日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)アンティーク・ノート〔3〕

 彼らは峠の道路をひた走っていた。
 一方は、乗用車を運転する男性と女性だった。
 親しげに談笑を交わしながら、車は螺旋状にくねる夜長の峠道を滑っていく。運転席側の
男性の横目には、眼下に夜に佇み灯りを点す街の遠景が山の木々の合間から垣間見える。そ
れとは対照的に、今走る峠道は灯りがまばらで何処と無く閑散としている感じである。
「どうかした?」
「……いや、何でもないよ」
 僅かな脇見も気になったのだろうか、女性から声を掛けられ、彼は再び運転に集中する。
 再び、お互いに何とも無い会話を交わし始める。
(……うん。とりあえず、今の所は順調だな)
 彼は内心で小さく手ごたえを感じていた。
 何せ、今夜のドライブはいつもの場合とは心積もりが違うのだ。
 彼女にそれと気付かれぬように目を配りつつ、片手でそっと上着の裏ポケットを上からな
ぞってみる。四角い容器の感触が掌に伝わる。確かに今、ここに持ってきている。
(大丈夫……だよな?)
 きゅっと気を引き締める。
 ただの贈り物ではない。それは一生でも数度あるかないかの代物なのだから。
 今上っている道を抜ければ、満天の星空が広がる夜景スポットに辿り着く。彼自身、普段
からも時々星を見に訪れている場所でもあった。
 あそこなら雰囲気もいい。一世一代の大勝負をするには効果的な場所だと思う。
 助手席で笑う彼女の顔を見遣る。
 彼女は喜んでくれるだろうか? もしかしたら断わられるかもしれない……。
 だけど……それでもいい。自分の気持ちを閉じ込めるより、いっその事吐き出してしまう
方がたとえ痛手を負ったとしても後悔はしないと思うから。
 だから、今自分はここにいる。舞台へと駆け上ろうとしている。
「ほら、前見てよ前」
「あ、あぁ……」
 彼女に軽く注意を受けてばっとハンドルを握り直す。
 いけない。先の事を考え過ぎた。辿り着く前に何かあったらどうするんだ。
 今も、そしてこれからも守りたいと思う、守っていきたいと誓う女性(ひと)を乗せてい
るというのに。
 車が走る音がサァァ……と耳に響いてくる。適度な振動。ヘッドライトに照らされる夜の
峠道。少し開けた窓の隙間から入ってくるのは、昂り気味の精神を慰めるように吹き流れて
いく春先の夜風。夜の不気味さが少し和らぐかのように。
「……綺麗ね」
「……あぁ」
 ちらりと。点々と光を灯す街がより眼下に映り、遠くの景色となっている。
 二人は車に揺られて目的地を目指す。

 もう一方は、軽ワゴンに乗り込んだ若者三人連れだった。
 歳若く皆遊び慣れている感じ。彼らはいつものように夜な夜なに繰り出して遊んで回って
いた。車内に響くのは強音量のロック音楽と騒々しい彼らの話し声。荒削りな品性の談笑。
 それは今日に限った事ではなく、限られた若さの中を全力で謳歌するある意味で貴重な、
そして同時に軽薄にも取られかねない性質でもあった。
「──で、結局そいつらは別れちまったんだとよ」
「ハハッ! 何だよそれ」
「マジウケる~!」
 彼らにとっては移動中といえど、快適な一時。馬鹿騒ぎと音楽の音量、乗ってきていた気
分とが相まって、ワゴンのスピードは結構な域に達しようとしていた。
 行く道は下り坂。周りには他の車は見えない。ヘッドライトには代わり映えのしない灰色
のアスファルトの道路が淡々と続いている。
 だからワゴンは時折大きくぶれていた。螺旋状に下っていく道、そのカーブにさし当たる
度に大きく遠心力に持っていかれそうになり、車線を越えそうになる。
 だが、注意力が削がれていた彼らはその危険性をしっかりと認識していなかった。

 故に、それは必然の結果だったのかもしれない。
 何度目かの曲線。半分の楕円を描くようなカーブ。そこでついにワゴンがその車体を車線
の外側へと移してしまったのだ。
 更に瞬間、自分達に向けられたまぶしい光。
「──ッ!?」
「やべっ!」
 互いの運転手の顔がライトに照らされていた。同様に驚いた顔。この瞬間、自分の身に何
が起こったのかを直感的に察知した顔。
 だが、もう遅かった。
 その瞬間、巨大な鉄の塊同士が衝突する。
 車線をはみ出したワゴンが咄嗟に交わそうとするが、ままならない。右側を中心に激しく
車体を凹ませて、夜の闇を劈くようなブレーキ音を響かせながら下り坂を滑っていく。
「きゃぁぁっ!」
「ぐぉっ!?」
 乗用車は、ぶつかった反動でぐるりと何度も回転しながら車線の内側、峠の山肌へと吸い
込まれるようにして再びフロントを強打させる。
 二度目の衝撃。更に強い圧迫感。全身をのた打ち回る激痛。耳に残響する遠くのブレーキ
音と衝撃を物語る破壊の音が入り交ざって耳に入ってくる。
 時間にして数秒だった。だが、地獄だった。
 何事もなかったかのように再び夜の闇に静けさが戻ってくる。
 だが、確実に変わったことがある。それは二台の車が衝突したという事。その痕跡。
 遠くでは何とか止まったワゴンがブスブスと煙を上げてぐったりとしており、ワゴンに乗
っていた彼ら二人も、凹み歪みした車内で身体の激痛に身動きが取れなくなっていた。 
(……俺は、どうなった?)
 ぼんやりとした視界にまず映ったのは、眼前に迫り佇む剥き出しの山肌と、大破した愛車
の前方部分の様子。そっと額に手をやってみる。じわりと生ぬるい感触。
 それは血だった。
 頭を打って大量に溢れてきているらしい。通りで、意識が朦朧としている筈だ。
(……彼女は? 彼女はどうなったんだ?)
 ぐぐっと、激痛を堪えながら首を動かす。
 助手席には彼女が残っていた。投げ出されたりはしていない。だが、同じく全身を強く打
ってしまったらしい。エアバックでも防げなかった? それだけの衝撃だったのか?
「ん……ぐぅ……」
「!」
 傷だらけながら、彼女が苦しそうに眉間に皺を寄せて微かに身じろいだ。
 彼はその様子に少しほっとした。少なくとも見た目は自分よりは無事であるらしい。
静寂に混じってやや乱れた呼吸も聞こえてくる。
助けさえくれば……きっと助かる。
(……よかった)
 最悪の形だったかもしれない。目的は果たせていないけれども。
 だけど、彼女は守れそうだ。彼女だけでも救い出せれば……。
 意識が朦朧としている中、おもむろに、傷だらけの身体でそっと内ポケットから今日渡す
つもりだった彼女への贈り物を弄り出す。それは深く青い色をした一つの小箱。それをきゅ
っと握り締めながら彼女を見つめる。
 弱々しくも、愛しい者を見る者の瞳で。
「大丈夫、だ……。守る、から──」
 途切れた言葉。
 そこまで言いかけて、彼はすうっと重くなった瞼に抗えずにその瞳を閉じた。
 力を失い、ぽとりと彼の掌から小箱が零れ落ちる。
「…………」
 鉄屑の錆っぽい臭い。焦げ臭い臭い。血の臭い。
 静寂の闇に紛れて一つの惨劇がその夜、起こった──。


 Note3.モリビト

 妙な沈黙と空気の中、真白は突然やって来たこのスーツ姿の女性を見遣っていた。
(……誰だろう、この人?)
 結構気安く店に入ってきた言動からして常連客か。しかし、以前に見た時音達のやり取り
からも、お化け堂と噂される店自体の風評からも、そうした人物は多くはないと思われる。
(……あっ!) 
 それよりも。真白はハッと気付いた。
 今、この場には沢山の付喪神達が姿を見せているのだ。
 そんな状況を店に入ってきた彼女に見られたら。もし彼女が、自分と同じく見鬼の素質を
知っているかどうかに関わらず持っているとしたら。まずい事になるのではないか?
 そう、真白は弛緩した心持ちを張り詰め直して彼女を見極めようと──
「あれ? 智秋君、この子達出て来てるけど平気なの?」
「……え?」
 すると、ふっと女性がおもむろに視線を天井付近──付喪神たちが浮かんでいる辺りを見
上げてそう何気ない感じで口走ったのだった。
 思わず声を漏らして彼女を見る真白。
 それに気付き「あ。やばっ」と言った感じで慌てて口を手で塞ぎ、真白に向き直って何と
か誤魔化そうとしているかのような女性。
 ほんの僅かの出来事ではあったが、真白は確信した。
(……間違いない。この人、視えてる)
 しかし何故だ。見られて慌てるのはむしろこっちの方の筈ではないか。なのに、彼女の反
応はまるで彼女も既知であるかのような……。
「大丈夫ですよ」
 心持ち小首を傾げかけていた真白の背後で、智秋がぽつりと言った。
「一応彼女には、さっき大方の事は話しましたので」
「え? あ、そうなの?」
 丁寧な口調ながらも、表情は半目で、声色も非難の色を込めて女性に言の葉を投げる。
 その言葉を受けて、女性は何処かほっとしたように苦笑していた。
 やはり、知り合い……なのだろうか。真白は二人のやり取りを見ながら、どうやら彼女が
ただ偶然に訪れただけの人物ではないという事を再確認する。
「で……。その娘、誰よ?」
 そうしていると、ぴっと女性が真白を指差して智秋に問うた。
 言われてみれば当然の疑問だろう。
「あぁ……。依頼人ですよ、この前の件の」
「へぇ、そうなんだ。あなたがねぇ……」
 面倒臭そうに、ちょっとぶっきらぼうな感じでその質問に答える智秋。
 それを聞いて女性が「ほぉ……」と目を細めながらこっちへと近寄ってくる。その背後で
慈門が戸口を閉めている。真白は心持ちその場で腰を引かせつつも、彼女の何処か吟味する
ような眼差しと笑みから目が離せなかった。
「は、初めまして……。冬柴真白です」
「あぁ、うんうん。こちらこそ初めまして」
 ぺこりと頭を垂れて挨拶を一つ。女性も気さくな感じで応じてくれる。
「おっと、私の方の自己紹介をしないといけないね。えっと……」
 すると女性はスーツのポケットから何かを取り出すと、
「私はこういう者です」
 パカッと開いた手帳を見せてくる。
 それは、ドラマでも見た事のある……。
「……えぇっ! 刑事さん!?」
「そ。物守署で刑事やってます。まだまだ下っ端だけどね」
 警察手帳だった。
 間近で見せてくれた手帳には、今よりも少々フォーマルな制服に身を包んだ女性の顔写真
が貼ってある。刑事である旨の他、色々な文言が記されていた。
 そして何よりも真白の目に留まったのは、彼女の氏名欄。
「えっと……。宝生夏海、さん」
 思わず目を瞬かせながらその名を呟いていた。
 宝生。それは智秋と同じ苗字。そして彼と親しそうなこれまでの言動。
 脳裏に一つの可能性が浮かび上がってくる。
「あの、もしかして刑事さんは……宝生君のご家族、なんですか?」
「ん? あ~家族、ではないかな。私一人暮らしだし。まぁ、でも殆ど正解かな」
 ふふっと笑う女性、夏海。
「……叔母さんだよ」
 代わりに智秋が答えた。
 おばさん。その言葉に、彼女が一瞬ぴくっと笑顔のまま顔を引き攣らせる。
「ち・あ・き君? その呼び方は」
「事実じゃないですか。叔母さん」
 眼差し小競り合いが真白を挟んで始まろうとしていた。あくまで笑顔を保とうとしつつ、
訂正を求めようとしたようだったが智秋は少し意地悪っぽくバッサリと言い捨てる。
そう言われて「うぅ。どうせおばさんですよ……」といじけ始める夏海。
「大体、姉さんが学生結婚するから私はこの歳でおばさんって呼ばれる羽目に……」
「…………」
 そうぶつぶつとぼやき出したので、真白も何だか気の毒に思えてきた。個人的な見立てで
はあったが、確かにオバサン呼ばわりされるほどあまり歳には見えない。
 それも、コロコロと表情を変えるある意味での溌剌さから来ているのかもしれないが。
「……それで一体、何の用ですか?」
 だが智秋はそんな彼女の様子には全く気を止める様子もなく、さっさと話題を移しにかか
っている。親戚だけあってか、その辺りの深入り加減は心得ているようである。
「うん。そうそう、それなんだけどね……あ、お茶くれない?」
「ん? あぁ、分かった」
 あまりくよくよはしないのか、夏海はパッと気分を入れ替えるようにして顔を上げると、
ひょいと和室の溝の上、真白の横に座り込んだ。ついでの様に顔を上げて言われるがまま、
菊乃がこくと頷き障子の奥へと消えていく。
 少しやり取りのペースが速いなと、真白はふとそんな事を思考に過ぎらす。
 真白がいるのが気になるのだろうか。夏海はちらっと彼女を一瞥すると、少し慎重になっ
て言葉を選ぶようにして話し始めた。
「ちょいと事件があってね。そこで視て貰いたい所があるのよ」
「……またですか」
 面倒臭いな。言葉の端々からそう漏れ出すかのように智秋は短く呟いた。
 真白も別の思考を巡らす。彼女は刑事だという。なのに、何故いくら親戚とはいえ彼に協
力を求めるような事を言いに来たのだろう。彼はあくまで……。
(もしかして……?)
 そして、真白が一つの可能性を脳裏に描いた時だった。
「何? 断わるつもり?」
 また。という事は過去にも彼は彼女に協力したことがあるという事か。
 夏海は智秋の返答は既に予測済みといった感じで、ふふっと口元に笑みを浮かべる。
「……この前の件で、足を出してあげたのは誰だったかしらねぇ?」
 今度は彼女が意地悪っぽく笑う番だった。
 足を出した? この前の件?
 真白は繋がりそうで繋がらないそのフレーズに目を瞬かせる。
 一方で智秋といえば、夏海のその言葉に一瞬、眉間に皺を寄せると、
「はぁ……。分かりましたよ」
 すっと卓袱台の上に乗っかったままだった例の古書を手に取り、上着の内ポケットへと押
し込んだ。ふわふわとエリーが彼の傍らを漂い、やがてふっと姿を消した。
 菊乃がお茶を淹れた湯飲みを片手に和室に戻ってきた。「ありがと」とそれを受け取ると
夏海はちびちびと飲み始める。「そそ。それでいいのよ」と満足気に智秋を見上げている。
「今からですか?」
「そうね。智秋君も、さっさと済ませたいでしょ?」
「ええ」
 真白の脇を通り、智秋は靴を引っ掛けて店内を通っていこうとする。夏海も、茶を飲み干
すと卓袱台の上に空の湯飲みを置くとその後を追う。
「……じゃあ、そういうわけだから行って来る」
「ええ。行ってらっしゃい」
「いってら~」
 時音達に見送られて、戸口まで。
 慈門がすれ違いにこちらへと歩み始める。そして戸口に手を掛ける直前、智秋はもう一度
振り向いた。少し睨むように、念を押すかのように真白の方を見ている。
(うぅ……)
 思わず後退りしている自分がいた。
「彼女の件、抜かりなくやっておいてくれよ」
「……ええ」
 時音が柔らかに微笑んで短く答える。少し智秋はそれを見遣ってから、今度こそ戸口を開
けて夏海と共に外に出て行った。
 ピシャンと閉まる戸。暫くして外から聞こえる遠のいていく車のエンジン音。
「…………」
 店内には、真白達が残された。
 ぼうっと戸口の方を見遣ったまま真白はその場で固まっていた。
 その様子をひそひそと天井付近で浮かぶ付喪神たちが眺めている。和室の方へ上がってく
る慈門。室内に立っている菊乃と時音。壁際で胡坐を掻いたままの灯馬。
 抜かりなく。
 それは間違いなく、自分の記憶を消しておけという意味。
「……えっと」
 真白はぎこちなく振り返った。彼は出て行ってしまったが、ここにはまだ霊能者(?)や
多数の妖怪が居座っているのである。
 一度は夏海の来訪で遠のいていた緊張感が、じわりじわりと自分を覆い始めてくるような
感覚と共に押し寄せてくる。
「ふふっ……」
 だが、時音は微笑んでいた。
 先刻と同じ様に見えて何処か違う。言うなら剣呑さが消えている……? よく見れば菊乃
や灯馬、慈門にも似たような印象の変化を感じたのだ。
「そろそろお昼よね」
「へっ?」
 不意に言われて、真白は少々情けない声を出していた。
 それでも時音は相変わらず艶のある微笑みを崩さず、一種の温かさすら与えるように真白
を見遣っていた。畳の上を滑るように歩き、奥の障子へと手を掛ける。
「お昼にしましょう。真白さんも、是非食べていって?」
 そう言ってにっこりと微笑みを投げてくると、余韻のようにさらっとその長い髪を靡かせ
て奥へと消えていった。
「……?」
 少々呆気に取られて目を瞬かせる真白。
 見てみれば、灯馬も慈門も食事を待つ家族よろしく卓袱台に腰掛けている。菊乃は湯飲み
を片手に「暫く待っていてくれ」と微笑んで、同じく障子の奥へと消えていく。
(……どういう事なの?)
 真白はわけが分からなかった。
 ふと、部屋の柱時計に目を遣ってみる。
 時刻は、ちょうど昼を半時ほど回った頃を指していた。


 目覚めた時、私は彼の目の前にいた。
 黒く深い水底のような深淵。頭上から微かに聞こえてきたのは、彼の迷いを込めた逡巡の
声色。同時に先の未来に想いをはせる幸福な者の心の音色。
 何度となく、彼は私の下へとやって来たようだ。
 その度に思いを巡らせ、悩み、葛藤する。
 それらが遙か上方の水面からしばしば沈んでくるようで、朧気な自我の中でたゆたう私に
とっては何処か心地のよい刺激になっていただろうと思う。
 だから、私は彼の(知らず知らずの内に)投げかける想いに興味を持っていた。
 正直言ってまだ不完全である私には、最初はよく理解できなかった。
 彼は既に答えを持っていた。
 なのに、彼はずっとそれを出し惜しみして、行動する事を止めていたようなのである。
 それを、人間は躊躇や葛藤などと呼ぶようだ。それが、人間が単純に本能だけの生き物で
はないからだと理解するのに、少々時間を要してしまった。
『……すみません、これ下さい!』
 だが、彼はある日決意を固めたようだ。
 どうやら私は売買される存在であるらしい。
 しかし、不思議とその事に怒りや悲しみなどを覚える事はなかった。何というか、それは
もう当然の事、こうして目覚めるより以前からの宿命のような気がしたからだ。
 そして、私は彼の手の中に納まった。
 彼は時折、私を手に取ってはぼんやりと眺めている。何かを思い描いているようだった。
 ただ、触れずに眺めていた時は違うもの。直接触れることで分かる事もある。
 ようやく、私にも分かるようになってきた。
 彼がずっと携えていた答えは……愛情という表現で正しいのだろうか。
 何も、何度も話しかけてくるような真似はなかったものの、私は彼の掌越しに、いや彼か
ら滲み出る内心から様々な事を学んだ。
 知るたびに人間の心とは、実に奇妙なものだと思ってならない。
 親しき友と語らう享楽。
 上司という生き物に翻弄された事への怒り。
 そして……誰かを想い焦がれるという愛情。
 実に多くの、複雑な仕組みが彼らを動かしているのだと知る。ここまで豊か、いや面倒な
仕組みがあってどうするのだろう。そんな事も思ったものだ。「生きる」事に支障を来たす
ような要素を持ち合わせている彼らは、私と同じく無駄を持つという意味で不完全さがある
のではないか、とすら思った。
『喜んでくれるかな……。も、もし断わられたら、どうしよう……』
 夜。部屋に寝転び私を挙げた掌の中で転がしつつ、また彼は独り逡巡を見せている。
 それは彼の下にやって来てから何度も見た光景。
 そして、何度も繰り返された中で分かった事がある。
 彼は迷っているという事。
 大切な女性(ひと)へ、その思慕を告げるべきか否か。
心に閉じ込めて、少なくとも幸せな現状を続けるか、それともそれらが崩れてしまう可能
性の中で更なる段階へ承認を求めるのか。

 嗚呼、ようやく知れた。
 彼は欲しいのだ。守りたいのだ。
 身近なその者を。
 結構回りくどくなってしまったが、これは「生きる」本能と結び付くのではないか。
 だとすれば私にも理解できるかもしれない。少なくとも彼の根っ子にあるものを知る事は
できたように思う。
 尤も、人間はそれらを素直に欲求と呼ぶのに幾許かの抵抗があるようだが……。
 だからか、私も何時しか彼と同じ想いを抱くようになった。
 まるで彼の想いを私が引き受けたように。
 だが、その事自体に私は疑問を持たなかった。それもまた、私が私である以前より運命づ
けられたものであると悟っていたからなのかもしれない。
 引き受けよう。それが「心」と呼ばれるものなら。
 それが貴方を貴方にせしめている様に、私も私にせしめてくれるのだろう?
 満ちていく。継ぎ接ぎのような私に、潤うように満ちていく。
 ……そうか。
 私も……私も欲しかったのだ。
 心を。目覚めた時からずっと。漠然と求めていた。人間への理解に苦心しつつも、彼らと
同じようになりたいと願う自分がいたのだ。
 同じなのだ。私も彼も。今、一つの想いで私達は繋がっているのだろう。
 たとえ、語り掛ける事はできず、ひたすら彼の言葉の端と伝わってくる感触だけしか彼と
共有するものがないと言われようとも。
 だが、その共有と共存も終わる。運命付けられていたように悟っている。
『……もしもし? 俺だけど』
 意を決した彼が、電話越しに話している。
 そうか。貴方は遂に動くのだな。
 閉じ込められたままでは嫌だ。だから開け放つ。その後の事はあまり考えない。閉じてい
るままではきっと自分を変える事はできないだろうから。
『うん……うん。じゃあ、またその時にね』
 やがて、電話を切った彼がゆっくりと振り返った。
 口元が笑い、小脇を絞めて小さくガッツポーズという仕草を見せる。
 どうなった? 問えずに問う私を持ち上げて、彼は破願した。
『彼女からオッケー貰ったよ。これで……舞台は整った』
 照明の光が私に反射する。
 映り込む、彼の少し興奮気味の表情。後は決行を待つだけだと。
 つまり、私が彼女に引き渡される日……。
 それでもいい。貴方が己の心を伝える事ができるのなら。私は満足だ。出会ってから、直
接に話す事はなくとも、こうして多くの事を学びとれたのだから。
 後は任せてくれていい。
 貴方の想い、必ず届けてみせる。
 彼女を貴方へと引き寄せてみせよう。彼女を守ってみせよう。
 それが、私の「意味」なのだろう……?


 現場は、曲線カーブの峠道だった。
 交通課より急遽応援に来て欲しいとの連絡を受け、夏海は同僚の園村と共にその現場へと
やって来ていた。
「どうも。刑事課の宝生です」
「同じく園村です」
「あぁ、どうもよろしくお願いします」
 周囲に張られた規制線を、警察手帳一つでフリーパスして未だ忙しく鑑識班が動き回る現
場へと入る。出迎えてくれた警官と挨拶を交わして、
「それで。刑事課(わたしたち)が出張ってくる理由、頼めますよね?」
 と彼に促した。
 事前の話によると、今回ここで起きたのは事故だと聞いている。
 カーブを曲がりきれなかった軽ワゴンが車線を越えて、対向して来た乗用車と激突した。
両車両共に激しくスピンしたらしく、道路に残るタイヤ痕が生々しい。ワゴンの方が数メー
トル先まで下って何とか止まったが、乗用車の方はそのままスピンした後、勢いを殺し切れ
ずに山肌部分に激突した模様。
 乗用車及びワゴンの運転手が死亡、乗用車の方の助手席に乗っていた女性は大怪我を負い
ながらも幸か不幸か命に別状はなく今も入院中だという。
「聞いた話からしても、それほど特異な事故ではないと思うのですが……」
「ええ。まぁ」
 夏海は改めて聞き及んだ情報を整理しながら、そう確認するように言った。
 交通事故。それだけなら、本来刑事課の要員まで出張ってくる事は少ないのである。
 人が死んでいるのには変わりはない……とは言うのだろうが、事件は毎日のように起きて
いる。セクショナリズムが機能しないと回らないのもまた事実ではある……。
 交通課の巡査は苦笑いのような、いまいちパッとしない表情で言葉を濁した。
「ですがね。どうも妙なんですよ」
「妙……とは?」
 夏海の横で怪訝に園村。
「見て貰った方がいいですな」
 こちらですと巡査に案内されて、夏海と園村は現場の一角に歩を進めた。丁度車線を挟ん
で山肌側に写真撮影のフラッシュを浴びる乗用車の残骸。ガソリンが引火したのだろうか。
車体は半分近くが焦げている。その車体とは線対称の位置に、それはあった。
「……これは」
 夏海は思わず眉間に皺を寄せた。
 巡査に示され、落とした視線。そこには一部だけが大きく陥没したアスファルトが静かに
その惨状の痕を残していた。方々に大きくひび割れたその窪みの中に納まるように、白線で
人の輪郭が描かれている。
「ガイシャの一人の倒れていた場所です。第一発見者が見つけた時には、とうに息絶えてい
たそうで」
「どっちのです?」
「ええっと……ワゴンの運転手の方ですね」
 念の為か手帳を捲りつつ、答える巡査。
「ワゴンの?」
 短く反復する園村。眼鏡のブリッジを弄りながら、また怪訝な様子を見せる。
「妙ですね」
「ええ。本当に」
 夏海はどっと寄せてくる事前の疲労のような感覚に、大きく息を吐きながら呟いていた。
「事故死ではないんですか?」
 正直想像がつかない。事故で吹き飛ばされたのか? だとすればこの地面の窪みは何なの
だろう。よほどの衝撃──それも人間がぶつかった程度でアスファルトがこれほどまでに陥
没するとは考え難い。
「上から落ちてきたとか?」
「いいえ。タイヤ痕など状況から見ても、事故が起きたのは十中八九このラインですよ」
 園村が螺旋状に上っていく道路の上方を見上げながら呟いたが、巡査は否定した。
「まるで、物凄い力で叩き付けられた感じですよねぇ」
 参ったねこりゃ、と困り顔。
 その言葉を聞いて、夏海はようやく自分達が応援に呼ばれた理由が分かった気がした。
「……要するに、殺しだという事ですか?」
 殺人の可能性。だとすれば刑事課の出番もあり得る。
「おそらくは。まぁ、こんな殺し方をどうやったかまでは分かりませんが……」
 そりゃそうだろう。自分だって検討がつかない。
 それこそ、アスファルトごと人体を圧迫して殺めるだけのパワーを──常人では考えられ
ないような力を以ってしなければ。
「…………」
「宝生さん、どうしました?」
「ん? あぁ、ううん。何でもないの」
 顎に手を当てて考え込んでいると、園村が呼びかけて来た。慌てて何でもないと装って再
び目の前の陥没痕に視線を落とす。
(まさか、ね……でも)
 でも、その可能性は到底上には想像できないし、認めるわけにはいかないだろう……。
「ああ。そう言えばもう一つ」
 と、乗用車の方に目を向けていた巡査がふいと向き直ったかと思うと、思い出したように
別の情報を持ち出してきた。
「乗用車に乗っていた二人。男女なんですがね」
「はい……」
「二人とも外で倒れていたんですよ」
「? それは、車外に投げ出されていたという事では?」
「あ~いやいや、それだとしても妙なんですよね。これが」
 またか。夏海は彼のやや回りくどい言い回しが少し気になりつつも、表情で続きを促す。
 巡査は「ええっと……」と辺りを見渡し、
「丁度あそこ、路肩の所に二人とも転がっていたそうです。綺麗に並んだ格好で」
「綺麗に、並んで?」
 曲線カーブの頂点辺り。白線の外側とガードレールの狭間。
 彼の指差した方向を園村と共に見つめながら、夏海は確かに妙だなと思った。
 偶然にも並んだ格好で転んでいった可能性はなくもないが、どうにも不自然だと思える。
 むしろ『誰かが二人をあそこへ横たえた』と考えた方がより自然ではないだろうか。
 だとしたら、誰が? 何の目的で?
 二人とも燃えていたらしい乗用車の乗員だった事からして、誰かがその火の手から助け出
そうとしたのかもしれない。
「発見者が助けた、というわけではないんですか?」
「いいえ。第一発見者がここを通り掛かった時には、既に綺麗に並んでたようです。さっき
の窪みのと同じ様にね。まぁ、発見者だからといって現場を弄られても困りものですが」
「……そうですか」
 第一発見者のやった事ではない。では誰が? 他の当事者の誰かだろうか。
 判然としない事実関係に、横目で見遣った園村も頭を抱えているようだった。これは厄介
なヤマに当たったかもしれない。そう夏海は思った。
 その間に、巡査は鑑識の一人の所へ歩いていって何かを話している。
 ややあって、彼は数枚の写真を片手に戻ってきた。
「借りてきました。これが、その二人を撮った写真です」
「あ、はい。どうも」
 手渡され、一枚一枚じっくりと検める。
 遠近含めたアングルからも、男女二人が綺麗に並んで転がっている様子が映っている。
 事故の衝撃の強さなのか、投げ出されたダメージなのか、二人は共に身体中を怪我してい
るようだった。特に男性の方は頭部からの出血が酷い。これでは、発見されるまで放置され
たままでは命に関わった事だろう。現に、彼は結果、搬送先で死亡が確認されている。
「…………」
 不可解な点、疑問がその生の光景ですうっと消し飛ぶような感覚になった。
 これほどの事故を起こした元凶は、ワゴン側の無茶な運転にあるのではないか。
不意に、じゅくじゅくと腸が煮えくるような想いがする。自戒すらも含めながら。
「酷いですね」
 隣で園村が口に手を当てて、心持ち気持ち悪そうにしていた。
「宝生さんは、平気ですか?」
「……平気にならない方がいいわ。園村君みたいな反応の方が、全うな人間よ」
 犯人への憤りのような感情を押し殺しながら、夏海は言った。
 不可解な点は残っているが、少なくとも人一人が殺されたらしいのは事実だ。
 刑事として。この仕事を選んだ人間として。
 捜査に乗り出すには充分な状況が揃っていた。

「──と、それが二週間ほど前。ちょうど智秋君がこの前の件で頼ってきた頃ね」
 当時の事を思い出しつつ、夏海はそう語った。
 お茶のペットボトルを口にしながら、隣に座る智秋をちらと見遣る。
「……忙しかったなら一言言ってくれれば良かったのに」
 彼は抱えていたコンビニ弁当のおかずを箸で摘みつつ、ぽつりと言う。
「何? まさか気兼ねしてくれているわけ?」
「……そりゃあそうですよ。そっちの方が優先でしょう、公務なんですから」
「気にしない気にしない。あなたとの仲じゃない。今更水臭い事言わないでよ」
 言葉の通りに、夏海は明るく笑う。
 一方で智秋は僅かに渋面を滲ませてもぐもぐとご飯を頬張っていた。
「それに、私は仕事を蔑ろにはしてないから。ちゃんと両方を捌いてるわよ」
「……そうですか」
 くい、とお茶を一口。智秋はあくまで淡々としている。
 二人は車を走らせていた途中、コンビニに立ち寄っていた。ちょうど昼食時だという事で
さっさと済ませてしまおうというわけである。適当に弁当とお茶を選んで購入すると、駐車
した車内でこうしてざっと夏海が今回の説明をしながら箸を突いている状況だった。
「それで、それから捜査は進展したんですか?」
「ええ。自動車事故だからね、物的証拠は結構出るし。ナンバーや所持品で身元も既に判明
済み。乗用車の方はカップルだったみたいね……片割れが死んじゃったけど」
「もう一方は? 運転手が殺された方の」
「ええ。ワゴンの方は当時乗っていたのは三人よ。内一人はその死んだ若者ね」
「三人? 目撃者がいたんですか」
「ううん。そうじゃなくって」
 夏海は嬉しいような、困ったような複雑な表情を見せていた。智秋も無言で眉根を上げて
返って来る言葉を待つ。
「自首してきたのよ。加害側の、そのワゴンに乗っていた内の一人がね」
 ほう、と智秋が小さく声を漏らした。
「そうですか。じゃあ解決ですね」
「ところがそうでもないよねぇ……」
「……ですよね」
 だったら、わざわざ呼びに来たりはしない筈だ。智秋はふぅと息をつく。
 ふっと今度こそ困った表情で。夏海は「うーん」と少し唸るようにしてから、
「事故自体は認めているの。自分達がスピードを出し過ぎて曲がり損ねてぶつかったんだっ
てね。でも、別の事も言っててさ……」
「別の事?」
「そう。ワゴンの運転手について、妙な事をね」
 ひそひそ声でそう告げた。
「……その一緒だった運転手は、化け物に殺されたって言ってる」
 少し身を乗り出した夏海と智秋が暫く互いを見つめ合う。
 智秋は黙っていた。じっとその言葉を飲み込むかのように、静かに助手席に座ったままで
彼女に視線を向けている。
「なるほど」
 やがて短く呟いた。
「それが怪異の仕業ではないかと考えているんですね」
「そう。流石は智秋君ね。話が早くて助かるわ」
 満足そうに頷く夏海。対して少し表情を重くした智秋。
 共に弁当の残りを平らげ、茶を飲み干す。お互い、次の行動は決まっている。
「そういうわけだから、調べて欲しいのよ」
「……やっぱりそう来ますか」
 智秋は少々わざとらしくため息をついてみせた。
「正直言って、何でも彼らの所為にするというのは頂けませんが……」
「だけど、あんなの人間には無理よ?」
 現場に赴いた本人がそう反論する。
「怪異は曖昧な存在です。合理的に語られる時、彼らのつけ入る領域はなくなるんですよ」
 それでも智秋は淡々と述べる。
 いると思えばいるし、いないと思えばいない。それが怪異の性質──。
 ぐぐっとシートに背を預け、車内の天井を見上げる智秋。その様子は単に面倒がっている
ようにも、まるで怪異と決め付けられる事への不満を滲ませているようにも見えた。
「そう言われてもねぇ。実際現場に遭遇した本人がそう言っているんだもの」
「……この国の法律では怪異を殺人犯にはできませんけどね」
 ちらっと夏海に視線を向けて、
「また、個人的な頼みという事ですか……」
 と少々呆れ顔。
「まぁ、そう言わずにさ……。確かに、上はその証言は調書には入れないつもりみたいよ。
大方事故で混乱して妄言を言っているんだろうって認識なんでしょうね。怪異を犯人だって
見立てる云々以前の問題よね」
「……怪異を候補に挙げているあなたも似たようなものだと思いますよ」
 そうぼやきながら、再び嘆息。
「まぁ、いいですけど。ただ、公表できないというのは、毎度ながら徒労なんじゃないかと
思えてなりませんが……」
 シートに座り直して、不承不承といった様子でその頼みを受け入れる。
「それを言われると痛いけどね……。でも、怪異だからお咎めなしで済ませて、誤魔化して
終わらせるってのは個人的に気に入らないの。道理じゃないもの。同じ生き物としてね」
「…………」
 苦笑しながらも、夏海の言葉には何かしっかりとした力が篭っている。
 智秋はそんな彼女の姿をじっと見遣っていた。探るような深い瞳で静かに見据えている。
 ──同じ生き物としてね。
「そうですか」
 ふっと、微かに解けたような印象。
 智秋は「やれやれ、この人は」といった感じで彼女をから目を逸らして、
「……じゃあ、行きましょうか。その現場とやらに」
 ちらと半眼で一瞥してからそう言った。
「オッケー、待ってました。と、その前に……」
 その返答に対し、我が意を得たりとにかっと笑った夏海が、ふと思い出したように両者の
席の間に置かれた空の弁当やペットボトルを両手に抱える。
「捨ててくるわね」
「ええ……。すみません」
 いいって事よ、とドアを開けてコンビニ前のゴミ箱スペースへと歩いていく。智秋は車内
からその後ろ姿を見送った。
「智秋……」
 すると、そのタイミングを見計らったようにしてエリーがスッと姿を見せた。
 天井付近に浮かんで智秋を見下ろしている。伏せられた眉。心配そうな表情(かお)。
 智秋は彼女を暫し見上げると、
「……大丈夫。問題ない」
 と、短く何か答えを返す。
「ん? どうしたの?」
 ややあって、夏海が戻ってきた。運転席のドアを開けて中に入ってきながら、いつの間に
か出てきたエリーの姿を認め、何気ない感じで訊いてくる。
 僅かな間。彼の頭上でエリーがぽつねんと浮かんでいる。
「何でもないですよ」
 智秋は、珍しく小さく微笑みながらそう応えていた。

 真白は、正直と惑いっぱなしであった。
 智秋が夏海と共にここで出て行ってしまってから暫し。結局自分はこの場に残されたまま
何とも言えぬ緊張感を引き摺りながら、心持ち小さくなっている。
 背後で浮かんでいた付喪神たちはいつの間にか姿を消してしまっており、代わりに今、自
分の周りには卓袱台を囲んで時音達四人がぐるりと陣取る形となっている。
(うぅ……。どうしよう……)
 逃げてしまおうかと思ったが、結局できずじまい。
 そんな中、お昼にしましょうと彼女は言った。
 そしてその言葉の通り、今卓袱台の上には料理が並べられている。
 それぞれに炒飯と卵とじのスープが置かれ、中央には山盛りの野菜炒めが鎮座していた。
「それじゃあ、いただきましょうか」
 ぽんと手を合わせて微笑む時音。
「はい、手を合わせて。いただきます」
「いっただきま~すっ」
「頂きます」
「うむ。頂こう」
「……い、いただきます」
 大の大人が四人も揃い、子供みたいに律儀に手を合わせて昼食を開始する。真白もその様
子をおずおずと窺いながら同様に手を合わせていた。四人分の箸が動き始める。
 この場の(自分が抱える)緊張感と解放感の落差は戸惑うばかりだが、ちょうどお腹が減
ってきていたのもまた事実だったりする。
 彼らが料理を口に運ぶのをひっそりと確認する。皆、特に変わった様子はない。
(……考え過ぎなのかなぁ)
 実は料理に薬が盛ってある。などという古典的な策謀が頭を過ぎったが、そもそも自分の
記憶を消すという技(?)の為に、真白を動けなくする必要性はないだろう。夏海がやって
くる直前までの様がその証明だ。
「むぐ」
 意を決して。真白は箸を伸ばして料理に口に運んだ。
 先ずは炒飯から。適度なパサパサ加減、やや薄めだがしっかりとした味付け。卵の味。
「……美味しい」
 盛られてなどいないようだった。素直にその美味しさに感嘆を漏らす。
「ふふっ、ありがとう。口に合ったようでよかったわ」
 向かい側に座る時音が微笑んでいる。
 彼女が作ったのだろうか。美人な上に料理上手とは……隙がない。
「美味いだろ? 基本的に料理は時音と菊乃が担当してるんだ」
 と、野菜炒めを豪快に小皿に取り分けている灯馬。
「正確には、お前に任せると雑になるから私達がやっているんだがな」
「漢の料理と言ってくれよ」
 苦笑気味の菊乃に、灯馬はケラケラと笑う。
 まるで家族の会話そのものだ。もくもくと料理を頬張りながら、真白はふっと微笑ましい
気持ちになる。口の中の料理を片付けて、
「ところで……皆さんは、普段からここにいらっしゃるんですか?」
 と、その中でふと気になった事を訊いてみた。
「ああ。あれだ、住み込みって奴?」
「住み込み……ですか」
「……まぁ、少々珍しいかもしれないな。今時にしては」
 野菜炒めをもしゃもしゃと頬張りつつ答える灯馬と、静かに驚いている真白に何処か苦笑
を向けつつ語る菊乃。
「いいえ……」
 だが、真白は別の事を想っていた。ふるふると首を横に振る。
「ちょっと安心しました」
 彼の住むここ宝来堂が『お化け堂』と呼ばれているという噂。そうした風評故なのか、周
囲から避けられているように見受けられる彼自身。本人は面と向かって語りはしなかったが
それでもきっと、さぞ孤独な思いに駆られてきただろうと思う。
「宝生君にも、ちゃんと一緒にいてくれる人がいるんだなって」
 だから、表も裏も全部をひっくるめた事情を知って尚、一緒にいてくれる彼女達がいると
いうのは大きな支えになっているのではないか。同じ霊能者同士ならその支えも尚更に。
 そういえば、親御さんの姿を終ぞ見ていないが……。
「……そっか」
 思考から戻ってきた時に真白が見たのは、柔らかく温かい眼差しで自分を見ている時音の
表情。やっぱり綺麗な人だな、と改めて思う。
 しかし、先刻からのこの雰囲気の変貌は一体何なのだろう?
「あなたで……よかったわ」
「え?」
 まだ残っている料理には手をつけないまま、時音がそう呟く。明らかに自分に向けて。
 真白は何を言われているのかピンと来なかった。思わず小首を傾げつつ、周囲を見遣る。
時音だけではない。灯馬も菊乃も慈門も。皆、穏やかさを帯びた雰囲気を纏っている。
 これは何だろうか。一抹の……安堵感?
 真白が、剣呑ではないものの把握しかねる彼女達の様子に内心動揺していると、
「……記憶を消すって件だけど」
「!?」
 と、時音がそのフレーズを持ち出してきた。真白は殆ど反射的に、くっと顔を引き攣らせ
ながら思わず座したまま後退しようとする。
「あ。そ、そんなに怖がらないで?」
「ひゃははっ! 時音、お前ビビらせ過……ぶふっ」
「少し黙っていろ。話が拗れる」
 その反応に逆に慌てている時音、笑っている灯馬、そんな彼を手刀で黙らせる菊乃。
 僅かの間、しんとなる場。真白はおずおずと、そっと居住まいを正す。
「怖がらせてすまなかったな。だが、もう怖がらなくていい」
 菩薩のように線目の微笑。左隣に座っていた慈門が優しげに真白を見下ろしている。
「……? どういう、事ですか?」
「言葉の通りよ」
 その微笑を見上げる真白は、まだ少しばかり警戒心を残していた。緊張気味に呟く彼女に
時音が気を取り直すように再度微笑みかける。
「真白さん。あなたの記憶は消さない。いえ、消したくはないの」
「え? でも……」
 智秋は確かに抜かるなと貴女達に言っていたではないか。
「記憶を消す、というのは結果的にそうなるだけなの。厳密には……」
 時音がすっと自身の掌に視線を落として、
「相手の『時間』を取り除くことだから」
「……時間?」
 何処か憂いを帯びたようにして言う。
 時間を取り去る霊能者、という事なのだろうか。
「……時間とは、存在の前提。無数に広がった可能性から伸びた結果そのもの。それを本人
から取り去ってしまうという事は、つまりその時間、その瞬間の全てをこの手で否定してし
まうという事に他ならない」
 分かるかしら? と小首を傾げてみせる時音。
 真白は「はぁ……」と曖昧な相槌を打つのが限界だった。
「だから、私はそんな力を持っているけれど、できうる限りそういう使い方をしたくはない
のよ。確かに、今まで何度も宝来堂(ここ)や智秋を守る為に使って来はしたけれど……」
 哀しい。時音の漏らした表情から真白が読み取った感情はきっとそれだった。
 よくは分からないけれど、自分達の自衛の為に他人の時間を取り除く事……そこに彼女は
一種の罪悪感を覚えているのかもしれない。
 もし、自分がそんな彼らと同じ様に記憶を──智秋達『宝来堂』に関わる面々との時間を
取り除かれてしまったら? 確かに自分はこれまで通り、怪異とは縁のない平凡で穏やかな
毎日を送ることができるかもしれない。彼女達も、徒に自分達の秘密を外部に漏らすことな
く守っていく事ができるのかもしれない。
 だけど、消えるのはあくまで相手の記憶だけ、時間だけ。
 消し去ったという事実は残り続ける。その後も静かに彼女自身に投げ掛けられ続ける。
 ある種の後悔として、一種の罪悪感として。
 それが……彼女の言う「消したくない」という理由という事なのだろうか。
「……すみません」
 だから、真白は次の瞬間には重苦しく謝っていた。
 自分さえ、自分さえ関わらなければ。短慮に好奇心を発揮さえせず、こうも深入りしなけ
れば……彼女を悩ませなかったのではないか。そう思ったから。
「謝らないで。真白さん」
 だが、時音は苦笑のままだったが、頭を下げる真白を押し留めた。
「言ったでしょう? 私は、いえ……私達はあなたの記憶を消したくはないって」
「……?」
 真白はゆっくりと顔を上げた。
 消したくないのは、記憶を消す事自体のある種の辛さからではなかったのか。
 時音は残り三人に視線を向け、目を見合わせていた。何かの合図。何事だろう? まだ何
か自分に仕掛けるものがあるのだろうか。真白は緊張やら不安やらがごちゃまぜに入り混じ
った感触を覚える。
「あなたは、言ってくれたわよね」
 視線をやや上向きに、店内の方を見つめながら時音は言う。
「智秋が独りじゃないって分かって安心したって」
「……は、はい」
 確かにそんな事を言ったような。
 真白はとぎまぎした。向けられた時音の視線がとっても温かくて優しくて。むず痒くて。
「確かに、皆がいる事で智秋は一応、独りではないかもしれない」
 きちっと正座をしたまま、菊乃が目を瞑りつつ彼女の言葉を継ぐ。
「だが、根っ子では、彼は孤独なんだ。孤立といも言えるか」
「……?」
 今度は菊乃の真面目な、真剣な眼差し。
 真白は彼女を見返しながらその言葉の意味を何とか咀嚼しようとする。
「それは、どういう……?」
 根っ子は孤独。それはある意味人間共通の宿命のような言い方にも聞こえるが、この場合
は智秋に関してであろう。
「…………」
 時音がふっと笑った。複雑そうに、何処か物憂げに。
 再び視線は店内に。そう。ちょうどあの時、付喪神たちが姿を見せていた辺りに。
「あの子は、視え過ぎるのよ」
 ぽつりと時音は静かに切り出す。
「だけど、それはあくまで素地の段階。怪異というものを、妖怪というものを受け入れる心
がなければ『視えていても視えない』のだから」
「視えていても、視えない……」
 真白はおもむろに彼女の言葉を反復していた。
 自分は怪異を視聞きできるだけだと言っていた智秋。
 事実よりも意識が重要である、そんな彼の言葉。
「だが、彼は受け入れた。いや……受け入れ過ぎているのかもしれん」
「喜一郎が死んじまった後も、あいつはこの店を守るんだって言って。外からの声にも耐え
続けて住んでいるほどだしな……」
 慈門と灯馬がそれぞれ感慨深げに語る。
 どちらの声も、智秋を心配するそれに他ならなかった。
(……宝生君)
 真白は、いつの間にか胸の奥がきゅうっと締め付けられるような感覚に襲われている自分
に気付いていた。その様を視界に映しながら、時音は店内を見遣っている。
「怪異を理解し、寄り添ってくれる事。それは皆にとってはありがたい事だと思うわ。妖怪
だって心はある。孤独を感じる事だってあるもの……」
 ぽつぽつ、と天井付近に付喪神たちが姿を見せ始めた。
 真白はそっと振り返る。今度はもう怖くない。それ以上に、もう怪物だと思えなくなって
いたのかもしれない。
「理解してくれる誰かがいる事。それはきっと、些細な事かもしれないけど幸せな事よ」
 そうか。真白は思った。孤独を慰めていたのは時音達から智秋へだけではなかったのだ。
智秋もまた、彼らに寄り添う事で同じく孤独を慰めていたのではないか。
「……しかしだ」
 そこを、少し難しい表情をして菊乃が続ける。
「智秋は寄り添い過ぎている。バランスを取り損ねているというかな……」
「……バランス?」
 どう言ったものかという感じの菊乃。だが、真白は何となく次に彼女達が言いそうな事を
理解し始めていた。だからこそ、こうも切なさが身に染みてきている……。
「妖怪は人間ではない。そして人間もまた、妖怪ではないんだ。智秋は、その境界線すらも
見逃している……いや、きっと分かっているのに己を貫こうとしているんだ」
 菊乃だけではない。時音達四人全員が渋い表情を作っていた。
 気に入らないという感情ではない。それは、きっと間違いなく……。
「私達はいい。智秋を知っている。同じ様に視えるし聞こえる。だが、多くの人間達はどう
だ? どれだけの人間達が怪異を知り、信じている? 理解を示す?」
「…………」
 お化け堂の噂。智秋を忌避する住民。
 そこには明らかな境界線が存在していると言わざるを得ない。
 日常と非日常。合理性と非合理性。今この時代は、最早かつてのように虚心に「信じる」
という事への重みは遠くへと退いてしまっているのではないか。
 だとすれば……それと逆行する者は、時代に逆らう者は、異端だというのか。
「心配なんだよ。あいつがこのまま行くと戻れなくなるんじゃないかってな。あいつはよ、
人間なんだ。怪異側(こっちがわ)を視る事はできても、浸かりきっちゃいけないんだ」
「それが、智秋なりの優しさだとは分かっているつもりだよ。だが……皆の為に、己の幸福
を犠牲している、犠牲にしようとしている姿は、正直言って見ていて辛くもある」
 再び、灯馬と慈門が述べた言葉。それぞれの想い。
「…………」
 真白は眉根を寄せて俯いていた。
 どっちもなのだ。智秋も、彼らも。どちらも優しい。相手を想っている。だが、それが強
いあまりにどちらにも辛さを招いてしまっているというジレンマ。自分が聞くだけで辛いと
思うのだから、当事者である彼らの想いは如何ほどのものか……想像するべくもない。
「……だからね」
 重い空気。それを何とか取り除こうとするかのように、時音は何とか笑みを浮かべる。
「私達は何とか、あの子にもっと一人の人間として生きて貰いたいの。けど……完全にその
願いを叶えるのは難しいでしょうね。あの子は、怪異に寄り添う事に自分自身の意味を見て
いるところすらあるから……」
「それは……」
 具体的にどうとは言えないが、それは分かるような気がする。
 何だかんだ言いながら、怪異の関わる事件に携わり、何より彼はその怪異の願いを叶える
ような事に力を注いでいた。その姿を自分は知っている。
「だから」
 悩む真白の姿を見つめながら時音は続けた。
「私達はせめて、彼を孤独にしないようにしたい。彼の理解者になりたいし、理解者を増や
してあげたいと思っているの」
 やっぱり、いい人達だ。
 真白は率直にそう思った。そして遂に言葉にはできなかったが、言いたかった。
 そう思ってくれている貴女達がいれば、彼はきっと孤独ではない筈です……と。
「だから……貴女にもその一人になって欲しいの。紅葉ちゃんみたいにね」
「ふへっ!?」
 だが次の瞬間、時音から言われたその言葉に、真白は素っ頓狂な声をあげていた。
「わ、私が……ほ、宝生君の……り、理解者?」
 真白は一挙に混乱の渦に落とされた気がした。
 お、落ち着け。相手はごく真面目に話しているのに。
 理解者……確かに、紅葉は適任だろう。彼女も自分以上に視えるようだし、何より幼馴染
だというぐらいだから彼の多くを知っているだろう。
 それを、自分も? 何でまた……。
「い、いきなりそんな事言われても……。わ、私なんかが」
 そうだ。私にそんな資格があるのか?
 ただ、偶然に近く彼の秘密を見てしまい、あまつさえある意味で好奇心や同情で以って更
に自ら深入りしただけ。少なくとも智秋本人はそんな自分を……。
「智秋本人に、記憶を消すと言われたのに?」
 まるで見透かされたように発された時音の言葉に、真白はハッと顔を上げた。
 何て言おうかしら? そんな感じで少し思案顔を見せる彼女。
「……もし本当に、智秋がその気だったら、とっくに貴女は記憶を消されているわよ」
「え?」
 指先をくるくると回して、真白の背後を指差す時音。
 後ろ。そこに浮かんでいるのは……付喪神たち。
「あっ……」
「ね? あの時、貴女が気絶した間にやってしまえば事は済んだ筈でしょう?」
「……そう言われてみれば確かに」
 真白はその時の事を思い出し、また少し恥ずかしくなった。
「だけど、智秋はそうは言わなかった。貴女が目を覚ますまで私達に介抱させていた」
 それは間違いない。目覚めた時、自分は彼女に膝枕されていたのだ。
「本当は、智秋も決断しあぐねていたのかもしれないわ」
 そう時音が言う。卓袱台の上で手を組んで柔らかく微笑んでいる。
 決断しあぐねていた? だけど、彼は確かに記憶を消させようとしてたのではないか。
「あいつは、不器用だからなぁ。大方、迷惑掛けたくなかったんだろうぜ」
「…………」
 そうだったのだろうか。今彼がここにはいない(からこそ、こうした話ができるのだが)
ために、それを確かめる術はないが。
「それに、あの子がここまで他人に自分達の事を話すなんてこと自体、珍しいわ。こんなの
殆ど初めてじゃなかったかしら?」
 灯馬の合いの手を受けて、時音が皆に確認するかのように言う。
 皆、一様に首肯していた。
「そうなんですか……」
 何だか恥ずかしくなった。
 思わず俯いてぽつりと真白は声を漏らす。
「でも、本当ならあのまま記憶を……時間を消されていたんですよね、私」
「そうね……。夏海が上手い具合にやって来てくれたからよかったものの」
 という事は、自分は運よく彼女に救われたという事か。
 時音は苦笑して答え、口元に手をやっている。
 温かくて柔らかい眼差し。今なら分かる。これは一種の自分への期待感だ。智秋の理解者
候補としての。
(だけど……)
 真白は戸惑っていた。
 自分が彼を理解していると言えるのか。確かに事情は彼から、彼女達から大方こうして聞
き及んでいる。だが、それを理解したと解釈するには早計ではないのか。
 何故、今まであの時から智秋の事が気になったのか。
 始めはきっと好奇心だった。そして彼らを知るにつれ、同情が芽生えたからだと思う。
 そこから、彼の事が可哀想だと思うようになったのだろう。
 何処か……不純ではないかと思う。今も怪異については驚きの連続だ。自分だって視える
らしいとはいえ、凡人である。他人と何処が違うというのだろう……。
「……貴女もそこは同じなのね」
「え?」
 そんな思考を覗かれているかのように、時音は静かに言った。
 同じ? 誰と? 何が?
「貴女のお兄さんと。それに智秋とも」
「……?」
 述語がない。何を言われているのか判然としないでいると、
「そうやって、一人で背負い込んで考えてしまう所が、よ」
 ふふっと時音は微笑んだ。
 真白はその様に目を瞬かせて押し黙った。背負い、込む……?
「あぁ、お兄さんの事だったらエリーから聞いたの。補足までに言っておくけど」
 なるほど。確かにその時は自分も彼女の存在は知らなかったが、既に芳子の家に皆して訪
れた際に(ある意味一方的に)対面を果たしているわけか。
「……でもね。少なくとも、そうやってちゃんと頭で考えているなら気に病む事はないわ。
誰かに偽善と罵られたとしても、何かを感じて行動する事それ自体に善悪を求めるのは結構
酷なことだと思わない? そんな声に正直になり過ぎれば何もできなくなっちゃうもの」
 考えている事はお見通し、なのか?
 もしかしたら、彼女は見た目以上に人間を知っているのかもしれない。
 いや……。むしろ、智秋という彼女曰く似た人間が傍にいるからなのか。
「だから、資格がないなんてみたいな事は言わないで。大丈夫、貴女には充分過ぎるくらい
にその資格がある。人と怪異と、その両方の心に寄り添えるなら……」
「…………」
 買い被り過ぎではないかと思う。
 だが、彼女にそう言われると不思議とそうなのかもしれないと思わされる。
 人間にも怪異にも、心を寄せる。可哀想と同情する事だってその一つ……?
「お願い。真白さん」
 と、時音が頭を下げた。
「あの子を、独りにしたくないの」
「あ、あの……っ! そ、そんな。頭を上げて下さい……」
 真白は慌てて彼女に頭を上げるように促した。
 そんなに、頼まれたら……。
「……正直言って、私に本当に何ができるかなんて分かりません。でも、宝生君を変な目で
見たり、差別したりする気はありません」
 それは真白にとって間違いなく本当の心の声だった。
 彼を知り、その苦悩を知った上で。たとえ偽善だの同情だのと言われようとも。
「そ、それで……いいのなら」
「……そう」
 正直に決意のようなそうでないような、今の心持ちを真白は述べた。
 その言葉にゆっくりと時音が頭を上げる。優しい笑み。短い返事だったが、充分に伝わっ
たようだった。
 菊乃も灯馬も慈門も。それぞれに表情に安堵の色が見え隠れする。
「……ありがとう。真白さん」
「いいえ……。こちらこそ」
 そして、彼らの様子を見て、真白は改めて彼女達が本当に智秋の事を心の底から心配して
いるんだなと実感する。独りにしないで欲しい。そう頼まれたけれど、やっぱり……。
(独りなんかじゃ、ないですよ……)
 また出そうになったその言葉を、そっと胸に大事に抱くようにして飲み込んだ。
 言ってしまうと消えてしまいそうに思えた。それに、またそれを言っても堂々巡りになり
そうだったからというのもあったろう。
 暫し静かな沈黙が流れたが、決して重苦しくはなかった。
 むしろ、今までの重みから解放されたかのような清々しさすら覚える。
「……さて」
 ぽんと、笑顔で時音が手を叩く。
「長話になっちゃったわね。さぁ、皆。冷めない内に食べちゃいましょう」
「うむ。そうだな」
「あ、はい……」
「ん? 俺はもう大概食ったぞ」
「……お前って奴は」
 再び活気付く食卓。団欒という名の時間。
 少し冷めかけた料理を口に運びながら、真白は微笑んでいた。時音達も懸案を乗り越えて
何処か嬉々とした印象を受ける。
(……大丈夫。大丈夫だよ、宝生君)
 変わらず美味しい時音と菊乃の手料理をもくもくと頬張りながら、真白は静かに心の中で
そう呟いていたのだった。


 智秋は夏海と共に件の事故現場へと向かっていた。
 乗ってきた車は道中、最寄の路肩の駐車スペースに停めてきた為、今は二人して少々の勾
配のある坂道を歩いてる状態である。
 右手には峠を形成する山の肌。左手には眼下に広がる雑木林の合間合間から街の遠景を垣
間見る事ができる。螺旋階段のように、くねくねと何度もカーブを繰り返す坂道。確かに、
あまりスピードを出したままで突っ切るには些か危ない地形だなと智秋は思った。
 前後に延びている道路には今自分達二人しか姿はなく、これまですれ違った車は数える程
しかない。街からは少し離れている場所だけあって、あまり普段から交通量の多い道という
わけではなさそうだった。
「……随分と、曲がりくねった道ですね」
 先を歩く夏海の背中をついと見上げて、智秋は感想のように呟いた。
「丘の上にちょっとした公園があるのよ。このぐるぐる上っていく道はそこに辿り着くため
のものよ。まぁ、通り過ぎたいだけの人は途中で別のバイパスと合流するんだけど」
 指先を上に向けて、くるくると回してみせながら夏海が補足する。
 学園に通う以外は基本的に旧市街で生活している智秋にとって、こっちの方は未だに不案
内な場所も少なくない。その点、夏海は(職業的なものもあるのだろうが)物守の地理には
比較的詳しいのである。
「さて……ここよ」
 それから少し歩いた後、夏海は足を止めて振り返った。
「……此処ですか」
 到着した現場は、何度も見た半円に近いカーブの一つにあった。
 二人のすぐ目の前の道路(外側)部分には、未だワゴン車の残したスピンの跡がうっすら
と道路に浅黒く残されている。そこから幾分離れた道路の内側にも、こちらは乗用車の方と
見られるスピンの痕。そしてそこから山肌の一角へ延びている。
 話には聞いたが、思った以上に衝撃の大きさがあると見たのか智秋は静かに顔をしかめて
いる。じっと視線は乗用車があの夜、最終的にぶつかった山肌の部分──今は青いビニール
シートが掛かっている──へと向けられていた。
「……ちょっと、刺激が強すぎたかな?」
「いえ」
 気遣い気味に声を掛けた夏海に、智秋はそっと向き直って、
「思ったよりも片付いていますから」
 そんな事を述べる。
「そりゃあね。確かに事故直後はあちこち残骸やら何やらでいっぱいだったけど、日も経っ
ているし、そのままにしておくのにも限界があるわよ。他のドライバーの通行の妨げにもな
りかねないしさ」
 夏海は苦笑しつつ、再びゆっくりと歩を進めていた。
 口ではそう言うものの、個人的にはいくら職業とはいえ、あまりにこなれた感じで悲劇の
痕跡を消してしまうのはどうなのだろうと思うことがある。
「人が何人死のうが、当事者以外にはちょっと耳に挟むだけでお終い。感傷に浸るよりも、
自分達の生活を維持する方がずっと大事だものね」
「…………」
 だからか。つい、夏海は非難を含ませたそんな物言いをしてしまっていた。
 あまりにも「蓋」をし過ぎるのではないかという個人的な思いを、半ば憤りと共に。
『一々感じるな。身がもたねぇぞ』
 先輩達から何度となく聞かされてきた経験則。
 それは一面、間違ってはいないだろう。大から小まで、事件は言い方を荒っぽくするなら
掃いて捨てるほど世の中にはある。それらに一つ一つ全力投球などしたなら自身が早急に磨
耗してしまうのは当然の理である。且つ、組織としての効率を阻害するものでもあろう。
 もし、それでも突っ走ろうとすれば「青臭い」などと嘲笑われる。
 割り切れるという事──それが「大人」なのだと。
 それでも……それぞれの事件は、当事者一人一人にとってはそれが彼らの「全て」になり
えてしまうのではないか。得てして孤独などの静かな圧力と共に。
 その時、私達は寄り添ってはいけないのだろうか。そんなものは所詮「傷の舐め合い」で
しかない、不毛なものだと嗤い、何処かの他人に任せておけばいいのであろうか。
「…………」
 夏海は自分を追い越して先を進み、道路に肩膝をついている智秋を見た。
 現場検証の時に見たあの陥没跡。このままでは通行に支障が出るという事で、急遽業者に
よって今は応急処置的ながらも埋め直されている。
「これが、話にあった陥没の跡ですね」
「ええ……。私が見た時はもっと凄かったわよ。ひび割れも凄かったし」
「……そうですか」 
 思考で内へと潜った集中力を若干取り戻しつつ、夏海は真剣(そうに見えるが……もしか
したら無愛想なだけ)な智秋な表情を見て漠然と思う。
 自分は、彼と比べてどうだろう? 大人だろうか。子供だろうか。
 ある意味で他人と隔たりを図っている彼に比べれば、働いている自分は大人と言えなくは
ないだろう。だが、警察組織の中にあって「青臭さ」から抜け切れていないと思い、かつ抜
け切れたくないとも思う自分はやはり「子供」ではないのかとも思う。
 そんな夏海の物思いなど知る由もなく、智秋は淡々と辺りを見回していた。
 さきほどから車は通ってこない。二人だけがぽつんと路肩に突っ立っている。
 智秋はそっと陥没の跡を指先で撫でつつ呟いた。
「確かに、人間の仕業ではないようですね」
「ほ、本当? やっぱりそうなんだ」
 そうさ、今は目の前の事に集中しよう……。
 パッと切り替えるような彼女の反応に、智秋は少し黙ってから続ける。
「言われていた通り、人間の力では物理的に不可能ですし……それに、僅かに霊気が残って
いますから。おそらくは」
「え。霊気……?」
 そう言われて夏海は智秋の傍に歩み寄った。
 何かを視るように、じっと目を凝らして陥没跡に視線を落とす。
「僅かに、ですよ。僕でもぎりぎり分かったぐらいです」
「あ、そうなの? そっか、智秋君でもぎりぎりかぁ……」
 その言葉に、夏海は凝視するのを止めた。
 自分も視えはするが、そういった霊能者的な力の強さでは彼には劣っている。だとすれば
自分が気付かなかったのも無理はなかろう。
「残り香のようなものですよ。事故当日から日も経っている事ですし」
「確かにねぇ……」
「問題は誰が、何の為に……ですかね」
「そうね……」
 夏海はぽりぽりと頬を掻きながら、視線を上げて思案してみる。
「……幽霊、じゃないかな? 乗用車側でも一人亡くなったから、彼がぶつけられて殺され
た恨みでこうガツーンと」
「その可能性は低いですよ」
 しかし、彼女の仮説を智秋はあっさりと否定した。
 ガツーンと、と身振り手振りを交えかけていた夏海の手が止まる。
「化身が可能な妖怪と、幽霊は全くの別物です。生者と死者……繋がってはいてもそこには
明確な違いがある。実体を持たない幽霊に直接的、物理的な殺人は不可能ですよ」
「う~む……」
「幽霊となってから歳月を経、力をつければ怪異を媒介に人を殺す事は可能ですが……今回
のように、死の直後にこのような殺し方をできるとは思えませんね。そもそも、死んだ人間
全てが必ずしも幽霊になるとは限らないですし」
「え……? そうなの? 死んだら皆幽霊になるんじゃないの?」
 後半部分。そこに夏海は食いついていた。
 智秋は少し渋面を浮かべて、
「……生物の死──肉体の機能停止とその後の思念の残存程度は別問題ですよ」
 面倒臭そうに、そっと立ち上がりながら話を続ける。
「幽霊とは、厳密に言えばある程度以上まとまりを持った思念を指します。死後、大なり小
なり思念は残存しますが、その意味で幽霊と呼べるほどに維持されて肉体と離れるケースは
限られてくるんですよ」
「……う~ん、いまいち曖昧なのか合理的なのかよく分からないわね」
「まぁ、分かろうとする事それ自体、ある意味で合理的なものだとも言えますから」
 夏海が意味を咀嚼しあぐねている中で、智秋は淡々としていた。
 過去何度かこうして彼に(個人的な)協力を求めてきたものの、こうして断片的に語られ
る彼の怪異(オカルト)全般に対する見解・整理の思考は、割合彼の身近にいる夏海自身で
さえ把握しあぐねている所があった。
 だからこそ、こういった場合に彼を頼っているという面があるのだが。
「それに、仮に幽霊として出ていたとしたら、現場検証の時に気付いたと思いますが?」
「……確かに。言われてみればそうかなぁ」
「まぁ、死んだ場所に留まっているとも言い切れませんけどね」
 どっちだよ。
 夏海は相変わらずの智秋の様子に前のめりになりながらも、彼を連れてきてよかったなと
思っていた。断片的ながらも彼の言葉で、オカルトを含めた色んな可能性をしっかりと検証
する事ができているのは大きいと思う。
 刑事がそんな方向性で調査するのはどうなんだ、というツッコミは一先ず置いておいて。
「まぁ……推論はこの辺りにしておいて」
 そうしている中で、智秋がゆっくりとガードレールの方へと近寄っていく。
 いや、厳密には眼前に迫り出してきている雑木林の木の方へと。
「当時の様子を訊いてみましょうか」
 上着の内ポケットから、一冊の古書が取り出される。
 びっしりと文様で埋められた帯を十字に架けた一冊の本。
 古書の付喪神・エリーの本体。
「エリー」
 短く、智秋が彼女の名を呼ぶ。
 するとすぐに彼の頭上に、ふっとエリーの姿が現れる。
ふわふわと。ゴシック風のドレスを靡かせながら、彼女は夏海に小さくお辞儀をする。
(……あの時もそうだったけど)
 彼女に同じく小さくお辞儀を返しつつ、夏海は思った。
(あの子、こういう時になると哀しそうな顔をしてるわよね……)
 エリーの、何処か物寂しい心を隠すかのような複雑な微笑を。
「……じゃあいくよ。智秋」
 さっと身を翻し、エリーが智秋の身体の中に吸い込まれるようにして消えていく。智秋が
彼女の能力を利用する為に、一時的に彼女を憑かせる準備だ。
 ごうっと、風が四散した。
 霊気のモヤが智秋から淡く立ち昇り、古書を封印していた十文字の帯が独りでに外れて宙
を揺らめく。半目気味の瞳が一瞬、蒼く光った。
 智秋は左手に握った古書に軽く力を込めると、そっと右の掌を迫り出している木の枝(と
いっても結構な太さだ)へと近づける。
 その刹那。燐光が瞬いた。
 青白い、殆ど銀色に近い光が辺りを眩しくする。車が通ってきたら、ハンドル操作を誤る
かもしれないな。そんな事を思い、ちらと道路の向こう側を見遣りつつ、夏海は手で庇を作
っていた。だが幸い、このタイミングでここを通り掛かる車はないようだ。
「…………」
 智秋は、溶接工よろしく燐光が瞬く右手をそのままにじっと立っていた。
 目を薄く閉じ、何かを観ているような感じ。青白い光は初め、大きくその面積を増してい
たがややあって落ち着きを取り戻したように彼の掌大の大きさへと修正されていく。
 数分。そのくらいの時間だった思う。
 夏海が見守る中、やがて燐光は徐々にその強さを弱めていき……すぅっと消えていった。
「……智秋君?」
 それは以前にも何度か見ている光景だったが、未だに慣れない。
 夏海はそっと智秋に声を掛けた。だが、彼は薄っすらと閉じた目のままその場にじっと立
っている。まるで何かを組み込むかのように、取り込むかのように。
 不用意に近づく事もできず、夏海はじっと彼が「戻ってくる」のを待った。
「……終わりました」
 ぽつりと。薄っすらと閉じていた瞳が開く。
 同時に、彼の身体からエリーがすすっと出て行き宙に浮かぶ。外れた時と同様に、古書に
十文字型の帯が独りでに架かり直っていく。
 呟く智秋の表情は何処か──いや、確かに暗い色彩を帯びている。
「で……。どうだった?」
 古書を上着の内ポケットに仕舞う智秋に、夏海は訊ねる。
 彼はゆっくりと彼女の横を通り過ぎ、スピン痕と陥没の跡をじっと眺めている。
 その右手には、一枚の白い栞が握られていた。
「何か、見えた?」
 エリーの力。その栞に「写し取られた」もの……。
(やっぱり……あれ、だよね)
 毎度ながら申し訳ないと思う。だが、自分はこんな方法しか頼れなくて……。
 智秋はじっと道路を、現場を眺めて背を向けている。
 夏海は、彼の答えを待った。
「……指輪」
 ゆっくりと振り返りながら、智秋が呟いた。
「事故現場で、指輪は見つかっていませんか?」
「指輪? 何でまた……」
 思いもしなかった単語を切り出され、夏海は「うん?」と小首を傾げる。だが、智秋の方
はどうなのか、と神妙な面持ちで返事を待っているように見える。
 夏海は記憶を手繰り寄せようとしつつ、
「う~ん、どうだったかなぁ……? 何せ残骸とか物証になりそうなものは大方署に持って
帰っちゃってるから。電話して訊いてみる?」
「お願いします」
 彼の言葉に応じてポケットから携帯電話を取り出した。さっとボタンを操作し、コール。
署の知り合いに繋げて訊いてみよう。そんな算段を巡らせる。
『はい。もしもし』
「もしもし? 私だけど」
『あ、夏海。どうしたの?』
 電話の向こうから聞こえてきたのは、同年代の女性の声。
「うん、ちょっとね。今手空いてる?」
『まぁ空いていない事はないけど……。もしかして緊急の用?』
 署の交通課に勤める友人・亜希子だった。
「一応ね。ちょっと調べて欲しい事があるのよ。この前の、九十九坂での交通事故の件で」
『あぁ、あの事故ね。それで?』
「うん。その時に回収した物証の中にさ、指輪ってなかった?」
『指輪?』
 短く反復する彼女の声。結構人は似たような反応を見せるらしい。
「うん、指輪。ないかな?」
『どうだったかなぁ……物証の類は残骸やら何やらいっぱいあったみたいだし。覚えてない
かな。必要だったら今から見て来ようか?』
「ん~……いや、いいわ。亜希子にそんな力仕事やらせるのもねぇ。園村君にやらせるわ。
確か今日は朝から署にいた筈だし……」
 そう、夏海が何の気なしに友人に気遣いの言葉を返した直後だった。
『そういえば……園村さんなら、ついさっきまで来てたよ。うちに』
 思い出したように、亜希子から思わぬ返答が返ってくる。
「え? 何でまた」
『うーん……。夏海と同じ考えだったのかもね。保管庫に用があったみたいだし』
 そうだったのか。彼も自分なりにあの事件については思う所があったのかもしれない。
 普段割と頼りない彼を、少し見直そうかなと夏海が思った時、
『でもねぇ……』
「うん? どうかした?」
『えっと……。気のせいかなとは思うんだけど』
 今度は亜希子の声が少し怪訝のような、不安のような色合いに変わっていた。
 曖昧な記憶を手繰り寄せるように、数拍「う~ん……」と唸ってから。
『……何だか出てきた時の園村さん、ちょっと怖くなってたなぁって。まるで人が変わった
みたいな感じだったよ』
「人が、変わった……?」
 ちらりと。夏海もまた怪訝を表情に宿しながら、いつの間にかすぐ傍らでやり取りに耳を
澄ませていた智秋と顔を見合わせる。
「で、そのあと園村君は?」
『分からない……。そのまま真っ直ぐうちを出て行ったみたいだけど……』
 と、彼女から弱々しく答えが返ってきた瞬間だった。
「──もう一つ、お聞きしてもいいですか?」
「あ、ちょっと。智秋君?」
 パッと智秋が夏海の携帯電話を奪い取るようにして、亜希子に訊ねようとする。
『え? あの、君は……?』
 当然、困惑する電話の向こうの亜希子。
 だが智秋はその間隙すら時間の無駄だといった感じで、
「園村刑事が出て行った時、彼の手に指輪はありませんでしたか?」
 ずいっと質問だけを投げて寄越す。
『え、また指輪? う~ん……。あ、あれかなぁ?』
「あれ、とは?」
『えっと、指輪かどうかは分からないけれど、園村君の指に何かが嵌っていたような記憶は
あるかな。ほんの僅かな間だし、何だか黒かったし分かり難かったけど……』
「……ありがとうございます」
『え? あっ──』
 そう表面だけ丁寧に述べると、智秋は一方的に通話を切った。
 一体何なのよ? と眉間に皺を寄せる夏海に携帯電話を返し、今度は自分の携帯電話を取
り出している。ふわふわとエリーが浮かびながら神妙な面持ちを見せている。
「ち、智秋君?」
 何か分かったのか。夏海は何やら行動を開始しようとしているらしい智秋に声を掛けた。
「……僕の推測が正しければ、面倒な事になりそうですよ」
「え? それってどういう……」
 携帯電話を片手にそう語る智秋。夏海は少々困惑したが、彼の表情の真剣さから見ても、
状況があまり好ましくない方向に向かっているらしいと察する事ができた。
「搬送された女性のいる病院の場所、それと三人目……。ワゴン側の人間の、自首してきた
方ではない人物の居所は分かりますか?」
「え、えぇ……。割れてるわよ。今は先輩達が家の前で張ってる筈だけど」
「そうですか」
 言われ、夏海は手帳を捲って病院の場所、三人目の住所を控えたメモを彼に見せる。
 智秋の電話のコールが、繋がった。
「もしもし……僕だ。これから話す事をしっかり聞いてくれ」

 そこは郊外の住宅街の中だった。
「お疲れさんです」
「おう、そっちもな」
 車の中でじっと息を潜めていたスーツ姿の中年の刑事が、助手席に乗り込んできたもう一
人の刑事をちらと見て短く声を交し合う。
「どうぞ」
「ああ、悪いな」
 彼の手には缶コーヒーが二本。一本を受け取り、プルタブに指を掛ける。ぷしゅっと音が
してほんのりとだがコーヒーの匂いが鼻を通った。
「裏はどうだった?」
「変化なしですね。ベランダの窓はカーテンごと閉め切られたまま、裏手から逃げた形跡は
ありませんね。こっちはどうです?」
「同じく変化なしだ。ドアは一ミリたりとも動いてねぇよ」
 二人の刑事はどちらからともなくため息をついた。
「粘りますね」
「そうだな……」
 二人がすぐ近く、目の前のアパートの一室を張り込み始めてから数日。どうやら当のター
ゲットはこの間ずっと部屋に篭り続けているらしい。
「もしかして、気付かれてますかね?」
「どうかな。どちらにしても動いて貰わないとどうしようもない」
 数度チャイムを鳴らして呼び掛けてみたが、反応はない。部屋に戻っていくのを確認して
から張り込みを始めたのだからいない筈はないのだが……。
「任意でしょっ引こうと思ったが、こりゃあ令状を手配しないといけないかもしれん」
「そうですねぇ。全く……こっちもこれ位でのろのろとはしていられないってのに」
 互いに言い口は違うが、正直言って苛立ちがあった。
 加害側の一人が自首して来ている。その為事故当時の様子は大方分かっている。
 だが、奇妙な死に方をしたという彼らの仲間についての説明ができない。自首して来た奴
は曰く「化け物に殺された」などと眉唾な事を繰り返すばかりで埒が明かない。
 だからこそ、この三人目をしょっ引いて早々に事件を解明したいのだが……。
「全く、とことん迷惑な連中だぜ……」
 フロントガラス越しに、彼らがターゲットの潜むアパートを憎々しげに見上げた。
 その時だった。
「……ん?」
 さっと、車の横を誰かが通り過ぎた。すぐさま背を向けた格好でその人物は車の目の前を
通っていく。何処か足取り、雰囲気が剣呑に感じられる、スーツ姿の青年。
「あれって……園村じゃないですか?」
「園村? あぁ……本当だ。園村だ」
 一瞬、奇妙な違和感で判断が遅れたが間違いない。
 署の後輩。下っ端の若手刑事、園村その人だった。
「何しに来たんだよ、あいつ」
「さぁ……?」
 二人が何事かと思っている内に、園村はどんどん歩いていってしまう。
「ん? 待て、おい園村!」
「何する気だ、戻って来い!」
 その先が、例のアパートであると悟った瞬間、二人は思わず缶コーヒーを車内に残して飛
び出していた。よく分からないが、ここはお前まで呼んではいないんだぞ。
「待てって、おい!」
 二人は、アパートの階段を上り始めている園村の後を追って走り出していた。


 鉄屑の錆っぽい臭い。焦げ臭い臭い。血の臭い。
 悲鳴のような騒音と、その後の静寂と。一体何が起きたのか?
 はっきりしているのは強烈な衝撃が彼らを襲った事と、彼らの生命が脅かされているとい
う事だった。私は彼の掌から滑り落ち、ボコボコにへしゃげかけた車内を見渡す。
 これは、酷い。
 そう思いながら、私ははっきりと気付いた。
 彼の鼓動が……弱くなっている。頭から大量の出血。横と正面のガラスも衝撃で砕けてし
まっているのを考えても、彼がよほどの衝撃に振り動かされ打ち付けられた事が知れる。
『大丈夫、だ……。守る、から──』
 彼から残された心は、彼女の安否。
 同じ様に怪我はあちこちしているようだが、唸るように「うぅん……」と苦しむ声が聞こ
えてくる所を見る限り、予断は許さないにしても即死は免れたようだった。
 だが……一抹の安堵と共に、私は憤っていた。
 私にもこんな「感情」があるのかと驚いた。しかしそんなある意味での冷静さを侵食して
いくように、私の中が猛然と煮えくり返るような激情に覆われていく。
「だ、大丈夫かな?」
 その時だ。私達の前に誰かが近づいて来るのに気付いたのは。
「うわっ……やべぇ、血塗れじゃねぇか……」
「ど、ど、どうするんだよ……っ、嫌だぞこんなところで」
 そしてその三人組が、先程猛スピードでぶつかってきたワゴンの乗員達である事はすぐに
悟る事ができた。よろよろと私達の下に近づき、そっと様子を覗き込む。自分達の犯した過
ちの大きさを把握していなかったのか、彼らは目に見えて怯え、動揺しているようだった。
「マジやべぇよ、どうするんだ?」
「と、と、とにかく救急車を……」
 狼狽しながら、言葉を詰まらせながら内二人がおろおろと動き出そうとした。
 その時だ。私がどうしようもなく醜いものを見たのは。
「何言ってるんだ」
 残りの一人が、険しい──しかし恐れで引き攣った顔で二人の言葉を遮る。え? と振り
向く彼らを他所に、そいつはずんずんと歩いていく。私達から逃げるように早歩きで離れて
いこうとする。道路を挟んだ向こう側へと歩いてこうとする。
「お、おい」
「何処行くんだよ」
 二人も恐る恐る彼を追おうとして、
「逃げるんだよ!」
 くわっと唐突に叫んだ彼にビクついた。
「冗談じゃねぇ。こんな所で捕まって堪るかよ! お前らだって、サツに捕まったらお終い
なんだぞ。分かってるのか!?」
「そ、それは……」
「で、でも。さっきので俺らの車もエンジンが効かねぇし……」
「関係あるか! 動かないんじゃねぇ、動かすんだ! ほら、さっさと行くぞ!」
 殆ど当り散らす彼に、二人は顔を見合わせていた。
 彼らの中でどんな勘定が働いたのだろう。自分の保身と他人の命、そんな所か。
 少なくとも……奴らは、
「わ、分かった」
「……急ごう」
 最低の選択をした事に間違いはない。
 私達から離れていく三人の若造達。見て分かった筈だ。助けなければ死んでしまう事ぐら
いの事は……いや、彼の方はもう風前の灯だった。
 なのに。
 なのに、私には何もできなかった。
 彼から心を学んだのに、何一つできなかった。何もしてあげられなかった。
 彼の為に想いを伝える担い手となる事も、その彼女を守ってやる事も。
 悔しさ? 憤り?
 私の中で、得体の知れない沸騰する何かが満ちていく。こうして煩悶するしかできない私
を猛然と侵食していくかのように。
 欲しい……身体ガ欲シイ。
 そうでなければ何も出来ない。動く事すら出来ない。
 この怒りヲ、奴ラに……コノ意志を奴ラ二……。
「ん……?」
「何だよ、どうし……」
 彼らがふと振り返って、凍り付いたようにその場で固まっている。
 じっと瞳は固定されたように見ている。そうだ……私を見ている。
「な、なん──」
 ソウダ! 私ガイルゾ!
「ぶぐっ!?」
 それは殆ど本能的に。情動に任せて私は全身の力を振りかざしていた。
 動く。動く。動く!
 視界に映る私の腕、奴の首根っこ。引き攣った恐怖に歪む貌。
 一瞬の躍動と共に駆け出した私は、彼を見捨てようとした、彼女を見捨てようとしたこの
若造を勢いもろとも掴み、飛び上がる。
「ひぃっ……!」
 全身の浮揚感。眼下に遠のく峠道。だが、それも僅かな間。私はこの男を下に押さえつけ
たまま一気に全体重を掛け、
「ぶ、げは……っ!」
 彼の全身をアスファルトの地面へと叩きつける。
 力が満ちている。奔流がうねってこの男を深々と地面ごと穿った。ひび割れる地面、鈍く
響き渡る轟音。白目を剥いて口から血と酸素をあらん限り噴き出すこの男。
「…………」
 その瞬間、男の心拍、あらゆる生命の気配が絶たれる感触が伝わった。
 ぐったりとしたその身体、首根っこから手を離して、私は呆然と私を見つめている残りの
二人へと視線を移す。
「ひぃ……っ!」
「ば、化け物……!」
 短くくぐもった悲鳴。腰を抜かしながら後退る二人。
 バケモノ? 何ヲ言ウカ。
 オ前ノ方ガ、悪魔ノ心ソノモノデハナイカ。
 全身ヲ駆ケ巡ル情動ハモウ止メラレナイ。イヤ、コレガ私ナノダ。動ク……身体ガ動ク。
コレナラ願イモ成就デキル。モウ見テイルダケノ私デハナイ。
 彼ヲ守ル。彼女ヲ守ル。ソシテ、彼ラヲ貶メタ貴様ラヲ私ハ決シテ許シハシナイ。
「……次ハ、オ前達ダ!」


「~~~~♪」
 真白は郊外の堤防上の遊歩道を歩いていた。
 時音達『宝来堂』の面々との昼食の後、古守口まで見送って貰った真白は、新地方面の自
宅へと帰路についていた。
 だが、新地の中心部がある程度近づいてきた所で真白はふと思ったのだ。
 少しだけ、歩いて帰ろうかな……。
 何を思ったかは上手くは言えなかったが、何となくそんな気分になった。そして普段降り
る駅から快速で二・三ほど前の駅に降り立つと、こうして一人鼻歌交じりに歩いている。
 自分でもいつもと違うくらいに、今の自分が舞い上がっているのが分かった。
 それでも顔からは微笑が消えてくれない。むず痒い嬉しさがほこほこと胸の中で揺れてい
るのが感じられる。
 それはきっと、彼女達に必要とされた嬉しさからだろう。
 深入りしてしまった後悔は何処に行ったのか。それすら曖昧になるほど、ここまで信用を
受けて必要とされた事に真白は内心の嬉しさを感じずにはいられなかったのである。
 つい、足取りも軽く、鼻歌も混じる。
 そして、こうして歩く今だからこそ思う。
 何故、自分がこれほど智秋の様子を気に掛けていたのか。
 それは好奇心以上に、何処かで彼の抱えるある種の孤独を感じ取っていたからではないか
と思うのである。そして、お節介にも自分はそれを何となく見逃せなかったのだろう。
 だから、時音達に「理解者の一人になって欲しい」と頼まれた時にはえもいわれぬ嬉しさ
が戸惑いの後についてきたのだろう。そう解釈してみる。
 ただ……。
 春先の微風を受けて、真白はすうっと深呼吸をする。
 彼自身は渋い顔をするだろうなと、その様子が想像できるような気がした。
『余計な事を……』
 などと厄介がる物言いくらいはしそうである。
 だが、それも極力周りを巻き込まずにいようとする彼なりの優しさ、灯馬の言葉を借りれ
ば彼の不器用さだと思えば、案外可愛いものではないかと思う。
(……まるで年下を見るみたいな言い方、かな?)
 周りに人のいない堤防の上で、真白は一人静かにくすっと笑った。
 時音達のような人達に囲まれていれば、彼も本当に独りだとは言えないかもしれない。
 だけど、彼自身が怪異に寄り添う為に孤立しがちであるのなら、それを知った自分だから
何とかしたいなと思う。自分に何ができるかは、未だ分からないが。
 それも……彼は余計なお節介だのと言うのだろうけど。
 だが自分でも、必要とされる事──独りじゃないんだ、自分はいていいんだと知らされる
事は正直に言って嬉しかった。
 だから。彼にも同じ様に感じて貰いたいのかもしれない。
 とはいえ、それも慰みや自己満足だと攻撃されれば容易く揺らぐのかもしれないけれど。
 それでも、きっと人はそれらを欲しているんじゃないかと思うから……。
「んんっ……」
 ぐぐっと伸びをし、左手に広がる住宅街を見下ろす。休日という事もあって、ちらほら遠
くに人影は見えるが基本的に閑静である。
 のんびりとした時間が流れている。それは真白の今の心持ちと共により穏やかさを演出し
ているようにも思えた。
(……そういえば。私、何か忘れているような……?)
 ぼんやりと、住宅街の佇まいを眺めながらそんな事を思っていた時だった。
「ん……?」
 微風に乗って、何かの音が真白の耳に届いてきた。
 何だろう? 何か、騒がしいような……。
「……行ってみようかな」
 少々まだ浮かれていた部分もあったのだろう。
 真白は何となく、声の聞こえた方向に耳を澄ませながら歩を進めていた。

 被疑者のアパートの前で張り込んでいた二人の刑事は、突如やって来た後輩・園村の軽率
というべき行動を止めるべく駆けていた。
「待て、待たないか園村!」
 だが叫び呼び掛けても彼は何一つ反応しない。
(くっそ。何がどうなってる……?)
 アパートの階段を上っていく彼を追いかける。そこから覗いた横顔は、少なくとも彼らの
知る何処となく頼りない若造のものではなかった。
 形容するなれば、何かに取り憑かれたかのような不気味な形相。
 ただこのまま彼を見逃してはいけない。それが、二人が共通して悟っていた感覚だった。
 ずんずんと迷いなくやや早歩きで進む園村は、二人が階段を上りきった時には既に例の被
疑者の部屋の前まで進んでいた。
「…………」
 じっと睨むようにドアを凝視し、静かに力を込めているような様。
(何かする気か!?)
 止めないと。下手に刺激して暴発でもされたらどうするんだ!
「園村──」
 残りの距離、数メートル。
 その距離を二人が駆けようとした、その瞬間だった。
 ゴガッ!
 耳の奥を衝くような鈍い破壊音。
 それが、園村がドアを乱暴に蹴破ったものだと知れるのに時間は掛からなかった。予想外
の暴挙と突然の轟音に、二人は思わず立ち止まって目を見開いた。
 少し間を置いて、園村がそのまま部屋の中へと進んでいく。
「……今、壊したよな。ドア」
「……ええ。蹴破りましたね」
 木製のものならともかく、普通蹴りだけで金属製のアパートのドアが吹き飛ぶものなのだ
ろうか。思わず二人は立ち尽くし、互いに少々呆けた呟きを漏らす。
「……って、やべぇ!」
「そ、園村ぁ!」
 だが、すぐに我に返ると二人は慌てて彼の後を追って走り出す。
「ひぃっ……!」
 部屋の中では、一人の若者が完全に怯えきった悲鳴を漏らしていた。
 ベッドにうつ伏せになり、布団を頭から被っていた彼は突然の轟音と共に現れた訪問者を
見て完全に動揺している。ばっと布団を振り払って腰を抜かしている。
「…………」
 園村はそんな彼をぎろりと睨みつけたまま、どんどん部屋の中へと入ってくる。靴を脱ぐ
事もなく土足のまま。平素の彼からは考えられないような、苛烈な眼付き。
「な、な、何だ!? あ、あんた……」
 殆ど言葉にならない混乱した滑舌で青年は震えている。
「……見ツケタゾ」
「!?」
 だが、その震えはぽつりと、しかし明らかに彼本人のものとは違う重い声によって二倍に
も三倍にも膨れ上がる事になる。
 青年は明らかな動揺を見せた。忘れもしない、その声色に聞き覚えがあったから。
「お、お前、あの時の……」
 ──次ハ、オ前達ダ!
 青年の脳裏に再生されたあの時の恐怖。今度は人の姿をとっているが、間違いない。
「あの時の化け──」
 殆ど悲鳴に近い声で、青年は震える指を指して叫んだ。
 ガスッ!
「ひぎっ!?」
 が、その瞬間、ぐわっと距離を詰めて来た園村の拳が青年の乗っかっていたベッドに向か
って振り下ろされていた。殆ど本能的に、反射的に身を退いたその後に僅差の時間差でその
拳がめり込んでいる。
 市販のスプリングベッド。そのど真ん中が一人の男の拳によって貫かれていた。
「あ、わわわ……」
 青年はへっぴり腰のまま、あたふたと起き上がると追い詰められた逃亡者よろしく部屋の
窓際へと逃げる。バラバラと布団の羽毛やらスプリング部分の部品やらをこぼしながら引き
上げた腕をぶらんと垂らしつつ、園村はじっと変わらず射殺すような眼で彼を睨んでいる。
 青年は震える手で、後ろ手に窓の鍵を開けた。
 そのままベランダに逃げる。園村が数歩前へ出て彼を追おうとする。
「う……わぁぁぁっ!」
 その圧迫感に耐え切れなかったように、青年は二階のベランダから殆ど自棄糞で飛び降り
ていた。引き攣った顔。迫る地面。
「ぶべっ」
 アパートの住人のものだろう。真下のアパートの裏手にはちょうど数台の車が停めら
れていた。青年はその内の一台の屋根に蛙が突っ伏したように倒れる。ごいんと鈍い衝撃音
がした。青年はその鈍痛に殆ど言葉にならない様子で悶えながらも、転げ落ちるようにして
その場をよろよろと走り去っていこうとする。
 背後から迫ってくる恐怖に、無茶な行動を余儀なくされているかのように。
「…………」
 園村はじっとその様子を部屋の中から眺めていた。
 そしてすぐに青年と同じ様にベランダに向かおうとして、
「くぉらっ! 待て園村!」
「止まれっ!」
 背後から飛びついてきた先輩刑事二人にがっしりとホールドされる。
 その二人に園村はちらと視線だけで一瞥をくれる。だが、
「むぉっ!?」
「なっ!?」
 ブンッと、園村は邪魔だと言わんばかりに全身を振るい、二人を弾き飛ばした。
 その勢いは相当なものであったようで、振り解かれた勢いそのままに二人は部屋の中の家
具にそれぞれが強かに打ちつけられて昏倒しかかってしまう。
「…………」
 園村はそんな彼らを省みる事もなくずいとベランダに出て行くと、何の躊躇いもなくそこ
から飛び降りた。先程青年が倒れこんだ車の屋根。そこがまるで太い槍にでも突き刺された
かのように無残に貫かれて破壊される。
 先程よりも遙かに強烈な破壊の音。それでも園村は射殺すような表情を一つ変えずにぐい
と車内に埋まった下半身を捻り出すと、そのまま着地、何事もなかったかのように青年が逃
げていった方向へと足早に歩き去っていく。
「あ、くぅ……痛てて」
「うぅ……。くっそ、園村の奴……」
 その頃二人の刑事はやっと鈍痛から起き上がりつつあった。打ち付けた部位を摩りながら
ゆっくりと立ち上がる。まだ身体が痛い。混乱やら痛みやらでもうどんな表情をしていいか
も分からない。無茶苦茶だ。
「おい……ありゃ、本当に園村か……? 人間の力じゃねぇぞ?」
「し、知りませんよ……。でも、このまま放っておくわけにも行きませんし」
「当たり前だ。畜生め、捕まえる人間が二人に増えやがったってか……?」
 よろよろと入口に戻っていく二人。
 何が起きているのかは分からないが、少なくとも園村を何とかしないと……。
「追うぞ。あの馬鹿力でホシを殺っちまうような真似でもされたら洒落にならねぇ」
「はい……」
 そう、二人がボロボロになった部屋から出て行こうとした。
 その時だった。
「──それは困るんだよねぇ」
「?」
 不意に聞こえてきた声。
「がっ!?」
 次の瞬間、目の前で相棒が白目を剥いて倒れ込む。あまりにも早過ぎて見えなかったが、
それが鳩尾を殴られたものだと理解するのに数秒を要した。
「おい、どうし……たはっ!?」
 だから、彼がそれに気付いて駆け寄るのも、背後からの一撃が迫っていたのにも気付くに
は遅過ぎたのである。
 突如首筋に走る痛みと全身から抜けていく意識。
 ややあってそれが猛烈な速さの手刀であるらしいと分かった時には、彼は既に殆どの意識
が吹き飛んでしまった後だった。

「……やれやれ」
 だらしなく倒れ込んだ二人の刑事を部屋の中に放り込み、灯馬はにやけ顔で一息をついて
いた。隣には「すまんな」と彼らに聞こえないであろう謝辞を掛けている菊乃がいる。
「とりあえずこっちは暫く動かないとして……時音、そっちはどうだ?」
 灯馬はポキポキと指を鳴らしつつ、ついと視線を上げてその名を呼んだ。
「オッケーよ。こっちも『人払い』は済んでるわ」
 アパートの屋根の上には時音がいた。
 静かに瞳を閉じていた彼女は、灯馬の声にゆっくりと目を開き、風で靡く長い黒髪を押さ
えながらにこやかに微笑んでいる。
「後は、智秋が戻ってくるのを待つだけね」
「うむ」
 その隣には慈門が立っていた。
 線目の、菩薩のような変わらぬ微笑を遠くの風景に向けたまま彼は短く答える。
「……別に俺らでヤっちまってもいいんじゃねぇの? 放っておいたらあの若造、死ぬぞ」
「そうだが。だが……大丈夫だ。智秋ならこちらに向かって来ているよ」
 下からの灯馬の声に、慈門は細い目を更に細めて遠くの景色から何かを見つけたようだ。
「しかし……ふむ。これはまた数奇かな?」
 一見変わらぬ表情だが、どうやら見つけたのはそれだけではないらしい。
「あら本当……。どうしましょうか」
 同じく屋根にいる時音もややあってその存在に気付いたようで、指先を頬に当てて小首を
傾げてみせる。
 灯馬と菊乃は「何だ?」と首を上げて二人を見上げている。この位置ではそこまで遠くは
見渡せないのだろう。慈門が、時音の隣で顎を摩りながら言った。
「私が行ってこよう。皆は指示通り、後始末を頼む」
「ええ。任せて」
 時音が頷いた。
 そして次の瞬間、慈門の姿は消えていた。
 いや、消えたのではない。跳躍していた。その巨躯をもろともせず、軽々と何十メートル
という距離を跳び、家々の屋根伝いにその姿をあっと間に小さく遠くしていく。

「……あれは」
 暫く歩いていると、真白は誰かが近づいて来ているのに気付いた。
 思わず足を止め、何だろうと目を凝らしてみる。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
 こちらへ走って(というよりよろけて)来ているのは、どうやら一人の青年だった。
 部屋着と見受けられるラフそのものな服装に……靴も履かず裸足。そのいでたちに真白は
妙だなと思った。ランニングでもしているのかと始めは思ったが、近づいて来てはっきり見
えるのにしたがって、彼がまるで何かから逃げ出して来たかのような様子である事に気付か
される。大きく息を切らし、こちらへ向かってきていた。
「……あの。どうかしましたか?」
 何処か嫌な予感はしたが、出会ってしまった以上見過ごす訳にもいかず、真白はおずおず
と近寄ってきたこの青年に向かって訊いてみた。
 大きく荒げた息を整えながら、彼は何度も後ろを振り返り、
「た、助けてくれっ! こ、殺される……!」
「へ?」
 確かにそう訴えかけてきた。
 殺される。真白はそのフレーズに流石に頭の中が一瞬、真っ白になったような気がした。
 何かのドッキリ等という感じには見えない。本当に彼は必死の形相だ。
「あの……。こ、殺されるって……一体誰に」
 そう、真白が何とか(自分も含めて)落ち着かせようと再び訊ねた時だった。
「ひぎっ!?」
 不意に後ろを振り返った青年が殆ど漏れただけの悲鳴で竦み上がる。
 真白は彼の視線を追ってそれを見た。
 少し離れた路地の角から、
「……逃ガサナイゾ」
 スーツ姿の青年が、まるで射殺すかのような形相で出て来たのを。
(え? これって……)
 ぞくりと背中に悪寒が走った。
 それはその青年の見た目だけからではなかった。
 知っている。真白は殆ど直感的にではあったが、これと似た感覚を知っている。
 そう。幽霊屋敷で、取り憑かれていた芳子が見せたあの威圧感と似ている。
 この人も、もしかして憑かれているのか?
「ひぃっ! ひぃっ!」
 殆ど泣きじゃくり掛けている青年に纏わりつかれながら、真白は無意識に一歩、また一歩
と後退りをしていた。
 この人は……間違いなく危険だ。
「死ネ!」
 その瞬間、残りの距離をスーツの男が猛烈な勢いで詰めて来た。
 完全に腰を抜かし、纏わりついている青年。真白の眼前に霞むほどの速度で振り出された
拳が迫ってくる。
「ひゃぁっ!」
 青年の事を構ってあげる余裕は無かった。
 真白は咄嗟に姿勢を低くし、後ろに下がる。同時に堤防から足を踏み外してしまい、青年
と共に芝生の斜面を転がり落ちる。その僅差で、スーツの男の拳が空を切った。
「あ、痛たた……な、何なの?」
「ひぁ、ひゃは……っ」
 草地でよかったものの、これがコンクリートなどなら身体中擦り傷だらけだ。真白は腰を
摩りながら、その横でへっぴり腰で逃げていこうとする青年を一瞥する。
「あ、あの人は何なんですか!?」
「ひゃひぃ……? 何って……ば、化け物だよ、あの時の化け物なんだぁっ!」
「……??」
 ちょっとでも事情を把握しようと訊ねてみるが、青年は殆ど錯乱に近い状態であまり役に
立ちそうにはない。そして、そうこうしている間にもスーツの男はずんずんとこちらへ向か
って早歩きしてくる。射抜くような形相で間違いなくこちらを狙っている。
(ど、どうしよう……?)
 青年はもう年上の筈なのに子供のように喚き、真白を盾にしながら引っ張っていこうとま
でしてくる。正直、このままじゃ無関係なのに道連れではないか。
「……逃ガサナイゾ」
 スーツの男がすぐ目の前までやって来た。
 芳子の時と同じ感覚で間違いないならば、何者かに憑かれているその男。
 ぐっと全身に力を込めて拳を握る。
 思い出される幽霊屋敷での一幕。
 女性である芳子ですら、憑かれていた時に首を締めて来た時の握力は半端なものではなか
ったのだ。目の前のように、憑かれた成人男性の全力の拳など、まともに受けて無事である
とは到底思えない。
「ひぃっ……! うひぃ……っ!」
「う、うわ。だ、だからしがみ付かないで下さいよ~!」
 殆ど青年の盾にされ掛けまま、真白はスーツの男の振り翳す拳を見上げた。
 まさかこんな事になるなんて。いくら何でも唐突過ぎるよ……。
 せっかく、こんな私でも必要とされる場所があるって分かったのに。ぬか喜びじゃない。
「死ネ」
 ごめんなさい……時音さん達。宝生君。
 ごめんなさい……皆。
 真白が最期を覚悟して、心の中で色んな人達の顔が過ぎった。
 その時だった。
(……?)
 ぎゅっと瞑り掛けた瞳で感じたのは、突如降ってきた、自分達を覆った何者かの影。
 そして、振り下ろされたスーツ男の拳が届くよりも早く、更に霞んで見えないほどの、男
があり得ないほどに吹き飛んでいく姿をスローモーションの様に視界に映して、ようやくそ
れが迎撃の為に振るわれたものだと知れた拳。
 その一連の動作は一瞬だった。だが真白の眼には強烈に焼きついた光景となった。
 地面擦れ擦れを吹き飛び、遙か遠くの堤防の斜面の一角に植えられた樹に激突した男。同
時にぶつかったその樹が一瞬で粉微塵になるのを見て、男に放たれた一撃の凄まじさを知る
事にもなる。
 漫画の一頁のような、敵が吹き飛び破砕した障害物ごと埋もれるシーン。
「……無事かな? 冬柴君」
「え? じ、慈門……さん?」
 すぐには気付かなかったが、掛けられたその声に真白はやっと拳を振るい返した主が目の
前に立っていた大男・慈門だと知った。見上げる格好で見る彼の横顔。相変わらず菩薩のよ
うな微笑みは健在だった。
 だが、拳からはもうもうと煙のようなものが上がっているのが見える。
(……凄い。というか、この人って何者なの……?)
 いきなりの事にポカンとしている真白を一瞥し、慈門はゆっくりと向き直った。
「……な、何なんだ」
 驚いているのは青年も同じだった。
 一応、助けて貰ったらしい事は分かったようで、怯えている様子はなかった。でも、
「すまないね」
「へ……ぶほっ!?」
 唐突に一言謝られた意味が分からず、馬鹿みたいな声しか漏らせなかった彼は急に白目を
剥いてその場に倒れ込んでしまった。
「え……?」
 真白もその変化に思わず目を瞬かせる。
 ゆっくりと。慈門が屈めた身体を起こしたのを見て、真白はようやく「あぁ……鳩尾を殴
ったんだ」と理解する。それにしたって、さっきといいこの人の拳、まるで見えなかった。
「あの……?」
「大丈夫。暫く寝ていて貰うだけだよ」
 思わず青年が死んだりしてないかと覗き込もうとするのを、慈門がやんわりと制した。
「……起きていたままでは、色々面倒な事になるからね」
 そして身を翻し、先程吹き飛んでいった男の方、粉微塵になって土埃の舞っている元・樹
の方へと向き直る。
「えっと……さっきのスーツの人、大丈夫なんですか?」
 こんな強烈(過ぎ?)な一撃を受けて無事なわけないだろうけど……と、真白は同じくそ
ちらの方へと視線を移しておずおずと訊いてみる。
「どうだろうね。手加減はしたし、憑かれている内は多少頑丈な筈だが……身体は多少なり
イカれてしまっているかもしれないかな」
「…………」
 菩薩様みたいな顔して結構エグイんですね……。
 真白は唖然としながらその答えを半分上の空状態で聞いていた。しかし、やっぱりあの人
は憑かれていたのか。通りでただならぬ感じであったはずだ。
「さて……」
 ぎゅっと、片手で拳を覆うような風にして慈門が微笑みの中に一抹の緊迫を滲ませる。
「そろそろ出てきたらどうだ? さっきのでその身体も、大分ガタが来たろう?」
 それは明らかに遠くのあの男に向けられたものだった。
 土埃と沈黙。
 真白は慈門の後ろから覗き見るようにして、その遠くの彼へと目を凝らす。
 そして、確かにその眼に焼き付けた。
「…………」
 土埃。倒れているスーツの男性の傍らに、何かが立っているのが。
「あ、あれは……」
 真白は恐る恐る指を指すが、慈門は答えない。
 お互いに牽制し合っているようにじっとその場から動かず相手を見遣っている。
(……何、あれ?)
 晴れていく土埃。そして立っている何かがその姿を現した。
 一言で表現するなら、モヤの塊。
 青黒いモヤの塊が人の形を取ってそこに立っていた。顔の部分には金色に光る丸い双眸が
あり、無機質にこちらを見ている。モヤというぐらいなので気体なのかもしれない。よく目
を凝らしてみると身体(?)の所々から蒸発するようにチリチリと身体と同色の塵のような
ものが空気に乗って宙に浮かんでいるようだった。
(…………モヤ、人間?)
 一体何者なのだろう。少なくとも怪異の類ではないだろうか。
そう思って真白はそっと慈門の顔を見上げてみた。
 丁度、その時だった。
「やっと来たか」
 目線は正面に向けたまま、慈門が呟く。
 背後から聞こえてきたのは、車のエンジン音。
 視線を移すと一台の車が堤防を走ってこちらへ向かって来ていた。やがてその車は真白達
のすぐ傍の所で止まる。そこから出てきたのは、
「……待たせた」
「やっほ~……って、あ、あれって園村君? だ、大丈夫なの? ていうかあれ何? 見た
ところ妖怪みたいだけど……」
 気さくに挨拶を向けようとし、遠くで倒れているスーツの男・園村とその傍らに立ってい
るモヤ人間(仮)に気付いてごちゃごちゃと一方的に喋り始める夏海と、それを鬱陶しそう
に聞き流しながら近づいて来る智秋だった。
「宝生君……」
 彼の姿を見て、真白は不思議とほっとした。
 この前の事もあるのだろう。彼が来てくれれば何とかなると思えた。
「……何故、君がここにいる?」
 だが、智秋の方は明らかに怪訝に真白を見返していた。
 智秋は思わず心持ち気圧される彼女から視線をずらすと、ちらりとこちらを見遣っていた
慈門へとその眼を向ける。
「まさか連れて来たんじゃないだろうな」
「いや。偶々彼女が通り掛かっただけだよ。仕方なく、私が出て来たまでさ」
「……そうか」
 そうして疑惑の目を向けた智秋だったが、慈門の言葉にあっさりと納得したらしい。
 それはつまり、それほど彼が慈門達を信頼しているからなのだろうかと真白は思った。
「やれやれ……。よっぽど君は怪異に縁があるらしい」
「……そ、それは」
 何か言い返そうとしたが、智秋はすたすたと真白の傍を歩き、慈門の隣に並んだ。手には
既に例の古書を取り出している。真白はくっと言葉を飲み込んで眼の前の二人を見遣った。
「それで、状況は?」
「見ての通りだ。憑依は上手く引き剥がしておいたよ」
 短く訊ねる智秋に慈門は答える。二人はじっと離れた位置に佇んでいるモヤ人間(仮)を
見つめている。
「……分かった。後は僕が相手をする」
 そして、エリーが彼の言葉を合図にするように宙に現れた。一度、真白の方を振り返って
静かに頷くと前に向き直る。
「慈門は彼女を安全な場所へ。……叔母さんはそこで寝てる人を頼みます」
「了解した」
「え? あ、うん。オッケー」
 背後から二人の了承の返事を受けて、智秋は一歩前に出た。
 それを合図に、エリーがすうっと彼の身体の中に潜り込んで行く。ぶわっと風が押される
ように四散し、身体からはモヤが、霊気が淡く立ち込める。目の前に翳した古書を封じてい
る十文字型の帯がパチンと解かれて揺らめく。
「…………」
 一度閉じ、見開いた彼の瞳が一瞬、蒼く光った。
「……ッ!?」
 その様子に何かが起こると悟ったのだろう。モヤ人間(仮)の方にも変化が起きた。
 片手をぐっと開いて力を込める。
 ジャキンッ!
 すると、五指が槍先のように長く尖った形に変わった。ゆっくりとその右手を引き絞り、
そしてだんっと地面を蹴って駆け出す。
「あっ!」
 真白は思わず声を出していた。
 だが、智秋は予想の範囲といった感じで落ち着いているようだった。迫る五指の切っ先を
視界に映しながら、ぴっとそれを取り出してみせる。
(……また、栞?)
 真白が静かに目を細める。
 それはあの時と同じ一枚の栞だった。だが、あの時と違うのはそれが少しだけ大きめだっ
た事と、何より色が違っていた事。
「──斬り裂け」
 それを智秋は宙に投げる。ひゅんと回転しながら栞が迫るモヤ人間(仮)と切り結ぶよう
にして飛んでいく。
「菊乃」
 五指が振るわれる直前、光りが弾けた。
 それは淡い黄色の光。彼が投げた栞と同じ淡い黄色。
 菊の花を連想させる淡色の光。
 綺麗。真白は溢れる光を瞳一杯に受けてそんな事を思った。慈門も、智秋も、夏海も少し
眩しそうに目を細めてその光を見遣っている。
「──グ、ガッ!?」
 だが、それだけでは終わらなかった。
 淡い黄色の光の中に五指の切っ先が突き立てられようかというその瞬間。
 霞むように、残像もろくに見えない二本の銀閃が走った。
 一本目は斜め下から上へかけた逆袈裟斬り。退ける術もなく、五指を振おうとしたその腕
がばっさりと上空へと切り裂かれる。そしてその間隙も許さない速さで二本目の銀閃。今度
は抜きがけたまま水平に半円を描くよう流れ、モヤ人間(仮)の腹を斬り付ける。
 短いくぐもった悲鳴。
 予想を超えた連撃を受け、本能的に咄嗟に後方に跳躍、空中で後転するとだんっと地面に
着地する。斬撃を受けた反動の強さか、着地しても尚、ズササッと着地の足が後方へと滑り
地面を抉る。金色の双眸がぎっとまるで憎々しげに正面を見据えたその瞬間、すぐ近くに斬
り落とされた右腕が上空からぼとりと落ちてきた。
「…………」
 モヤ人間(仮)が驚いていたように見えたのと同様に、真白も驚いていた。
 何故なら淡い黄色の光から現れたその人物を、彼女は知っていたから。
 そして、つまり栞から出て来たという事に動揺と混乱も感じていたから。
「そんな」
 ぽつりと、真白は目を離す事ができずに呟く。
 弾けた黄の光から姿を見せたのは、一言で言うと侍だった。
 袴姿に、腰に挿した刀が二本。その上から羽織った深みのある黒色の羽織がバサバサと風
に靡いて揺れている。
「何で……」
 その凛とした風情を着こなしていたのは、ポニーテールが似合う真白もよく知る女性。
 右手は順手に、左手は逆手に。まごう事なき抜き放った真剣を両手にして、静かに構える
その姿は凛々しく強い。
 後ろ姿でも誰かは十分に分かった。
 そこには、先刻まで自分と共に昼食も取り、智秋の行く末を案じていた内の一人が何故か
いわゆる侍よろしく刀を構えて立っている姿がある。
 驚く真白と、心なし苛立ったようなモヤ人形(仮)。
 ぴんと張り詰めた空気の中、彼女は立っていた。
「何で、菊乃さんが」
 骨董品店『宝来堂』店員・菊乃。
 その姿が。 

 
 真白達に背を向けた位置で、袴姿の菊乃は刀の切っ先をモヤ人間(仮)に向けていた。
 相手も不用意に近づけば痛手を受けると思っているのか、数メートルの距離を取ったその
場から動こうとせずに金色の双眸に彼女の姿を映しているようにも見える。
「……智秋」
 時間にしてさほど長くはなかっただろうが、緊張した沈黙の中でぽつりと彼女が呟く。
 ちらりと。切っ先は相手に向けたまま、ほんのそれだけ身動きさせないままで、
「いいのか? 見知らぬ人間が混じっているが」
(……え?)
 顔を少し背後へと向けてそう言ってくる。
 真白は、最初はさっきの青年の事かと思ったが、気絶している相手に言っているとは考え
難い。何よりも向けられた視線の先は……間違いなく自分自身だったから。
(私の事を、覚えていない……?)
 そんな馬鹿な。確かに知り合って日は浅いが、それでも今日は特に印象深い交流をしたば
かりではなかったのか。
 だがそんな真白の内心の動揺とは裏腹に、目の前の菊乃はじっと怪訝な眼で真白を見つめ
ているのに間違いなかった。どういう事だろう。動揺が混乱と混じり始めた。
 すると。
「……そうだったな。最後に写し取ったのは、彼女と知り合う前の事だから」
 細事を思い出したような感じで、智秋が答えのようなそうでないような返事を返した。
 写し取る? でも、それって……まさか。
 智秋の言葉に、真白はますます混乱するような心地になる。
「心配ない。彼女は私達の味方だよ」
 すると、すかさずといった感じで慈門が菊乃に言った。
 私達の味方。その言葉に真白はほうっと胸元が温かくなるような気がしたが、一方の智秋
は眉根を寄せて彼を怪訝気味に見上げている。
「……そうか。ならいいんだ」
 それを聞いて、菊乃は少し口元に笑みを浮かべたようだった。
 遣っていた視線を正面に戻し、すぐさま臨戦態勢に戻る。
「皆、私の後ろに下がっていてくれ」
 笑みかけていた表情が消え、武人のそれへと変わる。
「二人とも」
 その背後で、智秋が慈門と夏海に目配せをした。二人は短く頷き、夏海は気を失ったまま
の青年を後ろから羽交い絞めにした格好で、ずるずると芝生の斜面の上、離れた位置の堤防
の上へと引き摺って行く。そして、
「失礼するよ」
「え?」
 慈門は微笑みのまま一言そう呟くと、そっと真白の背後に回って、
「え? ちょ! じ、慈門さん!?」
 彼女を軽々と抱き上げる。所謂、お姫様抱っこ。
 それを理解するや否や、ぼふんと、真白は全身が沸騰するかのように恥ずかしくなって顔
やら何やらが真っ赤になっていくのが分かった。いきなり何を。だが、真白が驚くのはそれ
だけではなかったのである。
 刹那。ぶんっと、空を切った感触。
 それが、半身を返した慈門の尋常ではない高さの跳躍であると悟ったのは、自分が彼に抱
えられて遙か上空を跳んでいると認識してから。
「ひっ……!?」
 それと同時に、真白は思わず顔を引き攣らせ、喉からは短い悲鳴が漏れ始める。
 ぐんと。上昇の後は降下。猛スピードで慈門に抱えられたまま地面に近づいていく。地面
に接地した瞬間、ぐぐっと彼の両脚が強力なバネのようにその衝撃を受け止めて、
「あぁぁぁぁ──っ!?」
 再び、今度は斜面の芝生から少し斜め方向へと二度目の大跳躍。
 真白はその落差の激し過ぎる空中移動に、流石に絶叫しながら慈門に抱えられたままで遠
くへと跳んでいき、あっという間に姿を小さくしていった。
「行ったぞ」
「あぁ」
 それらの様子を横目にして、智秋は淡々と目の前の菊乃に呟く。
 数歩。菊乃はそっと相手への方と歩いていく。それは、智秋を巻き込まない為の間合いを
作る為でもあった。
「グゥゥ……」
 それを見て、モヤ人間(仮)も動きを見せた。
 菊乃と智秋を警戒しながらも、地面に落ちていた自身の右腕、肘から先の部分をそっと拾
い上げた。モヤが蒸発するように、自身からも腕からも身体と同色の塵が静かに気化してい
っているようだった。
「ウゥ……」
 拾い上げたその腕を、斬り口へとぐぐっと押し当てる。
 ジュクジュクと。
 すると、ややあって傷口は引き寄せあうかのように元通りに繋がっていくではないか。
 二、三度右手を開いたり閉じたりして、その修復具合を確かめるモヤ人間(仮)。そして
菊乃と智秋を睨みつけると、
「オォォォォォ……ッ!」
 それは威嚇か、怒りか。河川敷一体に響き渡る雄叫びをあげた。
「……見た所、付喪神(どうぞく)のようだが」
 その様を見ていた菊乃は眉間に皺を寄せつつ呟く。
「お前、無理に化身したな。力も姿も不安定……殆ど暴走状態じゃないか」
 その声は、単なる分析というわけでもなかった。
 そこには一抹の哀れみと、決意のようなものが入り混じる。
 ひゅん、と逆手に握る左の刀を宙で順手に握り返しつつ、
「……斬るしか、ないか」
 同時、今度は両手の五指を鋭く変えた化身もどきの、猛然と迫る勢いと切り結ぶかのよう
に、自らも二刀を構えて霞むような速さで地面を蹴っていた。

「────ぁぁぁぁぁぁ、うぅんぐぅっ!?」
 二度目の急降下の先は、橋の上だった。
 瞬間、慈門に少し強めに握られてそのままとすんと着地。あれだけ凄まじい跳躍の後だと
いうのに橋が割れるような事もなく、衝撃を何かで上手く分散させたのか。
「……大丈夫かな?」
 ぱくぱくと口を痙攣気味に動かしていた真白に、慈門が苦笑いを溢した。
「……ら、らいひょうふ、れふ(だ、大丈夫、です)」
 本当は全然大丈夫ではないのだが、それでもこんなリアル絶叫マシンのような経験をして
怪我一つなく済んでいるのだから良しとしよう。そう思うしかない……。
 真白はふらふらになりながらも慈門に降ろして貰い、橋の上で四つん這いになって激しく
脈打つ鼓動を感じながら大きく肩で息をした。
「少し、刺激が強かったかな」
「……は、はい。正直、死ぬかと思いました」
「はは。そうかそうか」
 本気でそう思った真白に対し、慈門は変わらず柔らかな微笑みを崩さない。スーツの裾を
少し弄ったりしているだけで、彼自身何ともなく平気そうである。
(いつの間に、霊能者とスーパーマンって同じになったんだろう……)
 思わずそんな事を考えてしまう真白であった。
「……そ、そういえば」
「うん?」
「大丈夫なんですか? その、私達だけ逃げちゃったりして」
 そこでハッと思い出して、真白は訊ねていた。
 今立っている橋は、智秋と菊乃のいる位置からは結構離れているらしく、真白の視力では
誰が誰かを判断するので精一杯だった。
「だって、まだいたじゃないですか……片腕は斬り落とされてましたけど」
 だが、あそこには未だあのモヤ人間(?)がいるのだ。
 吹き飛ばされたあの男性に憑いていた事、感じた妙な気配や経験から、何かの妖怪なのか
なとは思っていたが。
「……あぁ、大丈夫。心配はないさ」
 慈門がそう、彼らのいる方を眺めながら答えた時、ギィンッと金属同士がぶつかり合うよ
うな音が耳に届いた。よく目を凝らしてみるに、菊乃とあのモヤ人間(?)がついにぶつか
り始めたようである。そう彼に言われても、真白はどっと心配になった。
「菊乃は剣の達人……いや、剣そのものだ。剣撃での戦いで遅れをとるような事は早々ある
ものじゃないさ」
 剣そのもの? それは、一体どういう意味なのだろう。
「だ、だけど。その、妖怪……相手に人間が敵うんですか?」
「人間?」
 少し慌て気味に言った真白のその言葉に、慈門が線目のまま僅かな怪訝を見せた。
 何か変な事を? 真白もその様子に気付き、彼を見上げる。慈門は小さく「そうか……」
と独り何か気付いたようにうんうんと小さく頷きながら、真白を見返してくる。
「なるほど。君の見鬼は、智秋達ほどは強くないわけか」
「……?」
 一人勝手に納得されても。
 真白は目を瞬かせて慈門を見遣った。その様子を見て、彼はどうしたものかといった感じ
で顎に手をやった後で、
「先ず。菊乃と戦っているあれは、付喪神だよ」
 そう切り出す。
「え? そうなんですか」
 真白は『宝来堂』で本物達を見ているとはいえ、未だにそれらを見分けられるほどの知識
や経験が蓄積されているわけではない。それでも彼の言う事だから間違いはないだろう。
「ああ。ただ……理由は分からないが、無理に化身した所為で暴走状態にあるようだがね」
「……はあ」
 また専門的な話らしい。少なくとも穏健な内容ではないようだ。
 確かに宝来堂で見た者達と同じ、と言われると随分と雰囲気が違っていたように思う。
「ところで」
 何とか今の事態を飲み込もうと情報を咀嚼している中で、慈門が再び口を開く。
「……付喪神の弱点とは何か、分かるかい?」
「……弱点、ですか?」
 突然の質問だった。
 真白は彼を見上げたまま、暫し固まるような格好になる。
 横目で、遠くの菊乃とモヤ人間のような付喪神との交戦を眺める。そういきなり訊かれて
も自分は知り合っただけで、そういう話はまだまだ素人当然なのだが……。
「付喪神とは、簡単に言えば魂を持った器物だ」
 答えられずに黙っている真白に、慈門は穏やかな口調でそう語りかける。
「器物……」
 そのフレーズに、真白は取っ掛かりを見つけそうになった。
 確か、エリーは古書を「本体」とする付喪神。そして他の『宝来堂』の付喪神たちも、そ
の本体を『宝来堂』に預けて守って貰っているという話。
「もしかして」
 ハッと顔を見上げる真白。その様子を見て、慈門は生徒を褒める先生のような眼差しで微
笑みながら小さく頷いた。
「そう。その本体そのものだ」
 そして、質問の答えを告げてくる。
「付喪神とは妖怪の中でも少し変わった経緯で『生まれた』者達でもある」
 橋の向こう遠く、何度も剣戟を交えているらしい菊乃達の方を眺めながら、
「妖怪には必ず、有形無形を問わず何かしらの「依り代」がある。それが根強いほどその者
は強い力を持つのだが……付喪神の場合、その依り代が器物という物理的なものに依拠して
いる、ある種特異なケースだといえる」
 そう言って一呼吸。
「だから、その依り代となっている器物が破損、破壊されてしまえば付喪神はその力、存在
を維持できなくなってしまう。ある意味、他の妖怪に比べると脆いかもしれない」
「…………」
 存在を維持できない。それはつまり死という事だろう。
 以前『宝来堂』で耳にした健在であった頃の喜一郎氏の体験話を思い出す。
 素人考えだが、妖怪に死などは無縁かと思っていたから、その衝撃は結構なものだった。
「だが、逆に言えばその器物さえ大事に守る事ができれば、付喪神はより長く『生きる』事
ができるんだ。喜一郎によって宝来堂が開かれたのもそれが大きな目的だった」
 遠くを見ている眼。
 だが、それは単に物理的な距離だけではなかったろう。そう真白は思う。
「しかし」
 少し視線を空に向けて、慈門は呟いた。
「それだけでは、まだまだ安泰だとはいえない。単に宝来堂という店舗で預かっても、不測
の事態という事はあり得るからね」
 確かにそうだ。たとえば宝来堂が火事にでもなったら、付喪神たちの依り代である器物も
燃えて失われてしまう可能性だってあるだろう。
「だからこそ、そこでエリーの出番だ」
「……エリーちゃんの?」
 真白は小首を傾げた。話が急ですぐに繋がって来ない。
 それを横目で見ながら、慈門は続けた。
「エリーは『どんなものでも写し取る』力を持つ。だから、彼女に写し取って保存して貰う
のさ……自分自身と、本体を丸ごとね」
「丸、ごと?」
 それって。つまり自分の存在全てを預けるという事になるのか。
「そうしておけば、いざ今ここにいる自分が消滅したとしても『保存していた自分』を解放
して貰えば私という存在は生き続ける事になる」
「……ええっと」
 真白は、頭の中から今までの話に最も近いと思われるフレーズを探し出して口にする。
「それってつまり、所謂クローンみたいなものって事ですか?」
「そうだな……簡単に言えばそういう感じになるんだろうか」
 呆気なく肯定されて、真白は目を丸くしていた。
 まさか科学でもまだ色々難しい事を彼女が能力としてこなしているなんて……。
「だから、私達はエリーにも、宝来堂という安息の場所を、存在の安堵を提供してくれた喜
一郎にも、その孫として宝来堂を受け継いでくれた智秋にも……大恩がある」
「……?」
 待てよ。その言い方、何処かが引っ掛かる。
「故に、私達は喜一郎とある盟約を交わした。彼とエリーによって我々の存在の安全が担保
されるのを条件に、私達は彼らを全力で守りぬくと誓った」
 真白のその言葉にしない反応に、
「菊乃、灯馬、時音、そして私。『宝来堂』に集った者達の中でも最も強い力を持つ我々四人
は彼の者の危機に応じて力を振るう。今回のように、襲い掛かる怪異と戦う事もある」
 慈門は予想していたかのように視線を寄越して微笑んでいた。
「喜一郎から智秋へ。エリーの主が変わった今でも、それは変わらないんだよ」
「…………」
 真白は、暫く言葉を発する事ができないまま彼を見上げていた。
 穏やかに語られた彼らの話。亡き恩人からその孫へ。受け継がれた安息を共に守っていく
為に交わされた盟約と。
 最後のピースがかちりと嵌った気がした。
 それは、彼女にとっても残っていた謎が解けた事であり、
「も、もしかして……慈門さん達も付喪神なんですか!?」
「あぁ、そうだよ。私はてっきり智秋が『彼らは皆、付喪神だ』と言った時に了承していた
ものだとばかり思っていたのだが……」
 つまり、彼らの正体も同じく付喪神である事を知った事だったから。
 友人たちの言っていた『呪われた店員達』、神山家で見た歳を経ても衰えていない彼らの
姿の謎。時音達からの懇願ですっかり意識から外にはずれていた、それら疑問の正体。
 彼らもまた、付喪神だったのだ。怪異の存在であるならばそれら疑念とも符合する。
「で、でも。慈門さん達はどう見たって人間ですよね……?」
「それはそうだろう。私達は人間のように化身しているんだから」
 最後の最後に残った真白の疑問に、慈門は何ともなく答えてくれる。
「これでも伊達に長生きはしてないのでね。人間に見えるように化身する事も可能なんだ」
 それは長く生きて力をつけた故の賜物、という事か。
 だとすれば、言い換えれば人間のように化身するのはそれほど難しいのだろうか。
「ただ、冬柴君の見鬼ではそれを見破るまでには至っていなかったというだけだよ」
「……そ、そうなんですか」
 何というか、中途半端なんだなと思う。何でも程度ものだとはいえ。
 内心少し凹んだが、温厚に微笑んでいる彼の顔を見るとそれもどうでもよく思えてくる。
 それに、彼らが付喪神だと知った所で真白は今更態度を変えようなどとは思えなかったし
思いもしなかった。彼らを見慣れた感があった、という事もあるが、何より彼らと食事を共
にしてもう知っていたのだから。
 彼らには、一人の少年の行く末を案じるだけの優しさが、人間と遜色ない「心」がある。
 あの時、人間と妖怪は違う存在なのだと言われはしたが、それでもその意味ではどうして
も同じではないのかと思ってしまうのだ。
「……さて」
 微笑んだままの慈門が、そっと視線を遠く、智秋達のいる方向へと移した。真白も同じよ
うに正面を向き、その遠くの光景に目を凝らしてみる。
「そろそろ、片のつく頃合だろうか」
 慈門がそう呟いた時、一際大きな剣戟の音が聞こえてきた。

 彼の者は、その時己の内から渦巻く激情に身を焦がされていた。
「──次ハ、オ前達ダ!」
 全身に巡る激情と力。それが一人の若者を捉えて地面に叩き付けていた。アスファルトの
地面はその衝撃で丸く陥没し、その円中に若者が白目を剥いて絶命し、倒れている。
「な、な……っ!?」
「ば、化け物……!」
 仲間を一瞬の内に殺されて、二人の若者達は驚きと、それ以上に肌を刺すように感じる恐
怖に震えていた。
 目の前、絶命した仲間の上に馬乗りになっているのは……人間ではない。
 青黒いモヤのような身体を持つ金眼の異形。身体の所々からは、気体が少しずつ蒸発して
いくような、塵に還っていく青黒い点々。
 二人はお互いに顔を見合わせる余裕すらもなかった。ガチガチと震え、言う事を中々効か
ない身体を無理に引き摺り出して、一歩また一歩と後退っていく。
 次の瞬間、二人はもう言葉にならない悲鳴をあげながら逃げ出していた。
 自分達の車のある方向へ。だが、もうエンジンがダメージを受けているのか動かないでい
た筈だ。二人は力の限り夜の峠道を駆けて行く。
「逃ガスカ……ッ!」
 異形も、当然彼らを追おうとした。
 このまま逃がしてなるものか。奴らだけは。
 だが。
「──ッ!?」
 追撃の一歩を踏み出そうとしたその時だった。突然、ゴウッと熱と赤の色が彼の者の視界
に潜り込んで来たのである。
 視線を移すと、山肌に激突したままの格好の乗用車から火の手が上がり始めていた。おそ
らくは漏れ出したガソリンに引火したのだろう。
「……クッ!」
 彼の者は金色の双眸を細めて車へと駆け出していた。
 まだ、あの中には彼らがいる。
 駆け出す足が、全身がジュワッとより大きく蒸発して塵に還っていく。痛みにも似た全身
を伝わる悲鳴。だが彼の者は立ち止まらなかった。立ち止まるわけにはいかなかった。
 何よりも、彼らを守るのは優先されるべき事……。
 燃え上がった炎が迫る車中に、彼の者は身を乗り出すと未だぐったりとしている彼ら二人
を救い出した。それぞれに肩に彼らを乗せて、よろよろと。少しずつ、それでも確実に悲鳴
をあげ始めている身体に鞭を打って燃えていく車から離れる。
 二人は、路肩とガードレールの間のスペースに横たえておいた。
 これで少なくとも焼け死ぬ事も、轢かれ死ぬ事もなかろう。
「…………」
 だが、それを確認して人心地を付く事もなく、彼の者はもう一度車中へ戻って身体を潜り
込ませた。迫る火と熱が間近に来ている。
 そこに彼の者の「本体」は生きていた。
 ちょうど運転席の傍。彼の手から零れ落ちた小箱。落とした衝撃の所為か、蓋は半開きに
なっていた。彼らを助け出している間に炎に炙られたからであろう。小箱は大分焼け焦げて
しまっている。
 彼の者は、その小箱から本体を取り出した。
 それは一個の指輪だった。
 彼が彼女に贈り、想いを伝える筈だったもの。しかしその為の装飾品は、小箱ほどではな
くとも、炎に中てられた所為で幾分か黒く煤けてしまっていた。
 その指輪を片手に、彼の者は彼らの下に戻っていった。
 背後では車がとうとう炎に飲み込まれようとしている。助かった? いや、安堵する材料
など何処にあろうか。少なくとも彼はこんなにも……。
「……マダ、ダ」
 ぶり返す激情と、身体中を巡っていく力の拡散と。
 分かってはいた。無理に化身した事、する事がどれだけ大きなリスクを伴う事なのか。
 それでも私は激情に浸食されている。この得た理性もいつまでもつか分からない。
 時間が惜しい。
 彼の者はそっと二人の前に跪いた。指輪を、自分自身を彼の手に持たせるようにすると、
その手を動かして、彼女の左薬指へと嵌めてやる。
 彼自身に代わってでも、私が伝えてみせよう。
 二人はまだ目を覚まさす様子はない。いや、もう覚まさないかもしれない。だが私は医者
ではない。指輪なのだ……できる事など、もう残ってなどいなかった。
「……嗚呼」
 力ガ、身体ガ壊レテイク。
 もう限界が来ている。先刻以上に青黒い塵は激しく全身から沸々と蒸発するように四散し
て、じきに私を再び精神だけの存在に押し返してしまうだろう。
 ダガ、未ダ終ワルワケニハイカナイ……。
 身体を得た故の未練? 違う。もっと別の事だ。私は彼らの為にいる。彼らの為に生まれ
てきた。だから……まだ、私にはやり残した事があるんだ。
「……消エテイク」
 手が、足が。身体中が霧散していく。
 限界が来たようだった。だが、未だ私は死んだわけではない。
 きっと力を取り戻して帰って来よう。
 待ッテイテクレ。必ズソノ無念、晴ラシテミセルカラ……。

「オォォォッ!」
 両手の五指を槍先のように尖らせ、指輪の化身は全力で一撃を繰り出す。
 ガ、キィンッ!
 だが、何度目とも知れぬその一撃も、目の前の袴姿の付喪神(どうぞく)には通用してい
ない。まただ。また、いとも簡単に刀の腹で受け流された。
「グゥ……ッ!」
「……威力は中々のようだな。だが」
 受け流された勢いでよろめく化身に、菊乃はぼそりと語り掛けながら、
「その攻撃、正直過ぎる!」
「ガァッ!?」
 刃を返し、容赦ない斬撃を浴びせる。
 胴を横薙ぎに。青黒い身体から相当量の塵が出血のように溢れて、宙に霧散する。数歩、
後ろに後退る化身。だが菊乃はまだ斬撃を止めない。
 一撃、二撃、三撃。
 二刀の銀閃が殆ど隙なく空を切りながら、次々に化身の身体に叩き込まれた。その度に化
身の身体からは青黒い塵が、力そのものと共に削り取られていくように。
「ウァオォォォ……ッ!」
 よろめき、力が削がれる身体に鞭を打って化身は殆ど破れかぶれに腕を振るっていた。
 それでも菊乃は平静を失わない。今度は半身を翻して紙一重でそれを交わすと、二刀の刃
を一度に振り抜き放った。
「ギャガッ!」
 すれ違いざまの一瞬の早業。化身は防御する暇すら与えられず、そのまま二つでほぼ一つ
の斬撃の威力をまともに受けて吹き飛ばされた。
「……呆気ない」
 そう呟く菊乃だったが、二刀の構えは緩めない。
「できれば退いて貰いたいな。自分でだって分かっているんだろう? そんな無理して化身
した身体でまともに戦おうという事自体、無茶なんだぞ……」
 その言葉の後半は説得にも似ていた。
 同じ付喪神として、怪異の存在としてそのリスクを痛いほど分かっていたから。
「…………」
 だが、指輪の化身は彼女の言葉に耳を貸している様子ではなかった。
 よろよろと起き上がり、その金色の両眼を心持ち上に持ち上げている。
「……?」
 菊乃は軽く眉根を寄せた。
 彼の者の視線の先、そこには彼女と距離を置いて交戦の一部始終を見ている智秋がいる。
(……いや、違うな)
 だがその視線は智秋にというよりもむしろ……。
 じっと指輪の化身の視線を見据えた智秋は、そっと後ろを横目で見遣った。
(もしかして……)
 その視線の先には、遠くまで続く河川敷と芝生の斜面、そして堤防道。
 その一角、夏海によって木陰に運ばれた、あの気絶したままの若者の姿がある。
「ヌゥゥゥ……ッ」
「…………」
 間違いない。やはり狙いはあの青年なのか。
 智秋がそう推測を確信に変えた時、再び指輪の化身は、
「オォォォォッ!」
 両手の五指に力を込めて駆け出す。
「……仕方ない、のか」
 全身の力を込めた一撃を、菊乃は二刀でがっしりと受け止めた。ガキィンと、今まで以上
に大きな剣戟、金属質な音が河川敷に響き渡る。暫し力の拮抗。じりじりと押し合い圧し合
いを続けていた両者だったが、力の流れを読んだ菊乃がその隙を逃さず、彼の者を少々力づ
くで押し飛ばす。
 それでも、化身は怯まない。
 再び五指を振るって突進してくる。その一撃を、菊乃は二刀で弾き、受け流し、斬撃を加
えて押し返す。だが化身はまた猛然と向かってくる。
「オォォォッ!」
「無駄だと言っているだろう!」
 攻撃、緩衝、反撃。化身から菊乃へと。
 それが何度も繰り返された。その度に菊乃の的確に隙を作り、反撃された化身の身体から
青黒い塵が四散する。剣戟の音。くぐもった呻き。だが、それでも彼の者は止まろうとしな
かった。平静に彼の者の攻撃を裁き続けていた菊乃も、流石に怪訝を覚える。
(……無策? いや違う。これは)
 何度目か分からない、菊乃の斬撃が指輪の化身の身体を薙いだ。
 積み重なっていくダメージにふらふらとよろめく化身。だが、その金色の瞳はじっと菊乃
を睨んでいるように──いや、背後の智秋を通り越してもっと後ろの、気絶したままの青年
へと向けられている。
「グ、オォォォォ!」
 何故ダ。何故邪魔ヲスル?
 ヤット、ヤット力ヲ蓄エテ取リ戻シタトイウノニ。同ジ事態ニナラヌヨウニ、私ニ触レテ
キタ男ノ身体ヲ借リマデシタトイウノニ。何故、オ前達ハ邪魔ヲスル!
「…………」
 再度、猛然と駆け出す指輪の化身。
 その一撃をまた、小さく舌打ちして二刀で受け止める菊乃。
 智秋はその様子をじっと見つめながら考え込んでいた。
 今回の概要。現場の記憶から見たもの。そこから推測される内容と今起こっている状態を
見るに何処か違和感があるように思えてならない。
 少なくとも園村刑事という憑依対象を得た彼が、最初に向かうだろうと思っていた場所は
智秋の予測ではここではなかった。先回りした時音達からの連絡によってこちらに来ている
と知ったまでである。あくまで、ここは警戒先だった。
「……どうしてだ」
 智秋は小さく呟いた。
 菊乃の斬撃が再び化身を薙ぎ、青黒い塵を撒き散らした。彼の者が衝撃でよろめく。
 じっと考える。自分の予測はズレているのか。だとすれば、今あの付喪神が思っている事
とは何なのか。それとも暴走状態に近い彼の者にそんなものはないのか……?
(いや、付喪神である以上、何かしらの「心」は働いている……)
 猛然と菊乃に立ち向かう指輪の化身。
 だが、その様子は単に彼女を「敵」と見ているというにはお粗末な気がする。もっと的確
な表現があるような気がするのだが。
「やめるんだ。これ以上菊乃と戦っても磨耗していくだけだぞ!」
 今度は彼の者にも聞こえるように。
 智秋は少し大きな声で呼びかける。いや叫んだ。
 だが、それでも彼の者は止まらない。何度も菊乃にぶつかっていく。反撃され後退する。
「もう無理をして化身する事はないんだ。彼は亡くなったが……彼女は生きている。一命を
取り止めているんだ。もうお前が守ろうとしなくても大丈夫なんだ!」
 あのビジョン。薄れゆく身を粉にしても二人を助けていた姿。
 てっきり、智秋は『彼らを守る』事に化身が固執しているのではないかと思っていた。
「オォォォォォォッ!」
「……ちっ、くどいぞ!」
 振りかざされた左腕。歯を噛み締めた菊乃が姿勢をぐっと低く構えた。一瞬、化身の視界
から彼女の姿が消える。
 だがそれも束の間。斜め下から上方へ、神速の銀閃が飛んだ。
 反応する事も交わす事もできず、化身の伸ばされた左腕の肘から先がばっさりと斬り捨て
られて宙を舞う。少し仰け反る化身。ざざっと、勢いに押されて距離が取られる。
 ぼとりと腕が落ちた。傷口から先程よりも多くの青黒い塵が蒸発していく。
 だが、それですらも化身は怯んでいなかった。
「グ、ノォォォォォォッ!」
 咆哮。もはや人ではなく獣。暴走状態が加速している。
「……お前」
 菊乃は、すっと切っ先を返しつつその様を苛立たしげに見ていた。だがそれは弱者への蔑
みなどではない。己を滅ぼすと分かっていながら無茶な化身を続ける同胞への、憂いに近い
ものだといってよかった。
(……そうか。そうなのか?)
 そして智秋も彼の者の様子に別の意思を見出そうとしてた。
 ぼんやりと過ぎりかけたその可能性を手繰り寄せた時、智秋は静かに唇をぎゅっと噛み締
めていた。まだまだ自分は甘いな……彼らにもそんな「心」はあるだろうに。
 身がボロボロになっても、菊乃にぶつかっていく指輪の化身。
 だが、彼の者は菊乃と戦っているのではないのだ。あくまで彼の者にとって彼女は「壁」
でしかないとしたら? 既に彼の者の意識はもっと先を向いている。
 自分? 違う。それは背後で気を失っているあの青年に他ならなかったのだ。
 もはや迂回するという思考すら掻き消えても尚、彼の者を突き動かしているもの……。
「グオォォォォォォッ!」
 指輪の化身は、失った左手すら鑑みず、乱暴に右腕を振るった。
 菊乃は眉間に皺を寄せた。ここまで無謀に突っ込むとは。
 二刀を構える手に力を込める。もう、相手にも自分にも徒に長引かせようとは思えなくな
っていた。数撃。数手で終わらせよう……。
「──お前、泣いているんだな」
 その時だった。
 背後からの智秋の声。酷く静かで、哀しい声。
「…………」
 菊乃の眼前で、化身の五指が止まった。
 ゆっくりと金色の瞳が智秋の方を見遣っている。不完全な化身故、表情などは作れない。
だが、そこには明らかに動揺が見えたような気がした。彼の言う哀しみが含まれているよう
な気がした。
「そうなんだな」
 菊乃もじっと背中で智秋の声色を聞いている。
 動きを止めた化身をじっと見つめ、二刀の切っ先をそっと退く。
 智秋は、大きく息をついていた。
 守る。確かにそれは間違っていなかったろう。現に炎に巻かれかけた彼らを、彼の者は自
身の意思で助けたのだから。
 だが、そこまでだった。理性が彼の者を動かしていたのは。
 よく考えれば、通常の「心」が辿るルートを想起すれば考えうる可能性だったのだ。
 哀しみと、復讐心。
 それはある意味、当然の導きだったのかもしれない。自身の「心」を育む素地となった主
の死。それが無謀な運転の若者達によって成されたものだとしたら。
 当然、彼の死を悲しんだ筈だ。当然、元凶たる彼らを恨んだ筈だ。
 そして……その憎しみが満ちた時、彼の者は復讐の虜になっていたのだ。怪異は性質。与
えられた意識が心を作る。存在価値を作る。
 だから、彼は全存在を賭けてでも成そうとした。無理に化身を果たしてでも主の無念を晴
らそうと思ったのだろう。
 だが……それを、許すわけにはいかない。智秋は強い眼で彼の者を見つめた。
「もういいんだ」
 ピクッと、指輪の化身が身を揺らす。
 菊乃が智秋の意図を汲んで、得物を握る両手に力を込める。
「……安らかに眠れ」
 せめて、自分達が無に還そう。
 お前の心を察する事ができた者として。知った故の責務として、お前を止める。
 次の瞬間、化身は目の前に迫る銀閃を見た。
「グガッ!?」
 激しく薙がれた胴。何度目か分からない飛び散る青黒い塵。無防備に近い状態になってい
た彼の者はそのまま吹き飛ばされ、河川敷を転げた。
 くぐもった呻き。片腕を失った事も然る事ながら積もりに積もったダメージが身体の自由
を奪っていた。
「さて……」
 スッと、菊乃が刀の一本を目の前に垂直に立てるようにして握った。
「決めさせて貰おう」
 そして刃を返したその刹那。
「……ッ!?」
 周囲に、霧のような無数の霊気の帯が流れてきた。
 片膝立ちに辛うじて身を起こした指輪の化身。
 しかし、彼の者が次の瞬間目にしたのは今までいた河川敷とは全く異なる光景だった。
 ──そこは、黄昏に染まったなだらかな起伏のある平原。
 草木は殆どなく、あっても枯れ草の様相を呈している。そして何よりも彼の者の目に映っ
たのは、四方八方の地面に突き刺さった剣、槍……様々な武器の数々。
 まるで武器の墓場のようだった。
 ゆっくりと、弱った身体を起こして周りを見渡す。
 何より感じたのは、全身を刺すような強烈な霊気の強さ。
「!?」
 正面からの気配に眼を見張る。
 そこには遠くに、垂直に立てた刀を掲げた菊乃が立っていた。
 じっと見据えるその瞳は、獲物を狩る者の眼。そっと目を閉じ、ややあって見開く。
 オォォォ……ッ!
 黄昏の空気が震えた。
 その刹那、墓標のように周囲の地面に突き刺さってた武器達が蜃気楼を纏ったかのように
ゆらゆらとその姿を揺らめかせていく。
「……兵(つわもの)どもよ」
 ゆらり。菊乃の呟きに応じるように、揺らめいた武器の姿が、全て武器・防具に身を包ん
だ兵士の姿とへ変わる。古戦場の武士。例えるならばそんな形容。
「彼の者を、討て」
 菊乃は告げた。
 ひゅっと前に突き出した刀の切っ先を、水平に払う。
「……ッ!?」
 それが合図だった。
 遠近、周囲を取り囲んだ無数の古戦場の兵(つわもの)ども。彼らが菊乃の一声を合図に
一斉に指輪の化身に向かって武器を引っ提げて突撃を開始した。轟く無数の武者の声。
 ……逃げる? 何処へ?
 四方八方。全方位から囲まれた軍勢を前に、彼の者が退行する術はなかった。
 次から次へと、矢継ぎ早に。駆け抜けてすれ違う瞬間に一撃。それが餌に群がる軍隊蟻の
ように化身のその身に浴びせられていく。
「ガッ! グガッ! ガァッ!?」
 前方から衝撃が来たかと思えば、続けざまに横っ腹に、かと思えば真後ろから。連撃につ
ぐ連撃の嵐が彼の者の青黒い身体を次々に薙ぎ捨てていく。
 最早ボロ雑巾のように。彼の者はただ、四方八方からの衝撃に身を任せてふらふらと身体
を揺らす事しかできない。身体中が引き裂かれる。そんな実感が全身を絶え間なく駆け抜け
ていくダメージとして伝わる。
 そして彼の者が見たのは、いつの間にか眼前に迫っていた二本の銀閃。
「ガッ……!?」
 決定的な一撃が胴を薙いでいた。
 前には二刀を振りぬいた格好の菊乃。黄昏の平原に吹く荒い風が羽織を、髪を揺らす。
 その後方には、金色の目を見開き、中空で仰け反る彼の者。
 僅かな時間。しかし緊迫の数秒。
 その青黒い全身を奔る無数の斬撃痕。
「ア……ァァァァァァァァァァッ!」
 そして、絶叫。
 彼の者が爆ぜた。積もりに積もったダメージが彼の身体を粉微塵に引き裂き、砕き、塵に
還したのだ。青黒い大量のモヤが視界一杯に四散する。
 チキン……と。黙して、二刀の手元を返し鞘に収める音。
 静かに彼女の声が呟かれる。
「許せ。同胞」
 ──そのモヤが晴れた時には、辺りの光景は元の河川敷に戻っていた。

「…………凄い」
 真白は、その一部始終を橋の上から見ていた。
 とはいえ距離があってはっきりとは見えないので、同じく隣に立っている慈門に随時様子
を伝えて貰いながら(何という視力・聴力だろう)ではあったが。
 思わず漏らした言葉と共に、真白はそれでも別の事を考えていた。
 慈門の言葉尻からして、このような場面は初めてではないらしい。だとすれば、智秋は過
去何度も怪異の類──妖怪などと(菊乃達を呼び出し)戦っていたという事になるのか。
(でも……それって)
 矛盾はしないのだろうか。
 時音達の言葉を借りれば怪異に寄り添っている、という彼の立場とは。
「何。基本的に話し合いで済めば我々も駆り出されはしないさ」
「あ、そうなんですか……」
 思っていた事が表情に出ていたらしい。
 ふいと見上げると慈門が自分を微笑のまま見下ろしている。
「仕方なく戦う事はなくもない。智秋も、我々もそれはあまり好ましくはないのだが……」
 再び、二人して視線を智秋の方へ戻す。
 智秋が刀をしまった菊乃に近づいていた。そっと片手に何かを握っている。
「あれは……」
「また眠るのさ。栞の中でね」
 そう慈門が答えた丁度その時だった。
 最初、袴姿の菊乃が現れた時と同じ淡い黄色の光が弾けたのだ。
 眩しくて見え難いが、距離を置いて立っているお陰でそれが確認できる。黄色の栞。その
中へ菊乃の姿が吸い込まれるように消えていく様を。
 暫くの発光。その後、河川敷はまた平静に戻っていった。
 智秋の手には黄色の栞。彼はそれを一瞥するとしまい込む。そっと目を閉じて深呼吸をし
ている。すると、するり……と、エリーが彼の身体から出て来た。ふわふわと浮かぶエリー
を一瞥し、彼は未だ倒れたままの園村の下へ向かった。視線をずらすと、後ろから夏海も追
って来ているようだ。
「あの付喪神の本体を回収するのだろう。……といっても、菊乃に討たれて、既にただの指
輪に戻ったのだろうがね」
「指輪……?」
 今回のあのモヤ人間、もとい付喪神は指輪の化身だったという事か。
 真白は園村に近寄っていく智秋と夏海の様子を眺めていた。
(宝生君は、こんな事をずっと続けていたんだ……)
 怪異に寄り添い、それ故周りから忌避され、それらに耐え、時には寄り添うべき側と戦わ
なければならないなんて。
 時音達がいるから孤独じゃないと思っていた。
 だけど、その見立ては甘いのかもしれない。彼はもっと深い影を背負っているのではない
だろうか。そう思わされる。
「……宝生君」
 ぽつりと漏れる声。
 慈門は彼女と同じように視線を智秋に向けたまま黙っている。
 橋の上から、彼と離れた距離から見守るだけ。彼のようにはなれなくても、それが今は少
しだけ、いやどんよりと気を重くさせるような気がする。
「…………」
 そっと、智秋がこちらを見上げていた。淡々とした静かな瞳。
 距離も遠い。何を考えているかも、何かを言っていても分からない。
 浮かれていた分、真白は思ってしまう。これが彼との本当の距離なのかもしれないと。
(それでも……)
 と、真白は思う。
 彼女達と約束したから。そして自分でもそうしたいと思うから。
(……独りにしないから。私達が、いるから)
 そう、心の中でそっと彼に呼び掛けていたのだった。

「──やれやれ。片付いたみたいだな」
 更にそれらが全て、アパートの屋根の上の灯馬、菊乃、時音の三人に見られていた。
 一段落がついたとぐぐっと伸びをする彼の横で、菊乃は苦笑いを浮かべながら、
「しかし……何度見ても、私ではない私が戦っているというのは、奇妙なものだな」
 と感慨深げに呟いている。
「ま、俺達が選んだ道だからよ。それよりも時音」
「ええ、分かっているわ」
 少しだけ浮かない表情で時音が笑みを作ってみせた。
 今は『時間を遅らせて』人払いを施しているが、このままではいずれ騒ぎが大きくなって
しまうだろう。
 やはり、智秋から連絡があったように「後始末」が必要になってくる。
「…………」
 一歩、時音が前に出た。
 視界一杯には智秋達のいる河川敷を始め、中小の住宅が寄り添うようにして広がっている
のが見える。
 この一帯に住む者達からこの一件を取り除く事。それが今回のミッションだ。
 すっと片手を出し、ぱちんと指を鳴らす。
 その瞬間、時音を中心として猛スピードで辺りの景色が深い青色一色に染まっていく。
 Tシャツと短パン一丁で庭先に出てきた若者。騒ぎに勘付いて家から外を覗いている中年
女性。道をゆく犬を連れた老人。
 蹴り破られた扉の残骸。拳で打ち抜かれたベッド。天井部分が貫かれたアパート裏の車。
砕けて崩れたた堤防沿いの樹。
 そして木陰で倒れたままのあの若者に、智秋と夏海の足元で倒れている園村。
 それら全ての動きが、まるでビデオの一時停止の状態のようにピクリとも動かなくなった
のである。
「……さあ」
 時間が止まった街。コバルトブルーの冷たい闇に塗られた広範な空間。
 その街並みに向かって、時音はそっと手を差し出してみせる。
 瞳は深く、力を湛えて青い闇の全てを遍く掌握したかのようにして、
「貴方達の時間、弄らせて貰うわよ」
 彼女は静かに呟いた。


 失意の女性、というのはまさしく彼女の事を言うのであろう。
 彼女はとある病室のベッドにいた。下半身を布団に潜らせた格好で、ぼうっと座って窓の
外の風景を眺めているように見える。
 しかしその瞳には力がなく、頭に巻いた包帯とやつれた姿も相まってより弱々しく虚ろに
感じさせる。
 涙はもう出なかった。出尽くしたのではないかと思う。
 ただ乾燥してしまった感情を、窓から流れてくる春先の風が撫でるが、それも彼女を慰め
るには至らない。時々する院内の物音を覗けば、そこはとても静かで哀しみを宿した空間で
あっただろう。
 ちょうどその時だった。
「……?」
 軽くドアをノックする音。彼女はゆっくりと首を動かしてドアの方を見た。
「どうぞ……。開いています」
 弱々しく。自分でもそら寒くなるほどの声色で。
 誰だろう? また中途半端に慰めに来られても……。
「こんにちは」
 ドアを開けて入ってきたのは、スーツ姿の女性だった。本来は気さくな感じの性格であろ
う感じを受けるが、場所が場所だけに彼女も少し控えめに振舞っているようだ。
「……あなたは」
 彼女に姿には、見覚えがあった。
「どうも。物守署の宝生です」
 そうだ。刑事さんだ。
 今回の……事故を担当してくれている。
 軽くドアの前で頭を下げた夏海が、そっと彼女の傍までやってくる。
「あの、何かありましたか」
 そう言って彼女は無意識に表情を歪めていた。
 この刑事さんが来たという事は、今回の事故の件についてだろう。もう、正直聞きたくは
なかった。だけど口には出せない。
 どれだけ加害側の人を捕まえても……彼は、もう戻って来ないんだから。
「残りの加害側の人物が捕まりました。先日自首してきた方と併せて、近日中に起訴される
見通しです。それを伝えに」
「……そうですか」
 捕まった。これで「事件」は終わったんだな。
 だけど……。
「それと、もう一つ」
 俯きかけた彼女に、夏海がそう言葉を繋いだ。
 思わずそっと顔を上げる彼女。それを見て、夏海は優しく微笑んでいた。単純に事件を事
件として処理するだけのサラリーマンではない、真摯な姿。
 だけど、そうされると嬉しい一方でまた苦しくもある……。
「貴女にお返しするものがありまして。どうやら貴女を搬送中に落としてしまったようで。
此方でも今まで気付けなかったようです。すみません」
「……? はぁ」
 彼女は殆ど疑問符に近い曖昧な返事だけを漏らしていた。
 ショルダーバッグから、夏海がビニール袋に入った何かを取り出した。
 私に返す物? 何だろう。
「これです」
 ビニール袋から取り出され、見せられたのは、
「……指輪、ですか?」
「ええ」
 小さな指輪だった。ただ、随分と煤けて黒くなっていたが。
 目を凝らして見てみる。煤けて判別が難しいとはいえ、自分の持ち物くらいは把握してい
るつもりである。だからじっとそれを検めた後、
「……見た事のない指輪ですね。多分、私のではないと思いますけど」
 と答えていた。
「……いいえ。これは貴女の物ですよ」
「え?」
 だが、夏海はそう返す。
 哀しさを微笑みで静かに包み込んで癒してくれるような。そんな表情で。
 彼女は少し怪訝に、夏海の顔を見返していた。どういう意味なのか分からない。すると、
夏海はゆっくりと語り始めたのだった。
「正確には、貴女に贈られる筈だった物なんですよ」
「贈られる……?」
 にこりと夏海が笑う。彼女が少し目を見開く。
「彼から、貴女への」
 その言葉で十分だった。通りで知らない筈である。
 思い出されるあの夜の記憶。本当は辛くて思い出したくはなかったけれど、でも蘇るのは
付き合って長くなっていた彼が車を運転する横顔。
 そして、いつもと何処か違う。緊張していたような様子……。
「きっと、貴女にプロポーズするつもりだったんでしょうね。煤けて見えなくなっています
けど、鑑識で調べて貰ったんです。この指輪の内側には、彼から貴女へ……。貴方達のイニ
シャルが彫ってありました」
「…………」
 夏海の話に、彼女は何も言えなかった。
 全てが繋がっていく。あの夜の彼の様子のちょっとした違和感も何もかも。
「あの現場の先、丘の上は星を見るには絶好のポイントだそうです。きっとそこで渡すつも
りだったんだと思いますよ」
 そうか。そうだったんだ。
 俯いてからそっと顔を撫でてしまう。
(……あ)
 少し生暖かい濡れた感触。それが自分の涙だと分かるのに時間は掛からなかった。
 何だ……私、まだ泣けるんじゃない。
 そう思うともう止まらなかった。決壊したように溢れてくる涙と、込み上げてくる切なさ
と。色んな気持ちが混ざり合って彼女は泣きじゃくってしまっていた。
「……この指輪は、きっと貴女を守ってくれると思います」
 彼女の傍に近寄り、泣きじゃくるその背中を夏海はそっと摩りながら言った。
「生きて下さい。彼の分まで。貴女は幸せにならなくっちゃ……」
 夏海は「ちょっとベタですかね」と苦笑していたが、彼女にはそんな刑事ではなく、一人
の女性として励ましてくれた姿勢が嬉しかった。
 それはきっと、彼の最期の想いを知る事ができたから受け止められたのだろう。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
「いいえ……。お礼なら、天国の彼に言ってあげて下さいね」
「……はい」
 夏海の静かな慰みを受けながら、彼女はその後暫く止まらない涙と共に、今は亡き彼の姿
を想った。せめてその心の奥に、刻み付けておく為に。

「──ふぅん。そんな事があったんだ」
 境内の一角、石畳と土の地面の上で紅葉は河川敷で起きた一連の事件の顛末を聞き終えて
いた。彼女の足元には何本かの木材──榊が積まれている。
「本当、最初はこんな所で死ぬのか~……なんて思っちゃいましたけど」
 あはは……と苦笑いする真白。
「本当、予定外も甚だしかったな……神出鬼没だ」
「……うぅ」
 そんな彼女にじと目を寄越す智秋。
「まぁまぁ、真白ちゃんも助かって事件も解決。御の字じゃないの」
 紅葉はそんな二人を見遣りながら、
「ね? エリー」
「ええ。折角のお友達を失いかねなかったんだもの」
 智秋の頭上でふわふわと浮いているエリーと頷き合った。 
 だがその言葉に智秋の方は納得していないようで、静かに無言になる。真白は横目でその
様子を一瞥して困り顔を見せて、榊の束を挟んで向かい合う紅葉に視線を移した。
「でもさ、驚いちゃったよ」
 それを知っても尚、紅葉は少し悪戯っぽく微笑み、
「智秋が真白ちゃんを『こっち側』に引き入れちゃうなんてさ」
 半眼で見返してくる智秋をニヤニヤと笑いながら突っつくように言ってのける。
「……僕は今でも反対だ」
 そんな智秋は不機嫌そうに、
「だけど、時音達に説得されたから……味方は多い方がいいだろうって」
 それでもぼそぼそと言い訳っぽく呟いている。
(……説得、されたんだ)
 真白はそれを聞いて思わず苦笑を漏らさずにはいられなかった。
 予想通り、自分が「知った」ままである事には難色を示しているが、結局は時音達の説得
で押し切られてしまっているという力関係に。
 いや、自分の一存より怪異である彼女達の意見の方を優先しているという事か。
 何故だろう。不機嫌な彼を見ているのに、何処か微笑ましさすら覚えるのは。
 真白は、密かに破顔しながら智秋をちらちらと見ていた。
「……何」
「え? あ、いえ何でもないよ。何でも、ないですよ?」
 そうしていると智秋に無言で咎められて慌てて視線をそらす。それでも何だか微笑ましく
て半笑いのような表情が中々治まってくれない。
「…………」
 そんな様子を、紅葉は静かに見守るように眺めていた。
「よかったね。智秋」
 平素の溌剌とした感じとは数歩もスタンスが違う、同じ同姓の真白でも少しドキリとする
ような、そんな彼女の優しい笑みと声色。
「……さっさと火、熾せ」
「はいはい」
 だが、智秋は一瞬眉間に皺を寄せただけで、ぶっきらぼうにそう言い放つだけ。
 真白は少し恐縮な思いになったが、彼女は特に気にせず、再び悪戯っぽい笑みに戻りもそ
もそと作業を再開する。
 紅葉が擦ったマッチの火が榊の束につき、ぱちぱちと炎を作り始めた。
「…………」
 そして智秋がポケットから取り出したのは、二枚の栞だった。
 エリーの能力によって「写し取った」ものを封じた栞である。
 一枚は芳子を診断した時、あの古人形の想い──持ち主とその家族との再開を望んでいた
想いを写し取ったもの。もう一枚は先日の事件の発端になったという交通事故現場の、事故
当時の光景の記憶を近くの樹から写し取ったものなのだという。
 今日は、この二枚の栞を処分するのだそうだ。
 一緒にどう? と紅葉に誘われて真白はこうしてこの場に立ち会っている。
「……あの、宝生君」
 その二枚を手にし、燃えている火を見つめていた智秋に、真白はおずおずと訊ねていた。
「何?」
「あの、えっと……その栞、本当に燃やしちゃっていいのかなぁ……って」
 それは燃やすからという連絡を受けた時からふと疑問に思っていた事だった。
 彼の握っている栞はただの代物ではない。
 正真正銘、それぞれに「想い」を宿したものなのだ。だからそれをこうも簡単に火にくべ
てしまってよいものなのか。罪悪感、とまではいかない。それに「複写」されたものだから
オリジナルそのものではない。だが、真白個人としては躊躇いを感じていたのだ。
 しかし、真白は途切れ途切れに言葉を呟いただけで、それ以上自分の思っている事を上手
く言葉にする事はできなかった。
「…………」
 じっと智秋が真白を見ている。
 まるで叱られている子供のように、真白は内心ビクついて視線を逸らす事もできずに彼の
淡々とした瞳の色を見つめ返すだけしかできない。
 どれほどの間であっただろうか。
「……想いは」
 ついと、真白から視線をずらしたのは智秋の方だった。
 焚き火の方に視線を戻して小さく呟く。
「想いは、人を縛るものだから」
 それが、彼が妙な沈黙を経て考えた返答である事に気付くのに数秒の時間を要した。
 人を……縛るもの?
「え? それって、どういう……」
「…………」
 再び間を作ってしまった後に真白が問い返してみるが、智秋は答えない。ただじっと目の
前の炎が少しずつ大きくなっていくのを眺めているだけだ。
(縛るものだから……処分しちゃうって事?)
 そんなの。真白はややあって飲み込まれた彼の言葉に何処か拒否反応を示している自分が
いるのに気付いた。想いは、人を縛るもの。
 そんな、ネガティブなものじゃない……。
 真白はそう言い返しそうになったが、声にならなかった。
 そんな感情的になっても彼に届くのだろうかと思い留まってしまったからだ。それに彼の
言った言葉を単に、言葉尻を捕るような真似をしても何になるのか。
(でも、でも……)
 困った顔で、真白はちらと紅葉を見た。
 すると彼女も何か思う所があるのか、複雑な表情で苦笑いを返してくる。ただ、真白ほど
深刻に悩んでいるというよりは「あぁ……またか」といった感じのニュアンス。
「……ごめんね。智秋にとっても写し取る事自体、辛い事でもあるから」
 その時、ふわっと静かにエリーが真白の耳元に近づいてそう囁いて来た。
だが「え?」と聞き返す間もなく、彼女は再びふわりと浮いて静かに智秋の後ろに回って
いってしまう。もう一度苦笑を見せてくる。
 もしかして彼には……聞かれて欲しくなかった?
(……宝生君にとっても、辛い事?)
 その言葉が脳内でループする。
 そしてその周回が二桁に差し掛かろうとした時、真白はハッとなった。
(……もしかして)
 それは一つの仮説。
 エリーの能力、智秋が借りている力は「あらゆるものを写し取る」事。つまり複写だ。
 だとすれば……もし複写する時には、ある行為が伴わなければ成立しない事になる。
 それは、閲覧。写し取るならば、その対象を少なくとも一度は全て目を通す必要がある。
 そして彼らが見るのは単なる図式・文章ではない。生の「想い」であり「記憶」である。
そこには多少の違いはあっても強烈な感情が宿っている筈だ。仮にも「あらゆるものを写
し取る」のであればそれらとも複写の度に、一切よそ見する事なく直視する事になるのでは
ないのだろうか。それは、非常に心理的にハードなものだと想像に難くない……。
「…………」
 真白はもう一度智秋を見た。
 彼は変わらず淡々と火を見つめている。
 そうか。だから「人を縛るもの」だと言ったのか。
 ただ「他人事」であれば何ともないかもしれない。しかし、複写の折に直接的な経験とし
て焼き付けられるのではあれば、最早それは自分自身にも降り掛かるのである。
 彼は、実感を持ってそう言ったのだ。
 感情は心を持つ者を規定するが、それは即ち彼らを縛る鎖でもあるのだと。
 そして……怪異に寄り添って周囲から少なからず忌避されている彼にとっては、より一層
現実味を帯びてくるのだろう。怪異を「異端」と断じ、縛られている人を常に知り、かつそ
れらの影響を受けている自分。同時にその在り方に抗う自身もまた、自分の想いに縛られた
存在である事を知っているから。
 だから、この場はただの「焼却」ではなく、一種の「浄化」のつもりなのかもしれない。
(宝生君……)
 なのに自分は。軽率だった。
 そしてやはり、彼とは距離が縮まったようで全くの思い違いだとも気付かされる。
 紅葉を、エリーを真白はそっと見遣った。
 自分よりもずっと彼と長くいたであろう二人。自分が彼女達のように本当に理解者になれ
る日は本当に来るのだろうかとさえ疑問に思ってしまう。
(時音さん……。私、まだまだです)
 あの日、大丈夫だと言ってくれた彼女の顔が浮かぶ。
 少なくとも彼を忌避したりはしない。そう約束したあの日。
 だから……。
「……うん?」
 智秋が視線に気付いて、再び真白をちらりと見遣ってきた。
 そうだ。今すぐに彼を変えなくてもいい。すぐに、心がただの鎖じゃないんだって説得し
ようとしなくたっていい。ゆっくりでいい……今はまだ。
「宝生君、その……」
 上手く言葉が見つからない。
 だから真白はまだ言えていなかった、もっと身近な事で彼に伝えようと思った。
「ありがとう。ヨシちゃんの事も、この前の時の事も」
 智秋は黙っていた。
 それでも真白は少し伏せ目がちに彼の反応を静かに窺う。また流れる沈黙。ぱちぱちと焚
き火が燃える音だけがやけに耳に届いてくるような気がした。
「……別に」
 ぷいっと、智秋はその音に隠れるような小声でそれだけを言った。
 だけどその声は怒っていない。
『あいつは、不器用だからなぁ──』
 何時ぞやの時音達の言葉が不意に蘇る。
 照れ隠し、なのかもしれない。
 そう思うとあまり嫌な気にはならなかった。ちらりと紅葉の方を見てみると、同じ事を考
えていたのか、逸らした智秋の顔を覗き見るようにしてにやにやと笑っている。
 智秋がむすっとした表情のまま、握っていた二枚の栞を火の中に投げ入れた。
 すぐさま炎と熱で灰と煙になる栞。そこに写され封じられた想いは何処にいくのだろう。
『…………』
 智秋はゆっくりと視線を上に向けていた。
 真白も、紅葉も、彼の頭上に浮いているエリーも一様に空を見上げている。
 想いが魂と言い換えられるならば彼らは今、天国へと向かう事ができているのだろうか。
 真白はそんな事を思いながら、じっと智秋達に倣って天を仰ぐ。
(少しずつ、ほんの少しずつでも……いいんだよね?)
 
 様々な想いを見下ろして。空は今日も澄んだ青に染め上がっていた。
                                      (了)

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
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長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

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