日暮創庵

-当庵は長岡壱月によるごった煮創作ページ(主に小説)です-

(短編)四番線の彼女

 人混みという名の波は、都市という巨大な生き物を動かす血液のようなものだ。
 そう、何かの本に書いてあった記憶がある気がする。
「…………」
 その日も、哲郎はいつも通りの時間、いつも通りのルートで駅の構内をやや早足で進んで
いた。
 自分と同じくスーツに身を包んだサラリーマン達、思い思いにお洒落をし、何事か会話を
交わしながら何処かへ赴くらしい若者達。そうした多様な人々は一つの大きな群れを成して
構内にうねる波を作り上げている。
 初めてこの光景を目にした時はその人の密度と忙しなさに驚いたものだが、いざこうして
そんな人混みの一員として日々を暮らす内にそんな新鮮さは随分と色褪せてしまったように
思える。
 そしてそうした感覚は何も気分的なものだけではない。
 今こうして身に纏っているスーツも、社会人になって間もない頃は何処かガチガチして身
体(じぶん)と別物である事をアピールしていたような気がする。
 だがそれも数年経ち今は昔、このスーツも今や着慣れたという名の草臥れに移行しつつあ
るのではないかと思う。
(……はぁ。気だるいな)
 襟元を軽く掴んで動かし、パタパタと服の中に空気を送ってみる。
 まだ季節は暦の上では春先になるのだろうが、昨今の気候変動と人とコンクリートばかり
の街のこと、体感的な気温などは実際よりもずっと高く、蒸し暑い印象が付きまとう。
 哲郎はそれでも、次々と迫ってくる背後・左右からの人の波に押されるようにして気だる
い身体を引き摺って進む他なかった。
 疲れる。といっても自分はまだ世の中では若手と呼ばれる部類だ。
 なのにこうも気持ちが萎えてくるのは何故なのだろうと思う。
 一応社会人として、平凡なサラリーマン生活を送ってきたこの数年の慣れが倦怠を生んで
いるのだろうか。それとも今の世の中を覆う漠然とした閉塞感故か。
「む?」
「…………」
 するとまるでそんな野暮な思考を嘲笑うように、左肩にドンとぶつかる感触。
 反射的にちらと目を遣ると、自分と同じくスーツ姿の大柄な中年男性が自分の横をギリギ
リで、足早に通り過ぎる姿が確認できた。
 そんな彼と一瞬だけ、視線が合う。
 気のせいかもしれないが、男性は睨むようにこちらを見返してきていた。
 ぶつかった事に謝る姿勢など微塵も見せず「邪魔だ」とでも言いたげに、次の瞬間にはつ
いっと視線を前方に戻してスタスタと通り過ぎ、再び人混みの一要素へと戻っていく。
 ──そんなに急いで一体何になる?
 ふと脳裏に、そんなフレーズが過ぎった。
 だがそれでも自分とて都市の血液、その一抹でしかない。社会人となっている以上、元よ
り自分達に“自由”など望むべくもないのが哀しいかな現実なのだ。
 今日もまた、いつも通り出勤してせいぜい社会のいち歯車としてあくせくする他ない。
「…………ふぅ」
 まぁ、下手に考えたって詮無いことなんだけど……。
 そして思わずそう小さな嘆息を漏らしながら、哲郎は相変わらずうごめく人の波にもまれ
つつ、いつものように目的のホームへと続く階段を上り始める。

 だが、この日ばかりはその「いつもの」が通じない日であったらしい。
 哲郎はホームに上がった所で周りの様子がおかしい事に気付いた。
 ホームにはいつも通り多くの出勤前の人々がごった返している。だがその面々の多くがた
だ単に列車を待つだけの様子ではなかったのである。
(……何だ?)
 苛立ちや不安。諸々のあまり宜しくない雰囲気がそこはかとなく漂う人々の間を通り過ぎ
ながら、哲郎は状況を確認する為に見渡していた視線をふっと持ち上げてみる。
『四番線 事故の為遅延 現在約90分』
 天井からぶら下がった電光掲示板にはそうした旨の表示があった。
 なるほどと思い、哲郎は再び視線をホーム上の人々に向けてみた。
 遅延。見てみるとそれだけで何処と無くそわそわと落ち着かない人々が案外いる事に気付
かされた。電車が遅れる事自体は特段珍しいケースではない筈だが、それでも時間通り、予
定通りに事が運ばないことで調子を崩されると感じる人々の何と多いことか。
(……どうしよう。乗り換えた方がいいかな……)
 そんな人々を一通り観察した後、哲郎はちらりと腕時計で時刻を確認していた。
 時間にはまだ余裕があるが、他にも影響が出ている可能性はあるだろう。さっさと別の便
に乗って職場に向かうか、それとももう少し様子を見てみるか……。
 そう頭の中で思案を始めていた、そんな時だった。
「──え? 人身事故? マジかよ……」
 何処からとも無く耳に入ってきたその言葉。
 声のした方向を見遣ってみる。そこには少し気の強そうな男性が二人、何やら話をしてい
る姿があった。見た目は自分と同じサラリーマンだが、年格好は少し下かもしれない。
 だがそんな意識よりも、哲郎は不意に胸の内がざわつく思いに気を取られていた、
「あぁ、間違いねぇだろ。さっき駅員に聞いてきたんだから」
「チッ……。ついてねぇなぁ」
 人身事故。それはつまり誰かが電車に接触した──或いは身を投げたという事で。
 なのに、この二人はそんな事実に対して。
「だよなぁ……。人様に迷惑かけるなっつーの」
「そうそう。死にたいなら独りで死んどけって話だろ? ったく、うぜぇよな」
 そんな、突き放すような態度で。
「……」
 哲郎はすぐにそのざわつきの正体に合点がいった。
 これは怒りだ。視界の先に立つあの二人に対する憤りだった。
 途端にホーム上の人混みが意識に上らなくなる。ただ焦点を合わせるように、視線の先の
二人の姿がより強く感覚に焼きついてくるような錯覚を覚える。
 確かに事実として電車が遅れてしまい、多くの人々の足に影響を与えはするだろう。
 だがそれでも。
「……人一人の命が、関わっているんだぞ」
 胸中に湧いた不快感は消えなかった。
 どれだけ自分が面倒に巻き込まれたって、他人の命まで貶めていい筈なんてない。
 そう思いたいし、そこまで鈍感になってしまっては自分は色々なものを失ってしまうので
はないのか。
 思わずグッと強く唇を噛み締める。
 そうもやもやとした感覚と共に誰とも無く呟いた、そんな時だった。
「────本当に、そう思う?」
「……ッ!?」
 突然、背後から声が掛けられた。
 独り言などではなく、タイミングからしても明らかに自分に向けられた言葉。
 哲郎は怪訝な表情でその声の主へ振り返った。
「……」
 そこに立っていたのは、一人の女性。
 年格好は自分より少し年下か或いは同い年くらい。服装こそ地味な感じだが、一般的な基
準から言っても可愛い容姿と表現して差し支えないだろう。
 彼女は小さな鞄を一つ両手に持って、ちょこんと哲郎の少し背後からこちらを見ていた。
「えっと……?」
 向けられたままの眼差し。
 哲郎は正直戸惑いを隠せなかった。
 多分、さっきのぼやきを聞かれてしまったのだろう。そう思うと恥ずかしさが込み上げて
来たが笑われる訳でもなく、共感を得られたのだからその意味では痛手ではない。
「……良かった」
「え?」
 ポツリと。戸惑って二の句が継げない哲郎の代わりに、彼女がおずおずと口を開いた。
 何処かほっとした様な静かな微笑み。だけど、何故か一瞬だけ見える憂いのような色。
「貴方みたいな人も、ちゃんといるんですね……」
 しかしそんな思考は、次の瞬間には彼女のそんな言葉と笑みで掻き消されていた。
 褒められた、のだろうか……?
 気恥ずかしい。
「……。うん」
 ありがとうとでも言うべきだったか。だが恥ずかしさが先に走って上手く言えない。
 ホーム上のざわつきが遠く感じられる。つい先まで苛立ちを感じていたあの二人への注意
すらもこの時既に掻き消えつつあった。
 そして少なくとも表面上、そうした羞恥心は同じだったのかもしれない。
「…………良かったです」
 二人はお互いに静かにはにかむと、どちらかともなく微笑み合っていた。

 そしてその日を境に、哲郎には日課が一つ増える事となった。
 いつもの時間、いつものルートで辿り着く駅の四番ホーム。
 そこで電車が着くまでの僅かな時間を、彼女と話して過ごすようになったのである。
 彼女は決まってホームの白線ギリギリに独り立っていた。
 だが哲郎がやって来て挨拶を交わすと、静かに微笑んで会釈をしてくれる。それは毎日の
単調な生活の中での一服の清涼剤のように哲郎には思えた。
『へぇ……じゃあ、今は専門学校に?』
『はい。やり直せればいいなと思って……』
 そんな中で哲郎は幾つか彼女自身についての話も聞くことができた。
 見立て通り彼女は自分より少しだけ年下だった。そして短大を卒業後、一度は一般の企業
に就職したものの、周りと上手くやっていけずに辞めざるをなかったのだという。
 そして今は、そんな自分を見つめ直し、再出発する為に改めて学校に通っているという事
も話してくれた。
 そんな話を聞いて更に穏やかな気分になる自分に気付かされる。
 苦労しているのは、何も自分だけじゃない。今の世の中、誰だって苦しみ悩みながら生き
ている。生きていくしかない。
 辛さを転嫁するというと言い方は悪いが、それでも一人じゃないのだと分かるだけで心持
ちが楽になるように思える。それはある意味で当たり前な事ながらも、哲郎にとっては久方
ぶりな、新鮮味のある感覚でもあった。
 何よりも……彼女とこうして言葉を交わす時間が、自分の中で純粋に楽しく、待ち遠しい
ものとなっていたのである。
『……大丈夫だよ。君なら、きっとやり直せるさ』
 もしかしたら自惚れであったのかもしれない。
 だがそれでも、哲郎はついつい、自分達が中々いい感じではないかと思い始めていた。

「──ハァ、ハァ……ッ」
 そんな日がどれだけ続いたのだろう。
 その日も哲郎は駅の構内を進んでいた。
(しまったな……。寝過ごした……)
 しかしこの日は運悪く、哲郎はいつもよりも遅い時間に家を出る結果となっていた。
 ざわつきうごめく人々の波。その中を縫うようにして、哲郎は駆け足で目的地へと向かっ
てゆく。
 とはいっても時間的にはまだ余裕はあった。
 それでも彼を急かせていたのは、この時既に彼自身にとって一服の清涼剤となっていた一
時を逃してしまうという焦り。
(もう、行っちゃったかな……?)
 色ボケと言ってしまっていいのかもしれない。
 だけどそんな胸元を過ぎっていく気恥ずかしさよりも脚は自然と駆け、いつものホームへ
の階段を駆け上がっていく。
「……?」
 だが、そんな焦りは階段を上りきってすぐに立ち消えさせられる事となった。
 何だか様子が……おかしい。ホームの人々がやけにざわついている。いや騒々しいと表現
する方が正確だろうか。
 いつも以上にホーム上の人々が深刻な表情を浮かべていた。
 不安、恐怖、或いは苛立ち。
(…………ん? これって何処かで……)
 そして、胸の中に過ぎる嫌な予感。
 哲郎は怪訝に顔を歪めながらおずおずと人混みの方へと歩いていった。いつも以上に大勢
なようにも思える人の波を何とか掻き分けて、何事があったのかと確かめる為に進む。
 先ず視界に飛び込んで来たのは、停車した列車だった。
 見慣れた筈の車両。だがその様子がおかしいことにややあって気が付く。
 そもそも停まっているなら何故誰も乗ろうとしないのか? それに何だがいつもより停ま
っている位置がズレているような……。
「……あの。何があったんですか?」
 暫くその様を見つめてから、哲郎は人込みの中の一人にそう訊ねてみた。
「あぁ……」
 だが相手の男性の表情は堅い。
 それによく見渡してみると周りの人々も個人差はあるが、辛気臭い、暗い表情ばかりなよ
うな気がする。
「俺は直接見たわけじゃないんだが……飛び込んだらしい」
 返事を待つ事たっぷり十数秒。
 再び視線を彼に戻した哲郎に男性は話し辛そうに口を開き始める。
「飛び込んだ……?」
「あぁ。女が一人、入って来た電車にいきなり飛び込んだそうだ」
 その言葉に、瞬間背筋がぞっと寒くなるのを感じた。
 人身事故。いや──投身自殺。
 いつか起きた遅延の原因。それが今度はこのホームで起きたというのか。
(──ッ! そうだ、彼女は……?)
 そしてそこからフッと連想するように彼女の顔が浮かぶ。
 人身事故が起きたあの日、自分の呟いた言葉に共感してくれた彼女の顔。
 哲郎は人込みの中から飛び出すようにその場から駆け出していた。
 何故だ。分からない。
 でも……何故か嫌な予感がしてならなかった。不思議と全身を恐怖にも似た寒気が走って
止まなかった。
「そこ邪魔だよっ! どいて、どいてっ!」
 すると進行方向、停まっている車両の最前線の方から数名の隊員らしき人々が担架を運び
ながら近づいて来るのが見えた。ざわざわと、さながら忌避の表情で避け、道を開けていく
ホームの上の人々。
 そしてその集団が、哲郎の横を通り過ぎようとした、その時だった。
「────ッ!?」
 哲郎は、見てしまった。
 駆けて行く揺れによって微かに見えた担架の上の遺体。
 その上に被せられたシートの下から覗いたのは……間違いなく彼女の、血みどろの姿。
(嘘、だろ…………?)
 去っていく担架の後ろ姿を唖然と見送りながら、哲郎は全身をぶつけたような強烈な衝撃
を受けたように感じた。
 認めたくない。だけど……間違いない。
 彼女が、電車に飛び込んだのだ。
(どうして……? 何で彼女が……?)
 世界がグゥンと遠のくような錯覚がした。
 周囲の気配が自分から距離を置き、代わりに自身の思考だけが台頭してくる。
『……人一人の命が、関わっているんだぞ』
『────本当に、そう思う?』
 最初に再生されたのは、彼女と始めて交わした言葉達。
『……良かった』
『貴方みたいな人も、ちゃんといるんですね……』
 何度も何度も、咀嚼するように繰り返して。
(……。まさか)
 今の事実、過去の言動。
 そこで哲郎は気付いてしまった。その可能性を。
(…………前々から、死ぬ気だったのか?)
 だとすれば、あの時の質問と、自分の返答に対する安堵は単なる感心ではなかった事にな
るのではないか。
 彼女はあの日、電車に飛び込むつもりであそこにいた。
 でも既にそこには「先客」がいて、更に自分という「共感者」がいた事で彼女を思い留ま
らせていたのだとしたら。
「……そん、な」
 哲郎は引き攣った顔で、ガクリと力なく地面に膝をついていた。
 誰か、予想に過ぎないと言ってくれ。
 だけど、だけど。だとしたら……。
「俺は……俺は」
 知らない内に自分は、彼女の生死の境に立っていたとでもいうのだろうか。
 なのに何も分かってあげられず、挙句……。
 バシンと。哲郎は痛みも他所に思い切り地面を殴りつけていた。
 もしかしたら、今日寝過ごさなければ防げたかもしれない。
 引き攣った顔は更にしかめたものに変わり、全身から溢れるのは後悔の念。
「…………馬鹿、野郎……ッ!」
 それは自ら命を絶つ事を変えなかった彼女に対しての。
 そして何よりも、自惚れと、彼女を止められなかった自分自身に対しての言葉。
「馬鹿野郎……」
 動揺とざわめきの響くホームの上で。
 哲郎は涙目のままそんな堪えきれない感情を漏らすと、その場に泣き崩れたのだった。
                                                      (了)

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  1. 2011/04/28(木) 21:00:00|
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(短編)夏の日の幻影

 暦の上ではもう九月の半ばだというのに、外は纏わりつくような熱気で満ちている。
 亮輔はスーツの胸元を更に緩めてパタパタと風を送りながら、眩しげなしかめっ面でつい
とコンクリートジャングルに狭められた空を見上げた。
 確かに空は晴天だった。だがその色彩は何処かくすんだもののように思う。そしてそれは
何も気のせいなだけではない筈だ。
 街のそこかしこから吐き出される様々な排気、暑さに耐えかねてあちこちの部屋から追い
出される排熱。それらが混沌よろしく混ざり合ってこの街の空気を淀ませ、回り回って自分
達自身を余計に苦しめているのだから。
(…………暑ぢぃ)
 それでも、人々は暑さにうだりながらも群れを成して街を歩いている。
 そんな群れを遮断するように道路を駆け抜けていく無数の車。人々はその中に取り残され
るかのように、横断歩道で結ばれたアスファルトのスペースに散在する形になっている。
 そして亮輔もまた、そんな群れの中の一人に過ぎなかった。
 暑さで歪む地面を遠くに見遣りながら、ぼうっと残りの待ち時間をカウントする信号機の
デジタル表示を目に映す。
 機械(システム)を作ったのは人なのに、人はそれに動かされているようだ──。
(おいおい……。熱に中てられたか)
 ぼうっとしたまま亮輔は頭に過ぎる曖昧な思考を振り解こうとした。
 そうしていると、間の抜けたメロディが響いてくる。信号が青に変わったのだ。
 途端、緩慢から足早に人々の群れがどっと動き始める。
 見えない何者かに押されるかのように蠢く人の波に、亮輔も渋々といった感じで歩を進め
て重苦しく感じる身体を運び出す。
 視線の先には、駅舎が口を開けてそびえる見えている。
 亮輔はこれから幾本か電車に乗り換えて「彼女」の様子を見に行くつもりだった。
(……時間は、まだ大丈夫だな)
 二本目の横断歩道を渡りながら腕時計で時間を確かめる。頭の中で時刻表の頁を開く。
 これなら余裕をもって移動できそうだった。しかしもう一、二時間も経てばこの辺りの人
通りは更に混雑する事だろう。
 やはり早めに仕事を切り上げて正解だった。
 そんな事を思い、少し気持ちが浮つきながら正面のフロアを通り抜けようとする。
 ちょうど、そんな時だった。
(────ん?)
 何故かは分からない。
 だが進行方向の先で、亮輔はふと一人の人影に目を留めていた。
 等間隔に立った構内の円柱一つ。
 そこに一人の少年が背を預けてぼんやりと立っていたのである。
 年格好は中学生、或いは入りたての高校生といった感じだろうか。まだ遠目ではっきりし
ないが、あまり大柄ではないようだ。世代の違いなのか、自分から見れば少し妙なセンスの
服装に身を包んでおり、ぼんやりと中空を見遣っている。
「……」
 その間も亮輔は歩を進めていた筈だが、もしかしたらその時既にもう足は止まりかけてい
たのかもしれない。
 周りを通り過ぎていく人々の足音、ざわつき、気配。
 それらを感じさせる音がそっと遠のいていくような感じがした。それと同時に、彼らの存
在は薄れ、その対比のように自分と視線の先の少年の二人の存在は逆に濃くなるかのような
錯覚に陥る。
「…………」
 いつの間にか、少年が自分の方を見ているのに気が付いた。
 するとぼうっとしていたその表情が、少しだけ引き締まったような気がする。
 始めはそのまま通り過ぎてしまおう、早く彼女に会いに行こう。そう思っていたのに。
「……君、一人かい?」
 なのに亮輔は気付けば結局、少年の近くまで近寄るとそう声を掛けていたのだった。
「……うん」
 遠のいていた周りの気配がざわっと戻ってくるような再びの感覚。
 その雑音の中で、少年はコクリと頷いた。
 初対面……という事もあるのだろうが、彼には何処かおどおどと緊張した様子があった。
 妙だな、とは思った。
 休日ならばまだしも、今日は普通の平日だ。そんな日の夕暮れ前の駅構内で独り、この少
年は何をしていたのだろう。
 一体何を、待っていたのか──。
「見た所一人だけど……待ち合わせかい?」
「ううん。会いに、来たんだ……」
「会いに……? 誰に?」
「……お父さん」
 少年の言葉はどれも断片的なように思えた。
 いきなり見知らぬ大人に声を掛けられて警戒しているのか、或いは元々あまり快活な性格
ではないのか。
「そっか。単身赴任でもしているのかな」
「……」
 しかし少年は黙っていた。
 答える必要がないと踏んだのか、それとも返答に窮しているのか。
(……う~ん、どうしたもんか……)
 軽率に話し掛けてしまった自分も自分だが、この子を何となく放っておけなかった。
 見た感じ、この辺りの都会っ子ではないような気がした。
 明確な根拠はないのだが、何となく印象が“見知らぬ場所に来た子供”だったのだ。
 もしこのまま放っておいて、悪い大人に何かされたと知ったら後味が悪い……。
(……仕方ないな)
 だからこそ亮輔は、
「君、そのお父さんは何処にいるのか分かる?」
 少年にそう訊ねたのだが。
「……。来見記念病院」
 彼の口からその場所の名前が出た時は、正直言って驚いた。
「記念病院……? なんだ、俺と同じじゃないか」
 そう、そこは彼女が待っている場所でもあったから。
 思わず亮輔はフッと顔を綻ばせていた。
 少年が、小さな怪訝のような微妙な表情の変化と共に自分を見上げてくる。
「ちょうどいいや。だったら俺についてくるか? 俺もな、ちょうどそこに用があって向か
おうとしてた所なんだよ」
 何という偶然。だがそれなら都合がいい。
 この迷子(?)の少年を送り届けてあげる事と、自分の目的地とが両立できる。
 だったら善は急げだ。
 亮輔は少し屈むと、少年の視線に合わせそう提案してみる。
「……」
 数秒、少年はじっと亮輔の顔を見つめていたが。
「……うん」
 コクリと、ややあって同意の頷きを返してきた。

 そして──電車の中。
「……」
 ソファ型の座席に座る亮輔の隣に、少年はちょこんと座っていた。
 外から注いでくる淡い茜色が車内を静かに染め始めている。
(やれやれ……)
 それにしても、と亮輔は思う。
 自分から誘っておいて何だが、この子は少々危なっかしい。
 目的地が同じだという言葉を真に受け、こうやってホイホイとついてきているが、見知ら
ぬ相手にそんな油断を見せて大丈夫なのかと内心嘆息をつかざるをえない。
 だからこそ自分が最初に気付いてあげられてよかったと思う反面、妙な罪悪感がこうして
いる今もチリチリと胸を刺してくるような心地がする。
「……」
 これで何度目か。亮輔はちらと少年を見遣っていた。
 だが彼はぼうっと外の景色に目を遣ったままじっとしたまま。電車に乗る前、乗ってから
もこの調子だった。どうにも口数が少ない。
 見知らぬ大人と一緒で緊張しているのは仕方ないのかもしれないが、そんなに怖がるなら
断わってくれても良かったのに。
(ま、それもできないくらい大人しい子、って事なのかもしれんが……)
 それに先ほどから時折観察してみるに、何もこの子も完全に怖がっているようではないら
しい事も分かってきたのだ。
「……?」
 時々、彼の方からこちらの様子をじっと窺ってくるのである。
 相変わらず言葉は少なげだったが、その眼差しに怯えはあまり感じられない(と思う)。
 なので亮輔は向けられてくるその視線に、小さく微笑んで応えてあげていた。
「──ッ!」
 だがそうすると、今度は気付かれてしまったと言わんばかりにサッと視線を逸らされ、再
びだんまりを決め込まれてしまう。
 それが、この電車に乗ってから何度と無く繰り返されていた。
(一体、何なんだろうな……)
 まぁ初対面なのだから、相手は子供なんだからと自分に言い聞かせてはいるがそれでも気
にはなってしまう。
 一つ、何故こんな中途半端な時間、場所で父親に会いに来たのか。
 二つ、そのくせ所持金はゼロという無計画ぶり(なので、結局彼の運賃も自分が払う事に
なったのだが)。
 そして三つ目は何よりも……。
「なぁ、君、名前は?」
「……」
 何故か、頑なに教えてくれない少年自身の名前。
「……。まぁ、答えたくないならいいけどさ」
 何度目かの同じ質問をしてみたが、少年はやはりだんまりを貫いていた。
 亮輔は僅かに苦笑を漏らしつつもちらと横目で彼の様子を窺ってみる。
 ちょこんと揃えられた脚の上に乗せられた両手。その拳が心持ちぎゅっと握り締められて
いるようにも見える。そしてその表情も、恐れというよりは……何か困惑に似たものではな
いだろうかと亮輔には思えた。
「う~ん……。別に警察に突き出すとかはしねぇぞ? 何か、悪い事でもしたのか?」
「……してない」
 ぽつり。返ってくる少年の言葉はやはり短く断片的だ。
 そしてここまで来て、亮輔はこれは緊張ではなくこの少年自身の性分によるものなのだろ
うと結論付けようとしていた。
(或いは、そうしないといけない理由でもあるか、だが……)
 ではその事情とは何か。しかしそんな事など亮輔が分かる筈もない。少年本人に訊けば済
む事なのだろうが、直接訊いても答えてくれないことはこの十数分間で嫌というほど経験し
ている。
(あんまり、他人に干渉するのは良くないのかね、やっぱり……)
 こうして一時行動を共にしている時点で干渉していないなどとは言えないのだが、それで
も踏み込んでいけない事の一つや二つ、誰にしもあるものだ。
 しかしそれと場の重苦しさを許容できるか否かはまた別の話ではないかと、亮輔は思う。
 何度かチラチラと少年を見遣ってみる。
 やはり、彼も何度かこちらを窺っているようだ。そしてやはりすぐに視線を逸らす……。
(……そうだ)
 だが亮輔はふとある事に思い至った。
 放っておけばいいのに。
 そんな声なき声が周囲の乗客から投げ掛けられているような気もした。だが、亮輔はこの
まま黙って過ごしてしまうのが何故か我慢ならなかった。
 ──今話さないと、きっと後悔する。
 そんな気がして。
「なぁ、君、名前は?」
 もう何度目とも知らない同じ質問。
「……」
 だがやはり、少年は黙り込んだまま困ったような表情を浮かべている。
 しかしそこまでは亮輔が思った通りだった。
「……言えない、か。でもさ、このまま名無し君呼ばわりも不便だろ」
 だからこそ、亮輔は言った。
「とりあえず亮太……でどうだ?」
 少しにんまりとした、兄貴風を吹かせた笑みの下で。
「……え?」
 初めて漏れた、少年の混じり気無しの感情。
 ついと顔を上げて目を瞬かせる彼にもう一度笑い掛け、亮輔は続ける。
「仮の名前。なんつーか、俺も君を君呼ばわりばかりしてるのも手間でさ。苦手なんだよ、
こう堅苦しいのは」
 それはある意味事実ではあった。会社でも、特に目上の上司などでない限りはフランクに
話す方が性に合っている。学生時代のやんちゃな頃の自分が今も響いているのだろう。
「実はな、その亮太ってのは……俺の子供の名前なんだ。あ、いや、まだいる訳じゃないん
だがな。予定ってだけで」
 ちらと車窓から見えるビルの奥を見遣る。
 無数のビルに隠れて見えないが、そこには自分が、そしてこの少年が目指している場所、
記念病院が建っている。
「……俺が今日病院に行くのはさ、入院してるカミさんの様子を見に行く為なんだ。あ、病
気ってわけじゃないんだ。妊娠中なんだよ。近々、生まれる予定なんだ」
「…………」
 最初は少年との話題の種にしようと思っていた。
 なのに亮輔は話している内にだんだん気恥ずかしくなっていく。それはいきなり見も知ら
ない相手、それも子供にする話なのかという自問が顔を出してきた事、そして。
「……そうなんだ」
 その話を聞く少年の表情が、ふっと緩んだのを見てしまったから。
 数拍、時間が停まる。ガタゴトと列車の揺れる音が遠くから耳に入ってくるかのように。
「……ま、まぁそういう訳で亮太ってのはその生まれてくる子の名前なんだ。因みに女の子
なら智子ってつけるつもりだった。俺とカミさん、両方の名前から一文字ずつ取ってな」
 亮輔は区切りをつけるように、わざとらしくコホンと咳払い。
「ま、まぁ、こっちの勝手な呼び方だけどな……。お節介なら──」
「ううん。いい」
 照れも先行し、慌てて話を閉じようとしたのだが、少年はむしろ距離を詰めてきたように
感じた。言い終えるよりも早く、ポツリと彼の承諾が聞こえる。
 亮輔は内心驚いた。
 間を持たせる為に、名無しの迷子君だけで終わらせたくない……そんなこちらの勝手な気
持ちで語りかけた言葉に思いがけず答えてくれて。
「……その名前で、いいよ」
 相変わらず内気そうな感じのままだったが、少年は確かにそうはにかんで言う。
「あ、あぁ……。分かったよ」
 数秒。亮輔は呆気に取られていたが、次の瞬間には思わず自分もくすりと笑って。 
「……亮太」
 確認するように、少年をその名で呼ぶ。

 ──だけど、この時に俺は気付くべきだったんだ。
 この少年の奇妙な言動に、その存在する意味に。

「……え? 路線を変えろって?」
 電車を降り、乗り換えのホームへと向かおうとしていた亮輔を止めたのは、他ならぬリョ
ウタだった。
 亮輔は改札に入る寸前で、ぐいと彼に腕の袖を引っ張られた形で立ち止まっていた。
「うん。そこに行っちゃ、駄目……」
 その左右を、行き交う後続の人々が迷惑そうに掻き分けて先に改札を抜けていく。
 亮輔はばつが悪そうに苦笑して彼らに小さく頭を下げながら、袖を掴んだリョウタを伴っ
てとりあえず構内の端へと移動する。
「駄目って……。病院にはあそこの快速に乗るのが一番早いんだぞ?」
「ううん……。あっちがいい」
「え? いや、だからな。話聞いてたか? それにそっちの路線じゃ遠回り──」
「お願いだから」
 その時のリョウタの声は、思いもかけないほど強い意志が篭っているように感じられた。
「…………お願い、だから」
 予定していた路線のある方へ視線を向けようとしていた亮輔をぐいっと引き留める、ある
種の懇願のような眼差し。
 その頑なまでの声色と真剣な表情(かお)に、思わず亮輔は押し黙る。
「……分かったよ」
 ポリポリと。亮輔は暫くリョウタを見下ろし、そして観念するように言った。
「お前の言う通りにしてやるよ。別の路を行けばいいんだろ、行けば」
「……! うんっ」
 するとリョウタの表情が一気に綻んだ。
 喜び──否、違う。これは……安堵?
(……。何なんだよ一体……)
 その様子に、亮輔は流石に怪訝に思いつつも、結局渋々方向を変えて歩き出していた。
 構内を交差していく人々の群れ。その中を縫って、リョウタはしっかりとついて来る。
 そんな姿を、小走りで傍らに追いついてくる姿を確認すると、亮輔は密かにため息交じり
の声を漏らしていた。
「……電車賃、余分に払わねぇといけねぇじゃんか……」

 そうして遠回りな路を通った事で、案の定、到着するのに予定以上の時間が経っていた。
「……はぁ、やっと着いた」
 最初は僅かに混じるだけだった夕陽の茜色も、今はすっかり濃くなり日没までのカウント
ダウンを告げている。
 ようやく記念病院のロビーに入った亮輔は小さく息をつきながら、脱いでいたスーツの上
着をひょいと肩に掛け直すと、早速妻のいる病室へと向かおうとする。
「さて……。リョウタ、着いたけどお前の親父さんは……あれ?」
 だが、歩きながら呼び掛けた筈の相手──リョウタの姿がいつの間にか無かった。
 振り返り、辺りを見渡す。
 しかし夕暮れ時というのに院内は中々の混みっぷりを発揮しており、小さな少年一人を見
つけるのは容易な事ではなかった。
 もしかして、もう父親の所に向かってしまったのだろうか?
(……だとしても一言ぐらい俺に礼を言ってからにしろよなー……)
 ツカツカとタイル質の床の上を歩きながら、亮輔は辺りを見渡しつつ思う。
 奇妙な感覚だ。
 ほんの小一時間くらいしか一緒にいなかった相手の、歳も離れた子供の事を、これほど心
配している自分がいるなんて。
(それも、やっぱ近々俺が父親になるからなのかな……)
 母性ならぬ、父性本能とでもいうのだろうか。
 でもまだやんちゃな頃の血が残っている自分が父親なんて……とも思い、苦笑する。
「お、いたいた……」
 そうして探す事二、三分。リョウタはそこにいた。
 待合所の一角、天井からテレビが下がっている椅子とテーブルが複数並んだスペースの人
だかりの中にぽつねんと、リョウタがじっとテレビ画面を見ていたのである。
「ったく、急にいなくなるなって。一応送り届けてきた訳だから、俺も最後まで責任がある
だろ……?」
 だがリョウタは背を向けたまま応えなかった。
 じっと、先程から同じ方向を──テレビ画面を見つめている。
「……リョウタ?」
 小さく呼びかけ、眉根を上げる。
 そして亮輔もそっと彼の傍に近づくと、彼の見つめている画面を見上げた。
『──事故現場上空から中継です。現在、来見東駅を中心に三両の電車が捻れるように横転
しているのが見えるでしょうか? この事故は午後四時四十七分頃、同駅手前七百メートル
にて突然制御を失った──』
「…………」
 そこには、予想もしなかった惨状が映し出されていた。
 上空からのヘリ中継の映像。そこには複数の車両がぶつかり、まるでほつれた糸のように
絡まって線路上に倒れている様子が映し出されている。燃料系統に損傷が起きているのか、
所々から火の手も上がり、関係者による消火作業も行われているようだ。
 列車同士の衝突。
 レポーターから聞こえてきた言葉に、亮輔は背筋が凍る思いがした。
 それはこの街のど真ん中でこんな酷い事故が起きた事だけではない。
「……ちょっと待て、あれって、俺が乗ろうとしてた路線じゃねぇか……」
 本来、一番早くこの病院に繋がっていた路線。
 その路線がまさに、今中継映像の如き惨状の中にあったからである。
「……」
 亮輔は暫くそれから次の言葉が出なかった。
 もしあの時予定通り、あの路線に乗っていたら自分も無事では済まなかっただろう。
 或いは、もう既にこの世には──。
「……。亮太」
 そうだ。亮輔はそこでやっと気付く。
 あの路線は駄目だと言ったのは、リョウタだった。
 何故だ? これじゃあまるであいつが──。
「……。いない……」
 しかし視線を傍らに立っていた筈のリョウタに向けた時には、既にその姿は無かった。
 慌てて亮輔は辺りを見渡す。
(もしかして……)
 信じられないが、もしそうだと仮定すれば……全ての説明がつく。
 何故、自分の前に現れたのか。
 何故、自分と同じ場所へ行こうとしていたのか。
 何故、自分が乗るであろう路線を駄目だと言い切れたのか。
 何故、自分の名前を……名乗らなかったのか。
(もしかして、あいつは……)
 いや、名乗らなかったのではない。名乗れなかったのだとしたら……?
「──ッ! 亮太!」
 思考がかき混ぜられる。
 その中で、リョウタは自分を見つめて立っていた。
 自分から離れた、廊下の奥まった所に立って、自分をじっと見つめて立っていた。
「……」
 リョウタは、とても穏やかな表情をしていた。
 そこには最初に会った時の初対面の相手への緊張の様子は微塵もない。
 いや、厳密には初対面ではなかったのだ。少なくとも……リョウタにとっては。
「お前……」
 身体ごと振り向いて、亮輔は愕然と呟く。
 だが廊下の奥で、差し込んでくる夕陽を浴びながら、リョウタは微笑んでいた。
「……よかった」
 ぼそりと。だけど、亮輔にははっきりそれと聞こえる声で。
「これで、もう大丈夫」
「……」
「これで、もう離れ離れになる事はないと思うよ……。お母さんの事、よろしくね……」
 その言葉で、亮輔は確信した。
 信じられなかったが、やはりそうなのか? お前は、俺の──。
「待ってくれ! 亮太っ! お前は……!」
 亮輔はもう夢中で駆け出していた。
 分かってしまったからこそ、もう届かない所にあいつはいる。だけど、このままさよなら
なんて……無いだろ。
「──ッ!」
 しかし、その目の前を大きなカートを押した清掃員が横切ってきた。
 進路を塞がれる。亮輔はおそらく人生で一番慌てた形相で、そのカートの脇を走り抜けよ
うと、地面を蹴って駆け出そうとする。
「……大丈夫だよ。また、きっと会える筈だから」
 カートの陰に遮られたままリョウタの声だけが耳に入ってくる。
 亮輔はカートの脇を抜けようとしていた。
 もう少しで……もう少しで、届く……。
「────ありがとう。お父さん」
 その言葉が最後だった。
 カートが通り過ぎていく、亮輔がその脇を駆け出す。
 だが次の瞬間には、そこにリョウタの姿は無かった。
 少年の姿は無かった。ただそこには病院の奥へと続く、夕陽の光が注がれた廊下が静かに
延びているだけ。
「亮太……」
 呆然として、亮輔はやがて力なくその場に膝をついていた。
 背後からは未だに断続的な惨劇のニュースが流れている。
 だがその情報は今の亮輔には遠い感覚の出来事のようにしか思えない。
 同じ真実。だが、列車事故よりも重く大事なものが、今目の前で“帰って”しまった。
「…………こっちこそ、ありがとな……」
 急激に跳ね上がって息切れる呼吸。色んな思いが混ざり合って震える声。
 しかしその動揺を必死に収めながら、亮輔は長い長い沈黙の後に呟いていた。
「きっと、未来で──」
 時を越えて自分(ちちおや)を救いに来てくれた、我が息子に。
                                      (了)

  1. 2011/04/28(木) 21:00:00|
  2. 夏の日の幻影
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(短編)硝子野不動産店

 一軒目は、とあるカップルの暮らす部屋だった。
 所謂今時の若者というのに相応しいのだろう。一歩踏み入れてみた部屋の趣も、私のよう
な世代の人間とは違ってある種の明るさのようなものを感じさせる。
「あぁ、物件見学の方ですか」
「ようこそ、私達の愛の巣へ♪」
「はぁ。どうも……」
 住人は、まだ若い青年とその恋人らしき同年代の女性の二人。
 彼らは客人である私の前でも仲睦まじい──砕けた言い方をすればイチャイチャするのを
止めようとはしなかった。
 共に寄り添い、のほほんと幸せそうな惚けた微笑みで私を迎えてくれる。
 見てみれば来ている服までお揃いだった。二人が互いにくっつくとその模様が合わさって
ハートマークに見える趣向であるようだ。
(……所謂、バカップルという奴か)
 そう判断しながらも、私はできるだけそうした思考を顔に出さないように努めた。
 そうだ、別にここには他人の趣味を値踏みする為に来ているのではない。彼らが言うよう
に、私は今物件見学の最中なのだから。
「まぁ立ち話もなんですから。とりあえず上がって下さい」
「お茶、お出ししますね~」
「……はい。では、お邪魔します……」
 玄関先から促されて部屋の中へと通される。
 彼女がとてとてとキッチンに向かっていくのを横目に、私は彼とややファンシーに飾られ
たリビングに相対して座った。
 私達は少し雑談を交わしつつ、話し始めた。
 まだ若い彼らと話が合うのかと内心心配だったがそれは杞憂だったようだ。元々人好きの
する人間なのだろう。テンポよく話題を振ってくれたおかげであまり会話が苦になるような
事はなかったように思う。
 尤も、その半分以上は彼と彼女の惚気話だったような気もするが。
「それで……貴方達はこの物件についてどう思いますか?」
 途中から人数分の茶を持って参加してきた彼女を傍らにする彼に向かって、私はそろそろ
と本題を訊ねる事にした。
「う~ん。そうですねぇ」
 一杯、茶を飲む彼。私も半ば無意識の内に乾いた喉を潤して返答を待つ。
 彼はちらと彼女と顔を見合わせ目配せをすると、言った。
「ここはいい所ですよ。部屋も綺麗だし、機能的だし。何よりも……僕達の事を誰も邪魔さ
れない“絶対の保障”があるというのが魅力的ですね」
「ふふ……そうね。ここにいる限りは、私達はず~っと一緒にいられるもの、ね?」
「ああ。そうだね……」
 言うや否や、二人はまた互いを見つめ合ってほんわかと微笑み合っていた。
 桃色の雰囲気という奴だろうか。
 事前にどういう人の住む物件かは聞いているが、流石に目の前に他人がいる時くらいは遠
慮して欲しいと思う。正直言って……眼の遣り所に困る。
(……差し詰め、自分達だけの空間か)
 それが彼らにとっての最大の魅力だったのだろう。だからこの物件を選んだ。
 だが、それでもと私は内心思う。
 今はまだいいかもしれない。だが若い時というのは永遠ではあり得ない。
 私はのそっと立ち上がりつつ、
「……どうもありがとうございました。この辺りでお暇させて貰います」
 彼らを見下ろす格好でこう訊ねていた。
「最後に一つ……聞いてもいいですか?」
「えぇ。何でしょう?」
「……貴方達の仲は、これからも続くと思いますか?」
 そんな私の質問に、彼らは一瞬だけ小首を傾げていたが、
「えぇ……。勿論です」
「当たり前じゃないですか。ね? ダーリン?」
「ああ、当然さ……ハニー」
 すぐに自信満々にそう答えると再び桃色の自分達の世界に突入していってしまう。
「…………。お幸せに」
 見ていて恥ずかしい気持ちと、同時に静かに湧いてくる哀れみの念。
 私はそうした感情を内に留めて曖昧な笑みを返すと、そっとその場を後にする。

 次に訪れた先は、更にファンシーさに拍車が掛かった物件だった。
「貴方が見学の人ね? 話は聞いてるわ。上がってく?」
「……ええ」
 部屋から顔を出してきたのはまたもや若者、それも所謂ギャルの類の女性だった。
 見るからに自己主張の強い印象。表情こそ笑顔を見せてくれているが、私にはそれが所詮
営業用の笑顔のものに思えてならなかった。
 聞かれて答え、お邪魔しますと上がらせて貰う。
 やはりというべきか、その部屋の中は前の物件の比では無かった。
 最近の若者には詳しくないのだが、今の若い女性というのはこんなに……キャピキャピと
した意匠を好むのだろうかと思った。部屋の中はこれでもかという程に「可愛い」グッズで
埋め尽くされており、さながら着飾った玩具売り場とも言えなくもない。何よりも壁やカー
テンが桃色系というのはこの齢の人間にとっては刺激が強い気がしてならなかった。
「……」
 そわそわと、落ち着かない。
 私は差し出された──これまたファンシーなデザインの座布団に腰を降ろし、この部屋の
主たる彼女と向かい合う。
 もしかしたら先のカップルよりも若いかもしれない。
 私とは違い、眩しいような活気に満ち満ちているように見える。それは単純な若さの差の
為なのか、それとも彼女自身の持つ気質なのか……。おそらく両方だろう。
「……何というか。随分と派手、ですね。ここは」
 やはり私には落ち着かない部屋だ。
 ちらちらと視線を移しつつ、私はとりあえず用件だけを済ませようと思った。
「そうかなぁ? 普通だと思うけど」
 髪先に指を絡め、くるくると弄くりながら彼女は言う。
 駄目だ。感性が……違い過ぎる。
 私はそうですかと苦笑いを漏らしながら、コホンと咳払いを一つ。
「貴方は、どうしてこの物件を選んだんですか?」
「うん? だってぇ、ここなら私はアイドルになれるんだもの」
 すると答えは即座に返ってきた。
 当然でしょ? と言わんばかりの彼女。だが当の私にはすぐにはピンと来なかった。
「私ね、アイドルをやってるの。ほら、これ見て? 今までの仕事の写真だよ」
 そうしていると、私の空白を知ってから知らずか、彼女は戸棚から大きなアルバムを取り
出すとテーブルの上に広げて見せてくる。
 アイドル。確かにそういう感じの衣装を身に纏い、大勢の観客らしき人々の前でマイク片
手に歌っている様子が何枚にも渡って収められている。
 暫く、彼女の口からは自身のアイドル活動(しごと)についての自慢話が続いた。
 私のような人間にとってはとんと縁の無い世界の事でしかなかったが、少なくとも彼女が
心底この仕事を望んで楽しんでいるらしいことは分かったような気がした。
「……」
 だが、これらはおそらくこの“中”での事なのだろう。
 だとすれば彼女の理由はアイドルをする──他人に注目され、愛されたいという欲求に起
因していると考えられる。
「……でも大変じゃないですか。素人考えですが、こういう仕事というのは」
「確かにね~。でもそれ以上に充実してるって感じの方が強いかな~。それもこれも、全部
この物件を選べたからだから。私は満足してるよ?」
 注目されたい。他人から寄り添われたい。
 正直意外だった。この物件を選ぶ人間というのはその“中”に自分だけの理想を欲しがる
者達──特にある意味で後ろ向きな者達だとばかり思っていたから。
 だが……よくよく考えてみれば、それは不思議な事ではないのかもしれない。
 単に方向性の違いなだけなのだろう。自分の“中”と“外”──そのどちらに求めるもの
があるのかというだけの事なのかもしれない。
「……なるほど。望んだ暮らしが、できているんですね」
「はい。もっちろんです」
「……そうか」
 ここは、もうこの辺でいいだろう。
 彼女の自信満々の返事に苦笑しつつ、私は立ち上がった。
「それじゃあ、私はこの辺で。……仕事、頑張ってね」
「うん。ありがとね、オジさん♪」
 私は苦笑と共に、何処か物悲しさを覚えつつも彼女の部屋を後にした。

「──用件は手短に済ませてくれ。私も暇じゃない。スケジュールが詰まっているのでね」
 三軒目は、それまでとは打って変わって重苦しい雰囲気に包まれた物件だった。
 先ず玄関からして先の二物件と比較にならないほど広く、そして高級感が漂っている。
 出迎えてくれた秘書風の男性に案内され、部屋に中で私を見返したのは妙な威圧感を放つ
中年の男性だった。
「は、はい……」
 促され、これまた高級そうなソファに腰を降ろし、この部屋の主たる彼と向き合い座る。
 まるで物理的に息苦しさを感じる。元々下々な部類の私にとっては、先ずこんなハイラン
クの人種とは接点を持つ事はないのだから無理もない。
(……文言通り、手短に済ませて帰ろう)
 向かい合って座る男性の威圧感。私の背後でそっと佇む、秘書の気配の消し方の高度さ。
 私は恐る恐る、早速本題を投げ掛けていた。
「えっと。その、貴方は何故この物件を選んだんでしょう? この物件には、満足ですか」
「完全に満足、と言うと嘘にはなるかもしれんな。だがここは良い部屋だ。私の要望を確実
に取り入れて作られているからな……。何よりもここなら決して話がマスコミ連中などに漏
れないというのが魅力だろう」
 ワイルドに葉巻を片手に、男性は大仰に野太い声で答えた。
 それだけなのに妙に圧迫感を感じる。
 “政治家”というのは生で会うとこんなに凄いものなのか。それとも本人の放つ個人的な
強い自信と意志が成せる業なのか。
 見た所、歳は私よりも一回り以上も上になるのだろう。
 私も、これぐらいの齢になればこれほどの貫禄がつくのだろうか?
 いやおそらく……それは、無い。
「……あの。もしかして“外”でも同じなさっていたんですか?」
「うむ。そうだな、長い事この世界でやっておる」
「そ、そうですか……」
 なるほど。ならばこれ程の貫禄──深められた経験の大きさも納得がいく。しかし……。
「ですが、では何故わざわざこの物件に……?」
「…………」
 そう、ふと疑問に思って口にした私の一言。
 すると彼が静かに眉間に皺を寄せる様がはっきりと窺えた。 
 拙い……。琴線に触れてしまったのだろうか?
 私は思わず身体中が緊張で固まる感触を味わう。
「……この世界は、皆が昇り詰めたいと願うものだ」
 だが、男性はそれ以上特に怒りを表す事もなく、葉巻を吸って一服するとそっとテーブル
の上の灰皿にその火を押し付けて消しながら言った。
「だが、権力の座というのは限られている。そして純粋な手腕だけでは、そこに辿り着く事
はできないのだよ……」
 そういう彼の眼は何となく先ほどに比べて遠くを見ているように思えた。
 何を指して言っているのか、私にはよく分からなかった。
 だが多分、彼は“外”で望むほどに「昇る」事ができなかったのだろう。
 だとすれば、もしかして彼がここを選んだ理由とは──。
「理由は明白だ。私は新しく昇り詰める為にここに来た」
「……ですが」
 やはり。だがと、同時に私は思う。
 ここならば『望む部屋』を宛がわれる。
 しかしだとすれば、この“中”での権力闘争とは所詮──。
「ふん……。勘違いしないで欲しいな? 私は何も“出来レース”を設えてまで達しようと
は思っていない。あくまで私の望んだ物件は、やり直す事のできる機会……それだけさ」
「…………」
 私は言葉を失っていた。
 そこまで、欲しいというのだろうか。
 おそらく“外”で彼なりに“敗けた”現実をやり直す。
 それも後悔などではなく、きっともっと前向きな、いや貪欲なまでの野心に近い意志の下
に選んだ道。そこにはある種の荒々しいながらも「強さ」があるのではないか。
「……ありがとう、ごさいました。これで、失礼します」
 私は立ち上がっていた。逃げるように、その場かた立ち去ろうとしていた。
 男性は二本目の葉巻を吹かせながら「うむ」と鷹揚とソファに踏ん反り返っている。
 小さく頭を下げる秘書に軽く会釈をし、よろよろとその傍を通り過ぎようとする。
「……。あの」
 私は、それでも最後に一つ、言葉にせずにはいられなかった。
「……どうして。何故、貴方はそこまでして欲しがるのですか?」
 だがその返事は、躊躇する様子など微塵も見せず返ってくる。
「常に更なる高みを目指し続ける事……。それに理由など要るのかね?」

 続いて訪れた四軒目も、やはり豪華な物件だった。
「おぉ、あんが見学者さんかいな。ほら、入り入り」
「あ、はい……」
 だが今度の部屋の主は先の男性のような威圧感とは対極にある人柄らしかった。
 それでも彼の着ている服装は高級そうなブランド物の私服であるらしい。私はやや強引な
相手のペースに呑まれつつ、またもややたらにだだっ広い室内に通される。
 中は高級調度品ばかりという訳ではなかったが、広々としたスッキリとしたオフィスにも
似た部屋だった。
 その一角に陣取るデスクの上には数台のパソコンが忙しなく何かを表示している。
 何だろうと思ったが、それを確かめるよりも早く男性がその椅子に「よいせっと」と腰掛
けてくるりとこちらに向き直ってきた。
「まぁ、立ったままも何やし座りぃな」
「え、えぇ……」
 言われて別の空いた椅子に座る。
 向かい合ったこの部屋の主たる男性は、私を見てニコニコと嬉しそうな笑みを浮かべてこ
ちらを見遣っていた。
 少なくとも先の住人のような攻撃的な感じはしない分、一安心といった所だろうか。
「……広い、ですね」
 ぼんやりと部屋を見渡してからぽつりと言う。
 まるで余白のように白地の空間が床や天井を構成し、むしろ住人たる彼のいる場所だけが
ポツンと佇む点のようにすら思える。
「そやな。最初はもっと色々取り揃えるつもりでデカイ部屋を注文したんやけど……結局、
止めてもうてなぁ。無駄に広いだけになってもてん」
 言いながら陽気に笑うこの男性。
 それにしても……と私は思う。
 そうは言っても、これだけの広さの部屋を買えるのだ。つまりは彼もまた、相応の財力を
持った人物である事に間違いはない筈である。
「そうですか……。こんな広い部屋という事は、貴方も中々裕福な方なんですね」
「はは、まぁな。貴方も……って事はおっさんもそうなんか?」
「あ、いえ。私はそうではないんですが。一つ前に見学に行った所の方も裕福そうでして」
「ふ~ん? まぁ色んな奴さんがおるみたいやしなぁ、ここは」
 だが彼は裕福である事を鼻に掛けている様子はなさそうだった。
 私の話を軽く聞き流すようにして、ちらと半身を返し、片手でキーボードを操作しながら
モニターを見遣る。
「……俺はな、昔、デイトレーダーやっとってん」
「デイ、トレーダー……」
 すると背中を向けた格好で、彼は突然ぽつりとそう口を開いた。
 その言葉に思わず小さく復唱する。日毎の売り買いで儲けを狙う投資家、という奴か。
 私は頭の中で横文字を再確認して、そっと彼の背中を見遣る。
「この仕事は儲けが出る時と出ぇへん時があるんやけど……それでも俺は運が良かったんや
ろうな。始めて暫くして食うに困らんくらいの金が転がり込んで来てな」
「……」
 しかし、羨ましいとは何故か思えなかった。
 それはそう語る彼自身の背中が何処か寂しく映ったからだ。言葉こそ軽快だったが、そこ
に込められた色彩は明るい色というよりは鈍色の雲空ように思えたのである。
「……では、どうしてここに?」
「……。簡単なこっちゃ」
 苦笑い。彼はくるりと椅子を回して私の顔を見返しながら言った。
「金が集まって、俺の所には色んな奴がやって来た。でもそいつらは別に俺が目的やったん
やない。俺が持っとった金が欲しかっただけなんや」
 それだけで何となく彼が言わんとしている事には見当がついたような気がした。
 ポリポリと彼は頭を掻く。ふぅと頬に溜めた息を吐き出して数秒、真っ白な天井を見る。
「……俺は嫌になって逃げたんや。どうせ“外”におっても碌な事はあらへんしな。何処か
ええ場所は無いやろかと思ってたんや」
「……だからここを選んだんですね」
「そうや。ここなら基本的に誰も邪魔は入らんしな。入居するんに必要な金かて幸か不幸か
充分余っとる訳やし」
 彼は小さく、随分と力が弱まったように頷いてくれた。
 分かるような気がする。
 金持ちの気持ちが、ではなく人が、世の中が嫌になる過程のようなもの。
 その匂いが、もしかしたら自分と同じかもしれないと思ったのだ。
『…………』
 暫く、私達は互いに黙って見遣り合っていた。
 話題が話題なので仕方なかったのかもしれない。私も気の効いた言葉一つ返せず、ただば
つの悪い苦笑を漏らしている彼を見遣るしかなかったのだから。
「そやけどな……」
 そんな沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「こうやって篭ったって、何か変わるもんやないと思うねん」
「……?」
 僅かに眉根を上げる。そんな私に彼はまたも苦笑いを向けてくる。
「まぁ、アレや。その……今度は人恋しぅなってもうてなぁ」
 その表情は恥ずかしさも含んでいるようだった。
 それでも私は同じ様に苦笑する事はできなかった。口調自体は軽くても、それを単純に笑
ってしまえるほど私は鈍感ではないと思う。思いたかった。
「そやから、おっさんみたいにこうやって見学に来る奴さんがおったらできるだけ迎え入れ
るようにしとるんや。……何か年寄りみたいな事言うと思われるかもしれへんけど」
「……そんな事はないですよ」
 今度は正直に応えていた。それに、少なくとも自分の方がずっと年寄りに近いのである。
 それから暫く、私達は取り止めも無く雑談を交わす事となった。
 途中で彼が淹れてくれたコーヒーを片手に、お互い初対面の筈の私達は存分に語らったの
ではないかと思う。
「外に出て行く気は、無いんですか?」
 その中で、念の為に私はそうした質問も投げ掛けてみた。だが、
「う~ん……無い、やろうなぁ。人恋しいって言っといても、やっぱ“外”の人間に嫌気が
差してるのも事実やし……。ま、何だかんだ言って勝手なんやろな……」
 彼はそう、何処か揺れ動くようにして答えるに留まるだけだった。
「──では、私はこれで」
「そっかぁ……。色々とすまへんな、長々と付き合わせてもうたりして」
「いいえ。いいんですよ……」
 やがて立ち上がる私に、彼はあくまで最後まで気さくに応じてくれていた。
 別の誰かは彼を貶めるかもしれない。だが、私はそんな気にはなれなかった。やはり何処
か同じな匂いを(勝手に私が)感じていたからなのだろうか。
 真っ白な、だだっ広い部屋を通り過ぎて、
「……機会があったら、また会おうな。おっさん」
「…………。ええ、きっと」
 彼は玄関口まで私を見送ってくれたのだった。

 そして最後に訪れたのは、ある意味一番自分に近い存在だったのかもしれない。
「……見学の人?」
 ゆっくりと開かれた扉から顔を覗かせたのは、一人のひょろっとした青年だった。
 その顔色は暗く、悪い。
 所謂“世間一般”の眼からすれば彼は異様に映っただろう。
 だが私は、彼に不思議と嫌悪感を感じる事はなかった。
 理由は……簡単だった。
「まぁ、どうぞ……」
 生活感の薄い室内。部屋自体も薄暗く、唯一の光源は静かに灯っているパソコンの光くら
いであるらしい。ある意味男の独り身所帯らしい、散らかったままの「自分の城」の姿。
「──えぇ……。リストラ、みたいなものですね」
 派遣切り。
 それがこの青年の抱える負の様相の一因であった。
 散らかった部屋の物を適当にあちこちに除けて作られたスペースに座って、私は訥々と語
られてる彼の身の上について耳を傾けていた。
 家も、頼る相手もいない。
 そこで見つけたのがこの物件だった。
 できるだけ安く、そして彼自身の望み──もう世の中で生きていかなくていい環境を実現
する部屋がこの物件なのだそうだ。
 嫌悪感? 感じる必要性が何処にあるのだろう。
 彼はそうした眼が向けられるのを承知でここを選んだ。ここにいる事で“外”と関わらな
くて済むのである。
「……おじさん。何で僕みたいな所に来たのさ」
 だが当の彼は予め告げられていたとはいえ、私という見学者(ものずき)に対して怪訝の
眼を少なからず向けているようだった。
 しかしながらその眼に非難などといった攻撃的な威力は殆ど感じられない。むしろ何かを
読み取れるほどの力すら、彼は厭っているのかもしれなかった。
「……。きっと、君にと似ているからかもしれないね。私も、同じ願望なんだと思う」
 少し押し黙ってから、私は答えていた。
 もう無用に着飾るような発言はもう要らないだろう。既にここを訪れようと決めた時から
むしろこうした姿がある事を確かめたかったという側面すらあったのだから。
「……そう」
 だから、私はむしろほっとしていた。
 最後に私を引き止めていたのは、多分自分だけが悲劇ではないかという思いだったのかも
しれない。でも、ここに来た事でそれはもっと遍く広がっている現実なのだと知る。
「……おじさんも、ここに住む気なんだ?」
「あぁ。一応、そのつもりではいる」
「…………そっか」
 そこでようやく、この青年が少しだけ顔を綻ばせてくれたような気がした。
 仲間。きっとそんなフレーズが頭を過ぎったのだろう。
 そうさ、きっと間違っていない……。
「……」
 静かに部屋を見渡す。散らばった独りの生活の痕跡。
 そこでふと、私はあの部屋の彼の事を思い出して訊ねていた。
「……君は、ここに来て寂しいと思った事はないかい?」
 青年は最初、まるで意味が分からないといったような表情を浮かべていた。そして次に滲
ませたのは怪訝の気色。
 だけど彼も、色々と考えてくれたのだろう。
「……ない訳じゃないけど。もう出て行きたいとは思わないから……」
 虚ろ気味な瞳の中で何かを処理していったその後で、
「独りの方が……落ち着く」
 そう、ぽつりと言葉を返してくれる。
 そしてその言葉が、最後の一押しとなってくれたのだと思う。
「…………そうか」
 私はようやく──決意を固めた。


「──如何でしたでしょうか、当店の物件は?」
 そこは街角の中にひっそりと佇む小さな店だった。
 カウンターテーブルの中からそう営業スマイルを浮かべるのは、一人のスーツ姿の妖艶な
女性。そしてそんな彼女に相対して座っているのは、
「……えぇ。どれも個性的でした」
 一人のやつれた感じの中年男性だった。
 スーツを着てこそはいるが、長い間外にいたままなのかその風体はボロボロと表現するの
に充分に見える。その顔に貼り付けている表情も、痩せこけて活気とは程遠く、女性のそれ
とは対照的だった。
 男性は出されたお茶を静かに啜ってから、そう苦笑いを浮かべて答えた。
 しかしその表情は一方で何処かで吹っ切れたようにも見えなくもない。
「……本当に、希望の部屋に入居できるんですよね?」
「勿論ですわ。お客様の要望に最大限お応えできる、それが当店の最大の持ち味ですので」
 言って、女性は書類の山の中から一枚の見積書を男性に差し出してきた。
 男性も心持ち覗き込むように、その文言を一字一句確かめるように目を落としていく。
「……あれ? あの、この値段間違っていませんか? 安過ぎるんじゃ……」
「いいえ。これが正規の価格となっております。ただお客様のご希望がまだ大まかなものだ
けしか指定されておりませんので、細かい指定があればその分嵩む事にはなるでしょうが」
「そうですか……」
「ですがご安心下さい。当店はお手軽に“お客様の望むままのお部屋”を提供させて頂く事
をモットーとしております。条件を詰めていっても相場の三分の一、いえ四分の一程で提供
できるかと」
 女性は明るく微笑んだままそう言葉を続けると、サラサラとメモを走らせ、手馴れた手つ
きで電卓のボタンを叩いていく。
 そして、それが終わった後で示された額を覗き込んで男性はまた目を丸くした。
「……え? 安い……。本当にこんな額で……」
「はい。勿論です」
「……あ、あの。安過ぎませんか? 私から言うのも何ですが、これじゃあ利益どころでは
ないのでは……?」
「大丈夫です。そこの所はご心配なく♪」
 それでも女性の表情は変わらない。
 男性は暫くの間目を力なく瞬かせていたが、やがて再びカウンターテーブル上の明細に目
を通しながら意を決するように呟く。
「……では、これでお願いできますか? 支払いは、金策が出来た後になると思いますが」
「はい。ありがとうございます~」

 それから間もなく、男性は明細のコピーを片手に店を後にしていった。
 店内には差し込み始めた夕陽の光が静かに漏れ、カウンターテーブルには女性だけが残さ
れる形となった。肩肘をついて暫くのんびりと時間の流れに身を任せる女性。
「…………安過ぎる、か……」
 すると、誰にともでもない呟きと共に、ふっと彼女の口元に描かれる弧。
 一度自分以外誰もいない店内を一瞥すると、彼女はおもむろに立ち上がると店の奥へと消
えていく。
「……ふふ」
 そしてややあって出てきた彼女の手には、大きな木組みの枠とそこに被せられた白い布。
 それらをそっと注意深くテーブルの上に置くと、彼女は布を取り払う。
 そこには、大粒の硝子球のような無数のオブジェが木組みの枠で仕切られた中に丁寧に収
められていたのである。
 だが、それはただのオブジェではない。
 硝子玉の一つ一つ。その中には無数の人間の営みが封入されている。
 愛し合い、邪魔者を嫌った若きカップル。
 皆に愛されたいと願ったアイドル志望の女性。
 権力の座をもう一度狙い、新しい舞台を望んだ野心家。
 金に翻弄され、人に翻弄され、世の中を疎んだ者達。
 それらの一つをそっと手に取ると、彼女は静かに妖艶な笑みを口元に浮かべた。
「これだけ一度に大勢の人間を観察できるんだもの……。それに加えて無意味に利益を得よ
うなんて……贅沢過ぎると思わない?」
                                                      (了)

  1. 2011/04/28(木) 21:00:00|
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(短編)本の蟲

 窓の外から差し込む陽の光が廊下を淡く茜色に染めている。
 時間帯は放課後。昼間は生徒達でごった返していた校舎内も、時間の経過と共に静けさを
増していっているように思う。
 僕はその日も、鞄を肩に引っ掛けて一人廊下を進んでいた。
 時々擦れ違っていた生徒達の人影もここまで来ると殆どなく、しんと静まり返っている。
耳に入ってくるのは遠く窓の外、眼下のグラウンドで部活に勤しむ運動部員達の声くらいな
ものである。
 一般教室のある普段学生生活の大半を送る場所とは距離を置き、渡り廊下で繋がれている
別棟。そうした立地条件からなのか、放課後という時間帯故なのか、或いはもっと別の理由
があるからなのか。
 あの時以来、この頃合に訪れる度に思う。
 随分と此処は何処か周りの空間とは違うような……そんな気がしなくもない。
(……あ)
 だがそんなぼうっとした意識も、視線の先、目的の場所のすぐ傍らに佇む人影を確認した
ことで掻き消える。
「……」
 図書室と書かれた札がぶら下がる部屋の前。
 そこに一人の女子生徒が軽く壁に背を預けて僕を待っていた。
 ドクン。もう全くの初対面ではないのに、ついつい胸が一際強く脈打つ音が聞こえるよう
な感覚が僕を包む。
 歩みをゆっくりと緩め、僕は適度な距離を取って視線を遣ってきた彼女を見つめた。
「……待ってたよ」
 すると彼女は、背を預けていた身体を起こして、サラッと髪を揺らしながら。
「どうぞ。入って」
 そう静かに僕に微笑みかけてくる。

 最初に彼女と出会ったのは、もう数ヶ月ほど前になるだろうか。
 ちょうどその頃は学期末の試験を控え、僕も周囲の皆も試験勉強へ突入する空気、面倒さ
を漏らす嘆息の雰囲気の中にあった。
 だから僕が放課後、図書室へ自習しに行こうと思ったのは何も不思議な事ではない筈だ。
「……」
 だけど、そこに彼女は立っていた。
 肩に引っ掛けた鞄が心持ちズレるのも余所に、僕は最初ポカンと彼女の姿を認めた位置で
立ち尽くしていた。
 一体誰だろう? 見覚えはない。
 だがうちの制服に包んでいるという事はうちの生徒なのだろう。
 落ち着いた感じの雰囲気を醸し出していることもあってか、その時僕はすぐに年上、先輩
なんだろうと結論付けていた。
 だがそれよりも僕がついつい見遣ってしまっていたのは、
(…………。綺麗な人だな)
 彼女が結構な美人さんだったからで。
 すらりとした体に、腰元まで伸びた長い黒髪。モデルだと言っても通用しそうな容姿。
 更に小脇には参考書らしき数冊の本が抱えられている。それが知的な印象を与え、彼女を
より魅力的に見せているような気がした。
「……君、もしかして試験勉強に来たの?」
 そんな僕に、彼女は不意に話しかけてきた。
 中断される思考と弾かれるようにして緊張する全身。
「え。あ、は、はい……。そうですけど」
 その様は自分でもちょっと情けなかったかもしれない。
 だけど彼女はそんな僕を特に笑い者にするでもなく、にこりと微笑みかけてくれていた。
「そっか……」
 数歩、その笑みのままこちらへと近づいて来る彼女。
 その一歩毎にカチコチに緊張する身体が更に強張るような感じがして……。
「じゃあ私が勉強、教えてあげよっか?」
「え?」
 だがそれも、次の瞬間、突然彼女の口から発せされた言葉で吹き飛んでいた。
 思わずポカンとしていた僕の顔は格好悪かったんじゃないかと思う。
 だけど、彼女──多分先輩はそんな事は特に気にしているような様子もなくて。
「……あ。いや、でも。試験があるのは先輩……も同じじゃないんですか?」
「私? ううん、大丈夫よ。私なら、ね……」
 言うや否や、先輩は図書室の入口の前に立つとガチャガチャと何やら施錠を弄り始める。
「そ、そうですか……」
 掌から覗くのは図書室の鍵だろうか。だとすれば先輩は図書委員なのだろうか。
 少しの間、僕はその場で立ち尽くしていた。
 そうしている内にやがて鍵が開き、ガラリと入口のドアが開く。
「……さぁ。どうぞ?」
 窺い見えるガランとした室内。その視界の傍らに立って招き入れてくる先輩の姿。
 見も知らぬ筈の自分に何故いきなりそんな事を言ってきたのか。
 そんな当然の疑問も脳裏を過ぎった筈なのだが、何故かその疑問にはあまり深く突っ込め
なかったような気がする。
「? どうしたの?」
「あ、いえ、何でも……」
 正直、僕自身そんなに勉強が得意ではないこともあり、教えてくれる人がいるのはありが
たかったというのもあったのだろう。それも相手が美人の女の子なら尚更だ。
「……じゃ、じゃあ」
 だがそれ以上に、
「お言葉に甘えて……。失礼、します……」
 他人の厚意は素直に受け取るべきだと思ったのが大きかったのではないかと思う。

 そうして試験勉強を助けて貰ってからというもの、何時しか僕らは週に数度、図書室で先
輩に教えて貰う形で一緒に勉強するようになっていた。
「──えぇ。だからここはこうなるから……」
 最初に会った時の印象に違わず、先輩はとても頭が良かった。
 加えてその教え方も丁寧で分かり易く、おかげで当初は正直危なかった試験も、いざ蓋を
開けてみればそれまでの自己ベストを大きく上回る結果となった。
「あ、はい……。じゃあ、えっと……」
「そうそう。正解よ」
 結果を出せた事は嬉しかったが、内心では先輩に褒められて教わったのが大きいのではな
いかとも思う。
 傍から見れば異性に乗せられているという見方もできるのかもしれない。
 だがこうして自分でも結果を出せる、知識が自分のものになっていくのが心地よく思える
ようになっているのは、今まで生きてきた中でも新鮮な感覚ではないかと僕は思っている。
 夕暮れ、放課後の図書室。
 僕達はその奥まった、本棚に囲まれたいつもの席で勉強に励んでいた。
 室内には他にも数名の生徒が自習をしたり、本を読んだりしている。
 静かだった。それは自分自身が集中しているのもあるのだろう。差し込んでくる茜色の光
や遠くから微かに聞こえるだけの外の物音。
「……」
 今僕は、いわば先輩と二人っきりの世界にいるのではないかとさえ思える事がある。
「? どうしたの?」
「え。あ、いえ、何でも……」
「そう? ふふ……」
 いけない。ついぼうっとしてしまっていた。
 でも先輩は慌てて机に向かい直すそんな僕をニコニコと笑って見つめていた。
 机上には先輩が、一部は僕が持ち込んだ参考書の類が積み上げられている。
 それらの頁の所々には挟まれた付箋。今まで解き進めてきた箇所の印だ。こうして視覚的
にはっきりした痕跡を確認できると、尚の事達成感が沸く。これも先輩の知恵なのだろう。
 ちょうど、そんな時だった。
「……?」
 ふと、室内に微かなノイズが混じったメロディが流れ始めた。
 校舎全体に染みこむかの様なポツポツとしたもの寂しい曲調。残っている生徒達に下校時
間を告げる放送音楽だった。
 その中でちらと顔を上げていたのは僕だけではなかったようだ。
 奥から窺ってみると、室内の他の生徒たちもメロディの下でいそいそと帰り支度を始める
べく動き始めていた。
「……。じゃあ今日はここまでにしておきましょうか」
「あ、はい……。ありがとうございました」
 コクと小さくいつものように頭を下げて荷物をまとめる。
 だが先輩は、手元に自分の持ってきた参考書を引き寄せただけですぐに動こうとしない。
「? 先輩?」
 他の生徒達が次々に図書室から出て行く。
 それらを背景にしながら僕は先輩のその様子に気付いてついそう呼びかける。
「あ、君は先に帰っていていいよ。私は、まだやる事が残っているから」
 それは図書委員の仕事のことだろう。整理整頓や施錠とか、雑務の類。
「そうですか。じゃあ、お先に失礼しますね」
「ええ」
 なので僕はそう微笑み返す先輩に一言掛けると、図書室を後にする事にした。
 ガラリという音が静かに響くように室内を抜けて行き、消えていく。
「…………」
 彼女は独り、室内に残される格好となった。
 それでも彼女は暫くの間、黙って席に着いたままだった。
 手元に引き寄せていた本を集めて積み上げる。沢山の付箋をその中に蓄えた参考書の山。
彼女は指先で、その付箋一つ一つに触れていく。パラリパラリと紙の擦れる音がする。
 その表情は変わらずに冷静。だが、何処となく妖しさを持つ微笑みを湛えている。
「……たいぶ溜まってきたわね」
 やがてそっとその手を本の山から離す。
 そしてそこから静かに片肘をつき、ちらりと入口の方へと視線を向けると、
「そろそろ、かな……」
 彼女は独り、誰にともなくそう呟いていた。

 そしてその日も、僕は先輩の待つ図書室へと足を運んでいた。
「あの、先輩。それ参考書……ではないですよね」
 いつもの本棚に囲まれた奥の方の席。
 そこへ鞄を降ろして席に着きつつ、僕は先輩と机の上に置かれていたその代物を見遣ると
一応そう確認してみる。
「えぇ、辞書よ。沢山の知識を溜め込んだ、ね……」
「辞書……?」
 先輩の言う通り、他の参考書に混じって机の上に置いてあったそれは確かに辞書のように
も見えた。深緑色のカバーで装丁されたいかにも分厚そうな大きな本。しかしその色合いは
見るからに古びた感じを受けた。
(随分とボロ……古そうな本だよなぁ)
 余程使い込んだのだろうか。いやそれにしてもこの古さは先輩個人という域ではないよう
な気がする。大方、親御さんや祖父母の代からの物といった所かもしれない。
「さぁ、始めましょうか」
「あ、はい……。お願いします」
 しかしそんな思考も束の間。
 先輩の声と向けられた微笑みと共に、僕らはいつものように勉強を開始する。
「…………」
 その日もいつものように、いやいつも以上に捗っていたように思う。
 今日だけではない。ここ暫く、この一時での勉強内容は随分とスムーズに頭に入ってくる
ような気がする。そしてそれは試験結果などでも証明されている。
 室内はしんとしていた。
 静かなのはありがたい、こちらとしても集中しやすい。
 だが……。
(……今日は、誰もいないのか)
 改めてちらりと視線を室内へと遣ってみると、どうやら他に利用している生徒の姿はない
ようだった。道理で静かな筈である。
(……待てよ)
 だがそこで僕はやっと気付く。
 という事は、今ここは自分と先輩の二人っきりの状況となる訳で……。
(うっ……!?)
 突然心臓の鼓動が激しくなった。
 顔面が、火照ってくるような感覚に襲われる。
 今まで全く意識していなかったというと嘘になるが、改めてその状況にあるのだと認識し
たと同時に、自分の理性とは関係なく身体が急に動揺し始めた。
 先輩の声が遠い。何度か目を瞬いてみるが、目の前のノートに書かれた内容すら頭に入ら
なくなってきている。
 だ、駄目だ。先輩は別にそんなやましい気持ちがあってここにいる訳じゃないのに……。
「──江口君」
「!?」
 先輩の声。それも、今までにないくらい至近距離から。
 僕は更に心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じながら、反射的にその声の方に振り向いた。
「…………」
 近い。振り向いた僕の顔面ギリギリに、先輩の顔が迫っていた。
 その表情はいつもの微笑みを向けている。だが自分が現在進行形で意識している所為もあ
るのだろうが、妙に妖しい感じもする。
(……あれ?)
 だが、ふと一つおかしい事があるのに気付いた。
 だって先輩はさっきまで僕の“右側”にいたのに、今僕は左を向いている──。
(いつの間に……?)
 だがそんな疑問すら、先輩が至近距離まで詰めて来ているという事実が吹き飛ばす。
「ふふ……」
 そんなこちらの葛藤を知ってや知らずか、一方の先輩はいつも通り(?)笑っていた。
「せ、先輩……?」
 心臓がバクバクと鳴っている。
 今までにない至近距離で先輩の顔がある。
 こっちが動けばいいのは分かっている。だけど何故かその場から動けない。
 緊張のあまり身体の自由が効かない?
 それとも、僕はもしかしてを期待しているとでもいうのか……。
(……い、いや、駄目だろ。そ、そんなの……)
 理性とか本能とか。
 何だか色んな雑念が頭の中を駆け巡っていて、律する意識が定まらない。
 だから。
『…………』
 自分の背後で、あの古びた辞書がひとりでに動き出した事にも気付かなくて──。

 ──始め、大きな物音が響いた。
 ガタンと椅子が倒れる音、短く上がった半身を返した少年の悲鳴。
 そしてそれらを掻き消すように響いて消えた、何者かの激しく蠢く物音。
 次の瞬間には、少年の姿は消えていた。
 いや、消えていたという表現は正確ではないだろう。
 そう……“喰われた”というべきか。
「……どう? 美味しかった?」
 この学校の制服を纏った少女がそっと中腰の姿勢から立ち上がって言った。
 その視線の先には少年──ではなく、
『うむ。久々の美味といっていいだろう、良き知識欲の味だ』
 まるで生き物のように大きな口を開いた、あの古びた辞書に向けられながら。
『しかしそれだけではないな……。淫欲が混じっているぞ』
「ふふ……。あらまぁ」
 開かれた分厚い頁の中から見えるのは奥底も見えぬ暗がりが覗く大きな口。
 唇に当たるらしい本の上下の端からは何本もの鋭く尖った歯が生え、口の中から延び出て
いる無数の触手らしきものと共に「怪物」を形成している。
『お前が今回の少年(えもの)に余計な節介をし過ぎたのだ。だから彼も邪な念を抱き、味
にも影響を与えたのだぞ』
「細かい事言わないの。いいじゃない、ちょっとぐらい」
 そんな本の“蟲”を相手に、彼女は驚く事もなくむしろ旧知の友と話をするかのように気
さくで、そしてにこやかな微笑みすら見せていた。
 床に落ちていた上履きの片方。
 それを彼女は拾い上げるとそう言いながら、蟲の口の中へ放り込む。
『……全く。お前は少々悪戯が過ぎる。そんな気など微塵もない癖に』
 それを触手が伸びてきて掴み、鋭い牙が粉砕する。
 もしゃもしゃとごく普通の食事をするように、蟲は残った少年の残骸をもあっさりと飲み
込んでしまう。
「文句言わないで欲しいわね。折角貴方好みの“知識欲豊かな食事”を用意してあげている
っていうのに。私にだって少しぐらい楽しませて貰ったっていいじゃない?」
『…………やれやれ。まぁいい……』
 蟲はそれ以上非難をするのを諦めたようだった。
 仰々しくため息をついてみせると、もそもそと机の上を這い、彼女の傍に近づいていく。
「ふふ……。じゃ、次に行きましょうか」
『そうだな……』
 彼女はその蟲──古びた本を拾い上げ、残りの参考書なども小脇に抱えるとゆっくりと入
口の方へと歩き始めた。
「今度はもっと偏差値の高い場所に行きましょうか。その方が頭のいい獲物がいっぱいいる
んじゃない?」
『……いや、むしろ高過ぎるのは好かぬな。ああいう階級の連中は知識欲があってもその知
力を過信して奢っている者が少なくない。そんな者はもう脂がしつこ過ぎて喰い飽きた』
「そう? じゃあ、今度も似た所にしましょうか」
『あぁ、そうしてくれ』
 蟲と少女と。
 普通ではない組み合わせのその二人組は、そのまま何事も無かったかのように図書室を後
にしていく。
 静まり返った室内。
 そこには誰もおらず、その奥まった机上に少年の文房具が散らばっているだけだった。
「分かったわ。……次も、美味しい食事を用意してあげる」
 ガラリと、舞台となったその部屋のドアが閉じられる。
 隙間から覗く、彼女達の姿と声を遮りながら。
                                      (了)

  1. 2011/04/28(木) 21:00:00|
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(長編)レディ・ルーン-Bonds of RU'MALE-〔6〕

「……どうして二人がここに?」
 予想外の人物らの登場に、陽は思わず目を瞬いて呟くように口を開いていた。
「それはこっちの台詞だよ」
「陽君こそ、どうしてここに?」
 耀金と妃翠。二人はめいめいに言いながら陽の傍まで近付いて来た。
 怪訝を隠さずに眉根を上げている耀金の傍で、妃翠はちょこんと小首を傾げて言う。
「う、うん。小野寺先生──図書委員会の顧問の先生なんだけど、その先生から今度委員会
の会議で使う資料を水上に届けてやってくれって頼まれて……。僕も水上も同じクラスの委
員をやっているんだけど、どうも先に帰っちゃっててさ……」
「ああ……そう、だったの」
 鞄から預かってきた資料をちらっと見せながらの応答。
 そんな陽の言葉に、妃翠は若干ホッとしたような様子だった。
 それでもやはりばつが悪いのか、静かな苦笑は消えていない。ちらりと傍らの友の顔を見
上げつつ、彼女はもそっと胸元に抱えていた何か──大きな茶封筒を抱え直す。
「でも妙なんだよねぇ。さっき水上、玄関から出てきたんだけどそのまま一目散に何処かに
走って行っちゃって……。僕が立ってたのに気付かなかったのかなぁ」
「え? じゃあナギちゃんは今いないの?」
「うん。お家の人は中にいるかもしれないけど……。水上に何か用事でもあったの?」
「それは……」「……」
 陽が自身の事情を説明しつつ訊ねたが、二人は答える代わりに互いの顔を見合わせて少々
思案顔をみせるだけだった。
 そんな反応に陽も頭に疑問符を浮かべる。
 そもそも妃翠が水上と顔を合わせたのは数日前に弁当を届けに来てくれた時、しかも偶然
に限りなく近い形の一回きりだった筈だ。なのに一体何の用があったのだろう……?
「ヨウちゃん……」
「……ま、いいんじゃないか? 手順は逆になっちまうけどさ」
「? 何の事?」
 そう陽がちらと思考を巡らせている間に、二人は何やら覚悟を決めたようだった。
 まるで了承を得るように耀金が気だるっぽく言うのを確認すると、妃翠は一歩陽の前へと
進み出た。
「……陽君。とりあえず、これを見て」
「? うん……」
 彼女から渡されたのは、先程までその胸に抱えられていた大きめの茶封筒。
 陽はいまいち状況が掴めないまま中を検めてみた。入っていたのは何枚もの書類らしきコ
ピーされた紙。色々と難しい独特な表記が並んでいるが、どうやら役所の文書であるらしい
事は辛うじて分かった。
「……これが、何だっていうの?」
 だがそれでも陽は二人が何を言いたいのかピンと来なかった。
 その様子に少しじれったくなったのか、今度は耀金も傍に寄って来ると書類の中の数枚を
ピックアップしてみせると言った。
「ま、ややこしいのは分かるけどね。じゃあここを読んでみな」
「ええと、何々……? 養子、縁組?」
 耀金に指差された部分にざっと目を通してみるとそこにはそんな文言が読み取れた。
 それにそこに記されている苗字は“水上”とある。陽はまさかと、思わず顔を上げた。
「そうなの。ナギちゃんはね、貰われっ子なのよ」
「この家の水上徹郎・晶子夫妻の養女としてな。だがまぁ、重要なのはそこじゃない。この
書類にその凪って奴の名前が載ってるって事自体がでかいんだ。少年、その名前の下の所、
よ~く見てみな」
「下……?」
 言われて、陽は頭に疑問符を更に重ねて再び書類に目を落とした。
 正直この手の書類は難しくて一介の小市民たる自分にはよく分からない。
(……!?)
 だがそんな陽の目にも、確かに「水上凪」の表記欄すぐ下に「真名・蒼凪」という文字が
印刷されているのが映ったのである。
「真名……? え? 水上は偽名を使ってるっていうの?」
 陽は、少なからず驚いた。
 事情はともかく貰われっ子なのは別にいい。驚きはするが養子自体は珍しい事ではない。
 だがそれ以上に、この公の物らしき書類に凪の二つの名前が載っているという事実が陽の
心の中を強く揺さぶり始めていた。
「偽名、というのはちょっと違うのかな。でも水上凪って名前は……間違いなく通名よね」
「通名……? それって本名じゃないって事?」
「……ああ。しっかしスイが言ってた通り、やっぱ気付いてなかったのな。まぁいいや。こ
の際だから教えておいてやるよ」
 妃翠はどうしたものかと、まだ迷いがあるように苦笑を見せていた。
 耀金も陽がまだピンと来ていない事に少なからず驚きと呆れを抱いているらしく、コホン
と軽く咳払いしてみせると、
「……その水上凪ってのは本名じゃない。ここの夫妻に貰われた時にでも作った通名──今
の世の中で生きていく時に名乗る為の、仮の名だ」
 フッと神妙な表情(かお)を作り直してから言った。
「そいつの本当の名前は“蒼凪(アオナギ)”──あたし達と同じ、ルーメルさ」

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  1. 2011/04/28(木) 20:30:00|
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自己紹介

長岡壱月

Author:長岡壱月
(ながおか いつき)

創作もとい妄想を嗜む物書きもどき。書いたり描いたり考えたりφ(・_・)
しかしながら心身共々力量不足な感は否めず。人生是日々アップデート。
今日も雑多な思考の海に漂いながらも何とか生きてます。
【小説/思索/落書き/ツクール/漫画アニメ/特撮/幻想系/小説家になろう/pixiv】
(※上記はPN。物書き以外では概ね、HN「長月」を使用しています)

【注】当庵内の文章や画像等の無断転載・再加工ないし配布を禁止
します。

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