日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(短編)奴らは攻城戦師

 今、世の中は混沌(カオス)で満ち溢れている。
 政治も経済も、それらを形作る人々も、道筋の見えない現在と未来に戸惑い、矮小な醜さ
と防衛心に囚われているかのように思われる。
 物質的には成熟しているように見えるこのコンクリートの森の如き街並み。
 しかしその裏側では人々の精神は苦悶し、迷い続けている──。
「ふぁ~……。暇だ……」
 そんな灰色の街の片隅に、彼らの事務所はあった。
 雑居ビルの一室。決して広いとは言えない彼らの本拠地。
 そのデスクにどうっと突っ伏して、メンバーの一人であるガタイの良い男性が呟いた。
「暇じゃないですよ~。まだ前の仕事の書類事務、終わってないんですよ? ちょっとは手
伝って下さいよ~、武藤さん」
「うあ? 無茶言うなって。俺は肉体労働専門なんだよ……」
 そんな彼になよっとした言葉を返すのは、もう少し年下らしき線の細い青年だ。
 だがそんな小言は茶飯事なのか、武藤は突っ伏した姿勢でちらと目を遣るだけで面倒臭そ
うに語尾を伸ばしてぐにゃりと脱力。
「ま、体力馬鹿だけどそれが取り得だからね。亮馬は」
「うっせーよ」
 そんな二人のやり取りに、上座の位置にあるデスクで淡々と書類を捌いていた柔和な微笑
の男性がそっと割って入った。
「ふふっ。でも実際問題としてうちは僕と亮馬、内田君の三人だけなんだから。彼の苦労も
分かってあげなよ。それがチームってものでしょ?」
「……はいはい。そうですね~」
 そして所長(といっても三人だけだが)たるこの相棒に言い包められるのも、この武藤の
茶飯事ではあった。
 むくりと億劫そうに身体を起こして積まれた書類の山を手に取ると、武藤もまた二人の書
類雑務に加わる。
 外からは現在文明が奏でる街の喧騒が耳に届いてくる。
 こうしている間も、人々は物質の豊かさの中で多くの苦難に直面しているのだろう。
 時にそれは拗れに拗れ、当人らだけではどうしようもない泥沼に陥ってしまう事も珍しく
なくなっている。
 だからこそ……彼らのような専門の“業者”が、今日街には散在しているのだ。
「──んぁ?」
 そうして黙々と事務仕事をこなしてどれだけの時間が経ったのだろう。
 ふと小さなオフィスに電話のコールが鳴り響いた。
 片眉をついと上げて退屈そうな顔を上げる武藤。するとそんな傍から見れば少なくなく強
面にすら見える表情と視線から逃れるように、内田が優しい声色でそのコールに応対する。
「はい、もしもし~。こちら三ツ谷攻城事務所です」
 営業スマイルの第一声。
 だが相手側からの応答があったのだろう。内田のその微笑みにサッと真剣味が混じった。
「……チーフ。クライアントです」
 そして受話器を胸元に添えて視線を上座の彼へ。
 その言葉に、武藤も何処か元気を取り戻したように心なし目を見開いている。デスクから
立ち、一方で微笑を崩さないままこの小さなオフィスの所長は内田と代わって言った。
「もしもし。所長の三ツ谷です」
 ややあってコクコクと所長・三ツ谷は小さく頷き始めた。
 今回のクライアント──相談者の紡ぐ言葉から概要を把握しようとしているのだ。
 武藤も内田も、暫しその様子をじっと見遣っている。
「分かりました。では先ず詳しい話を伺いたいと思います。お時間は取れますでしょうか?
はい……そうですね。事例も事例ですから、できるだけ早い方がいいかと。ええ……」
 やがて三ツ谷は何やら段取りを始めた。
 近くにメモ紙を引き寄せ、サラサラとペンを走らせて覚書を作る。くるりとペンを指と指
の間で回し、懐から自身の手帳を取り出すとスケジュールを確認してから言った。
「──分かりました。ではそのお時間でお待ちしております。場所は分かりますか? そう
ですか。はい、では……」
 そして最後に確認と配慮を見せ、三ツ谷はその電話応対を終えた。
 カチャンと小さく受話器が下りる音がする。自分のデスクに戻ろうと前を横切る彼に、武
藤と内田はおずと声を掛けた。
「誰からだ? 仕事の依頼か?」
「……聞いていた限り、アポみたいでしたけど」
「ああ」
 薄眼鏡のブリッジを軽く押さえ直して振り向き、三ツ谷は応える。
「新しい依頼だ。これからクライアントがうちに来るよ」

 それから一時間ほどして三ツ谷らの事務所を訪れたのは、一人の女性だった。
 いや、厳密な表現をするであれば「疲労困憊した様子の中年女性」だった。見るからに疲
れ切った俯き加減な表情と、頭部の大半を侵略しつつある白髪がそんな印象を殊更に強くし
ているように思える。
「──ふむ。では要約すると今回の依頼は息子さんを救い出して欲しいという事ですね?」
「はい……。もう私達だけじゃどうしようもなくて……それで、皆さんにお願いを……」
 三ツ谷と内田が中心となって、三人は暫し依頼主であるこの夫人の話に耳を傾けていた。
 どうやら今回は個人的な標的を処理するケースであるようだ。
 眼鏡の奥で静かに目を細めている三ツ谷。ぐったり項垂れ、力の出ない懇願をする夫人。
そんな彼女に、内田はほっこりと温かい二杯目のお茶を給仕して無言の苦笑を見せる。
(なぁ、恵一郎。この依頼、受ける気か?)
(うんそのつもりだよ。実際こうやって話を聞いちゃってるし。……嫌かい?)
(別にそうじゃないけどさ。ほら、こう個人的なケースはあんまり安易に『城攻め』しちゃ
逆効果になる事もあるだろ?)
 それまでじっと後ろで話を聞いていた武藤が、こそこそと三ツ谷に耳打ちしてきた。
 決して頭がきれるタイプの人間ではなかったが、この業界に比較的長く身を置いている武
藤にしてみれば、今回のようなケースはハイリスク・ローリターンになりがちだと知ってい
た。それ故の確認であった。
(それは一理あるね。でもその後のフォローが要るかどうかは、僕らの仕事の範疇外だ)
 だが三ツ谷は同じく小声で斜め後ろの彼にそう答えてみせた。
 そう。あくまで自分達は『城攻め』を担う業者。その後の細やかなフォローはもっと専門
的な技能の者達がいる。
 確かにこの業界に身を置いている時点で“お節介”なのかもしれないが、あくまでこれは
仕事。食い扶持稼ぎ。己の領分は弁え、適切な距離感は決して越えない。それが自分達に課
しているルールなのだから……。
「あの、所長さん」
「何でしょう?」
「え、えぇ。その……やはり引き受けては下さりませんか? 庶民の問題はやっぱり」
 そんな三人の様子にか、それとも卑屈になってしまった自身の心理が呼び起こしたのか、
ふと夫人は不安な表情はそのままに訥々と訊ねてきた。
 思わず「しまったなぁ」とバツが悪そうに苦笑いを漏らす武藤。
 だが三ツ谷は作った微笑みを崩すことなく、はっきりと返答をした。
「そんな事はありませんよ。お引き受けします。できる限りご期待に添えるように尽力させ
て頂きますよ」
「ほ、本当ですか……? ありがとうございます……!」
「いえいえ。そんなに畏まらないで下さい。僕らはまだ何もしてないですしね」
 掴もうとした藁を掴め一先ずの安堵を感じたのか、夫人は深々と頭を下げた。
 三ツ谷の横で微笑む内田と、心なし目を逸らしたまま何事か──おそらくはこの依頼の行
く末を考えているのであろう武藤。
 だが頭を下げていた夫人は、ハッと思い出したようにおずおずと顔を上げる。
「あの……。それで、報酬の件なんですが、一体幾らほど用意すれば……?」
「ああ。その事ですか。いいんですよ。基本的にうちは『城攻め』が成功してから交渉する
スタンスを採っています。前金も受け取りません」
「え……。そう、なんですか……?」
 無理もない。いくら困りあぐねているといっても、手数料などと銘打って大金を請求され
るものだと思っていのだろう。しかし戸惑う夫人に、三ツ谷は営業スマイルのままそうはっ
きりと宣言していた。
「ま、そういう事っすよ。うちの所長さんは奇特な奴でしてね。仕事が成功しないと金なん
て要らないっていうんですよ……。お人好しというか何というか」
「いいじゃないですか。俺は好きですよ、そういうの」
 応接用のソファの後ろでは、武藤と内田が各々に苦笑と微笑で述べていた。
 それを聞いているのかいないのか、或いはそんな仲間二人の反応すらもう把握済みとでも
いうのか、三ツ谷は特にそれらの言葉に反応するでもなく事務手続きを開始する。
「では契約書を交わすとしましょうか。亮馬、内田君。そっちは装備の方をよろしくね」
「はい、分かりました。じゃあ行きましょうか、武藤さん」
「おうよ。へへっ……腕が鳴るぜ」
 目標はこの夫人の息子を“攻城”すること。
 三人は、依頼を受けて動き出し始めたのだった。

 ターゲットの居場所はごく普通の小さな一軒家の一室にあった。
 準備を整え、夫人に案内されて三人は緩やかなスロープ型の木製階段を上っていく。
「──念の為に確認はしておきますが、今回の事ってご本人には話しちゃってますか?」
「いいえ……夫には相談しましたけど。そもそも長い事まともに話してもいませんし……」
「そうですか……」
「まぁ、事務所で話を聞いたとはいえ用心はしておいた方がいいな」
「だね。二人とも、くれぐれも気を抜かないように」
「はい」「ああ。勿論だ」
 だがそんな彼らの格好はある意味では奇妙で、ある意味では真っ当だった。
 三人が着込んでいたのは防弾チョッキよろしくな防護服。サバイバルゲームを嗜む者が装
備するような格好によりリアルさが加わったものと表現すればよいだろうか。
 武藤に三ツ谷、そして内田。
 それぞれの手には二刀の手斧、鎖付きの長い刺叉、筒のような長銃が握られている。更に
共通してはゴツゴツとした装置の取り付けられたゴーグルが頭に乗っかっており、各人の背
にある小振りのリュックの中へとそれら装置から延びるケーブルが続いている。
「……此処です」
 ややあって階段を上り切った先、二階の奥まった一室のドアの前で夫人は足を止めた。
 ドアの向こうの相手に聞こえぬようにだろう。彼女も、そして三人もできる限り息を殺し
音を立てないように小声を守っている。
(それでは始めます。危ないので、下がっていて下さいね。亮馬、内田君)
(おう。何時も通り一気に落とすぞ……。巧)
(はいっ)
 言われて、最初にドアの正面に立ったのは内田だった。
 ガチャリと手にしていた長銃の銃口をドアに向ける。その隣で三ツ谷が空いた片方の手で
三、二、一……とカウントを取る。
(零っ!)
 そして次の瞬間、筒の口先から出た轟音と衝撃と共に目の前のドアが吹き飛んだ。
 もくもくと埃が立ち上る視界。次弾を装填する左右を、得物を手にした武藤と三ツ谷が駆
け抜け部屋の中へと突入していく。
「なっ……、何だお前らっ!?」
 部屋の中から聞こえてきたのは一人の男性の驚きを多分に混ぜた怒声。
 だがそんな声色も、周囲に散乱した生活ゴミと何より彼自身の不精な髭面の所為で何処か
鈍重にすら感じられる。
「勝手に入って来やがって……! ここは俺の──ぐぶっ!?」
「知ってますよ。初めまして。今日は貴方のお母様に依頼されて『城攻め』に来ました」
 もぞもぞとこの急襲者を追い払おうとする不精の男性。
 しかしその動きも一瞬、彼の胴回りはガッシリと三ツ谷の突き出した刺叉によって捕らえ
られてしまっていた。更に手元のレバーが引かれ、その柄先はよりギチギチと狭く締まって
その動きを封じに掛かっていく。三ツ谷は空いた方の手で懐から専用の証明書類を取り出し
てみせると、フッと営業スマイルを浮かべた。
「亮馬、内田君」
 二人の名を呼びちらりと一瞥。
 すると既に二人は三ツ谷と男性の左右を囲むようにして、二頭の手斧と筒型長銃を構えて
いた。更に──頭に乗せていたゴーグルをしっかりと両の眼に下ろしていた。
「おうおう。こりゃあ随分しっかりと固められてるじゃねぇか」
「えぇ、骨が折れそうですね……。でもやらないと」
「その意気だ。恵一郎、そいつしっかり抑えておけよ」
「ああ。分かってるよ」
 そして言うや否や、二人はおもむろにその得物を遠慮なく振るい始めた。
 鈍く鋭く轟音に。急ピッチで荒らされていく──ように見えるこの男性の部屋。
(……さて。今回はどれくらいの時間が掛かる事やら)
 二人に倣い、スチャッと頭のゴーグルを下げた三ツ谷。
 そのゴーグル越しの視界には、捕らえた男性を中心に部屋全体に広がる“無数の鎖や塀、
柵”が映っていた。
 それはまさに『城』。この男性が抱える己の牙城、今回のケースの場合では「引き篭もる
己の闇」そのものであった。
「や、やめろぉ! 俺の部屋を……城を壊すんじゃねぇっ!!」
 身を捩りながら男性は無精髭を揺らして叫んでいた。
 だがその身体はしっかりと三ツ谷の刺叉によって拘束され、動かす事はできない。
「ふっ、らぁぁっ!」
「ここの継ぎ目を撃てばこのラインが崩れて……」
 その間も武藤の二刀斧が、内田の射撃が彼らのゴーグル越しに映る『城』の守りを次々と
破壊していく。
 崩れていく防壁。城は徐々に形を成さなくなっていく。
 そしてそれに比例するかのように、捕らえられていた男性は徐々に魂を抜かれたかのよう
に大人しくがくりと頭を垂れて沈黙し始める。
「よーし、大分いい感じだ。そのまま続けてくれ」
 そんな今回のターゲットの様子を一瞥して、三ツ谷は言う。
 そう……これが彼らの仕事。人の『城』を壊してわだかまりを排除することだ。

 ──と、もしこんな風に拗れに拗れた色んな問題をフィジカルに一刀両断できたのなら、
僕らは一体どれだけ楽になれることか……。
                                                (了)

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  1. 2011/06/26(日) 10:00:00|
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(短編)色眼鏡

 近くの堤防の土手を歩いていると、その眼下の斜面の方に一組の男女がいるのが見えた。
 緩やかな斜面の中ほど。そこに彼らは中睦まじげに互いに寄り添っている。
(……黄色、か)
 眼鏡のブリッジを軽く押さえてから改めて目を凝らしてみれば、彼らをやんわりと優しく
覆っている黄色の“オーラ”が見えてくる。
 確か、彼の説明では……この色合いは喜色だったか。
 やはりあの二人はカップルなのだろう。私以外にもちらほらと土手の上を通っていく人々
がいるのに昼間からああしていちゃついているという事は、まだ付き合い始めて日が浅いと
見える。まぁ、だからこそあそこまでお互いに“浅く”寄り添えているのだろうが……。
 そうして暫く土手の上からそれとなく目を遣っていると、ふと女性の方が傍らのバッグの
中から弁当箱を取り出していた。
 手作り弁当。うむ、ありがちだ。今日は休日だし絶好のデート日和な訳なのだから。
 女性は傍らの彼氏と何やら嬉々として語り合いながら、箸で摘んだおかずを彼に差し出そ
うとしている。所謂「はい、あ~ん」という奴だ。
「…………」
 二人は背後の見下ろす私には気付いていないようだったが、何だか見ているこっちが恥ず
かしくなる。思わず正視に困って視線を逸らし気味にしたものの、眼鏡越しに窺える彼らの
色合いはますます優しい黄色に染め上げられていく。
 日差しも穏やか、のんびりとした昼下がり。
 こうして甘い一時を過ごせる若者達がいるというだけでも、この国は何だかんだと言って
も平和なのかもしれないと思う。
(……あまり、長居してもこっちが妙に手痛いだけだな)
 恋は盲目などとも云う。そして私には、彼らの黄色く染め漂う空間が見える。
 じっと見てみても何かある訳でもあるまい。
 もう一度だけ眼下の微笑ましいこの若者達を見遣ると、私は再び足を踏み出していく。

 暫く行くと住宅地の中に入った。
 同じく日差しは穏やかだが、こちらは先程のような自然的な静けさはなりを潜めてしまっ
ているかのように思える。
 変わりに周囲を包むのは何処か──当然といえば当然だが──人工的な淡々とした若干の
冷たさを伴う閑静。
 私は人気もまばらなその町並みの中を、のんびりゆっくりと散策する。
「──このバカ! また凝りもせずに……!」
 するとややあって前方から何やら怒鳴り声が聞こえてきた。
 半ば無意識に注意深く、そして同時に好奇心に押されて、私はそ~っとその声のする方向
へと歩いて行ってみる。
 そこには一組のまだ若いと言っていい年代層の男女がいた。
 一軒の家(周りにも似通った家が並んでいる事からおそらく借家だと思われる)の前で、
二人があるものを挟んで立つ格好で口論になっていたのだった。
 鎮座しているのは一台のオフホワイトの自動車。
 この手の話題には疎いが、少なくともそこら辺の乗用車には見えない。手入れも大事そう
に施されている事もあってその車は中々の高級車種であるようだ。
「やかましい! 素人の癖して俺の趣味にケチつけるんじゃねぇ!」
 エプロン姿の女性がややヒステリックに叫ぶ。それに物怖じすることなく、むしろ逆鱗に
触れられたように如何にもといった遊び好きそうな若年の男性が売り言葉に買い言葉。
 どうやら目の前のこの高級車、彼が買ったもの──趣味の一環であるらしい。
「つけて当たり前でしょう? 他の事ならまだしも、無計画に買い漁るなんて……! どれ
だけ家計が圧迫されてるか分かってるの!?」
「だからお前もパートに出てるだろう? それとも何かよ。俺の稼ぎじゃ不満か? 俺の金
に目が眩んでくっついてきた癖しやがって」
「──ッ!! あ、あんたって人はーッ!!」
 嗚呼……。所詮好きあってもくっつけばこんなものだよなぁ。私は苦笑しながら思う。
 少し離れた位置から眼鏡越しにこの若夫婦を見ると、やはり案の定──特に妻らしき女性
の方の周囲が真っ赤なオーラに染まっている。分かり易い怒りの色だ。
 男を翻弄する女性。男に泣かされる女性。
 昔から男と女、どちらが罪深いかといった語らいは存在するが、正直男だから女だからと
いう理由づけはあまり的を射ないのではないかと思う。世の中には……悪漢と呼ばれる男も
いれば、同じくくらい──往々にしてその多くは男よりもずる賢くこっそりと──悪女と呼
ばれる女もいるものだ。それは人間の善悪であって、男女という線引きでは計れない。
(……さて、巻き添えを食わない内に退散するとしようか)
 まだおそらくあの喧嘩は続くだろう。
 私は苦笑と嘆息を半々に混じらせつつも、その場を後にする。

 そうして住宅地の中を通っていると、ふと私の目に留まったものがあった。
 そこは小さな公園らしきスペース。植木とやや古びたフェンスの向こうで、一人の中年男
性がぽつねんと頭を垂れてベンチに腰掛けていた。
 周囲では若干名のあどけない子供達がワイワイと遊び、駆け回っている。
 しかしそんな元気な様とは対照的に、その男性は陰気に独り佇んでいるように見える。
「……ふむ?」
 私はくいっと眼鏡のブリッジを押さえ、植木の陰とフェンス越しから彼の姿を見つめた。
 すると目に映ったのは、淡く儚い青のオーラ。それらがまるで草臥れたスーツ姿の彼の心
情を体現するかのように静かに周囲に漂っている。
 それは哀しみの色だった。
 休日にもスーツ姿でぽつねんと。しかも真昼間に。
 暫し遠目にそんな彼の姿を見遣ってから、私は幾つかの可能性を思い描く。
(何か仕事に悩んでいるのか。或いは……もう)
 リストラ。私達にとってこれほど身を危うくするフレーズは無いだろう。
 幸い私は脱サラ後、友らと共に興した小さな会社で奮闘し、今でこそ何とかささやかなが
らも食べていけている。だが、世の中の多くの者は自分を商品にして日々の糧を得る選択肢
を取らざるを得ない筈だ。
 しかしそれでも望んだ相手から、或いは漠然とした全体としての世間からその商品として
の自分を拒まれてしまったら……? 
 それは己の人格を傷付けられ、否定されたに等しくなるのではないだろうか。
「……」
 私は、胸が締め付けられる思いだった。
 もしかしたら、あそこで頭を垂れていたのは私だったかもしれない。いや……この先その
ような未来が訪れてしまうかもしれない。未来は不確かなのだ。
 しかし安易な同情や差し伸べる手は残酷である事も知っている。まだ私達の会社が軌道に
乗る前の話だ。人の厚意を逆恨みするのは醜いことと思うが、それでも結果して悪い方向に
転がってしまえば受けた施しすらも憎しみの糧に変わってしまいうる。
 真心と損得が共存することは、難しい。
(……そろそろ、戻ろうか)
 ベンチの彼を責めるつもりは更々無いが、やはり陰気は伝播するなと思う。
 黙して沈んだままの彼に背を向けるかのようにくるりと身を翻した後、私は心なしか重く
なったように感じる足取りで歩き出していく。

 閑静な空気と私の沈んだ空気を掃ってくれるかのように、ふと周囲が賑やかになった。
 商店がぐるりと建ち並び、休日の時間を楽しむ多くの人々が集う駅近くの緩やかな楕円形
状の広場。私はゆっくりと付近を散策して戻ってきたのだった。
(……お?)
 賑やかになった周囲の人の波に、内心正直陰気さが解されるような思いを感じて歩いてい
ると、視線の先に一塊の緩い人だかりを見つけた。
 耳に聞こえてくるのは少々稚拙ながらも活気な歌声と複数のギターの音色。
 人垣の隙間から覗いてみるに、どうやら若いストリートミュージシャンらが演奏をしてい
るようだ。
 すっかり中高年な私に、正直今の若者の音楽は分からない。
 ただそれでもはっきりしているのは、今ここに集まっている彼らとその観衆らが音楽とい
う媒体を通じて良い高揚と愉しさを見ているという事だ。
 眼鏡のブリッジをくいと押さえ、周りの人垣と演奏している若者達をざっと見遣る。
 バラつきはあれど、彼らを覆うのは一様に鮮やかで瑞々しい緑のオーラだった。愉しさの
色彩が視界一杯に満ちていた。
 やはり今の若者の音楽のスタイル、テンポにはついていけないが、その自作らしき歌詞は
断片的に聞こえてくる。
 今を楽しく。ちょっとだけ未来を備えて今を頑張る。それがこの先の自分を作る。
 陳腐ではあるかもしれないと思ったが、若者(かれら)らしいとも思った。何よりも先刻
より陰鬱に呑まれかけていた私にとっては良き清涼剤だった。
 時代は暗く辛い。それでも、次代を担う若者達に元気があればきっと何とかなる。
(……その為にも、先に生まれて生きて、今という時代を作ってしまった私達はきちんとそ
の責任を果たさねばならないのだろうな……)
 フッと賑やかに愉しむ人だかりの中で、ただ一人私だけは苦笑を浮かべる。
 外側と内側の高揚、襟を正す思いを抱きながら、私は彼らの中から抜け出していく。

「──やぁやぁ。どうだったかね?」
 そして私は、広場の片隅でこじんまりと露天を広げているとある老商人の所に足を運んで
いた。よれよれの幅広帽を被り、白い顎鬚を蓄えた彼は私が戻ってきたのを認めると柔らか
な微笑みを向けながら声を掛けてくる。
「ええ……。中々面白い眼鏡です」
 言って、私はそれまでつけていたこの眼鏡を外して軽く手に握った。
 この老商人曰く『人の内面の色を視ることのできる眼鏡』
 休日の散歩で通り掛かり、そう勧められた最初は半信半疑だったが「では一度試してくる
とよかろうて」と彼からこの眼鏡を手渡され、半ば流されるように近場を巡ってみるという
試乗……もとい試着を私はしていたのだ。
 だが、今は大分感想が変わっていた。
 直接相手に何かできるという訳ではないが、何を思っているのかがたちどころに分かると
いうのは、良い意味でも悪い意味でも面白いものなのだなと思ったから。
「そうかい。そりゃあよかった」
「……これも何かの縁です。一つ、買わせて頂きますよ」
「ほほほっ。毎度あり」
 少なくともぼったくりのようなものではない。価格も一般的な安物の眼鏡と大差ない。
 半ば気まぐれに近かったのだろうが、私は今日の散策の手土産にとこの眼鏡を買い求める
ことにした。

「では、私はこれで」
「あいよ。またのお越しを~」
 その男性は、去って行った。
 老商人はその立ち去り遠くなる後ろ姿を静かに見送る。
 広場は活気に満ちている。その中で自分だけはあたかもその喧騒から切り離されたように
ぽつんと片隅で露天を開いている。
 だが、それで充分だと私は思っている。
「…………」
 移ろう時間と、移ろう人々。
 個人的には商売というよりはこうして生の人間達を眺めている方が好きだったりする。
(……ふむ。しかしのぅ)
 カチャリとズレかけた自身の眼鏡を掛け直す。
 そのレンズ越しから見えるのは、広場全体を覆う多彩な色のオーラに包まれた人々。
 そして──先程、この物好きな商品を買っていった中年男性を覆っている不気味などす黒
い色のオーラ。
 老商人は残念だなと思った。中々良い人だと思っていたのに。
 だがこの眼鏡は視えるだけで、彼らを変える事はできない……。
 被り古したよれよれの幅広帽をくいっと片手で軽く掴むようにしながら、
「……あの旦那。近い内に死んじまう、か……」
 彼はそうため息混じりに、俯き加減になって呟いたのだった。
                                          (了)

  1. 2011/06/26(日) 10:00:00|
  2. 色眼鏡
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(短編)三者三盗噺

 ガタンと大きな音を立ててその部屋の住人は床に尻餅をついた。
 贅を尽くした赤い繊細な刺繍の施された絨毯。それだけを見てもこの家の主が相応の資産
家である事が分かる。現に今、この室内を飾る調度品はどれも高価なものばかりだった。何
よりも、ここが一つの部屋だと言ってもこの広さに庶民は驚くに違いない。
「もたもたするな。早く金庫を開けろ!」
 福本はニット帽にサングラス、マスクという即席の覆面で素顔を隠した上で、目の前で尻
餅をついて震えているこの屋敷の主たる老紳士にせっついていた。
 その手に握り、突き付けているのは刃渡り数十センチはあろう鋭いナイフの切っ先。
 強盗だった。福本は今、現在進行中で犯罪行為を実行していた。
 あたふたと力の抜けた足で部屋の隅にある金庫に齧り付き、震える手で金庫のダイアルを
回し始める老紳士。
(早く……。早く済ませないと……)
 だが震えているのは、福本も同じだった。
 人生初めての強盗。ナイフを握る己の手がガクガクと震えているのがはっきりと分かる。
 まさか自分がこんな事をするなんて思わなかった。だけど……もう時間がない。
 発覚すれば、捕まってしまえばお終いだ。だから素人ながらに入念に下調べをし、警備も
手薄なこの金持ちの隠居老人を狙った。
「い、幾ら出せば、いいんだ……?」
「……あ、あるだけ寄越せ。全部で幾らだ? げ、現金がいい」
「わ、分かった……。こ、ここには七百万ある。だから命だけは──」
「分かってる! それだけあれば充分だ!」
 金庫の中から出てきた、間違いなく人生で初めて見る分量の札束。
 この爺、老い先短い癖してこんなに金を溜め込んでやがったのか……。
 正直妬みと言ってしまっていい舌打ちをしてから、福本は叫んだ。そして同時に空いた方
の手で用意していた黒い大きなバッグにその札束を次々と放り込んでいく。
 ずしりと重い。これが金持ちの重み──いや、これが“人の命を買える重み”か。
 緊張と手の震えの中で全ての札束を押し込むと、今度は同じくバッグから粘着テープと縄
を取り出す。
「な、何を……?」
「悪いな。時間を稼がせて貰うんだよ」
 保険としてのナイフ(ぼうりょく)を突き付けたまま、福本は先ず老紳士の目と口を粘着
テープで塞いだ。次は両手と両脚。そしてその上から縄を巻きつけてきつく縛る。
 老紳士は目隠しされ束縛された形になった。
 福本はそのまま彼を部屋の隅、外からの死角になる位置に押し遣ると、ふぅと革手袋を嵌
めた手の甲で一度汗を拭う。
「む、ぐぐ……」
 老紳士は視覚と身動きを封じられもがいているが、少なくとも暫くの間は満足に動けない
筈だ。福本はテープと縄の残りを札束の詰まったバッグの中に押し込みファスナーを閉める
と、すっくと立ち上がり足早にこの豪勢な金持ちの部屋を後にする。
「……悪く思うなよ。俺には金が必要なんだ。大体、金持ち連中(てめぇら)は余分に持ち
過ぎなんだよ」

 入り口の上の『手術中』の赤ランプが消えた。
 観音開きのドアが開き、手術服の医師ら数名がストレッチャーに寝かされせた女性を運ん
でくるのが見える。
「せ、先生……。妻は……?」
 それを待ち侘びていたかのように、一人の男性がはたと立ち上がって近寄ってきた。
 ガラガラと車輪が転がる音がする。その中で、執刀医らしき男性は眼鏡の奥でややあって
からフッと真剣な表情を緩めてみせた。
「大丈夫ですよ、福本さん。手術は……成功です」
 そう告げられて、その男性・福本の顔に安堵の気色が浮かんだ。
 静かに若干息を荒げながら「そうですか。良かった……」と何処かやつれ気味な身体を、
胸を撫で下ろしている。
「岡部先生」
「ああ、分かっている」
 だがそのやり取りも数分。
 すぐに他のスタッフから声を掛けられて、この執刀医・岡部は彼らに頷いてみせた。
「では福本さん、私達はこれで。もう暫くお待ち下さい」
「は、はい。本当に……本当にありがとうございました……」

「お先です、岡部先生」
「ああ。お疲れさま」
 深夜になり、詰め所には岡部だけが残っていた。
 顔を出してから返っていく看護士に声を返した彼は、その足音が遠退き聞こえなくなるの
をしっかりと確かめるように耳を済ませてから、自身のデスクに納められたファイルを取り
出し、パラパラと捲ってゆく。
 今日は大変な手術だった。あの夫人の腫瘍は中々厄介な場所にできていた事もあり、摘出
には思った以上の時間を掛けてしまった。だがそれでも施術は成功。その後の経過も報告を
聞く限り大丈夫そうに思える。
「ククク……」
 岡部は笑っていた。いや、ほくそ笑んでいた。
 あれだけの手術をこなせたのだ。またこれで私の“点数”は上がった。
 実を言えばあの貧乏そうな男──福本が今回の手術代を用意できるとは思っていなかった
のだが。しかし一度受けてしまえばこちらのもの。予想外の収穫といえるだろう。
(……今回は十三パーセント程度といった所か。この辺りが限界だな)
 だが──本当は彼に告げたほど、手術代は必要ない。
 では何故か? 勿論、その差額をポケットマネーに換える為である。
 表向きは信頼された外科医。これまでのノウハウもある。慢心にも気を配っている。
(本当に、ザルな商売だよ。医者ってのは……)
 トントンと、岡部は眼鏡の下でにんまりと静かに笑いながら“収益”メモを指先でなぞっ
いた。金だけではなく、感謝もされる。患者は命を買うのだ。これくらいの利益、貰っても
罰など当たる筈がないのだ。……それが、医者という職業の特権なのだから。
「──むっ?」
 そうしていると、ふとデスクの上の携帯電話が着信を告げてバイブし始めた。
 こんな時間に一体誰だ? 急患ならば内線が鳴る筈だが……。
 岡部は少々疑問に思いながらもサッと手に取り、ディスプレイの表示を確かめる。

 すっかり暗くなった夜の公園。
 その一角のぽつねんと静かに地面を照らしている外灯の下に、彼女はいた。
 一見するとスーツ姿のキャリアウーマンのような。しかしそうだとしてもこの時間帯にこ
のような場所で佇んでいる理由にはならない。
「……君かな? 私を呼び出したのは」
 暫く彼女が何かを待つように立っていると、ふとこちらへ確認するような言葉が飛んで来
た。白衣こそ脱いだスーツ姿だが、それは間違いなく岡部だった。
「はい。お待ちしていました、岡部先生」
 待ち人が来たらしく彼女はにっこりと微笑みを返した。
 だが対する岡部の表情は厳しかった。逆光で表情を隠す眼鏡の凸面。そこからは生気の篭
った気色を探ることはできない。
「……用件は何かな。私は忙しいのだよ」
 ただ確かなのは、彼が強い警戒心を抱いているという事だった。
「あら、お分かりだと思っていたのですが。でもこうしてちゃんと足を運んでくださったと
いう事は認めてくれるのでしょう? ──貴方の点数稼ぎと手術代のピン撥ねについて」
 そして彼女の放った言葉に、岡部の警戒心は確信のそれへと変わった。
 ギロリと射殺すような眼差しを彼女に向け、そっとポケットに突っ込んでいた片手を動か
そうとする。
「駄目ですよ、先生。お医者さんなのに口封じなんて……。それに今夜私が帰らないと、知
り合い達にこの取材メモのコピーが転送されるようになってますから」
 そう言って取り出してみせた手帳が一冊。
 岡部は反射的にそれを奪おうと駆け詰めたが、彼女はひらりと身を交わしてふふっと笑っ
ていた。憎らしげに振り返る彼を小首を傾げて見つめ、手帳を鞄にしまってから言う。
「取引をしましょう」
「……それは脅迫の間違いではないのか」
「それはただの価値観の相違です。ふふっ、簡単な事です。この事を記事にされたくなけれ
ば毎月、この口座にお金を振り込んで下さい。お金はいっぱいあるでしょう?」
 笑って──いや哂って、彼女は一枚の名刺を岡部に差し出した。
 数秒躊躇っていた岡部だったが、やがてそれをふんだくるようにして手に取る。
 そこには「フリージャーナリスト・小嶋智佐子」の名と幾つかの連絡先(おそらく事務的
な保険の類ものだろう)が書かれていた。
「フリージャーナリスト、か……。道理で胡散臭い女だと思ったよ」
「あら。それはお互い様でしょう?」
「ふん……。女狐め」
 暫く両者は言葉なく睨み合っていた。
 文字通り不機嫌に睨みつけている岡部と、手玉に取るのが楽しくて仕方がないと言わんば
かりにニコニコと艶やかな微笑を浮かべている小嶋。
「……本当に口止め料だけで満足するんだろうな?」
「ええ、勿論。相応の金額を約束して頂ければ」
 岡部はあからさまに舌打ちをすると、数歩進み出た。周囲の木々がざわつく。指折りを使
いながら、暫しの間二人は金額交渉という名の駆け引きを行う。
「──でどうだ。これ以上は出せんぞ」
「う~ん……。分かったわ。それで手を打ちましょうか」
 そしてやがて二人は折衝点を見つけ。
 夜闇の中で、合意ながらも刺々しい契約を結んだ。

 その部屋の中は陰鬱なまでに薄暗かった。
 室内を辛うじて照らしているのは、静かにパソコンのディスプレイから漏れる光だけ。
 そんな暗がりの中で、李は黙々とキーボードの上に指先を走らせていく。
 カタカタと鳴る小気味良い音。それに合わせるかのように、目の前の画面上では無数の数
字や記号の羅列が延々と高速スクロールの下で流れ続けている。
「……」
 それから、どれだけの時間が過ぎただろうか。
 はたと流れていた羅列の波が止み、ピコンと作業終了を告げる電子音が鳴った。
 静かに唸っている愛機。その羽音のような息遣いにじっと耳を傾けるようにじっと押し黙
ったまま、李は幾つかの操作の後、デスクトップ本体からUSBメモリを引き抜く。
(……。少し早いが、行くか……)
 ちらと画面下の時刻を確認する。
 まだ余裕はあった。だがそれでも早いに越したことは無い。さっさと仕事を済ませてしま
えば要らぬ関わりもそれだけ早く終息する。
 パソコンの電源を落とし、暗がりの中、慣れた手付きでハンガーに引っ掛けていた外套を
引っ張り取ると李は終始寡黙なまま最低限の荷物と“ブツ”だけを持って部屋を後にする。

 外の景色、鬱陶しい人の雑踏は実りの秋から冬へと変わる頃合を示していた。
 多彩に色付き豊かになる時期を終えてただ静かに淘汰され、次へと向けて収斂してゆく間
引きのような季節。人は物寂しいというが、李はこの時期の世界が好きだった。
「──やぁ。L」
「……C」
 そんな晩秋の街の中、ぽつねんとベンチに座って佇んでいた李の下に、暫くして一人の男
が近付いて来た。
 互いに顔を見合わせ、短く取り決めておいたフレーズを──合言葉を交わす。
 何の変哲もないように見えるこのスーツ姿の男は、そのまま目深に被り古したニット帽と
首元を埋め隠すマフラーといういでだちの李の横にそっと座った。
「……ブツは?」
「これだ。……くれぐれも扱いには注意しろ」
「分かっているさ。用済みになれば、こちらで責任を持って物理的に処分する」
 周りには聞こえない程の小声で交わされるやり取り。
 男に促されて李はポケットから先刻のUSBメモリを手渡した。
 ぶっくらぼうに、だが少なくともこの男とは初対面ではないらしい李の喋り口。対する男
は、あくまで一介ののんびりとしたサラリーマンという態を崩す事なく答えるとフッと何処
か不気味にも思える微笑みを返してくる。
 ──李はその界隈では名うてのハッカーだった。
 彼は今回もまた、とある場所(サイト)からごっそり個人情報を盗んできていた。
 そしてこの男はこれまでも何度か顔を合わせた事のある、その依頼主(クライアント)の
部下。いや……使い走りという表現の方が適切だろうか。
 効率を考えればデータ自体を相手側に送れば済むだろうと考えがちだが、実際は盗られる
方も取り締まる方も馬鹿ではない。何よりウェブという媒体を利用すれば何かしらにログは
残るものだ。
 だから敢えてアナクロな手段で授受する方が、時には盲点を衝くことができるのである。
「それで、今回の収穫はどうだった? 何か面白い中身はあったかい?」
 すると個人情報の詰まった小さな機器を指先で弄りつつ、男はそんな事を聞いてきた。
 またこいつの意地悪い好奇心か。
 李は内心こうした問い掛けを面倒臭く思っていたが、
「……妻の手術代を工面する為に強盗に入った男。患者を騙して手術報酬をピン撥ねしてい
る偽善者医師、フリージャーナリストという横文字を名乗っているが実情はネタを強請り集
りに利用しているだけの勘違い女。……腐った人間なんぞ掃いて捨てるほどいる」
 ぼんやりと仕事中の記憶を辿ると、淡々と適当に視界を過ぎった無数の個人達をぶっきら
ぼうに話して聞かせてやる。
「ふふっ。そうか……成る程ね」
 男はその返答に対し、静かにほくそ笑んでいた。
 それがこの業界に関わる者としての彼の愉しみなのだろう。
 性が悪い。まぁ自分もその片棒を担いでいるのだから似たようなものなのだろうが……。
「ま、今回もお疲れ様といった所かな。……でも勿体無い。君ほどの技量があればもっと世
の中を引っ掻き回して自分の意のままにだってできるだろうに」
 やがて男は、ではこれでと言うかのように立ち上がった。
 そしてその間際に、誘うかのようにそんな言葉を漏らす。
「…………」
 暫くの無視に近い沈黙。
 だがようやく、李はきゅっと首元のマフラーを引き上げ直しながら呟いていた。
「……興味が無いな。何処の誰が何をやらかそうが、所詮は全て数キロバイトの零と一の羅
列に過ぎない。どれだけそいつらが悪人だろうが、善人だろうが、意味なんてものは無い。
そんな連中を一々どうにかしようと力を割くなんてのは……暇な阿呆のやる事だ」
                                                      (了)

  1. 2011/06/18(土) 21:30:00|
  2. 三者三盗噺
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(短編)炬燵の神様

 コンビニを出てふっと空を見上げても、やはり広がっているのは曇天の夜空だった。
 陽はとっくに沈み、時刻は深夜帯。
 小腹が空いた僕は近くにあるコンビニで温まれる夜食を買い求めた所だった。
 手には店のロゴ入りの紙袋が一つ。中にはほかほかの肉まんが入っている。
(やっぱり今日も雪かなぁ……?)
 鈍色の空からしんしんと落ちてくる雪。僕は首元に巻いたマフラーに顔を埋めながらぼん
やりと思った。
 じわじわと身体を蝕むような寒さ。
 確かにこの辺りは街とはいっても山間部寄りだ。しかし今年のこの寒波は明らかに異常で
あると言わざるを得ない。
 何故なら──もう季節はあと三週間ほどで四月になるからだ。
 いくらなんでも居座り過ぎている。別段北国でもないのに、この時期にもなって未だ人々
が厚着をしなければ寒くてやっていられないという状況は異様と言う他無い。
 一般には謎の大寒波。数十年に一度の寒気の張り出しが云々だという。
 実際、この奇妙な冬が「やけに長いな?」と思い始めた頃のメディアや僕の周囲も最初の
内はあれやこれやと仮説を立てては互いに不安を煽り合っていたが、人間の慣れというもの
は色んな意味で厄介なもので、今ではすっかり皆この寒波を「仕方ない」「当然のもの」と
して受け取って暮らす方向にシフトしてしまっている。
 とはいっても、こうして今でも冬シーズンの長期化で温かな肉まんを堪能できるのは恩恵
ではあるのかもしれないが……。それでも、こうして折に触れて意識しなければ今が異常な
寒波の中にあることすら失念してしまいそうではあった。
「……うぅ、寒い」
 だけど一人懸念した所で自分に何かできる訳でもない。
(早く帰ろう……)
 自然と吐き出る白い息を見つめてから、僕は改めて人ごみの中に分け入り家路を急ぐ。
 そこから程なくしてカツンカツンと金属質の足音。忙しなさげな街の通りから少し裏手に
入ったアパートへと僕は戻ってきていた。
 三階建ての簡素な見てくれ。如何にも安アパートといった風情だ(だからこそ僕のような
貧乏浪人生でも暮らしていける訳だが)。
 さぁ早く部屋に戻って暖房と肉まんで暖まろう……。
 そう若干内心楽しみにしながら、僕は部屋の鍵を開け、ドアノブを引いて──。
「おぅ。おかえり」
「……」
 先客が、いた。部屋の中の炬燵に下半身を潜らせて茶を啜っているご老人が一人。
 ぼとりと。思わず手にしていた紙袋が落ちる。
 あれ……部屋を間違ったかな?
 やけに親しげに顔を向けてきた彼を言葉なく見遣って数秒。僕はゆっくりと開けようとし
ていたドアをゆっくりと閉め直す。
(え? 何で? 何で知らないお爺さんがいるの……?)
 顔を上げでドア横の部屋番号を確認してみる。うん間違いない、僕の部屋だ。
 これは夢か幻か。ゴシゴシと目を擦って紙袋を拾い直してからもう一度ドアをそろ~っと
開けてみるが、
「? 何しとる。そんな所で突っ立っておると風邪ひくぞい?」
 やはり部屋の中には、変わらず炬燵でぬくぬくとしている見知らぬご老人が座っていて。
「…………」
 僕はぱちくりと暫く目を瞬かせていた。
 だが確かにこのまま玄関先に突っ立っていても埒が明かない。
 何だか丸め込まれそうな納得のいかなさを覚えながらも、僕は後ろ手でドアを閉めて鍵を
掛けてから、少々おっかなびっくりで部屋の中へ──このご老人の正面に陣取るように炬燵
を共にして座った。
「……あの、何なんですか? 駄目ですよ。勝手に人の部屋に入っ」
「おお? これは肉まんというものじゃな。一つ貰うぞい」
「……人の話聞いてます? というか不法侵入ですよ。分かってます?」
「むぐむぐ……。うん、中々旨いの。ほれ、お前さんも食べるとええ」
「……いや、元々そのつもりで買って来たんですけど」
 本来ならさっさと追い出すべきだったのだろうが、この時の僕は何故かそれができなかっ
た。彼に特に悪意があるようには見えなかった(図々しさと胡散臭さは満載だったが)し、
何よりもいきなりこの寒空の中に老人を放り出すのも気が引けたからだと思う。
 何となくこの奇妙な侵入者と一緒に肉まんを頬張るという変な構図。
 色々聞かなければならない事はあるだろうが、先ずはこの質問を投げ掛ける事にした。
「それで。お爺さん、貴方一体誰なんですか? いきなり人の部屋に上がり込んで」
「むぐん? そうじゃな……」
 大方近所のボケ老人か何かか。
 だが口の中の肉まんを咀嚼し終わった彼の返答は、
「自己紹介くらいはしておこうかの。儂はハナサカ。お主ら人間が云う所の“神様”じゃ」
 僕の予想の遥か斜め上を行っていた。

 結局、買ってきた肉まんの大半はこのご老人──自称『花咲きの神』よって平らげられて
しまっていた。
 色んなショックが綯い交ぜになってテーブルに突っ伏す僕の向かいで、ハナサカ翁はのん
びりと茶を啜っている。何で滅茶苦茶な事を言ってる本人じゃなくて、言われた僕の方がダ
メージを受けなきゃいけないのか……釈然としないが。
(……神様だぁ? やっぱボケてるのかな、この人……)
 突っ伏しながら考える。
 ボケ老人の徘徊が家に来た。現実的に考えればそんな所だと思いたい。さっきざっと部屋
の中を調べて回ってみても盗られた物が見当たらなかった事もあり、物取りの類──或いは
居直り強盗(にしては落ち着きすぎだが)でもないだろう。 
「儂はボケとらんわい。失礼な」
「ッ!?」
 だが次の瞬間、ハナサカ翁はわざとらしくむくれて見せながら突然そう言ってきた。
 まさか思考を……本当に神様だっていうのか? 僕は一瞬そんな事を思って驚き、思わず
顔を起こしたのだが、よくよく考えればなんて事はない。この状況で彼を“何処かオカシイ
ボケた老人”と捉えるであろう事くらい容易に想像できるのだから。
 一瞬でも騙されかけた自分が妙に恥ずかしくて、僕はきっと複雑な表情(かお)をしてい
たのだろうなぁと思う。
「……そう、みたいですね」
 だがそういう思考をできるという事は、少なくとも彼はボケているとは言えないのではな
いだろうか? それにそもそも確かに施錠してあった僕の部屋にどうやって……?
 僕は徐々に状況を整理しながらも、若干強くなった警戒心と共にこの謎の老人を見遣る。
「まぁ、儂もそうすぐに信じて貰えるとは思っておらんよ。何分今の時代、人間の信心は随
分と薄れてしまっておるしのぅ……」
 だが当のハナサカ翁はそう嘆くように呟いていた。
 どうやらあくまで自分が“神様”であるという自称は貫くつもりらしい。
「……信じる信じないも、突然部屋に上がり込まれた相手の言葉を真に受ける程僕はうっか
りしてませんよ」
「むぅ。固いのぅ……。儂ももっと“春が来れば”本領を発揮できるのじゃが……」
「はいはい。で、貴方のお住まいは何処です? 特に盗まれた物もないみたいですし、今回
は特別に見逃してあげますから……」
 だがこのまま彼の話を聞いていても埒が明かない。
 色々疑問は残るしやり逃げされた感はあったが、僕はとりあえず然るべき場所に引き渡そ
うと思い訊ねつつ、炬燵の中から立ち上がろうとする。
「──お主、今年の寒波をどう思う?」
 しかしその動作の途中で、僕は不意にそう放たれた言葉にピクリと反応するように身動き
を止めてしまっていた。
 中腰の起き上がりかけた姿勢からゆっくりと。この自称・神様を名乗る老人(しんにゅう
しゃ)を僕は怪訝半分興味半分で見遣る。
 彼はそれまでの飄々とした表情から一転、間違いなく真剣な気色を滲ませていた。
 起こしかけた身体を伸ばして見下ろし、僕は数伯間を置いてから答える。
「どうって……。そりゃあ普通じゃないですよね。今の時期も真冬みたいな天気が続くなん
てそう無いですし」
「そうじゃ。普通ではないんじゃよ。……どうも儂らの同胞が一枚噛んでおるようでの」
「同胞……?」
 その言葉に僕は引っ掛かった。
 自称・神様の同胞という事は、他の神様がこの所の異常寒波の原因だとでもいうのか?
 だがそれ以上に、意識に覆い被さってくるのはただの妄言──演技には見えないこの老人
ことハナサカ翁の悩ましげな表情だった。
「儂は花を咲かせる神──春を皆に運ぶ存在じゃ。儂個人だけでなく、このまま春が来ぬ事
態となれば世の中は大いに混乱するじゃろう」
「……ええ。それは、そうでしょうけど」
 いくら例年にない寒波といってもいずれは勝手に止んでくれるだろう。
 そう楽観的に構えていたのに、まるで彼はそれを否定するかのような言葉を紡ぐ。
 天気という人間の手が及ばない事象を何とか正そうとする。その原因が自分には分かって
いると語る。それはまるで本当に彼が“神様”であるかのような──。
(いやいや……。まさか、そんな訳ないじゃないか)
 引き込まれそうになって、そんな自分を哂ってみる。
 とりあえずこの老人の連絡先を聞いて、保護して貰わないと……。
「……ところで」
「うん?」
 だが僕はその前に一つ気になっていた事を訊いて見ることにした。
 理由なんてないのかもしれないけど、それでも妙に知りたくなったから。
「どうしてこの部屋……僕なんですか? 百万歩譲って貴方がこの寒波について何か知って
いるのだとしても、僕はそういった事には素人ですよ」
「ほっほっほっ。なぁに、それほど深い理由でもないわい」
 ハナサカ翁は白い顎鬚を数度手で扱くと、
「お主の名は“ハルキ”じゃろう? “春”の“喜”び……良い名ではないか」
 驚きで目を見開く僕を見つめながら、そう笑って答えたのだった。

「──むむぅ……」
 それから数日が経った。
 浪人生である僕はこの日も日課のように机に向かっていた。
 来週にはこの一年の成果を試すべき日が近付いている。本来ならもっと集中して最後の追
い込みをかけるべき時期、なのだが……。
「お~い、ハルキや。菓子が切れた。買って来ておくれ~」
「だぁぁっ! だからあれほど食べ過ぎないで下さいって言ったでしょう!?」
 ハナサカ翁は未だ僕の部屋に居ついていた。
「そう言われてものう……。こう寒いと何もできんしのぅ……」
「……色々と酷い神様だ」
 忘れもしない。
 あの最初の出会いの後、中々住所を吐いてくれなかった為、僕は翁をやむなく近くの交番
まで連行する事にした。
 だが……。そこで予想外の事態が僕を襲った。
『見知らぬお爺ちゃん? 何処にいるんです? え、目の前? 誰もいないじゃないか』
『君、警察官を相手に暇潰しとはいい度胸しているじゃないか。うん?』
 交番のお巡りさん(当時三名)の言葉。
 それはまるで翁が彼らには見えないかのような反応だった。
 暫し僕は懸命に事情を説明したのだが、翁の姿が見えていないのは変わらず、お巡りさん
達からの心証は益々悪くなるばかり。
 仕方なく、僕は翁をそのまま連れて引き返すしかなかったのだ──。
「大体神様を名乗ってるのなら食べ物の一つや二つ、出せないんですか?」
 自在に姿を消してしまえるという、常人でない特技。
 信じたくは無かったが、本当にこの老人は神様なのかもしれないと思った。
 実際当人も『これくらい朝飯前じゃて』と得意気に言っていたものだ。
「無理を言うな。神通力の内容は者によって異なるんじゃよ。儂は豊穣神ではないからの」
 ただ、神様だと言っても必ずしも万能とは言えないらしい。
 曰く「寒くて力が出ない」という事情もあるそうだが……。
「……はぁ、分かりましたよ。とりあえずまた適当にコンビニで見繕って来ます。今度はも
っと大事に食べてて下さいよ? 何度も言いますけど、僕だって勉強があるんですから」
「おう。宜しうな~」
 そうして妙な共同生活が続いていた、昼下がりの事だった。
「──春喜~、居る?」
 半ば急かされるように外出しようとしていた僕の耳に、呼鈴と聞き慣れた声が聞こえてき
た。ちょうど靴を引っ掛けていた僕はつい、条件反射的に「あぁ。居るよ」と応えて、
「やっほ。勉強捗ってる?」
「……はは。まぁちょうど気分転換に、ね」
 一足先に現役で希望の大学に通っている幼馴染を出迎えてしまう。
「もうっ……。大丈夫なの? 試験まであまり日がないのに」
「まぁどうにかなるだろう。一応努力はしてきたけど、世の中どう転ぶかなんて──」
 そして、その自分の言葉でようやく気が付いた。
(マズイ! 今は翁が……!)
 慌てて僕はその場で振り向いていた。
 お巡りさん達に見えなかったからといって、美由紀にも見えないとは限らない。
「……? どうかした?」
「えっ。あ、あぁ。何でも……はは」
 だがその心配はなかったらしい。明らかに室内でちょこんと座っている翁に、美由樹は気
付いている様子は見られなかった。翁自身もしたり顔でこちらに微笑み、若ぶってグッと親
指を立ててみせてすらいる。
「差し入れ持って来たよ。勉強もあるし、今の時期は外に出るのも億劫だからね~」
「そっか。ありがと。何時も悪いな」
「ううん……気にしないでよ」
 一先ずは安堵。そして内心手間が省けた。
 僕は差し入れの食料品やらをビニール袋に詰めて持ってきてくれた美由樹を何時ものよう
に部屋に通すと、二人(厳密には翁を含めて三人)で炬燵のテーブルを囲む。
「……? あ、外寒かったろ。暖房入れるよ」
「う、うん。ありがと」
 テーブルの上に投げ出されていたリモコンを手に取り、沈黙中の暖房を呼び起こした。
 次いで美由樹からの差し入れに早速手を出そうとしてた翁の機先を制し、僕はそのビニー
ル袋をサッと自分の手元に引き寄せると、軽く中身を検めてみる。
「これはまた、随分と買い込んだなぁ」
 袋の中にはどっさりと大量の食料品。特に保存の効くレトルト類が多く揃えてあるように
見える。そんな僕の呟きに、美由樹はちらちらと部屋の中を見渡してから言った。
「まぁね。こう寒いと春喜だって買い出しに出るのは億劫でしょ? ……それに今年の寒波
は異常だもの。何時終わるかも分からないし。実際、さっきまで行ってたスーパーでも私と
同じように買い溜めしようとしてる人もいっぱい見かけたしね」
「……そっか」
 気付けば何だかんだといってこの長続きしている冬に慣れている身だったが、こうして第
三者から周囲の状況を知らされると、改めて今年の寒波の異常さを思い知らされる。
「あ、そうだ」
 そうして僕が暫く無意識に眉間に皺を寄せて考え込んでいると、美由樹は続けてふっと何
かを思い出したように口を開いてきた。
「その寒波のことなんだけど、聞いた話じゃその寒波って北の山の方から流れてきてるらし
いのよね。でも地理的に不自然だとか何とかってテレビで言ってたんだけど……」
「ふぅん……。でもそれが原因になってるならそうなんじゃない? これだけ“異常”な天
気なんだし、その大元だって──」
 彼女からその話を聞いた時は、僕自身はあまり深くは考えていなかった。
 異常な寒波といってもそこにはやはり理由はある筈だろう。たとえそれも“異常”な要因
だとしても。だが……。
「うむ、間違いない。其処じゃ! 往くぞ、ハルキ!」
「えっ?」「……?」
 次の瞬間意気込んだ声で叫んだのは、すっくと立ち上がったハナサカ翁だった。
 そしてその言葉に思わず短い問い返しをしてしまう僕と、そんな僕の(傍から見れば一人
芝居に見える)反応に小さな怪訝を示す美由樹。
「──ッ!?」
 しかしそんな驚きは更に上書きされてしまう事になる。
 不意にその場で跳躍した翁の姿がスッと薄くなったかと思うと、彼の身体が僕の中へ吸い
込まれるように消えたのだ。同時に選手交替かのように、身体の支配権が奪われ意識の僕だ
けが何処か少し離れた位置で自分の身体を見つめている感覚に陥る。
『え? ちょ、翁? 一体何を……』
 幽体離脱? だが混乱よりも先ず僕は突然の翁のアクティブさに驚いていた。
 いきなりの事ではあったが、これが何なのか、僕には不思議と分かるような気がした。
 翁が──僕に取り憑いたのだ。
「……ミユキとやら」
「え? 春、喜……?」
 その間も翁の行動は止まらない。
 僕の身体の主導権を奪った(見た目は僕の)翁は立ち上がると真剣な面持ちで、驚きで目
を瞬かせている美由樹を見下ろして命令……いや、懇願する。
「その北の山とやらまで案内(あない)してくれい。この長い冬を、終わらせねばならん」

『……寒、過ぎるだろ?』
 そうして僕らは急遽雪の降りしきる中、街の郊外にある山へと分け入っていた。
 街の中では人や外灯がある分暖かかったのか、いざこうして山の中に身を委ねてみると改
めてその寒さが異常なものであると痛感させられる。
『というか、もう吹雪に近くないかこれ……?』
 降りしきる雪は大粒になり、風も強く吹き始めている。
 まだ若干足りない冬支度の重装備を身を包み、それでも僕(に取り憑いた翁)と美由樹は
白く覆われつつある山道を進んでいた。……いや、もう一人で戻るには危険が伴って引き返
せなくなっていると言った方が厳密なのだろう。
「春喜……一体どうしちゃったの? 急に山に登ろうだなんて」
「あ、いや、それは僕じゃなく──あ。戻った」
 僕は申し訳なく一応言葉にしようとしていたが、ちょうどその時、翁の憑依が解けたらし
い。フッと意識が身体にフィットし直す感覚と共に僕の眼には一人先へ歩き出す翁の後ろ姿
が見えていた。
「……?? 春喜、さっきから何を……」
「あ、ははは。何でもないんだ。その……さっき部屋で聞いた話が気になってさ。うん、気
になってね」
 やはり美由樹には翁の姿が見えていないらしい。
 怪訝な様子(それでも何だかんだ言って同行してくれた)で見つめ返してくる彼女に、僕
は曖昧な返事で言葉を濁すことしかできない。
 それに……翁という自称・神様と今回のこの異常寒波。
 傍目からは信じ難いかもしれないけれど、仮に一連の元凶がこの山にあるのならそれを確
かめてみたい。気付けば僕自身もそう思っていることに気付かされる。
「気配を感じる。近いぞい」
 そうして美由樹に作り笑いの苦笑を返していると、数歩先に進んでいた翁が呟いた。
 その声が聞こえる僕一人が振り向き、じっと風雪が強くなっている山の奥まった方向へと
視線を移している彼の後ろ姿を見る。
 翁は後ろ姿のまま、暫しその場で視線の先の何かを睨むようにすると、また一人白い道を
歩き出していってしまう。
「……と、とりあえずここまで来たんだし。行ってみようよ?」
「う、うん……」
 一応神様を名乗っているし凍死はしないだろうとは思いつつも。
 僕は、まだ戸惑いを残す美由樹の手をはぐれさせないように取ると、その後を追う。
「────うぅ、ううぅぅぅ……っ」
 変化は、ややあってやって来た。
 風雪の中から耳に届いてきたのは、すすり泣くような女性の声だった。
 ぎゅっと握り返す美由樹の手の力が強くなっていた。という事は、彼女にもこの声は聞こ
えている。僕の幻聴などではなかった。
(あれは……?)
 翁の後をついて歩いていくと、その先に人影が見えた。
 それは、全体的に青白い色彩の和服に身を包んだ──こんな雪山と化した場所には不釣合
いな一人の女性だった。年格好だけで見れば美由樹とさほど変わらないだろう。
 何故こんな所に? そんな疑問すらもすぐに立ち消える。僕の直感が告げていた。
 間違いない。彼女──厳密には彼女を中心として吹き荒れるこの冷たい風雪の渦こそが一
連の異常寒波の元凶であると。
「やはりお主か。深雪命(ミユキノミコト)」
 フッと身体の周りに揺らぐ波紋を伴いながら、翁が言った。
 飄々としたボケ老人ではない、それは“神”らしい威厳。
 その呼び掛けに、風雪を撒き散らせていた和服の女性・深雪命は涙を零した瞳で振り返る
と、渦巻く冷気と共に僕達の正面に立ちはだかる。
「何? 何なの、あの女性(ひと)? それにいきなり目の前にお爺さんが……」
 そして当然といえば当然の事ながら、美由樹は一人混乱していた。
 僕も全くの冷静だという訳でもなかったが、彼女ほどではない。大方いざ対峙するとなっ
て翁も自ら姿を見せたのだろう。とはいえ、それをこの場で彼女に説明している暇は無さそ
うでもあった。
「……貴方は確か、花咲命。何をしに来たというのです」
「愚問じゃな。分かっておるじゃろうて。お主を……止めに来た」
 既に二柱の神は対決の如く向き合っていた。
 神道(でいいのだろうか?)などには素人な僕にもこのピリピリした空気位は分かる。
 実際、周囲で吹き乱れる風雪はミユキ神の感情──苛立ちのような、悲しみのような起伏
に呼応するように流れを刻一刻と変えているように思える。
(……もしかしなくても、僕らってとんでもない場面に出くわしちゃったんじゃ……?)
「は、春喜……?」
 いざという時は美由樹を連れて逃げる準備をしないと。
 僕は半ば無意識に彼女を心持ち自分に引き寄せつつ、事の経過を見守ることにする。
「貴方には、関係ないわ……。帰って……」
「そうもいかんのぅ。儂は春を咲かせる者。春を待っておる人間達をこのまま困らせておく
訳にはいかんのじゃよ。その迷惑な暴風、止めてもら──」
「分かったような口を利かないでっ!!」
 だが次の瞬間、ミユキ神が涙目になって叫んだ。
 同時にドウッと衝撃を伴うほどの風雪が僕達を襲った。
 咄嗟に僕は美由樹を庇うようにして踏ん張る。しかしその傍らで突風に吹き飛ばされた翁
が雪の地面を転がっていくのが見えた。
「翁っ!?」
「……大丈夫じゃ。しかしやはり不利じゃのう。こう寒さが強い場所では満足に力も出ぬ」
 思わず僕は叫んだが、翁はのそっと立ち上がるとあくまで冷静に呟いていた。
 しかしその表情はやはり厳しいものがある。
 本当に……彼が春の神様だとすれば、これほどアウェーな状況もないだろう。
 僕と、そして呆気に取られている美由樹の見守る中、翁はまた風雪を纏うミユキ神の方へ
と歩もうとする。
「何よ……。皆寄って集って、私を邪魔者扱いして……」
 対するミユキは身体を震わせて涙を零していた。
 違和感。吹き付ける風雪を手の庇でしのぎながら、僕はどうにもちぐはぐな翁と彼女、両
者の“温度差”に内心首を傾げてしまう。
「どうせ、どうせ、私なんて男にモテないのよ~!!」
『は……っ?』
 だが、次の瞬間一層強い風雪を吹雪かせる彼女の言葉で、ようやく僕らは理解した。同時
にそれまでの厳粛な緊張感が音を立てて崩れるのが分かった。
 まさかこの女神(ひと)、失恋のショックで暴れてるのか──!?
 驚きというか呆れというか。
 僕も美由樹も、そして翁も僕ら三人はおんおんと泣く彼女を白い眼で見てしまっていた。
 冗談じゃないよ……。そんな私情でこんな異常寒波を呼び出されていたなんて……。
 ガクンと力が抜けたようになり、苦笑する僕。
 美由樹も何となく事情を察し始めていたようで、そんな僕と顔を見合わせて同じく複雑な
表情を浮かべている。
「……またそれかい。相変わらず気の多い女子じゃのう」
「うぅ……っ。貴方には分からないわよぉ……」
 しかもやり取りからして、こうした経験と発散行為は以前にもあったようで。
 困ったといった様子の翁の横顔を、僕らもただ打つ手なく眺めて苦笑するしかない。
「それに! 何? 人間のカップルまで連れてきて! 私に見せつけようってわけ?」
「えっ」「……ッ」
 だが今度は思いも寄らぬとばっちりが来た。
 ミユキ神は涙目になりながらビシリと人差し指で僕らを指し、もう威厳も何もない鬱憤を
ぶつけてくる。
「あ、いや。別に美由樹は幼馴染で。そういう訳じゃ……」
 とはいえ流石に神様(多分)に睨まれるのは嫌なので、僕はそう正直な所を説明する。
「……」「怪しい……」
「な、何でそうなるんですか!?」
 しかし何故だろう。却って睨まれる人数が増えている気がするのだが……。
「そ、それに……」
 だから僕は、この時もう既に自分でも自制できていないような言葉の羅列の中にいたのだ
と思う。神様だって失恋する。その例が目の前にいる。だったら人間と同じような感覚を、
彼女も持っていてもおかしくは無い筈だと思った。
「一度や二度振られたからって、そんなに悲観する事なんてないんじゃないですか? 確か
にショックはショックなんでしょうけど、大事なのは納得できる結果でしょう? 僕達人間
よりも貴方はずっと長い時間を生きられるんですから。もっと素敵な人だって見つけられま
すよ。きっと。世の中は広いんですから」
「……そう、かしら?」
 はらりと。儚げなミユキ神の表情が、澄んだ両の瞳が、僕を見ていた。
 そんな不意に見せた彼女の艶に、
「え、えぇ……そりゃあもう。綺麗な女神様なら」
 思わず僕は内心とぎまぎしながらも、そう慰めるつもりで返答を返す。
『…………』
 だが、何だか妙だった。
「ほっほっほっ。やるのぅ、ハルキよ」
「むぅ。春喜の、馬鹿……」
「ハルキ……。そっか。ハルキっていうのね、貴方……」
 気付けば生温かいほくそ笑んだ翁の視線。
 傍らからじっと睨んでくるかのように、ぶすっと不機嫌そうな美由樹の視線。
 そして何より、何だか妙に熱っぽく僕を見つめ返してくるミユキ神──。
「……??」
 三者三様の違和感のような視線が僕に浴びせられている。
 何時の間にか、吹き荒れていた筈の風雪は……ピタリと止んでいた。

 ──結論から言うと、一連の異常寒波はその日を境にピタリと終息を迎えた。
 雪に塗れていた街も徐々に差し込んできた春の陽気に溶かされ、今ではすっかり季節相応
の姿を取り戻しつつある。
「……あ、あった!!」
 そんな遅咲きになった桜並木の下で、僕は掲示板に張り出されていた自分の受験番号を見
つけることができた。
「本当? うん、本当だ。良かった、良かったよぉ~……」
 合格発表の人ごみ。
 その中で、僕と付き添ってくれた美由樹は互いに合格した喜びを分かち合う。
「当然ね。私の加護があれば合格の一つや二つ……」
 いや──正確にはもう一人。青白い和服から洋服に身を包んだ深雪さんも加わって。
「何言ってるんですか、春喜の努力の賜物ですっ。第一ユキさんにそういう御利益があるん
ですか? 冬は春(ごうかく)とは逆だと思いますけど」
「愚問を……。愛は全てを可能にするのよ。ね~、ハ・ル・キ?」
「ッ!? ちょっと、ユキさん。勝手に腕組まないでよ~!」
「……いや。どっちも離れてくれないかな? ただでさえ人ごみの中なのに……」
 もう一度結論を付け加えると、何故かあの日以来、ミユキ神こと深雪さんが僕の部屋に居
座るようになった。
 神様の居候は翁である程度慣れていたとはいえ、どうにも事あるごとに美由樹と喧嘩状態
になる為、頭痛の種もまた一つ増えたと言えるかもしれない。
 ざわつく人ごみの中で美由樹と深雪さんが僕の腕を引っ張り合っている。そんな僕らを周
りの他の受験生らが見遣っているのが分かる。
「勘弁してよ……」
 どうにも恥ずかしいやら、周りに迷惑をかけしまって申し訳ないやら。
 春は新しいものを連れてくる。合格の喜びも、厄介な頭痛の種も一緒くたに。

「…………」
 そんな遠く離れた春喜らの姿を、彼の部屋に一人残っていた翁はぼんやり浮かぶ球体の中
の映像から見守っていた。
 あの日初めて彼と出会った際に暖を取っていた炬燵も、暖かくなった今は押入れの奥に片
付けられてさっぱりとしたテーブルだけになっている。翁はその四角の席に着いて静かに茶
を啜りながら穏やかに注ぐ春の気配を感じていた。
 長い冬は終わった。もう、大丈夫だろう。
 季節は移ろう。その連綿たる時の流れが人々を育む。
 変わらねばらない。変わるべきなのだ。人間も我々も。
 そして神が人に敬われて当然という時代も、もう過去のものなのかもしれない。
(……じゃが、最後に良いものを見せてもろうた)
 フッと翁は一人静かに笑う。
 自分を何だかんだといいながら受け入れ、そして長き冬を終わらせてくれたあの者の心意
気。当人は無自覚であろうが、あの者には特に良き春を咲かせてやらねばと思えた。
 そっと空いた手を開いてじっと見遣る。
 寒さの中で閉じ込められていた力が漲っているのが分かる。
 春が来た。自分の本来の力も、今なら出せるだろう。……もしかしたらもう、彼には要ら
ぬ節介なのかもしれないが。
「ふっ──」
 サッと手を振ると、翁の周りにふわりと無数の花弁が舞った。
 桜。春を告げるこの国の象徴。
 飲み干した湯飲みをそっと卓上に置き、彼は心底穏やかな老人の微笑みを浮かべる。
「……良かったのう、ハルキ。お主にもちゃんと『春』はやって来たぞい」
 僅かに部屋に反響して消える、花咲命の声。
 次の瞬間、その姿ははらりと舞い散る桜の花弁の中で掻き消えていたのだった。
                                     (了)

  1. 2011/06/18(土) 21:30:00|
  2. 炬燵の神様
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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
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