日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(雑記)再考・刑罰の意義とこれから

(※内容が内容なので、本文は全て追記部分に収めてあります)


既に報道などでご存知の事かと思いますが、先日、最高裁で光市母子殺害事件の上告が破棄
され、事実上当時18歳(現在は30歳)の被告の死刑が確定しました。
事件から十三年。ご遺族の本村さんの戦いに一応の決着がついた形なのでしょうか。
報道の見出し曰く“判決を受け止めて欲しい”
応援も中傷も否が応なく受けてきたであろう同氏の苦悩の日々は察するに余りある筈です。

私事ですが、自分もかつては(専門ではないのですが)法学に片足を突っ込んだ身です。
卒業論文も「刑罰の意義とこれから」というようなテーマで書いた記憶があります。当時の
原稿は既になく詳細を確かめることはできませんが、自分なりに罪刑の歴史を洗い直したり
昨今の厳罰化に退いた身で不安を述べていた……ように思います。
今回は、この度の事実上の死刑確定を受けて、今一度あの頃思考したものを再検討する場に
僭越ながらさせて頂こうと筆を取り直してみる次第であります。

今日、死刑について語られる・論議される内容の多くは「存置か廃止か」という立場の違い
とお互いの主張のぶつかり合いではないかと感じています。
(今回は被告が当時少年だった事を含めると)少年法の掲げる将来の更正の余地や生命の尊
厳──ないし例え国家であっても他人の生命を奪っていいのかといった問い(廃止側)
一方で『じゃあ貴方の大切な人が殺されたら許せるのか?』という、少々ヒステリックな面
も否めない感情論や、凶悪犯を生かし──場合によっては再び野に放ってしまうリスクが果
たして社会にとって人々にとって善なのか(もっと言うと“殺り得”を許していいのか)と
いった問い(存置側)
ただ、自分の思考の中ではこれらのぶつけ合いだけではきっと存置の議論は永遠に解決しな
いのではないかと考えています。
以後、細分化して述べていくつもりですが、先ずは自分なりの結論めいたものを最初に記し
ておいてから始めようと思います。
『罪や罰は古くから社会全体が求めて必要としてきたもの』
『現代的なロジカルさを当て嵌めようとすること自体が、根本的に馴染まないと考える』
『理屈とは、結局の所感情の補助ツール以上の要素を求められていない現実がある』

そもそも、罪とは何か。
現在でこそ法律で規定された違法行為こそがそれと解釈できますが、人間社会の古くにおい
ては罪とは即ち「自分達の社会秩序(コスモス)を穢すもの全て」でした。
ざっと挙げるとすれば、共同体の維持を危うくする財物の侵奪、信仰──自体が古くは当該
社会そのものが信じるているものであった──的な違反、そして死への忌避に類するもの。
故に罰(刑の原型)とは、そうしたものを“自分達にみせた者への報復”であり“自分達の
社会秩序(コスモス)を再び回復させること”を目的にしていたと解釈できるのです。

ですが近代になって「論理的さ」が幅を利かせるようになったことで、それら旧く続いてき
た罪は、迷信などといった一蹴の下に整理・再構築される事となります。
何よりも……罰を、科刑の執行を「権力」が独占していく過程(=私刑の禁止)が後々まで
罪刑に関する問題をややこしくさせている向きがあると、自分は考えています。
今回の母子殺害事件も然り、他の凶悪事件とされる案件も然り。
昨今の世の中は確実に『厳罰化』の流れに向かっています。
中にはそうした傾向に疑問を呈し、或いは死刑という制度自体を辞めるべきと主張する声も
あります。ですが、世の人々の声はそれらには反感的なようです。
それこそ『お前は身近な人を殺されたことがないからそんな事が言えるんだ』という──。

個人的な主観といえばそうなのかもしれませんが、自身、法学を学んでみて痛感したことが
あります。
それは──法律“だけ”では人は救えないんだということ。
何を今更と哂う方もいると思うのですが、当時の自分はもっと己が皆がロジカルに生きられ
れば世の中はもっと良くなる筈だと本気で思っていたのです(お恥ずかしい限りですが)。
しかし……その予想(期待)は的外れでした。
受け持ってくれた教授が語ったように『法律に心を込めるのが悪い事ですか?』と当時の自
身の模索を打ち砕くかのような一言、或いはここ暫くの友人知人らとの語らいにより、何よ
りも自身が“先ず感情ありき”であることを認めざるを得なかったこと。抱いていた当初の
想定は、ものの見事に覆されたような感が今振り返ればありありと列挙できるのです。

これもまた、自分自身の主観に依っている向きがあることをお許し下さい。
──人間は所詮、感情の生き物なのです。
理屈でこれはこう定義されるからこんな答えが導かれる、そう言われても先ず各々が抱いた
感情(個々人の事情)とが食い違っていればそう簡単に「はいそうですか」とは心が頷けな
いのです。
「生命は尊ばれるべきものだ」そう言われても、身内の生命とそれを奪った見知らぬ第三者
の生命の方が軽んじられる──というと語弊があるかもしれませんが、優先順位が低くなる
のは、落ち着いて彼らの身になってみれば当然の“論理”である筈なのです。

制度としての法は“行為の違法性を罰するもの”だと自分は解釈しています。
だからこそ、いや物質的に目に見える形でないと贖えないからこそ、損害という概念で以っ
て司法は権力は日々起こる争いに、罪に、一応の幕引きを描こうとします。
でも……古く歴史を遡った上で罪というものを再考するならば、それがいかに(当事者らに
とって)表面的なものでしかないのかが分かるのではないでしょうか? 人が古来より罰を
与えることに込めて来た望みは物質的な賠償や、犯人を閉じ込めることではないのです。
先の制度としての法を“違法的とされる行為への罰”とするならば、原義的な意味合いでの
罰とは“俺たち社会へのケジメ”とでも表現すべきなのではと考えます。
きっと本来なら(勿論全ての遺族・被害者がそうではないのでしょうが)彼ら当事者自身が
「犯人」を詰り、問い質し、自らの手で“処刑”したいという原始的憎悪が──肯定的な意
味での感情論が渦巻いている筈なのです。
なのに、近代化してゆく中での権力や論理性はそれを「私刑」だとして許さなかった。
権力の側がその執行力を独占することで人々を従わせる担保の一つとした、という歴史的な
意味合いもありますが、やはりそれらが今日の「人が人を裁くことの難しさ」にも繋がって
いるのではないかと考え得てしまいます。
だからこそ、いくら理知的な「命を大事に」を叫ぼうとも、きっと彼ら当事者にはそうした
“外野の論理”は届かないと思うのです。
同時に、彼らを取り囲み一緒になって犯人憎し、二度と社会(こっち)に戻ってくるな!
消え去ってしまえ! そんな世論が自主増幅(或いは扇動)された憎悪の渦にも。

故に、今の自分は極刑を望む厳罰化の声を「愚かな感情論だ」と吐き捨てるような真似は曲
がり間違ってもできません。制度的な歪と、事実として大切な人を失った当事者方の悲しみ
や怒りを同一視してはならないと考えるからです。
しかし……それでも、一方でやはり自分はこのまま厳罰化を認め進めていってしまう向きに
不穏さを、不安を覚えてならない点では以前と同じなのかもしれません。
それはきっと、司法の場だけに限らない“諍いは嫌だ。なくしたい”という自分勝手な理想
から来るものでもあって。だけどもそれを自嘲してどちらかに靡いてしまうことも良しとは
できなくて。
全てを同じ理屈で括るのは違うのかもしれません。
それでも『こいつは罪を犯した。だから社会(おれたち)はもうこいつは要らない』という
態度を続けた結果、自分達の生きるこの世の中に何が待っているのか。
既にその萌芽は散見されて久しい筈です。──人を捨て駒のように扱う、昨今の世相に。

死刑を辞めよという言葉は美しい。でもそこに本当に救われるべき心は在りますか?
罪人は要らぬという心理は分かる。でもそこに貴方が加わる可能性を考えていますか?

いち外野の人間ながら、どうにも議論の外で、本来救われるべき筈の人達が置き去りにされ
ている、不協和音だけが響いているように……自分には思えてならないのですが。

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  1. 2012/02/21(火) 18:00:00|
  2. 【雑記帳】
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  4. | コメント:2
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コメント

拝読させて頂きました。
非常に興味深い記事でした。

法律に限った話ではありませんが、
社会、文化の発達とともに分野が細分化され
高等教育機関で専門知識を得ないと
そもそも議論の土俵にすら立てない、という現状。

そもそも世論の大多数が法律の知識を有していない。
それに加味して、仮に法律に対する造型が深くても
実際に法律に関与できるのは極一部の人間である。

そういった、法律の内容云々の前段階を考えているうちに
私は法律について思考するのを放棄してしまいました。
法律に対してすごく無気力になってしまいます。
  1. 2012/02/22(水) 17:23:25 |
  2. URL |
  3. 鳩里 #-
  4. [ 編集 ]

コメント頂き恐縮です。
正直、一介の素人に毛が生えた程度の者が嘆いた所で
どうにもならない、反発があるやもしれないばかり思っていたので
安堵のような小恥ずかしさがありますね^^;

鳩里さんの仰るように、今日の僕らでは「広く議論を尽くす」
という民主的な前提(である筈のもの)すら確保できていない感が
ありますね。
対象になるものの専門的な知識は勿論のこと、意見をぶつけること
を恐れてなぁなぁに済ませてしまう気質(これも一面では美徳であるとは
思うのですが、昨今の後手後手を見ているとどうにも……)、或いは
議論を論破することだと吐き違えている人が結構に多いこと──色々な面
で社会形成の中で想定されたものと現実が乖離しているように思います。

確かに、そんな現実を見て(法的)思考を疎むのは分からなくはないです。
だけど……考え続けるしかないんでしょうね。
少なくとも今日の社会はあちこちにガタが来ている。
制度もヒトの意識も、文字通り現実と擦り合せて適宜修正をしなければ
「転げ落ちる」様相は止められない筈ですから。
(それが充分できていない、厭っているからこその今日の体たらくなのでしょうけど)

結果が出なければ意味が無いとしても、せめて考えることは放棄したくないのかなぁ……。
青二才が長々と失礼しましたf(=_=;)
  1. 2012/02/22(水) 21:15:55 |
  2. URL |
  3. 長月 #oOZ748FU
  4. [ 編集 ]

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Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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