらに歩いてこようとする。
「ごめんね、奏。一橋先生……いつもあんな調子だから」
「……」
 その彼女を引き取るように優紀は苦笑しながら歩み寄っていった。大吉も肩越しに鞄を引
っ掛けた格好でその後に続く。
 だが、彼女は俯いたままですぐに口を開いてはくれなかった。
(やっぱり僕には反応が少ないよなぁ……)
 優紀は心の中でそう思った。まだ教室に残っているクラスメートの視線が恥ずかしいんだ
ろうか? 友達と一緒じゃないとまだ人見知りするのかもしれない……。
「いや、優紀。もっと反応するとこが──」
「……に、見えますか?」
「うん?」
「…………。いいえ、何でもないです」
「? そう?」
 まぁ喋ってくれたしいいか。優紀はそう、のほほんと構えていた。
「ユウ、帰ろ~……お? カナも来てたんだ」
「あ、うん……さっき」
 そうしていると元気に舞子も教室に姿を見せてくる。
 幼馴染の姉妹と親友と。馴染みの面々。
「……じゃあ揃った事だし、帰ろっか」
 うん、いつも通り。
 優紀は自然な微笑でそう口を開いていた。

 学園を出て、いつもの通学路で帰路に就く。
 視界遠くに見えるのは武ヶ原を長く無用な争いから守ってきた緑の山々の稜線。より近い
場所には点在する塊のように住宅地が位置しているのが遠目にも確認できる。
「──じゃあ、今日は家に寄ってく?」
「ああ。そうするよ」
 優紀達はそんな道中にある河川敷を通っていた。
 真ん中に優紀。左に大吉。右に言葉少なげに時折優紀を見遣る奏。そして三人のすぐ後ろ
に舞子が小さく鼻歌を口ずさみながら歩いている。
 昼下がりのまったりとした日差しと時間。
 本格的に梅雨に入れば、この日和も暫くの間見納めになることだろう。
 優紀は澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐き出す。
 傾けた視線が、奏と合う。それと同時に吐く息が自分の中の重さを取り除いてくれている
かのような感触を覚えた。
 昼間、しんみりした話をして困らせてしまったからなぁ……。
 そんな反省と抱えていた内心の重さも、澄んだ空気が肺を潤すように入れ替えてくれるか
のようだ。……ふっと、奏が少しだけ微笑んだように見えたのは気のせいか。
(やっぱり、笑っていた方がいいな)
 口には出せなかったが、素直に優紀はそう思った。
 昔も今もやっぱりローテンションな彼女だが、決して根は暗いとまでは思わない。
 ちゃんと友人だっているし、昔に比べればずっとしっかり者になっている。ただ自分が昔
の彼女の事を記憶に留め過ぎているだけなのかもしれない。
「……うりゃ」
「おわっ!?」「あふっ?」
 すると、急に感じたのは背後からの体重。
「ま、舞姉?」
「なになに、二人して? ちょっといい感じだったよね~? さっき」
 優紀と奏を抱え込むようにして、舞子がもたれかかってきたのである。
「へ?」
「そ、そう……かな。気のせいだと思う、よ……?」
「ふぅん……?」
 それでも舞子の拘束は解かれなかった。いや、むしろさっきよりも抱き込みが強くなって
いるような気がする。
「…………いいなぁ」
 そんな様子に、大吉は独り横からぼそっと何事か呟いていたが。
「ちょ、舞姉……キツい。キツいから、色々」
「ん~? 何? カナは良くて私は駄目だっての?」
「え? な、何が……うぐ」
「ね、姉さんっ」
 可愛げにむくれる姉とたじたじと焦り出す妹。
 相変わらず無邪気というか、時々子供っぽくなる時があるんだよなぁ。舞姉は。
 そう優紀は思いつつも、一方でこうしたスキンシップが本気で嫌ではない自分を自覚して
苦笑する思いだった。やっぱり、僕は昔の頃の風景に慣れ過ぎているのだろうか……。
「ま、舞子さん」
「うん?」
 そうしていると、傍らの大吉がどうしたものかといった表情で声を掛けてきた。
「……あぁ、大吉君は駄目だよ? 私のハグは可愛い子専用だからね」
(僕、一応男なんですけど……)
 だが舞子は変わらず優紀と奏に抱きついたまま、そんな事を言う。
「そりゃ残念……じゃ、なくて。前前!」
 その言葉に一瞬本音が漏れかけた大吉だったが、すぐにハッと我に返るとピシッと前方を
指差して皆を促した。優紀達も視線をついとそちらに向ける。
(……あ)
 前方数メートルほど先。そこに、人が立っていた。
『…………』
 人数は十人前後といった所だろうか。誰も彼もガタイが良く、いかにも戦って(やって)
ますといった風貌揃い。中には木刀などの獲物を握っている者もいる。
「あ~……やっぱいたんだ」
「だから言おうとしたのに……」
(え? 気付いてやってたの? 二人とも)
 普通なら怖気づくような場面。しかし舞子はとっくに気付いていたらしく「ちぇっ」と子
供っぽく口を尖らせて、奏も似たようなものなのかそんな姉を見遣りつつほんのり頬を染め
ている。やっぱり恥ずかしかったらしい。
「分かっててやってたのかよ……」
「舐めやがって……」
 嗚呼、恥ずかしい所を見られた。
 舞子から拘束を解かれながら今更羞恥を覚える優紀の眼には、一連の様子を挑発の類と受
けとったらしい男達がやや苛立ち気味にこちらを睨んでいる様が映る。
「ユウ、大吉君。後ろへ」
「うん……」
「ういっす」
 肩に引っ掛けた上着を揺らして、舞子が二人の間から前に踏み出していた。
 表情は相変わらず喜怒哀楽の楽。或いは喜に類するもの。それでも既に相手を見量る視線
を彼らに送っている。
「……佐々天心流の佐々岡姉妹だな?」
「そうだよ。その様子からして……挑戦者君だね?」
「おうよ」
 河川敷にピリピリとした空気が混じり始めた。
(やっぱりか……)
 優紀は内心、額に手を当て天を仰ぎたくなっていた。
 片っ端から挑戦者を伸してきた舞子のおかげ(?)で、一頃に比べれば彼女達姉妹を倒し
て名を揚げようという輩はだいぶ少なくなってきたと思っていたのだが。
 目の前の要らぬ争いは避けたいという思い。
 加え、この彼女に挑むという者がまだいるという気落ち。
 その両方の意味で、優紀はどうにも嘆息をつかずにはいられなかった。
「分かっているなら話は早い……。佐々岡姉妹、討ち取らせて貰う!」
 拳、獲物を握り締め、男達が臨戦体勢に入った。
 川上からの風が河川敷を通り過ぎていく。舞子の上着がゆらゆらとはためく。
 舞子は、笑っていた。いつも通りの笑み。だが優紀の眼にはそれが拳を交える愉しみから
くる類の笑顔に見える。大吉と組み手をしている時のそれ。だが、それでいて力そのものに
同化してしまう事はなく、あくまで明確な距離を知っている者の表情(かお)。
「……大丈夫かな」
「心配ないだろ。舞子さんだぜ? 相手もそんなに強そうって訳でもないみたいだし」
 確かに、本当に強敵なら彼女ももっと気を引き締めているだろう。
 だが今の彼女にそんな様子はない。とはいえ油断大敵という言葉だってある……。
「いいよ。相手になってあげる。ここんとこ大吉君くらいしか相手してくれる子がいなくて
ねえ……ふふ、久しぶりだよ」
 ぎゅっと握り締めた拳。静かにミシミシと音が鳴る。
 その静かな迫力に男達が無意識にゴクリと唾を飲み込んでいる。
「……う~ん」
 と、引き絞ったような緊迫が彼女から発せられようとした直前、
「ねぇ。カナも混ざる? 数多いしさ」
 そう、首だけ向けて舞子はにこっと笑って訊いてきた。
「……私は」
 その誘いに、当の奏は相変わらず控えめだった。
 確かに姉同様滅法強い彼女ではあるが、本来大人しい性分もあって姉のように積極的に誰
かと戦うという事はあまりなかったような。
「……」
 そう記憶が優紀を刺激していると、彼女の見上げる視線が自分に向いているのに気付く。
(え……? 何で僕を見るの?)
 一瞬、その理由を判じかねた優紀だったが、微笑交じりに頷いておいた。
 本人が戦いたくないなら無理強いしたくはないが、相手の数も多い事だし姉妹二人でなら
より確実に対処できるだろう。結果的に女の子二人に生傷を与え難くなるかなとも思った。
 ただ、それも自分の身勝手な理屈かもしれないが……。
「その。剣が無いと……」
 ぼそりと、遠回しの否定のような返答。
 舞子は普段素手格闘だが、奏は佐々天心流の本領である剣術の使い手なのだ。
「あぁ……そうだね。ねぇ、誰か木刀とか、一本こっちにくれない?」
 だが奏のか細い遠慮も虚しく、舞子はそう男達に呼びかける。
 言われて男達はお互いに戸惑っていたようだが、
「わ、分かった。使え」
 内の一人が仲間から受け取った木刀を一本、舞子に手渡してきた。
「カナ」
 そこまでされれば流石に退けなかったのだろう。奏は少し逡巡を見せはしたが、ゆっくり
歩み出てくると舞子から木刀を受け取る。
「……」
 気のせいかもしれないが、獲物を握った瞬間、彼女の眼が鋭くなったような気がした。
「……じゃ、戦ろう(やろう)か?」
 にこりと。舞子が改めて微笑んでから両拳を握り締めて構えを作った。
 奏も一礼をした後、その隣でゆっくりと木刀を動かして静かに男達を見据える。
 そこまで来て、やっと二人の力量の大きさを本能の部分で悟りえたのか、彼らが心持ち及
び腰になりつつあるようにも見えた。
「……五分くらいかな?」
「ん~、もっと短いんじゃね?」
 その様子を、優紀と大吉は少し離れた位置から眺めながら呟いていた。

 その後、河川敷に死屍累々の如くぐったりと倒れ伏した男達の光景が出来上がったのは、
それから三分も経たずしてのことであった──。


 近現代になってからの開発の波に飲まれこそしたものの、武ヶ原は各地に山麓の城下町で
あった頃の面影を今に残している。
 入り組み、各土地を分割する中小の道の数々。それらを束ねるように数本のかつての大通
りが現在は商店街などとして現存する。自ら攻める事は好まず、いざという時の為に防御性
を備えさせた古の都市計画。それは今も変わらず、土地勘のない者が迷うという事態もまま
あるのだそうだ。
 佐々岡家──かつての領主一族の住居は、そんな街並みから少し小高い場所に坂を上った
先に位置している。戦乱の頃の時代の記憶を、当時の城郭後すらも、その背後に広がる緑の
山々の中に閉じ込めて静かに佇む風景。その中に建つ和風の大きな屋敷。
 現在の佐々岡家は、今で言う所の資産家と言っていい家系でもあった。
「それじゃあまたね~」
「また明日です」
「うん、また明日」
 敷地の広大さを意識せざるを得ない、左右に広がった塀と純和風の大きな門構え。その前
で優紀と大吉は佐々岡姉妹と別れた。
 暫く歩いていると、背後で門が閉まる音が耳に入ってくる。
「……しっかし、相変わらずでけぇよなぁ。舞子さん家は」
 その音を背に大吉が苦笑交じりに呟いた。
 佐々岡家の塀囲いは天粕宅に向かっている今も、側方に長く続いている。
「まぁ、資産家だからね」
「それでもって武術家」
「うん」
 ふふ、と薄く笑う。確かに世間的に見れば資産家かもしれないが、優紀にとってはそんな
資産の多寡はあまり気にならなかった。気の許せる幼馴染。それ以外に何があろう。
「まぁ、お前ん家も似たようなもんだけどよ」
「そうかなぁ……? 確かに家業柄そこそこ広さはあるかもしれないけど……」
 塀囲いが直角に折れた。
 二人の足取りもそれと同じように道を折れる。
 目の前には石段が続いていた。上った先には赤い木柱の造形物、鳥居が佇む。
 優紀の実家は、佐々岡家の目と鼻の先に位置する「八意(やごころ)神社」なのだ。
 元々は城下の一角にあったようだが、領主・佐々岡家との親交を経てここに分社が建った
らしい。優紀自身は実物を見た事はないが、郊外に戦前までは移転前の神社もあったのだそ
うだ。なので、元々は分社だった筈が今はここが本社になっている。
「ん? あれは……」
 境内に踏み出した優紀はそこに見慣れた人影があるのに気付いた。
 一人は竹箒片手の和装束姿の女性。優紀の母・沙紀だ。そしてもう一人は、
「おや?」
「あら。おかえりなさい、優紀」
「ただいま、母さん。長光さんもこんにちは」
「ああ。こんにちは」
 佐々岡姉妹の父親・長光だった。
 袴の稽古姿の彼もこちらに気付いて振り返った。沙紀も同じくしてこちらに視線を向けて
いる。優紀と大吉は二人に歩み寄っていった。
 見てみると沙紀の手には回覧板が。なるほど、彼はこれを届けに来ていたようだ。
「今帰りかい? じゃあ、舞子と奏は……?」
「はい。一緒でしたよ」
「さっき門の所で別れたんで、もう帰ってると思います」
「そうか。うん」
 長光は一見、格好さえ普段着なら武術家には見えない穏やかな顔付きで独りこくと頷くと
一歩を踏み出す。
「では沙紀さん、私はこれで」
「はい。お手数をお掛けしました」
 一方の沙紀も、負けないぐらい朗らかな微笑で石段を降りていく彼にそう言葉を掛ける。
優紀と大吉も立ち去る彼の後姿を何気なく見遣っていた。
「今日は大吉君も一緒なのね」
 やがて。ゆたりと石段から視線を移し、沙紀が二人を見た。
「うん」
「うっす。お邪魔します」
「ええどうぞ。そうだ、お茶を出さないとね……」
「ああ、いいよ。自分でやるから」
 どうもマイペースないつもの母親に、優紀はやんわりと制止をかけながらそのまま大吉を
連れて家の方に向おうとする。
「……それと。掃除くらい社務所の人達にやって貰えばいいんじゃない?」
「いいのよ。動いていないと何だか鈍って来ちゃいそうでね~」
「はは、大丈夫っすよ。まだまだお若いですって」
「あらあら。ふふふ」
「……大ちゃん。あまり母さんを調子付かせないでよ」
 そう、呆れ気味の優紀。
 ただでさえ母さんは自分の限界も考えずにホイホイと仕事を背負い込みがちなんだから。
誰かが注意していないと……。
「じゃあ僕らは行くけど。無理はしないでよ?」
「は~い。分かってます」
「……うん」
 大丈夫かなぁ、本当に。
 優紀は何だか微笑ましく笑っているような傍らの大吉を一瞥すると、そのまま住居の方へ
と歩を進めていった。

「たっだいま~」
「……ただいま」
 舞子と奏は正門から敷地に入り、正面に建つ武道館(佐々天心流道場)の横を通り過ぎて
家の玄関を開け放った。
 外見は昔ながらの和風の屋敷。それでも時代の波には逆らえず、何年も前に内装は古過ぎ
る設備を入れ替えるなどしてリフォームを済ましてある。
「ああ、おかえり」
 畳敷きの居間に入ると、白髪の老人が一人茶を啜ってまったりとしていた。
 顔や手には加齢による皺がびっしりと刻まれてこそいるが、背筋はぴしっと伸びている。
顔付きもかつての彫りの深さが垣間見え、まだ衰えぬ心身を思わせる。
 佐々岡磐音。
 舞子と奏の祖父であり、現在の佐々天心流の師範、当主その人である。
「ただいま、おじいちゃん」
「ただいま……」
 それでも孫達に見せる顔はいつも厳しいものではない。こうして日常の生活をしている分
には強さよりも優しさの色が見えてくる。
「二人とも、帰ってきたの?」
 鞄を部屋の隅に置いてまったりしようとしていると、今度は奥の方から女性が出てきた。
「うん~」
「ただいま。お母さん」
 こちらは佐々岡響子。二人の母親だ。エプロン姿でこそあるが、表情や雰囲気から彼女の
生来の強気な気性が滲み出て、正直あまり似合ってはいない。むしろ夫・長光と格好を入れ
替えた方がよっぽどしっくり来ることだろう。
「冷蔵庫にカステラがあるから、お父さんと一緒に食べるといいわ。手、洗って来なさい」
「は~い」「うん」
 その言葉を受け、二人はそのまま立ち上がり奥へと歩いていく。
「響子。長光君は道場かの?」
「うん? あぁ、確か回覧板を届けに沙紀の家に行ったわよ。じき戻ってくるでしょ」
「そうかい。今日は三人で……だったか」
「ええ」
 磐音は一口、茶を啜った。
 まだまだ現役、名目上の当主とはいえど、日常の佐々岡道場の切り盛りは既に婿を含めた
かつての弟子達が行っていた。
(……平和、じゃな)
 その昔は戦場で確実に敵を倒す為の、武力としての佐々天心流──。
 しかし、今の時代直接的な暴力は廃れた。暴力に付随するのは「悪」というのが今の世間
の評価であり、価値観である。それでもこの地を代表する武門であり、精神の鍛錬・護身術
としての需要がまだある分だけ自分達は幸せなのだろう。
 武士の世は、とうに終わっている。
 だが、武術を通じて培われてきたものは廃れずに残して来れた。自分の代までこうして。
 信頼できる弟子達にも、門下生にも恵まれている。更に二人の孫には彼らすら凌駕しうる
豊かな才能がある。後世畏る可し──しかし、磐音はそうした事を想うとほんのりと充実感
を覚えずにはいられないのだった。
「おじいちゃ~ん」
 そっと眼を閉じていた彼の耳に、舞子の声が聞こえてきた。
「おじいちゃんも、カステラ食べる~?」
「……お母さんも?」
「私も? そうね、ちょっと休憩にしましょうか」
「……ああ。頂こうかの」
「オッケー」
「うん……」
 奥の台所でごそごそと物音がしている。二人がカステラを四人分の皿に切り分けてくれて
いるのだろう。ややあって、二人が木製のテーブルの上に四人分のカステラと茶を置いて、
自分達も空いた席に座り込んだ。
「いただきま~す」
「……いただきます」
 そのまま四人で小休止と相成った。
 暫く思い思いに菓子を口に運び、茶を啜り、会話を交わす。
(……ふむ)
 こうして見る限り、孫達は普通の女子(おなご)にしか見えない。
 だが、二人は間違いなく次代の佐々天心流の中核を担う者。既に舞子は近隣の猛者からの
挑戦を積極的に受け武勇を示し、奏も姉のような派手な活動はあまり見せないものの、己の
内面と日々向き合うストイックさ、堅実ぶりは道場の者達に少なからず影響を与えている。
 先刻の、武術家としての充実感。
 しかし、それと同時にせめて孫娘達にくらいはもっと普通の女子としての生き方をさせて
やっても良かったかもしれん……。磐音はまたそうも思うのだった。
「お。カステラですか」
 そうしていると、今に婿の長光がやってきた。
 見た目の覇気には難があるが、武術家としての実力自体は認める所である。
 何より、自分よりもずっと良い父親である。磐音自身、口には出さないが結果的に彼を娘
の婿に迎えて良かったと思っている。
「ごめんなさい……お父さんの分、残しておくの忘れてた」
「はは、いいのよいいのよ。沙紀の所に行ってたんだし。ね?」
 当の娘・響子は勝気に笑いながら、少し意地悪げにそう言って夫にどや顔。
「いや。別に回覧板を届けに行っただけだろう……?」
 だがそれもいつもの事のように、夫婦の会話では彼がいつも一歩引いて寄り添う。
 長光は奥から自分の湯飲みを持ってくると、テーブルの上の急須から茶を注いで一息。
 向かい側の席の奏が、自分の分の残りをフォークの尾の部分で切り分けて長光に手渡して
いた。長光は「はは……ありがとう」と敷いたティッシュの上に置くと、今度はフォークを
取りにまた台所へと戻っていく。
「舞子、奏」
「うん?」「……何?」
 そして居間に戻ってきながら、長光が二人に声を掛ける。
「今日は道場に顔出しするかい?」
「うん。行くよね、カナ?」
「うん……そのつもり」
「そうか」
 座り、大分取り分が少ない自身の分のカステラを一口。
「……今日は徹も美幸も雨月(うげつ)君も出てくれているんだ。たまには二人も日頃の鍛
錬の成果を診て貰うといい」
「あぁ、今日は三人とも出てるんだ」
「……じゃあ、食べ終わったら行くね」
 もぐもぐと。残りをたいらげつつ、二人は答える。
「ああ。私も後で顔を出そう」
 そして、湯飲みを片手に長光もそう言った。

 稽古着に着替えると、舞子と奏は道場へと向かった。
 がっしりとした全体として長方形の建物。入り口の前に立つと、防音が敷いてあるとはい
えども、剣撃のぶつかる音や気合を込めた掛け声が重低音の如く耳に響いてくる。
 身体に慣れとして染み込んだいつもの音色。
 二人は、きゅっと気を引き締めると扉の取っ手に手を掛けた。
 ざわっと聞こえていた声や音が大きくなる。目に映るのは稽古に勤しむ門下生達。その数
はざっと三十人前後だろうか。
「ん? おぉ、二人とも」
 その中で真っ先に二人に気付いたのは、彼女達よりもずっと体格のある、大男と表現する
にぴったりの男性だった。
「こんにちは~」
「こんにちは、小金井さん」
「おぅ」
 小金井徹。全部で五人(うち二人は長光と響子である)いる道場の師範代の一人である。
 使い込んだ跡が窺える胴着から伸びる両腕は丸太のように太い。刀剣を中心とし、種々の
得物に応用・派生する佐々天心流の中で敢えて拳闘スタイルを選ぶ、そんな漢だ。
「お~い、舞子と奏が来たぞ」
 歩み寄る途中で、徹が稽古中の面々に声を掛けた。
 二人が入ってきた段階で既に気付いていた者もいたようだったが、ここで初めて稽古の手
を休める動きを見せ始める。
「は~い。じゃあ、一旦止め~」
 そこで門下生達を眺めていた女性がパンパンと手を叩いた。
 少しざわつきつつも、思い思いに一息をつく方々の息づかいが道場に四散する。
 その様子を、壁際にもたれ掛かった青年が静かに眺めていた。
「およ? 別に止めなくてもいいのに」
 そう言いながら、舞子は軽く跳ねたり関節を曲げ伸ばししたり、簡単なストレッチを既に
始めている。奏も同様にして静かに呼吸を整えつつ、無言で頷いて同意を示す。
「気にしないで。折角この人数と貴方達が揃っていることだから。ね? 雨月君」
 端正な顔立ちで答えたのは、同じく師範代の一人を務める女性、菊池美幸。
「……僕は構いませんよ。見る事もいい勉強になる」
 そして彼女の振りに物静かに頷く青年、村沢雨月は五人の師範代の最年少である。
 二人の言葉。舞子と奏は互いの顔を見合わせた。
「さっき長光君から内線があってね。ちょっと相手してあげてみてくれって」
「と、いうわけです。一戦、組み手をお願いできますか」
「あぁ。そういう事ね。いいですよ」
「……うん」
 二人は頷き、アップを終えて門下生の面々に見守られる中、道場の木目の床の奥へと移動
した。奏は壁際に納められた木刀を、雨月は槍に見立てた長棒を手に取る。入り口側に門下
生達が集まり彼女らの動き回るスペースを確保し、その先頭に美幸が立つ。
「それじゃあ、これから二人に実践をして貰います。皆には速過ぎるかもしれないけれど、
力量ある者の実際の動きを見るのも立派な修行の内よ」
 はい、と頷いている門下生達。
 彼らは少年少女から青年ほどの年齢まで、年齢層は割合幅広い。
 ただ、男子連中の舞子と奏を見る眼が何処か熱心なのは……きっと気のせいだろう。
(……恥ずかしいな)
 ちらと彼らを見る奏。自分の実力に無自覚とは言わないが、熱心なのもどうなのだろうと
思う。姉とは違い、別に目立ちたいという意識はないのだけど。
(いけない……。集中集中……)
 はたと、いつものように無駄な思考を取り払い、静かに木刀を構える。
 舞子も奏の隣で口元に微笑を浮かべながら両拳を握っている。
 二人に対峙するのはそれぞれ、徹と雨月の両名。演舞に近い建前ではあるが、舞子と奏の
実力は同じ道場の仲間同士よく知っている。自然と彼らの表情も真剣そのものになる。
「……それじゃあ、用意はいいわね?」
 美幸がしんと緊張の空気が見え始めた一同を見渡して確認を取る。
「では……始めっ!」


 ──これは、間違いなく過去の幻影だと思う。
 優紀の瞳に映し出されているのは、少し色褪せた写真のような色彩の世界だった。
 あの頃も広々とした佐々岡の敷地の一角にあった武道館──佐々天心流の道場。
『はぁ、はぁ……』
 その道場の周りを十数名の胴着姿の子供達が走っていた。走り込みという奴である。
『……うぅ。し、しんどい』
 その中に、あの頃の自分はいた。
 皆同様、胴着こそ着てはいるがどうにも似合わず着られているという表現をした方が正確
であるように見える。他の面々も息切れをしている様子はあったが、自分は更に輪をかけた
ように疲れているようだった。
 次々に抜かれていく自分。
 その度に心が折れていくような気がした。
『……大丈夫?』
 そうしていると姉妹と見える二人の女の子がやって来る。
 遅れているのではく、他の皆をぶっちぎりで引き離して。
『だ、駄目かも……』
『大丈夫大丈夫。まだまだ準備運動だよ~? ほら、ガンバガンバ』
『……行こ?』
 へとへとになっている自分に、笑いかけて背を押してくれる姉と、くいと手を引いて心配
そうに自分の様子を見ている妹。
(…………)
 身体がしんどいのは体力の差。もっと鍛えれ続けていたなら、自分も彼女達に及ばずとも
ある程度は体力はついたかもしれない。苦痛の記憶も少しは薄らいだかもしれない。
 だけど、僕は忘れられない。
 ご近所さんの、幼馴染のよしみで加わってみる事になった佐々天心流の修行。
 それを半年も経たない内に辞めてしまった事を。
 子供にしては負荷の大きい運動量が嫌だったのではない。
 それだけなら、何とかなったのではと思う。支えてくれる幼馴染達がいた。見守ってくれ
る人達がいたから。
 だけど、
「…………」
 耐えられなかった。
 思わず目を瞑っている自分がいた。サァッと過去の幻影も視覚から消えていく。
 疼く傷のように、ジクジクと体内を駆け抜けていく内側からの痛み。
 ──怖かった。
 子供ながらに佐々天心流の行き着く先、先生達が垣間見せる、常人という範疇をはみ出し
かねない「力」に対して、あの頃の自分は怖くて耐えられなかった。
 もしこのまま将来、あの力で誰かを傷付けてしまったら。
 もしこのまま将来、あの力で舞姉や奏が……。
『ごめ、ん……なさい……ッ!』
 ボロボロと涙をこぼしながら、それでいて内からの恐怖を説明する事ができなかったあの
頃の自分の姿が脳裏に過ぎる。無意識の内に、結んだ唇に力がこもっていた。
 ──僕は逃げ出したんだ。
 そして、傍観し護られる側になった。
 後悔は……間違いなくある。
 あの日もそうだった。成長に従い、どんどん強くなっていく舞姉と奏にあの頃の恐怖を感
じたことも……正直あった。でも、それと同時に彼女達を理解してやれないのかと問う自分
を感じて頭の中で真っ黒に落ちていくように錯覚した。
 二人は、皆は大事な人達なのに。
 だけど……今も昔も果たして彼らの領域で立ち続けられるだろうか?
 きっと、難しいだろう。もう僕には戻る資格なんてないんだ。
 だからせめて……二人の日常になろう。そう言い聞かせてきたんじゃないか。
 そうだよ……。僕は何を今更──。

 ガシャン!

 突然、耳に響いてきた金属音。
 優紀はその音で頭を叩かれたようにして我に返った。
 世界は、色褪せてなどいない。見慣れた家の中だ。そうだ……僕は。
「……転がり落ちたのか」
 床に、フルメタルのネジ回しが鎮座していた。
 優紀はそっと屈んで手に取ると、腕に抱えた工具を詰めたボックスの中に戻す。
「……」
 立ち上がり、少し振り向くと廊下の窓から眼下に佐々岡の道場が見えた。
(……あ)
 窓にうっすら映る自分の顔。
 その頬には、涙が伝っていた。
「…………」
 空いた方の腕で服の裾で拭う。ぱちぱちと数度瞬きをする。
 何で今になって思い出したんだろう。だが、すぐに考えるのをやめた。
「……急ご」
 そして、工具のボックスを抱えたまま廊下を進んでいく。

「お。どうだ、あったか?」
 自室に戻ってくると、大吉が菓子をつまみながら漫画を読んでいた。
 テーブルの上に置いておいたお盆の上のウーロン茶も、彼の分が半分ほどに減っている。
漫画以外にも雑誌が数冊彼の傍に無造作に置かれている。
 少し、待たせてしまっただろうか……。
「うん。こんなのでいいのかな……?」
 座りながら、優紀はボックスを彼に手渡した。
 中をもそもそと検めながら、大吉は「ふんふん?」と小さく呟いている。
「ああ、十分だ。これだけあればメンテもできる」
 そしてそう言うと、上着の内ポケットから例の彼の得物であるトンファーを取り出した。
 数種類のネジ回しなどを器用に使い分けながら、あっという間に対のトンファーを各部に
バラしてゆく。
「……相変わらず器用だね。大ちゃんは」
 大吉は見た目の体格の良さとは裏腹に手先が器用だ。
 それはおそらく彼の実家が『鳴神サイクル』という自転車・バイク屋をやっている事に起
因するのだろう。物心ついた頃には父の仕事振りを見、成長と共にその機械弄りを手伝って
きた経験のある彼には、そういった物作りのスキルが身についている。
 この仕込みトンファーも彼自身が作ったものだ。
「まぁ、慣れみたいなもんだよ。親父の手伝いの延長だろ」
「だとしても凄いと思うけどなぁ」
「ん~……でも、こういうのってそういう学校出てりゃできる奴もいるだろ?」
「それは……そうかもしれないけど」
 とはいえ、彼自身その技能自体に対しては、あまり枷になるようなプライドは持ち合わせ
ていないようであるが。
「俺はさ」
 大吉はすいっとパーツを掌に載せて目を凝らしながら、
「こうして武器を工夫でもしねぇとそんな強かねぇからな」
 そんな事を静かに呟いている。
「…………そうかなぁ」
 優紀は、そんな彼の姿をテーブルに肘をついて眺めていた。
 その静かな返答に彼がちらとこちらを見遣る。
「……悪ぃ。そんなつもりじゃ」
「え……? あぁ、ううん。大丈夫」
 いけない。さっきの事を引きずっていたのか。
 優紀は思わず微笑んで平静を装おうと務めていた。
「……気にする事なんてねぇよ。奏ちゃんも言っていたろ」
「え?」
「……いいや。何でもねえ」
 今度は大吉が笑みを浮かべる番だった。
 そうしている間にも、分解されていたトンファーがメンテナンスを済ませて、手早く再び
組み立てされていく。慣れたものである。
 無数のパーツが元のトンファーに集合を完了し、彼の両手に収まった。
「……うん。これでよし」
 そう満足げに呟いてから、彼はトンファーをしまう。
 それから、二人はテーブルを挟んで菓子をつまみ、茶で喉を潤しながら暫くの間何気ない
談笑を続けた。学校の事、流行の事、今後の大吉の対舞子の対策会議……等々。優紀はその
まったりとした時間を大事に拾い掻き抱きながら、あの出掛かった昔話がこぼれないように
内心で注意を払っていた。
「──お? もうこんな時間か」
「え? あぁ、本当だ」
 そして、時間はあっという間に過ぎ、ふと二人が時計に目をやるとすっかり夕暮れ時を告
げているのに気が付く。窓の外からも茜色の光が静かに差し始めていた。
「そんじゃ、そろそろ帰るわ」
「うん」
 そのまま鞄などの荷物を抱えて部屋を出る大吉。優紀も玄関先まで彼を見送る。
「じゃあな、優紀」
「うん。また明日」
「おう、またな」
 ひらひらと。大吉は背を向けたまま軽く手を振りつつ、天粕宅を後にする。

「ありがとうございました~」
「おう。気をつけて帰れよ」
「気をつけて」
 数分後。大吉が佐々岡家の門の前を通りがかった時、軒先に徹と雨月の姿があった。
 中からは何人も、手荷物片手の青少年達が出てきては立ち去っていく。今日の稽古が終わ
って帰っていくのだろう。
「お?」
「……あ。どうもっす」
 少し離れて暫くその様子を見ていると、二人に気付かれた。
 大吉はにやつきつつも軽く頭を下げる。
 すると雨月と頷き合い、徹がその足でこちらへと歩み寄って来た。
「久しぶりだな、鳴神君。優紀君の所だったかい?」
「えぇ。帰りしな駄弁りに、ちょっと」
「そうか」
 舞子に個人的に稽古をつけて貰っている関係から、大吉は以前より道場の面々とは多少な
りとも面識がある。特に同じ格闘スタイル(トンファーも含めるのかは微妙な所だが)であ
る徹には、どうやら目を掛けて貰えているらしかった。
「……無駄とは分かっているが」
 頭上に広がる、茜色の空。
「うちの門下生になる気は……やっぱり無いか?」
 暫くその夕暮れを見上げた後、徹はそう大吉に問い掛けてくる。
「……」 
 当の大吉は、苦笑のまま黙っていた。
 舞子に稽古をつけて貰っているぐらいならもっと本格的に修行してみないか。そう誘われ
たことはこれまでにも何度もあった。それは、舞子から自分の事を聞き及んでいるからでも
あるのだろう。
「……誘いはありがたいんですが。すみません」
 それでも大吉の答えは毎回同じものだった。
「そうか。はは、やっぱりなぁ」
 それ故か、申し訳なさそうに軽く頭を下げる彼に対し、徹から不機嫌さは垣間見えない。
むしろ、より彼を気に入っている様子すらある。
「……俺なら、今の状況で充分です。舞子さんに稽古をつけて貰えてるだけで」
「そうか」
 ふぅと息をつき徹は再び空を見上げた。
 その茜にほんのりと着色される横顔を大吉は静かに見ている。
「やっぱり、彼の為……なのか?」
「……ええ。まぁ」
 沈黙が流れる。
 離れた位置の門前では、雨月に見送られて門下生達が大方帰っていった所だ。
 ちらりと、大吉は斜め後ろを振り返っていた。
 小高い位置に見える鳥居。八意神社。優紀の実家。
 沈黙の間に溜め込んだ息。
 大吉はそれらを静かに吐き出すようにして、
「……もし俺が正式にここの門下生になっちまったら、苦しんで辞めていったあいつに余計
なプレッシャーを与えちまいますから」
 静かにそう答えていた。

「──明日は列島を覆う大きな低気圧の接近により、全国的に下り坂となるでしょう。天気
の崩れは週中ごろから週明けまで続きそうです。一部を除き梅雨入りを迎えた──」
 つまみを回し、流れていたラジオの天気予報を途切れさす。
 何度か選局したが結局電源を落とすことにした。
「……ふぅ」
 自室で、優紀は一人夜の静寂にそっと身を寄せていた。
 座る机の上には読み終えた文庫本が一冊。脇の本棚に目を移し違うものを読もうかとざっ
と背表紙の文字を流し読んだが、結局手に取る事はなかった。
 頭上のの照明からのほんの僅かな機械音以外、目立った音は聞こえてこない。立地条件的
にもここは夜なると静かになる。独り明かりの下で佇むには好条件ではあった。
 故に、こうした時間には否応にもその日や過去を振り返りがちとなる。
(今日は、やけに昔を思い出す事が多かったな……)
 昼間の居眠りの件も然り。家の廊下での件も然り。
 もしかして何処かおかしいんじゃないか。そんな憶測すら自分の中で静かに飛んでいるか
のようだ。まさか……ね。その思考を軽く首を振って追い払う。
 サァッと全身が冷却を受けるような感触だった。数時間前に入った風呂の温もりもだいぶ
冷めてきている。その所為もあるのだろうか。
(……今日は、もう寝ようかな)
 机の上の目覚まし時計を一瞥し、優紀は椅子の背でぐぐっと伸びをした。
 本当に湯冷めでもしたら風邪を引くかもしれないし。
 何より、妙な気が多い時には早めに心身を休めておいた方がいいだろう。
 優紀は服を脱いで薄着になると、部屋の電気を消してベッドに潜り込んだ。
 薄暗くなった自室の天井をちらりと見つめ、静かに目を瞑る。
 そうさ、あまり考えないようにしよう。
 皆に要らぬ心配をさせちゃ……いけないんだから。平穏が、何よりも……。
「……おやすみ」
 小さな声で呟き閉ざした視界を切欠に、眠気を内側へ内側へと手繰り寄せていく。
 夜。静寂。暗転。
 街を見下ろす暗がりの星空は、少しずつ広がる雲に覆い隠され始めていた。

スポンサーサイト
  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
  2. ユウキのヒカリ
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<(長編)ユウキのヒカリ〔2〕 | ホーム | (長編)アンティーク・ノート〔3〕>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://higurasisouann.blog27.fc2.com/tb.php/15-4e5bcb3d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

訪問者累計

最新記事

最新発言

検索窓

月別履歴

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

分類/索引

【案内板】 (2)
【小説:短編】 (20)
本の蟲 (1)
硝子野不動産店 (1)
夏の日の幻影 (1)
四番線の彼女 (1)
夢視の宿 (1)
線を曳く町 (1)
炬燵の神様 (1)
三者三盗噺 (1)
色眼鏡 (1)
奴らは攻城戦師 (1)
詰め替える (1)
同じ籠の狢 (1)
二十年後の遺言 (1)
轍の先 (1)
水に流せば (1)
真夜中の御二柱 (1)
いつか見た夢 (1)
神様達の初詣 (1)
白い花束 (1)
丸の代償 (1)
【小説:長編】 (150)
Amethyst League (6)
アンティーク・ノート (3)
ユウキのヒカリ (5)
NIGHT GUNNERS (5)
レディ・ルーン-Bonds of RU'MEL- (6)
ユーヴァンス叙事詩録-Renovin's Chronicle- (88)
死に損いのデッドレス (5)
Dear SORCERY (4)
サハラ・セレクタブル (28)
【企画処】 (343)
週刊三題 (333)
その他参加物 (10)
【資料庫】 (15)
【落書帳】 (6)
【詩歌帳】 (6)
【雑記帳】 (322)
【読書棚】 (30)
【遊戯倉】 (24)
path. (4)
decide: (3)
ユー録FW (16)

記事録

交友関係

このブログをリンクに追加する

(RSSリンク)

(QRコード)

QR

@long_month からのツイート