日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(長編)Amethyst League〔6〕

 ──あの夜は、何度目の「私刑」を下した日だったか。
 夜闇にネオンの光が僅かに注ぐ路地裏の一角に私はいた。足元には何度も殴られて昏倒し
動かなくなった、いかにも柄の悪そうな男が一人。私は、その男の胸倉に当てていた左手を
そっと離し、大きな息を一つついた。
 夜でも止まない街の喧騒、そこから独り切り離されたような感覚。
 掌にじっと目を落とす。身体の節々が痛んだ。途中、激しく抵抗されて私自身も少なから
ず傷を負ってしまったが、今回は結果的に成功といったところか。
『──三枝正義さん、ですね?』
 そうして暫しの余韻の中にいた時だった。
 ふと、背後からの気配と、同時に私の名を確認する声がした。当然のように警戒しつつ、
私は振り返っていた。まさかこの「私刑」を知り、裁きに来た酔狂な人間でもいるのか。
 路地裏の入口に、一組の男女が立っていた。
 一人はにこにこと笑っている──だが、何となくそれは本心ではない、油断を誘う演技の
類である事が滲み出ている陰湿な感じの──青年。もう一人は逆に感情の一切も読み取れな
いような鉄面皮な女性。私は無意識的に先刻倒した男を隠すように立っていた。
『……何者だ、君達は?』
 私の問いに、青年は更に小さくふふっと笑った。
 とんっと片手を壁に当てる。その瞬間、彼の掌を中心に壁が一瞬で凍り付いたのである。
思わず目を見張っていた。こんな真似が可能な心当たりを、私は一つしか知らない。
『能力者か……』
 自然と、私は左手を握り締めていた。まさか相手から接触してくるとは思わなかったが、
今夜は思った以上の執行ができるらしい。だが、
『待って下さいよ。僕達はあなたとやり合うつもりはないんです』
『……何?』
 その言葉に手が止まる。油断させる口実なのだろうか。しかし、彼の張り付けた笑みから
ではその本心を探る事は難しかった。代わりに女性の方が言葉を続ける。
『あなたが能力者を狩っている事は調べがついています。私達は、そんなあなたに協力を申
し出る為にやって来ました』
『……力を得て増長した連中が、この街に少なからず潜んでいる。いずれは大きな問題を起
こす輩も増えるでしょう? そうなると困りますよね。同じ、能力者としては』
『…………』
 最後のフレーズは気に食わなかったが、それは事実だった。
 だが、言葉尻通りに彼らを信用するには早過ぎる。要するにこいつらはライバルを潰そう
とでも考えているのか。
『同じ、そういう連中を狩るなら徒党を組んだ方がいいでしょ? あなたも毎度事を起こす
度にそうやって怪我を負わずともいい。奴らをシメるのは僕らが請け負います』
 青年は私の全身を眺め、方々の傷を確認するようにしながら言った。
 確かに、独りでは限界があるのは薄々分かっていた。元より私の力は直接に戦闘向けでは
ない分、事を起こすにはずっとリスクが伴っている状態だ。
 しかし、このまま彼らの言葉に従う事に躊躇もあった。
 そもそもいきなり現れたこの二人(おそらく共に能力者なのだろう)を急に信用するのは
難しい話だ。何より……こいつらにも奴らと同じ「臭い」がする。そう直感が伝えていた。
 しかし、その迷いも彼女の放った一言で大きく揺れた。
『……能力者を一日でも早く消し去りたいのでしたら、手段を選んでいられますか』
 何故それを。喉下に出掛かった声が掠れて、ただ口をパクパクとさせるだけに留まってし
まった。彼女はそれだけを呟いて、じっと私を見ている。調べがついていると言っていたの
は少なくとも本当らしい。躊躇の念が、ぐらぐらと揺れて崩れかける感覚が襲ってきた。
『まぁ、立ち話も何でもすし。ちょこっと場所を変えませんか?』
 青年が相変わらずの笑顔で促してきた。
 つまり手を組むのか、否か。私は暫く黙り込んで二人を見ていたが、
『…………いいだろう』
 返事を受けて満足そうに歩き出す二人についていった。
 思えば、それは私にとって大きな分岐点であったのだろう。そう思う。


 Chapter-6.願いの在処

 それは、一瞬で且つ奇怪な感触のものだった。
 三枝の掌から突如迫り出してきた眼のない蛇のようなもの。それが口を開いて身を屈めた
かと思うと、彼が掌を突き出した勢いと同時に胡太郎の胸倉に向かって飛び込んできたので
ある。縛られていた胡太郎に、それを避ける術も、暇もなかった。
「…………」
 瞬間に脳裏に過ぎった、肉が裂かれ、骨を砕かれるイメージ。
 しかしそれはいくら待っても現実には起こらなかった。代わりにその身を伸ばした掌から
の蛇はずぶずぶと、まるで寒天質に打ち込まれた弾丸のように、まるでぬめり気のある沼へ
頭から突っ込んだように、その身を胡太郎の体内ではない「内部」へと侵入していた。
 三枝の掌から伸びた蛇が、胡太郎の胸倉にその頭部を埋めている。
 物理的にではなく、もっと異質な介入。目を点にして、目を瞬かせて驚愕の表情を見せる
胡太郎の胸倉で、蛇がもぞもぞと動く度に彼の身体に波紋が立つ。
「これ、は……」
「……じっとしていろ。すぐに終わる」
 突き出した掌から伸びる蛇──彼自身の能力の一部が蠢く様子を、三枝はこれまで以上に
真剣な面持ちで見つめている。思わず胡太郎が悲鳴になりそうになる声を静止し、蛇越しに
伝わってくる何かに意識を集中させているかのようだった。
「……見つけた!」
 そして、三枝がその感触に何かを捉えた、その瞬間、彼は一本釣りのように左腕をぐいっ
と引っ張り寄せた。胡太郎の胸倉から立つ波紋は更に激しくなり、彼自身も自分の「内部」
から何かがせり上がってくる、そんな奇妙な感覚を覚えた。
 ──ズブリュッ!
 次の瞬間、胡太郎が見たのは三枝の掌から伸びる蛇が、自分の身体から何かを咥えて引き
摺り出した光景だった。引き摺りだされた何か。その姿に胡太郎は目を疑う。
 一言で表現するならば、異形。
 長い胴と数本の脚、背中側を中心に覆われた鱗と見られる灰色の硬質は長く伸びる尾の先
まで続いている。更に不気味だったのは、全身の至る所に眼がついていたという事。同じく
灰色の硬質な鱗に覆われた顔面に一つだけある眼は一際大きく不気味で、引っ張り出された
その瞬間、視線を確かに胡太郎に向けているのが分かった。
 こんなのが、僕の中にいたのか?
 目の前の光景から湧き出る疑問と、全身を駆け巡る寒気。
 しかしそんな思考もそこそこに、目の前の異形は引き摺り出された勢いのまま、その身を
遙かに超えるほどに大きく開かれた眼なし蛇の口の中へと丸呑みにされる。
 ごくんと生々しい丸呑み、捕食の図。同時に蛇は三枝の掌の中へと引っ込んでいく。それ
ら二重の勢いを左の腕に受けながら、三枝は二つの異形をあっという間にしまい込んだ。
 時間にして、さほどなかっただろう。
 だが、スローモーションの世界の如くしっかりとその光景は胡太郎の脳裏に焼き付いた。
 左腕に伝わった衝撃が大きいのか、少し堪えているような様子の三枝。胡太郎はまだ混線
を続けている脳内を整理しながら、恐る恐ると彼の方を見遣って口を開く。
「あの……」
「あれが、寄生体だ」
 胡太郎が質問する前に、三枝が事も無げに先手を打ってくる。
「寄生体……?」
「正式な名などは知らんが、私達は便宜的にそう呼んでいる。能力者達の内部──物理的に
ではなく、もっと別の方法でもって潜んでいる怪物だ。いわば能力者の力、その源泉である
と言ってもいい。姿形は能力者によって千差万別のようだがな」
 胡太郎はつい先程まで波立たせていた胸元に触れてみた。
 しかし、既に物質の塊として肉体がそこにあるだけで、勿論そこに波紋が起こるような事
はない。再び顔を見上げた彼に三枝は続ける。
「つまりだ。その寄生体を能力者から取り出す事ができれば、能力者を能力者ではなくする
事が可能だということだ。……そして、私の能力はそれを可能にする」
 少しふっと自嘲気味に笑って、
「さしずめ『異能喰らい』といった所だ」
 ちらと古手川を一瞥する。命名は彼女、という事か。
 なるほど。私なら可能という台詞はそういう意味だったのか……。
 胡太郎は彼の言葉にようやくついていけ始めていた。そして、自分がたった今能力者では
なくなったのだという事にも突き当たる。
「あなたも、例の水晶に触れたんですね」
「……あぁ。七年前のあの夜、君達を河川敷で見かけて帰した後、実は私もクレーターの中
へ足を踏み入れたんだよ。そしてそこで、あの水晶を見つけて手に取った。それからどうな
ったかは……君もよく知っているだろう?」
 胡太郎は答えなかったが、その沈黙を返事と三枝は受け取ったらしい。
 ぶらんと下げていた左手を再びコートのポケットに突っ込み、三枝は神妙な面持ちでじっ
と胡太郎を見据える。
「……この力で、君の友人達も君と同じように寄生体を回収させて貰うつもりだ。しかし、
この力は便利なようで不便でね。そもそも相手に抵抗されれば上手く探り、捕らえるのが難
しいんだ」
「だからって……だからって、皆を危険な目に遭わせようとしているんですかっ!」
 理屈は分かった。しかしそれは効率論、大切な仲間達を危険な目に遭わせてしまうという
事実には変わりはない。縛られ動けないと分かっていながらも、胡太郎は自然と声を荒げて
叫んでいた。三枝は少し扱いあぐねるという様子で小さな息をつくと、
「古手川、氷室達に連絡を取れ。やって来ている彼ら五人、見つけ次第確保し連れて来い。
本来の目的を忘れるなと、しっかり釘も刺しておけ」
「……はい」
 古手川にそう指示を飛ばす。
 彼女は早速、携帯電話を取り出して既に散っていった三人への連絡を取り始めた。
「……じきに君の友人達もここに来る事になるだろう。彼らもまた、能力者の呪縛から解放
されるんだ。私のこの力を以って」
(呪縛……?)
 その言葉に、胡太郎は少し引っ掛かりを覚えた。
 これまでの彼の行動から見ても、能力者を無力化することに心血を注いでいるらしいとい
う事は何となく分かってきたつもりだ。しかし何故だろう。彼がここまで能力者を眼の仇の
ようにし、敢えて「抹殺」ではなく「無力化」に拘るのか。刑事として人として殺人までは
犯さないという矜持なのか。今の時点でも充分な犯罪ではあるのに……。
「だが、場合によっては君にも協力して貰う事になるかもしれないな。あくまで自身の力を
手放そうとせず、抵抗するのであれば。君からの説得や君を人質にするなどというケースも
充分に考えられる。……もう暫く、そのままでいて貰うぞ」
「…………」
 いや、それよりも皆の身の安全を何とかしないといけない。
 こうしている間も、皆が危険な目に遭っているかもしれない。出て行った三人が彼に従順
であるとは言い難いかもしれないが、止められるのは彼の指示でしかないだろう。
 自分はもう構わない。何とか、彼の口からこれ以上魔の手を伸ばす事を止めるという旨の
決断を引き出したい……。しかし、どうすればいい?
 近くにいても、彼は遠い所にいるように思えた。
 自身の決意で敢えて大きな道から逸れて歩いているような。そこまで彼を突き動かす源泉
とは何か。それが分かれば彼をぐっと引き寄せ、説得できるかもしれないのだが……。
「…………」
 三枝は胡太郎に背を向けて、ぼうっと前を眺めているようだった。夕陽が注ぎ、彼の影が
こちらまで伸びている。
 胡太郎は酷く迷っていた。
 彼を振り向かせ、距離を詰める為のカード。それを捲る事は可能だった。しかし、それは
自分でも自覚していた、この力の危うさの証明にもなってしまうかもしれない。
「……三枝刑事」
 だが、これ以上迷ってはいられなかった。
 自分が何だ。今こうしていつ間にも仲間達がいたぶられているかもしれないのに、自分の
保身を考えてどうしようというんだ。胸を締め付けるような逡巡。その末に、胡太郎は意を
決しカードを切るべく、背を向けたままの三枝の名を呼んでいだ。
「……何だ?」
 剣呑。そこまで攻撃的とは言わなくても、胡太郎が込めた重い声色を察知したのだろう。
三枝は同じく厳しい表情を作り、ゆっくりと顔を向けてくる。
 胡太郎は、大きく息を吸って整えた。
 横目で古手川が電話を続けているのを一瞥し、再度彼を見遣る。
「…………お子さんの部屋で、一体何を読んでいたんですか」
 そして、切られたカードは予想以上に絶大な効果を示したようだった。
 三枝の瞳が大きく揺れる。
 同時に、遠くから轟音と振動が伝わって来た。外で何かが起きたのか、或いは動揺が物理
的な錯覚でも起こしたか。だが、視線を交わす二人にはそんな事なども意識の外に追いやれ
てしまうほどに互いを注視していた。
「何、を……」
 三枝がゆたりと、身を返して胡太郎の方を向いた。
「何を、見た……?」
 一歩また一歩、衝撃の大きさなのかその足取りは重いが、それ以上に彼の瞳が宿した動揺
が次第に別の感情によって塗り潰されていく様を、胡太郎は見ているような気がした。
 古手川も、二人の変化に無表情をわずかに歪めて傍観を決め込んでいる。
「…………」
 釣れた。そう確信が持てたと同時に、胡太郎は胸が激しく痛むのを感じていた。
 やはり、あの光景は只事ではなかったのだ。彼の根幹に関わる何か。その片鱗だったのだ
なと後悔が襲ってくる。だが、もう逃げる事もできない。逃げる気も起こらない。
 問い、そして受け止める責任が胡太郎には発生したのだから。
 それは静かな怒りだった。大きく走った動揺すらも瞬く間に塗り潰してしまう程に、三枝
の心を駆け巡った、突然の我が領域(こころ)への侵入に対しての。
 詰め寄っていた。そう表現するに相応しく、三枝は胡太郎の前までやって来た。今までに
ない強烈な瞳の強さで胡太郎を見下ろしながら。
「……答えろ。一体、私の何を見た」

 
 緊張で身を縮込ませていた陽菜子を我に返したのは、ポケットの中からの振動、携帯電話
の着信だった。携帯電話を取り出しディスプレイに表示された名前を確認すると、陽菜子は
何処かほっとした気分になる自分がいるのに気付く。
「も、もしもし……」
『ヒナ? 私、環だけど』
 電話の相手は環だった。別行動を取ってからそんなにべらぼうに長い時間が経っている訳
でもなかったが、電話越しにでも彼女の声を聞けただけで安堵の念が湧き起こってくる。
「タマちゃん……。あの、どうかしたの? 何か見つかった?」
『ええ。さっきアツシから連絡が来てね。コタローの居場所を掴んだって』
「え? ほ、本当に?」
『多分ね。まぁ、嘘を掴まされた可能性はなくもないけどさ。何も手掛かりがないよりかは
マシでしょう? それで、一度皆でそこに行ってみようって話になったんだけど……』
「う、うん……」
 彼の居場所が掴めたらしいという情報。真偽は定かではないか、収穫には間違いない。
 だが、陽菜子はそんな報せを受けたにも拘わらず何処か落ち着かない様子で頷いていた。
その雰囲気は電話越しに環にも伝わったらしく、
『どうしたの? もしかして……そっちも、何かあった?』
「……う、うん。あのね、少し前に会っちゃったの。この前の氷の人に」
『げぇっ!? あいつに? だ、大丈夫なの?』
「うん……今は何とか。お兄ちゃんが、さっきからずっとその氷の人と戦ってるから……」
『そ、そう……』
 新條兄妹の現在の状況を知り、思案するように少し間が置かれた。
『……よし、分かった。すぐアツシも一緒にそっちに行くから、それまで何とか頑張って。
数で奴を何とか追い返しちゃいましょう』
「え? で、でも……」
『大丈夫だって。こっちはあの時とは違うんだから』
「? う、うん……。でも、場所分かる?」
『ええ。ここからでも煙が出ているのが見えるわ。多分ハルの炎でしょ?』
「う、うん……」
 どうやら交戦の様子は既に周辺に漏れ始めているらしい。
『じゃあ待ってて。すぐにそっちに行くから』
 そう、押され気味のまま環の言葉を最後に通話は途切れた。耳に当てていた携帯電話から
はツーツーと単調な機械音が聞こえてくる。陽菜子はふぅと息をついて元の二つ折りに閉じ
ると、そっとスカートのポケットの中にしまう。安堵と、それを追いかけるように再来する
緊張。その両方が陽菜子の中で混ざり合うかのようだった。
「…………」
 それまで背を預けていた物陰から半身を返して身を乗り出し、物陰の向こう側を見遣る。
 そこは、氷の男・氷室と晴市による戦場と化していた。
 工場や倉庫の壁面で切り抜かれた縦長の空間に、凍て付き、浸食する氷の痕と、そんな氷
を溶かし、焦げ付き燻っている炎の痕が無数に点々としている。コンクリートの灰色の地面
や壁面はあちこちが無残に浸食や高熱によって損傷しており、互いの力の攻防の激しさを如
実に物語っていた。
 そんな攻防の痕の中に、二人は立っている。
 陽菜子に背を向けて少し離れた位置に晴市が、相変わらず胸中が悟れない張り付けた笑顔
を浮かべて氷室が、お互いに距離を取って対峙している。
 晴市の拳に、氷室の両掌に、炎と冷気が灯り、集まる。
「せいっ!」
 始めに仕掛けたのは晴市だった。炎の灯った拳を振り被り、突き出す。弾丸とその残像の
ように長い尾を伴いながら射出された炎は、渦巻きながら氷室へと迫る。
「……ふっ」
 しかし、その射出された炎は氷室が掌から放った青白い霧──冷気の渦とぶつかり、混ざ
って相殺されて四散した。高温の紅と低温の蒼が織り成す靄が二人の間の視界を覆い、やが
て消えゆく。そしてそれもままならぬ内に、今度は氷室が仕掛けた。
 冷気を手繰り寄せていたもう片方の手を、ひゅっと物を投げ付けるように振り抜いた。
 渦のように一個の塊だった冷気は数個に分かれて飛び、更に空中で鋭く尖った氷塊へと凝
固を遂げる。だが、それらの飛来物はパチンと指を鳴らし、目の前の空気を一気にまとめて
燃やした晴市の炎により一瞬で融解、蒸発する。
「まだまだ」
 それでも氷室は更に攻撃を続けた。
 再び掌に冷気を手繰り寄せて、大きな青い球体状にこしらえる。眼前で氷塊が炎に包まれ
て消える、その頃合を見てそれを地面に叩き付けた。斜め下のベクトルを受けた冷気は地面
を凍らせ、幾つもの氷柱を作らせて這いながら晴市の方へと迫ってくる。
「効かねぇって……」
 晴市は迫る冷気の波を見て、両拳に炎を灯した。
 先程よりも大きく強く燃え滾る炎。それらを握り拳と共に、
「言ってるだろうが!」
 バンッと地面に叩きつけた。
 瞬間大きな両手の炎は更に大きくなり、迫る冷気の波を包み込むようにして溶かして相殺
していく。それでも勢いを削がれ切れなかった残り火は氷室にまで迫ったが、彼はひょいと
半身を返して易々とその直撃を交わしてみせた。
 ジュウウウ……と氷を、コンクリートの地面の表皮ごと溶かした熱の余韻が焦げ付いた音
を響かせる。新しく冷気と炎熱の痕跡を残しただけで、またも互いに一歩も譲らない結果。
(お兄ちゃん……)
 これで何度目になるか分からない程の、再びの沈黙と対峙。
 陽菜子は物陰からじっと二人の攻防をおっかなびっくりに見守っていた。
『……陽菜子、お前はここに隠れてろ』
『え? で、でも』
『いいからっ、お前まで巻き込むわけにはいかねぇだろうが!』
 そんな真剣な兄の声色に押し黙り、こうして物陰に隠れて見守り続けて現在。二人の決着
は中々付かなかった。炎と氷、相反する能力同士では今のように互いの攻撃を相殺するだけ
に終わってしまう。至近距離に詰めれば或いはと思うが、そもそもお互いに能力自体が射程
範囲が広い為にそれもままならない。
 一見すると、膠着状態にあると言っても差し支えなかった。
 しかし何故だろう。相手がずっと、張り付けたような笑みを浮かべているからなのかもし
れないが、どうも兄の方が押されているように、消耗が激しいようにも見える。
 実際、よく見てみると肩で息をしている様子が見て取れる。
 ドクンと、そんな不安が陽菜子の胸中に脈打ったような気がした。
「やれやれ……埒があかないねぇ」
 沈黙を破ったのは、仰々しく肩を竦めてみせた氷室だった。
「だったら、そこどけよ。俺達はお前と遊びに来たんじゃねぇんだ」
「ふふ……まぁ、そんなに焦らなくてもいいじゃないか。瀬尾君、だっけ? 彼の所へなら
ちゃんと案内してあげるからさ。……君達を凍らせてからね」
「へっ……。冗談はその張り付いた笑い顔だけにしとけ」
 相変わらずおちょくってくる口調に、晴市は本気で応じるわけでもなく、あくまで強気に
言い返して、すぐにでも炎をぶつけられるように両手に力を込めている。
「大体、もう分かっただろうが。どのみち俺とお前じゃあケリはつかない。これ以上互角の
戦いを続けても時間が無駄になるだけだってのに」
「……互角?」
 晴市が放った言葉に、氷室が反応した。
 そしてすぐにその反応は笑い声に変わる。「ふふふ……」と、やはり相手の神経を逆撫で
するように抑えながらの笑い。向けてくる視線は明らかに相手を小馬鹿にし切った眼。
「……何が可笑しい」
 流石に晴市もこの態度にはむっとせざるを得なかった。
「いやいや、本当に君は理解が足りないね。大きな勘違いをしている」
「あ?」
 笑いを引っ込めながら、氷室は変わらず張り付けた笑顔のままで、
「本当に僕と互角だなんて思っているのかい?」
「……何言ってやがる。現に埒があかないって言ったのはお前だろうが」
「確かに。今のままなら、ね」
 含みのある言い方を向けてくる。
 指を三本ぴっと立ててから一本一本を折り畳むようにして、
「先ず、この場での目的はあくまで君達の確保だって事。まぁ、君の能力は厄介だって事に
は変わりないけど。だからといって始末しようものなら彼がうるさいし……ま、どのみち彼
の手に掛かれば、君もある意味で抹殺可能だしね」
 あたかも子供を相手に諭すような言い方で、
「……だから、僕はあの時も今も、全力を出していないって事。つまりこれがどういう意味
なのか分かるかな?」
 眉間に皺を寄せたまま、黙して自分を睨みつけている晴市に笑みを投げ掛ける。
「…………」
 口には出さなかったが、そこで晴市は己の読みの浅さを呪う気分になった。つまり、奴は
完全に遊び半分で戦っていたという事だ。自分が結構必死に迎え撃っていたにも
拘わらず
 あの張り付けた笑みの裏には、よほどの大きなものが隠してあるらしい。晴市は独り静か
にぎゅっと唇を噛み締めていた。
「で、それともう一つ」
 そこで更に氷室が立てていた指の最後の一本を折って、追い討ちをかけてくる。
「そもそもの始まりである感染者(カテゴリー1)、発症者(カテゴリー2)、そして君のよ
うな能力者(カテゴリー3)……」
 カテゴリー? 晴市の頭に疑問符が浮かぶ。
「だけど、能力者の限界はそこまでじゃない。上には上にはあるんだ」
「……何が言いたい?」
「ふふっ」
 何となく察しがついた。更に自分と奴との差を広げる何かがある。それだけは。
 心持ち控えめに、それでも重い声色で呟く晴市に氷室は満足そう(に見える)笑顔を見せ
ながら、にぃっと口元に弧を描いた。
「見せてあげるよ」
 そして彼が両腕を広げた瞬間、変化は起きた。
 急速に彼の周りを取り巻き始める冷気の奔流──否、冷気とはまた違う、もっと濃く蒼い
多数の奔流だった。なびく風圧に押されつつ目を凝らしてみれば、それらはそれまでの氷室
の繰り出す冷気とは違い、彼の「内側」から漏れ出してきているように見える。
 やがてあっという間にそれら蒼い奔流は氷室を、いや彼を中心にして大きく広く包み込み
巨大な風の巣のような様相を呈していく。
「……何が、起きてるんだ」
「あ、あわわ……」
 息を飲みその様子を見上げる事しかできない晴市と、同じく物陰で震えている陽菜子。
 時間にして数十秒。やけに長く感じた蒼い奔流の渦が徐々に四散し、中にいた筈の氷室の
姿をあらわにしていく。
「──これが、具現者(カテゴリー4)さ」
 違っていたのは、彼の傍らに聳え立っている何か。
 一言で言えばそれは異形だった。周囲の工場や倉庫よりも背丈は倍近く大きい、巨大な狼
のような姿。全身は氷柱のような青白い毛並みで覆われ、唖然と見上げている晴市と陽菜子
を捉えている赤い瞳は三つ。ぎょろと蠢き、眼下の虫けらを確認するように。
「…………冗談、だろ」
「あ、あわわ……」
 晴市は後方の妹の声を耳にしながら、その聳える巨体を呆然と見上げていた。
 能力者という時点で常識が通じないという事はうっすらと認識していたつもりだ。しかし
これはあまりにも無茶だ。こんな……。
「つーか、反則だろ。こんな化け物……」
「うん? 何を言っているんだい? 姿形はそれぞれ違えど、こいつらは僕ら能力者の中に
棲んでいるんだよ。いわば能力者が能力者たる源泉だというのに……」
 氷室はそんな呆然とする晴市の様子も楽しんでいるように見える。
 仰々しく肩を竦めながら、そう言って小さく笑った。
「まぁ、君はここまで至っていないようだけどね。無理もないか」
「…………」
 晴市の氷室の視線が交わる。
 それを見ながら、氷室はすっと手を翳した。同時に目の前の巨体が動き出す。牙だらけの
口を大きく開き、息を吸い込み始める。ゴオォォォ……と大量の空気が吸い寄せられ、引き
込まれていく吸引力。晴市は咄嗟に身体を踏ん張り、近くの配管を掴んだ。くっと目の前の
巨大な狼の姿を再度見遣る。
 巨狼の口には青白い光が収束し始めていた。冷気。氷室が掌の上で作るそれよりも遙かに
大規模な冷気が手繰り寄せられている。つまり、これは……。
「お、お兄ちゃん!」
「──ッ! 隠れろっ、陽菜子っ!」
 瞬間、晴市は同じくこれから奴が起こそうとする事に勘付き、物陰から叫ぶ妹に振り返り
ながらその場を駆け出していた。
「……無駄だよ」
 だが、氷室の酷く冷淡な声色と同時に、巨狼の口から青白い閃光が瞬く。 
 閃光に続く轟音、衝撃。
 視界は一瞬で青白い光に包まれる。目に見えない衝撃に突き飛ばされるようにして陽菜子
は物陰からその奥へと転がった。視界の端、物陰を抜けた方、氷室から兄への方向へ無数の
何かが射出されていったのが分かった。
「……うぅ」
 身体を打ちつけられた。じんと痛む身体を押さえながら立ち上がり、陽菜子はそっと物陰
から何が起こったのかを見渡してみる。土埃はまだ晴れきっていない。
「うわ……」
 惨状だった。固いコンクリートの地面。その筈なのに、その灰色の地面には無数の塊が突
き刺さっている。鋭い切っ先の氷塊だった。先刻、氷室が放っていたものとはその大きさが
比べ物にならないほどに大きい。ものによっては子供一人分近い大きさのものまである。射
出されたのは間違いなくこの氷塊群だろう。
「お、お兄ちゃん!?」
 そして、呆然と見渡してた陽菜子の眼にとんでもない光景が飛び込んできた。その光景を
見るや否や、ほぼ反射的に物陰から飛び出す。
「…………馬鹿野郎。隠れてろって言ったろうが」
「そ、そんな事言ったって……」
 晴市は、そんな突き刺さった氷塊の群れの中に仰向けに倒れていた。
 掠めたのだろう、全身のあちこちを真っ赤な血の筋が染めている。更に右脚の太腿には氷
塊が一本深々と直撃しており、彼をその場から容易には動けなくしていた。
 大きく肩で息をしながら、それでも晴市は駆け寄ってきた陽菜子を見るやそう口を叩く。
喋る余裕はあるようだ。しかし怪我は決して軽症どころではないのは明らかだった。それで
も強情を張る兄に、陽菜子は知らずの内に涙目になりながらそっと触れる。
「ひ、酷い傷……早く病院にいかないと」
「……掠り傷だって。それより脚に刺さってる方のをどうにかしねぇと」
「だ、駄目だよ。こんな太いのを抜いたら血が一気に出ちゃうよ」
 太腿に刺さった氷塊に手を掛けようとする彼の手を、陽菜子は慌てて制した。栓となって
いる状態の氷塊を無闇に抜くのは危ない。生々しい傷を視界に捉えながら陽菜子は思った。
 しかし、このままでは運び出そうにも動けない。
「…………やれやれ。駄目じゃないか、じっとしてなきゃ」
 そこで聞こえてきた声に、二人は目を向けた。土埃が徐々に晴れていき視線の向こう側に
氷室が立っていた。傍らには口を閉じてじっとこちらを見ている巨狼も変わらずに。
 晴市を、そして彼の下に跪いている陽菜子を、彼は陰険さを笑顔の裏に忍ばせて舐め回す
かのように眺めている。二人の自分に対する強い敵愾心の眼にも何ら悪びれる様子もない。
「ま、いいか。死んでないなら」
「あ、あなた──ッ!」
 流石にその言葉に、いつもは大人しい陽菜子も頭に血が上るのを感じた。しかし、それも
束の間、氷室が軽く腕を振って飛んできた冷気が彼女の足元のすぐ近くを凍らせる様を見せ
つけられた事で押し黙ってしまう。
 氷室はふふっと嘲笑っていた。
 次が来る。陽菜子は反射的に身構え……。
「ん?」
 ちょうどそんな時、周囲に着信のメロディが響いた。
 陽菜子のものではない。すると氷室は懐を弄って携帯電話を取り出す。
「……ああ、うん。こっちは二人確認している。あぁ、問題はない」
 電話の向こうで誰かとやり取りをしているようだ。内容からして状況報告だろうか。恐怖
がじわりと揺らぐ思考の中で陽菜子はそんな事を考える。
「少々手間取ったけど、すぐに確保できるさ。……ああ、じゃあ」
 僅かな隙も束の間、氷室は簡単に通話を済ませると懐に携帯電話をしまう。
 その間もずっと、彼の冷たい瞳は二人に向けられたままだった。
「……さて、気を取り直して続きといこうか」
 再び、氷室がゆっくりとこちらに向かって歩き出した。ぶらんと下げた腕、掌に徐々に冷
気が集まっていくのが見える。次こそ間違いなく陽菜子に矛先が向かう事だろう。
「……陽菜子、お前だけでも逃げろ」
「だ、駄目っ! お兄ちゃんを置いて逃げるなんて、できないよ……」
 眉間に皺を寄せ、何とかこいつだけでもという兄の言葉を、陽菜子は固辞していた。晴市
もそれ以上の説得が意味をなさないと悟り、参ったなといった感じで黙り込む。
(コー君だけじゃなく、お兄ちゃんまで苛められるなんて……私、耐えられないよ)
 ──悔しかった。
 いつもそうだ。私はいつも皆に守って貰ってばかり。お兄ちゃん、コー君、タマちゃん、
サーヤさんにアツシ君……皆私の事を大事にしてくれる。確かに居心地はいい。ホコホコと
した温かい感じ。だけど、同時にそのぬるま湯に浸かり続けている自分が嫌でもあった。
 何とかもっと他の人達と仲良くなろう。だけど、中々一歩を踏み出せなくて。
『ゆっくりで、いいんだよ』
 コー君はそう言ってくれた。多分その言葉に嘘はないんだろう。コー君も皆が一緒にいる
事に心地良さを覚えているみたいだから。だから私にもそこに居る事に罪などないのだと。
 だけどね、コー君……ずっとそのままじゃ、いけないんだよ。
 皆を見捨てるんじゃなくて、もっと本当の仲間になれるように。
 例えば、怖い人達に襲われたって、皆で立ち向かえるように。
『……。具体的にはよく分からないけど、皆の役に立つ力がいいな』
 だから、私はあの時もそう答えていた。
 ただ愛玩されるだけじゃ、きっと私は駄目になっていく。もっと皆の為に何かができる人
になりたい。与えられるだけじゃなく与える事もできる人に。そうずっと思っていたから。
だから、私は……。
「……何のつもりかな?」
 すっくと立ち上がった陽菜子は、晴市の前に立ち塞がるように立ち、両手を広げていた。
 ゆっくりと歩を進めながら、氷室は相手を絞め殺すかのように笑みの中に鋭い眼光を垣間
見せてくる。彼の掌の冷気が一層強く渦巻いたように見えた。
「……これ以上、お兄ちゃんに手は出さないで。コー君にも」
「馬鹿、野郎……。陽菜子、お前」
 怖かった。でもここで退くわけにはいかない。
「……はぁ」
 氷室がそこまで詰めた距離で立ち止まり、大きなため息をついた。
 その仕草すら演技臭さが漂ったが、それよりも笑顔の裏の剣呑さがじわじわと滲み出てく
るのが本能的に感じ取られる。
「能力者でもない君に、僕が止められるとでも?」
 冷気がごごっと唸った。
 瞬間、彼の片手が凍り付く。否、凍り付いたのではない。片手を氷で作られた刃へと変え
たのだ。その鋭利な氷の切っ先をゆっくりと陽菜子に向けて、
「……少しきつめに、お灸を据えてあげないといけないかな?」
 にたりと笑う。
 ごくっと唾を飲み込む自分がはっきりと分かった。倒れたまま思うように動けない晴市が
何か叫んでいる。止めろといった類だろう。だが、眼の前の氷室に集中した意識がその内容
すらも遠くの残響として処理してしまう。
 ──私達六人はあの日、青紫の結晶に触れた。
だからアツシ君もサーヤさんも、お兄ちゃんも……そしてコー君も、能力者としての力を
身に付けた。……だったら、それなら私にだってそんな力が眠っている筈なのに。
 正直、最初はそんな力が怖いと思った。
 でも、私だけが皆に庇われる存在のままである方がもっと怖い。
 このまま、お兄ちゃんやコー君を、何もできずに傷つけられる方がもっと怖い。
「……さて、何処をご所望かな? 情けで顔は避けておいてあげるよ。腕かい? それとも
兄妹仲良く脚がいいかな?」
 足音が近づいて来る。
 私にだって、彼に立ち向かう力はある筈なのに。今使えなければ、意味が無いのに。
 お願い。もし聞こえているならば……。
(……お願い。私にも、力を貸して!)
 ぎゅっと祈るように瞳を閉じた、その刹那。
 光が、弾けた。

 それは奇妙な感覚だった。血肉を抉るというのではなく「内部」からずずずと湧き上がっ
て来るような何か。全身を自分とは違う何かが駆け巡ってくる。それだけが分かる。それも
僅かな間。ふっと何かが大量に抜け出していく感覚。意識が一瞬、遠のくような錯覚。
「…………何、だと?」
 氷室の、珍しく唖然と感情がしかと読み取れた声に、陽菜子は遠のきかけた意識を咄嗟に
手繰り寄せていた。氷室は立ち止まったままぼうっと何かを見上げていた。
 そういえば、何だかやけに薄暗いような。
「……? わぁっ!?」
 ふと、つられるように同じく視線を持ち上げた陽菜子は短く悲鳴をあげ、とてんと尻餅を
ついた。自分のほぼ真上、中空に巨大な何か浮かんでいる。
 それは全身がひらめく布と文様の刻まれた帯で包まれた、巨大な何か。
 表情はその大きさと角度から見え難いが、仮面のようなものを被っているらしい。後頭部
からは長い金髪が靡いている。更に中空に浮いているのは、その背中に三対、六枚の金の翼
が生えているからだろうか。
「……天使、さん?」
 その姿形から、陽菜子はぼそっとそう呼び掛けていた。
 するとその声に反応したのか、巨大天使(仮)がゆっくりと陽菜子の方に顔を向けて見下
ろして来た。そこで見えた顔面は、仮面というよりはいわゆるマネキンの顔面に近い、立体
の凹凸だけで表現された、無機質ながら少々不気味な銀色のフォルム。
 巨大天使(仮)は、思わず心持ち後退った彼女に何か言葉を放つわけでもなく、再び正面
に向き直り、何かを確信したかのように笑顔のままで唇を噛む氷室を見下ろした。
「……まさか、一気に具現者(カテゴリー4)まで覚醒したというのか? そんな芸当見た
事がない……。まったく、君達兄弟は揃って厄介な相手だな……」
 先程の剣呑さは目の前の巨大天使(仮)に掻き消されたのか、氷室はそう何事か呟くと恨
めしく陽菜子と晴市を睨む。
『…………』
 するとその視線を察したのか、巨大天使(仮)が動いた。
 背中の六枚の翼が互い違いに動いたかと見えると、ざっと動きを揃えて一気に羽ばたいて
みせたのである。
「ぬおっ!?」
 瞬間、凄まじい風圧が放たれた。
 正面に立っていた氷室は勿論、背後に控えていた巨狼までもがその巨体を持ち上げられ、
背後の工場らしき棟に激突する。堅固なコンクリート造りの建物がまるで積み木を崩すかの
ようにいとも容易く巨体によって粉微塵に破壊されていく。
「す、凄ぇ……」
「う、うん……」
 その突風の発生源、巨大天使(仮)の真下、背後にいる陽菜子や晴市も風圧の余韻に靡か
されながら、一瞬で起きたその風撃を唖然と見遣っている。
 広範囲に土埃が舞う。氷室はどうなったのだろうか。背後の巨狼がクッションになれば、
そのまま即死という事は先ずないだろうが……。
「私達を、助けてくれたの?」
 陽菜子が巨大天使(仮)を見上げて訊ねてみる。
 すると彼女(?)は再びこちらを見つめ返して来た。言葉は話せないのか、それとも人語
ですらないのか。分からない事尽くしではあったが、
「……ありがとう」
 陽菜子はきっと助けてくれたんだと思い、お礼を言う。
『…………』
 バサッと、再び六枚の翼が動いた。
 しかし今度は先程の巨大な風撃は起こらない。代わりに羽ばたいたその巨体、中空から何
か金色に輝くものが無数に落ちてくるのが見える。
「……これは、羽?」
 ゆっくりと重力法則に則って落ちてくるもの。それを一枚、掌で捉えて陽菜子は呟いた。
「綺麗……」
 淡く、金色に燐光を放つ羽。この巨大天使(仮)の翼に生えているものだろう。陽菜子は
思わずその美しさに見惚れる。温かい。彼女(?)は見た目こそ少々おっかないが、こんな
温かい羽を背にしているのだ……きっと悪い人ではない。不思議とそう思った。
「陽菜子」
 と、少々恍惚に浸りつつあった彼女を晴市の呼び声が引き戻した。
「な、何……?」
「この羽、もっと集めてきてくれないか」
「え? 何で?」
「……まぁ、こいつを見てみろよ」
 そう言って晴市が手に握っていた金の羽をそっと自身の傷の一つに宛がった。するとどう
だろう。傷に触れた瞬間、金の羽は波紋のように気化していき、あっという間に晴市の傷を
消していったのである。
 驚く陽菜子と、「な?」と白い歯を見せる晴市。
「……お兄ちゃん。これって」
「ああ。こいつは多分、治癒の効果があるんだと思う」
 そこでやっと、陽菜子は先程の言葉の意図を把握した。降り注いでくるこの金の羽。これ
を彼の傷口に宛がっていけば、彼の傷の手当ができるのではないか。
「わ、分かった。ちょっと待ってて。すぐに集めてくるから!」
「……おう。頼む」
 にわかに元気になった陽菜子が晴市の下から駆け出していく。ひらひらと落ちてくる金の
羽をあたふたと動き回りながら一つ一つ抱え込んでいく。その間にも、晴市は手の届く範囲
に落ちている羽を手に取り、身体中の傷を治そうと試みた。
『…………』
 そんな二人の様子を、巨大天使(仮)は静かに見守っている。
「……凄い。あっという間に治っちゃった」
「ああ。こりゃ凄いや」
 陽菜子が両手いっぱいに集めてきた金の羽を、晴市の傷という傷全てに宛がい、それらは
悉く跡形一つ残さずに彼の傷を癒し、完全に塞いでくれた。尤も、傷は消えてもボロボロに
なった服だけは元には戻らなかったが。
 そして懸案だった脚に刺さった氷塊は、晴市が激痛に堪えながら引き抜き、同時に陽菜子
は大量の羽を被せるというやり方を取った。当然、引き抜いた直後に血が噴き出したが、羽
の効果は著しく、あっという間に脚を貫通した怪我すらも完璧に治してしまったのである。
「陽菜子のお陰だな。凄ぇよ、ありがとな」
「えっ……?」
 その言葉で、陽菜子はようやく気が付いた。
「何を驚いてるんだよ? これってお前の能力じゃないのか?」
「あ、う、うん……そうなの、かな?」
「そうじゃないのか、多分。実際、あの鳥みたいなの、お前の中から出て来ただろ?」
「え? そ、そう、なんだ……」
 自分ではよく分からなかったが、どうやら兄曰くこの巨大天使(仮)は自分の中から出て
来た存在であるらしい。陽菜子は指差す晴市と共に中空を漂う彼女(?)を見上げた。
「鳥じゃなくて、天使さんだよ?」
「…………そうなのか? まぁいいや」
 何と心強い。そう彼女(?)を見上げていた、その時だった。
『…………』
 急に見つめ返していた彼女(?)の視線がザッと正面に向き直る。
「やれやれ。こいつは参ったな」
 晴れかけてきた土埃。その中に氷室が佇んでいた。背後には先の巨狼の姿もある。張り付
けたような笑顔は相変わらずだったが、そこには確かに焦りや戸惑いといった、戦局的には
ネガティブな感情が微かに見て取れるような気がした。
 陽菜子は、再び晴市の前に立って身構えた。だけどさっきよりは怖くない。
 今度は独りじゃない。真上には天使さんだっている。
「さて、どうしようか。ここまで抵抗されると確保は難しい……かといって君と僕、お互い
の寄生体同士をぶつけるものリスキーな選択だ……」
 一方的から少し対等のような、変化を経た対峙。
 氷室も、彼に従う巨狼もじっと手を出す事もなく陽菜子達を見遣っている。どうやら彼女
がこの巨大天使(仮)を呼び出した事は、彼にとっても大きな誤算であったらしい。
『…………』
 ジャキンと、何かが飛び出るような金属音。
 陽菜子が見上げると、巨大天使(仮)の全身を覆う布地の袖から鋭利な刃物が出ている。
目を凝らして見てみるに、十字架を模した細剣(レイピア)らしい。
 氷室がそれをくいと見上げて小さく息をついていた。
 ぶつかる気ならいつでもいいぞ。そう彼女(?)は言っているかのようだ。
 それでも対峙は続いた。氷室は陽菜子の力を図りあぐねている、かといって陽菜子もこの
力の使い方など誰かに習ったわけでもない。
 お互い、闇雲に手が出せないような状態であった。
「──ッ!」
 その僅かにして長く感じる沈黙を破ったのは、氷室の方だった。
 しかしそれは陽菜子に対するものではない。何かを察知して、氷の剣と化させていた腕を
反射的に振るったのだ。
 ガシャンと音を立て灰色の地面に落ちたのは、真っ二つにされた金属の塊。
 氷室が、その鉄塊の飛んできた方向──路地の方を見遣った。
「……うわ、切った。切ったよ、あいつ」
「あんな使い方までできるのか……」
 そこに居たのは、環と沙夜だった。
「タ……タマちゃん、サーヤさん!」
「あ。ヒナ、大丈夫?」
「……頑張ったな。助けに来たぞ」
 陽菜子は思わず二人の名を叫んでいた。安堵が胸に込み上げて来るのを感じる。
 沙夜は心持ち身体を引き摺っているようにも見える。だが、それ以上に環の翳された両腕
が青白く電気を帯びている姿が強く眼を惹いた。まさか、彼女も……?
「…………」
 続いて、別方向の路地から人の気配がする。
 氷室がゆっくりと振り向くと、そこには壁にもたれ掛かった篤司の姿。静かに眉間に皺を
寄せる氷室に、じっと鋭い眼光を注いでいる。
「アツシ君も!」
「……へへっ、全員集合か」
 五対一──否、六対二。数の上ではこちらが押す形。
「……お前の仲間は、倒させて貰った」
「へへ、こっちもよ。あの筋肉ダルマ、暫くはノビて動けないんじゃない?」
「観念する事だ。それと、コタロー君の居場所も吐いて貰う」
それぞれ三方向から氷室と巨狼を囲み、ゆっくりと距離を詰める。
 氷室は張り付いた笑顔に不利を察知しているらしく、三方をそれぞれちらと見渡し、ポリ
ポリと頭を掻いた。緊張の糸が引き伸ばされるように、沈黙。
「やれやれ……次から次へと」
 しかして、その仕草すらやはり演技臭い。彼は仰々しく肩を竦めると、仕方ないと言わん
ばかりに大きなため息をついてみせた。
「仕方ない。ここは、退かせて貰おうか。……戻れっ!」
 そして叫んだ。その瞬間、巨狼から蒼い渦が立ち込める。
 最初に巨狼を呼び出した時と同じだった。ただその時とは逆に、巨狼は急速にその身を蒼
い奔流へと変えていき、氷室の「内部」へと還っていく。
「く、待て……っ!」
 篤司が追おうとしたが、一度渦巻いた蒼い奔流が起こす突風に、動くに動けない。
 五人がようやくその風圧から解放されたのは、蒼い渦ごと氷室の姿が完全に消え去ってし
まった後の事であった。

「ヒナ、ハル! 無事!?」
 氷室が巨狼と共に姿を消し、戻った静寂。残ったのは氷や炎、そして巨体の異形同士がそ
の威力を振るった破壊の後だけ。
 環と沙夜、そして篤司が二人の下へと駆け寄ってきた。
「う、うん。私は大丈夫だけど……」
 駆け寄ってくる仲間達。その姿にほっとしつつも、陽菜子は傍らで座り込んでいる兄に視
線を泳がせる。その姿に事の大きさが示されている。
「……ボロボロだな」
「まぁな。色々あってよ。そういうお前こそ、何か心持ちボロボロじゃね?」
「……気のせいだ」
「あ、え、えっとね……」
 激戦があった事は察知したようだが、やはり話しておいた方がいいだろう。
 陽菜子は集まってきた仲間達に、兄から伝え聞いた巨大天使(仮)の事も含めてこれまで
の事の経過を話して聞かせることにした。
「……へぇ。じゃあ、この鳥、ヒナの能力なんだ」
「あ、えっと鳥じゃなくて、天使さんだけど」
「……そこは拘る所なのか?」
「まぁいいじゃないか、ヒナちゃんの力なんだから。それに、氷の男を追い払って且つハル
君の傷まですっかり治してしまうなんて、確かに天使みたいな存在と思うよ?」
 そう言って五人が見上げる巨大天使(仮)は、静かに彼らを──否、何となく陽菜子の方
をじっと見下ろしていた。相変わらず言葉らしきものは話さないが、先程出していた細剣を
仕舞い込んでいる事からみても、皆に危害は加えないだろう。陽菜子はそう思った。
「……本当にありがとう。天使さん」
 そう、感慨深く陽菜子が呟いたその時だった。
『…………』
 突然、巨大天使(仮)がバサッと一度羽ばたくと、みるみるその身を金色の奔流に変えて
陽菜子へと流れ込んで来たのだ。出てきた時と同じように、血肉を抉るのではなく、もっと
違う「内部」への流入が彼女の全身に伝わっていくような感覚。仲間達が驚いて見守る中、
やがてその奔流は止み、巨大天使(仮)は完全にその姿を消す。
 皆の視線が、ふっと陽菜子へと集中した。
「……ととっ」
 直後、回帰の余韻なのか、陽菜子はふいにグラッとよろめいた。
「お、おい、大丈夫か」
「う、うん……大丈夫。ちょっと、疲れたのかな?」
 既に立ち上がっていた晴市にはしと肩を支えられ、陽菜子は漠然と身体が訴え出した情報
を口にしてみる。
「大丈夫? ちょっと休んでいく?」
「あ、ううん……大丈夫」
「……もしかすると、あのデカブツを呼び出すのは本人にとっても相応の負荷になるのかも
しれないな」
「なるほどね。……そうなのか、陽菜子?」
「うーん……そう言われても。私だってよく分からないよ……」
 篤司が尤もらしい推測を呟くが、陽菜子はいまいち実感が湧かなかった。何しろその時は
必死だったので殆どどうして呼び出せたのかすら判然としない。強いて言えば、力を貸して
くれと願ったくらいだが……。
「そ、それよりも急ごうよ。コー君の居場所、分かったんだよね?」
「何? そうなのか?」
「うん。未確認情報だけどね。アツシ、案内お願い」
「……こっちだ」
 しかし、そんな疑問を考えている暇はない。五人は先を急ぐ事にしたのだった。


「……答えろ。一体、私の何を見た」
 倉庫内に静かな怒りが充満していくようだった。
 胡太郎はじっと三枝の強い瞳を見上げながら、やや後悔の念が過半数を超え出した自身を
御するように一つ深い深呼吸をついた。
「……あなたが、何か本らしきものに目を落としている場面です」
 ここからが正念場だ。彼の見せている反応がそう告げている。胡太郎は偽る事なく予知の
中で視た光景を思い出しながら口を開き始める。
「部屋の内装からして、あなたの部屋じゃないと思いました。もっと若い……なので多分、
お子さんの部屋なのかなと思います」
「…………」
「だけど、もっと気になった事があります。その時のあなたの横顔です。凄く……思い詰め
ているような表情(かお)でした。……今のあなたのように」
 胡太郎の中で、三枝の表情が予知した場面の記憶の中の彼の横顔と重なる。
 だからこそ、胡太郎は他人(ひと)の内面に踏み込む事を覚悟してこのカードを切った。
あの場面の何かが、彼をここまである意味での狂行へと走らせているのではないかと。
 だから知りたいと思った。もし、そこから彼を助けだせるなら。
「あなたに、一体何があったんですか……?」
「…………」
 三枝はすぐには答えてくれなかった。
 言い難い事なのは分かっていた。だから胡太郎もじっと待った。三枝からは、相変わらず
静かな怒りの眼で燻り殺されそうな圧迫感を覚えたが、短いようで長いその沈黙を、胡太郎
はじっと待ち続けた。できる限り、目を逸らさずに。
「……やはり」
 どれだけの間、重い沈黙が二人を包んでいただろう。
 ようやく紡がれた三枝の第一声はそんな重苦しさに叩き落されたように小さかった。
「君を最初に狙ったのは正解だったようだ」
「え?」
 聞き返した瞬間、ガンッと鈍い音が周囲に響き渡った。
 胡太郎のすぐ頭の上を、三枝の握り拳が打ち付けていた。ギリギリと、握り締める音が聞
こえてきそうな程に強い力が込められている。彼の腕で塞がれた視界を、胡太郎はぼうっと
見つめている。それが彼の怒りの発露だと知るのに時間は掛からなかった。
 顔をひょいと動かす事すら気圧されてできなかった。頭上に突き出された腕と前髪に隠れ
た彼の表情は、胡太郎の位置からでは見え難くなってしまっている。
「……息子だよ」
 それが、お子さんと表現した胡太郎への返答だと分かるのに、少し間が要った。
「息子さん、ですか」
「ああ」
 再びの、間。
やっと口を開いてくれたのに中々彼へ言葉を投げ掛けられない。気圧されているからなの
だろうか。それとも、彼の隠してきた何かに触れようとする負い目からなのか。
「生きていれば君達と同年代になっていた筈だ」
「そう、ですか……」
 曖昧な相槌の直後、はっと我に返る。
 待ってくれ。その言い方という事はもしかして。
「あの……」
「死んだよ。……自殺だった」
 余りにあっさりとした言い口。しかしそれが却って胡太郎の胸に深く突き刺さるような気
がした。どす黒く思い、錆びた異質を突然突き立てられるような錯覚。
 そうか……彼が抱えていたのは、そういう事だったのか。
「私と妻は、ここ数年顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた」
 そんな胡太郎の動揺を見透かすように、一瞬間を空けて無言でそれを見下すように静かな
視線を投げ掛けてから、三枝は更に口を開き始める。
「それ自体は、何処にでもある光景といってもいい。仕事ばかりで家庭を顧みて来なかった
中年の夫と家事に幽閉されたような妻、お互いのすれ違い……そういったゴタゴタは、私も
事件(しごと)上、原因として腐るほど見聞きしたケースだしな」
 そうかもしれない。夫婦だけではない。人が交われば当然すれ違いもあるのだから。
 三枝は少し間を置いて黙ってから「だが……」と続けた。
「息子はそんな家庭に嫌気が差していたらしい。当然ではあるだろうな。自分という子供ま
で儲けておいて今更仲違いするのは、理解に苦しんだかもしれない。そんな事になるのなら
始めから触れ合わなければいいと……」
 ポツポツと語れる内容に、胡太郎は少々違和感を覚えていた。
 もうこれは推量の域ではない。明らかに当人の意志を何かで確認したのではないか。
(……そうか、あの本は)
 まだ続く彼の独白に耳を傾けながら、胡太郎は状況の整理にも思考を働かせる。
「普通なら、取れる道は現実的に二つだ。ひたすら私達夫婦の喧嘩を耳にしながらも耐える
か、何とか二人の仲を取り持つ、ないしは建設的に別れさせるか。……息子ももう子供じゃ
ない。場合によってはあいつの意見で私達家族の形を変える事も可能だっただろう」
 そう考えられるという事は比較的彼は柔軟であった筈だ。そう胡太郎は思った。
 自分自身は(父の再婚でもない限り)父子という枠組みから変わる事は難しい。ただそれ
で当人達が幸せならば良い。だが、今日家族といっても、それは血縁という定義で括られた
究極的には他人同士の集まりでしかない。個人主義の台頭……などという定型句で語りたく
はないが、今は昔とは違って様々な家族の形がある。繋がる事も、離れる事も。
「だが……それを狂わせる事件が起きたんだ」
「……事件?」
 ゆっくりと、柱に打ち付けていた拳が離される。
 問い返す胡太郎にはすぐに答えずに、三枝は彼に背を向ける姿勢となった。
「ある時を境に、息子は私達の喧嘩の仲裁に出てくるようになった。後者を選択したという
わけだ。だがしかし、そこで私と妻には妙な現象が起こるようになった」
「……?」
 彼の声色が、少しずつ落ち着いてきたような気がした。
 怒りが引いてきたのか、それとも閉じ込めてきた心の内を口に出す事で多少なりとも彼の
重荷が軽くなってきているからなのか。胡太郎は僭越ながら、後者である事を願う。
 コートのポケットから煙草の箱とライターを取り出し、一服。
 ニコチンの臭いが微かに鼻腔をくすぐる中で、
「息子が仲裁に入る度に、私と妻はその時の記憶が──否、喧嘩の時の互いの憎しみや怒り
などといった感情自体がすっぽりと抜け落ちるようになった。始めは私もよく分からなかっ
たよ。気が付いたらぼうっと自分の部屋にいたんだからな」
「……感情が、抜け落ちる」
 ぼんやりと彼の言わんとする話が繋がってきたような気がする。
「……君は知っている筈だ。他人(ひと)の感情を削ぎ取るなんていう人外な芸当をやって
のける存在をな」
「……まさか」
「そうだ」
 明らかに自分に向けられた言葉、その回答に胡太郎は息を飲んだ。
「息子は、能力者だったんだ」
「…………」
 驚いた。しかし同時に繋がっていくような気がしてならなかった。彼が語り始めた彼自身
の過去。そしてそれが、今彼が自分とここにいる理由である事も。
「始めは予想だにしなかったよ。まさか息子が『他人の感情を喰う』能力者だなんて。だが
息子が自殺した後、あいつの部屋を整理していたら見つけたんだ。何冊もの日記をな」
「……日記」
 やっぱりそうか。胡太郎は先刻の予想が当たり、少し自分自身にげんなりした。
 つまり自分が予知したあの場面は、三枝が息子の部屋でその遺された日記達を読み返して
いた光景という事にでもなるのだろう。抱いた決意を確かめるように。
「……息子は、力を持て余していた。始めこそ私と妻の喧嘩を止められたと喜んでいたよう
だが、次第にその能力自体に悩まされるようになったらしい」
「能力自体に?」
「……私の『異能喰らい』と同じ様に、息子の能力は相手の感情を喰らうというもの。それ
はつまり、消化されるまでの間、喰らったものを自分の中に留めているという事になる」
 ちらりと三枝が「あっ」と気付く胡太郎を一瞥した。再び、煙草の煙を吹かす。
「息子は……ずっと抱え込んでいたんだ。私達が互いに向けた憎しみや怒り、そうした鬱屈
した感情を全部独りで背負って、消化するまでの間、ずっと苦しんでいたんだ……」
「…………」
 胡太郎は黙り込んでしまっていた。
 怒りや憎しみに身を焦がれる事自体は誰にでもある。しかし、それが全くの他人のものだ
としたら? これほど理不尽な負荷などない。例え能力を以って自ら背負ったものだとして
もその苦しみは自分の中にある筈なのに、だけど他人のもの……。
「やがて、息子は後悔するようになっていた。どんな手を使ってでも──人外の芸当を使っ
てでも目の前の不快を、私達の仲違いを消し去ろうとした自分自身を愚かだと罵って……」
 煙草が落ちた。三枝は「だが」と言いつつ、それをぎゅっと踏みしだく。
「……それを苦にして、自殺までする事などなかった筈だ。ただ力を使わなければ良かった
だけだろう? なのに自分を殺す事を選んでしまった。そういう意味では、息子は潔癖であ
ったのかもしれないな……」
 そこまで言って、三枝は押し黙った。
 自ら命を絶った息子の最期を思い出しているのだろうか。しかし、その表情は背を向られ
ている位置に据えられている胡太郎には窺い知る事はできない。
 三枝の言う事は間違ってはない。少なくとも遺された者とすれば当然の「何故?」なのだ
ろうと思う。しかし一方で彼の取った行動に同感する部分も、胡太郎にはあった。
 果たして、彼は力を使ったという罪悪感「だけ」で自ら死を選んだのか?
「……能力者だ」
 ゆっくりと三枝の背中から頭へ、視線を上げる胡太郎に背を向けたまま、三枝は呟いた。
 その声色は独白から再び剣呑を帯びたものに変わっていく。先程の静かな怒りの気配に通
じるものが背筋に走る。
「能力者なんて存在さえなければ、息子は死ぬ事はなかった。そんな人の手に余るような危
険な力があるからいけないんだ……」
 怒り? 否、違うこれは恨みか。それもぶつける先の定まらない……。
「……憎かった。息子が私達をおいて先に逝ってしまった事よりもずっと、そんな危険な力
がこの街に蔓延っているという事実の方が憎かった」
 三枝がポケットの中で拳を握り締めているのが分かった。
「……そんな時だ。私がこの『異能喰らい』の力に気付いたのは。息子の調べの通り、能力
の源泉は私もかつて触れたあの水晶体にあったんだ」
 それは執念だったのだろうか。
 両親の不和を消したかった息子。その息子の命を損なわせた力への憎しみ。それらが二人
の能力者を生み出した引き金になったのではないか。そう胡太郎は震撼する。
「これは使命だと思った。この力があれば、危険な力達を消し去れる事ができる。同じ様に
力に溺れ、苦しむ者達を救済できる。息子を助ける事はできなかったが、他の能力者を力の
呪縛から解放させる……それが、息子へのせめてもの慰みになる」
「……それは」
 違う。それはあなたの理屈だ。息子さんが死んだのはそんな為じゃない……。
 胡太郎は全身を駆け巡った直感がそう紡ごうとし、そして口に出せない自分がいるのを自
覚していた。やっと見えた。彼の帯びる一種の狂気の正体が。
 だけど、どうすればいい? 自分の今感じている答えは直感だ。推測だ。それを告げた所
で彼が耳を貸してくれるだろうか。
 長い沈黙が降りていた。
 背を向けたままじっとしている三枝。俯き加減でじっと考え込んでいる胡太郎。
 どうして? 知った筈なのにこんなにもどかしいなんて。こんなにお互いが遠いなんて。
 胡太郎が静かに内心で悶える。やがて、それを見下ろすように三枝がゆっくりとこちらを
振り返った。物理的な距離。精神的な距離。近くても遠い二人。
「……君は満足か? 予知という形で人の心を覗き、私に自ら告白させて」
「…………」
 遠い。意識もすうっと薄らいでいくような。
「人の未来を、可能性を視るという事は、その者の過去の積み重ねを垣間見る事でもある。
私が君に最初に狙いを定めたのは単に先読みをされて邪魔になるからというだけではない。
君の持つその力が君を、君が覗いた者の心を共に浸食し、傷つけていくものだからだ」
 言葉を以っての断罪だった。
 このカードを切る前に自覚はしていた。だけど、知った所で彼に近づく事すらできない。
ただ自分のしようとした事の残酷さを、怪我よりも辛い傷口を抉じ開ける真似である事を、
強く再認識させられるものでしかなかったのか……。
「精神に働きかける類の能力。……だからこそ君には最初にその力を捨てて貰いたかった。
感情自体を取り込むわけはない。だが、その力の危うさは単なる怪我では済まない筈だ」
 自分の内情を告白したにも拘わらず、三枝は酷く落ち着いた声色だった。
 だが、それは静かな怒りを超えた憐憫の裏返しなのかもしれない。
「…………僕も」
 打ちひしがれる。だが、胡太郎は必死に踏ん張っていた。
 目的は知る事ではない。あくまで手段の筈だ。目的は……彼を説得する事。
「……僕も、小さい頃に母を亡くしました。自殺では、ありませんが」
 三枝が僅かに眉間に皺を寄せた。
「あなたの息子さんがどんな思いだったのか、それを僕が知る事はできません。だけど」
 その表情を胡太郎は意を決するように見上げる。
「少なくとも、息子さんはあなたにこんな事を望んだ筈はない!」
「……君に、君に何が分かるっ!」
 空気がざわついたような気がした。だけど、ここで譲ったら負けてしまう。
 すれ違っていたんだよ。胡太郎はそう思った。両親の不和を憂いた彼も、そんな彼の死と
いう悲しみと鬱憤を、能力者という存在へぶつけていった三枝も。
「……ただ彼は、あなた達夫婦に幸せでいて貰いたかっただけなんじゃないんですか?」
「……何、だと?」
 本人が死んだ今では本当の所は分からないだろう。
 だが、胡太郎には推測からの確信が芽生えていた。彼が死んだのは力を使った罪悪感から
じゃない。力を使った事で自分へ憎悪や怒りが流入して苦しんだからじゃない。
 能力を使ってさえも、あなた達を幸せに変えられなかったという絶望感だ。
 通用しない、いやする筈のない能力を持っていても仕方がないと。感情を奪われた人間に
幸せを感じる事なんてできやしないのだから。だからこそ一層、彼は苦しんだ。自分の無力
を殊更に呪っただろう事は想像できる。それが、絶望に繋がった可能性も。
「僕には、分かる気がします。残された人達が憎しみや後悔に狂うよりも、その先の人生を
できうる限り幸せに生きて欲しいと望むことが」
「…………」
「ただ、能力によって苦しんだからじゃない。彼はあなたに死を以ってしてでも不和を変え
て欲しいと訴えたかったのかもしれません……今ではもう、確かめる術はありませんが」
 三枝はぎゅっと唇を食い縛っていた。
 しかしその眼は胡太郎を捉えてはいない。何処か遠くの記憶を思い起こしているような、
そんな心だけが別の場所に飛んでいる眼。
「……だとしても、死ぬ事なんてなかったのに。何故、一言を言ってくれなかったんだ?」
 それは胡太郎にではなく、むしろ今は亡き自分の息子に投げ掛けているように聞こえた。
「……ちゃんと耳を傾けようとしていれば、こんな事にはならなかったでしょうね」
 すれ違っていたのだ。胡太郎はぽつりと呟く。
 静かだった。心持ち三枝はふらふらとしながらその場に立っているようだった。胡太郎と
お互いに目を合わせる事なく、ぼうっと視線の先を眺めているかのようだった。
「……はい。もしもし」
 その沈黙を、少々無遠慮に古手川の携帯電話の着信音が破った。
 これまでのやり取りですら、彼女は殆ど表情を変えていない。淡々と携帯電話を取り出し
て相手からの連絡を受けている。
 胡太郎と三枝、二人は眼だけを彼女に遣っていた。
「……例の五人に突破された模様です」
「何?」
 機械的な報告のような、感情の篭っていない第一声。
 眉根を寄せて顔を向けてくる三枝を変わらず無表情で見返し、携帯電話をしまいながら、
「涼介から連絡が入りました。坂上、熊沢両名は現在昏倒状態と思われます。先程から連絡
をしても通じない事にも説明がつきます。新條兄妹と交戦中だった涼介は、その後彼ら五人
の集結を見て撤退。報告によると、彼ら五名の内、能力者(カテゴリー3)未満だった残り
二名の覚醒を確認、内一人は具現者(カテゴリー4)にまで急激な覚醒を見せています」
 淡々と伝えられてきた内容を告げる。
「……無事、だったんだ」
「……何て事だ。確保すら失敗するなんて」
 安堵と驚愕。二つの感想が互いの口から吐き出される。
「現在、彼らはここを探して移動中の模様です。虱潰しに当たっていったとしても、いずれ
はここが割れる事でしょう」
 そう言いながら、古手川はその場を離れ、
「古手川?」
「……彼らを回収に向かいます」
 夕陽の差し込んでない倉庫の奥へと消えていく。ガタンと音がした。おそらく裏口のドア
から出て出て行ったのだろう。
 胡太郎は三枝と二人取り残された格好になった。
 再び沈黙が走った。先程よりも若干気まずい。仲間達のとりあえずの無事を喜びたかった
のだが、ここで更に三枝を刺激するのは得策ではない。胡太郎はそっと彼を覗き見ていた。
「……君の友人達は、よほど強情らしい。私の計画は大狂いだよ」
「……そう言うあなただって随分強情だと思いますが」
 彼の言葉に、胡太郎はそう返していた。
 現在の無事は確認できたが、それもいつまで持つのか分からなかった。そもそも、彼自身
がまだ能力者の、つまり自分達の無力化を目論んでいる状況は変わっていない。
 まだだ。まだ、説得が要る。
 互いを睨むような沈黙の中で、胡太郎はくいと顔を上げた。
「……あ」
「?」
 その時だった。
 不意に胡太郎が小さな声を漏らす。三枝もその機微に気付いたようで、一瞬眉根を寄せて
みせた。固定された胡太郎の視線。それを辿って背後を振り返り、
「ぐふっ!?」
 直後、背後からの右ストレートを顔面に受けて吹っ飛ばされた。
防御の反応こそ追い付かなかったものの、コンクリートの地面に叩き付けられる前に咄嗟
に受身を取ったのは、流石は刑事といった所か。
「……アツシ?」
 三枝と位置を入れ替えるように立っていたその姿に、胡太郎はそっと名を呼ぶ。
「ア、アツシ君!」
 そうしていると、その背後、倉庫の入口から突然人影──沙夜と彼女に触れた格好で立つ
環、晴市、陽菜子が現れた。
 何時からは分からないが、どうやら沙夜の能力で一同身を潜めていたらしい。
「…………」
 彼女達は困り顔で迷彩を解き、先行する篤司を呼び止めようとしているようだった。
 しかし、そんな制止の言葉が耳に入っていないのか、篤司はずんずんと倒れた三枝の下へ
と歩み寄り、ぐいと胸倉を掴んで引き寄せる。
「何故だ。何故刑事のあんたがこんな真似をした!」
 彼の表情が、何時になく怒りに満ちていた。何処となく全身がズタボロにされたような姿
など吹き飛ばすように、その怒号が至近距離で三枝を劈く。
「…………今の私は、人間だよ」
「ッ!」
 殴られた衝撃か、憔悴の類か、焦点の定まっていない三枝がそうぽつりと呟いた。
 そして、篤司はその言葉を聞いた瞬間、更に人を射殺せそうな程に怒りを全身に漲らせて
再びその拳を振るおうとする。
「待って、アツシ!」
 胡太郎の叫びと共に、三枝の顔面ギリギリで拳が止まっていた。
 当の篤司は、予想外と言わんばかりに胡太郎をじっと見返してくる。
「胡太郎……どうしてだ? こいつは……」
「……いいんだよ」
 胡太郎はふるふると首を横に振っていた。
 篤司はおそらく怒っているのだろう。刑事という、いわば正義の実行者であるべき人間が
拉致・監禁を、しかもそれを自分の仲間に行ったという「不正義」が許せないのだ。
 だからこそ、三枝の言葉が刑事としての矜持を捨てた発言に聞こえたのだろう。
 しかし彼の内情を知った胡太郎には、そうは聞こえない。おそらくは公職としての刑事で
はなく、あくまで死んだ息子の鎮魂の為と銘打ち、能力者全ての無力化を行おうとする一人
の私人、一人の父親としての自分を言いたかったのだろう。そう思えたのだ。
「とにかく拳を引いて、ね?」
「そ、そうだよ。一応相手は刑事なんだしさ……」
 沙夜と環も、篤司の怒りに気圧されつつもそう宥めようと声を掛けて来た。
 暫くそのままの体勢だった篤司だったが、ややあって小さく舌打ちをすると、ゆっくりと
拳を引くと、少々乱暴に掴んでいた胸倉を手放した。
 三枝も、その勢いに身を任せるようにどうっと倒れ込む。
「無事か、コタロー?」
「だ、大丈夫? 怪我とかない?」
 緊迫が解けた所で、胡太郎の下へ晴市と陽菜子が駆け寄ってきた。
「うん。僕は大丈夫だけど……ハルこそ大丈夫なの?」
「ん? あぁ、大丈夫大丈夫。これでも身体はピンピンしてるからよ」
 自身のボロボロになった服装を指している事にすぐに気付き、晴市は何でもないと笑い飛
ばしながら「なっ?」と何故か陽菜子に振る。
「う、うん……」
 その陽菜子は、何処か恥ずかしそうにもじもじとしていた。
「コタロー、じっとしてろよ」
 胡太郎の後ろに回り、晴市の手がぎゅっと彼を縛っているロープを握り締める。そう言わ
れて心持ち姿勢を正して固まると同時、ジュウッという熱の音と共にロープが焼き切れた。
胡太郎は軽くなった戒めから脱し、ややふらついた身体を晴市に支えて貰って立ち上がる。
「……ありがとう」
「気にすんなよ」
 皆を助けようと相手の懐に入ったつもりが、結局は皆に助けられる結果となってしまった
不恰好を内心で嘆きつつ、胡太郎は小さく礼を口に出していた。
 当然だろう? と言わんばかりに答える晴市も、まだ三枝を見下ろしてじっと立っている
篤司も、自身の救出を安堵した様子で見守る沙夜も、それぞれに交戦を経た痕跡を全身に残
しているように見える。結果的には皆を救えた事に、なるのだろうか……。
「あの、コー君。これ……」
 そんな思考も僅か、陽菜子がおずおずと胡太郎に呼び掛けてきた。
 胡太郎が顔を向けると、彼女は腰に下げていたポーチから一冊のメモ帳を取り出す。
「これは……そうか。それで」
 差し出されたその手帳──自分が予知の内容を記録していたメモを受け取って、胡太郎は
皆がここを突き止めた理由を理解した。つまりは自分の能力についても、もう知られている
という事も意味している。
「ご、ごめんね……。その、コー君がいつもと様子がおかしいなぁって思って、お家に行っ
てみたんだけど、コー君はいなくて、お部屋に通されて……その……」
 メモ帳を見つけてきたのは彼女であるらしい。
 しかし胡太郎は怒る気など毛頭なかった。そもそも、ずっとこの力の事を隠してきたのは
自分の方だ。彼女はただ、単純に心配してくれただけ。
「そっか。心配かけて、ごめんね」
「……うん。うん」
 コクコクと頷き、陽菜子は泣きそうになる自分を抑えているようだった。思えば、自分は
仲間の為と言いつつ秘密主義が過ぎたのかもしれない。良心がジクッと痛んだ。
「皆にも。ごめん……」
 能力者である事をずっと黙っていた事、皆に迷惑を掛けた事、その他色々な事を。
 胡太郎は仲間達に頭を下げていた。
「気にするなって。俺達の意志でやった事なんだからよ。……それによ、能力の事なら、俺
だって人の事を言えた立場じゃねぇもんな」
「そうそう。それに、もう私達全員能力者だもの。もう隠す必要はないって事」
「全員……?」
 言われて胡太郎は環、陽菜子の二人を見遣っていた。にやりと笑う環と、恥ずかしそうに
しながらも、それでも何だか前よりも頼もしくなったような気がする陽菜子。
 そう言えばと、古手川が残り二名が覚醒したと言っていた事を思い出す。
「そっか……。もう、いいんだな」
 思わず口から出る安堵のため息のような一言。
 何だか肩の荷が下りていく。何処かずっと背負っていた後ろめたさも。
 胡太郎は、全身が内部から軽くなっていくような感覚を覚えていた。
「……胡太郎」
 ぼそっと、篤司が背を向けたまま、じっと倒れたままの三枝を見下ろし、目を合わせたま
まで胡太郎の名を呼んだ。緩みかけた空気が再びピンと張り始めるのが分かる。
 まだ、完全に終わった訳ではないと言わんばかりに。
「どうしてだ? お前はこいつらに捕らわれたんだろう?」
 ちらと肩越しに胡太郎を見る。
 殴り掛かった直後よりは落ち着いているようだったが、篤司はまだ剣呑な空気を纏うのを
解いてはいない。三枝も下手に動いてはまた殴られると思っているのか、彼の足元で大人し
く仰向けになっているようだ。
「……そうだね。話さないと、いけないかな」
 胡太郎は三枝の方を一度見遣り、大きく息をついた。
 このまま解散とはいくまい。三枝の行動の理由も分からぬままでは皆も納得してくれない
事だろう。何より皆が必死の思いでここに来たのは分かっているのだから。
 「いいですね?」と眼で三枝に一応の確認を取った後、胡太郎は視線を集めてくる仲間達
にここで得た三枝の事情を掻い摘んで話して聞かせる事にした。
『…………』
 その話を聞いた五人は黙り込んでいた。
 事情を知って同情的になる者、かといって無罪放免もなと複雑な気分に揺れる者、或いは
彼の事情よりも仲間に手を出した事に変わらず非難の眼差しを突き刺す者。
 それぞれの反応が、五者五様に滲み出ていた。
「……まぁ、事情は大体分かったけどよ。何も能力者全員を一括りに悪者扱いするってのは
どうかと思うぞ。あんたに恨まれる謂われなんて無いと思うんだがな……」
「そうよ! 確かに鉤爪男とか、氷の奴とかイカレた連中もいるけどさ、一体私達が何した
っていうのよ?」
「……まぁまぁ、二人とも落ち着いて」
 髪をガシガシ掻きながら不機嫌そうにぼやく晴市と、そんな彼に乗じるように頬を膨らま
せる環。その二人を抑えつつ、沙夜は可能な限り冷静を装って三枝を見る。
「三枝さん、少なくとももっと他にもやり様はあったと筈ではありませんか?」
「…………」
 既に起き上がり、その場で座り込んでいた三枝の何処か虚ろな眼が沙夜の視線と重なる。
「……同感だな。協力者を選べる余地がなかったかもしれないのは認める。だが、どう見た
ってアレは人選ミスだろう。あんたも気付いているとは思うんだが」
 続いて彼女に篤司がそう続けた。
 変わらずその眼光は鋭く、壁にもたれて三枝に遠慮ない非難の視線を注いでいる。
「何故、この事を最初に話してくれなかった?」
「……何?」
 ぽつりと問い掛けられた言葉に、三枝が小さく顔を上げた。篤司は一度彼を見返した後で
中空をぼうっと見上げつつ、
「俺は何もあんたの行動全部を否定する気はない。少なくとも、力を悪用する連中を何とか
しようという心意気には、俺達だって協力できた筈だと思うんだが?」
 横目で各々に無言の同意を見せる仲間達を確認する。
 胡太郎はなるほど、彼らしいと思った。彼の言わんとする所は、能力を悪用する能力者に
立ち向かう「正義」であれば力を貸したのに……。という事だろう。
「……そうか」
 三枝は少し己を嘲るように笑ったように見えた。
「……しかし、これはあくまで個人的な動機で始めた事だ。『正義の味方ごっこ』のつもり
で始めた事じゃあない。君のような、そんな殊勝な動機なんかじゃないんだよ」
「…………」
 篤司は彼の返答に静かに眉根を寄せていた。
 殊勝ではない。つまり酷く個人的な──息子を奪った遠因を消す。言わば復讐にも近い動
機である事を自ら認めているような発言だった。
「それに、君達が仮に『正義の味方』を演じてどうなる? 君達だって、いつ自分の力に魅
入られるかもしれないというのに」
「……刑事とは思えない発言だな」
「……少なくとも、今は一人の父親としてここにいるつもりだ」
 篤司と三枝の視線がぶつかっていた。ピリピリと張り詰める空気。善と悪の対立という図
式ではない。お互いを据え置く位置の違い故の溝。
 皆、手が出せなかった。晴市や沙夜はお互いの言い分を分かる故に動けず、環はそれ以前
に無為にいがみ合う図式そのものに嫌悪を示し始めている。
 もしかしたら、三枝も子供達によって集って詰られて意固地になっているのかもしれない
と胡太郎は思った。もどかしい。三枝さん、またあなたは……。
「あ、あの……」
 おずおずと、その緊迫の間を縫うように陽菜子のか細い声が聞こえた。
 心持ち僅かに緊迫が緩み、全員の視線が彼女に集中する。その状況に彼女は少々怖じ気づ
いたようだったが、もじもじと自分の中で何を整理するようにしてから、
「あの……。能力者ってそんなにいけない事なんでしょうか?」
 そんな問いを三枝に向けていた。
 全員が「え?」と呆気に取られていた。
 陽菜子は恥ずかしさできゅっと目を瞑りながら、
「その、上手くは言えないんですけど、私、能力者の力はそんなに悪いものじゃないじゃな
いかと思うんです。確かに、鉤爪さんとか氷の人とか、怖い人はいっぱいいるけど、それは
そ、その、あくまで個人の問題であって……」
 一生懸命に自分の中に湧き起こってくる想いを伝えようとしているように見える。
「力自体を悪者にしちゃいけないような気がするんです。……コー君のお話だと、三枝さん
の息子さんは三枝さん夫妻の喧嘩を止めたいと思っていたから、感情を食べちゃうっていう
能力が使えるようになったし、三枝さんも息子さんが能力者になったからこそ死んだと思っ
て、能力者がいなくなればと思ったから能力を食べる能力が目覚めたんじゃないかなって」
「…………」
「わ、私も……実際の所はよく分からないけど、自分の能力が使えるようになったのは、皆
を助けたいと思っていたからだって気がするんです。だから、その……私が思うに」
 すうっと、陽菜子が目を開く。
 必死さと気恥ずかしさからか若干涙目になりつつも、
「能力者の力は、その人が持っている願いが作ったんじゃないかなって」
 そう、言った。
 しんと周囲が静まり返る。彼女の言葉が染み入るように。
 胡太郎もその言葉を静かに反芻していた。願い。それが能力者を目覚めさせる鍵であると
いうならば、自分はどうなのだろう。
 おそらくは後悔だ。あの日、母を救えなかった後悔だ。
 もし母が倒れてしまう事をもっと早く、事前に知る事ができていれば、もっと早くに家に
飛んで帰り、より確かな救護を取れたかもしれない。死なずに済んだかもしれない。
 だから……自分の願いが「予知」を生んだのか?
 ちらと仲間達を見遣る。彼らもまた彼女の言葉を反芻しているように見えた。それぞれに
願った事、胸の内に秘めていた何かと自身の力の関係性を照らし合わせているのだろうか。
 陽菜子は恥ずかしさでいっぱいなのか、またぎゅっと目を瞑ってその場に立っていた。
 過ぎった想いを口に出しただけなのだろうか。彼女自身はそれ以外の様子は見られない。
「…………願い、か」
 反芻していたのは、三枝も同様のようだった。
 大きく溜め込んだ何かを吐き出すように、やや上向きに天井を眺めつつ誰にともなくそう
呟いていた。皆の視線が再びゆっくりと彼に集まる。
「だとすれば……私はつくづく息子の想いを裏切り続けた事になるのだな」
「……?」
 それは不和を嘆く心の声に耳を傾けなかった事や、彼の死を悔やみ続けた事を指すのだろ
うか。しかし、胡太郎は少なくとも死の悲しみを風化させていいとまでは思わない。
 まるでその言い口は、もっと他にも彼への後ろめたさを隠しているような……。
「試してみるか? 少年達」
 ゆっくりと三枝が立ち上がった。反射的に篤司や晴市が身構える。
「……構えなくていい。私の能力はもう分かっただろう? そこらの不良連中ならともかく
能力者六人を一人で相手になどできないよ」
 やや重い足取りで、三枝が歩を進め始めた。
 戦闘の意志がないという事もあり、篤司や晴市らは一応構えは維持しつつも、直接彼へ飛
び込むような事はせずに様子を窺っている。ちらと面々を一瞥しつつ、彼は胡太郎の目の前
でスッと足を止めた。
「…………」
 ゆっくりと翳された左手。掌から独りでに横線が走り、そこからあの時と同じ眼無しの蛇
がその姿を現す。
「胡太郎!」
「待って、大丈夫。これは」
 踏み込もうとした篤司を、胡太郎は一声で制した。
 そもそも自分は既に能力──寄生体を喰われている。にも拘わらず彼が自分に狙いを向け
てくるという事は……。
 ──ズブッ!
 瞬間、しなるように三枝の左腕が突き出された。
 掌から伸びた蛇は、前と同じ様に胡太郎の「内部」へと身体に波紋を作りながら侵入して
いくのが分かる。相変わらず奇妙な感覚。
 そう思ったと同時だった。急激に何かが「内部」に流入していくような感覚が胡太郎の全
身を駆け巡った。異物の混入。その筈なのだが、何故か妙に身体にフィットしていくような
奇妙な安定感。ぼうっと意識が僅かに遠くなる。
「…………」
 仲間達が呆然として見つめる中で、やがて三枝は左腕を引き抜いた。
 勢いと共に掌から伸びた眼無しの蛇も収納され、ぎゅっと握った拳をそのままコートのポ
ケットへとしまい込む。余韻のように揺れていた胡太郎の身体の波紋も、やがて消えた。
「……コタローに、何をしたんだ」
 逸早く立ち直った晴市が静かに三枝に問うた。
 既に踵を返し、胡太郎の方から歩き去って行こうとしていた彼は、
「彼の寄生体を彼の中に戻した」
 そう何ともないといった感じで淡々と答える。
「吐き出させた。消化される前になら可能な芸当だよ」
「……えっと。つまり、コー君をまた能力者に戻したって事ですか?」
「ああ」
 陽菜子の言葉に三枝は背を向けたまま短く肯定した。
 一同は内心首を捻った。あれだけ能力者を無効化する事に心血を注いでいた彼が、何を思
って胡太郎の寄生体をわざわざ戻すような真似をしたのか。
 その疑問を誰かが呟くよりも早く、三枝が立ち止まって言った。
「君達が言うように、本当に力そのものに悪はないというのなら……証明してみせろ。君達
自身で自分達の力が悪ではないと証明してみせろ」
 それは、彼からの宿題でもあった。
 肩越しに胡太郎達六人を見遣りながら、三枝は告げる。
「……私は職業柄、人を疑う事には慣れている。それは多分、私生活でも同じだろうな」
 見逃すのではない。そう言っているかのように。少し自嘲を織り交ぜながら。
「もし君達がそれらに挫折したのなら、諦めたなら。或いは力に取り込まれるような事にな
ったなら……私は今度こそ君達の力を喰らいにいく」
 歩く速度はゆっくりだった。
 それでも胡太郎達は縛られたようにそこから動けずに、再び身体も視線も背を向けた彼の
立ち去っていく姿を見送るしかない。
「せいぜい『正義の味方』を演じてみせるがいいさ」
 その言葉に篤司の眉間に僅かな皺が寄る。
 夕陽の差し込むシャッターを潜り、三枝は足音と共にその姿を消していく。
彼が去って暫く、胡太郎達はその場に立ち尽くしていた。
「……これって、どういう事?」
「さぁ……。一応、見逃してくれたって事じゃねぇのか?」
「……次に会った時は今度こそ狙われるようだがな」
 徐々に緊張の呪縛が解け、各々にじわじわと実感を伴う安堵がやって来る。胡太郎達はお
互いを見合わせて、ややぎこちないままながら無事を喜び合った。 
「ごめんね……」
 胡太郎は再び謝っていた。独りで先行した事、その為に皆を危険な目に遭わせた事、能力
者である事をずっと黙っていた事。何より、三枝の心を変えられなかった事を。
「だから気にしなくっていいっての。ね?」
「ああ。さっきも言ったろ?」
 それでも仲間達は笑っていた。ここに来た事は当然だと言わんばかりに、むしろそうした
行動自体を誇っているかのように。ポンと肩を叩かれる。
「そうだ。そんなに気に留めなくたっていい」
「わ、私はコー君が無事だったから……それで」
「……そういう事だ」
「……ありがとう」
 今更ながら、いい友を持ったなと胡太郎は思った。それでも恩を受けっぱなしというのも
頂けないとは思ったが。今度、何か皆にお礼をしないといけないと。そう心に留めておく。
「さてっと。とりあえず一件落着って事で」
 晴市がそうし切り直して皆を見た。否、胡太郎を見ていた。
「帰ろうぜ」
「…………うん」
 投げ掛けられた言葉に胸が温かくなるのを感じながら、胡太郎は笑みを浮かべる。
 遠いあの日と変わらない、屈託のない太陽のような笑顔。かつて薄暗い場所から自分を引
きずり出してくれた三人から今では二人、そして自分が加わり六人の仲間。
 空は深く茜色に染まり、やがては夜の色へと変わっていくだろう。
 長い一日が、終わろうとしていた。


 見上げた白亜の棟は茜色の光に照らされていた。
 三枝は小奇麗に手入れされた花壇の並ぶ正面玄関を潜り、白亜の建物・市民病院へと足を
踏み入れる。夕暮れ時の緩慢な空気と、病院という場所特有の潔癖を志向する故の臭いが静
かに互いに交じり合い、漂っている。
 ぼんやりと何かを待っている患者、互いに雑談を交わしている者、その中を縫うように行
き交う病院スタッフ達。それぞれを意識は遠く、視界の片隅に捉えながら三枝は奥へと続く
通路の入口に位置するナースステーションへと足を運んだ。
 中では数人の看護師が動き回っている。三枝が呼び掛けると、まだ歳若い女性が応対して
きた。まだ現場の苦しさよりも楽しさが勝っているのか、それともそういった所作が身につ
いているのか、少々過ぎる営業スマイルを見せてくる。
 三枝は早速、用向きを伝えて目的の人物のいる病室を訊ねた。
「ご家族の方でしょうか?」
「……知人だ」
 特に他意はなかったのだろう。だが、三枝は深く踏み込む事もなく手短に返答した。
 わざわざ自分の身分を明かす必要性もない。彼女は特にそんな三枝を怪しむ素振りなどは
見せず、あっさりと目的の病室番号を教えてくれた。
「どうも」
 軽く簡潔に言い、三枝は踵を返した。
 夕陽が適度に遮光されて差し込む茜色は穏やかそのものだったが、三枝の表情は硬い。通
路を歩く度にコツコツと小さな足音が院内に染み込む様だ。
 エレベーターの前で上昇ボタンを押し、暫し待つ。
 開いた扉の中の中年女性が一瞬、三枝の強面を見て動きを止めたが、そのまま心持ち避け
るようにして出ていく。そんな彼女とすれ違うように乗り込んだ。目的の階数のボタンを押
してからボックスの隅にもたれ掛かる。少しの間を置いて扉が閉まって動き出す。
 微かな振動を足元や背に感じながら、暫し目を瞑って沈黙の時間。
 やがて、チン……という少々間の抜けた機械音と共に扉が開いた。三枝もゆたりと眼を開
いて歩き出す。ややあって背後で再びエレベーターの箱は別の誰かの求めに応じて駆け降り
ていったようだ。
 すれ違い際に静かに会釈を投げ掛けてくる、杖をついた老人に一瞥をくれてやり、三枝は
病室の番号を確かめながら進んでいく。目的の病室がそこにあった。
「ん? どうぞ」
 念の為にドアをノックする。
 聞こえてきた少々荒っぽい声色を確認して扉を開いた。
「げっ……」
「あ、あんたは……」
 入ってきた三枝の姿を認めて、病室にいた二人の青年、熊沢と坂上は驚きを隠せないよう
だった。両者共に身体中を包帯で固められており、ベッドの上で退屈そうにしていたふてぶ
てしい態度から一転、苦手な教師に説教をくらう前の生徒のように身構えている。
 横開きのドアが、背後で自動的にゆっくりと閉まっていく。
「い、意外だな。あんたも見舞いか?」
「……私以外に誰か来たのか?」
「あぁ、親が一度な。あと古手川が」
 室外の物音が遠くに聞こえてくるような気配。ぎこちなく熊沢の返答が返ってくる。
「古手川が?」
「ご丁寧に今回の顛末を聞かせてくれたよ。まぁ、そんな事言われなくても俺達は見ての通
りのやられっぷりだからね。予想はついていたけどさ」
 短く問い返す三枝に、坂上が代わりに答えていた。陰気な声色はそのままだが、交戦当時
を思い出しているのか、表情には余裕は見られない。
「……氷室は?」
「さぁ。見てねぇな。まぁ元々何考えてるか分からねぇ奴だったけど」
「……そうか」
 三枝は数歩進んで二人のベッドの足元、熊沢と坂上の間に立った。
「で、何の用だよ? ご丁寧に見舞いってわけでもねぇんだろ」
 一抹の警戒と不審を以って熊沢が問うていた。仮にも一時行動を共にした者同士。三枝が
自分の目的の為に利用した不良の一人一人を丁寧に見舞うような、不逞の輩にまで温かみを
表に出す人間ではない事は既に二人には勘付かれている。
「……まさか、また標的を見つけたとか? 無理だよ。今の状態を見れば分かるだろう?」
 坂上の怪訝の視線。
 しかし、三枝はそれに見向きもしないで立っていた。代わりに熊沢の方をちらと見遣り、
コートのポケットに突っ込んでいた左手を出す。
「心配するな。もう、お前達にそんな真似はできない」
 掌から横線が走り、眼無しの蛇がせり出てきた。その言葉と能力の兆候。それらが意味す
る事を察知し、二人の表情が強張った。
「ちょ、ちょっと待て。まさか」
「そのまさかだ」
 刹那、サッと翳された掌から眼無し蛇が熊沢の胸倉目掛けて襲い掛かっていた。
 熊沢が「がっ!?」と短い声を上げる中、彼の身体は胸倉を中心に波紋が揺れ立ち、ピク
ピクと彼の表情がどんどん引き攣っていくのが分かる。
「や、やめ……っ」
「…………」
 抵抗しようにも、怪我をして動けない身ではどうにもならない。
 僅かに声を出そうとする熊沢の意志を無視して、三枝は眼無し蛇が獲物を捕らえた感覚を
察知するや否や、ずいっと左腕を引き寄せる。瞬間、熊沢の身体から隆々とした肉体の──
まるでゴリラのような異形が眼無し蛇に首根っこを掴まれた状態で引きずり出され、あっと
いう間に何倍にも大きく開いた蛇の口の中へと飲み込まれていく。
 ガクリ、と熊沢が頭を垂れてぼうっとしていた。
 三枝は引き寄せた勢いを全身で受け止めつつ、掌の中に再び納まっていく眼無し蛇を、拳
を握って押し込め直す。
「ひ、ひぃ……」
 束の間の余韻。熊沢の寄生体がしかと喰らわれたのを感覚で確認して、三枝はゆっくりと
坂上の方に向き直った。熊沢以上に自由に身動きできないベッドの上で、坂上は顔を恐怖で
歪めながら必死に逃げようとしている。
「ま、待ってくれ! 俺はこの通りろくに動けないんだって……」
「…………」
 それでも三枝は聞く耳持たずといった様子で黙ったまま、ゆっくりと坂上の傍らへと距離
を詰めてくる。再び左掌からは眼無し蛇がせり出し、次なる獲物を狙っている。
「お願い、やめ──」
 そして坂上が思わず叫びそうになった瞬間、三枝の右手が彼の口を覆っていた。
 もごもごと声にならない叫びと、恐怖と緊張で目を見開いた視線の先の、迫る眼無し蛇。
坂上が胸倉に違和感を覚えたのはそれとほぼ同時の事だった。身体の「内部」で蠢き弄る眼
無し蛇の感触。引き摺り出される、体内の感覚と一体化していた自身の寄生体。
「や、め……」
 ぴたりと押し当てられた三枝の左掌が一瞬、ビクンと大きく波打った。
 同時に坂上の全身から力が、何か大きなものが抜け、仰け反るように呆然となる。
「…………」
 三枝はゆっくりと掌を離した。するすると掌の中へと眼無し蛇は撤収していき、左手ごと
再びコートのポケットへとしまわれる。ベッドの上で呆然と佇む二人に踵を返し、
「これでもう、お前達と会う事もないだろう」
 三枝はそう呟いて病室のドアに手を掛けていた。
 
 途中、自販機で買った缶コーヒーを開けて、三枝はベンチに腰掛けた。
 場所は屋上。たくさんのYの字型の金属棒が林立し、それらの間に何本も物干し竿が掛け
られている。時間帯からして大方は取り込んだ後であるらしかったが、それでもまだ数枚の
シーツが物干し竿と洗濯バサミに食い止められ、風に煽られて靡いている。
 当面の用事を済ませて、三枝はとりあえず人心地をついていた。
(氷室と古手川は逃がしたが……まぁいい。いずれ見つけてやるさ)
 彼らとの協力関係の解消。そして、ゼロからの能力者狩り。
 苦味が口に広がるのを感じながら、三枝は少々自分を嘲る気分になった。
(彼らに、感化されたとでもいうのか……私は)
 受けた報いは当然なのだろう。どれだけ自分が能力者の危険性を説いても、彼らにとって
はそれよりも仲間に手を出された事の方が重要だと。
 寄って集っての非難の眼。
 仕事柄恨まれるのは慣れていたつもりだったが、それでも刺さるものを感じたのはやはり
自分でも狂気に染められていた事への自覚があったからなのだろうと思う。
 それでも彼らに迎合する、折れる素振りを見せなかったのは、それでも息子の死の元凶、
能力者という存在を許せなかったからか。それとも単に大人としての面子の為か。どちらに
しても易々と退けなかったのは違いない。
 一応、これでも自分は周りからは強面の人物と評されているようなのだから。彼らがそう
であったように、自分にも譲れない部分というものはある。それが愚かと言われようとも。
 大人という生き物は得てしてそういうものではないか、とも思う。
 ──それにしても。
『……ただ彼は、あなた達夫婦に幸せでいて貰いたかっただけなんじゃないんですか?』
『ただ、能力によって苦しんだからじゃない。彼はあなたに死を以ってしてでも不和を変え
て欲しいと訴えたかったのかもしれません……今ではもう、確かめる術はありませんが』
 あの少年の、
『あの……。能力者ってそんなにいけない事なんでしょうか?』
『能力者の力は、その人が持っている願いが作ったんじゃないかなって』
 あの少女の言葉がまだ脳裏を過ぎる。
 直接ぶつかりに来るほどの度胸はない。だが、通り過ぎた後、じっと遠くの方からこちら
の様子を窺い続けているような、視線に晒されているような感覚。
 能力者が、彼らの力が悪ではない。
 そんな事など考えもしなかった。それだけ息子の死に囚われていた証ということなのか。
しかし、そんな都合のよい性善説をすぐに飲む込む気にはなれなかった。彼らもまた日々
お人好しが世界を回す事ができないであろう現実を知っていようものだが。
 信じること。個人の心に任せること。
 思えば自分は大小様々な悪人を見てきている内に、それらとは正反対の方向へと引き摺り
込まれていたのかもしれない。だからこそ、あの場で彼らを試すように言い放って見逃すよ
うな真似をした。
 彼らは何処にでもいる平凡な学生達だ。
 お世辞にも清廉な心を託すに相応しいとは言い切れないかもしれない。
 それでも、試したくなったのはどうしてだろう。
 それでも、もう一度信じてみたくなったのは何故だろう。
 私は、確かめたかったのかもしれない。本当に、息子は能力自身に殺されたのかを。それ
は、可笑しいと言えば可笑しな話でもある。彼らによって本当に証明される確証など、もう
何処にも遺っていないのだから。
(…………正治。お前は何を考えていたんだ)
 もう、聞く事のできない相手に心の中で呼び掛ける。
 能力者の力は願いの結実だとすれば……私は、どれだけ彼とすれ違っていたのだろう。
 否、私だけではない。この夕暮れの街の中にも人の数だけ和解と、それ以上のすれ違いが
ある。気付けなかった私が悪いのか。自死という形でしか訴えられなかった結末を嘆くべき
なのだろうか。だけど悔やんでももう、息子は帰ってこない。
 幸せになって欲しいと願っていたのなら、死んでくれるな。それは親の我が侭なのか。
(……やはり、そう簡単に消えてはくれないよ)
 まがりにも所帯を持った身。だからこそこの無念、晴らさずにはいられないのだ。
 たとえ、それが自己満足でしかないと糾弾されようとも。非が自らにあってでも、確かに
この胸に悲しみが深く刻まれているのだから。
 だけど、これからはもう少し会話をしてみようかと思う。
 亡き息子や、幸か不幸か力を手にしてしまった者達と。同じ悲劇を起こさぬように。
「…………」
 三枝は残りの缶コーヒーを飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。
 夕暮れの日差しが、屋上に吹く風と共に降り注いでいる。三枝は少しだけ気が楽になった
ような気がした。誰にともなく「ありがとう」と小さく口の中で呟いてみる。
 柄ではない。気恥ずかしかったが、何処か心地良かった。

 陽は沈み、やがて空は夜の闇に変わるだろう。
 天気は晴天。今夜も天上に数多の星が瞬く。
 あの日と同じ夜空。流星群が、始まりが降り注いだあの夜空に。
                                      (了)

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
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Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

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